「広島ブログ」

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2024年2月

2024年2月29日 (木)

2024年2月のブルーベリー農園その4

2月は3連休が2回あった。23日から25日までの3連休はいつも午後から農作業が始まるのでどうにか雨に邪魔されずにブルーベリーの剪定が行えた。雨雲レーダーを見ながら、小雨が来そうな雲があっても東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から行ってみると降らなかったりするので、晩冬から初春にかけては豪雨は来ないこともあり、とりあえず農園に行くことにしている。2月に入って撮影用のカメラが壊れたので買い換えた(中古)。それに伴い記録画素数も30万画素から200万画素に変えたので少し鮮明度が増したようだ。

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2月23日(金)

里山のブルーベリーの剪定が終わったのでこの日から3段ある畑のブルーベリーの剪定に取り掛かる。どこから始めるか? 昨年は上の段から始めたので今年は一番下の段からスタートすることにした。

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防草シートを少し動かすとシートの下にはもごもごと白い草の根が伸びている。土の中や上ではもう根が活動している。

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2月24日(土)

いい天気。ブルーベリー畑で切った枝をすこしづつ野焼きする。

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あちこちでカマキリの作った巣がある。害虫を食べてくれるのでこのままにしておく。ついた枝をカットしたときは近くの枝にくくり付けておく。

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2月25日(日)

今日の農作業は一人。作業の合間に周囲を見回る。

①荒おこしをした田んぼに草の緑がうっすら広がる。

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②ナノハナも咲き始めた。

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③小さな畑のウメの花は数を増して咲いている。今年は梅の実がとれそう。

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④朝方まで雨が降っていたので、午後の気温の上昇で田んぼの草むらから湯気がのぼる。

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3日間で切ったブルーベリーの枝。しばらく置いてから野焼きして処分する。

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その際挿し木に使える枝を品種別により分けて保管して安芸の郷に持ち帰る。

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2月27日(火)

安芸の郷の温室で農園で切って来たブルーベリーの穂木を13㎝位の長さに切って冷蔵庫に保管する作業を行った。高さ13㎝位に切ったペットボトルの中に穂木を置いて機械的にカットしていく。20本くくりで輪ゴムをまく。3月に入るとブルーベリーの苗木を作るために挿し木を始める。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年2月28日 (水)

「広島県立広島第一高等女学校の門柱」余話

昨日、「広島県立広島第一高等女学校の門柱」の歴史を書きながら、気になることがありました。

「門柱の歴史」の一行目に書かれていた「1877(明治10)年1月 広島英語学校の門柱として設置され、その後広島県中学校(現国泰寺高校),広島師範学校(現広島大学)の門柱として引き継がれる」に書かれた「広島英語学校」です。

ネットで検索する「寺田芳德『広島英語学校と宇和島』」がヒットしました。そこには、「広島英語学校」創立の歴史が次のように書かれています。

「広島英語学校は初め広島外国語学校と称し,明治7(1874)329日設置,同年 6.15日開校された。前節で述べたとおり,明治65月設置の東京,大阪,長崎外国語学校につゞいて愛知,新潟,宮城とともに設立された全国7つの外国語学校の一つであった。」さらに「文部省は明治10(1877)214,広島英語学校を愛知・長崎・新潟・宮城の各校とともに廃止して、これを広島県に委譲するに至るわけである。」 と創立の経緯が記されています。他の4県で廃止されたのに、なぜ広島だけ残ったのか?と思いますが、「当時の校長の識見と手腕が大きかった」ことが、この論文の別のところに書かれています。

ここに記された明治10年が、「門柱の歴史」に記載されていた「1977(明治10)年」に符合しますが、少し疑問に思うのは、「門柱の歴史」では、「1月」となっているのですが、「広島英語学校と宇和島」では、「214日」となっており、この関係はどうなのかは不明です。

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広島第一高等女学校の4本の門柱(「皆実友朋会アーカイブズ」より)

次に気になったのは、「門柱の歴史」の「その後広島県中学校(現国泰寺高校)」という記述です。そこで国泰寺高校のホームページを検索したところ、「学校沿革史」を見つけることができました。ここでかなりの謎が解けました。

71874) 6 官立広島外国語学校として大手町1丁目に開校。生徒120名募集、修業年限6

       12 広島英語学校と改称

101877) 2 官立広島英語学校を広島県に移管。広島県中学校と称す。これを本校の創立とする。

       7 下中町の新校舎に移る。

      11 校舎落成。

121879) 9 広島県中学校と改称。

241891) 3 本校校舎現在地(当時国泰寺村)に落成移転。

ただ、国泰寺高校の沿革史をよく見ると、「門柱の歴史」の「1877(明治10)年1月」に疑問が出てきます。広島英語学校が、下中町の新校舎に移ったのは、「1877(明治10)年7月」さらに校舎が落成したのは、同年10月となっていますから、門柱が建てられたのは、7月以降となるのではないかと思います。そして、校舎の移転とともに1891(明243月には、現在の国泰寺高校の敷地に門柱も移転したと想像できます。

こうして調べると、さらに疑問が広がります。それは「広島師範学校(現広島大学)の門柱として引き継がれる」の歴史です。広島師範学校が開校したのは、広島県立広島第一高等女学校の前身である広島県立高等女学校が開校した同じ年の1902(明治35)年ですから、広島師範学校の門柱として引き継がれ、広島県立高等女学校に移設されることはあり得ないはずです。

そして最大の疑問は、「広島県中学校(現国泰寺高校)」の門柱が、なぜ県立高等女学校の門柱になったのかです。国泰寺高校の沿革史では、前年の1901(明治34)年6月に学校の名前が「広島県立広島中学校」が改称されてはいますが、「校舎が改修された」などの特別の記述はありません。

やはり不思議な気がします。

古い歴史を確定するのは、なかなか難しいことだとあらためて実感しました。

いのちとうとし

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2024年2月27日 (火)

広島県立広島第一高等女学校の門柱

今日は、平和大通りの「広島第一県女原爆犠牲者追憶の碑」のモニュメントの一つとして立つ門柱の話しです。

広島第一県女の同窓会「皆実友朋会」のアーカイブの報告書のことが知りたくて県立皆実高等学校の一角にある同窓会事務所を訪ねました。譲っていただいた「アーカイブ報告書」については日を改めて報告しますが、この時「この学校には、第一県女時代被爆したものは移設されていませんか」と尋ねたところ、「正門を入って右側にある学校庭園『憩の森』に3本門柱が立っていますよ」と教えていただきました。

同窓会事務所からの帰り「憩の森」で門柱を探すと、公園の入り口と思われるところ2本建っています。

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右側の1本は、ずいぶん短くなっています。そして少し離れたところに1本建っています。

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「皆実友朋アーカイブス」には、この門柱を「コケシ型石柱碑」と紹介した後「百十余年もの歴史ある3本の県女の門柱は、1本に最上部の欠落、1本に下部の欠損が、残る1本に表面の斑状剥離があるものの・・・」と書かれています。

第一県女にあった4本の門柱のうち、一番被害が少なかった門柱が「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」のモニュメントとして移設されたことがわかります。広島皆実高校からの帰り道「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」を訪れました。

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上の写真、よく見ると門柱の左下に小さな石碑があります。

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この石碑には、次のように書かれています。「この位置は、旧広島第一縣女の正門付近に当たり、この石柱は原爆当時の門柱4本の一つである」

何度も読んだはずですが、「後の3本の行方を気にしたことがなかったな」と思いました。

ところで広島皆実高校の「憩の森」に建つ門柱には、第一県女時代の4本の柱が立つ写真とともに「門柱の歴史」を刻んだ銅板が設置されています。

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そこのは、この門柱の「百十余年もの歴史」といわれる歴史が書かれています。

「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」には、この歴史は紹介されていませんので、全文を紹介します。


門柱の歴史

1877(明治10)年1月 広島英語学校の門柱として設置され、その後広島県中学校(現国泰寺高校),広島師範学校(現広島大学)の門柱として引き継がれる

1902(明治35)年4月 本校の前身である広島県立高等女学校が広島市下中町(現百米道路の白神社東方付近)に開校され、その門柱として引き継がれる。

1941(昭和16)年 改称された広島県立広島第一高等女学校に引き継がれる。

1945(昭和20)年86日 原爆投下により一瞬にして校舎や施設を失い門柱も被爆、生徒教師297名の犠牲者を出す

1946(昭和21)年 広島県立第一高等女学校が出汐町に移る

1948(昭和23)年 学制改革によって,広島県広島友朋高等学校となった本校に引き継がれる

1949(昭和24)年 再編成によって、広島県広島皆実高等学校となった本校に引き継がれる

1955(昭和30)年 旧広島県立広島第一高等女学校跡(現百米道路の白神神社東方付近)に「追憶の碑」が建立され、4本のうち1本が移設される

1968(昭和43)年 改称された広島県立広島皆実高等学校に引き継がれる

1991(平成3)年1016

贈創立90周年記念

皆実友朋会

いのちとうとし

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2024年2月26日 (月)

見学の早期再開が望まれる中国軍管区司令部跡旧防空作戦室

一昨日のブログ「被爆建物国史跡指定と広島原爆遺跡調査報告書」で、市内6つの被爆建物が、国史跡に指定されたことを紹介しました。

6つの被爆建物のうち、5つの建物は現在見学が可能ですが、中国軍管区司令部跡旧防空作戦室のみ、外からは見ることができますが、内部の見学はできません。

広島原爆遺跡調査報告書によれば、「1993年から平和学習を目的とした場合に限って内部への立ち入りが許可し、2011年度から2016年度は、中央公園の指定管理者である(公財)広島市みどり生きもの協会が、同協会のホームページで見学について紹介し、同協会で受付を行なった上で内部の見学を認めてきた。(年度別見学者数は概ね8,000人~11,000人)。・・・しかし、2017年4月より、施設の老朽化によるコンクリートの剥離等が進行しておし、今後、降雨による施設への浸水によりさらなる剥離の危険性が増すことが予測されるため、施設内部への立ち入りを禁止している。」と、2017年より見学が不可能となったことが記されています。

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この記述を読んで気づいたのは、年度別の見学者数の多さです。他の被爆建物(希望すれば自由に見学できる)と違って、(公財)広島市みどり生きもの協会で受付の手続きを経なければ内部見学が不可能であるにもかかわらず、年間に1万人前後、一日平均30人ぐらいの人たちの見学希望があったということです。

被爆直後「広島が新型爆弾にやられて全滅状態です」との第一報が、動員された比治山高等女学校の女子勤労隊員2名によって発せられた場所を見学したいという希望者が多いことを表しています。

確かに危険性のある建物内部の見学を現状では許可することは難しいと思いますが、国史跡指定を機に、修理補修をして見学を再開してほしいと思い、市役所に行ってきました。

最初にこの調査報告書を作成して文化振興課を訪ねたのですが、「施設の管理などは、緑政課が行なっていますので、そちらに聞いていただけませんか」との答えでしたので、次に緑政課を訪ねました。

「修復は、これまでもを検討してきたのですが、財政的なこともあり、具体的にはなっていません。」とのことでしたので「今回国の史跡に指定されたので、修理補修のための財政負担について国が二分の一補助することになるので、ぜひ保存・活用の推進ためにも早急に対策を講じて見学できるようにして欲しいのですが」と要望したところ「まだ史跡指定されたばかりですので、きちんとした回答はできませんが、今後あらためて修復などの対策について検討することになると思います」とのことでした。

早急に修復計画を策定し、見学が再開できるよう今後も働きかけを強めたいと思います。

いのちとうとし

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2024年2月25日 (日)

能登地震の教訓は島根原発の「再稼働」を止めること

島根原発の南側、約2kmのところを東西に走る宍道(しんじ)断層という活断層があります。この活断層、島根原発が建設された当初、中国電力は「無い」というのが言い分でした。

 それが1998年に8kmとなり、2004年に10km、2008年には22km、そして地震調査委員会は39kmと評価し、この値に基づいて原子力規制委員会は島根原発2号機の再稼働を許可しました。

活断層の長さが変更されれば、それに対応する基準地震動を算定して原発の安全対策を講じなければなりません。安全対策を実施すれば、当然ですが費用も増えてきます。

 中電の島根原子力本部 広報部が発行している2017年秋号の「あなたとともに」という情報紙の「QAコーナー」には、次のように書いています。

Q、何度も評価長さを見直すのはなぜですか?

