「広島県立広島第一高等女学校の門柱」余話
昨日、「広島県立広島第一高等女学校の門柱」の歴史を書きながら、気になることがありました。
「門柱の歴史」の一行目に書かれていた「1877(明治10)年1月 広島英語学校の門柱として設置され、その後広島県中学校(現国泰寺高校),広島師範学校(現広島大学)の門柱として引き継がれる」に書かれた「広島英語学校」です。
ネットで検索する「寺田芳德『広島英語学校と宇和島』」がヒットしました。そこには、「広島英語学校」創立の歴史が次のように書かれています。
「広島英語学校は初め広島外国語学校と称し,明治7年(1874)3月29日設置,同年 6.月15日開校された。前節で述べたとおり,明治6年5月設置の東京,大阪,長崎外国語学校につゞいて愛知,新潟,宮城とともに設立された全国7つの外国語学校の一つであった。」さらに「文部省は明治10年(1877)2月14日,広島英語学校を愛知・長崎・新潟・宮城の各校とともに廃止して、これを広島県に委譲するに至るわけである。」 と創立の経緯が記されています。他の4県で廃止されたのに、なぜ広島だけ残ったのか?と思いますが、「当時の校長の識見と手腕が大きかった」ことが、この論文の別のところに書かれています。
ここに記された明治10年が、「門柱の歴史」に記載されていた「1977(明治10)年」に符合しますが、少し疑問に思うのは、「門柱の歴史」では、「1月」となっているのですが、「広島英語学校と宇和島」では、「2月14日」となっており、この関係はどうなのかは不明です。
広島第一高等女学校の4本の門柱(「皆実友朋会アーカイブズ」より)
次に気になったのは、「門柱の歴史」の「その後広島県中学校(現国泰寺高校)」という記述です。そこで国泰寺高校のホームページを検索したところ、「学校沿革史」を見つけることができました。ここでかなりの謎が解けました。
明7(1874) 6 官立広島外国語学校として大手町1丁目に開校。生徒120名募集、修業年限6年 12 広島英語学校と改称 明10(1877) 2 官立広島英語学校を広島県に移管。広島県中学校と称す。これを本校の創立とする。 7 下中町の新校舎に移る。 11 校舎落成。 明12(1879) 9 広島県中学校と改称。 明24(1891) 3 本校校舎現在地(当時国泰寺村)に落成移転。 |
ただ、国泰寺高校の沿革史をよく見ると、「門柱の歴史」の「1877(明治10)年1月」に疑問が出てきます。広島英語学校が、下中町の新校舎に移ったのは、「1877(明治10)年7月」さらに校舎が落成したのは、同年10月となっていますから、門柱が建てられたのは、7月以降となるのではないかと思います。そして、校舎の移転とともに1891(明24)3月には、現在の国泰寺高校の敷地に門柱も移転したと想像できます。
こうして調べると、さらに疑問が広がります。それは「広島師範学校(現広島大学)の門柱として引き継がれる」の歴史です。広島師範学校が開校したのは、広島県立広島第一高等女学校の前身である広島県立高等女学校が開校した同じ年の1902(明治35)年ですから、広島師範学校の門柱として引き継がれ、広島県立高等女学校に移設されることはあり得ないはずです。
そして最大の疑問は、「広島県中学校(現国泰寺高校)」の門柱が、なぜ県立高等女学校の門柱になったのかです。国泰寺高校の沿革史では、前年の1901(明治34)年6月に学校の名前が「広島県立広島中学校」が改称されてはいますが、「校舎が改修された」などの特別の記述はありません。
やはり不思議な気がします。
古い歴史を確定するのは、なかなか難しいことだとあらためて実感しました。
いのちとうとし
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