「広島ブログ」

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2024年1月

2024年1月31日 (水)

2024年月のブルーベリー農園その4

1月の23日と24日が寒かった。冬らしい気候といえるが、25日からは暖かくなってきたので、寒い日はもうこれでお別れしたい気持ち。安芸区の自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー農園に週末に通いブルーベリー栽培を続けている。農園は畑と里山の2か所にあり、里山のブルーベリーの剪定が27日に半分ちょっと終わり一区切りついた。里山のブルーベリー園の西側は風が強い場所なので2月からは寒い作業からちょっと解放される。

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1月27日(土)

農園の早生のブルーベリーは花芽がラビットアイ系より早く膨らむ。枝も赤みを増している。

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里山のブルーベリー園は山蔭になるので雪が残っていたが、帰るころには消えていた。

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ブルーベリーの剪定を続ける。西側のブルーベリーの剪定は昨年の12月に落葉を待って始めたが、27日で終了した。古い幹をほとんど切ったので一回りも二回りも小さくなった。

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作業している場所から見える田んぼ。光が明るさを増してきたので、どこかキラキラしていて田んぼも山も冬ざれの景色とは違った様相になってきた。

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里山の木々の間からこぼれる光も強くなって明るい。

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1月29日(月)

午後福富町の道の駅「湖畔の里」に立ち寄る。そこから見える山。写真左・鷹ノ巣山(標高921.8m)、右・カンノキ山(標高891.9m)。鷹ノ巣山には若いころ一度2月か3月に職場の先輩たちと登ったことがある。ブナの木の南限で、芸北の臥竜山までいかなくてもブナ林が見ることができる山だ。

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里山の東側のブルーベリー園。ブルーベリーの木の株もとは太い幹が数本ある。ここは2000年に植えた場所なので太い幹も20年たっているので木って枝の更新を図る。

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この場所のブルーベリーの剪定をしていると鳥の巣があった。鳥はもういない。巣の下の方には白いビニールの紐が見える。西側のブルーベリー園にも鳥の巣が1か所あった。

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剪定作業が済んで帰り支度の時間にあたりの景色を撮影。

①5時前のブルーベリー畑と集落と板鍋山(右、標高757m)。まだ明るい。

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②夕方5時になると西日でブルーベリー畑にさす光が木々の明暗を浮かばせてくる。

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③ススキの穂は種をあちこち飛ばして小さくなっている。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年1月30日 (火)

島根県知事に「能登の警告は、島根原発2号機の再稼働同意を撤回すること」を要請

中国電力は、今年8月に島根原発2号機の再稼働をさせることを計画しています。

「島根原発2号機の再稼働」については、原子力規制委員会の「合格」を受けて、一昨年6月に丸山達也島根県知事が同意を表明していました。

そんな中での能登半島の大地震が発生しました。その教訓は、島根原発2号機を動かそうとしていることへの警告として、県知事は再稼働同意を撤回するように求める緊急要請を1月26日に行いました。

緊急要請には、広島県原水禁など北海道から鹿児島県までの192団体の賛同を得ました。能登の教訓は、志賀原発が立地されている志賀町で震度7を記録したこと。活断層の長さと連動の問題、屋内退避が不可能さ、道路寸断で避難ができないということなどだろうか。

島根原発の南側約2キロに、宍道断層があります。その西端から6キロのところの日本海側には、鳥取県西部沖断層の東端が存在しています。この二つの活断層が繋がっているという主張を私たちは行っていましたが、その心配を能登が示しました。

一昨年6月、丸山島根県知事は「重大事故のリスクがゼロになっているわけではない。不安、懸念をもたれている県民がいる」「苦渋の決断だった」としながらも、再稼働を同意しました。

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私たちの要請に対し、島根県の担当者は「現状においては、やむを得ないとの判断に変わりはない」の発言を繰り返しました。

『苦渋の決断』だったのなら、まずは県民の不安に応えるために、立ち止まることではないでしょうか。

私たちは、この地震による警告を本気で受け止め、再度考えを表明することを求めました。全国からの声に、本気で向き合ってほしいと強く思います。

以下に、要請書の全文を掲載します。


能登半島地震を受けての島根原発2号機再稼働の中止を 求める緊急要請

日ごろより県民の安全・安心な暮らしのため、県政を担っておられることに対し心より敬意を表します。 

一昨年6月2日、貴知事が島根原発2号機の再稼働に同意を表明したことから、中国電力は本年8月に再稼働させる計画です。 

本年1月1日能登半島大地震が発生し、能登半島一帯においては多数の死者や安否不明者、負傷者、避難生活者が発生するなど、まさに未曾有の被害が起こっています。 

同県志賀町においては、北陸電力志賀原発から9km離れた地点で震度7、加速度2826ガルを記録しています。志賀原発では震度5強を観測しました。

同原発が運転停止中であったことは幸いでしたが、2系統の外部電源を喪失するなど、重大な事故となり地震の影響を無視することはできません。 

また今回の地震について、原子力規制委員会の会合において、能登半島北部に連なる細切れの活断層が、およそ150㎞以上に渡って連動したとされています。 

このことを、北陸電力は想定することができていませんでした。これは活断層評価及び連動評価のあり方に対する信頼を消失させました。

この度の地震によって、能登半島西側道路は通行止め等で、集落が孤立し避難・救援ができないという状況が続いています。島根原発近傍の「宍道断層」による地震が発生した際にも、同様の事態が生じることは十分に考えられます。そして原発で重大な事故が起きた際、屋内にとどまって被ばくを避けるといった国の指針にもかかわらず、屋内退避や避難が物理的に困難な状況になることを示しました。原発事故と地震災害という複合災害発生時の「避難計画」が機能しないことも明確です。

この度の能登半島地震の教訓は、島根原発2号機を動かそうとすることへの、強い警告と受け止め、私たちは貴知事に対し、下記のことを緊急に要請いたします。 

 

1,一昨年6月2日に行った島根原発2号機再稼働同意を撤回し、中国電力(株)に対し、そのことを伝えること。   

以上 


木原省治

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2024年1月29日 (月)

原水爆禁止広島県協議会第93回総会

原水爆禁止広島県協議会は、ネバダデーの座り込みを行った後午後2時から自治労会館で第92回総会を開催しました。

総会は、高橋克浩代表委員代表委員の開会あいさつの後、議長に藤本講治常任理事(憲法を守る広島県民会議事務局長)を選出し、議事に入りました。

最初に秋葉忠利代表委員が、主催者を代表してあいさつ。秋葉さんは、座り込みの後記者から「座りこんで何が得られますか」と問われと紹介しながら「最終目標にてらして日々の活動がどうつながっているのかを考えていくことが大切。自己満足は大切だが、自己満足にとどまっていてはいけない」と核兵器禁止条約を批准しない日本政府に対する運動の向き合いかたを提起しながら「政府は、被爆という事実に真摯に向き合ってきたのか。憲法9条は、その反省の中から生まれたことをまなぶべきだ。」とし、最後に「存在しなくてもよい、対策をしなければならない人工物をつくっている。それが核兵器。それを止めることが私たちの課題」と提起しました。

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その後大瀬事務局長が、2023年度活動報告と決算、2024年度活動方針と予算を提起し、質疑に入りました。方針では、従来の運動をさらに強化すると共に、特に今年結成70周年を迎える広島県原水禁の「歩み」を発行することを提案しました。

質疑は特に発言はなく、提案された活動報告、活動方針は満場の拍手で確認されました。また役選では、全役員が再認されました。

その後、先の能登半島沖地震を受け、「中国電力島根原発2号機の再稼働中止を求める決議」を採択しました。その一部を掲載します。

中国電力は本年8月、2012年1月以降停止している島根原発2号機を127カ月ぶりに再稼働することを表明しています。

避難計画の実効性への疑問や、核廃棄物処理を含めた「核燃料サイクル」の停滞など、多くの懸念が指摘されていましたが、そうした懸念を放置したままでの再稼働表明でした。

(中略)

さらに、今回の地震が複数の断層が連動した可能性で、およそ150㎞以上に渡って連動したとされ、活断層評価及び連動評価のあり方に対する信頼も消失しました。島根原発に近い「宍道断層」による地震が発生した際にも、同様の事態が生じることは十分に考えられます。

こうした事態から明らかに言えることは、原子力規制委員会の示す再稼働のための指針そのものの見直しが必要なこと、そして原発事故と地震災害という複合災害発生時、現在の指針を元にした「避難計画」では、実際の災害に全く対処できないということです。原発は、本来廃炉にすべきですが、少なくとも再稼働しようとするのであれば、最低でもこうした再稼働のための指針、そして避難計画を根本から見直さなければなりません。

中国電力は、この度の能登半島地震の教訓を島根原発2号機を動かそうとすることへの強い警告と受け止め、上記の点を見直すまで原発の再稼働をさせないことを表明すること、そして島根県と松江市は、住民の安全が担保されない限りそれを認めないことを強く求めます。」

総会終了後、引き続いて昨年11月27日から12月1日にニューヨークの国連本部で開催された核兵器禁止条約第2回締約国会議のため訪米した3人・広島県被団協理事長箕牧智之さん、コネクト広島大内由紀子さん、高校生平和大使尾崎心泉さんの報告学習会を開催しました。

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手前右が大内由紀子さん、左奥が尾崎心泉さん

その中で、今年初めて海外の活動に参加した尾崎さんの「核抑止力論を科学的に検証すると言うことが強く印象に残っている。ニューメキシコ州の核被害者など、グローバルヒバクシャについて初めて知った。ユース交流会に参加し、被爆者が高齢化していく中で、私たち若い世代が代って被爆の実態を伝えなければならないと決意した。今後、若者の平和への関心を高める活動を強めたい」との報告が特に、印象に残りました。

いのちとうとし

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2024年1月28日 (日)

1・27ネバダデー座り込み

広島県原水禁が呼びかけて1984年から始まり40周年を迎えた「1.27ネバダデー国際共同行動」の座り込み行動が、昨日午後0時15分から30分間、原爆慰霊碑前で55人が参加し行われました。

