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2024年2月22日 (木)

被爆者桑原千代子さんの死

「桑原千代子さんの通夜が今夜午後6時から、葬儀は明日午前10時からです」と教えてもらい、19日の葬儀に参列しました。

被爆者桑原千代子さんは、2月16日92才の天寿を全うし生涯を閉じられました。

式場には、生前の写真が何枚か飾られていましたが、私の目を引いたのは、被爆73周年原水爆禁止成果大会広島大会の開会総会で,被爆体験を語る桑原さんの写真と新聞の切り抜きでした。

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私もよく知っている次女の琴さんの話では、「これが母の最後の被爆証言になりましたので、大切にしていました」とのことでした。

1945年、当時第三国民学校(現在の翠町中学校)高等科2年生だった桑原さんは、8月5日まで学徒動員で、専売局(現在の日本たばこ)のたばこ工場(現在の「ゆめタウン広島」)で働いていましたが、たまたま原爆が投下された8月6日と7日は、雑魚場町での建物疎開に参加することになり、当時13才、爆心地からは800メートルで被爆しました。

原水禁世界大会での桑原さんの被爆証言の様子は、ブログ「ヒロシマの心を世界に」https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/1-c1b9.htmlに記載されています。桑原さんは、大会での証言を次の言葉で締めくくっています。「どんなことがあっても戦争や核はあってはならない。多くの犠牲の上にある今の平和を大切にしたい。そのため、証言活動を続けていく」「平和は自分の手でつかみ取り、作り上げるもの。自分ができる平和への努力をやって下さい」

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13才で被爆した桑原さん。9月になると櫛で梳かすたびに髪が抜け、堅田に斑点が浮かび、歯を磨くと出血し、高熱が出て3ヶ月間の入院生活。1950年専売局にで働くことになったのが、学徒動員で働いたことのある広島たばこ工場だったのに、不思議な縁を感じます。

ここで、労働運動に参加することになったのが、その後の桑原さんに大きな影響を与えることになります。それは、桑原知巳さんとの出会い,そして結婚です。

私が、桑原千代子さんと出会ったのも桑原知巳さんを通じてですが、明るい人だったことが今も強く印象に残っています。50年ほど前のことですが、その後もずっと交流を持ってきました。

持病の糖尿病が悪化したばこ工場を早期に退職した桑原さんは、夫である桑原知巳さんの励ましもあり、被爆証言者としての活動を始めます。

私にとっての桑原さんとの思い出の一つに、一緒に参加した1987年にニューヨークで開催された第1回核被害者世界大会があります。桑原さんは、この大会参加後の感想を次のように述べています。「婦人の参加者も多かったこの大会で、言葉の弊害を乗り越え、子どもを持つ母親として、なにものにも汚されない地球を、平和で豊かな社会を子どもたちに残していくために、共にがんばっていくことを誓い合うことができたのは、何よりもうれしいことでした。」

一生懸命に証言活動を続けてきた桑原さんへの家族の思いが、葬儀で配布された「追憶のしおり」には、次のように書かれています。

「原爆に遭った母が祈り続けた平和な世界。それまで触れることのなかった自身の辛い体験を,二人の娘を出産後、『子どもたちの未来を守らなければならない』との強い思いが芽生えた母は、やがて戦争の語り部となりました。以来、母は修学旅行や平和学習などで広島を訪れる皆さんに当時の様子を伝え続けたのです。」さらにこうも綴られています。「父と共働きだった母ですが、持病で退職した後は、療養に努めつつ、平和運動に力を尽くす日々。家族でヨーロッパを訪ねた折、チップの折り鶴を添えて渡した母に感激したホテルのスタッフが、お礼にと花束をプレゼントしてくれたことがありました。振り返れば、長く病を抱えながらも明るく笑顔を絶やさず、平和を目指して歩みを進めてがんばった母・・・今はただ、安らかにと祈るばかりです。」

この文章の最初には「母が撒いた平和の種をこれからも大切に育てていきます」とタイトルが付けられています。

また大切な被爆証言者がいなくなったと寂寥感を覚える桑原千代子さんの死でしたが、桑原さんの思いは、二人の娘さんにしっかりとつながっているのを感ずることのできたお見送りでした。

いのちとうとし

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コメント

40年程前、小学校の修学旅行で広島へ行き、語り部の桑原さんのお話を伺いました。
その御縁で、それからずっと年賀状のやり取りが続き、そして大人になって広島へ行った際、20年近い年月を経て桑原さんと再会しました。
それからもずっと年賀状は届いていたのですが、ここ数年はやり取りが途絶えておりました。
そして今日、何故かふと桑原さんの事が頭をよぎり、ネット検索しても何も情報が出てこないかもと思いつつ、初めてお名前で検索をいたしました。
そしてこちらの記事に辿り着き、愕然としました。
お亡くなりになった事に大変ショックを受けましたが、それが今月の事で、記事が2日前にアップされたものだったという事。
昨日の葬儀を終えられ、桑原さんがお知らせして下さったとしか思えず、本当に驚きました。
こちらの記事のお陰で桑原さんがお亡くなりになった事を知る事が出来ました。
本当にありがとうございました。

さらさん

コメントありがとうございます。
そうですか。長いお付き合いだったのですね。
不思議なことがあるのですね。偶然とは言え、何か知らせるものがあったのでしょうね。
ブログには書きませんでしたが、戒名の最初に「明生」と付けられていました。「明るく正しく」とは、桑原さんらしい戒名だと思いました。
これからも桑原さんの思いをつないでいきたいと思います。

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