A、原子力発電所の安全性を向上させるためには、その時々の最新の知見に基づき、慎重に評価する必要があると考えています。評価結果については、過去の見直しの際にも、その都度国による確認を受けており、今後も、審査会合等で説明してまいります。

Q、評価長さを見直すことで発電所にはどのような影響があるのですか?

A、評価長さを延長すると、基準地震動は引き上げの方向で見直すことになります。しかしながら、今回は発電所から比較的遠い箇所を延長するものであり、引き上げの程度は小幅になるものと考えていますが、詳細は今後検討してまいります。

Q、宍道断層が近隣の断層と連動することはありませんか?

A、宍道断層に近い活断層として、鳥取沖の断層があります。宍道断層の東端から鳥取沖西部断層の西端までの区間の音波探査の結果、上載地層法により後期更新世以降の断層活動が認められない(活断層がない)ことを確認していること等から、連動することはないものと考えており、今後審査会合で説明してまいります。

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最終調査前の周辺の断層

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調査後の宍道断層の長さ

 しかし宍道断層の東端から、鳥取県西部断層の西端の間は6kmで非常に近いのです。

この地方は、以前から大地震が多く起こっている地域です。1943年には、マグニチュード(Ⅿ)7・2の直下型地震が起こり、死者・行方不明者1210人、全壊家屋1万3295棟という甚大な被害が発生したと、鳥取県震災小誌に記されています。

2000年10月6日に発生した鳥取県西部地震では、米子市などで大きな被害が起こり、また2016年10月21日には鳥取県中部地震が起こり、震度6を記録しました。「連動することはない」と言い切ってよいのでしょうか。

 鳥取県地震防災調査研究委員会(委員長・香川敬生鳥取大大学院教授)は2月3日、鳥取県庁で研究会を開き、宍道断層の長さが22kmから39kmになったことによる被害予測を公表しました。そうなった場合、米子市と境港市で最大5千棟が全壊・焼失するとの予測を示しています。22kmだったら約1千4百棟ですから、3倍以上の危険性が増えるとされています。被害額も22kmの時に比べ、5761億円増えて7738億円に拡大するとしています。

 この度の能登地域の地震では、16時6分には前震とみられる最大震度5強が起こり、その4分後の16時10分に最大震度7の本震が、そして16時18分には同じく震度5強の余震も起こっているのです。

多数の余震は長さ150km、幅30kmほどの範囲で起きているのです。本震の時の最大加速度は2828ガルを記録しています。それも地震の震央の近くではなく、震央から約60km南西に遠く離れた志賀町の地震計が記録したのです。

 この事実を、中電はもっと謙虚に受け止めることだと思います。島根原発で想定されている基準地震動の最大加速度は820ガルです。

 今号のブログは数字が多く、分かりにくい部分もあったかと思いますが、能登地震の教訓は、今年8月に計画している島根原発2号機の再稼働は思い留まることです。「再稼働」を許可した原子力規制委員会は、中国電力に対し「再稼働は中止するよう」に云いわたすことだと思うのですが。

木原省治

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2024年2月24日 (土)

被爆建物国史跡指定と広島原爆遺跡調査報告書

先日、予約していた本を受け取りに中区図書館に行ったとき、あれっと思う本が目に入りました。

昨年9月に広島市が発行した「広島原爆遺跡調査報告書」です。すぐに手に取り、パラパラと中をめくってみました。写真や図面が多数配された興味深い内容です。貸し出しが可能のようですので、予約した本と一緒に借りることにしました。

この報告書は、2020年度と2021年度に実施した「広島原爆遺跡調査業務」に基づき編集されたものです。

「第1章広島原爆遺跡とその調査」では、「原爆遺跡とは」として「広島原爆遺跡は、広島に投下された原子爆弾を受けた建造物や被爆樹木等で現存するもの、又はその一部や被爆した遺物が、ほぼ被爆時と同じ位置に残されているものあと、本報告書において定義する。」とし、「2023年度3月31日現在広島市が登録しているものは次の通りである。〇被爆建物:86件(棟数ではない)、うち非木造30件、木造56件 〇被爆橋梁:6橋:京橋(京橋川)栄橋(同)比治山橋(同),猿猴橋(猿候川),荒神橋(同),観光橋(八幡川)〇被爆樹木:160本」と記されています。

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その後に被爆建物のリストが,掲載されています。

調査の目的として「広島原爆遺跡の概要を把握・確認し,その中から具体の物件を抽出し、それらが有する歴史上及び学術上の価値を明らかにして、文化財指定の検討に資する基礎資料を作成することを目的とする」としており、今回の調査対象(被爆建物)の条件を「爆心地から2キロ以内、被爆の痕跡が顕著。被爆当時の姿を比較的良好に残している。被爆当時の位置に残っている。公開等による活用の可能性が高い。調査に所有者の同意が得られる。」とし、「・平和記念公園レストハウス(広島市所有)・旧日本銀行広島支店(日本銀行所有:広島市へ無償貸与)・本川小学校平和資料館(広島市所有)・袋町小学校平和資料館(広島市所有)・中国軍管区司令部跡(旧防空作戦室)(財務省所有:管理団体広島市)・多門院鐘楼(多門院所有)」の6つの調査が行なわれています。

調査報告では、建物ごとに「①建物の概要②歴史③被害の状況④被爆前後の利用状況⑤現況及び被爆痕跡などの調査」の5項目にわたって報告され,最後に「小括」として「確認できた事項について特徴や価値の面を中心に要点を整理」してそれぞれ数点にわたって評価が記されています。

特に興味を持つのは、今は見学ができない「中国軍管区司令部跡(旧防空作戦室)」です。

小括では次のように述べています。

「●被爆直後に被害を発信した場所である建物(略)●現存する防空作戦室跡として希少な建物(略)●軍事拠点中枢部に残る軍関係の建物―史跡広島城趾の史跡指定地内に位置し、大本営跡等とともに,明治以降の広島城跡における軍関係の役割・機能やその変遷を伝える数少ない遺構であり、軍都広島や戦時下の防衛体制をうかがい知ることのできる建物である。」

調査対象物としてはただ一つの木造建造物多門院の小括では、「爆心地から最も近くに位置する木造の被爆建物」とし「被爆当日、火災は多門院等にも押し寄せていたが、呉海軍鎮守府の救援隊によって食い止められた。全壊全焼地域は、多門院の西側で止まることとなった。」と記されています。この部分は、初めて知る事実です。

この報告書の最後は、「広島原爆遺跡の保存・活用に向けた課題」として「広島原爆遺跡をより多くの人々に知ってもらい、関心を高めることは、広島原爆遺跡への理解を広げ、その保存・活用の推進力につながるものと考えられる。」と結んでいます。

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 NHK広島2月21日夕方ニュース

とここまで書いたところで、この6つの被爆建物が国史跡に指定されたニュースが入ってきました。

この報告書を手にしたとき「なぜこの6つだろう」と思ったのですが、このニュースを聞いて納得です。ここで紹介したように確かに調査目的には「文化財指定の検討に資する基礎資料を作成することを目的とする」と明記されています。

この調査は、国史跡指定のためだったかも知れませんが、内容のあるよい調査報告ですので、できるだけ多くの人に読んでほしいと思いますし、被爆建物めぐりの際に活用したいと思います。

できれば、他の原爆遺跡も調査してほしいものです。

いのちとうとし

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2024年2月23日 (金)

2024年月のブルーベリー農園その3

東広島市豊栄町にあるブルーベリー農園の栽培と維持管理のため週末を利用して安芸区の自宅から約1時間かけて通っている。豊栄町は広島県のほぼ真ん中に位置しており、途中瀬野、八本松、造賀、福富をじりじりを車で上がっていくと標高350mくらいの盆地にたどり着く。それが豊栄の町で、ブルーベリー農園の里山になると標高は400mにちょっと足りない高さになる。温暖差があるのでおいしいブルーベリーが生産できる、と思っている。収穫した実は主に安芸の郷に納品し続けている。今の時期は1キロ単位で冷凍ブルーベリーをインターネット、事業所内で販売している。今の時期はブルーベリーの枝の剪定で寒い冬がほぼ終わり春が近いと実感しながら農園に通っている。

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2月17日(土)

12時半ころのブルーベリーの様子。すっかり陽光が明るくなって雲一つない空のもと作業しやすい気候になった。右の山が板鍋山で無線中継所がある。

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里山の雑木林も明るい陽射しが射していて見ていて気持ちのいい景色になっている。

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里山から畑に行く里道から

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里山東側のブルーベリー園から

どの景色も農作業の合間の伐採などの人の手と自然の合作。

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小さな畑の上の法面にスイセンの蕾が出てきた。来週来た時には開花していそう。

 

同じ場所で、オオイヌノフグリや(18日)

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タンポポや(17日)

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梅の木にも花が開花している。(18日)

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2月18日(日)

暖かいせいかブルーベリーの明るいえんじ色の枝の群生は、単純な繰り返しのブルーベリーの剪定作業を気負いなく進められる気にさせてくれる。

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農園のブルーベリー園は田んぼからの転作の畑と松くい虫被害で伐採した里山の2か所に分かれていて、この日の作業場所の里山の東側のブルーベリーの剪定は終了した。次は畑に移ることになる。農園全体の5分の2が終わったことになる。

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剪定作業終了後片づけながら西側のブルーベリー園に夕暮れの光がさすのを眺める。春からの一斉の芽吹き、白い花の開花、ミツバチの到来などの景色が見えるよう。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年2月22日 (木)

被爆者桑原千代子さんの死

「桑原千代子さんの通夜が今夜午後6時から、葬儀は明日午前10時からです」と教えてもらい、19日の葬儀に参列しました。

被爆者桑原千代子さんは、2月16日92才の天寿を全うし生涯を閉じられました。

式場には、生前の写真が何枚か飾られていましたが、私の目を引いたのは、被爆73周年原水爆禁止成果大会広島大会の開会総会で,被爆体験を語る桑原さんの写真と新聞の切り抜きでした。

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私もよく知っている次女の琴さんの話では、「これが母の最後の被爆証言になりましたので、大切にしていました」とのことでした。

1945年、当時第三国民学校(現在の翠町中学校)高等科2年生だった桑原さんは、8月5日まで学徒動員で、専売局(現在の日本たばこ)のたばこ工場(現在の「ゆめタウン広島」)で働いていましたが、たまたま原爆が投下された8月6日と7日は、雑魚場町での建物疎開に参加することになり、当時13才、爆心地からは800メートルで被爆しました。

原水禁世界大会での桑原さんの被爆証言の様子は、ブログ「ヒロシマの心を世界に」https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/1-c1b9.htmlに記載されています。桑原さんは、大会での証言を次の言葉で締めくくっています。「どんなことがあっても戦争や核はあってはならない。多くの犠牲の上にある今の平和を大切にしたい。そのため、証言活動を続けていく」「平和は自分の手でつかみ取り、作り上げるもの。自分ができる平和への努力をやって下さい」

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13才で被爆した桑原さん。9月になると櫛で梳かすたびに髪が抜け、堅田に斑点が浮かび、歯を磨くと出血し、高熱が出て3ヶ月間の入院生活。1950年専売局にで働くことになったのが、学徒動員で働いたことのある広島たばこ工場だったのに、不思議な縁を感じます。

ここで、労働運動に参加することになったのが、その後の桑原さんに大きな影響を与えることになります。それは、桑原知巳さんとの出会い,そして結婚です。

私が、桑原千代子さんと出会ったのも桑原知巳さんを通じてですが、明るい人だったことが今も強く印象に残っています。50年ほど前のことですが、その後もずっと交流を持ってきました。

持病の糖尿病が悪化したばこ工場を早期に退職した桑原さんは、夫である桑原知巳さんの励ましもあり、被爆証言者としての活動を始めます。

私にとっての桑原さんとの思い出の一つに、一緒に参加した1987年にニューヨークで開催された第1回核被害者世界大会があります。桑原さんは、この大会参加後の感想を次のように述べています。「婦人の参加者も多かったこの大会で、言葉の弊害を乗り越え、子どもを持つ母親として、なにものにも汚されない地球を、平和で豊かな社会を子どもたちに残していくために、共にがんばっていくことを誓い合うことができたのは、何よりもうれしいことでした。」

