「広島ブログ」

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2024年3月

2024年3月31日 (日)

2024年3月のブルーベリー農園その4

菜種梅雨だろう、雨の日が続いて土日に安芸区の自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー農園に行っても農作業はできない。23日の土曜日は自宅で過ごして、雨が降っていたが24日に農園に行く。農園に着くとキジのケーンという鳴き声が里山のあたりから聞こえてきた。冬の間は一度もキジの鳴く声は聞こえなかったが、やっぱり春になるとやってくる。農園の周囲を縄張りにしてメスのキジを招き寄せるのが彼らの毎年の営み。その鳴き声に励まされて、雨合羽を着てブルーベリー畑の溝掃除だけは済ませた。あとは傘をさして農園の周囲を見回りして早々と帰宅した。

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3月24日(日)

農園の家の屋根から落ちた雪がまだ残っていた。

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3段あるブルーベリー畑の一番下をブルーベリーの剪定をしているが、雨なので剪定は中止。法面の溝の水はけがよくないので雨合羽を着て30分ばかり溝さらいをした。

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雨のなか農園の周囲の見回りを行う。

農園で管理しているため池の堰堤下の竹林が枯れだしている。ネットで調べると寿命は60年から120年とある。これから周囲はどんな植生に変わるのだろうか。

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3段あるブルーベリー畑の一番上の段には種が飛んできて生えたスイセンがある。花が開きだした。

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農園の隣の休耕田に菜の花が少しづつ大きくなって花数も増えた。

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里山の下の隣家の畑の法面にヒメオドリコソウの群落がある。春色のメインは黄色や桜色だが、えんじ色もあるぞとばかり葉を伸ばし花を咲かせている。

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その先の里道。イガグリがたくさん落ちている。イガグリの中は動物が食べたのか実は残っていない。きれいに取り除きたいが手が回らない。

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エゴノキの実が落ちず枝にぶら下がっている。

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ハコネウツギの葉芽から葉が出てきている。

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とても小さいが、農園の花壇でヒヤシンスと

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ムイスカリが顔を出している。菜種梅雨の合間の22日に妻が一人で農園に行き剪定枝を野焼きしてかたずけが済んでいたので次に来たときはブルーベリーの剪定に励むつもり。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年3月30日 (土)

広島県原水禁,3月の常任理事会を開催

 広島県原水禁は、28日午後5時から自治労会館で常任理事会を開催しました。

常任理事会は、高橋克浩代表委員の司会で始まり、最初に秋葉忠利代表委員が「世界的にウクライナ、ガザでの戦闘行動は、進展のないまま進んでいます。広島市も様々な問題が起きていますが、この問題は市長だけの問題ではありません。国の意思を地方に押しつけようとする国のやり方が問題です。とりわけ広島をそうした方向にしようとする一連の動きの中で進んでいることです。もっといえば、外務省の意向に添う方向に広島をしようとしている問題としてとらえなければなりません。不戦は国連憲章にも謳われていますが、それは広島の体験以前につくられたものです。憲法の平和主義は、広島を体現しているものです。その方向を目指していくのが広島原水禁の役割です。」とあいさつ。

その後,大瀬事務局長が経過報告、協議確認事項を提案し、協議に入りました。

確認された取り組み方針を紹介します。

①福島原発視察

今回で3回目となる福島現地フィールドワークを下記の日程で実施する。

5月27日から29日

一日目:開会行事と福島県平和フォーラムとの交流

二日目:福島第1原発、廃炉資料館視察

    汚染水海洋放出に反対する漁業者との交流

    原発被害健康問題の取り組む人たちとの交流

三日目:原子力災害伝承館の見学

参加者規模:上限35名で取り組む

今回は、福島第一原発の現状を視察することを中心にした日程を計画していますが、現地とのみなさんとの交流にも力を入れたフィールドワークにしたいと思います。

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②「『医療・介護保険料及び医療費の減免措置』見直し政府方針撤回と措置継続、国の責任で全ての福島原発事故被害者に『健康手帳』(医療費無料化等)交付を求める」署名活動の取り組み

5月22日を集約目標として取り組むことを決定しました。

③「被爆79周年原水禁世界大会広島大会」について

3月26日に「被爆79周年原水禁世界大会実行委員会」が結成され、例年通り8月4日~6日の日程で、広島大会が開催されることが決定しました。

今後、中央実行委員会と協議し、さらに詳細を確認し、6月6日に「被爆79周年原水禁世界大会広島県実行委員会」を結成し、現地広島として全力で取り組むことを確認しました。

協議事項は以上でしたが、3月10日に行なった「フクシマを忘れない、さようなら原発ヒロシマ集会」の実行委員会による中国電力への申し入れに際して、中国電力の対応(協議内容をSNSで発信しないことを約束しなければ面談しない。申し入れのみの場合、申し入れ書の受け取りは玄関の外で行なう)は問題があったことを報告しました。意見交換を経て「島根原発2号機の運転再開中止、上関原発の建設計画廃止、中間貯蔵計画の中止」を求める要請書ともに、中国電力の対応改善を求める要望書を提出することにしました。

今後の日程では、4月26日の午後0時15分から慰霊碑まで「チェルノブイリデー座込み」を行なうことなどを確認し常任理事会は終了しました。

いのちとうとし

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2024年3月29日 (金)

被爆者の森の花たち

今月1日のブログ被爆者の森―2本植え替え: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、紹介した沖縄県のカンヒザクラ(寒緋桜)が、咲きました。

「業者の話では、『今後の気候にもよりますが、3月中旬には咲くと思います』」と紹介していましたので、「どんな様子かな」と今3月19日に見に行きました。しかし、今年は桜の開花が遅くなったようで、1輪咲いているのを見つけるのがやっとでした。

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25日には、広島のソメイヨシノの開花宣言がありましたので、ソメイヨシノより早く咲くカンヒザクラはもう満開に近いだろうと昨日改めて見に行きました。

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満開といってもよい花盛りでした。木そのものも活着したと思われます。

同じ時に植えた石川県の「兼六園菊桜」も桜ですので、「花が咲くと思います」といわれていましたので、この木も見に行きました。

残念ながら、「兼六園菊桜」は、蕾らしいものすら見つけることができません。

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今年は、花を期待するのは無理かなと思いますが、この花は八重桜のようですので、もう少し時間が経過してから改めて見に来ようと思います。

昨日被爆者の森を訪れたのは、今年植え替えが行なわれた2本の木のその後の様子を見るためでしたが、せっかくですので、他に花が咲いている木はないかと探してみました。

1本だけ白い花が咲いている木を見つけることができました。

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鳥取県の梨の木です。鳥取県の県木は、大山キャラボクですが、高地の木ですので、平和大通りでは育たないということで、代木の梨の木が植えられています。

まだ梨の実が付いたところを見ていません(というか、梨の実が付いたことがあるかどうかも不明です)ので、5月以降に見に来ようと思います。

被爆者の森では、気になっている木があります。北海道のライラックです。折られたりして昨年新しく植え替えられ花を咲かせたのですが、その後植えた木が枯れてしまいました。その様子もこのブログ今度こそ元気に育て!ライラック: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介し多様に、根元から伸びたヒコバエが大切に育てられてきました。

今年は、何とか昨年伸びたヒコバエが,無事に育っていることが確認できるのですが、

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昨年のように花を咲かせるのは無理のようです。

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いつも楽しみにしている京都のシダレザクラは、いつもの時期だとすでに花が咲いているのですが、まだ固いつぼみの状態ですたので、満開の花を咲かせるのはもう少し先になりそうです。

いのちとうとし

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2024年3月28日 (木)

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館企画展「暁部隊 劫火ヘ向エリ」

うっとうしい雨模様の日が続きましたが朝から青空が広がった昨日、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館企画展「暁部隊 劫火ヘ向エリー特攻少年兵たちのヒロシマ」を見るため、平和公園を訪れました。

平和公園は、9割と言っても言い過ぎでないほどどちらを見ても海外からの観光客の姿がありました。

この様子を見ながら、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に足を運びます。

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地下入り口から館内に入ります。入り口すぐのフロアーに船が展示されています。初めて目にする光景です。

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特攻艇として開発された一人乗り小型ボート「四式肉薄連絡艇」のレプリカです。今回の企画展の主人公たちが乗り込むことになっていた通称㋹(マルレ)と呼ばれた特攻艇の実寸大のレプリカです。キャプションによれば、NHK松山放送局から提供を受け特別展示されたものです。

この特別展示の横を通って、企画展示室に進みます。

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企画展は、毎年テーマを変えて約30分の映像作品が上映さ,関連する資料が展示されます。今回の企画展「暁部隊 劫火ヘ向エリー特攻少年兵たちのヒロシマ」は、3月1日からスタートしました。

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陸軍の「特別幹部候補生(特幹)」に全国から志願した満15才以上20才未満の軍国少年たちの、その一つの派遣先となったのが宇品にあった船舶司令部(通称「暁部隊」)の船舶練習部でした。特別幹部候補生と言っても、その実態は、全体がベニヤでつくられた小型モータボートに爆雷を積んで敵艦船に突っ込む「水上特攻兵」だったのです。特攻のための訓練を受けていた場所が、江田島の最北端に位置する幸ノ浦基地でした。

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昭和20年(1945年)8月6日、いつものように訓練を受けていた彼らは、爆心地から4.8キロ離れた場所で、原爆の炸裂を体験することになります。

無傷だった10代の特攻兵たちは、原爆投下直後の広島にいち早く入り、被爆者たちの救援活動、道路上のガレキの撤去、遺体の処理に従事します。

特攻と向き合っていた少年兵たちが、市の街広島で何を見て、何を感じたのか。

いまも生存されている少年兵たちの生々しい証言によってビデオは構成されています。

当時幸ノ浦には、約二千人が駐留していたと言われ、大半が15,16才の少年兵だったと言われています。被爆後79年を迎えるいま、その人たちは90歳代の半ばになっていますが、その証言は実にはっきりとしているのにびっくりします。それほどに、広島での体験はすさまじかったのだと言うことを知ることができます。

ただ残念なことは、この少年たちが目の当たりにした被爆直後の地獄の様子は証言されていますが、少年兵たちの放射能後障害については、このビデオでは触れられていないことです。

この企画展は、1年間の企画ですので、来年の2月28日まで開催されていますので、平和公園を訪れたとき、ぜひ足を運んで欲しいと思います。

これを機会に、豊田正義著「原爆と戦った特攻兵 8・6広島、陸軍秘密部隊㋹の救援作戦」をもう一度読み直したいと思います。

いのちとうとし

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2024年3月27日 (水)

「ひろしまの平和の鐘」

毎年86日の平和記念式典では、「平和の鐘」が鳴らされます。現在鳴らされている「平和の鐘」は、代を重ねて第5代目です。

被爆4年後の1949年の広島平和祭(現在の平和記念式典)で鳴らされた「平和の鐘」は2代目ですが、この年だけ鳴らされた鐘です。現在も当時と同じ場所(現在のヒロシマゲートパークの一角)に建つ塔の上にあります。

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2015年以来、「響け!平和の鐘実行委員会」のみなさんによって毎年8月6日の午前中に,この鐘を再び響かせる活動が続けられています。

「第2代平和の鐘」については、このブログでも2021年5月3日の平和の鐘: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)に最初に紹介してから、その後何度か取上げてきました。

そんな縁もあって、これまで何度か情報を提供していただいた「響け!平和の鐘実行委員会」の高東博視さんから、今年2月に発行された「ひろしまの平和の鐘」を送っていただきました。

3月11日の中国新聞「平和コーナー」の記事でこの本が出版されたことを知り、「入手したいな」と高東さんに連絡を取ろうと思っていたとき、高東さんからのメールが届き、本を贈呈していただきました 。

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届いた本を見てびっくりです。平和記念式典で式典で鳴らされた、鳴らされている平和の鐘についての紹介が主な内容だろうと想像していたのですが、開いてみると「第1章平和の鐘」では、「・平和となんだろう・平和の鐘の発祥・鐘とはなんだろう」のタイトルで、「平和」について詳細に論述されています。例えば「平和とはなんだろう」だけでも、多くの参考文献や「『平和』の定義または『平和』を語る言葉の例」が例示されています。