「ネバダデー」については、一昨日のブログ明日は「ネバダ・デー」です。: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介していますので、ここでは省略します。

今年のネバダデー座り込みでは、3人がアピールをしました。

最初に、箕牧智之広島県被団協理事長が、昨年12月にニューヨークで開催された「核兵器禁止条約第2回締約国会議」に参加したことを報告しながら、日本政府は核兵器禁止条約を署名批准すべきだと強く訴えました。続いて、木原省治県原水禁常任理事が、この行動を呼びかけたアメリカのジャネット・ゴードンさんの写真をかざしながら、ネバダでの核実験で被爆した人たちへの真の補償が行われていないこと、終戦直後に広島に駐留し翌年帰国した米軍兵士は、入市したのが原爆投下後2週間以上経ってからだったにもかかわらず、被曝者として補償されていることなどを紹介しました。この問題は、初めての提起であり、少し調べてみる必要があります。私は、「ネバダの核実験場閉鎖と共に核実験による被害者が救済されなければならないこと、そしていつも弱い立場の人々が核の被害者となっていることに思いはせることが大切だ」ということを訴えました。

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最後に以下のアピール文を全員で確認し座り込みを終えました。少し長いのですが、全文掲載します。


「1.27ネバダ・デー」ヒロシマからのアピール

 今日1月27日は、1984年、米国の市民団体の呼びかけで始まった核実験場閉鎖・核実験禁止を求めるネバダ・デー国際共同行動日です。

 ネバダ核実験場では、73年前の1月27日に最初の核実験が行われて以来、地上での核実験を86回実施し、その後の地下核実験を含めると爆発を伴う核実験は935回に達したとされます。この核実験によって、風下住民を始め、全米各地で多くの核被害者を生み出しました。包括的核実験禁止条約(CTBT)が成立した1996年以降も、臨界前核実験を強行しています。

核兵器の廃絶を求めて2017年に国連で採択された核兵器禁止条約は、第1条で「核兵器の開発、実験」を禁止しています。核実験場は、閉鎖されなければなりません。私たちは、新たな核兵器開発につながる全ての核実験場の廃止を強く求めます。そして核実験実施国は、同条約の第6条に明記された「核実験被害者に対する補償」を速やかに実施すべきです。ネバダ・デーを呼びかけた人々が、核実験被害者であったことを忘れてはなりません。

発効して3周年を迎えた核兵器禁止条約の署名国・批准国は増加を続け、本年1月15日時点で93の国と地域が署名し、70の国と地域が批准しています。ところが、唯一の戦争被爆国でありながら核抑止力に依存し、条約に背を向け続けているのが日本政府です。世界が核兵器廃絶へと動きだしている今こそ、日本がその先頭に立ち核兵器禁止条約に署名・批准し、国際的なリーダーシップを発揮することを強く求めます。

2022年2月のロシアによるウクライナへの軍事侵攻によって多くのいのちが奪われ、昨年10月にはハマスのイスラエルへの攻撃に端を発したイスラエルのガザへの大量虐殺とも言える無差別軍事攻撃でおびただしい犠牲者が生み出されています。また核兵器の威嚇・使用発言も繰り返されています。子どもを始め多くのいのちを奪い、「核兵器の使用」につながる全ての軍事行動を直ちに停止することを強く求めます。

「核と人類は共存できない」。核兵器の廃絶なくして、核の脅威から逃れることはできません。

「核も戦争もない平和な世界の実現」を求め、私たちは全世界に訴えます。

◆ネバダを始めすべての核実験場を閉鎖させよう!

◆すべての国と地域は直ちに核兵器禁止条約に参加し、核兵器開発・核実験全面禁止を実現しよう!

◆東北アジアの非核地帯化と非核三原則の法制化を実現しよう!

◆世界のヒバクシャと連帯し、ヒバクシャの人権を確立しよう!

◆原発の再稼働、新増設をやめ、核に頼らないエネルギーに転換しよう!

◆すべての戦争当事国は即刻停戦し、和平への一歩を踏み出そう!

◆ノーモア ヒロシマ! ノーモア ナガサキ! ノーモア ウォー!


府中地区から、一日早い26日に行った「ネバダデー」の様子が届きました。

府中地区のネバダデー

府中地区原水禁は1日早い26日(金)にネバダデーの座り込みを12時から1230分まで府中市役所前で行いました。参加は府中市職労と市民クラブの水田豊、土井基司、芝内則明議員など15名でした。

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行動の最後に森藤理至議長より「ロシアによるウクライナ侵攻の中でプーチン大統領は『核兵器を使用する』と言う恐い話をしています。私たちは絶対に核兵器を使わせないために頑張っていきたいと思います。

昨年9月にICANの新事務局長に就任したメリッサ・パークさんの広島訪問を記念した講演会が120日に開催されました。講演では日本政府に対して「日本がリーダーシップをとるためには、核の傘の考えを捨てるべきです。自国のことのみならず、道義的な立場に立って働くべきです」とし、「核兵器の非人道性を訴えることが重要です」と強調されました。

核兵器廃絶に向けて世界では、こういう動きになっています。日本が核兵器廃絶の先頭に立つよう、私も運動していきますのでご協力をよろしくお願いいたします」とあいさつされ、解散しました。

いのちとうとし

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2024年1月27日 (土)

「ガザ虐殺やめろ!パレスチナ・ウクライナ・ミャンマーに平和を!1・26総決起集会」

戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員は、第213通常国会が開催された昨日午後6時から原爆ドーム前で「ガザ虐殺やめろ!パレスチナ・ウクライナ・ミャンマーに平和を!126総決起集会」を開催しました。

ロシアによるウクライナ侵略が始まって間もなく2年、イスラエルによるパレスチナガザ地区への侵攻による虐殺が始まった間もなく4ヶ月、ミャンマーの国軍クーデターから3年経とうとしています。

この間、どれだけの尊い命が奪われたか。そして今も市民の犠牲者が増え続けています。戦争・軍事行動による最大の犠牲者は、市民です。いのちを奪う戦争に反対する、それはヒロシマの心です。その声を上げようと開催されたのが、昨日の集会です。

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I女性会議の貴田月美さんの司会で始まった集会は、最初に会場と同じ場所で毎日「イスラエルのジェノサイド攻撃に抗議し、いかなる市民の殺りくも支持しない。イスラエルはガザでの虐殺を今すぐにやめて」と行動を続ける広島市立大学大学院生レベッカ・マリア・ゴールドシュミットさんが、自らがユダヤ人であること、そのルーツを紹介しながらガザ地区の現状と即時の停戦を訴えました。

その後、ヒロシマ総がかり共同代表であり「憲法と平和を守る広島共同センター」の川后和幸さん、そして戦争をさせない千人委員会を代表して私が訴えました。私は、「今この時もガザでは多くのいのちが奪われている。特に多くの子どもたちが犠牲になっていることに思いをはせよう。いのちの尊厳を奪う戦争の即時停止。それは、この地に立つ全ての市民の共通の思い。その役割は、戦争、原爆により尊い多くの犠牲の中から生まれた平和憲法を持つ日本こそが果たすべきこと。ガザで起きていることに目を向け、この地から、戦争即時停止の声を上げ続けよう」と訴えました。

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原爆ドーム前の集会を終え、参加者は、紙屋町交差点、本通を通ってパルコ横のアリスガーデンまで次のようなシュプレヒコールを繰り返しながらデモ行進を行いました。終わりの方でレベッカさんがマイクを握ってくれました。みんなの声も大きくなったような気がします。

ガザ虐殺やめろ/子どもを殺すな/女性を殺すな/誰も殺すな/即時停戦せよ/フリー・フリー・パレスタイン/フリー・フリー・ガザ!

憲法守ろう/憲法活かそう/岸田大軍拡止めよう/戦争に税金を使うな!

政治腐敗を許すな/裏金政治をやめよ!

ヒロシマから戦争を止めよう/

地震列島に原発いらない/原発反対・命が大事/災害救助隊をつくれ/防衛より防災を/被災者を救援しよう!

日が沈む頃からますます寒さが厳しくなる中での集会・デモでしたが、200人の参加がありました。

レベッカさんたちの「広島パレスチナともしび連帯共同体」の行動を支援するための会場カンパ、デモ行進が始まってからの取り組みとなったため、一部の人にしかカンパ袋が回りませんでしたが、それでも122,821円ものカンパが集まりました。

いのちとうとし

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2024年1月26日 (金)

明日は「ネバダ・デー」です。

「ネバダ・デー」とは:

1951年1月27日、アメリカ・ネバダ核実験場で初めて核実験が行われました。それから 33周年にあたる 1984年1月27日、米国・ユタ州シーダー市の「シティズンズ・コール」(ジャネット・ゴードン代表)の呼びかけで、全米各地で反核集会が開催されました。イギリス・カナダ・マーシャル諸島などへも広がり、広島県原水禁もこの日、核実験全面禁止を求める国際連帯行動として、原爆慰霊碑前で座り込みを行いました。その後、この日が「ネバダ・デー国際共同行動日」となり広島では毎年、座り込み行動を続けています。(*昨年の1.27ネバダ・デー ヒロシマからのアピールより一部抜粋)

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ネバダ核実験場での核実験

みなさま、お昼のニュースや新聞でご覧になったことはないでしょうか?

「核兵器廃絶」や「核兵器開発・核実験全面禁止」「もう戦争はいやだ!」という思いをお持ちの方、来てみてください!

毎年、この日、この場所に集まっている人たちは、特別な人たちではありません。みなさんと、同じように「核兵器廃絶」や「核兵器開発・核実験全面禁止」「もう戦争はいやだ!」という思いを表している人たちです。

残念ながら、核兵器もなくならないし、戦争も続いている、今ですが、ひとりひとりの思いを形にしたり、行動することで、

「決して、今の状況がいいとは思っていませんからね。」

「核兵器は絶対に許しませんからね。」

ということを、示し続けることになると思います。一番怖いのは、このような思いを表現することがなくなることだと思います。行動するなら、今です!