一生懸命に証言活動を続けてきた桑原さんへの家族の思いが、葬儀で配布された「追憶のしおり」には、次のように書かれています。

「原爆に遭った母が祈り続けた平和な世界。それまで触れることのなかった自身の辛い体験を,二人の娘を出産後、『子どもたちの未来を守らなければならない』との強い思いが芽生えた母は、やがて戦争の語り部となりました。以来、母は修学旅行や平和学習などで広島を訪れる皆さんに当時の様子を伝え続けたのです。」さらにこうも綴られています。「父と共働きだった母ですが、持病で退職した後は、療養に努めつつ、平和運動に力を尽くす日々。家族でヨーロッパを訪ねた折、チップの折り鶴を添えて渡した母に感激したホテルのスタッフが、お礼にと花束をプレゼントしてくれたことがありました。振り返れば、長く病を抱えながらも明るく笑顔を絶やさず、平和を目指して歩みを進めてがんばった母・・・今はただ、安らかにと祈るばかりです。」

この文章の最初には「母が撒いた平和の種をこれからも大切に育てていきます」とタイトルが付けられています。

また大切な被爆証言者がいなくなったと寂寥感を覚える桑原千代子さんの死でしたが、桑原さんの思いは、二人の娘さんにしっかりとつながっているのを感ずることのできたお見送りでした。

いのちとうとし

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2024年2月21日 (水)

府中地区の2月の19日行動

昨日の旧府中市は昼からひどい雨になり、代表が島根原発2号機の裁判で松江市に行って不在でもあり中止にしようと旧上下町へ行ったら、なんと小降りになりました。参加者は午後3時からの上下Aコープ前は7人、4時30分からの府中天満屋店前も7人で、リレートークとスタンディングを30分間ずつ行いました。

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上下Aコープ前

終わってからですが訴えた人からは「何を話そうか悩むことはない、言うことにこと欠かない」と言われていました。

四人が、自民党のパーティ券裏金問題を話され、「自民党には自助能力はない。裏金問題を解決する政治資金規正法の改正も出来ない自民党政治を終わらせよう。イスラエルのガザ地区住民の虐殺をやめさせよう」と話されました。②また、一人が「自衛隊の靖国神社参拝は規律違反であるのに、防衛大臣はきちんとした処分をするのではなく、規律を見直すと言っていることは、基本の文民統制になっていない」と話されました。③さらに二人が武器輸出の解禁について、「日本は先の大戦を反省して憲法に平和主義を掲げ、国際紛争を助長しないよう武器輸出を制限してきたことをご存じでしょうか。

242212

府中天満屋前

武器輸出三原則と言って57年前の1967年に当時の佐藤栄作 首相が示した。①共産圏 ②国連決議で禁止されている国③国際紛争当事国――には武器輸出を認めないというものです。さらに1976年に当時の三木武夫首相が、それ以外の国にも輸出は『慎む』との政府統一見解を示したため、事実上武器輸出は禁じられてきました。その当時、宮澤喜一外務大臣は国会答弁で『わが国は武器輸出をして金を稼ぐほど落ちぶれていない。もう少し高い理想を持った国であり続けるべきだ』と国会答弁しています。

この武器輸出の禁止を、昨年の12月に自民党と公明党は輸出できるように改悪案を作成し、政府はそのまま閣議決定してしまいました。いま地対空ミサイル・パトリオットをアメリカの企業のライセンス(許可)を得て、日本で生産することになりました。このミサイル・パトリオットはウクライナへ提供される予定です。これではロシアとウクライナの戦争をあおっていることになり停戦につながりません。

宮澤喜一外務大臣が言った『わが国は武器輸出をして金を稼ぐほど落ちぶれていない。もう少し高い理想を持った国であり続けるべきだ』と言った国会答弁に反します。

アフガニスタンで患者が減らないのは水がないからと25キロの用水路をつくって65万人を救った中村哲医師のように医者のいないところに医師を派遣したり、病院や学校を建設したりすることこそ理想を持った国ではないでしょうか。

日本が武器輸出で金を儲ける国になろうとしているのも8年前に戦争法と言われている安保法制が出来たからです。安保法制に反対する取り組みは日本を高い理想を持った国にし、世界に存在感を示すためです。私たちの取り組みにご理解ご支援をお願いいたします。」と話されました。

最後に「今日もわざわざお家から出てきて聞いてくださったり、車の中から手を振っていただきありがとうございました。安保法制がなくならない限り毎月19日にこの行動を続けます」とお礼のあいさつをして終わりました。

小川敏男

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2024年2月20日 (火)

ベトナムの歴史(その30-3) ― 日本の中の枯葉剤・Ⅰ ―

日本でもベトナムと同じ成分の枯葉剤が使われた

「枯葉剤」と聞けばベトナム戦争を連想し、すぐに“ベトちゃんドクちゃん”が浮かぶ世代は残念ながら少なくなっています。日本のベトナム戦争との関わりや枯葉剤についてもそうです。しかし最近、日本でも再び話題になることが多くなってきました。そこで、「日本の中の枯葉剤」をテーマに幾度か書いてみます。

日本で枯葉剤が認識されたのは、1964年9月に猛毒ダイオキシンを含む2,45-トリクロロフェノキシ酢酸(以下「245-T」)を有効成分とした枯葉剤が農薬として登録されてからです。

1968年、全国各地の国有林で杉やヒノキの植林を進めていた林野庁が、その生育を妨げる雑草を駆除するため「245-T」を始めました。ところが、ベトナム戦争で使われている同じ成分を持つ枯葉剤が原因と考えられる奇形出産が、ベトナムやアメリカ国内で問題になり始めます。そうした中で、林野庁の職員などの反対運動が起こり、林野庁は19714月に使用中止を決定します。

日本政府が農薬登録を失効させたのは、さらにその4年後の19754月でした。その間10年あまり日本国内で使用された枯葉剤(2,45-T)がもたらした被害の実態は明らかにされていません。

林野庁が全国4自治体の国有林に枯れ葉剤を埋設

ところが近年、NHKや民放・新聞各社がかつて国有林に埋設処分された枯葉剤を取り上げ、次第に日本で今でも続く枯葉剤問題が知られるようになりました。

大量に残った大量の猛毒「245-T」を成分とする枯葉剤の処分に関する「通知」が197111月、林野庁長官から各営林署長に出されています。林野庁の資料によると、「 ダイオキシン類についての有効な無害化処理技術が無かった当時、まだ農薬登録されている薬剤が人手に渡らないようにするための処分方法として、当時の『毒物及び劇物取締法』に定める処分方法に基づいて」、全国46カ所で26㌧ン枯れ葉剤が埋設されました。

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下の地図は枯れ葉剤(2,45-T)が埋設されている自治体です。広島県では庄原市が該当します。

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出典:左NHK特番、2022年1月20日,右読売新聞、202255

「通達」に反する埋設29カ所

ところが、埋設方法、埋設場所とも「通知」通りに実施されていない事実が判明し、全国各地で被害が懸念広がり始めています。埋設場所が11カ所、埋設方法が7カ所、300kg以内の制限を超えたものが11カ所、計29カ所も「通達」に反し埋設された事実が明らかになりました。中には1㌧を超すものもありました。

2年前の20221月にNHKWEB特集が「“猛毒”地中に~枯れ葉剤の原料 漏れ出す懸念も 負の遺産」という特集番組を組み、同じ年の5月には読売新聞が「ダイオキシン含む除草剤、全国の山林46か所に埋設のまま水源近くの例も」という特集記事を報道しました。

NHK特番では営林署の元職員の「営林署の上層部からは『245-T』が害があるとは知らされていなかったが、ベトナムでこの物質が原因とされる障害のある子どもが生まれたため、こんな危険なものは絶対に散布してはいけないと、強く反対しました」、「埋める場所の下流に住む人たちに害を与える可能性もゼロではないと思ったので、本当は埋設しない方がいいという思いはありました。ただ技術的にほかに方法がなく、やむなく後世に残す形になってしまったのです」と証言しています。

また、「熊本県芦北町の職員は「大雨によって土砂崩れなどが頻発すれば、埋設地も大きな影響を受けるのではないか」との不安を訴えています。

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出典:読売新聞2022年5月5日

読売新聞では、「もう50年も前か、15道県42市町村の山中46カ所に有毒な除草剤が、26トンも埋められているんです。この除草剤はベトナム戦争の際にまかれた枯れ葉剤と同じ成分で、猛毒のダイオキシンが含まれているんです。これまでの調査で、すでに基準の17倍のダイオキシンが地中に漏れ出ている場所もあることがわかっています」(原田和明:北九州市立大学職員)

近年多発する豪雨や地震などで流出する危険性についても、「ダイオキシンは何百年たっても分解されません。将来、そこに除草剤があると知らずに掘り起こしてしまい、埋まっていたダイオキシンが流出する可能性はあるでしょう。ダイオキシンを無害化する処理方法は確立しているのですから、できるだけ早く行うべきなのです」(中地重晴:熊本学園大学教授、ダイオキシン・環境ホルモン対策国民会議理事)と警鐘を鳴らしています。

「日本の地中に埋まる『負の遺産』を今後どうしていくのか。半世紀前には想定されていなかった災害の実態を踏まえた早急な対策が求められています。」(NHK特番、2022年1月20日)

「昨年の熱海のように山ごと流されるような激甚災害が埋設場所付近で発生しないとも限らない。一日も早い撤去が望まれる。」(『読売新聞』、2022年5月5日)と、いずれも早急な対応を求めています。

報道に接していない人も多く、政府や埋設されている自治体からの情報が無いに等しい中で、当該地域の人たちでさえ、枯葉剤が埋設されていることやその危険性への認識は極めて乏しいと思います。

次号では県内で唯一枯れ葉剤((2,45-T)が埋設されている庄原市を含む全国の状況を報告します。

赤木達男

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2024年2月19日 (月)

三原の「19日行動(2.17)」

備後路に春を告げる「三原神明市(2月9~11日)」で賑わった2月。穏やかな日となった2月17日(土)の午後1時30分から三原駅前において30人が参加して定例の街頭行動を行いました。

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司会者が「この場はフリートークなので自由にマイクを持って発言していただきたい」と述べると、通りがかりの20代の青年や私たちの運動に共感され初めて参加された市民など7人からスピーチがあり、元気の出る街頭行動となりました。リレートークを聞きながら「誰もが平和で安心して暮らせる社会であり続けるために、戦争をさせない運動を継続して頑張らなければならない」と思いを強くしました。

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いま世界ではウクライナ、パレスチナの戦争が続いており多くの市民が戦争の犠牲となり戦争の犠牲は、いつ、どこにおいても、罪なき一人ひとりの市民であることを私たちは忘れてはなりません。国内では、自民党内で起きている「政治とカネ」の問題、防衛費倍増や敵基地攻撃能力の保有、殺傷能力のある兵器の輸出解禁など軍拡、戦争への道を推し進めている岸田政権。私たち市民の声と力で戦争、軍拡、改憲の流れにストップをかけなければなりません。弁士から平和を守るための根拠となるものは、103条の条文からできている「日本国憲法」とりわけ前文にきちんとそのことが明記されていることを見れば一目瞭然であると訴えられました。また、多くの方々が言われているように私たちは、「政治に無関心でも無関係ではいられない」、「選挙に行かないのは自民党を利することになる。必ず選挙に行こう」ということを共有し、自公政権の政治を変えるうねりを起こしていきましょう。

日本国憲法  1946年11月3日 公布  1947年5月3日 施行

前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

藤本講治

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2024年2月18日 (日)

梅の花が満開の縮景園

「来週は、雨模様の日が続く」との天気予報を聞いて、青空が広がった昨日、縮景園に行ってきました。

午前11時前に縮景園に着くと、門の外まで入場券を購入する列が続いています。

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縮景園は何度も訪れていますが、こんなに長い行列があるのを見たのは初めてです。時間がかかりそうですので、県立美術館から入ることにしました。

こちらから入ってよかったなと思いました。県立美術館のガラス面に縮景園の歴史が掲示されていたからです。

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歴史掲示の最後、といっても県立美術館から入ると最初ですが、原爆被害の様子が紹介されています。