この第1章だけでも,多くの人に読んで欲しいなと思う本です。

その豊富な内容を知ってもらうため、目次の章の省のタイトルを紹介します。

先の第1章に続き、第2章:広島の平和記念式典で使われた「平和の鐘」、第3:章広島にある「平和の鐘」、第4章:ここにも「平和の鐘」となっています。

第3章の「広島にある「平和の鐘」」では、ここで取上げる基準は、「①平和祈願や原爆死没者、戦没者への鎮魂の趣旨を込めて命名された鐘②上述のような趣旨の銘文が刻まれている鐘③午前8時15分に毎日打鐘される鐘」で、「平和の鐘とよばれる鐘」として「広島平和記念聖堂の平和の鐘」など5つ、「戦没者・原爆犠牲者の慰霊と平和への願いが刻まれた鐘」として中区寺町にある「真行寺の鐘」など17の寺と1つの教会の鐘について、詳細な歴史や銘文などが写真とともに紹介されています。これらの鐘は、「市内を中心に約130カ所の寺院や神社を訪ねて発見した鐘」であり「実行委員会で広島市や周辺地域の寺院や教会(計642カ所)にアンケート調査を行ない見つけ出した鐘」だと記述されています。佐伯区や安佐北区の鐘もありますので、全部というわけにはいかないと思いますが、時間を見つけて訪れてみたいと思います。

283ページの長作ですが、この省の記述を読んだだけでも、「響け!平和の鐘実行委員会」のみなさんの念入りな調査活動、そしてこの本への思い入れの深さを感じます。

まだ全部を読み通していませんが、多くの人に読んで欲しいなと思い、紹介することにしました。定価は2640円ですが、写真、資料、図などが豊富にあり,多くの参考文献が紹介されていますので、定価以上に価値のある本だと思います。

中国新聞によれば、アマゾンで購入できるようです

いのちとうとし

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2024年3月26日 (火)

上関原発・中間貯蔵施設建設に反対し集会を開催

2024上関原発を建てさせない山口大集会」が3月23日、雨の中、山口市の維新百年記念公園に約800人が集まり開かれました(主催=上関原発を建てさせない山口県民連絡会)。

主催者あいさつで清水敏保共同代表は、「上関原発建設計画が浮上して42年闘ってきた。福島事故があり、誰もがもう建設はなくなると思ったが、またも原発建設へと舵が切られた」と、岸田政権の原発回帰政策を批判しました。また、昨年8月、中国電力が地域振興策として中間貯蔵施設の建設を打診し、西町長が独断で事前調査の受け入れを許したことを「許されない」と強く批判するとともに「上関原発建設の白紙撤回、中間貯蔵施設の中止に向けて全力で取り組んでいく」と決意が述べられました。

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集会はその後、山口県原水禁林正寛事務局長から、中間貯蔵施設建設中止を求める署名が約5か月間で中国電力宛てに27万筆以上、関西電力宛てに26万筆以上が集まったことが報告されました。

「福島からの声」は、子ども脱被ばく裁判原告代表の今野寿美雄さん。昨年多くの反対を押し切って強行されている汚染水の放出や、避難住民が仮設住宅から「追い出されている」ことなどが報告され、「原発事故以降も、次から次へと問題が発生して地域住民が苦しめられている」と現状が報告されました。

その後、県内活動報告として、祝島島民の会による「現現地からの報告」、「核に頼らない町おこしの取り組み」「2市4町議員連盟の取り組み」「祝島裁判」についての報告。「福井からの声」として原発設置反対小浜市民の会から、中嶌哲演事務局長が発言しました。

集会は最後に、「いまこそ、わたしたちは力を合わせて、上関町への原子力施設建設計画の白紙撤回を実現させ、住民主体の暮らしを回復させましょう」「自然災害は止めることができなくても、それに伴って原子力事故が起きることは絶対に回避しなければなりません。私たちは未来の子どもたちに、地震が起きる度に怖れなくてはならないものを、残したくはありません。100年後の未来に誇れる、自然豊かな上関と命を育む海を守りましょう」との集会宣言を採択しました。

大瀬敬昭

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2024年3月25日 (月)

中国電力カルテル事件、株主代表訴訟になった発端

中国電力によるカルテル株主代表訴訟、2月5日に第1回の公判が行われ、第2回は広島地裁で4月10日の午前10時30分から行われます。国内でも、多くの社会問題が発生している中で、カルテル事件が皆さんの記憶から忘れられないように、カルテルが起こったそもそもの発端を、改めてお知らせしたいと思います。

事件の前提は、2016年4月から実施された電力事業の完全自由化の中で、電気を売ることも買うことも、またエリアを超えて電気事業を行うことも可能になったのです。

手もとにある18年4月27日付けの中国新聞によると、コンビニ最大手のセブン‐イレブン・ジャパンは、中国地方にあった約1000店の電力購入先を関西電力に切り替え、中部地方のセブンは東京電力から約1900店を関電に、四国地方でも250店が四国電力から関電に切り替えたと報じています。

セブンは沖縄県を除く全国に約2万店を出店しており、毎年のように電力購入契約先を見直している会社でした。見直す最大の理由は、安い電気料金です。九州では、この年の5月に新電力から九州電力に変更、北海道では北海道電力から新電力に切り替えました。

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関電はセブンとの電力契約を獲得するために、19年11月に広島市と岡山市に営業拠点を構え、激しい値下げ攻勢をかけてきました。「守り」の側にたった中電ですが、販売エリアを首都圏や関西に拡大したのです。首都圏地方で中電と契約したお客に「エネルギア、ナイター」と称して、マツダスタジアムでのプロ野球観戦に招待したりもしたのです(ただし新幹線代金は片道分)。

自由化に伴って誕生した新電力も営業活動を展開し、企業や公共施設向けの高圧分野では18年1月時点で新電力のシェアは14.9%となり、2年前の16年4月の3.4倍に上がったとされています。16年4月とは電力自由化が開始された時です。

24時間営業をするコンビニは休むことなく電気を使っているので、電気代は営業経費に大きな影響を与えます。同じ業界のポプラやローソンも電気料金の動きを慎重に見て、「安い電気」を求めていました。まさに「獲った、獲られた」の熾烈な競争が行われていたのです。

そこで起こったのがカルテル事件です。17年11月、関電は電力業界で「仁義切り」と称されている通知を中電に対し行ったのです。「仁義切り」とは、要するに関電が中電のエリアで営業を開始するという通告です。この「仁義切り」から2か月後の18年1月に、中電は「重要顧客については是非とも当社(中電)で落札したい」などを申し入れたのです。この年の11月までの間に中電と関電の話し合いが重ねられ、同じ年の11月8日までに、カルテルが成立したのです。

カルテルは20年10月まで約2年間続いたのです。しかし分からないのは、この間に中電内部では、どんな会合でどんな話しがされ、会社の業務を監査している監査役や取締役らはどんな発言をしたのかが、分からないのです。それを知るために取締役会議事録とかの書面を出すことを求めているのが、大まかな裁判の現状です。

私は、中電の不祥事というのを、スクラップ帳に保存している新聞を元にまとめる作業をしていました。裁判で提出する証拠書類とするのですが、余りにも不祥事が多いのに怒りと疲れが混じる作業でした。

木原省治

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2024年3月24日 (日)

命を描く山内若菜広島展

旧日本銀行広島支店を会場に20日から25日までの会期で「命を描く山内若菜広島展

―過去と現在、そして未来へ」が、開催されています。会期二日目の21日に、会場に行ってきました。

21日の中国新聞、テレビ各社のニュースで報道されたためでしょうか、会場には多くの人が訪れていました。

入り口すぐのフロアーには、小品も並んでいますが、目を引くのは受付窓口の奥のフロアーにならぶ、大作3点です。このフロアーの正面には、広島と長崎、福島を題材として「命」への思いを込めた三部作「牧場 放(放つ)」(福島がテーマ)、「刻(時)の川 よう(揺れる)」(広島がテーマ)「天空 昇(昇)」(長崎がテーマ)が、並んでいます。

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左手には、被爆樹木をメインテーマにした「讃歌 樹木」。

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この作品は広大生との共同作で、昨年のG7サミットで伐採された被爆樹木ヤナギの切り株も描かれています。たくさんの小動物が描かれていますので、それを探しながら鑑賞するのも一つの見方だと思います。

右手には,福島での牧場体験の中から生まれて「神々の草原 トリニティ」が展示されています。

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福島に何度も足を運んだ思いが伝わります。

チラシには、これらの作品を描いた思いがこう綴られています。

「ここは、原爆ドームや旧日本銀行広島支店、旧広島陸軍被服支廠をはじめ,遠くは大久野島に至るまで、歴史を振り返れば加害と被害という,二重性を生きる町であります。けれども,傷つきながらも町のそこ・ここに生き続ける被爆樹木の緑は力強く、目に見えない微生物たちが命の連鎖をつづけて、きょうこの日がある。・・・絵の前で感じたこと,受け取られたこと等、感想をお聞かせください。希望の光を求めて,広島のみなさんととともに、歩みたいと思います。」

入って右側の部屋には、どうしても展示したかったという「教会 大久野島光景」が展示されています。

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キャプションに次のように書かれています。

「広島県大久野島を訪れたとき、貯蔵庫跡地は光を受け、上の方にツタが絡まり、うっそうとしていました。十字架のようなものがキラキラしているようでした。ここに貯蔵されていた毒ガスは、たくさんのアジアの人を傷つけた。地図になかった場所です。このことを思いながら、たくさんの子どもの姿を思い浮かべ、今も傷つけられている子どもたちのことを思い、私は手を合わせました。

ここ、旧日銀でも,たくさんの方がなくなりました。二階の部屋でたくさんの方が亡くなりました。二階の部屋で,いまだガラスが突きささるキラキラした破片の形も十字架でした。そしてここをシンとした祈りの空間だと感じたのでした。たくさんの傷つけられた私たちでもある方々へ,祈りを捧げます。」

この一文を全部紹介したのは、この文章の中に山内さんが、ここ旧日本銀行広島支店で展覧会を開催したいという思いが、込められていると思ったからです。

何度も広島に足を運んで出合った被爆建物などを描いた小作品も多数展示されています。

 会期は、今日明日の二日間ですが、ぜひ足を運んで欲しい、そして作品と向き合った欲しい個展です。私の言葉では伝わらない感動を覚えるはずです。

最終日の25日は、午後3時で終了しますが、午後2時から作品を前にしての最後のギャラリートークが行なわれますので、作者の思いを聞いて欲しいと思います。

いのちとうとし

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2024年3月23日 (土)

2024年3月のブルーベリー農園その3

3月20日の彼岸の日は寒かった。安芸区の自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー農園に行く前に天気予報をチェックしたら雨か雪の天気だったが、かすかな期待を胸に農園に行ったが大粒の雪が舞い、風も強く農作業はあきらめて、農園を巡回して早々と帰宅。温度は2度だったが、豊栄までの道路の行きかえりは雪が積もることもなかったので気持ち安心して運転できた。やっぱり農業は自然の気候には逆らえない。

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3月16日(土)

気を付けながらブルーベリーの枝を野焼きしているが、帰る前に水をかけておくと灰と炭になっているので、一輪車に集めて農園のブルーベリーの木と木の間にばらまいておく。

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ブルーベリー畑の剪定を続けながらブルーベリーの枝も燃やしていく。火がついたはじめはもくもくと白い煙が立ち上る。燃え始めたら煙が薄くなる。

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とても太いブルーベリーの枝を根元から切る。ここから新芽が出るのを待つ。昨年切った後ろの切り株から新しい枝が伸びているのが見える。

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3月17日(日)

こっちのブルーベリーの太い枝も根元からばっさり。この枝は高さが3mくらいに伸びていた。

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雨になりそうなので、作業の最初から切った枝のかたづけはなしでその場に置いておいた。

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午後2時半ころには小雨から本降りになり剪定作業はおしまい。この日切ったブルーベリーの本数は5本。

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農園から持ち帰った冷凍ブルーベリーを洗って火にかけジャムを作る。上にのっているのは黒砂糖。

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3月20日(水)

農園には5㎝ほどの雪が積もっていて、空は暗く彼岸なのにまるで冬ざれの景色。

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里山のブルーベリー園を見回る。大粒の雪が風に舞うかと思えば、

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ちょっとの合間に薄日が差すときもあって膨らんできたブルーベリーの花芽を浮かび上がらせる。

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農園の家の茅葺にトタンをかぶせた屋根に水分をたっぷり含んだ雪がまだらにつもり、時折どさっと落ちてくる。

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3月2 2日(金)

自宅のベランダの芝生の上に毎朝夕やってくるスズメ(雀)。ご飯を水でほぐして与えているのでたくさんのスズメがもぐもぐしに来る。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年3月22日 (金)

アイスランドパレスチナウクライナニホン

昨年1024日のアイスランド。首相も参加し、10万人も集まる「女性の休日」ストライキがあったことを最近知った。他の記事を調べると日本でも大きく報道されたと?私にとってアイスランドという国の知識は、経済破綻した時にビョーク(アイスランドの有名歌手)が多額寄付をした事と、美しい自然の国というものだけ。記事を読み進めると、心がキラキラしてくる素晴らしい国なのだった!