今年のネバダデー座り込みは、明日1月27()12151245原爆ドーム前です。

YH

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2024年1月25日 (木)

能登半島地震の現状を島根原発に重ねてみた

能登半島の地震から3週間以上が過ぎました。

この度の地震では、志賀町で震度7という揺れを記録しました。志賀原発そのものは、震度5強というものです。「志賀町原子力災害避難計画」というのがありますが、現在公開されているものは2017年11月版で、大部分は国の「原子力災害対策指針」のまさにコピペといえるものです。志賀町や能登半島の地域的な特性は考えていないという感じです。

原子力規制委員会が定めている「原子力災害対策指針」では、原発立地自治体で震度7が発生し、大津波警報が発令された場合、大規模災害として扱われることになっています。この度志賀原発は震度5強でしたが、立地自治体である志賀町で7を記録しているので、まさに大災害です。しかし志賀原発は停止中で、核燃料が原子炉内に入れられていないので、この指針は適用されないという理屈になります。

原発災害が発生した場合、志賀町で決められている町民へのアナウンスでは「〇〇地区、〇〇地区のみなさんは、今後の事故の対応により屋内避難または避難の可能性があることから、無用な外出は控え、自宅に留まり、今後の町からのお知らせや、テレビ、ラジオなどの情報に十分注意してください。今後、屋内退避又は避難が必要と判断される場合には、追ってご連絡しますので、自宅にて落ち着いて待機してください」という原稿が用意されています。

しかしこの度の地震では、NHKのアナウンサーはまさに絶叫調で「テレビを見ていないで逃げてください」「家に戻らないでください」を繰りかえし話していたそうです。

地震直後、石川県に住んでいる友人に電話をしたのですが、何度掛けても「混みあっていて通じません」という音声テープが続いていました。停電が続き携帯電話もネットも通じない、道路損傷で広報車も動けない、防災無線も停電という状況になったら、どうやって情報が伝えられるのでしょうか。特に放射線被害の影響に関する情報はどうやって伝達されるのでしょうか。

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崖崩れで診断された道路(信濃毎日新聞より)

志賀原発で事故が起こり避難をするときには、住民は能登町と白山市に避難することになっています。しかしこの度の地震では、白山市も能登町も自分のところで精いっぱいという被害を受けたのです。道路も大きな被害を受け通行止めが続いています。

島根原発事故時の初動避難でも、屋内退避とされています。屋内退避の考えは家屋という気密性のある建物だから、放射能の流入が止められて被害が免れるだろうという考えからですが、家屋が崩れ落ち窓ガラスが割れたという中で、何が屋内退避に根拠があるというのでしょうか。

原発災害の場合、「ヨウ素剤の服用」ということが必要となってきます。誰が、何時、どこで、どうやって、ヨウ素剤の服用を指導するのでしょうか。自治体職員の人に、それだけの人的余裕があるのでしょうか。

地震と津波であれだけの被害が出ているのです。これに目にも見えない放射能被害がプラスされたらということを、本気で考えなくてはなりません。

明日1月26日、一昨年6月に丸山達也島根県知事が島根原発2号機の再稼働に同意したことの、撤回を求める緊急要請を行うために島根県庁へ行きます。

この緊急要請には、私たち原水禁や平和フォーラムを含め、北海道から鹿児島県までの192団体からの賛同をいただきました。

木原省治

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2024年1月24日 (水)

核兵器禁止条約発効3周年キャンドルメッセージ

核兵器禁止条約が発効して3周年となる22日午後6時、原爆ドーム前に1500個のキャンドルによってつくられた「FREE PALESTINE!  NO NUKES NO WAR! 」のメッセージが浮かび上がりました。

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このキャンドルメッセージは、HANWAの呼びかけに応えた市民や被爆者約70人が参加し、午後4時半から準備を開始し、6時前に完成し参加者の手によって点火されました。

今年は、核兵器禁止条約の発効3周年を記念し核兵器廃絶への決意を示すと共に、間もなく2年となるロシアによるウクライナ侵略、そして昨年10月7日のイスラエルによるパレスチナ自治区・ガザへのジェノサイド攻撃による2万5000人の犠牲者、とりわけ毎日子どもや女性が最大の犠牲者となっている戦争の終結を訴えるメッセージがつくられました。

キャンドルが点灯された午後6時、参加者全員でロシアによるウクライナ侵略、イスラエルによるガザ侵攻、そして能登半島沖地震で犠牲となった人々に対する黙祷が行われ、その後森滝春子さんが行動の趣旨を説明し、続いて田浪亜央江さんが、「イスラエルによるパレスチナへのジェノサイド攻撃は、核兵器使用の危機とつながるもの」と今回のキャンドルメッセージの意義を訴えました。

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最後に足立修一代表が下記の声明文を読み上げて、全員で「FREE PALESTINE!  NO NUKES NO WAR! 」をコールし、午後6時45分にキャンドルメッセージは終了しました。


核兵器禁止条約発効3年にあたっての声明

 本日(2024年1月22日)は、核兵器禁止条約(TPNW)が発効して3年となる。現在、93か国が署名し、70か国が批准している。

 2022年2月、ロシアがウクライナに侵略し、その後、戦火の続く中、2023年10月、パレスチナ自治区ガザ地区でも武力紛争が発生している。イスラエルの攻撃が今も継続しており、パレスチナ人の死者は24000人を超え、うち子どもの死者は10000人を超えると報じられている。病院や避難所まで爆撃を受ける状況であり、まさに、ジェノサイド(集団虐殺)を遂行している状況になっている。国際司法裁判所では、南アフリカがイスラエルに対し、ジェノサイドであるとして、軍事行動の即時停止を求める裁判が進行している。先日開かれた弁論では、現在の状況が1948年以降のイスラエルのパレスチナに対する戦争、侵略、占領の延長の結果としてあることを南アフリカが明らかに示した。戦争を止めさせ、パレスチナの人々の平穏な生活を取り戻さなければならない。

 ロシアもイスラエルも核兵器の保有国であり、核兵器の存在によって、戦争は抑制されるという「核抑止」が破綻していることを示している。2023年11月に開催された核兵器禁止条約の締約国会議の政治宣言でも、核抑止については、核兵器が「強制、脅し、緊張の激化につながる政策の道具」として使われており、核抑止によってこれを正当化しようとする試みは、核兵器に誤った評価を与えるもので、これにより核兵器の水平的・垂直的拡散のリスクを高めていると指摘されている。

 核兵器の保有国が戦争を発動し核兵器の使用を検討している状況は、これまでになく、核兵器の使用のリスクが高まっているのであり、世界は一刻も早く核兵器を禁止し廃絶する以外に、人類が安心して生き延びる道はない。

 私たちは、核兵器保有国が安全保障を理由に核兵器の廃絶を先延ばしすることに抗し、日本政府に核兵器禁止条約へ速やかに署名・批准することを求めるとともに、核の廃絶を求める世界中の核被害者とつながり、核なき世界をめざしていきたい。


いのちとうとし

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2024年1月23日 (火)

2024年1月のブルーベリー農園その3

冬至から1ケ月が立ち東広島市豊栄町のブルーベリー農園での農作業から帰る夕方の日が長くなったのが体感できる。今年に入ってからは比較的暖かい日がつづき、雨も程よく降ってくれてブルーベリー畑を湿らせてくれている。安芸区の自宅から車で通うときの周囲の山々の落葉樹の枝先がもやーっとした色合いに変わってきていて木々の芽が膨らんできているのが分かる。日中の光も強さを増していて光の2月まであと少し。ブルーベリー農園では引き続きブルーベリーの剪定作業を続けている。

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1月14日(日)

13日は雨が降って早じまいしたのだが、14日は晴れてブルーベリー畑は明るい陽射しの中枝が赤く映える。

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この日の作業場所は畑ではなく里山に2か所あるブルーベリー園の西側の剪定を続ける。地面は今朝の薄雪で白い。

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午後1時過ぎこの場所から町中をみると煙が上がっているのが見える。とんどが始まった知らせだ。

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1月21日(日)

前日は終日雨で程よい湿り具合になった。小さな畑に今年もソラマメの種をまいた。芽が出て葉が少し伸びてきた。

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里山西側のブルーベリーの剪定を続ける。写真左のブルーベリーは全体が少し左側に傾いている。右のブルーベリーの木の勢力が強く、木と木が触れ合うのを嫌って左の木は左へ傾いている。こらから右の木が接触しないようにしっかり剪定した。

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糸取りのようにくくった剪定後のブルーベリーの枝。

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今年は太い枝をたくさん切るので枝の処理もブルーベリー園の隅に積み重ねっておく。あと一日で西側の剪定が終わる見込みがついた。ここはざっと250本ある。

 

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ツバキの蕾はまだ固い。

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夕暮れ。

①冬空のどんよりした雲の中薄日が差す。

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②農園の家の前の柿。真っ黒くなったまま、まだ残っている。

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1月22日(月)

昨日農園の家の冷凍庫から持ち帰った冷凍ブルーベリーをジャムにした。一晩おいて冷ました状態。硬さは緩め。このあと瓶に入れて冷蔵庫で保管。毎朝スプーン2杯ヨーグルトに入れて頂く。

*安芸の郷でも冷凍ブルーベリーは森の工房みみずくで販売している。(農薬不使用)

2024年123

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年1月22日 (月)

ICAN新事務局長メリッサ・パークさん来広記念講演会

昨年9月にICANの新事務局長に就任したメリッサ・パークさんの広島訪問を記念した講演会が、20日午前10時から平和記念資料館地下メモリアルホールで開催されました。

就任当初から「被爆地広島・長崎を訪問したい」を望んでいたと言われるメリッサ・パークさんですが、昨年11月27日から12月1日にかけて開催された「核兵器禁止条約第2回締約国会議」への準備、参加のため、核兵器禁止条約発効3周年目を迎えるこの時期ようやく実現しました。