縮景園を訪れようと思ったのは、梅の花はどんな様子かなと思ったからです。縮景園の西側にある梅林は、県立美術館から入ると左手すぐの場所です。今を盛りと咲き誇る梅の廻りには多くの人だかりがあります。

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大きな望遠レンズ付のカメラを構えている人がたくさんいます。

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私も何枚か撮りました。

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 真っ青な空に映えます。

その後、園内を一周。菰を巻かれた松が目に付きます。

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菰外しを見に来たことがありますが、今年の菰外しは、35日です。

もう一つ気付いたことがあります。被爆樹木イチョウの木のすぐ横の通路が、根を保護するため通れなくなっていました。

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以前に何度もこの小道は通ったことがありますが、初めて見る景色です。いつまでも元気でいてほしいと思います。

園内を一周し、出口に向かったとき、思いがけない話を耳にしました。「縮景園は、この通路から奥側(北側)が,史跡指定されたエリアです。この通路より南側は、史跡ではありません」。新しくガイドになろうとする人の研修中での説明です。「この通路」は、正面入り口から入って初めて目にする左右に伸びている通路のことです。

私は、門から先は全て史跡と思っていましたので、ちょっと意外でしたが、考えれば当然のことです。通路より南側には、戦後になってトイレや売店、泉水亭、入場券売り場がつくられ、当時の様子が大きく変わっているのですから。

今回も新しいことを知ることができた縮景園見学でした。

いのちとうとし

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2024年2月17日 (土)

県被団協被爆二世三世の会,広島県に要請書提出

広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)の二世三世の会は、昨日広島県庁内の会議室で、広島県湯崎英彦知事に対し「被爆二世・三世対策の充実を求める要請書」を提出しました。

要請は次の5項目です。

①全国の自治体における被爆二世対策を調査し、広島県として自治体独自の被爆二世対策を講ずること。

②被爆二世・三世の健康実態調査を実施するよう国に働きかけること。

③現行の検診内容を被爆者の検診項目に準じた内容にしていただきたい。

④多発性骨髄腫の検査項目以外のガン検診の実施について引き続き国への要望を強化すること。

⑤被爆二世健康診断を通年実施するとともに、被爆三世を対象に加えることを国に働きかけること。

二世三世の会共同代表の一人田口正行さんが,読み上げた関野被爆者支援課長に手渡した後、関野課長から県の回答がありました。

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その回答の内容は、ほぼ同じ趣旨だったように思いますので、ここでは①に対する回答を紹介します。

「県としても課題としては認識しているが、2世対策は国が全国一律に実施すべきと認識している。みなさんの要望については、八者協(筆者注:広島・長崎原爆被爆者援護対策促進協議会で、構成は広島県、長崎県、広島市及び長崎市の知事・市長及び議会議長)で毎年要望しています。」

私は、1990年代から何度も,被爆二世団体の対県、対市交渉に参加していますが、また同じ回答を聞くのかと、という思いで県の回答を聞きました。国に対して、八者協で要望するだけでは何の前進もないことは、これまでで明らかになっていることです。被爆県として、何かできることはないのかと検討する姿勢が全くないことにがっかりするばかりです。

もし国を動かそうというのであれば、まず県独自の被爆二世対策を実施することが絶対に必要です。私は、そういう姿勢の県には求めたいと思いますが、今回の交渉ではこの論議は深めることはできませんでした。

多くの時間は、被爆二世健診の受診者をどう拡大していくかの論議に集中しました。自治体ごとの受診者数を明らかにすること、県だけでなく各自治体の広報紙に周知のための掲載(すでにかなりの自治体で実施されているようだが)を行なうよう求めること、被爆者に送られる健診通知に二世健診のことを付け加え周知を図ることなどなどで,県も前向きに検討することを約束しました。なお、広島市を除く県内の昨年の被爆二世健診の実績は、受診者2,271人、うち254人が精密検査を受けています。この受診者数は、微減とのことでした。

約1時間あまりの意見交換の最後に、二世三世の会の共同代表の一人遊川和良さんが、「1979年から検診が始まっているが、その結果の評価がなされないままにきている。こうしたことをきちんとやってほしいが、やってもらえていない。今後どういう方針で行なおうとするのか検討してほしい。そうした中から、遺伝的影響を解明する方向に踏み出してほしい」とあいさつし、交渉は終わりました。

遊川さんが指摘するように、県として独自に何ができるのか,もっと前向きな対応をすべきだという強い思いを持った交渉への傍聴参加でした。

いのちとうとし

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2024年2月16日 (金)

広島市長の職員研修資料への教育勅語引用に反対する弁護士会会長声明

13日の夕方のテレビ各社、そして14日の新聞紙面で、広島弁護士会が出した「広島市長の職員研修資料への教育勅語引用に反対する会長声明」が報道されました。

松井市長による「職員研修資料への教育勅語引用」問題については、多くの反対意見が出されていますが、弁護士会会長が反対声明を出したことの意味は大きいと思います。。

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中国新聞2024年2月14日紙面より

報道では、全文が紹介されていませんでしたが、「声明の理由」で一番強調されているのは、憲法との関係です。私は、この点が第一に取上げられていることに共感しましたので、広島弁護士会のホームページにも掲載されていますが、このブログでも全文を紹介することにしました。ぜひご一読下さい。


広島市長の職員研修資料への教育勅語引用に反対する会長声明

広島弁護士会 会長 坂下 宗生

第1 声明の趣旨

当会は、広島市長に対し、教育勅語の引用が誤りであったことを認め、今後、職員研修の資料として教育勅語を引用することをやめるよう求める。

第2 声明の理由

2023年12月、マスコミ報道で、広島市長が、就任直後から、広島市の新任職員研修において、教育勅語の「博愛」や「公益」の尊さを説いた部分を研修資料に引用し、講話を続けてきたことが明らかとなった。

広島市長は、マスコミ報道の後も、「教育勅語を再評価すべきとは考えていないが、評価してもよい部分があったという事実を知っておくことは大切。今後も使用を続ける」「民主主義的な発想の言葉が並んでいる」などと、教育勅語を肯定する内容の発言を続けている。

教育勅語は、明治天皇が、天皇の「臣民」である国民に対し、臣民が忠孝を尽くしたことで国が栄えたことを称え、教育の淵源をもここに求めたものである。かかる教育勅語は、1948年6月の衆議院の「教育勅語等排除に関する決議」及び参議院の「教育勅語等失効確認に関する決議」において、すでに廃止され、その効力は失われているものであり、その内容は、国民主権を原理とする日本国憲法および教育基本法とは、根本から矛盾する。

また、教育勅語には、「皇祖皇宗國ヲ肇󠄁ムルコト・・・」や「天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ・・・」などの国家神道を前提とする言葉が用いられており、象徴天皇制(憲法1条)や政教分離の原則(憲法20条1、3項)とも相容れない。

したがって、憲法尊重擁護義務(憲法99条)を負う公務員である広島市長が、公務員の研修に教育勅語を用いることは明らかに誤りである。

そもそも、日本国憲法との関係だけでなく、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ、以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スベシ」(いざという時には一身を捧げて皇室国家のために尽くせ)とあるように、教育勅語が戦時下で国民を戦争へ動員する思想統制に利用された歴史的事実からすれば、教育勅語の一部を切り取って、市長が「評価してもよい部分があった」と取り上げること自体に非常に大きな問題がある。これは、平和都市広島であり、平和首長会議の会長都市である広島市の市長が、教育勅語の内容を、評価しているととらえられかねない発言だからである。

広島では、第二次世界大戦において、1945年8月に原子爆弾が投下され、同年のうちに14万人が亡くなったと言われている。今でも、原爆後遺症に苦しむヒバクシャが多数存在する。戦争の歴史、その背景を理解し、平和都市広島の市長としてふさわしい言動がなされるべきである。

よって、教育勅語の引用が誤りであったことを認め、今後、職員研修の資料として教育勅語を引用することをやめるよう求める。


松井市長は、職員研修の中で「教育勅語は文部省が廃止をした」と述べているようです。この「文部省が」という認識は、この弁護士会長の「声明理由」でも指摘されているように衆議院、参議院で「憲法の原理である国民主権に反するもの」として、それぞれ「排除」及び「執行」の決議がされたという憲法との関係、国会での決議という歴史的事実への認識を欠いたものといわざるを得ません。

憲法尊重擁護の義務を負う松井市長は、このことについてどう考えるのか,私は問いたいと思います。

いのちとうとし

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2024年2月15日 (木)

2024年2月のブルーベリー農園その2

2月10日から12日まで3連休なので東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から農作業に行く。農作業はブルーベリーの枝の剪定で、春まで続く。夏の収穫時期に3mを超す高さの先になったブルーベリーの実は収穫できないし、隣同士の木の枝が接触するのも目立ってきているし、ここらで古くなったブルーベリーの木の根元の幹を切って新芽が出るように更新をしていくのが今年の方針。その結果ブルーベリーの収穫量が減ることが予想されるが体が元気のあるうちにしておかないといけない。農園の気温も日中は6度~10度くらいで寒さに震えることもなく剪定を続けている。これから雪も降らずだんだん暖かくなるのだろうか。

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2月10日(土)

農園に着いたら剪定ばさみをきれいにする。サビや汚れがついていると摩擦で切れにくくなる。800番の細かい粒子の両面砥石で軽くこすって木の液などがこびりついて黒くなっている汚れを水につけながら落としていく。刃を研がなくても接着面の汚れを落とすだけでよく切れるようになる。

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3連休は里山の東側のブルーベリー園で剪定を続けている。剪定した後の木姿。古い幹の中に若い枝が伸びているのでその枝だけを残した。

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2月11日(日)

剪定した手前の木とこれから剪定する向こうの木と。向こうの木はとても茂っている。根元の笹を切り、古くて太い枝を明日切って手前の木のようにさっぱりした木の姿に変える。

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2月12日(月)

農園に着いて、車を置いた場所から雲一つない青空とブルーベリー畑を撮影。

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こだかいところの小さい畑から一番下のブルーベリー畑を撮影。ちらちらと光っているブルーベリーの枝は赤みを帯びている。

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里山のブルーベリー園の西側。剪定したブルーベリーの木の向こうの栗の木や椎の木が2月の少し強くなった日差しに光る。田んぼももやもやと草の緑が広がる。

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大きなブルーベリーの株をばっさり切る。太い幹が5本。たくさんの枝が茂りたくさんの花芽がついていたがとにかく古く元気がないので枝の更新を図る。

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あと2日でこの東側のブルーベリー園の剪定は終るめどがついた。

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農園の小さな畑の梅の木。つぶつぶと枝に花芽がついている。

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固い蕾が少し口を割ってきたのが見える。

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農園の家の裏の丸咲のツバキの丸っこい蕾。だんだん大きくなる。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年2月14日 (水)

NTT西日本中国吹奏楽クラブ第73回定期演奏会「バレンタインコンサート」

今日は、バレンタインデーです。といっても私にはあまり関係ありませんが、今年は、早くにプレゼントをいただきました。

10日に広島文化学園HBGホールで開催されたNTT西日本中国吹奏楽クラブ第73回定期演奏会「バレンタインコンサートです。

午後3時の開演20分前に会場に入ると,1階席はほぼ満席(私は1階席に席を取りましたので、2回の状況は不明)の入場者でした。

まず演奏曲だけ紹介します。

第1部は、アメリカの作曲家アーロン・コープランド作曲の「バレエ組曲『ロデオ』より『カウボーイの休日』」、「バレエ組曲『ビリーザ・キッド』」でした。

20分間の休憩を挟んで第2部は、P.スパーク「メリーゴーランド」、和泉宏隆作真島俊夫編曲「トワイライト・イン・アッパー・ウエスト」で、三奈木浩平さんのトランペット・ソロ、L.バーンスタイン作W.J.デュソイト編曲「ウエスト・サイド・ストーリー・セレクション」、「ディズニー・メドレー」、R.ボーデュク「サウス・ランバート・ストリート・パレード」でした。

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第2部は、知っている曲もたくさん登場しましたので、より演奏を楽しむことができました。

アンコール曲は、NHKの『映像の世紀』のテーマ曲などでした。ちょうど2時間、楽しい時間を過ごすことができました。

ところで、当日配布されたパンフレットの書かれた「NTT西日本中国吹奏楽クラブプロフィール」を,電電公社時代のことを思い出しながら読みました。

まずプロフィールです。「昭和30年に広島電報局の有志10数名で『広島電報局器楽同好会』としてスタートし、昭和34年に『電電中国吹奏楽部』として本格的を行なってきました。」