最初の「女性の休日」ストライキは、1975年に行われた。その後も1985年、2005年、2010年、2016年、2018年と続いていて、昨年につながっていた。ジェンダーギャップ指数ランキング連続1位。男女格差の解消を90%以上成し遂げている唯一の国!

これまでは白人女性という特権者によるフェミニズム運動の面もあったが、昨年は男女の概念の無いノンバイナリーの人々や移民の人々にも呼びかけられた。その際、アイスランド語を解さない移民の人々のためにポーランド語や英語でも情報周知が図られた。アイスランドの労働市場22%が移民の女性だが、その社会貢献や重要性が認識されず、賃金にも反映されていない、と大々的に連帯を表明した。すごい!

このストライキは、無償労働についても言及しており、家事労働や親戚への気遣い等々を、この日は「しなくてもいい」と強調されている。参加をためらう労働者には「歴史的に、雇用主はこの日、女性をサポートし、最低限でも参加を妨げない。参加妨害された場合は匿名での報告を」と、周知された。なんて素敵な歴史!

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思えば、原水禁も沖縄基地問題も最初に立ち上がったのは女性たちだ。ルースの言葉を思い出す。「女性たちを踏みつけている足をどけなさい」と。ニホンでは、まだまだしつこく踏みつけられている。

この素敵なストライキを知らなかった私でも知っている、デンマークやイギリス、多くの国で行われている親パレスチナの本当に大きな大きな連帯デモ。日本では東京だけではなく、広島でも昨年から毎日、原爆ドームに集まって声を上げている人々がいる。組織ではなく個人が集まり、行動している。これは希望、だ。

ロシア・ウクライナと対に語られることのあるイスラエル・パレスチナ。しかし、そもそもパレスチナ問題は植民地問題でありジェノサイドで、根本的に構造が異なることは報道されているだろうか。

大事なこと、真実は報道されないと知ってしまったら、情報は求めるしかない。その上で、ファクトチェックは必須。情報を集めるには労力が要る。時間も要る。前提として、心と生活に余裕が要る。

貧困なのに政治に怒らない、考える余裕も奪われた、隠蔽がまかり通るニホン。変わることはできるか?

毎日、パレスチナで殺され続ける人々。壊され、奪われ続ける文化や生活。泥水を掬って飲む子ども。遊びで殺されたヤギたち。血と涙、死に次ぐ死。正視したくない映像ばかりで心が塞ぐ。しかし今、現実に起きている。パレスチナの人々は、そんな中でも支えあい、猫にご飯をわけ、歌い、笑い、踊る人々だ。止めなくては!

アイスランドの火山噴火のネットニュースは見ていたけれど、最近まで、女性たちの素晴らしいストライキを知ることなく過ごしていた。希望なんてこの世にはない気がしていた。広島のパレスチナのために立つ人々と共に立つ時、小さな希望を感じた。そしてアイスランドのストライキは心が浮き立つ希望を感じた。どんな絶望的な時代にも希望はあるのだ。知らないこと、動かないことは結局、命を脅かす。

じゅん

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2024年3月21日 (木)

府中地区・3月の「19日行動」

今月から夏時間に変わり上下Aコープ前は午後3時30分から、府中天満屋店前は5時から行いました。どちらも10人の参加者でした。次のようなリレートークがありました。

A 「岸田首相ならやってくれるだろう」とかすかな期待を持ったが大間違いだった。パーティ券裏金問題でもリーダーシップを果たしていません。世間では「市民は増税、自民は脱税」という流行言葉まで登場しています。「自民党の政治家は悪」という雰囲気です。次期衆議院選挙は岸田首相が4月に国賓待遇で行くアメリカから帰って、4月後半かあるいは6月ともいわれています。みなさん自民党に票を入れてはいけません。自民党に見切りをつけましょう。

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上下Aコープ前

B 朝日新聞の世論調査によると岸田首相の不信任は67%に達しています。裏金問題について説明が十分は3%、不十分が97%になっています。自民党の党員でも82%が不十分と言っています。こうした中、平気で次期戦闘機を外国に売ると言っています。岸田首相は死の商人の親玉です。こうした自民党が私たちの生活をおびやかしています。

C 今国会で地方自治法の改正が行われようとしています。緊急事態の場合、「国は地方に対して指示ができる」となっているものを、緊急事態を削ろうとしているのです。改正されるといつでも国が指示できることになります。地方と国は対等であるという地方自治の本旨を否定するものです。その目的は戦争のためです。徴兵制の事務に地方が反対できなくするためです。やはり安保法制は廃止しかありません。

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府中天満屋店前

D 事故を起こしたオスプレイの飛行再開が決まり、早速沖縄では米軍のオスプレイが日本の住宅の上を飛んでいます。何が原因で落ちたのかも明らかにせず、再開は許すことのできない暴挙です。

E 現在の国会の外交防衛委員会で、防衛省はイスラエルの攻撃型武器ドローンの購入つまり輸入を検討していると説明しています。自民党と公明党は日本がイギリス、イタリアと共同開発した戦闘機を輸出することも決めています。戦争への道に踏み込んだと言えます。

最後にFさんが、「市民の皆さんいつも車の中から手を振って応援していただきありがとうございます。8年間同じテーマでやっているのは珍しいことではないでしょうか。安保法制を廃案にするため、日本の民主主義のためにねばり強く頑張ります。私たちの取り組みにご支援をお願いします。」とお礼のあいさつをして今月の19日行動を終了しました。

小川敏男

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2024年3月20日 (水)

ベトナムの歴史(その30-4) ― 日本の中の枯葉剤・Ⅱ ―

撤去を求める庄原市

前号で紹介しましたが、1971年に林野庁は猛毒ダイオキシンを含んだ枯葉剤(2,45-T)を全国15道府県の国有林46カ所に埋設処分しました。広島県内では庄原市が該当し、総領町に「一カ所の埋設量は300kg以内」と指示された「通達」に反する374kgが埋められたとされています。

2年前の庄原市議会では、「(埋設場所は)2つの谷が登った山頂付近にあり、記録的な豪雨や地震などで流れ出る危険もあり撤去すべきだ」、「ロープ2本と針金が張られているが、杭は腐りグラつき囲いの役割を果たしていない」、「直ちに撤去できないならフェンス設置など(国に)要望すべき」など、枯葉剤(2,45-T)流出による人体や環境への影響、ずさんな管理を指摘し撤去を求める質疑が出され、市当局もこうした状況を踏まえ「適切な管理と、最終的な解決となる撤去を求めてゆく」と答弁しています。

能登半島地震に続き、全国的に頻発する地震や毎年のように発生する「数十年に一度の豪雨」を考えると、待ったなしの対策が求められると思います。

埋設地のモデル調査

2021年に国(林野庁)は枯葉剤(2,45-T)を掘削処理することを前提に、「周囲に飛散させずに掘削処理」する方法についての調査を岐阜県下呂市落合国有林、高知県四万十町焼木水谷国有林、佐賀県吉野ヶ里町熊九瀬谷国有林、熊本県宇土市尾坂国有林をモデル地区として実施しました。

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(四万十四万十町焼木水谷国有林の埋設現場)

翌2022年には「除草剤等を地上のコンクリート槽内で保管しており、掘削対象範囲の確定が必要ない」という四万十町を除く3地区で詳細調査が行われ、2023年3月にその報告書が出されています。それによると埋設場所および掘削範囲の特定、農薬成分(2,45-T)を確認ができた佐賀県吉野ヶ里町と熊本県宇土市に埋められている枯葉剤は「高温によりダイオキシン類を分解・無害化する高温焼却」することになりました。

下呂市では「付近に埋設したことを示す看板は設置され」ていたが、場所を特定できず、「追加調査を実施して農薬の埋設箇所を特定し、掘削除去へ向けて対応を検討することが望ましい」と報告されています。

 動き始めた枯葉剤(245-T)の掘削処理

2023年4月14日、「毒性の強いダイオキシンを含んだ除草剤が吉野ヶ里町の国有林に埋められている問題で、林野庁は、安全に処理する方法が確認されたとして、早ければ今年度中に撤去作業を開始する方針を明らかにしました。」と佐賀新聞が報じました。しかし、9月27日には「ダイオキシン含有、吉野ヶ里の山中に埋設 除草剤処理、入札不落」と報道され、撤去作業は2024年度に持ち越しになっています。

「宇土市では、埋設されているこの除草剤2,000キログラムあまりを撤去する業者を決める入札がことし9月に行われましたが、不調となり、延期になっていました。こうしたなか、九州森林管理局によりますと、27日、再度の入札が行われて業者が決まり、今年度中にも撤去作業が始まる見通しとなったということです。」(2023年12月28日『NHK NEWS WEB』)

人里離れた山中とはいえ猛毒ダイオキシンを含む枯葉剤が埋められてから半世紀、ようやく撤去に向けた動きが始まりましたが僅か2カ所です。掘削撤去に向けた準備のための調査は岐阜県下呂市を含む43カ所(93.5%)が今からです。

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(熊本県芦北町:枯葉剤埋設地から約1km地点の豪雨災害による崩落現場)

「通達」通りに埋設されていたとしても鉄筋コンクリートの耐用年数47年を迎えています。しかも、防護コンクリートは「薬剤(2,45-T)の10倍程度の土壌とコンクリートと水を混和して埋設」されており、純粋なコンクリートではありませんので劣化は早く、調査の過程で新たな困難や思わぬ事態が生じる可能性も否定できません。頻発する豪雨災害や地震がいつ埋設地を襲うかも分かりません。

いずれにしても、小出し調査による遅々とした撤去ではなく、火急速やかなる対応とその情報を強く求めます。

誰も責任を取らない政治

ベトナム戦争で日本は米軍の後方支援基地としてだけでなく出撃基地として加担し、日本で製造した枯葉剤がベトナムでまかれ、ベトナム戦争終結とともに明らかになった枯葉剤被害を隠すかのように国有林に埋めました。しかも、危険極まりない毒物を埋設するために作成した稚拙な規制(通達)すら守らないずさんなものです。その埋設場所が特定できる正確な記録もなく、撤去処理のためのモデル調査では下呂市の埋設場所は特定できませんでした。・・・・この責任は一体誰にあるのでしょうか。

50年の時を経て問われている「日本の中の枯葉剤」は、“誰も責任を取らない政治を正さなければ、同じ過ちを繰り返してしまう”と警鐘を鳴らしています。

2024年3月20日(あかたつ)

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2024年3月19日 (火)