被爆地訪問を強く望んでいたことは、基調講演が約1時間20分(通訳を含めてですが)に及んだことからも推察されます。

その基調講演の中から私なりに印象に残ったことをここでは紹介したいと思います。

資料館を見学して、「キノコ雲の下でいのちを失った25万人の人には、それぞれ一人ひとりに名前があった。そこには家族がいた。親しい人々がいたことを忘れてはならない」というサーロー節子さんの言葉を思い出した。「資料館は、全ての人間に対して戦争の惨禍を思い出させる場所。また人間が同じ人間にこんな行為ができることを示している。」同時に「核のない世界が可能であることも示している。心を開き、目を開けば可能である。」

さらに、被爆者の話を聞いて「若い人たちが、被爆者の体験を継承することが、過去の過ちを繰り返さないことになる」

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強調されたのは、被爆の実相が原点だと言うことです。

次にICANが、核兵器禁止条約にかかわるきっかけとなったのが、2006年に秋葉市長が「私たちは連帯すべきだ」と言われたこと、そして「2007年のウィーンの会議でも秋葉さんの話を聞いたこと」だったと秋葉さんとの出会いが強調して紹介されました。

さらに、2002年ガザでのイベントで「広島、長崎の犠牲者に対して、ガザの子どもがたちが、紙で作った船にキャンドルを灯して流した」ことを紹介しながら「世界ではほとんど核兵器の教育がされていない.核兵器に関する教育が必要だ」と強調しました。

ガザへのイスラエルの軍事侵攻が続き子どもたちのいのちが無残にも奪われている今、ガザの子どもたちの平和への思いを強調されたことが強く印象に残ります。

話しはいよいよ本題に入ります。「核兵器禁止条約は、世界に変化を起こすきっかけを作った。人道、環境に対する意識を持ち出した」とし、「核による抑止という虚構を捨てなければならない。核抑止の考え方は、核軍縮、核廃絶を阻害するものだ」としました。

そしてG7サミットについて「核のリスクを理解せず、期待を裏切るもの。被爆者の願い、若い人々の言葉を無視してしまった」と厳しく批判しました。

次は日本政府への期待・要望です。「日本は、核兵器禁止条約に署名する最初の国であったほしいと願っていた。しかし・・・・。今からでも遅くない」と、日本政府への署名・批准を求めました。さらに「岸田さんは、条約は出口だと言うが、私は入り口だと思っている」と話すと共に「日本政府が署名・批准していなくても条約の第6条の専門家会議に参加したり、信託基金に協力することを願っている」ことを強調しました。

この点については、私も同感です。

最後に日本政府に対して「日本がリーダーシップをとるためには、核の傘の考えを捨てるべきだ。自国のことのみならず、道義的な立場に立って働くべきだ」とし、「核兵器の非人道性を訴えることが重要だ」と強調しました。

核被害の実相に原点をおき、核抑止論を厳しく批判する姿勢を感ずることができた基調講演だったと思います。

この後、被爆者や高校生などとのパネルディスカッションがありましたが、時間の都合で私は会場を後にしました。

最後にどうしても触れておきたいことがあります。

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ステージ上には、上の写真のように「核兵器禁止条約に参加を」と書かれた横断幕がありました。メリッサ・パークさんの来訪を機に、「日本政府に核兵器禁止条約に参加させる」という強い思いが込められています。しかし、開会あいさつを行った松井一實広島市長のあいさつの中には「核兵器禁止条約」という言葉が全く出てきませんでした。「なぜ!」と強い違和感を持ったのは、私だけでしょうか。あいさつが終わると会場を後にした松井市長こそ、メリッサ・パークさんの話を聞く必要があったと思います。

いのちとうとし

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2024年1月21日 (日)

府中地区の1月の「19日行動」

安保法制に反対する府中市民の会は、19日の午後3時から上下Aコープ前10人、午後4時30分から府中天満屋店前9人で、「19日行動」のリレートークとスタンディングをそれぞれ30分間行いました。リレートークでは次のように話されました。

Aさん 能登半島地震で、多くの集落が孤立し、食料や医薬品や燃料などの救援物資積んだ車両も容易に近づけません。自衛隊と住民が総出、物資をバケツリレー式に運んでいる様子がテレビに映し出されています。それにしても当初、岸田首相が自衛隊の出動を小出しにしたり、自衛隊はこの時期に関東で大規模なパラシュート降下の演習をやっていました。政府も自衛隊も許せません。また、北陸電力は志賀原発2号機で外部電源を受けるために必要な変圧器から漏れた油の量について、当初発表の5倍超にあたる約19800リットルだったと訂正しました。さらに原発敷地内にある水槽の水位変動も数値を変更するなど、訂正が相次ぎました。正確な情報発信さえしない北陸電力には原発を動かしているという責任感は微塵も感じられません。これでは能登の人たちは浮かばれません。そして現在の日本の原発そのものの危機といえます。

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上下Aコープ前

Bさん 辺野古新基地建設をめぐり沖縄県を国交相が訴えた代執行裁判の判決は三権分立を否定するもので許されません。ことの発端は1995年に米兵3人が起こした少女暴行事件が発端です。「これでもアメリカにものが言えないのかと」と沖縄県民が日本政府に怒りを爆発した事件です。米軍は占領時代に銃剣とブルドーザーで基地を拡張しましたが代執行はその再現です。沖縄の歴史からすれば代執行など日本政府は行えないはずです。

Cさん 自民党のパーティ券裏金問題は肝心な旧安倍派などの幹部が罪に問われないようでは国民は検察庁や司法など信頼しないでしょう。もともと国会で解決しようとしていないところに問題があります。国会で旧安倍派などの幹部を呼んで尋問し解決すべきです。

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府中天満屋前

Dさん 広島市の松井市長が市職員の研修に「教育勅語」を使っている問題をご存知でしょうか。1月15日、月曜日の中国新聞に載っていたので読まれた方も多いと思います。①まず「教育勅語」の目的ですが、「教育勅語」は明治23年に作られたものですが、明治27年に日清戦争、明治37年に日露戦争があったことからも戦争のために作られたことは明らかです。②その内容は「主権は天皇にあり、国民は天皇が進める戦争に協力すること」を求めています。

松井広島市長は、「教育勅語」の中で、「先輩がつくった良いところは後輩に引き継ぐ」という箇所は良い部分なので、職員研修に使っていると言っています。

そこだけ取ればよい部分ですが、その良い部分でもって天皇のために尽くせと「教育勅語」には書いてあります。

「教育勅語」は、「天皇を神と位置づけ」「国の成り立ちも神話的な内容で」「戦争へ国民を導くものであった」ことから戦後の昭和23年に国会で排除の決議がされ、そして憲法98条に副(そわな)いものとされました。

この「副(そわな)い」とは、「現在の憲法を否定する法律は効力を有しない。」という意味です。つまり「教育勅語」は憲法違反だということです。憲法98条に続く憲法99条では「公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とあります。

憲法違反で、国会で排除の決議までされた「教育勅語」を、憲法尊重擁護の義務を負う公務員である広島市職員の研修に使用することは、絶対にあってはならないことです。

松井市長は「はだしのゲン」を平和教材から排除したり、アメリカの原爆投下の責任をあいまいにするため平和公園とハワイのパールハーバー公園と姉妹提携したり、昨年5月のG7サミットでの「核は戦争の抑止力なる」というまとめに抗議しなかったり、広島市、広島県の平和行政を大きく曲げてようとしています。

松井広島市長の「教育勅語」使用問題と、8年前の安保法制の強行と時を同じくしています。やはり愚かな戦争で無理を通すのではなく、人間の英知と対話で平和外交を進める日本にしていきたいと思います。今年一年の決意でもあります。戦争法である安保法制反対の取り組みに皆さんのご支援をお願いします。

熱い思いのこもったリレートークでした。

小川敏男

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2024年1月20日 (土)

ベトナムの歴史(その30-2) ―ベトナム戦争と枯葉剤被害Ⅱ―

枯葉剤被害者に謝罪も補償もしないアメリカ政府

よく、「アメリカは枯葉剤被害者に対する補償をしているの」と聞かれます。結論から言って、アメリカ政府は枯葉剤被害者に対する謝罪も補償もしていません。しかし、非戦闘員であるベトナムの人々の頭上と命をつなぐ大地や河川・湖沼に猛毒ダイオキシンを10数年にわたって反復的に散布した行為は、無差別大量の破壊的効果を意図した戦争犯罪です。

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枯葉剤使用20年後に生まれたベトちゃんとドクちゃん

しかもその人体的影響と被害は、その瞬間とその後の一定期間に止まることなく、幾世代にわたって被害を持続させることから核兵器と同様、非人道的大量殺戮兵器を使用したという責任は免れません。

1960年8月10日に“ベトちゃん・ドクちゃん”の生誕地、コントウム省で、最初の枯葉剤(エージェントオレンジ)がまかれる3年も前から、製造に携わっていた労働者に塩素ざ瘡などのダイオキシン中毒症状が発生していました。そうした被害をもたらすことを知り尽くした上で、1961年11月30日に兵器としての使用をケネディ大統領が承認したのです。

枯葉剤による被害を知り尽くした上での使用

このホワイトハウスの決定過程で、「ジャングルの中のホーチミン・ルートやベトコンの隠れ家を破壊するためには枯葉剤の使用が最善の方法だ」と主張するマクナマラ国防長官と、「それはアメリカとベトナムの友好関係を損ない、ベトナムの農民たちはアメリカを『野蛮な帝国主義者ども』といって嫌うことになるだろう。そして、それ以上に『合衆国は化学戦をやったといって非難されることになろう』」と反対するロジャー・ヒルズマン情報調査局長やアヴレル・ハリマン極東担当国務次官補らとの間で激しい議論があったことから見ても、アメリカ政府は、枯葉剤(エージェントオレンジ)がもたらす被害について十二分に知り尽くした上での、ケネディ大統領による「ランチハンド作戦」承認であったことは疑いないことです。