私が電電公社に入社したのは1967年(昭和42年)ですが、最初は松江電報局に配属されましたので、当時は「電電中国吹奏楽部」は、全く知るよしもありません。1971年の配転で広島に来ることになり、その後「電電中国吹奏楽部」を知ることになりました。当時、島根県は吹奏楽の盛んな(今もその伝統が続いていますが)土地柄でしたので、吹奏楽と聞くと今も親しみがわきます。当時は、「電電中国吹奏楽部」が、全日本吹奏楽コンクールに職域の部で出場し、何度も金賞を得たというニュースを何度か耳にしたことがあったことを思い出します。

ところで、電電公社時代は、電電中国には,広島を拠点に野球部、陸上部、軟式庭球部のスポーツ3部がありましたが、NTT時代になって残っているのは、軟式庭球部だけです。吹奏楽部は、唯一の文化部として存在していましたが、今は名称を「NTT西日本中国吹奏楽クラブ」と代えて存続しているようです。

さらにプロフィールを読むと気になる文章があります。「NTTグループの社員のみならず学生から社会人までの幅広いメンバーで構成されており、『吹奏楽を通じて、円満な人格形成と部員相互の融和をはかり、音楽を共に楽しむ。演奏技術の向上、地域文化の向上に貢献すること』を目標に活動しています。」

私が知る「吹奏楽部」は、電電公社の職員のみで構成されていたのですが、今は地域の人たちがメンバーに加わっているのです。

休憩時間にスタッフに聞きました。「この構成で、各種のコンクールに出られるのですか」「確かに以前は、中学、高校などと並んで『職域』の部門があったのですが、10数年前から『職域・一般』という部門に代りましたので、出場することができるんですよ」

改めてプロフィールを読むと、今でもコンクールへの出場は続き、「全日本吹奏楽コンクールへは過去53回、全日本アンサンブルコンテストには32回出場し,それぞれたびたび金賞を受賞しています」と書かれていました。

電電公社時代から続く「クラブ」として、これからも頑張り続けてほしいと思います。

NTT西日本中国吹奏楽クラブの定期演奏会は、毎年2月と7月の2回開催され、次回第74回定期演奏会は、「七夕コンサート」の名称で、714()に開催が予定されています。

ぜひ次回も演奏を聴きたいと思います。

いのちとうとし

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2024年2月13日 (火)

どうするのだろうか中国電力は?

中国電力がカルテルを結んだため公正取引委員会から約707億円の課徴金を課せられた問題で3つの裁判が進行していることを,2月7日の奇妙な法廷風景: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しました。このうち二つは、中国電力が訴えを起こした裁判です。

今日はその続きです。中国電力が起こしている二つの裁判の訴訟の内容を聞き、不思議な思いに駆られました。

東京地裁に起こした裁判は、約707億円の課徴金を命じた公正取引委員会の判断はおかしいとして、その取り消しを求めています。もう一つは、広島地裁に起こした裁判で「公正取引員会の立ち入り検査を受けたのは、当時の取締役の紛らわしい行動があったから」として、この3人の元役員に対して「調査に対処するためにかかった弁護士費用6000万円の損害賠償を求める」ものです。

広島地裁に起こした訴訟は、当然のことですが、「公正取引委員会の判断は間違っている」ことを前提としています。

2月5日の広島地裁での公判後の報告会が終わった後、弁護士のみなさんに尋ねたところ「公正取引委員会の判断の取り消しを求めた訴訟で、取り消しが認められた例は、ない」とのことでした。そのことは次のことからも考察できると思います。

2月11日の木原さんのブログ中国電力カルテル株主代表訴訟初公判で陳述をしました(その2): 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介されているようにカルテルを結んだとされる電力会社のうち関西電力、九州電力は「リーニエンシー」(課徴金減免制度)を使って減免措置を執っています。「リーニエンシー」を使うということは当然のことですが、公正取引委員会が指摘する「カルテルを結んでいた」ことを認めることが前提のはずです。

ですから、私には、とても中国電力には、勝訴の可能性のない訴訟を起こしたと思えてなりません。

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これから私が推察するように、東京地裁に起こした中国電力が求める取消訴訟が敗訴に終わったときには、広島地裁に起こしている元役員3人への損害賠償請求訴訟にも,大きな影響が出ると私は考えます。

今日のブログのタイトルに書いた「どうするのだろうか中国電力は?」は、実際にはずいぶん先のことになると思いますが、その時のことを指しています。

繰り返すようですが、広島地裁に起こした裁判は、公正取引委員会が、中国電力に調査に入ったことだけでも「元役員3人が会社に損害を与えた」として、その調査にかかった費用を損害賠償として請求しています。

そうだとすると、私が考えるように東京地裁に起こした「公正取引委員会の措置取り消し」が認められなかったときには、当然のこととして課徴金約707億の損害は、元役員3人(実際にはもっと多いかも知れないが、最低でも3人は)が、引き起こしたことになります。ですから、中国電力は、元役員3人に対して、あらためて課徴金額である約707億円の損害賠償請求の裁判を起こさなければならないはずです。

これは、2月5日の株主代表訴訟の第1回口頭弁論を聞きながら、感じたことです。

東京地裁に訴えた訴訟の結論が出るまでには、時間がかかりますし、私が推察する通りに進むのかどうかは,当然のことですが全く不明です。

ただ、中国電力は、二つの裁判を起こしたことによって、その判決の中身によっては、中国電力は非常に難しい対応を迫られることになるのではないかと率直に感じました。

こんなことを考えながらの裁判傍聴は、ある意味の楽しさがあります。

いのちとうとし

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2024年2月12日 (月)

紀元節復活反対!平和・民主主義・人権を守る2.11ヒロシマ集会

憲法を守る広島県民会議、広島県平和運動センター、広島県原水禁、八の日平和行動ヒロシマ女の会、戦争をさせないヒロシマ千人委員会の5団体が主催する「紀元節復活反対!平和・民主主義・人権を守る2.11ヒロシマ集会」が、昨日午前10時から広島弁護士会館で開催されました。

広島県平和運動センター大瀬敬昭事務局長の司会で集会は始まり、最初に主催者を代表して憲法を守る広島県民会議檀上正光代表委員があいさつ。

その後、小武正教さんの「今、天皇制と天皇制を支えるエートス(習俗)―『慰霊』の政治性」と題した記念講演がありました。小武さんは、三次の西善寺住職で念仏者九条の会共同代表として、活躍されています。特に、毎月1日には、軍事クーデターが起きたミャンマー支援のための街頭行動の先頭に立ってがんばっておられます。

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小武さんは、最初に「今日の話は、戦前の天皇制と今の天皇制の違うところ、また同じところは何かを語る。その上で、天皇制の本質とは何かを語る」と、今日の講演の意味を紹介した後、

「新しい戦前ということがいわれていますが、たまたまではなく、計画的にやってきたことだ。『闘う国家は、まつる』ということ。逆に言えば、『まつる国家にしない』ということは、『闘う国家にしない』ということ」。今年、1月7日に起きた自衛隊幹部による靖国神社参拝がなぜ問題か、そしてなぜそんなことが起こったのかからはなしが始まりました。

深く問題点を提起されましたが、その内容をメモで紹介することは、残念ながら私の能力では不可能ですので、このブログでは入り口だけの紹介で終わります。

小武さんの講演終了後、憲法を守る県民会議藤本講治事務局長が、集会アピールを提案し、全体の拍手で確認しました。以下にアピール全文を紹介します。


私たちは本日,「紀元節復活」に反対するヒロシマ集会を開催しました。私たちの集会は、戦前の天皇主権体制が何をもたらしたのか検証し、かつての誤った歴史・侵略戦争を繰り返さないため、戦争賛美の日であった211日を平和発信の日へと大きく作り変えるために開催してきました。

「紀元節」は、日本の歴史が天皇を中心として進んできたと考える歴史観(天皇神話)のもと、初代の天皇が即位した日を現代の暦に当てはめたものと言われています。さらに、この紀元節は、「皇国史観」にもとづく戦前・戦中の軍国主義、全体主義を国民に植え付ける役割を果たしてきました。「天皇陛下のために戦い死ぬことが最大の名誉」とされ、結果として自国民とともに世界中の人々を惨禍に巻き込んだあの無謀な戦争を招いてしまいました。

この反省に立ち、敗戦後「紀元節」は、国民主権・基本的人権の尊重・平和主義を原則とする日本国憲法の施行で廃止されました。しかし、1966年、天皇の政治利用を画策する政府・自民党は、戦前回帰に反対する国民の声を無視し、国民の祝日「建国記念の日」として制定し、事実上「紀元節」を復活させました。これは、その後の「元号法」の制定、「国旗・国歌法」の制定、「日の丸」「君が代」の教育現場への押しつけ、さらには天皇の元首化を明記した「自民党改憲草案」など教育の反動化、憲法の改悪と結びついたものです。

こうした動きは,日本国憲法の基本原則と相いれいとして廃止された「教育勅語」の内容を肯定する松井一實広島市長の発言も同様で、決して許されるものではありません。

戦後の日本は、戦争の惨禍を再び繰り返さないことを誓って再出発しました。岸田政権が推し進める軍拡、改憲の政治は、戦後のこの国のあり方を根底から覆します。今も政界ではウクライナの戦争、パレスチナでの戦争が続けられており、多くの命が奪われています。戦争国家作りは一刻も早く終わらせなければなりません。政治の責任は、戦争を回避するために知恵と力を尽くすことであり、憲法9条を活かした平和外交に積極的に取り組むべきです。戦争の準備ではなく、平和の準備をする政治の実現を求めていかなければなりません。

私たちは、平和憲法の下で戦後79年間、戦争をしないで平和を守ってきました。この歴史的経緯とその意味をあらためて心に刻み、日本の戦前回帰、軍備拡大、戦争する国づくりに突き進む岸田政権と対峙し、全ての人々のいのちと人権,平和が守られる社会を築くため、行動していくことを誓い、集会アピールとします。


 今年の参加者は、85名でした。

いのちとうとし

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2024年2月11日 (日)

中国電力カルテル株主代表訴訟初公判で陳述をしました(その2)

4.株主代表訴訟を決意した理由

カルテル事件が発覚し排除措置命令及び課徴金納付命令が出された直後の株主総会が、昨年6月28日に開催されました。この株主総会をもって、1年前に社長に就任されたばかりの瀧本夏彦さんは、カルテルの責任者として退任されました。後任として中川賢剛さんが就任し、株主総会翌日に社員向けにあいさつを行っています。

その挨拶の中で、カルテル事件の原因について「確実な業務遂行を優先しすぎてしまったことが挙げられる」と述べ、「私たちの価値観と社会の価値観に少しずつズレが生じていることに気付かなかった、というのが根本原因の一つ」と話しています。

私はこの挨拶を聞き、正に「空いた口が塞がらない」という思いを致しました。また、カルテル事件が公になった直後には、当時の役員を含め社員に電力自由化の認識が薄かったという趣旨の報道記事もありました。

電力事業の全面自由化が実行された2016年4月1日の1年以上前から、新聞などのマスコミは連日のように、自由化に関する報道を行っていました。電力事業を営む電力会社の人が、それも責任者という立場にいる方が、電力自由化という社会的要請に基づく改革の意義を軽視し、まるでよそ事の感覚で仕事をしていたことには、呆れててしまいました。

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中国電力本社

中国電力グループの経営理念は「信頼。創造。成長。」です。いずれもとても大切な要素ですが、もっとも大切なことは「信頼」だと私は受け止めています。社会・地域からの失われた信頼を回復させることは厳しい状況にあると言えます。

公正取引委員会からの立入りが行われた直後に、中国電力OBの方から電話があり「木原さん、『鬼滅の刃』という映画があったけど中国電力は『自滅の刃』だねえー」と呆れたような声で話しておられました。

経営陣の責任を考えるとき、どうしても合点がいかないのがリーニエンシー制度を何故使わなかったのかということです。カルテルに関わった関西電力、九州電力などはリーニエンシーを使い課徴金の減免を受けました。関西電力は100パーセント減免され課徴金がゼロとなりました。改めるべきは改めると頭を切り替え、会社の利益、株主の利益、顧客の利益を最優先に危機管理する責任を全く果たしていないと断じざるを得ません。

