「広島県立第一高等女学校の門柱」余話の余話
「広島県立第一高等女学校の門柱」余話の最後に「最大の疑問は、『広島県中学校(現国泰寺高校)』の門柱が、なぜ県立高等女学校の門柱になったのかです。」「古い歴史を確定するのは、なかなか難しいことだとあらためて実感しました。」と書きましたが、気になったので、国泰寺高校の「沿革史」のもととなったと思われる「広島一中国泰寺高校100年史」で調べてみました。
その1ページに「広島英語学校の門柱―広島県中等教育百年の回顧(数田猛雄)―」と題したコラムを見るけることができました。
興味あることが書かれていますので、その全文を紹介します。
「原爆当時下中町にあった広島第一県女の門柱―如何にも明治の初期のものらしい古風なデザインの御影石の門柱は、広島英語学校の門柱であったことを記しておこう。
あの校地(下中町)は広島県英学校の廃止の後は広島県中学校の校地として使用せられ、この校が雑魚場町に移転の後は新しく開設された広島県高等女学校の校地となった。それ以来その門柱は、県立女学校とともに風雪を凌いできた。
原爆後県女が、皆実町の元被服廠あとに移転したとき、関係者はその門柱を焼け野原の中から運んできた。歴史の眼から見れば、この門柱も唯一校のみの記念物ではなく、広島一中、広島中学、広島師範学校の記念物でもあるということである。
試みにこの門柱に心をこめて検べて見よ、『明治十年一月広島英語学校』と刻まれている読みとることができる。左の写真は百米道路に立つ広島英語学校の門柱である」
このコラムに「試みにこの門柱に心をこめて検べて見よ」と書かれていますので、とにかく「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」に行き、調べてきました。
これまで気がつきませんでした(というより、そう思って見ていなかった)が、門柱の裏側には、見にくくなっていますが、確かに文字が刻まれています。文字の下部はコンクリートで補修されていますので、コラムにある「明治十年一月広島英語学校」の文字のうち、「語」の文字は半分、「月」と「学校」の文字は、無くなっています。これらの文字の上部に「寄附」の文字が刻まれていますので、コンクリートで隠れている部分には、寄付者の名前が刻まれていたのではないかと想像できます。広島皆実高校にある門柱3本のうち2本は短くなっていますので、刻まれた文字は無くなっていると思われますが、1本だけ長かったような気がしますので、文字が残っていないか確認に行ってこようと思います。
これからこのコラムにも書かれている「門柱の歴史」をもう少し詳しく検証したいと思いますが、ここまで少し長くなりましたので、このつづきは明日にします。
いのちとうとし
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