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2024年1月18日 (木)

広島市公文書館企画展示「平和記念公園ができるまで」

私の住むマンションの東隣に建つ平和ビルの7階にある広島市公文書館では、令和5年度の企画展示「平和記念公園ができるまで」が、開催されています。ずっと気になっていましたので、昨日行ってきました。

この企画を紹介するチラシには次のように書かれています。

「1945年(昭和20年)8月6日、広島市は一発の原子爆弾で焼き尽くされました。75年は草木も生えぬと言われたこの地に平和記念公園が計画され、設計競技を経て完成するまでの経過を、関係する文書や図面、写真などから振り返ります。」

この文章に示されたように「被爆直後の中島地区の写真」から始まって、新聞記事、第1回広島市復興審議会の会議録、「広島市平和記念公園及び祈念館設計懸賞募集要項」やそれの応じた佐藤重雄氏の応募作品、第1等となった丹下グループの設計競技応募作品の写真など29点が展示されています。

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平和公園建設に向けての懸賞募集などは、以前にも学んだことがありましたが、特に興味を引かれたのは、最初に展示されていた2枚の「爆心地周辺の公園構想に関する新聞記事(複製)」です。

1枚は、昭和20年(1045年)9月2日の中国新聞記事です。

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「原子爆弾の記念施設」とタイトルが付けられ、本文は次のように書かれています。

「暴虐なる原子爆弾の出現により一瞬にして壊滅に帰した廣島市の復興に付いてはその後廣島縣で着々と構想を練っているが、原子爆弾が大東亜戦終結の契機となったものでこれを記念するため何らかの施設を×すべきであるとの意見が強く、具体的方法について考究しているが、大体において焦土と化し果てた同市の姿をそのまま長く保存する計劃がすすめられている。

すなはち原子爆弾の投下により最も被害の大きかった爆心地点中心付近を相当広範囲にわたって記念区域として存続する方針であるが、酸鼻を極めた当時の様子を偲び科学日本の再建へ奮起する無言の啓示とする一面、原子爆弾の持つ害毒が相当期間残存することを考慮に入れて爆心区域一帯を空き地とする」

原爆が投下されてからまだ一月も経っていない9月2日に、すでに「記念施設」の構想があったことはちょっと驚きですし、「原子爆弾が大東亜戦終結の契機」となったとも記していることに、当時の思いはそうだったのだという感じを持ちます。

もう一枚は、翌昭和21年(1946年)2月27日の中国新聞記事です。

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この記事は、同じ月の25日に開催された「第1回復興審議会」において発表された都市計画案の内容を紹介しています。

「爆心地に公園、記念施設を設け、各河川の左岸(東側)は、散歩道路とし、右岸は主に住宅地に開放。西練兵場広島城跡は官街、学校街とし・・・」との記述があります。ほぼその通りの街作りが進んだように思えますが、特に興味を持ったのは、「各河川の河岸」の使用法についてです。河岸の多くに一時、不法住宅が乱立していましたが、私が広島に来た時期頃から不法住宅の強制撤去が始まり、その跡地は、右岸のみならず両岸とも、ここに言う「散歩歩道」は、公園として整備され、広島市の特徴ある景観となっています。

戦後のごくごく早い時期から、そうした計画があったことを知ることができた広島市公文書館企画展示「平和記念公園ができるまで」でした。

この企画展は、2月2日まで開催されています。

いのちとうとし

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コメント

75年は草木も生えぬ  新聞で、当時の秋に 草が繫るほどに生えている写真の紹介がありました  鈴木貫太郎内閣は終戦内閣でした 陸軍大臣はそれを承知でしたが 反対の立場を  立場上 貫きました でも 閣議決定での文面 終戦しょう書に署名捺印しました 署名しないと内閣としては終戦文書を 有効に できません 署名押印をして区切りを付けて  陸相は自決しました 玉音放送は8月14日の夜を計画したそうです それに陸相は反対しました 夜だと治安が保てない、と   半藤一利の 日本でいちばん長い日 は読んでいません 半藤一利さんは 反乱分子が探しまわっても見つけることが出来なかった 玉音盤 の隠し場所は 明示されていません  隠し場所を知らなかった? 敢えて書かなかった?

北さん

コメントありがとうございます。
歴史問題に詳しいのですね。
私が、公文書館の展示を見て興味を持ったのは、9月2日付の新聞ですが、この日は奇しくも、ミズリー号の船上で、降伏文書に署名をした日だったことです。
歴史は、どの角度から見るかでその評価は違ってくるように思います。

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