またも憲法判断をしなかった最高裁判所―つづき

最初に、原告団集会で配布された「安保法制違憲広島訴訟」の最高裁決定についての広島弁護団声明を紹介します。


安保違憲訴訟広島弁護団声明

―宇賀反対意見を希望の種にー

2016年9月16日,私たちは,安全保障法制は憲法違反であるとして訴訟を提起しました。訴訟には被爆者,戦争被害者を含む多くの市民が加わりました。皆が「過ちは繰り返してはならない」との思いで、安全保障法制を憲法違反だと訴え続けてきました。

しかし、広島地裁、広島高裁は憲法判断をしないまま原告らの訴えを棄却してしまいました。原告らは最高裁に上告し、「憲法の番人」たる最高裁の判断に希望を繋げました。

2024年1月31日、そのような原告らの希望は、最高裁によって踏みにじられることになりました。最高裁判所(第三小法廷)は、原告らの上告を棄却し、上告事件として受理しないとする決定を下しました。このような判断は、「憲法の番人」たる最高裁判所が、行政機関や立法機関の暴走をチェックする役割を放棄し、司法権の存在意義を自己否定したものと言わざるをえません。

しかし、原告らの希望は消え失せたわけではありません。本決定には「宇賀克也裁判官の反対意見」があり、それは「法令の解釈に関する重要な事項を含む事件」であるから、原告らの上告受理の申立を認めるべきだという意見です。これは、行政法学者でもある宇賀裁判官が、裁判所は憲法判断をすべきだと意見したにも等しいものといえます。圧倒的多くの憲法学者が憲法違反だと述べた安全保障法制について、違憲性判断を避け続ける各裁判所に対する「安保法制の違憲性と向き合わなければならない」という強いメッセージです。未だ判決を下していない裁判所は、宇賀反対意見と向き合い、安保法制の違憲性について判断すべきです。それこそ司法権の与えられた裁判所の責務なのですから。

広島の裁判自体は確定しますが、全国では未だ多くの市民が安保法制違憲訴訟を闘い続けています。私たちは、引く続き全国の原告団、弁護団と連帯し、安保法制は違憲であるという憲法判断を勝ちとるために全力を尽くしていきます

道のりは厳しいですが、小さな種がいつか大輪の花を咲かせるまで最後まで私たちは闘いつづけます。

2024年2月2日

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私もこの声明のように「小さな希望の種」に希望を持ちたいと思いますが、果たしてそんなときが来るのか、疑問を持たざるをえません。

日本国憲法は、裁判所に「国会で審議され成立した法律が、憲法に違反していないかチェックできる権利」違憲立法審査権を与え、最高裁判所が違憲立法を最後に判断する任務を与えています。それが「憲法の番人」と言われるゆえんです。

しかし、安全保障案件に関するかぎり最高裁判所は、「違憲立法審査権」の行使を拒否し,その役割を果たしていません。確かに声明にもあるように今回「宇賀反対意見」はありましたが、今後も裁判所が安全保障問題で憲法判断を拒否し続けることは,残念あらが明らかだと私は思います。

憲法が施行された間もなく77年を迎えようとしていますが、「安全保障問題」に関するかぎり一度たりとも憲法判断を行なわなかった現在の司法制度に,これからも期待することは難しいのではないかというのが、私の率直な思いです。

私は、かつて衆議院憲法調査会に所属していたとき、ヨーロッパの「憲法裁判所の状況を調査する海外視察」に行ったことがあります。憲法裁判所は国民なら誰でも訴えることができる制度です。そして憲法判断を下す裁判所です。現憲法の制度の下で、裁判所が憲法判断をしないのであれば、憲法裁判所制度を作ることも必要なことだと思います。もちろん、憲法裁判所ができたとしても、私たちの望む判断が出されるかどうかは不明です。しかし、現在のような憲法判断を拒否することだけは無いはずです。

憲法裁判所制度を導入するということになれば、当然のことですが「憲法改正」が必要です。今この時期、憲法改正が必要な「憲法裁判所制度の導入」を主張することにためらいを感ずるのですが、今回の報告集会に参加しながら、このことを改めて考えました。

そして、ヨーロッパの憲法視察を終え、帰国の途につくホテルのロビーで自民党の国会議員と交わした会話を思い出しました。「憲法裁判所、必要だと思いませんか」の問いに,私はこう答えました。「自民党のみなさんが、憲法9条の改正は行なわないと約策していただけるなら、憲法裁判所設置のための憲法改正には反対しませんよ」

いのちとうとし

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2024年3月18日 (月)

またも憲法判断をしなかった最高裁判所

2015年9月19日、安倍政権によって強行採決され成立した「安保法制は違憲」だとして裁判で争った「安保法制違憲広島訴訟」に対は、最高裁判所が今年1月31日に判断を示し、裁判の一応の区切りとなりました。16日午後3時からその報告のための原告団集会が,広島弁護士会館で開催されました。私も原告団の一人ですので、参加しました。

最初に、当日配布された資料に基づけ、この裁判の経過を簡単に紹介したいと思います。

この裁判は、安保法制が成立したちょうど1年後の2016年9月19日に広島地裁に提訴し、第1回弁論が同年12月21日に開始され、以来15回の弁論が行なわれました。

原告がこの裁判で求めたものは、4つの「差止め」(①自衛隊法に基づく集団的自衛権の行使としての自衛隊の防衛出動の差止め②重要影響事態法に基づく自衛隊の後方支援活動(いわゆる兵站活動)の差止め③国際平和共同対処事態法に基づく自衛隊の後方支援活動(いわゆる兵站活動)の差止め④改正PKO法に基づく自衛隊の駆付け警護、治安維持業務の差止め)と1つの「国家賠償」(安保法制が原告の平和的生存権等を侵害するとして国家賠償請求(10万円))でした。

しかし、広島地裁は、2020年12月8日に原告の訴えを棄却する不当判決が出ました。

広島地裁の判決を受け、原告団は広島高裁に控訴しましたが、広島高裁はわずか2回の弁論を行なったのみで2023年3月17日に「原告らの控訴棄却」の不当判決を出しました。原告団は、これを不服として同年3月30日に最高裁に上告,上告受理申立を行ないました。

「上告,上告受理の申立」の違いは、私も十分に理解できていませんが、裁判所のホームページによれば次のように紹介します。「『上告提起』は,原判決について憲法違反や法律に定められた重大な訴訟手続の違反事由が存在することを理由とする場合の不服申立ての方法で,『上告受理申立』は,原判決について判例違反その他の法令の解釈に関する重要な事項を含むことを理由とする場合の不服申立ての方法です。」

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この上告、上告受理申立に対して最高裁判所は、今年1月31日に「上告を棄却する。上告審として受理しない」との決定を行ないました。

この裁判に当たって弁護団は、地裁においては「安保法制が憲法9条に違反すること」「平和的生存権の具体的内容」「違憲立法審査権の意義について」「裁判所の憲法判断回避の問題について」など20の準備書面を提出し、裁判所が憲法と正面から向きあることを求めてきました。控訴に当たっても「憲法判断の必要性」「安保法制下における社会情勢の変化」「違憲立法審査権の意義と目的について」などの「控訴理由書」を提出し、上告理由書、上告受理申立理由書では、「人格権、平和的生存権、憲法改正決定権の侵害と違憲性」について申し立てました。その中心が、憲法判断を求めるものであることに注目して欲しいと思います。

これらを振り返ると、弁護団の努力は、本当に大変だったことがよくわかります。

弁護団は、この最高裁の不当な決定に対して22日の弁護団声明を発表しました。

16日の集会は、最高裁の「上告を棄却する。上告審として受理しない」との決定を受けて、少し時間が経ったのですがその報告集会として開催されました。

ここまでで少し長くなりましたので、報告集会の様子や22日の弁護団声明は、明日紹介します。

いのちとうとし

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2024年3月17日 (日)

青空古本市―第1回広島護国神社古本まつり

私が知っている屋外で行なわれる古本市は、東京の新橋駅前や早稲田大学そばの穴八幡宮など,広島以外で開催されているものばかりです。

今月15日から3日間、広島では初めてと思われる青空古本市が、広島城跡にある護国神社の境内で「第1回広島護国神社古本まつり」の名称で開催されています。今日が最終日です。

「古本市」の開催、気になりますので初日の15日,開始時間の午前10時に行ってきました。

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会場に着くと、5張りのテントが目に入ります。参加店舗は、5店舗でテントが割り当てられているようです。たくさんの人とは言えませんが、古本市目当ての人だけでなく、護国神社参拝後に覗く人の姿もありました。

ゆっくりと見て回ったのですが、なかなか気になる本が見つかりません。それでもせっかくきたのだからと500円の値札が付けられた「いのちのあるかぎりー原爆と未解放部落」を購入しました。

青空での古本市の一番の心配は天気ですが、幸いといってよいと思いますが、初日二日は、好天気に恵まれました。ただ、今日は?

一時期古本市の開催が減少していましたが、最近は広島でも開催回数が増えています。今月末の29日から4月7日までの期間で「第一回ひろしまブックフェス」が、ひろしまゲートパーク(旧市民球場跡)の大屋根広場で開催されます。こちらは、「新刊書店、古書店、出版社、取次など、普段はそれぞれ違う場所で本と関わる私たちが、一年に一度集まり、本との出合いを求める方々と楽しい時間を共有したい」(主催者ホームページ)との目的で開催されますので、古本だけというわけではありませんが、こちらも楽しみな企画です。

ところで、1時間足らず古本まつりをめぐった後、広島城大手門を通って帰宅する途中で、不思議な光景に出合いました。

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大手門を出てすぐ南にある地下道の入り口付近で若い人たちが、何か作業をしています。「何をされているんですか」と尋ねると「地下道が暗いという声があるので、少しでも明るい雰囲気にしようと地下道の側面に色つきのシールを貼って、モザイク絵をつくっています」との返事。

広島市の委託を受けて、広島市立大学でデザインをまなぶ生徒たちが、自分たちでデザインしたモザイク絵に基づいて、カッティングをしたビニールシールを一枚一枚タイルに貼り付ける作業をしていたのです。デザインは、広島の川と鯉がテーマとなっているようで、私が通りかかったときは、作業がはじまったばかりのところでした。

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この地下道は、ひろしま美術館側から入り、城南通りを通り抜けた後左右に上り道があり地上に出るのです構造になっています。モザイク絵の中に描かれる鯉は、左側サッカースタジアム方面(西方向)は紫色を使い、右側東方面は赤色で描くことになっているそうです。

作業を見ていると、タイルに一枚貼るごとにフェルト状の木槌は剥がれないように丁寧に打ち付けながら進めるため、完成させるまでには1週間ぐらいかかるという話しでした。

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翌日(16日)の昼過ぎに弁護士会館に行くためここを通ったときには、作業はずいぶんと進んでおあり、西側の上り坂北側壁面には、きれいに川と鯉が描かれていました。

この部分だけでもずいぶんと雰囲気が変った気がしますので、全体の完成が楽しみです。

いのちとうとし

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2024年3月16日 (土)

宮島訪問税の見直しをー廿日市市へ要請

日朝友好広島県民の会(共同代表高橋克浩、足立修一)と民族教育の未来を考えるネットワーク広島(代表村上敏)の代表5名が、13日午後1時に廿日市市役所を訪れ、「宮島訪問税の課税免除が広島朝鮮学園に適用されないことの関わる抗議と要請」を行ないました。

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なぜ今回の申し入れを行なうことになったのかは、廿日市市に提出した要請文に書かれていますので、その全文を掲載します。

宮島訪問税の課税免除が広島朝鮮学校に適用されないことに係る抗議と要請

日ごろから、市民生活の向上、安全・安心な暮らしのために努力されておりますことに心より敬意を表します。 

さて、2023年秋から「宮島訪問税」の徴収が始まりましたが、その際の課税免除が広島朝鮮初中高級学校に適用されないことが明らかになりました。そこで、以下の通りその措置に対して抗議するとともに、課税免除の対象とされるよう理由とともに要請します。

1.宮島はユネスコの世界遺産に登録され、国内外から多くの観光客が訪れる名勝地です。このたび導入された「宮島訪問税」は、島の文化と伝統、街並みや景観など環境資源を維持管理するための財源として活用されるものと承知しており、賛同するものです。