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ランチハンド作戦に使われた米軍C113輸送機(1945年9月2日ハノイ)

ベトナムの枯葉剤被害者による訴訟はことごとく棄却・敗訴

これまで幾度もベトナム国内や在外のベトナム人枯葉剤被害が、枯れ葉剤を製造したモンサント社などを相手に訴訟が起こしました。

モンサント社などは「企業はアメリカ政府の注文に応じただけ」、「当時、枯葉剤の使用は国際法で禁止されていたのか」、「枯葉剤と原告の被害との因果関係は完全に立証されていない」などと主張し、アメリカ司法省も「元の対戦国による訴訟を受け付けることは、大統領の戦争遂行権限に大きな脅威となる」とのコメントを出すなど、審理すら行われず棄却されたものを含め、いずれも棄却・敗訴になっています。

 2021年5月11日、フランスの刑事法院(裁判所)は、在住ベトナム人のチャン・ティ・トー・ガーさん(81歳)の枯葉剤を製造販売したアメリカの化学企業14社に対する訴訟を却下しました。「米国政府の戦時中の行動に関わる訴訟を裁く権限を持たない」との理由でした。

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チャン・ティ・トー・ガー(出典:VietnamPlus紙(2015年04月16日付))

ガーさんは控訴して現在も闘いを進めています。皆様、関心を寄せていただきご支援をお願いします。

アメリカ参戦兵士と家族には補償

一方、ベトナム戦争兵士は帰国後、流産や奇形出産が多発したことから、「ベトナム帰還兵オレンジ剤被害者の会」を設立。ベトナムの枯れ葉剤被害者同様、枯葉剤(エージェントオレンジ)を製造したモンサント社などを相手に訴訟を起こしました。これに対してはアメリカの裁判所は補償を命じています。さらにモンサント社の除草剤による被害を受けたアメリカ国民の訴訟に対し、枯葉剤と同じ成分の除草剤ががん発症の原因として被害者への補償金の支払い命令を出しています。

 こうしたアメリカ政府の姿勢は、過去の戦争に対するものではありません。ウクライナ戦争を一時も早く停戦・終戦に向けた責任を果たさず、国際法が禁ずるクラスター爆弾や劣化ウラン弾を供与し、継戦によるアメリカ国益のみを追求する姿勢そのものです。イスラエルによるガザにおけるパレスチナ壊滅(ホロコースト)を容認するばかりか、武器供与を続ける姿勢にも表れています。

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2001年1月米軍の大量劣化ウラン弾で破壊された旧ユーゴスラヴィアの戦車で遊ぶ子どもた(出典:朝日デジタル2023年3月5日)

そのアメリカにどこまでも追随する日本政府の責任は、アメリカの後方支援基地、襲撃基地としてベトナム戦争に加担した過去の責任にとどまらず、現在の罪でもあります。

 枯葉剤作戦による被害者への謝罪と補償を求めるガーさんたちの闘いは、ウクライナとパレスチナに平和を取り戻し、非人道的殺戮兵器の製造・保管・使用、また供与や譲渡を禁じるための歩みでもあります。

日本の過去・現在を問い続け、未来を切り開くための課題でもあると思います。

 「被爆80周年」を来年に控える今年の夏、86日の「原爆の日」に続く810日の「エージェントオレンジDay」(枯葉剤64周年)を通して、皆さんと一緒に考えて行きたいと思います。

次号では「日本の中の枯葉剤」を取り上げてみたいと思います。

2024年1月20日(あかたつ)

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2024年1月19日 (金)

三原地区 今年最初の「19日行動」を13日に実施

新年早々、能登半島地震や羽田空港衝突炎上事故など波乱の幕開けとなりました2024年。今年最初の「19日行動」を1月13日(土)13時30分から三原駅前において20人が参加して実施しました。街頭行動の始めに戦争をさせない三原市民行動共同代表の三原地区労働センター森光議長が「亡くなられた方々に心よりお悔やみ申し上げると共に、被災された皆様が少しでも早く、心平和に暮らせる日か来ることを願ってやみません。被災者支援を最優先に、そして平和な世の中であるように、そのような社会にしていくためにがんばって行きましょう」と挨拶を行いました。

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その後、6人の弁士が、

▲被災された皆さんの切実な要望を受け止めながら、身近な行政や国政に届けていかなければならない。こうした中で自衛隊が千葉県習志野市で演習を行った。一刻も早く被災地にヘリコプターを飛ばさないのか。被災者支援に行かないのか。それよりも演習が先なのか。岸田政権に任せておけないという思いがした。▲街頭に「武力で平和はつくれない」の幟を立てているが、今勃発しているウクライナとガザの二つの世界戦争、まさにその通りだ。武力は相手の武力とこちらの武力、相手が武力を使おうとすればこちらも使わなければならない。軍事費が増大するばかりである。平和のために努力すること。日本、アジア・世界の平和をつくるために共に歩んでいきましょう。▲自公政権による安保法制の強行成立以降、着々と戦争のできる国に仕上げており、新しい戦前へとなってきている。その流れを止めていきたい。国民がしっかり政治にものを言い、政治を選ぶことによって流れは変えることができる。私たち市民が地道に仲間を増やし、「政治を変える・社会を変える」取り組みをしていきましょう。

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▲今年は本当に戦争のない平和な年、世の中を作りたいという思いでがんばっていきたい。今直面する課題は防衛費の増大ではなく地震防災対策、被災者支援である。最善のない軍拡競争ではなく、憲法9条を堅持し平和国家としての道を歩むことを私たちは求めていきます。▲今年は大きな転換期の年になるのではないかと思っている。総選挙も予想される。国会で憲法改正の発議が近づいてきていると思う。そういう時だけに私たちがしっかりと自公政権がこの国をどのような方向にもっていこうとしているのか、どんな社会を私たちが安心して暮らせる社会づくりにしていこうとしているのか深く考えていかなければならない重大な年ではないか。安心して暮らせる、戦争のない平和な社会、人間らしく暮らせる社会をめざして、すそ野を広げて大きな輪を、市民の声にしていきましょう。▲ロシアとウクライナの戦争、イスラエルとパレスチナの戦争、私たちが問題にしなければならないことは、戦争は最大の人権侵害であり、人間を殺す殺人であることです。戦争は絶対してはなりません。人を殺してはなりません。このことを皆さんと一緒に確認したい。この度の能登半島地震、石川県志賀原発で変圧器の破損、活断層、住民の避難など安全上重大な問題が明らかになった。原発の再稼働や新設を認めず、人間が人間として生きていける社会を守っていこうではありませんか。

など力のこもった訴えを行いました。

藤本講治

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2024年1月18日 (木)

広島市公文書館企画展示「平和記念公園ができるまで」

私の住むマンションの東隣に建つ平和ビルの7階にある広島市公文書館では、令和5年度の企画展示「平和記念公園ができるまで」が、開催されています。ずっと気になっていましたので、昨日行ってきました。

この企画を紹介するチラシには次のように書かれています。

「1945年(昭和20年)8月6日、広島市は一発の原子爆弾で焼き尽くされました。75年は草木も生えぬと言われたこの地に平和記念公園が計画され、設計競技を経て完成するまでの経過を、関係する文書や図面、写真などから振り返ります。」

この文章に示されたように「被爆直後の中島地区の写真」から始まって、新聞記事、第1回広島市復興審議会の会議録、「広島市平和記念公園及び祈念館設計懸賞募集要項」やそれの応じた佐藤重雄氏の応募作品、第1等となった丹下グループの設計競技応募作品の写真など29点が展示されています。

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平和公園建設に向けての懸賞募集などは、以前にも学んだことがありましたが、特に興味を引かれたのは、最初に展示されていた2枚の「爆心地周辺の公園構想に関する新聞記事(複製)」です。

1枚は、昭和20年(1045年)9月2日の中国新聞記事です。

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「原子爆弾の記念施設」とタイトルが付けられ、本文は次のように書かれています。

「暴虐なる原子爆弾の出現により一瞬にして壊滅に帰した廣島市の復興に付いてはその後廣島縣で着々と構想を練っているが、原子爆弾が大東亜戦終結の契機となったものでこれを記念するため何らかの施設を×すべきであるとの意見が強く、具体的方法について考究しているが、大体において焦土と化し果てた同市の姿をそのまま長く保存する計劃がすすめられている。

すなはち原子爆弾の投下により最も被害の大きかった爆心地点中心付近を相当広範囲にわたって記念区域として存続する方針であるが、酸鼻を極めた当時の様子を偲び科学日本の再建へ奮起する無言の啓示とする一面、原子爆弾の持つ害毒が相当期間残存することを考慮に入れて爆心区域一帯を空き地とする」

原爆が投下されてからまだ一月も経っていない9月2日に、すでに「記念施設」の構想があったことはちょっと驚きですし、「原子爆弾が大東亜戦終結の契機」となったとも記していることに、当時の思いはそうだったのだという感じを持ちます。

もう一枚は、翌昭和21年(1946年)2月27日の中国新聞記事です。

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この記事は、同じ月の25日に開催された「第1回復興審議会」において発表された都市計画案の内容を紹介しています。

「爆心地に公園、記念施設を設け、各河川の左岸(東側)は、散歩道路とし、右岸は主に住宅地に開放。西練兵場広島城跡は官街、学校街とし・・・」との記述があります。ほぼその通りの街作りが進んだように思えますが、特に興味を持ったのは、「各河川の河岸」の使用法についてです。河岸の多くに一時、不法住宅が乱立していましたが、私が広島に来た時期頃から不法住宅の強制撤去が始まり、その跡地は、右岸のみならず両岸とも、ここに言う「散歩歩道」は、公園として整備され、広島市の特徴ある景観となっています。

戦後のごくごく早い時期から、そうした計画があったことを知ることができた広島市公文書館企画展示「平和記念公園ができるまで」でした。

この企画展は、2月2日まで開催されています。

いのちとうとし

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2024年1月17日 (水)