最初にも述べましたが、私は中国電力という会社を長い間視てきました。中国電力はこれまでも同様の事件・不祥事を度々起こしています。しかし、真相を明らかにし、これを公表し、世間からの厳しい目を身をもって受け止め、とことん反省をして来なかったから、またぞろカルテルを起こしてしまったのだと思っています。

この度のカルテル事件でも、株主・顧客に真相をうやむやにしたまま、社長経験者3名をスケープゴートにして、幕引きを図りたいと考えているのではないかと疑います。「何時、誰が、どこで、何故、どんな談合をしたのか」が明らかにされなければなりません。

5.おわりに

昨年2月、中国電力の元社長だった方が亡くなられました。その方から送られてきた、昨年の年賀状には、この度の中国電力の姿勢と対応について、「立ち直る頭も情熱もないのではないでしょうか」「社員諸君の奮起を期待するとしましょう」と書かれていました。私は、この元社長さんからの遺言のようなメッセージに応えたいという思いから、止むにやまれぬという気持ちで、株主代表訴訟を起こしたのです。

最初にも述べましたように中国電力には、経営層に対する不信感を払拭することと同時に、株主からも顧客からも地域住民からも信頼され愛される企業になってほしいという思いを強く持っています。そのためには株主代表訴訟しかないと思いました。

裁判所におかれましても、被告のみなさんにも、支援者の皆さんにもこの気持ちを訴えさせていただき、私の陳述といたします。

ありがとうございました。

※「リーニエンシー」→課徴金減免制度

木原省治

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2024年2月10日 (土)

中国電力カルテル株主代表訴訟初公判で陳述をしました(その1)

裁判所の法廷の場で、意見陳述をしたのはこの度で2度目です。

2月5日、広島地裁で行われた中国電力のカルテル訴訟の初弁論の公判で、その機会を得ました。法廷が始まる前に支援に来てくれた知人から、「木原くんは緊張しないだろう」と声を掛けられましたが、304号法廷は裁判官・書記官ら5人、私たち側の弁護人など10名、中国電力側の弁護人は10人以上、傍聴席には支援者の皆さんやマスコミ関係者で、まさに熱気に溢れていました。これだけ人がいても静粛な状態というのは、不思議なものです。

幸いにも緊張という感じにはなりませんでした。まずは産んでくれたお母ちゃんへの感謝です。そして背中で感じた多くの仲間の暖かさ、仕事だから来れないけど応援していると連絡してきた、友人の思いを感じていました。

陳述文は3488字となりましたので、全文を2回に分けてこのブログに載せていただくことになりました。本番の発言は、前後の脈略から少し変わりましたが、是非とも読んでいただき、引き続きこの裁判へのご支援をお願いする次第です。

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口頭弁論終了後の報告集会・右から4人目が筆者

1.はじめに

 この度の株主代表訴訟原告団、団長の木原省治と申します。中国電力の株式を708株所有している個人株主です。初公判にあたり一言陳述させていただきます。

私が中国電力株式会社の株主になったのは、1980年代の終わり頃だったと思います。1993年(平成5年)6月に開催された第69回定時株主総会からは、現在まで毎年、株主の権利として議案を提出してきました。

私たちのことを「原発反対ばかりをいう株主」と批判する人もいます。しかし、それは間違っています。私は中国電力には中国地方を代表する企業として、法令を遵守する健全で模範的な会社になって欲しいと強く思い、その気持ちから活動をしてまいりました。

例えば、女性管理職の数を増やすこと、また昨年報道された顧客情報の不正閲覧のもととなった「送電配電部門の分離形態」についても、その有り様を提案してまいりました

昨年の株主総会では、今回のカルテル事件に対する責任として、前社長の瀧本夏彦さんの解任や、その他役員の報酬50パーセントカットを求める議案も提出しました。

2.コンプライアンス最優先の経営はどこに

中国電力においては、2006年秋以降に判明した発電設備に係る一連の不適切事案を受け、2007年5月に、「不正をしない意識・正す姿勢」「不正を隠さない仕組み・企業風土づくり」「不正をさせない業務運営」を3本の柱とする60項目の再発防止対策を策定・公表し、全社を挙げて取り組みを進めるとともに、一連の不適切事案の教訓を風化させず、二度と繰り返さないという強い決意に立ち、全社を挙げて信頼回復・企業再生に向けて取り組むとしていたはずです。

そしてこの時から、役員・幹部社員に対し、コンプライアンス経営の推進を誓約させ、この誓約書を執務室に掲示しているそうです。その誓約書には、「私は、中国電力株式会社の役員として、コンプライアンスの取り組みは、当社が社会の中で存続していくために不可欠なものであるとの認識のもと『あらゆる業務運営において、コンプライアンスを最優先に進める』ことを基本とした経営を行います。また、中国電力企業倫理綱領における行動規範を遵守し、「3つの行動」を率先して実践するとともに、社員全員がこれを実践するよう、積極的に働きかけます。こうした取り組みを通じて「コンプライアンス最優先」の考え方を全社に根付かせ、コンプライアンス経営を推進していくことを、ここに誓約します」と記載されています。

 今回のカルテル問題が起きたことは、これまで業務実態やルールの適切性確認などの取り組みを継続実施してきたものの、形骸化しつつあることを示しており、改めて経営姿勢が問われているものです。

 コンプライアンス経営の推進に、役員の率先垂範のもと、全社を挙げて取り組むとしていたことは、どうなったのでしょうか?

特に今回の事案においては、私たちのみならず、中国電力の職場の中からも「経営層に対する不信感」という話も多く出ているようです。この事実は、中国電力の2023年度 第2回企業倫理委員会における議事録の中に掲載されています。さらに「会社への思い」「モチベーション」が大きく低下しているといった中で、社員からもNOを突き付けられた経営陣は、こうした現状を重く受け止める必要があると言えます。

3.この度のカルテル事件の簡単な経過

この度の株主代表訴訟の詳細については、訴状などで明らかにいたしておりますから、あえてこの場で重複して述べませんが、どうしても株主代表訴訟を起こさなくてはならないと決意し、多くの人に支援をお願いするに至ったのは、次のことによります。

2016年(平成28年)4月1日から、電力システム改革の大きな柱の一つとして、「電力事業の完全な自由化」が開始されました。この自由化は、電力事業に競争原理を導入することによって、公正で健全な電気事業となることを求めて開始されたものです。自由化によって全国では数百社におよぶ新電力会社が誕生したとされています。

電力事業は、これまでほぼ独占状態でまさに「巨象(巨大な象)」として、中国電力や関西電力など大手電力会社が存在していました。しかしこれらの電力会社が、自らの利益と利権を守るために、この度のカルテルを締結し健全な電力事業の発展を妨害したのです。

カルテルは自由化翌年の2017年(平成29年)11月から行われているとされています。そして公正取引委員会は、2021年(令和3年)4月と7月に立ち入り検査を行い、昨2023年(令和5年)3月30日、中国電力に排除措置命令を行うとともに、707億1586万円という課徴金納付命令を出したのです。

木原省治

【編集者】つづきを、明日掲載します。

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2024年2月 9日 (金)

映画「寡婦たちの村」

カナダのウラン採掘による先住民族の被曝を扱った映画「寡婦たちの村」の上映会&トークが、4日の午後2時から広島市民交流プラザで行なわれました。

カナダのウラン鉱山は、早くから採掘が行なわれ、第2次世界大戦中のアメリカの原爆開発に寄与したとされ、広島、長崎に投下された原爆の原料の一部になったとも言われています。

この映画は、先住民族サーツ・デネとカナダ北西準州のウラン鉱山の歴史に光を当てたドキュメンタリー映画で、1999年に上映されましたが、長く広島で知られることがありませんでした。最近、アメリカやカナダにおける原爆・核エネルギーをめぐる言説あるいは文化表象を研究対象している広島大学松永京子准教授によってその存在が明らかになりました。

当時は、日本語字幕はなかったようですが、松永さんの努力によって、日本語字幕版が完成し、昨年12月10日にピーター・ブロー監督を広島に招き、初めての上映会が行なわれ、その後大阪大学でも上映されました。今度の上映会が3度目ということになりました。

私の記憶にはないのですが、サーツ・デネの代表団8人が、1998年8月に広島を訪れ、広島の被爆者や渡日治療中に在韓被爆者との交流や平和記念式展への参加を行なっています。ピーター・ブロー監督もこの訪日に同行し、その時の様子も含めて作成された映画が、「寡婦たちの村」です。

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今回の上映会は、この映画を日本に紹介した松永京子さんや、当時広島での受け入れに協力した韓国の原爆被害者を救援する市民の会・広島支部、第九条の会ヒロシマなどの主催で開催されました。

映画の上映の前のトークでは、サーツ・デネの代表団が広島を訪れたときの様子が、それぞれの団体の代表から紹介されました。

トークのメインは、松永京子さんの「『寡婦たちの村』の背景とその後をめぐって」の報告です。その一部を紹介します。

ウランが採掘されたポートラジウムは、カナダのノーストウエスト準州のグレートベア湖の東岸にあり、北米最大のウラン産地で1942年から1960年にウラン採掘が行なわれ、アメリカに輸出されています。

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ノースウエスト準州とグレートベア湖(赤い矢印)

サーツ・デネ人の住む村デネリは、グレートベア湖の西岸にあり、ウランなどの鉱石をこの湖の東岸から西岸に運搬する作業に30人以上がかかわっていたようです。当時の村の住人は、約600人。もちろん、その危険性が知らされることはありません。その結果、1970年代から1998年までに少なくとも14名ががんで死亡しています。運搬中にこぼれた鉱石や湖に投棄された鉱滓、残土による汚染、さらに鉱石の袋などが先住民族の住宅のテントなどに使用したため汚染は広がったのです。

それらの事実をデネ人が「公式」に知ったのは、1980年代半ばです。

ピーター・ブロー監督は、1985年にデネの人と出会い、1997年からデネリに入り、1998年の広島訪問にも同行したのです。

ずっと無視し続けてきたカナダ政府が、「寡婦たちの村」の上映をきっかけとして、ようやくポートラジウムのウラン採掘による環境と人体への影響調査を実施し、2005年8月に100ページにわたる最終報告を出しました。しかし「特定の個人の死や病気が,放射線被曝によるものかどうかを確実に知ることは可能でない」と,その因果関係をほぼ否定する内容でした。

こうしたカナダの先住民の核被害の実態は、私にとって初めて聞く話でした。先住民が核サイクル社会の犠牲者になり、その被害が無視されていることを改めて認識させられる映画上映&トークの集いでした。

同時にサーツ・デネの人々は、運搬と鉱滓の投棄などによる核被害者ですが、鉱山の採掘現場で働いていた人たちはどういう人たちで、その後どうなっているのか、調べてみたいと思います。

そして、核兵器禁止条約でこの人々がきちんと救済の対象となるようにするのも私たちの課題だということも突きつけられることになりました。

いのちとうとし

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2024年2月 8日 (木)

2024年月のブルーベリー農園その1

昨秋、今冬は雨が少なかったが、2月に入ってから雨がよく降るようになった。東広島市豊栄町のブルーベリー農園でも水分を含んだブルーベリーの植えてある地面は肺にやさしい空気を送ってくれる。安芸の郷の2つの建物の床下の雨水の貯水槽はこれまで水位が下がったままだったがようやく満タンになった。日中の作業ではもう0度になることもなくせいぜい8度前後で推移していて安芸の郷の建物の森の工房AMAの屋上のブルーベリー剪定も、豊栄のブルーベリーの剪定もやりやすくなった。

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2月3日(土)

ブルーベリー畑。さすがに2月になるとブルーベリーの葉はすっかり落ちてアントシアニンたっぷりの赤みを帯びた枝が列をなす。枝の先端の花芽は少しづつ膨らんでいる。

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太い枝を切った後で残った昨年春から伸びた長い元気な枝。だがどの枝も花芽がついていないので切り詰める。

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剪定がすんだ右側とこれから剪定する左側と。この場所は里山の東側のエリアで、田んぼの向こうに農家が点在する眺めを見ることができる。

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雪がちらついていたが、4時前になると小雨に変わったので農作業はやめて早めに帰った。