しかし、修学旅行等の教育活動では「宮島訪問税」が免除の対象になっており、その対象は学校教育法第一条に規定された学校の児童生徒に限る、とされています。なぜ、「一条校に限る」とされたのでしょうか。これでは、日本学校に学ぶ生徒は税の免除の対象となりますが、外国人学校に学ぶ生徒は対象外とされ、税を徴収されます。在日外国人も納税の義務を果たしているのですから、このままでは税の不平等が生じ、差別と断じざるをえません。(また、外国人学校にも日本国籍の生徒が含まれていることからも不平等と言えます。)さらに、県内の動物園・美術館など公的施設の入場料は、日本学校の小・中学生と同様に広島朝鮮学校の生徒も免除されています。

2.広島朝鮮学校は、他の各種学校とは異なります。学校法人として認可されていますし、もっとも古くから日本社会に根付いた外国人学校としての経緯を踏まえ、広島県知事(藤田雄山知事(当時))が「(学校教育法)一条校に準ずる学校」として認め、この見解は現在の湯崎知事にも引き継がれています。

また当校は多くの大学で受験資格も認められており、高等学校体育連盟に(準)加盟し、広島朝鮮学校高級部のサッカー部が広島県代表としてインターハイに出場した実績もあります。

以上のことを勘案し、廿日市市は世界遺産を擁する都市として国際的な視野に立って検討され、広島朝鮮初中高級学校の幼児児童生徒を「宮島訪問税」免除の対象に加えるよう要請します。

私たちは、特に申し入れ書の2項の「朝鮮初級中級学校を広島県も1条校に準ずることを認めている」ことを強調して説明し,改善を求めました。この申入れに対し,対応した廿日市市の胡孝行経営企画部長は、「申し入れの趣旨はよく理解しました。宮島訪問税は導入して半年、条例にも5年ごとの見直しを入れていますので、専門家の意見も聞きながら検討することになります。時期はいつと今ここで約束できませんが、しっかりと検討したいと思っています」と検討を約束しました。

最後に私たちから、「ぜひ前向きに検討して欲しい」ということを要望し要請を終わりました。

いのちとうとし

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2024年3月15日 (金)

2024年3月のブルーベリー農園その2

安芸区の自宅から東広島市豊栄町にあるブルーベリー農園におもに週末に通っているが、9日、10日の土日は10日の日曜日しか行けなかった。9日が安芸の郷の春のブルーベリーフェアが開催されブルーベリージャムやジュース、苗木、天然酵母パンなどの販売ブースを設けてたくさんの地域の皆さんが参加されたので農園には行けなかった。あいにくフェア当日は寒かったし小雨もぱらついたので参加者は昨年より少な目だったが食べ物は完売だった。10日の日は一日だけの農作業だったが、昨年12月から続くブルーベリーの剪定作業を続けた。早春なので植物は農園の行くたびに変化があり辺りの景色や畑の景色に見飽きることはない。

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3月10日(日)

右の半分くらいが剪定済みのすっきりしたブルーベリーの列。左は剪定前なのでぼさぼさと茂っている。

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剪定した枝を野焼きしながらブルーベリーの剪定を続ける。

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太い幹を剪定した後は数本残せた場所もあるので、ブルーベリーの収穫が期待できる。それに大粒になる可能性も大。

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早生のブルーベリー(ダロー)の花芽。一つの芽の中から花の蕾が出てきた。

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ブルーベリー畑の地面にはあちこちにナズナの群落がある。

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3段あるブルーベリー畑の一番上の畑にも住みついたスイセンの葉が一気に出てきて、

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うっすら黄色味を帯びた蕾も顔を出してきた。

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里山にあるエビネの様子を見てみる。葉っぱは元気。

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株もとの落ち葉をかき分けて花芽を探す。2㎝ばかり地面から顔を出している。5月初めには花が見れそう。

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夕方5時の空は暗くなっているが、夕焼けの時間にはまだ早い。左の山が板鍋山、右が茶臼山(城跡がある)

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3月13日(水)

自宅のベランダの芝生の上に毎朝夕やってくるスズメ(雀)にご飯を水でほぐして与えている。カメラを向けた朝の時間には23羽しか来ていない中で、じぃーっと朝日にあたっている1羽を撮影。

2024年315

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年3月14日 (木)

三原地区3月の「19日行動(3.9)」

今月の定例「19日行動」。3月9日土曜日、13時30分から三原駅前において23人が街頭に立ってアピール行動を行いました。開会にあたり司会者から「東日本大震災・福島原発事故から13年を迎える。政府は放射能汚染水の海洋放出や原発の再稼働など甚大な事故がなかったかのように原発推進に回帰している。原発事故を風化させることなく住民のいのちと暮らしを守るための政策が求められる」と表明し、6人の弁士がスピーチを行いました。

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▲国民の政治不信を招いている自民党の「裏金問題」。国民の命も暮らしも二の次、自民党政治にストップをかけよう。昨年11月米軍オスプレイの墜落事故。事故の原因追及とオスプレイの飛行再開を許すな!の声を上げていきましょう。

▲アメリカ言いなりの日本政府、何とかしなければならない。日本はアジアの国として中国や朝鮮とも友好な関係をめざさなければならない。「台湾有事」を叫んで沖縄の島々に軍備を増強している。アメリカは、万が一有事があれば最初は対応するが中途で手を引くという計画があるようだ。こうしたことに惑わされることなく、日本はアメリカと距離を置いて中国や近隣諸国との外交関係を築くべきだ。今の政権に私たちの生活や国土を守ることはできないとの思いで市民の皆さんに訴えている。

▲市内で商業を営んでいる。「インボイス制度」が導入され税金を正確に収めている。脱税、自民党の裏金議員に処罰がない。こんな政治は許せない。

▲近々開催される自民党大会。「今年中に憲法改正を行う」「憲法発議も国民に提起する」と書いている。私たちはしっかり考えないといけない。選挙で国民投票をやる構えです。いつそれが示されてもNO!と言えることを日常的に作っていくことが必要である。私たちの身の回りでどういうことが起きているのか。広島市の松井市長の「教育勅語」を肯定する発言。憲法遵守、宣誓の削除など憲法尊重擁護義務違反である。

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▲中国電力は島根原発2号機を今年8月に稼働することにしている。県庁所在地にある唯一の原子力発電所である。30㎞以内の避難対象者は約43万人という大きな規模だ。能登半島志賀原発と同じように半島近くにあり島根原発でも起こりうる重大な問題である。島根県民の皆さんとともに原発稼働反対の声を上げていこう。3・11福島原発事故から13年を迎える。原発の廃炉が国民の願いであるが、政府は国民の生活を考えない原発政策をとっている。原発反対の運動を起こしていきましょう。

▲私たちの代表である国会議員とは何ぞや。「自民党政治資金パーティー」裏金問題、脱税疑惑、真相究明の徹底を求める。盛山文部科学大臣の旧統一教会問題、宗教団体として如何なものかと解散命令を裁判所に訴えている担当大臣が旧統一教会に選挙支援など深く関わっていること。これからの子どもをどう育てていくのかを担当する文科大臣であるが、ふさわしいかどうかもう一度考えていかなければならない。一日も早く辞める必要があると思う。私たちが街頭で訴えている軍事費増大問題、米軍辺野古新基地建設問題、憲法9条改憲問題いずれも私たちの子や孫に平和な社会に渡していくことが大人の責任である。今一度、今後行われる様々な選挙で自分たちの声を代表してもらえる国会議員を選出しようではありませんか。など訴えました。

なお、来月からの「19日行動」は季節が変わりましたので基本の19日17時30分から実施します。

藤本講治

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2024年3月13日 (水)

「原水爆禁止」の署名活動のスタートは?

「みなさんは、原水爆禁止の署名運動は杉並から始まったと思われているかも知れませんが、ひょっとするとここ焼津ではじまった署名活動が最初かも知れません」

これは、今月7日のブログ被災70周年3・1ビキニデー全国集会と久保山愛吉墓前祭: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した「焼津市歴史資料館で開催されている『共同企画都立第五福竜丸展示館・焼津市歴史資料館 ヤイヅ1954 The Year of Fukuryu-maru』」で、解説・案内をしていただいた資料館員の話しです。

確かに東京都杉並区のホームページには、「59日、『水爆禁止署名運動杉並協議会』を発足させ、水爆禁止を世界に訴える『杉並アピール』のもとに統一的な運動を展開していきました。(略)杉並区からはじまった統一的・組織的な原水爆禁止署名運動は、海外にも広がる歴史的な運動となったのです。」と,署名運動が「杉並からはじまった」と明記されていますし、多くの人がそう思っています。このことについては、広島での署名運動との関係がありますが、今日は省略します。

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展示された「村民の声署名簿」

資料館の説明員の話に大変興味を持ちましたので、現場では写真を撮って帰宅しました。「焼津での署名運動と学生による平和運動」とタイトルが付けられたキャプションには次のように書かれています。少し長いのですが引用します。

「アメリカによる水爆実験による第五福竜丸の被災は、日本中に大きな衝撃を与えました。(略)全国各地で『水爆実験禁止』『原水爆禁止』の運動が広がっていき、焼津でも,3月27日に焼津市議会が『原子力兵器として使用することの禁止』『原子力の平和利用』を決議したほか、焼津市婦人議も同様の決議を行なっています。

住民による署名運動は、焼津市に隣接する吉永村(焼津市吉永)から始まりました。吉永村は、第五福竜丸の乗組員5人の出身地でした。乗組員の同級生が中心となり,青年会、婦人会などが,乗組員とその家族への激励、原子力兵器の利用禁止と平和利用を訴えました。署名運動と同時に乗組員への寄せ書きや乗組員家族への寄付を募ります。署名運動が、5月9日から31日まで行なわれ、署名簿46冊、署名人数は、当時の吉永村の人口の約半数の3、200人以上に上りました。この署名簿は、『村民の署名簿』として,吉永村に提出されました。」

キャプションには、さらに焼津市立焼津中学校の生徒が中心となって、乗組員への励ましの手紙や慰問活動を行なったこと、卒業生たちが、漁師や妻たちへの調査活動を行なったことが紹介されています。

東京の杉並で「水爆禁止署名運動杉並協議会」が発足した同じ5月9日に、焼津の隣町吉永村では、署名活動がはじまっていたのです。

資料館員の「ひょっとするとここ焼津ではじまった署名活動が最初かも知れません」という解説は、その通りです。

この他にも「被災の発覚と焼津市の対策」が、当時の宮崎助役のメモを中心に紹介されています。そのコーナーには、先に紹介した昭和29年(1954年)3月27日に焼津市議会が採択した「決議」も展示されています。こちらは全文紹介します。

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「決議 焼津市議会は、3月1日の第五福竜丸原爆被災事件に関わる放射能の脅威を痛感し恐怖する市民の意思を代表し、人類幸福のために左のことを要求する。

1,原子力を兵器として使用することの禁止

1,原子力の平和的利用

右決議する」

この決議を見て二つのことを思います。一つは、杉並区議会で「水爆禁止」の決議が行なわれたのは、4月17日ですので、焼津市議会は、かなり早い時期に決議したことがわかります。もう一つは、最初に紹介したキャプションで指摘されているのですが、なぜか「原子力の平和利用」の文言が入っていることです。この点は、非常に気になるのですが、見学時間が短く、会場ではそこまで読み込めませんでしたので、解説をしていただいた館員に尋ねることはできず、疑問を解くことができませんでした。いつか解明したいと思います。

私は、これまで「原水禁運動の歴史」について、いろいろなところで話してきたのですが、焼津での運動の歴史には全く無知でした。今度の展示見学は、新しい視点を与えてくれました。

いのちとうとし

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2024年3月12日 (火)