核兵器禁止条約70カ国目となるサントメ・プリンシペが批准

 昨日のICANからの情報によれば、1月15日に西アフリカのサントメ・プリンシペが批准し、核兵器禁止条約の批准国が、70カ国になりました。昨年9月19日にスリランカが批准して以来の批准国です。心から歓迎したいと思います。

このニュースを聞いて、サントメ・プリンシペ、初めて聞く国の名前ですので、どこにある国か調べてみました。西アフリカの大西洋上にあるサントメ島、プリンシペ島とその周辺の島々から成る共和国で、1975年にポルトガルから独立して誕生しました。

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外務省のホームページによれば、面積は、1001平方キロメートル(東京都の約半分)、人口は22.3万人(2021年、世銀)の小さな国です。在留の日本人は0で、大使館もガボン大使館が兼ねているようです。

核兵器禁止条約を取り巻く状況ですが、同条約に署名している国は、昨年9月19日のバハマ以来増えておらず、依然として93カ国にとどまっています。

核兵器禁止条約は、2017年7月7日に国連で122カ国の賛成で採択され同年9月20日に署名・批准の受付が始まりました。そして、2020年10月24日にホンジュラスが批准したことによって、批准国が50カ国に達し、翌2021年1月22日に発効しました。

こうして振り返ると、3年あまりで発効に必要な50カ国が批准しましたが、発効後3年間の批准国は、20カ国にとどまっています。署名している国は、いずれ批准の国内手続きをすると思いますが、今回批准したサントメ・プリンシペは、署名・批准の受付が開始となった2017年9月20日に署名していますので、批准までに6年4ヶ月かかったことになります。日本政府の署名・批准を実現できていない私が言うのにははばかりがありますが、各国の批准の手続きまでのスピードは、残念ながら速いとは言えないのも現状です。

各国の署名・批准の動きを促進するためにも、改めて日本政府の早期の署名批准が求められます。私たちの責任も問われています。

なお、核兵器禁止条約発効3周年目となる1月22日には、HANWA(核兵器廃絶をめざすヒロシマの会)を中心に原爆ドーム前で「核絶対否定!ガザとウクライナに平和を!」を訴えるキャンドルメッセージが行われます。時間は、午後4時半から午後6時半です。この行動への参加を呼びかけます。

いのちとうとし

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2024年1月16日 (火)

憲法に反する教育勅語

昨日の中国新聞「平和面」では、教育勅語問題が大きく取上げられています。この問題は、12月のブログや14日の「県原水禁常任理事会報告」でも取上げてきました。また、常任理事会の議論を受けてイライザさんが、ブログ「ヒロシマの心を世界に」(ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、13日~3日間連続で「松井市長が教育勅語を取上げることがなぜ問題なのか」をわかりやすく提起されています。

私もこの論議に参加したいと思います。

私の問題意識は、1227日のブログ新・ヒロシマの心を世界に: 2023年12月 (cocolog-nifty.com)の後半部分で触れたとおりです。

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今日の中国新聞では、その点は深く触れられていませんでしたので、重複しますが改めて「憲法からみて何が問題か」を考えてみたいと思います。

まず昭和23年(1948年)6月19日に採択された「教育勅語等排除に関する決議」の全文です。会議録からの引用です。

「民主平和國家として世界史的建設途上にあるわが國の現実は、その精神内容において未だ決定的な民主化を確認するを得ないのは遺憾である。これが徹底に最も緊要なことは教育基本法に則り、教育の革新と振興とをはかることにある。しかるに既に過去の文書となつている教育勅語並びに陸海軍軍人に賜りたる勅諭その他の教育に関する諸詔勅が、今日もなお國民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは、從來の行政上の措置が不十分であつたがためである。   思うに、これらの詔勅の根本理念が主権在君並びに神話的國体観に基いている事実は、明かに基本的人権を損い、且つ國際信義に対して疑点を残すもととなる。よつて憲法第九十八條の本旨に從い、ここに衆議院は院議を以て、これらの詔勅を排除し、その指導原理的性格を認めないことを宣言する。政府は直ちにこれらの詔勅の謄本を回収し、排除の措置を完了すべきである。」

ここで注目したいのは、「基本的人権を損ない」と「よって憲法九十八条の本旨に従い」としている点です。

さらに提案者である松本淳造議員の提案理由です。全文は、国会議事録第2回国会 衆議院 本会議 第67号 昭和23年6月19日 | テキスト表示 | 国会会議録検索システム (ndl.go.jp)で読んでいただきたいのですが、ここでは一部を引用します。

「われわれは、その教育勅語の内容におきましては、部分的には眞理性を認めるのであります。それを教育勅語のわくから切り離して考えるときには眞理性を認めるのでありますけれども、勅語というわくの中にあります以上は、その勅語そのものがもつところの根本原理を、われわれとしては現在認めることができないという観点をもつものであります。それが憲法第九十八條にも副わないゆえんでありまするので、この際この條規に反する点を認めまして、」

こうして「教育勅語を排除する理由」として憲法98条を示しているのです。

憲法98条は「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と定めています。つまり、教育勅語は憲法に反するものだと言うことです。もう一つ注目したいのは、この条文に続く憲法99条で「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と公務員に憲法尊重擁護の義務を負わせています。

憲法98条に照らして「条規に反する」と定められ、国会で排除の決議までされた教育勅語を、憲法尊重擁護の義務を負う公務員である広島市職員の研修に使用することは、絶対にあってはならないことだと思うのですがどうでしょうか。

いのちとうとし

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2024年1月15日 (月)

2024年1月のブルーベリー農園その2

東広島市豊栄町のブルーベリー農園は比較的暖かく剪定作業はしやすい日が続く。安芸区の自宅から農作業に出かけるのはこの季節は昼頃になるので、実質の農作業は1時から5時ころまで。剪定作業の進め具合は足し算で、一本一本を済ませていくのみなので、短時間でも農園に行く癖がついている。13日は午前中JR矢野駅の橋上にある交流スペースでやの交流プラザの新春イベントがあり安芸の郷が音響担当と出店で参加したので農園には午後遅くついて農作業をした。

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18日(月)

里山のブルーベリー園に行く道にあるヒガンバナは青い葉がしっかり伸びている。(写真手前)。年を経るごとに少しずつ株数が増えていく。

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今の作業場所は里山西側のブルーベリー園。剪定作業を続けている。古くて太い枝を根元から切っていく。

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冬至を過ぎて日は少しずつ長くなるのが実感できる。午後5時半頃の薄めの夕暮れ。

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110日(水)

午後から農園に一人で行く。剪定用の鋸を交換。

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みかん用の替刃で、新しいものはストレスなくよく切れる。太い枝は鋸で、細い枝はコードレスの電動はさみを使用する。

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ブルーベリーの植えてある山の斜面が少しきつい。

この日剪定した場所は里山の西側。そこから見える冬景色。「冬ざれ」の景色にみえるかどうか。

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①田んぼのつらなり。

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②田んぼと落柿。

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③同じ場所の剪定をしたあと竹を立てて枝がばらけないように縛ったブルーベリー。

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④ブルーベリー畑からの景色。落葉したブルーベリーと休耕田の枯草と冬空。

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農園の庭の白いナンテン。時雨て来たので4時半に作業をやめた。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年1月14日 (日)

2024年1月の広島県原水禁常任理事会

広島県原水禁は、12日午後6時から自治労会館で、今年最初の常任理事会を開催されました。

主な議題は、27日に開催する「原水爆禁止広島県協議会第93回総会」に提案する議案の審議でした。議案の内容につては、改めて総会の報告の際に紹介したいと思いますが、ここでは常任理事会で主に討論されたことを報告します。

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一つは、松井広島市長による「広島市職員研修」において、「教育勅語」を引用した問題です。この問題については、このブログでも12月の24日、26日、27日に取上げていますが、県原水禁としてどう対応するかが議論となりました。この問題のとどまらず、松井市政では、平和ノートからの「はだしのゲン削除」問題、平和公園とパールハーバー国立公園との姉妹提携問題、G7に対する評価問題などなど、広島市の平和行政が大きく変質したといわざるを得ない問題が惹起していることが、各理事会メンバーから指摘されました。広島県原水禁として、これらの問題を整理し総会後に広島市に申し入れを行うことにしました。

私見ですが、この申し入れについては、ただ抗議と要請だけでなく、広島市長の考えを問う、質問形式にするのがよいのではないかと思っています。例えば「教育勅語が国会で排除・失効決議がされていることをどう考えるのか」のようなかたちです。

いずれにしても十分に検討した内容の申入れにしなければならないと思います。

二つは、能登半島沖地震にかかわる原発問題です。今回の能登半島沖地震は、これまでの知見や原子力規制委員会の指針を超える問題が起きています。とりわけ、想定を超える地震の揺れ(ガル数であらわす)、日本海側での地震は複数の活断層が連動する問題や土地の隆起が起きている問題、などが指摘されました。県原水禁が取り組むべき行動として①6月に再稼働が予定されている中国電力島根原発2号機を絶対に稼働させない運動の強化②今回の新たな事態を受けて、その知見を盛り込み原発の危険性をわかりやすくまとめた資料をつくるなどが、提起されました。それらの論議を受け、①については、24日に開催される平和フォーラム中国ブロック会議で中国電力、島根県知事への要請行動を提起する、②については、原水禁国民会議とも連携しながらすすめていくことが確認されました。

三つは、広島県原水禁結成70周年の事業として、「広島県原水禁結成70周年の歩み」を作成することです。その作業を進めるため、事務局長経験者の力も借りながら編集体制を強化することになりました。

こうした意見を、提案された総会議案に反映させることを確認し、議案の協議は終わりました。

また、現在2ヶ月に1回開催している常任理事会のあり方について、流動化する情勢に合わせ論語を深めるため開催時期、方法などを検討する必要があるという積極的な意見が出され、事務局で検討することになりました。

いのちとうとし

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2024年1月13日 (土)

