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2024年2月27日 (火)

広島県立広島第一高等女学校の門柱

今日は、平和大通りの「広島第一県女原爆犠牲者追憶の碑」のモニュメントの一つとして立つ門柱の話しです。

広島第一県女の同窓会「皆実友朋会」のアーカイブの報告書のことが知りたくて県立皆実高等学校の一角にある同窓会事務所を訪ねました。譲っていただいた「アーカイブ報告書」については日を改めて報告しますが、この時「この学校には、第一県女時代被爆したものは移設されていませんか」と尋ねたところ、「正門を入って右側にある学校庭園『憩の森』に3本門柱が立っていますよ」と教えていただきました。

同窓会事務所からの帰り「憩の森」で門柱を探すと、公園の入り口と思われるところ2本建っています。

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右側の1本は、ずいぶん短くなっています。そして少し離れたところに1本建っています。

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「皆実友朋アーカイブス」には、この門柱を「コケシ型石柱碑」と紹介した後「百十余年もの歴史ある3本の県女の門柱は、1本に最上部の欠落、1本に下部の欠損が、残る1本に表面の斑状剥離があるものの・・・」と書かれています。

第一県女にあった4本の門柱のうち、一番被害が少なかった門柱が「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」のモニュメントとして移設されたことがわかります。広島皆実高校からの帰り道「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」を訪れました。

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上の写真、よく見ると門柱の左下に小さな石碑があります。

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この石碑には、次のように書かれています。「この位置は、旧広島第一縣女の正門付近に当たり、この石柱は原爆当時の門柱4本の一つである」

何度も読んだはずですが、「後の3本の行方を気にしたことがなかったな」と思いました。

ところで広島皆実高校の「憩の森」に建つ門柱には、第一県女時代の4本の柱が立つ写真とともに「門柱の歴史」を刻んだ銅板が設置されています。

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そこのは、この門柱の「百十余年もの歴史」といわれる歴史が書かれています。

「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」には、この歴史は紹介されていませんので、全文を紹介します。


門柱の歴史

1877(明治10)年1月 広島英語学校の門柱として設置され、その後広島県中学校(現国泰寺高校),広島師範学校(現広島大学)の門柱として引き継がれる

1902(明治35)年4月 本校の前身である広島県立高等女学校が広島市下中町(現百米道路の白神社東方付近)に開校され、その門柱として引き継がれる。

1941(昭和16)年 改称された広島県立広島第一高等女学校に引き継がれる。

1945(昭和20)年86日 原爆投下により一瞬にして校舎や施設を失い門柱も被爆、生徒教師297名の犠牲者を出す

1946(昭和21)年 広島県立第一高等女学校が出汐町に移る

1948(昭和23)年 学制改革によって,広島県広島友朋高等学校となった本校に引き継がれる

1949(昭和24)年 再編成によって、広島県広島皆実高等学校となった本校に引き継がれる

1955(昭和30)年 旧広島県立広島第一高等女学校跡(現百米道路の白神神社東方付近)に「追憶の碑」が建立され、4本のうち1本が移設される

1968(昭和43)年 改称された広島県立広島皆実高等学校に引き継がれる

1991(平成3)年1016

贈創立90周年記念

皆実友朋会

いのちとうとし

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