古代出雲と備後―古代出雲文化フォーラム

3月9日午後1時から広島国際会議場で島根大学主催の「古代出雲文化フォーラム」が開催されました。

「出雲」と聞いただけで、「とにかく参加しなければ」と、1月下旬にネットで参加申し込みをしました。

当日の参加者は、300人ということで、関心の高さを伺わせました。

この「古代出雲フォーラム」は,「古代出雲文化を通じて島根県の歴史、文化や風土、そして島根大学の学術研究の成果等を全国に向けて発信するものとして、古事記編纂1300年に当たる平成24年(2012年)度に東京において第1回を開催して以来、全国各地で開催して参りました。」(当日配布されたパンフレットより)そうです。ちなみに広島では、平成25年(2013年)度に一度開催されていますので、今回が2度目の開催となります。それぞれの開催地域と出雲との結びつきを中心にテーマが設定されています。

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今回のテーマは「古代出雲と備後」で、第1部のシンポジウムでは3つの講演「1,弥生時代の備後・安芸と出雲・石見の交流、2.国史跡寺町廃寺跡が語る備後と出雲、3,出雲と備後を結ぶ道」がありました。その内容を簡単に紹介します。

「弥生時代の備後・安芸と出雲・石見の交流」の中心テーマは、弥生時代中期に広島県三次市や島根県出雲市で築造された「四隅突出型墳丘墓」から、両地域の繋がりを示す内容でした。

「国史跡寺町廃寺跡が語る備後と出雲」は、三次市にある「国史跡寺町廃寺跡」から見えてくる備後と出雲の繋がりを、屋根の軒に取り付けられた「軒丸瓦」のつくり・文様が同じものであることから「備後と出雲に深い繋がりがあった」ことの報告でした。紹介された「国史跡寺町廃寺跡」は、初めて聞く史跡ですが、大きな伽藍があったようですので、一度訪れてみたい史跡です。

「出雲と備後を結ぶ道」では、天平5年(733年)に完成した出雲風土記に、この両地域を結ぶ道が5つ存在していたことが記述されており、両地域に深い繋がりがあったという報告でした。ちなみに「出雲風土記」は、ほぼ完全な形で残る唯一の風土記として貴重なものです。

私が特に興味を持ったのは、最初の二つの報告です。二つの報告は、いずれも「備後地域で発祥し、それが出雲に伝搬した」というものでした。意外と言えば意外なことです。私は、「出雲は古代の中心だった」と思っていましたので、頭をガツンと打たれたような思いになりました。

第2部は、島根大学の取り組みが紹介されましたが、ここでは省略します。3時間半の長いフォーラムでしたが、もう一度古代の歴史を学び直さなければと思わされた「古代出雲文化フォーラム」でした。

いのちとうとし

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2024年3月11日 (月)

フクシマを忘れない!さようなら原発 ヒロシマ集会

今日は、2011年に東日本大震災によって発生した「東京電力福島第一原子力発電所事故」から13年目です。

原発事故が発生した翌年から毎年3月11日を中心に「フクシマを忘れない!さようなら原発 ヒロシマ集会」を開催してきました。

今年も秋葉忠利(前広島市長)、箕牧智之(被爆者)、森滝春子(市民運動家),山田延廣(弁護士)、岡田和樹(有機農家)の呼びかけで、昨日午前10時から広島弁護士会館で集会を開催しました。

呼びかけ人を代表して山田延廣弁護士が開会あいさつ。山田さんは「福島の原発事故は、原発無き社会の大きなきっかけとなった。今なお、故郷に帰ることのできない多くの人がいる。しかし、政府は、約束を守らずアルプス処理水の海洋放出を関係者の同意もないまま強行。そして再び、原発回帰へと政策転換を進めている。それらの背景に電気事業連合会からの自民党への6億円を超える献金があることを忘れてはならない」と指摘ました。

主催者あいさつの後、福島原発国訴団団長の武藤類子さんからのビデオメッセージが紹介されました。武藤さんはこの中で特に最高裁に移っている東電元会長らを強制起訴した「東電刑事裁判」で、東電と密接に関係のある草野耕一裁判官がいることを紹介し、この裁判官が審理から自ら身を引く「回避」を決断するよう求める署名活動への協力を呼びかけました。

続いて今年の集会のメインである「島根原発2号機の再稼働を止めよう!」と題して、島根原発3号機差止訴訟原告団事務局の芦原康江さんの講演がありました。

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芦原さんは、1月1日に起こった能登半島地震の被害の状況を説明しながら、「能登半島地震を受けて改めて問う 島根原発2号機を再稼働させてよいのか?」と問いかけました。そして島根原発のすぐ近くにある宍道断層と鳥取西部地震とが連動して地震が発生したとき、能登半島と同等の地震が発生すること、島根原発の東西にある三瓶山、大山が噴火したときのことが全く想定されていないこと等の問題点を指摘しました。

その上で、現在の「避難計画」は問題点が多く、実際には「被ばく計画」そのものだと厳しく指摘しました。さらに能登半島地震を受けても原子力防災対策方針を見直す気が全くないこと、政府は「避難計画」の実効性を確認していないことも指摘し、「住民に対するいい加減な被ばく防護しかせず、その結果、たとえ災害により住民が酷い被ばくをしても自治体に責任を押しつける。そんな原子力災害対策のもと『避難計画』に実効性はない」とし「原発は再稼働させてはならない!」と訴えました。最後に「これ以上のゴミを増やさないためにも、リスクだらけの島根原発2号機の再稼働は止めなければならない。ここで再稼働を許せば、40年を超え、さらに60年超の長期運転も行なわれる」「それは、実験だ!今、止めなければ!」と呼びかけて講演を終わりました。

本当にわかりやすい内容の話しでした。

次に、呼びかけ人の一人である岡田和樹さんが「上関に中間貯蔵施設を建てさせない!」ことを訴えました。

最後に「2011年の福島事故を忘れない。『地震大国』の日本を『原発ゼロ』の日本にする」ことを訴える「3・11ヒロシマからのアピール」を全員で確認し、集会は終わりました。

参加者は、150人でした。

いのちとうとし

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2024年3月10日 (日)

「3・11」から13年です

 「3・11」から13年、まさに13回忌です。1月1日に発生した能登半島の大地震、2か月以上が経過したにも関わらず、多くの人たちが今でも避難生活をされ、これから先の目途が立たずに生活されていることに、心からお見舞いいたします。

 ボランティア活動に参加している方も減少傾向にあると、マスコミも報じていました。志賀町で町議会議員をしている友人は、復旧作業の責任者として現地に住み、たいへんな生活をしているのだという連絡がありました。

 2月26日には広島県でも、震度4を記録する地震がありました。私の住んでいるところは震度2でしたが、恐怖を感じる揺れでした。地震大国日本列島を実感させました。

 「3・11」以降、福島を3回訊ねましたが、震災から2年目ぐらい時は、地震発生時刻の午後2時46分で止まったままの時計が、壊れた家屋の傍にあったのを覚えています。しかし訊ねるたびに街中が、「きれい」に整備が進んでいるように見えていました。

能登半島も今後余震が起こることが予想されますが、時間とともに復興が進んでいくだろうとは思います。福島もそうですが、「復興需要」で儲ける企業も出てくるでしょうし。それはそれで仕方がないでしょうが、被害者に寄り添い最後まで面倒をみる「復旧・復興・再生」に歩んでもらいたいと思います。

しかし能登の記憶も都会生活をしている人からは、やがて忘れられてしまうかもしれません。しかし13年が経過したフクシマは、今でも多くの人から忘れられてはいないと思います。「3・11」に合わせて全国各地で原発に反対する集会が計画され、広島市内でも今日3月10日に「フクシマを忘れない」という集会が開催されます。

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資源エネルギー庁ホームページより

言うまでもなく、フクシマの被害は放射能事故という特別な被害が伴っていますし、その被害はこれからも長く長く続いていくということだと思います。先の戦争では、国内で多くの都市が空襲に襲われ、広島県でも呉市や福山市で大きな被害がありました。それらの都市では、空襲を忘れないという集会などが開催されているとは聞きますが、年月の経過と当事者の高齢化などで規模が縮小されているようです。しかし広島の平和公園には、今でも世界中から多くの人がやって来て、原爆被害に想いを馳せています。

その理由は言うまでもなく、原爆被害は放射能被害という特別なことが在るということです。放射能被害はまだまだ続く問題です。空襲被害者にも戦争被害者として、国は救済することが必要だと思いますし、それを行うとしない国には怒りを覚えます。原爆被害者には充分ではないにしても対策をしているのです。国の魂胆は分かりませんが、遺伝的な影響についても調査研究ということで、予算が使われているのです。

「3・11」から13年、マーシャル諸島ビキニ環礁での水爆実験被ばく事件から70年、そして来年は原爆投下から80年となります。

被爆者の減少と高齢化がいわれていますが、たとえ被爆者がゼロになっても、ヒバクシャを作らせないために、ヒロシマの役割りを追及しようとの思いを新たにした「フクシマから13年目」でした。

木原省治

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2024年3月 9日 (土)

「被爆二世の援護を求める集団訴訟」広島高裁第2回口頭弁論と福岡高裁判決

今日は、昨日開廷される予定であった「被爆二世の援護を求める集団訴訟」広島高裁第2回口頭弁論の様子を紹介する予定でしたが、午前7時半頃新岩国駅で発生した人身事故のため山陽新幹線が、午前10時半頃まで運転見合わせとなり、公判に参加する予定だった弁護士が、足止めとなったため急きょ期日が取り消しとなりました。次回の公判期日は、改めて協議されることになるようです。

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私も何度も裁判傍聴を行なってきましたが、当日になって取り消しとなったのは初めての体験です。

昨日の口頭弁論では、弁護団から「原判決批判の準備署名」「遺伝的影響を医学的の証明するための振津かつみ証人の申請」が準備されていましたが、国側は、3月6日に2月29日に出された福岡高裁の判決文を上申書として提出していましたので、広島高裁の判断が重要になっていました。また国側の上申書提出によって「広島高裁の審理も今日で結審するのではないか」とも言われていましたので、昨日の口頭弁論の取り消しには、ちょっとびっくりです。

昨日の公判終了後の報告会では、在間弁護団長から「被爆二世集団訴訟の現在」と題してこれまでの経過や2月29日の被爆二世の訴えを退けた福岡高裁判決に対する解説が行なわれることになっていましたが、これも次回に先送りとなりましたので、今日は紹介できません。

また、福岡高裁判決に対し、控訴人(被爆二世)・弁護団の「声明」は、まだ出されていませんが、「不当判決」として「上告」することを決めていますので、その上告理由書が発表された時点で、紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2024年3月 8日 (金)

2024年3月のブルーベリー農園その1

春が来るのには三寒四温というが、3月の上旬の天気は寒さが戻ってきて東広島市豊栄町のブルーベリー農園はこの冬で一番寒かった。そのため農園作業の服装も例えばズボンを2枚重ねたりして寒さをしのぎながら体を動かした。安芸区の自宅から農園に通うのは土日だけしか時間が取れず、雨や雪の天気予報を気にしながら通った。剪定作業は3段ある一番下の畑から始めているが、電動ハサミと電動チェンソーを使って太い枝を切っていき、8列中3列が剪定終了。39日(土)は朝10時から13時まで安芸の郷が主催で「春のブルーベリーフェア」が開催されるので農園での作業はなし。ブルーベリーの苗木コーナーで栽培の楽しみを伝える役目が待っている。

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3月2日(土)

昼前に農園に着いたときは雪まじりの曇り空だったが、

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昼食を済ませて農作業を始まるころには青空が出てきた。いい天気になっても気温は低く14度くらいでしっかり厚着して作業を行った。

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ブルーベリー畑の草の中からナズナの花がすくすく伸びて咲いている。

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農園の家の蔵の側に小さい庭があるがそこにアセビ(馬酔木)が植えてある。これから咲く花だがたくさん花をつけている。ブルーベリーの花と形がよく似ている。

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3月3日(日)

この日も寒い。小さな畑の法面のスイセン(水仙)もい週間前にはまだ固い蕾だったが、少しだけ花びらがのぞいている。

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ブルーベリーの剪定作業をする前に積んでいるブルーベリーの枝を野焼きする。広い場所での農作業なので煙が立つと人の息遣いを感じることができる。