被爆の生き証人としてⅥ

2023年1124日、国の文化審議会は広島市内最大級の被爆建物である「旧陸軍被服支廠」の全4棟を国の重要文化財に指定するように文科大臣に答申、来月にも指定される見込みである。

昨年126日の県議会総務委員会では、1号棟を平和学習拠点とするなど活用イメージを公表した。県議からは原爆の悲惨さに留まることなく、軍都ヒロシマの歴史を伝える施設としての活用を求める声が上がったと報道された。

旧陸軍被服支廠は、広島がアジアや太平洋の国々へ多くの兵を送り込んだ軍事拠点であったことの「無言の証人」といえる。原爆の被害を学ぶことのできる建物等はいくつか残っているが、加害の側面から言えば、旧陸軍被服支廠はその役割を果たすことのできると私は思う。そう考えれば、今、被爆地ヒロシマの歴史認識が問われていると言っても過言ではないと思う。

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旧陸軍被服支廠に学徒動員された切明千枝子さんは「戦争と平和は表裏で密着している。平和を守ることの大切さが高まるほど、戦争の遺跡を残しておくべきだ」と話された。また、保存運動を続けた瀬戸麻由さんは「具体的に建物の活用方法が出たときに、市民の側が声を上げられるよう注視したい」と話された。

今後、活用について議論がすすんでいく。われわれ市民も、このことについて関心を持ち、どのような活用方法がベストなのか声を上げないといけない。

~ヒロシマを忘れた時、ヒロシマは繰り返される~

おきたか

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2024年1月12日 (金)

2024連合広島新春旗開き・県労福協賀詞交換会

2024連合広島新春旗開き・県労福協賀詞交換会が、10日午後5時半からリーガロイヤルホテルで開催されました。今年はコロナによる規制もなくなり、会場一杯の約330人が参加し、盛大に開催されました。広島県原水禁も招待を受けましたので、私が参加しました。

2024春闘(連合は「春期生活闘争」)のスタートともなる新春旗開きですので、大野真人会長のあいさつも、「賃上げ実現」に向けた決意を込めたものとなりました。

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冒頭に能登半島沖地震の被害者に対する哀悼の意を表明しながら「昨年来物価上昇で働くものの生活は大変厳しくなっている。春闘の要求は、定期昇給を含め5%以上の賃上げを実現しなければならない」と強調すると共に、その実現のため、企業に対して「適正な価格での取引」を求めると共に、連合の基本理念である「誰一人取り残されることのない社会」の実現をめざす決意が表明されました。さらに、自民党安倍派の政治資金パーティーの裏金事件に触れながら「『政治と金』の問題は、特に広島では河井事件以来の問題」と指摘し、「政治への不信の高まり」を批判しました。そして「次期衆議院選挙はいつあるかもわからない。しっかりと準備をして『結集ヒロシマ』を中心にして、がんばりたい」と政治課題についても決意が語られました。

その後、もう一つの主催団体である広島県労福協久光博智会長があいさつ。続いて湯崎県知事、松井広島市長など6人の来賓のあいさつがありました。異質だったのは、広島県経営者協会西川正洋会長のあいさつ。厳しい経済環境の羅列。地場の春闘はどうなることやらとの感想を抱かせる内容で、とても大野会長の「賃上げ要求」に応えるようなあいさつではありませんでした。経営側としては仕方の無いことかも知れませんが、「賃上げなくして景気の回復なし」とも言われているのですから、もう少し話しようはあったのではないかと率直に感じました。

昨春闘でそれなりの賃上げ実績があったと言っても、その後の物価上昇で毎月毎月実質賃金は目減りするばかりでした。5%の賃上げ要求は政府も強調しているのですから、昨年の実質賃金の目減り分を取り戻すよう大幅回答を得るような春闘を連合には期待したいと思います。

そんなことを感じながら参加した「2024連合広島新春旗開き・県労福協賀詞交換会」でした。

いのちとうとし

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2024年1月11日 (木)

中国新聞「私の道しるべ」余話

中国新聞には、毎週月曜日に1ページ全面を使って「平和」についての特集した紙面があります。私も楽しみにしているコーナーです。

今年最初となる1月8日の紙面(11面)では、「私の道しるべ ヒロシマの先人たち」として、日本被団協初代理事長藤居平一さんと森滝市郎先生の二人が取上げられました。

森滝先生については、私に要請があり、昨年末に3時間あまり中国新聞記者に私の思いを語りました。3時間あまりの話を、あの字数でまとめるのは大変だったと思いますが、当日の紙面を見て、よくまとめてもらったと思いました。

この紙面を読んだ読者の何人かから「よい記事でした」と連絡がありました。

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依頼を受けたとき、「私でよいのか」との思いもあったのですが、森滝先生のことをもっと知ってほしいとの思いをずっと持っていましたので、引き受けることにしました。1月1日のブログにも書きましたが、森滝先生が亡くなられて、今年で30年です。森滝先生と直接接したことのある人もだんだん少なくなっていますので、あんなこと、こんなことを語っておくべきだったという反省も多くあります。

例えば、「核と人類は共存できな」です。この言葉は、特に2011年の東日本大震災による東京電力第一原子力発電所事故以来、多くの人によって使われる言葉となったのですが、1975年、最初のこの理念を提起されたのが森滝先生だったことを知る人は少なくなりました。「核と人類は共存できない」の言葉には、ウランの採掘から始まる核被害者への深い思いがあることも伝えたかったことの一つです。また、子どもの素朴に疑問に応えるために導き出された座り込み行動の理念である「精神的原子の連鎖反応が物質的原子の連鎖反応に勝たねばならぬ」の言葉の意味もそうです。

さらに、これが一番大事なことかも知れませんが、文中「理念を行動で示す。僕もそうありたい」と書かれていますが、「生涯行動をし続けられた」という言葉を付け加えたいと思います。亡くなられる半年前、92才でなお、慰霊碑前の座り込みをされた姿は、忘れることができません。「僕もそうありたい」という言葉には、「私も森滝先生のように生涯反核運動を続ける」との想いを込めたつもりです。

反省点はいろいろありますが、公的とも言える中国新聞の紙面を通じて、森滝先生の思想、運動への姿勢の一端を私の言葉として語ることができたことは、本当に幸せなことだと今思っています。

森滝先生と行動を共にしたときのことを思い出しながら、森滝先生の足跡に少しでも近づけるようにがんばりたいと改めて思っています。

なお、中国新聞のホームページ[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 被爆地から訴え 運動の礎…藤居平一と森滝市郎 | 中国新聞ヒロシマ平和メディアセンター (hiroshimapeacemedia.jp)に記事が掲載されていますので、ここから検索することもできます。

いのちとうとし

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2024年1月10日 (水)

24年、激動の幕開けになりました

年賀状に、「激動の24年」という言葉が書かれたのがありました。本当に元旦からそうなってしまいました。

元旦の新聞もテレビ番組も、興味深いものが無いので、いつものルーテイング通りに午後3時頃から海沿いの堤防道路を歩いていました。そしたら友人から能登半島が大変という知らせが入りました。

帰宅して、テレビとネットに釘付けになりました。津波の影響が北海道から九州と広範囲に及んでいることに大ビックリ、震源が石川県ということで金沢と志賀原発の在る志賀町に住んでいる友人、そして柏崎刈羽原発のある刈羽村に住む知人に電話をいれましたが、「混みあっていて繋がりません」という録音テープです。やっと刈羽村の友人には電話が通じました。彼は、「すごい揺れだった。今から原発を見に行く」と話していました。

震源からもっとも近いところにある北陸電力志賀原発、震度7の揺れで使用済み核燃料の冷却ポンプが一時止まったということが報じられました。何が原因で止まり、どうやって復活したのかは不明でした。

それからニュースは引き続く余震と被害状況が繰り返されていましたが、これが前日だったら、大晦日恒例の「あかしろ・うたがっせん」は急きょ中止になっただろうかなと思ったり、津波は日本海を隔てたロシアや朝鮮民主主義人民共和国、韓国などへの影響はないのだろうか、日本政府は連絡したのだろうかとか、そんなことも考えていました。

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島根原発避難訓練(島根県ホームページ)

ちょうど昨年11月に実施された島根原発の事故を想定した避難訓練についての問題点を、考えていた時でしたが、この度の地震に関連して避難先の人びとからの「トイレが少ない。暖を取るためにストーブが要る。避難先のスペースが狭い。」といった声が多く出ていました。

志賀原発周辺に30キロ圏内に設置してある、120か所の放射線モニタリングポストのうち15か所の装置が測定不能になっているというのも驚きでした。そもそも志賀原発も柏崎刈羽原発も再稼働していないので、大きな事故にはならなかったのが幸いといえたと思います。

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Yahooニュースより

思い出すのは、1995年1月17日の阪神淡路大震災の地震です。私はこの時テレビのネットワーク網の統制制御する仕事をしていました。この日は「明け」という朝まで勤務の日で、地震の発生とともにNHKのテレビ画面は「京都で震度〇」という字幕スーパーを出しました。神戸からの情報はありませんでした。今でもそのことをリアルに覚えています。

地震によって震度計が壊れて、震度の測定が出来なくなったのでしょうね。

その後、職場からも多くの人が応援のために神戸に行きました。やっぱり困ったのはトイレと寒さだったと思います。

中国電力は、今年8月に島根原発2号機の再稼働をめざすとしていますが、この度の能登半島の地震による揺れの値である加速度は、志賀町で最大2826ガルを記録したと新聞は小さく書いていました。この値は東日本大震災級です。

島根原発は「820ガル、震度6」に耐える設備設計がされているとのことですが、これではこの度の地震には耐えられないのは、明確なことではないでしょうか。

あらためて、島根原発の再稼働をさせないの声を大きくしていく必要を実感した、激動の年明けとなりました。

木原省治

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2024年1月 9日 (火)