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2月4日(日)

昼前に農園に到着。2㎝ばかり雪が積もっている。水分の多いべた雪だ。

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農園に着いたらすぐに農作業の身支度をして昼までの30分ばかり剪定作業のため里山に向かう。恐る恐る一輪車を運ぶのは息子。昼ごはん前のちょっとだけの援農。

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午前中まだ雪があるので滑るため、ブルーベリーシートを敷いて、その上に剪定した枝を短くカットする場所を確保して作業した。

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里山のブルーベリーは2000年に植えてから一度も切っていない太い枝(幹といってもいい太さ)が多いので思い切って切る。昔はなかった電動のチェンソーが枝を切る時に便利。

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この場所は斜面がきついので上り下りをできるだけ少なくして作業する。ここでも大きなブルーベリーの木の中には鳥の巣がかかっていた。

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午後4時半。来た時にあった雪は、べた雪だったのですっかり溶けて消えた。

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小さな畑の法面でスイセンの葉が土から顔を出し始めた。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年2月 7日 (水)

奇妙な法廷風景

5日の午後2時から広島地裁で、中国電力がカルテルを結んだため公正取引委員会から約707億円の課徴金を課せられた問題で、清水希茂前会長など当時の役員22人に対し、課徴金に相当する額の賠償金を中国電力に支払うよう求めた株主代表訴訟の第1回口頭弁論が行われました。この訴訟については、昨年10月10日のブログ10月12日に株主代表訴訟を起こします: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)にすでに記載していますので、参照して下さい。

5日の法廷では、原告団(17人)の代表であり、このブログの執筆者の一人でもある木原省治さんが,原告意見陳述を行なうということでしたので、私も傍聴に行ってきました。

木原さんの意見陳述については、10日のブログに木原さんから紹介していただくことになっていますので、今日はこの法廷で初めてとなる体験した様子を紹介します。

午後2時かっきりに裁判官3名が入廷し、裁判が始まりました。関心が高い裁判ということで、マスコミによる事前撮影が行なわれました。ここまでは、何度か体験した法廷風景です。

といいつつ、ここから奇妙な風景に出合います。

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法廷は、裁判長から向かって右側(傍聴席から見て左側)が訴えた原告席,左側(傍聴席から見て右側)に、訴えられた被告席となっています。それぞれに代理人弁護団や原告などが、着席しています。

奇妙なというのは、原告側に座っている弁護士の顔ぶれです。入廷前の弁護士会館の打合せに際、原告代理人の弁護士のみなさんの顔を見ていましたので、知っている顔が並んでします。ところが,裁判長の最も近い席に初めて見る顔を弁護士が二人います。木原さんたちの弁護団長胡田さんは、3人目に座っています。奇妙な風景というのはこのことです。当然原告団弁護士は木原さんたちだけの弁護士と思っていましたので「どうして?」と小さな疑問がわきます。

マスコミの事前撮影が終わり、いよいよ審理の開始です。書記官が,この裁判の案件を読み上げます。「1142号」「1175号」

後の報告会でわかったのですが、中国電力のカルテル問題では、木原さんが昨年10月10日のブログで紹介しているように3つ裁判が行なわれています。ここでも簡単に紹介します。

一つ目が、中国電力が訴えた「公正取引委員会への課徴金と排除措置命令の取り消しを求める訴訟」で、この訴訟は、東京地裁に提訴されていますので、東京地裁で争われることになります。

二つ目は、これも中国電力が訴えていますが、公正取引委員会の調査が入るような動きをした当時の3人の取締役に「その時の弁護士費用約6000万円の損害賠償を求める訴訟」で、これが書記官の言う「1142号」です。

三つ目が、木原さんたちが起こした「株主代表訴訟」で、書記官の言う「1175号」です。

つまり、5日の広島地裁の法廷では、二つ目、三つ目の訴訟が一緒の法廷で取り扱われたのです。原告が違うけれども,内容が深く関連するからとして一緒に審理することを「併合」と言うそうです。何度も裁判傍聴をしていきましたが、「併合」という審理は、初めての体験です。

原告席に二組の弁護団が座っているのがようやく理解でしました。中国電力の代理人弁護士と中国電力の当時の役員を訴えた株主弁護団と他の裁判では争う立場にある弁護団二組が、原告席に同席するという奇妙な風景ができてしまったのです。謎は解けましたがなんとも不思議な景色です。

この公判では、もう一つびっくりする出来事がありました。審理が始まると、これまで提出された書証の確認が終了し、「今後も何か証拠書類を提出しますか」とそれぞれの弁護団に確認した後、裁判長は「次回の裁判期日は4月10日です」と告げ、「これで本日は終了します」といってしまったのです。

「エッ」という雰囲気が法廷に広がりました。私もびっくりです。「今日は木原さんの原告意見陳述があるのではなかったの?」。私のすぐそばの原告席にいた木原さんも、狐につままれたような表情をしています。

席を立とうとしていた裁判長が、気づいたのでしょう「あっスミマセン。今日は、意見陳述がありました。どうぞ」ということで、やっと木原さんの意見陳述が始まりました。

こんな裁判長の失態も初めての体験でした。

木原さんたちが起こした「株主代表訴訟」は、一つ目の中国電力が「課徴金と排除措置命令の取り消しを求める訴訟」が進展しなければ、結論を得ることは難しい裁判だなとの感想を持ち,裁判傍聴、報告会を終えました。

いのちとうとし

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2024年2月 6日 (火)

第2回STOP GENOCIDE―広島パレスチナ連帯デモと親娘のスタンディング

1月2日につづき、2回目となる広島パレスチナ連帯デモが、4日(日曜日)午後4時半からアリスガーデンを出発し、原爆ドーム前まで約70名の市民が参加し、実施されました。

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今回のデモコースは、福屋を一周するコースが加わりましたので、前回より少し長めのデモ行進となりました。

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Free Palestine!

Free Gaza!

子ども殺すな!

今すぐ停戦!

などのシュプレヒコールを繰り返しながらのデモ行進でした。

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前回と比べると、通行人の反応がよかったように感じました。約40分あまりで原爆ドーム前に到着し、それぞれのアピールがありました。

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私も「Free Palestine」と書かれた手作りのワッペンを,左腕に付け参加しました。

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今日紹介したいのは、このワッペンのことです。

2日のブログに書いた「ミャンマークーデター3年犠牲者追悼の祈り」が終わった後のことです。

追悼の祈りをしているときから気になっていたのですが、毎日夕方午後5時半からパレスチナ支援のスタンディング行っている場所にフェンスに何か取り付け立ち続ける女性二人の姿がありました。追悼の祈りが終わりましたので、近づいて声をかけました。

「どこから来られたのですか?」

「娘と二人で呉から来ました。呉で、背中にゼッケンを付けて歩いているのですが、スタンディングは初めてです。いつもここでスタンディングをされていることは知っていたのですが、午後5時半からでは参加できないので、一度はスタンディングをしたいとここに来たのです。」

後ろ向きになって背中のゼッケンをみせてくれました。

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廻りには、手作りのグッズが並んでいます。足下左側の水色のポスターのところに私がもらったワッペンが数枚並んでいるのがわかると思います。

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母親と娘さんは、フェンスに取り付けた手作りの凧をまんなかにして立っています。

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二人の写真も撮ったのですが、中学一年生の娘さんの顔が写っていますので、掲載しません。

この凧は、1月に世界中で行われた凧揚げのイベントの日に揚げた凧だったようです。

帰宅してから調べてわかったことですが、ガザでは、パレスチナのこどもたちが2012年から毎年3月に「東日本大震災の復興」と被災者への連帯をあらわすため(2020年はコロナのため中止)凧揚げを実施しています。1月の何日かを聞きそびれたのですが、それに連帯する思いで、凧揚げをしたといくことのようです。凧揚げには、そんな意味があったのです。

「声をかけていただきうれしかったです。このワッペンをあげます」と手渡されました。

「4日のデモ行進がありますので、その時必ず付けて参加します」と約束しましたので、今回はこのゼッケンを付けてどうしても参加したかったのです。

原爆ドーム前での、お母さんと中学一年生の娘さんとの出会いは、パレスチナに連帯する輪の広がりを感じ、核実験抗議の座り込みを続けられた森滝市郎先生が、小さな子どもの「座わっとっちゃ止められすまいでえ」との問いに対する答えとして導き出された次の言葉を思い起こしました。

「精神的原子の連鎖反応が、物質的原子の連鎖反応に、かたねばならぬ」

Chain reaction of spiritual atoms

must overcome

Chain reaction of material atoms

いのちとうとし

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2024年2月 5日 (月)

ヒロシマとベトナム(その55) ~日越外交関係樹立50周年記念訪問―その4~

昨年11月にスタートした「ベトナム訪問記」、ホイアン編に入る前に嬉しい報告です。昨年秋の訪問時、クアンチ省知事から功労賞をいただいたことは既に報告しましたが、この度、一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会(HVPF)が、ベトナム国のブイ・タン・ソン外務大臣表彰を受けました。1月21日、六本木ヒルズ・ハリウッドプラザで、宮城県日越交流協会、栃木県ベトナム友好協会などとともにファム・クアン・ヒエウ大使から表彰状を授与していただきました。この間の草の根交流を支えてくださった多くの皆さまのお陰です。

ありがとうございました。

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古の交流が偲ばれる遠来橋(日本橋)

さて、話をホアイアンに戻します。11月4日の午後、フエとダナンの間に立ちはだかるハイバン峠を貫く東南アジア最長のトンネル(6,280m)を難なく越え、夕刻、ダナン市に入りました。このハイバン・トンネルは日本のODAで2005年に開通したものです。車窓から著しい発展を遂げるダナン市を眺めながら、ひたすらホイアンに向かい、チェックインしたホテルは五つ星ホテル「LOYAL RIVER SIDE」。料金の方は旅行社のオーダーミスで格安、皆、“ラッキー”と大喜びでした。

ホイアンといえば16末~17世紀中頃まで朱印船が通い、日本人町や遠来橋(別名「日本橋」)が作られた歴史の町で、1999年にユネスコの世界文化遺産に登録されています。遠来橋は1593年に日本人町と中国人町を結ぶ橋として日本人が架けた瓦屋根付きの珍しい橋です。ベトナム紙幣(2万ドン)の裏面にデザインされ、日常的に親しまれています。

1719年に広南国王が「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」という論語から遠来橋と名付けたと伝えられ、ホイアンの人気スポットです。残念ながら8回目の修復工事中で橋全体が覆われ、今回はその姿は見ることはできませんでした。

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左は2014年訪問時、右は今回

つながった『古着屋惣兵衛』、『新・古着屋惣兵衛』シリーズ

話は長くなりましたが、幕府開闢から200年あまり、欧米列強が植民地支配の触手を伸ばしてくるとともに、幕藩体制が緩み、軋み出す時代を背景にした時代スペクタル。是非、手にしてみてください。

絶景!ランタンに浮かぶホイアン

もう一つホイアンで有名なのがランタンです。かつて貿易港として栄えたホイアンはファイファという大きな貿易港があり、16~17世紀にかけて日本との交易が盛んでした。日本の鎖国政策以降は、中国との関係が強くなり、様々な交易品が持ち込まれます。その中に含まれていたランタンからホイアンの職人によって独自のデザインが生まれ、ホイアン名物になったと伝えられています。

世界遺産のまちホイアンは毎月旧暦の14日の夜、ランタン祭りで賑わいます。もともと故人を追悼する行事だそうで、日本のお盆に似ています。私たちが訪れた時はランタン祭りではありませんでしたが、まちを彩るランタンはとても幻想的で誰もが魅了されます。

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今につながる日本とベトナムの絆

ホイアンには、日本との縁を伝える遠来橋を含む貴重な歴史的な建造物も多く残されています。かつて日本や中国との海洋貿易港だったという面影を残しているのが「フーフンの家」です。コショウや絹製品、ガラス細工や青磁器などで繁栄を築いた豪商のフーフン(馮興)が200年前に建てたものです。土壁はベトナム式、柱や扉は中華式、屋根は日本式という日越中3カ国の建築様式が融合し独特の雰囲気を漂わせています。