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剪定したブルーベリーの枝はブルーベリーシートの上で細かくカットして野焼きする場所までシートを引きずって持っていく。たくさん乗せたときは2人で運ぶ。

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切ったブルーベリーの枝は細い枝と太い枝に分ける。太い枝もだいぶたまった。1㎥くらいある。

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手前が剪定のすんだ木。ぼうぼうと立っている向こうの木がこれから剪定する木。

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小さな畑の法面にウメ(梅)の木に花が咲いているので家の玄関に飾るため切って持ち帰る。ツバキ(椿)の枝も持ち帰った。

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3月6日(水)

自宅のベランダの芝生の上に毎朝夕やってくるスズメ(雀)にご飯を水でほぐして与えている。くちばしにご飯を一粒加えてこちらを向くスズメ。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年3月 7日 (木)

被災70周年3・1ビキニデー全国集会と久保山愛吉墓前祭

原水禁国民会議は、東海ブロック原水禁連絡会議、原水爆禁止静岡県民会議と共催し、被災70周年の31ビキニデー全国集会を31日静岡で開催しました。広島県原水禁からは、高橋克浩代表委員、大瀨敬昭事務局長と私の3人が参加しました。私は、今年は被災70周年の節目ですので、ぜひ参加したいと本当に久しぶりですが参加することにしました。

ビキニデー全国集会は、午後6時から静岡市・静岡商工会議所5階ホールで,地元静岡県原水禁代表委員加藤稔也さんの司会でスタートしました。最初に原水禁国民会議共同議長の藤本泰成さんが主催者あいさつ、次に静岡県平和・国民運動センター会長の藤井淳さんが、地元を代表してあいさつされました。

次に長崎大学核兵器廃絶研究センター(RECNA)准教授の中村桂子さんの「核兵器廃絶に向けた世界の動きと私たちの課題」と題した講演がありました。

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中村さんは「ビキニ被災から70年、非常に長い時間が経ったが、しかし、終わった話ではない」「2年前はオンラインで参加したが、この2年間で核実験が世界的にも日本国内でも関心が高まっている」と指摘し、現在12,520発存在すると言われる世界の核弾頭数を紹介しながら核をめぐる現状を紹介しました。そして、ここからが重要なのですが「最近、新しい風が吹いている。大きな地殻変動の動きがある」と核兵器禁止条約発効以降の世界情勢を紹介しました。それらは新しいアプローチ「・中小国や市民社会が主導している・核兵器の『非人道』が議論の焦点になっている」が大きな力となっていると紹介しました。

さらに大切なことは「核被害の実態調査書を発行することだ」と今後の課題を提起しました。もちろん、「日本政府が禁止条約を批准すべき」と強く指摘しました。

いくつもの点で共感を覚える講演内容でした。

中村さんの講演終了後、広島の元高校生平和大使でConect Hiroshima 代表の大内由紀子さんの「核兵器禁止条約締約国会議派遣報告」と静岡焼津で地域活動を続けるビキニ市民ネット焼津・かまぼこ屋根の会代表二人から、焼津での取り組み、そしてマーシャル諸島訪問報告がありました。二つの報告の後、静岡の高校生平和大使、長崎は県代表の3人の高校生の訴えがあり、最後の集会アピールを全員で確認し、「被災70周年31ビキニデー全国集会」は終了しました。

参加者は、180人でした。

翌日2日は、会場をビキニ水爆実験で犠牲となった久保山愛吉さんが眠る焼津市の弘徳院に移し、午後1時半から墓前祭を行ない,改めて核実験被害者の救済と核兵器廃絶への決意を新たにしました。

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弘徳院での墓前祭終了後、被災70周年ということで焼津市歴史資料館で開催されている「共同企画都立第五福竜丸展示館・焼津市歴史資料館 ヤイヅ1954 The Year of Fukuryu-maru」を見学しました。

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この展示では、当時の焼津での様々な動きがパネルで紹介されており、中でも当時の役場の動きや全国に先駆けてといってもよいほど早くに始まった焼津の署名活動など,これまで全く知らなかったことが、様々な資料によって紹介されており大変興味深く見学しました。これらの内容の一部を改めていつか紹介したいと思います。

「被災70周年31ビキニデー全国集会」を挟んで、1日の午後1時半から翌日の午前11時30分まで、「フォーラム平和・人権・環境 2023年度活動者会議」が、開催されました。この中では、加盟組織や各県から「組織活動の課題、脱原発の取り組み、朝鮮人追悼碑撤去問題、基地問題,労働運動課題」など18の多様な活動の報告がありました。全国各地、各組織で工夫しながら活動を続けている様子が紹介され、学ぶことの多い活動者会議でした。

いのちとうとし

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2024年3月 6日 (水)

3ヶ月ぶりの「3の日行動」

戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会は、今年最初となる「3の日行動」を4日午後5時半から1時間、本通電停前で実施しました。

マイクの握った人たちを敬称略で紹介します。

冒頭発言・・・川后和幸

パールハーバーと平和公園の姉妹協定は撤回を・・・平和公園ガイド 温品美和子

松井市長の「教育勅語」研修は憲法違反・・・弁護士 依田有樹恵

自民党の裏金問題・・・弁護士 山田延廣さん

河井大買収事件は終わっていない・・・山根岩男

国会情勢など・・・金子哲夫

広島市はガザの即時停戦を求めよ・・・広島市立大教授 湯浅正恵

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それぞれのテーマを見て欲しいと思います。当然のことですが、「政治と金」をテーマにした訴えが3つあります。私も「国会情勢など」と言うことでマイクを握りましたが、前の二人が「政治と金」の問題での訴えでしたので、少し違う角度からと思い次のようなことを訴えました。一つは、岸田首相の「政治と金の問題」への向き合いかたです。「河井疑惑に関わる資金の流れの究明が必要と言いながら、総理になった途端、この問題には全く触れなくなった」問題です。二つは、「安倍派の裏金」問題で、国会が本来審議すべき予算の問題点(軍事費の増大など)が置き去りになってしまった責任は自民党にあるということを訴えました。三つは、来年度予算は「能登半島沖地震対策」と言うことで、異常な土曜日審議と言うことで強行採決されましたが、「断水対策、仮説住宅などの現状を見ると本当に地震による被害対策が行なわれているのか」という問題を指摘しました。

昨日のアピールで特徴的だったのは、6人のうち半分の3人が、松井広島市政に関わる問題を取上げたことです。温品さんは、現地パールハーバーの公園を訪れて感じたことから、「自由に訪れることのできない公園であり、この姉妹協定がアメリカ主導で進められ他」と、多くの問題点をしてきました。依田弁護士の話しは、このブログでも紹介した「広島弁護士会長声明」の内容を紹介しながら、「憲法尊重擁護義務のある広島市長が、憲法違反の教育勅語は絶対に使ってはならない」と厳しく指摘しました。特に最後の訴えをした湯浅さんは、その中でも「広島市が、『核問題』を『核実験』に矮小化している」ことを指摘するとともに「ガザ問題を国政に関わる問題だから」と逃げていくことを紹介し、広島市の平和、核問題に向き合う姿勢が、変質していると厳しく指摘しました。この問題は重要ですので、いずれこのブログでも考えていきたいと思います。

いずれのテーマを見ても松井市政が、外務省が進める日本の外交を補完する広島に変質していることを示していることを指摘する内容でした。

昨日の参加者は、30人でした。

いのちとうとし

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2024年3月 5日 (火)

ヒロシマとベトナム(その56) ~日越外交関係樹立50周年記念訪問―その5~

成長著しい歴史と文化のまち、ダナン

ベトナム最後の日(11月5日)、前日通過したダナンに再び入り、ダナン湾に注ぐハン川に架かる「ドランゴン橋」と、その西詰にあるチャム彫刻博物館を見学。夜はカラフルなイルミネーションに浮かび上がり、金・土・日の夜には水と火を噴くドラゴン橋は、成長著しいダナンを象徴する人気スポットです。

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ダナンの「鯉の滝登り像」の前で“はい ポーズ!      金・土・日の夜火を噴くドランゴン橋の“ドランゴン頭

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人間の胴体をもち鷲の頭をもつ神ガルーダ           人の身体に象の頭を持つヒンズー教の神 “ガネーシャ”

  チャム彫刻博物館はダナン南西70km、ホイアン西方40kmにあるミーソン遺跡を中心にベトナムに点在するチャム族の遺物が展示されています。インド文化やヒンズー教の影響を強く残す彫刻の中で目を引いたのは“ガルーダ”と“ガネーシャ”です。チャム族は2~7世紀まで林邑国(Champa:チャンパ)、7世紀~14世紀まで占城国(Chiêm Thành:チャンパ)としてベトナム中部を治めていたチャンパ王国の主要民族でした。

チャンパ王国は、日本とも関わりの古い国です。

19世紀初めに阮朝によってベトナムで初めての統一国家が建てられる遙か以前、735年に遣唐使・平群朝臣広成(へぐりのあそんひろなり)が嵐で漂着したと伝えられる崑崙(こんろん)はチャンパ王国と考えられています。おそらく記録に残る日本人が初めてベトナムの地を踏んだ人だと思います。このことはもう一つのシリーズ「ベトンバムの歴史」(2121年8月19日の「ベトナムの歴史」(その6)で紹介しましたのでご覧ください。ベトナムの歴史(その6-1): 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)

一方、ベトナム人として初めて日本の地を踏んだ記録上最も古い人が、736年に渡日したチャンパ王国出身の僧・仏哲です。仏哲は東大寺大仏開眼法要で舞楽を奉納し、菩薩や抜頭などの邑楽伝えました。

チャム彫刻博物館とドランゴンブリッジは悠久の歴史を刻むダナンと、成長著しいベトナムを象徴するダナンの顔を代表する観光スポットです。

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列強支配の攻撃にさらされたまち、ダナン

ハノイ、ホーチミンに次ぐ三大都市の一つダナンにはもう一つ歴史があります。チャンパ国時代は中国と国境を接し絶えず侵略にさらされ、605年には随によって一度は滅亡されます。19世紀の半ばにはベトナムの植民地支配を狙ったフランス艦隊がダナン港を襲い、ベトナム戦争時にはアメリカの海兵隊が上陸しました。米軍の大規模な基地が建設されたベトナム戦争の大激戦地でもあります。

ダナンは列強支配の攻撃にさらされたまちでもあるのです。

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1858年、フランス軍の艦隊によって砲撃を受けるダナン。ここから1954年のディンビエンフーの闘いでフランスが敗退するまでの植民地支配が始まります。

今回の旅行では日程の都合で訪れられませんでしたが、チャム彫刻博物館の近くにあるダナン博物館はこうしたダナンの歴史やと文化、ベトナム戦争を生き、戦い抜いた人々の暮らしを知ることが出来ます。是非、皆さんも一度訪れてください。

「日越外交関係樹立50周年記念訪問記」シリーズは、今回をもって一区切りとします。

次号から予定しているシリーズを紹介します。

ダナンの東約240kmに南シナ海問題の一つの火種があります。中国の海南島から南東約300kmにある西沙諸島です。英名ではパラセル諸島、ベトナムではホアンサ諸島(Quần đảo Hoàng Sa)と呼ばれます。南シナ海問題のもう一つの火種は南沙諸島(英名:スプラトリー諸島、ベトナム名:チュオンサ諸島)です。

ウクライナ戦争で取り沙汰されている台湾海峡問題とともにクローズアップされているのが南シナ海問題です。次回から南シナ海を臨むダナンで訪問団の皆さんに紹介した南シナ海問題を幾度か書いてみたいと思っています。

(2024年3月5日、あかたつ)

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2024年3月 4日 (月)

自己表現とは

広島県の公立高校入試で「自己表現」が導入され、2年目となりました。

広島県教育委員会のホームページによると、【自己表現は、「広島県の15歳の生徒に身に付けさせたい力」である「自己を認識し、自分の人生を選択し、表現することができる力」がどのくらい身に付いているかをみるため】に【個人ごとの面談形式で実施】し、【自分自身のこと(得意なことやこれまで取り組んできたことなど)や高等学校に入学した後の目標などについて、自分で選んだ言葉や方法で表現する】。【5分以内】で行い、【検査官は、受検者が自己表現した内容に対する補足的な質問を行う。時間は、受検者が質問に回答する時間を含め3分以内とする。】とあります。

新たな試験科目「自己表現」導入に伴い二日間で行っていた学科試験の日程も、一日で5教科すべてを実施するという非常に過密ものとなりました。

「自己表現」導入1年目だった昨年、わが子の入試と重なりました。

ごく一部の県立学校で先行していたインターネット出願が、全校になったのも昨年からです。学校では、事前に出願のテスト作業を各家庭で行わせ、できたかどうかチェックもされました。子どもたちには、試験時間に慣れるために模試を1日で行う。「自己表現」の原稿を作成する。パソコンで表現内容を作成してスケッチブックにまとめる。クラスで発表しあう。先生が検査官となり自己表現を確認する等々の指導もされたようです。いろいろな対策に多くの時間を充てることとなり、先生方には非常に負担だったのではないかと思いました。

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家では、学校から「1年目なので、どうなるのか詳しくはわからない」という声と一緒に配布された資料から「新しい入試制度WEB説明会」を視聴したり、「自己表現」で何をどの順番で伝えるかを一緒に考えました。部活動の実績もアピールできる特技もないと訴えるので、最初は「高校に入学したら何がしたいか」と、ひねり出して編み上げて取って付けたような原稿で「自己表現」をする方向でした。ほぼ原稿はできていましたが、やはり唯一好きなことについてアピールしたいと、その原稿は使用しませんでした。

いざ試験を迎え、一日目の学科試験が終了すると「非常に疲れた」と訴えながらも「白い布が欲しい」と言い出しました。意図をたずねると、「シャツに「I LOVE 〇〇」と書いた布を貼っておき、最後に見せてアピールしたい」と言います。二日目終了後、結果を尋ねるまでもなく、制服のシャツに直接布を重ねて書いたのだと一目でわかる黒い油性ペンの裏抜けがありました。

わがことが終わり一息つくと、いろいろ気になりました。

日本語が得意でない外国籍の保護者や生徒もいるのに出願の手引書は日本語版しかなかったこと。人前で発言ができない子や、ことばに不安のある子はどうしたんだろうか。受験生から聞こえてきた「自己表現の間、検査官の先生が終始無反応でつらかった」という声。「自己表現」は、指導の面でも採点の面でも中学校、高等学校、両方に非常に負担をかける試験制度だと思いました。

「自己を表現する力」は高校へ入学した後につけていけばよい力だと思います。ただ良かったと思うことは、子どもと話をする機会が持てたことです。ただそれも、それぞれの家庭状況や子どもの個性などでさまざまなのだろうなとも思います。

はたや

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2024年3月 3日 (日)

「広島県立第一高等女学校の門柱」余話の余話のつづき

本題に戻ります。これで疑問の一つは消えました。下中町にあった校舎は、広島英語学校としてスタートし、その後「明101877)年」に「広島県中学校」となって以降も校地としては変っていなかったのです。そして、「明24(1891)年」に国泰寺村(上記のコラムでは雑魚場町)に移転したときは、私は先日の「余話」で「門柱も移転したと想像できます」と書きましたが、大きな間違いでした。門柱は移転せず、下中町に残ったままだったのです。

一つの疑問は解決しましたが、このコラムにも出てくる「広島師範学校」のことがまだ解明できていません。2月27日紹介した「門柱の歴史」の最初に「広島師範(現広島大学)」と記載されていましたので、この広島師範を勝手に「広島高等師範学校」と間違って解釈してしまいました。そのため「余話」で「広島師範学校が開校したのは、広島県立広島第一高等女学校の前身である広島県立高等女学校が開校した同じ年の1902(明治35)年ですから」と書いてしまいましたが、改めて調べると、1902年(明治35)年に創立したのは、勅令によって決まった「広島高等師範学校」でした。コラムや「門柱の歴史」に登場する「広島師範学校」は、1877(明治10)年に「広島公立師範学校」から「広島県師範学校」に学校だったのです。

時代経過は、確かに解明されたのですが、なぜ「広島師範学校の門柱」だったのかの疑問が残りますが、「広島一中国泰寺高校100年史」の中にあった次に記述を見つけて、その謎も解明できました。

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上の図は、明治12年の広島中学校の位置図です。真ん中ほどに「中学校」があります。もう一つ注目して欲しいのは、右端に「師範学校」があります。平田屋川(現在の並木通り)の東です。広島師範学校は、創立当時この場所にあったのですが、「広島一中国泰寺高校100年史」に付けられた年表をたどると「1880(明治13)年3.19 広島師範学校本校に移転同居」の記述が目に入ります。さらに「広島一中国泰寺高校100年史」の本文には、「1879(明治12)年、火災のため教場を失い・・・寄宿舎もまた灰燼に帰した県師範学校用に転用されたため・・・」さらに「その後十年間を経て、本校は生徒数の増加と、師範学校の拡張とによって・・・」、県立中学校は、国泰寺村に移転することになります。ここには、記載はありませんが、県師範学校は、1902年(明治35)年に高等師範学校が設立されるまでこの地に残り、その跡地に広島県立高等女学校が創立されたのです。

そのことを「皆実友朋百周年記念誌」には、「本校の校地にあてられたのは、広島市下中町の広島師範学校旧地であった」と書かれ、つぎに地図が添えられています。

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最初の地図と重ねれば、中学校と同じ場所に「高等女学校」の文字が書かれています。

「広島県立第一高等女学校の門柱」を訪ねる長い旅は、これで終わりです。

いのちとうとし

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2024年3月 2日 (土)

「広島県立第一高等女学校の門柱」余話の余話

「広島県立第一高等女学校の門柱」余話の最後に「最大の疑問は、『広島県中学校(現国泰寺高校)』の門柱が、なぜ県立高等女学校の門柱になったのかです。」「古い歴史を確定するのは、なかなか難しいことだとあらためて実感しました。」と書きましたが、気になったので、国泰寺高校の「沿革史」のもととなったと思われる「広島一中国泰寺高校100年史」で調べてみました。

その1ページに「広島英語学校の門柱―広島県中等教育百年の回顧(数田猛雄)―」と題したコラムを見るけることができました。

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興味あることが書かれていますので、その全文を紹介します。

「原爆当時下中町にあった広島第一県女の門柱―如何にも明治の初期のものらしい古風なデザインの御影石の門柱は、広島英語学校の門柱であったことを記しておこう。

あの校地(下中町)は広島県英学校の廃止の後は広島県中学校の校地として使用せられ、この校が雑魚場町に移転の後は新しく開設された広島県高等女学校の校地となった。それ以来その門柱は、県立女学校とともに風雪を凌いできた。

原爆後県女が、皆実町の元被服廠あとに移転したとき、関係者はその門柱を焼け野原の中から運んできた。歴史の眼から見れば、この門柱も唯一校のみの記念物ではなく、広島一中、広島中学、広島師範学校の記念物でもあるということである。

試みにこの門柱に心をこめて検べて見よ、『明治十年一月広島英語学校』と刻まれている読みとることができる。左の写真は百米道路に立つ広島英語学校の門柱である」

このコラムに「試みにこの門柱に心をこめて検べて見よ」と書かれていますので、とにかく「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」に行き、調べてきました。

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これまで気がつきませんでした(というより、そう思って見ていなかった)が、門柱の裏側には、見にくくなっていますが、確かに文字が刻まれています。文字の下部はコンクリートで補修されていますので、コラムにある「明治十年一月広島英語学校」の文字のうち、「語」の文字は半分、「月」と「学校」の文字は、無くなっています。これらの文字の上部に「寄附」の文字が刻まれていますので、コンクリートで隠れている部分には、寄付者の名前が刻まれていたのではないかと想像できます。広島皆実高校にある門柱3本のうち2本は短くなっていますので、刻まれた文字は無くなっていると思われますが、1本だけ長かったような気がしますので、文字が残っていないか確認に行ってこようと思います。

これからこのコラムにも書かれている「門柱の歴史」をもう少し詳しく検証したいと思いますが、ここまで少し長くなりましたので、このつづきは明日にします。

いのちとうとし

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2024年3月 1日 (金)

被爆者の森―2本植え替え

昨日午前8時から平和大通り東詰付近に広がる被爆者の森で、沖縄県の木と石川県の木の2本の植え替えがありました。

最初の植え替え作業が行なわれたのは、石川県の木です。もともと石川県の木は、県木アスナロが植えられていましたが、私が知る限り過去3度枯れています。

1度目の植え替えの様子は、「被爆者の森」の植栽と樹名板の取付け: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しましたが、翌年3月再び枯れているのを発見し、広島市に連絡したところ、3月18日に植え替えられました。その時のことを「アスナロ」の木が植え替えられました―被爆者の森: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しました。

ところが、2度目の植え替えを行なったアスナロが、翌年2023年夏前になると再び枯れ始めたのです。この時も広島市に連絡を入れたのですが、その時は「もう少し様子を見たい」との返事でしたが、やはり枯れてしまったということで、今回の植え替えとなったのです。

今回は、アスナロは、広島の気候に向かないのではないかと判断し、樹木を変更することになり関係者とも相談し「兼六園菊桜」が選ばれて植樹されました。

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アスナロが植わっていた場所は、がれき(瓦など)が多く土が悪いことや周囲の樹木の根が張りすぎていることなどから、今回の植樹場所は少し南によった中心部の車道のすぐそばが選ばれました。

植え替え業者の話では、昨年秋に石川県の造園業者が広島に来られたとき相談し、3種類ぐらいの木を選び、その中から広島の別の場所で育っている「兼六園菊桜」ならきちんと育つだろうと選ばれたそうです。

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「兼六園菊桜」の原木は、石川県金沢市・兼六園にあり国指定天然記念物されていましたが、1970年に残念ながら枯れ死してしましました。現在は、接木増殖したものが公園内に植えられ入園者を楽しませているようですので、石川県の木として相応しい木だと思います。花は八重ですので、4月の中旬頃に咲くようです。今回植樹された木は、栃木県の造園業者から取り寄せられたもので10年ぐらいの成木ですが、つぼみはあまり付いていませんので、今年は花は期待できないということでした。

1時間ほどで1本目の植樹が終わり、2本目の沖縄県のカンヒザクラ(寒緋桜)の植樹です。数年前から、幹に腐植ができたため樹勢が弱まり、昨年秋に枯れ死したようです。こちらは以前に植わっていた木と同じも種類の木です。

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この木は、熊本県の造園業者から取り寄せたもので、7~8年育った木です。

花は、しっかりと色づく濃いピンク色で、ソメイヨシノなどとは違いうつむきがちに咲く桜です。こちらの木には、つぼみがしっかり付木、少し膨らんでいるように見えます。

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業者の話では、「今後の気候にもよりますが、3月中旬には咲くと思います」とのことでした。楽しみです。

全ての作業が終わったのは、午前11時前でした。

今回の植栽に立ち会ったいくつが気づいたことがあります。

一つは、植栽のための一月前から、植栽位置の周囲2メートル以上を掘り起こし、新しい土の入れ替え、栄養剤の補給が行なわれたことです。比較的土の状態がよいと思われる沖縄の木の植樹場所の地下からも瓦片がでています。

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二つは、植えた木を保護するための柵が作られています。低木だった北海道のライラックを植栽するとき、「保護柵をつくって保護して欲しい」と広島市にお願いしたことがありますが、今回はいずれも3~4メートルの成木でしたが、両方とも柵で保護されました。

広島市の姿勢が、「被爆者の森」をきちんと保護しようという前向きの方向に進んでいると評価できます。それ以上に、それを支える業者の努力が大きいということを丁寧な説明を聞きながら実感しました。

いのちとうとし

<追伸>今日は、ビキニデーです。原水禁国民会議が、静岡で「3.1ビキニデー」の集会と明日は、焼津で「久保山愛吉さんの墓前祭」を開催しますので、70年周年の節目ですので、久しぶりに参加するため、静岡に行きます。

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