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フーフンの家にはお土産屋を兼ねたアートがあり、ガイドもしてくれます。上の写真はホイアン名物のランタンをモチーフに織られたベトナム刺繍です。作っていたのは枯葉剤被害者でした。その美しさに惹かれて買い求め、わが家の居間を飾っています。

 今号でダナンまで進む予定でしたが、少し長くなりましたので次号で報告します。

(2024年2月5日、あかたつ)

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2024年2月 4日 (日)

2024年全国被爆二世団体連絡協議会総会

隔年で開催されている全国被爆二世団体連絡協議会(以下「全国被爆二世協」)の2024年総会が、3日,4日の二日間、広島の自治労会館で開催されました。2年前はオンラインでの総会でしたので、久しぶりの対面の総会となりました。

初日の3日は、午後1時から始まりました。

開会のあいさつに立った崎山昇全国被爆二世協会長は、運動の現状と今後の課題について次のように述べました。

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「今私たちの運動にとって大変重要な時期を迎えています。第5の被爆者として被爆者援護法の適用を求めてきましたが、未だ実現していません。被爆70周年の年に新たな方針を決めました。その一つは、国際社会に訴えることですが、国連人権委員会、核兵器禁止条約第1回締約国会議、NOT再検討会議などに参加し取り組んできました。裁判を通じて被爆者援護法の適用を実現させることは、2017年2月の集団訴訟提訴以来すでに7年が経過しました。2022年そして2023年に長崎地裁・広島地裁において出された判決は到底納得できるものではありません。影響を否定できなかったことは大きな足がかりですので、福岡・広島両高裁では、正面から向きあった公正な判決を求めます。裁判を通じて、被爆二世問題を政治課題として押し上げることができました。こうした面を前進させるため、今後も全力で取り組みたいと思っています」

続いて来賓のあいさつが行われ、私も原水禁国民会議、広島県原水禁を代表してあいさつを行いました。

その後、平野克博事務局長から,この2年間の活動報告、今後の運動方針が提起され、全体の拍手で確認されました。

提起された運動方針の柱は次の通りです。

1、再びヒバクシャをつくらせないため、核廃絶と世界の平和を求める活動への積極的な取り組みを進めます。

2,国家補償と被爆二世・三世への適用を明記した被爆者援護法の改正をめざします。また、被爆二世健康診断の法制化、充実に向けて取り組みます。

以下8つのテーマがありますが、省略します。

総会の最後に、「被爆地ヒロシマ選出の岸田文雄内閣総理大臣・自由民主党総裁への要請」が採択されました。要望の要旨は次の通りです。

「1、核兵器禁止条約に日本政府として署名・批准すること。2、戦争遂行主体であった国が自らの責任によりその救済を図るという被爆者援護法の立法趣旨の立場に立って、広島の黒い雨被爆者や長崎の『被爆体験者』など高齢化し原爆による特殊な被害に苦しむ被爆者や,原爆放射線の遺伝的影響を否定できない被爆二世を広く救済すること。3、国策ですすめた福島第一原子力発電所で重大事故を起こした責任を果たすこと。①トリチウムを含む放射能汚染水の海洋放出を直ちに中止し、責任を持って陸上で保管すること②全ての福島原発事故被害者に国の責任による『健康手帳』など『被爆者援護法』に準じた新たな法整備を行うこと③原発推進エネルギー政策を転換し脱原発を推進すること」

総会に引き続き、被爆二世裁判弁護団長の在間秀和弁護士の「“被爆二世に対する援護”諦めない闘いを」と題した記念講演が行われ第1日目が終了しました。

二日目となる今日は、午前9時から「今後の取り組みの提起」を受けての意見交換・各地の取り組み報告が行われます。

いのちとうとし

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2024年2月 3日 (土)

2004年広島県原爆被害者団体協議会新春代表者会議

広島県原爆被害者団体協議会(以下「広島県被団協」)は、2月2日の午前10時から平和ビルで「2004年新春代表者会議」を開催しました。

全員で黙祷の後、箕牧智之理事長が開会のあいさつ。

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箕牧理事長は、「元日の能登半島沖地震、羽田での航空機事故、今年はどんな年になるだろうかとの思いが強くなっています。被爆79周年を迎え、被爆者は高齢化し,集まるのも難しくなっています。先日、この会議にもよく参加していただいた三原の中林さんが亡くなられたという訃報が届きました。

昨年11月に開催された第2回締約国会議に参加し、若い人、教会、大学、高校で被爆証言をし、核兵器廃絶を訴えてきました。この会議で、これまで2000回を超えた核実験による被害者に対し、救済基金をつくることが決まりました。先日厚労大臣との交渉に参加しました。原爆症認定が厳しすぎることを訴えると共に、黒い雨では、なぜ長崎は適用されないのかと問いましたが、明確な回答はありませんでした。改めて被爆者は闘って行かなければならないと決意しました。コロナの拡大が言われていますが、コロナに感染しないようにしながら核兵器廃絶と世界平和を訴えていきましょう。」とあいさつ。

続いての来賓のあいさつは、連合広島、県生協連、そして県原水禁代表の私があいさつを行いました。

ここで来賓は退場となりましたが、席を移して会場に残りました。というのは、今年初めてのことですが、地域活動報告として坂町原爆被害者友の会の報告が予定されていたからです。

報告者は、会長で被爆二世の池田節夫さんです。池田さんは若いときに一緒に運動してきた仲間です。

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池田さんの話しの要約です。

2017年、前身である坂町原爆被害者の会が、高齢化などの理由で解散したとき、坪井理事長に「坂町の平和の火が消えるのは、さみしいの」と言われて,当時の会長の刎本会長とも話し合ったのですが存続することはできませんでした。その時、刎本さんから「原爆の碑を守って下さい」と言われました。坂町には、坂町原爆追悼碑、小屋浦原爆慰霊碑、横浜原爆慰霊碑、翔洋高校(旧女子商)原爆の碑の4つの碑があります。2018年8月6日に第1回坂町原爆被害者追悼慰霊式を坂、小屋浦の二カ所で実施し、同じ年の9月29日に坂町原爆被害者友の会を結成しました。その時、坪井理事長から次のように書かれたお手紙をいただきました。「本来、人は善なるものと思う。その人たちがみんな集まって,平和団体をつくり、進む姿は美しい。どうか今後、みなで力を合わせてがんばって下さい。」

2019年6月29日に第1回被爆者相談会を参加者35名で実施。2022年3月27・28日に、坂町民センター、小屋浦集会所で県被団協主催で,黒い雨説明会を実施したところ60名の参加がありました。

その後私のところに問い合わせがあり、家に来ていただいたり、被爆者宅を訪問したりして、手帳交付申請手続きのお手伝いをしています。坂町の被爆者健康手帳の取得状況は、2年間で219人が申請し、認定され取得した人は169人ですが、そのうち黒い雨の被爆者は、162人です。

機関誌「あさがお」は23号まで発行し、現在坂町原爆被害者友の会の会員は、104名になりました。手帳交付人数と連動はしていませんが、これからも少しずつ前に進んでいきたいと思います。

池田さんの報告はこれで終わったのですが、地道に活動を続けている報告に感心しながら話を聞きました。その後、司会者の熊田哲治事務局次長からから、黒い雨の手帳取得には安芸太田町でも被爆二世を中心に相談に乗っているとの報告もありました。

いよいよ、被爆二世が県被団協を担っていく時期になったのだなと言うことを実感させられる池田さんの報告でした。

いのちとうとし

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2024年2月 2日 (金)

ミャンマークーデター3年犠牲者追悼の祈り

2021年21日にミャンマーで国軍がクーデターを行ったちょうど3周年となる昨日、午後3時から原爆ドーム前で「ミャンマークーデター3年犠牲者追悼の祈り」が、仏教式とキリスト式によって実施されました。

私がこの集いに参加するのは、昨年に続いて2度目です。

最初は、毎月「1の日行動」を続けているミャンマー(ビルマ)市民の声を聞く会の小武正教さんたち仏教での追悼。小武さんは次のように訴えました。

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「本日は、2021年2月1日、ミャンマー軍が起こしたクーデターから丸3年になります。この間、不条理にも軍にいのちを奪われるミャンマー市民の人たちは、毎日増え続けています。『政治犯支援協会』によれば1月22日時点で4,416人が殺害され、25,854人が逮捕され、19,952人が拘留されたままです。またこれ以外にもミャンマー軍の爆撃で、おびただしい数の市民や少数民族の人たちのいのちが奪われています。私たちは、ミャンマーが一日も早く真に平和で自由な社会になることを願いながら、毎月『1の日行動』として街頭アピール・募金を続けてきました。しかし、クーデター後の日本政府やミャンマーに進出した日本企業の対応は、未だミャンマー市民の願いに添ったものではありません。『民あっての国であります。民意を武力で弾圧する政権は必ず滅んでいきます。』ODAやミャンマー軍との繋がりは、ミャンマーの市民からダブルスタンダードだと批判の声がすでに上がっています。その上、日本政府の政策は難民としてやってくるミャンマー人にとってとても冷たい国であることに私たちは大変申し訳ない思いを今抱いています。『信頼』こそが人と人を結ぶ原点であると私たちは考えています。ミャンマーが一日も早く真に平和で自由な社会となることを願い、この広島の地で、日本に住む者の責任であることを心に刻み、おのおのがこれから活動していくことを心に誓うため『仏説無量寿経』の意訳をお勤めいたします。」

続いて、キリスト教式の追悼で、賛美歌、聖書の朗読などが行われました。

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最後に、広島に住むミャンマー人を代表してアウンチーさんがアピール。

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「国軍によるクーデターが起こって以来、母国はどうなるだろうか、兄弟は、子どもたちの未来はどうなるのだろうかと考えると眠れない日が続いています。」と今の気持ちを訴えながら参加した他のミャンマー人と共に次のシュプレヒコールを行いました。

・スーチーさんを含む全ての政治囚を釈放するよう暴力ミャンマー軍に・・・圧力を

・日本政府はミャンマー暴力軍経由の支援やODAを・・・やめろ

・日本政府は国民を無差別に殺害しているミャンマー軍を・・・制裁しろ

・日本政府は260万人以上増え続けているミャンマー国内難民を・・・助けて下さい

ロシアによるウクライナ侵略、イスラエルによるガザジェノサイド攻撃が続く中で、3年前から続くミャンマーの国軍による空爆・大量殺害のニュースが非常に少なくなっていますが、今も続いているミャンマー軍の暴挙を決して忘れてはならないという思いを新たにした集いでした。

参加者は、約30人でした。

いのちとうとし

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2024年2月 1日 (木)

「まさか」に備えて…

人生には「上り坂」「下り坂」「まさか」の3つの「さか」があるとよく言われます。その「まさか」な出来事が、いわゆるお正月気分を吹き飛ばすことになりました。

「能登半島地震」が発生して、1か月が経とうとしています。この度の震災で犠牲となられたみなさんに哀悼の意を表するとともに、避難生活を余儀なくされているみなさんに心からお見舞い申し上げます。

災害への備えを考えるとき、よく自らとりくむ「自助」、地域で、みんなで協力してとりくむ「共助」、行政、公的機関がとりくむ「公助」の3つがあげられます。

「自助」について、行政のホームページをみると、「3日分の水や食料を確保しましょう」などと書かれています。私自身、家族の人数分の防災リュックを購入しているだけで、十分な備えができているとはいえない状況です。

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「共助」について、私が住む市では自主防災組織がつくられており、防災訓練がほぼ毎年実施され、多くのみなさんが参加されています。

また、自宅の近くに市からの備蓄品の保管場所があります。ここはメインの防災倉庫ではないので、水、レトルトご飯、アルミシート、寝袋等しか保管されていません。これだけでは近隣のみなさんが避難されても不十分と言わざるを得ません。

「自助」「共助」でカバーできない部分を担うのが「公助」ということになります。行政の最大の責務は、市民の生命・財産・安心安全をまもることです。一方で、「公助の限界」ということも指摘されています。特に、今回の「能登半島地震」のように、災害の規模が大きくなると、迅速に支援することが難しくなると言われています。

「公助」を担う行政、公的機関には、日常的に「自助」「共助」を促すための施策が求められているのではないでしょうか。また、いつどこで災害が起こってもおかしくない日本では、防衛よりも防災・減災が求められていると思います。自衛隊を災害救助に特化した組織に再編することを願ってやみません。

(まるちゃん)

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