もみじニューイヤーコンサート

 この時期「ニューイヤー」と冠が付けられたコンサートがいくつか開催されますが、私は6日に開催された「もみじニューイヤーコンサート」に行ってきました。

今年のコンサートの指揮者は角田鋼亮さん、ソリストはピアノの金子三勇士(みゆじ)さんでした。金子三勇士さんは、「題名のない音楽会」にたびたび登場していますので、テレビでは何度も演奏を聴いていますが、生の演奏を聞くのは初めてですので、楽しみでした。演奏するのは、もちろん広島交響楽団です

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オープニング曲は、ベートーベンの「歌劇『フィデリオ』序曲Op.72」。次は、リストの「ピアノ協奏曲第1番 変ホ長調S.124」です。ピアノ演奏者は、も金子三勇士さん。アンコールの拍手に応えて金子さんが再登場。「ありがとうございます。今年は、年始めから地震、飛行機事故が続きました。ここ広島から平和と鎮魂の想いを込めて、リストの『ラ・カンパネラ』を演奏したいと思います。『ラ・カンパネラ』は、イタリア語で『鐘』を意味します。」と地声で紹介して演奏が始まりました。この曲は、辻井伸行さんもアンコール曲でよく演奏する曲です。なじみのある曲の演奏で、気分はより高まり、さらに大きな拍手が起こりました。

15分間の休憩の後、ドヴォルザークの「交響曲第9番ホ短調Op.95『新世界より』」が演奏されました。この交響曲は、ドヴォルザークの代表作でもありますので、何度か聴いた曲です。

約2時間足らずのコンサート、今年も充分堪能することができました。

ところで、1985年から始まり今年で39回目を迎えたもみじ銀行主催のニューイヤーコンサートですが、もみじ銀行は、昨年の11月に創業100周年を迎え、今年は「もみじ銀行創業100周年記念事業」の冠が付いていました。

もみじ銀行の宣伝をするつもりではありませんが、このコンサートのことをブログにアップすることにしたのは、実は、私はもみじ銀行と言っても前身の広島相互銀行の時代のことですが、深い関わりを持ったことがあったからです。

確か1970年だったと思いますが、松江から転勤で働くことになった職場が、広島の電電公社の中国データ部でした。中国データ部は、現在の株式会社NTTデータ中国です。この中国データ部での仕事が、広島相互銀行のオンラインシステム作りでした。当時各銀行がオンライン化を進めていました。私は、定期性預金の担当として、システム設計やプログラミングの仕事に携わり、広島相互銀行のオンラインシステム開通に寄与したのです。ここでは8年ほど働いき退職しましたが、その後も広島相互銀行オンラインシステムの節目節目では、声をかけていただきました。ですので、退職して40年あまりが過ぎましたが、今も忘れることのできない銀行名なのです。

そんなゆかりを思い出しながら今年も「もみじニューイヤーコンサート」を楽しみました。

いのちとうとし

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2024年1月 8日 (月)

2024年1月のブルーベリー農園その1

東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から農作業に出かけるのは6日が今年の初作業。農園のブルーベリーは特に変わったこともなく落葉後に目立つようになった枝が一面赤みを帯びた姿を見せている。7日は午後1時前にみぞれがふり農園にまだらな雪景色をつくり、そしてみるみる消えていく。ブルーベリーの剪定ができそうにないので早じまいして終了。

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16日(土)

ブルーベリー畑にもうオオイヌノフグリが咲いている。この日は暖かく温度計は15度を指している。

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ブルーベリーの木は落葉して赤い枝が顔を出している。たまった枯草や枝を野焼きした。

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里山西側のブルーベリーの剪定を続ける。太い枝を切ってみると半分枯れているのがわかる。ちょっと枝の更新をするのが遅れたか。

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太い枝はチェンソーやのこぎりで根元から切るので姿勢を安定させないといけない。そのために膝をつくので厚手の硬いスポンジマットを下に敷いて作業する。

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 里山での剪定した枝はブルーベリー園の端っこに持っていき積んでいくことにしている。

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17日(日)

農園に着き昼食のあと、さあ作業をと外に出て見ると軒先にぼたぼたと雨だれが落ちているが空は晴れている。短い時間でみぞれが降って屋根にたまった雪が溶けたためだ。そのため地面が濡れブルーベリーの枝も雨粒だらけなのでブルーベリーの剪定作業はあきらめる。それに寒い。昨日が暖かかったので余計に寒い。

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ブルーベリー畑の雪も枝には積もらず地面に白い筋をつけたが、それもどんどん消えていく。

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農園の見回りだけを行う。里山の里道は雪がうっすらつもっている。ナンテンや

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里道の先のブッシュの中のヤブコウジや

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庭のベニカナメなどの赤い実が元気。その木の上でヒヨドリが鳴く声が響く。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年1月 7日 (日)

本当に大丈夫か志賀原発―なぜ情報発信をしないのか

1月1日に発生した能登半島地震の被害は、被害の実態が明らかになるたびに、その被害が深刻であることがわかります。

亡くなられた方126人、安否不明者210人(6日午後4時時点)と報道されています。亡くなられた方のご冥福を心からお祈りします。報道によれば、厳しい避難環境の中、震災関連死も増えるだろうと地震発生翌日から現地入りしている医師が危惧しているといわれます。依然として震度5以上の余震が発生し、昨夜来、寒さも厳しくなり避難生活の困難が更に拡大しています。また道路の寸断で、救援、支援活動もままならないようですが、一日も早い支援の手が届くことを祈らずにいられません。

この地震は、石川県の原発にも大きな影響を与えています。特に、能登半島に建つ志賀原発は、大きな被害が出ています。

Photo_20240106205601

事故後に北陸電力が1月2日発表した事故被害の主な状況は、ホームページによれば次の通りでした。


1号機使用済燃料貯蔵プール水の飛散:飛散した量は、約 95 リットル、放射能量は約 17,100 Bqでした。外部 への放射能の影響はありません。

2号機使用済燃料貯蔵プール水の飛散:・飛散した量は、約 326 リットル、放射能量は約 4,600Bq でした。外部への放射能の影響はありません。

1号機起動変圧器からの油漏れ及び放圧板の動作、噴霧消火設備の起動:・当該変圧器の現場確認を行い、変圧器の絶縁油が約 3,600 リットル (推定)漏れていたことを確認しましたが、絶縁油は堰内に収まっており、外部への影響はありません。 ・なお、地震発生時に1号機起動変圧器の放圧板の動作及び噴霧消火設 備を手動起動したことが確認されました。放圧板が動作した原因等は 調査中です。また、火災の発生は確認されておりません。 ・堰内に漏洩した変圧器絶縁油の回収を実施しました。 保有量:52,200リットル(変圧器本体:42,000 リットル)

2号機主変圧器からの 油漏れ及び噴霧消火設 備の起動、放圧板の動作:・当該変圧器の現場確認を行い、変圧器の絶縁油が約 3,500 リットル (推定)漏れていたことを確認しましたが、絶縁油は堰内に収まって おり、外部への影響はありません。 ・噴霧消火設備の起動及び放圧板が動作した原因等は調査中です。また、 火災の発生は確認されておりません。 ・2号機の主変圧器の漏えいした油については 14 15 分にドラム缶へ の回収に着手しました。保有量:122,500 リットル(変圧器本体:122,500 リットル)

使用染み燃料貯蔵プール水に飛散や、変圧器からの油漏れは、マスコミでも報道されました。

しかし、その後の状況についての続報は、マスコミでは全くないままでした。

ところが、5日になって次のような報道がありました。「北陸電力は、志賀原発2号機で外部電源を受けるために必要な変圧器から漏れた油の量について、当初発表の5倍超にあたる約19800リットルと訂正した。」

さらに新たにわかった被害として「1号機原子炉建屋の近くや海側のエリアなどで道路の段差やコンクリートの沈下などを確認したが、安全上の問題となる被害はないと説明した。」とも報道しています。

これらの報道を聞きながら、私が疑問に感ずるのは、なぜ「漏れた油の量が5倍になったか」もですが、2日以降、5日まで、その後の経緯が発表されなかったことです。

北陸電力は、5日のマスコミ発表で「外部電源や必要な 監視設備、非常用電源、冷却設備等については機能を確保しており、発電所に設置しているモニタリングポストの数値に変化はなく、外部への放射能の影響はありません。」としていますが、大事なことは、きちんとした情報公開が行われなければならないと言うことです。さらには、壊れたモニタリングポストもあるとも言われています。

2日の発表にはなかった「敷地内で段差が起きるなどの被害」がでたことをもっと深刻に受け止め、すぐにも発表すべき事故内容だったはずです。

「安全上問題になる被害はない」と繰り返しますが、たまたま今のところ深刻な事態には至っていないようですが、これだけの被害が出たこと自体、地震大国日本にとって、原発がどんなに危険なものか、今度の能登半島地震も教えています。

この事実と真剣に向き合い、危険な原発に依存しない電力供給へ大きく舵を切ることこそが、今回の地震災害から得るべき教訓のはずです。

いのちとうとし

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2024年1月 6日 (土)

ヒロシマとベトナム(その54-2) ~日越外交関係樹立50周年記念訪問―その3-2~

ティエンムー寺院

次に向かったのはグエン王朝の祖先にあたり、徳川幕府と朱印船による交易を進めた広南朝のグエン・ホアが1601年に建立したティエンムー寺です。ティンは「天」、エンムーは「姥」を意味し、「いつかここに真の主がやって来て、霊気と龍脈をあつめ強力な国をつくるために、寺を建てるであろう。」との老婆の予言によって造られたティエンムー(天姥)寺はフエで最も古く美しい寺院です。

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慈仁塔(トゥニャン塔)、フォーン川対岸がショットポイント。

内外から多くの人々が訪れるティエンムー寺には、もう一つの歴史が刻まれています。

フエはフランス植民地政府に恭順するグエン王朝の都でしたが、歴代の王には抗仏闘争に身を投じ逮捕されたり流刑に処せられた王もいるなど、抗仏運動の盛んな地でした。

1954年のディエンビエンフーの戦いでフランス植民地支配を打ち破ったベトナムの人々は、その後南北に分断され、1975年のサイゴン解放まで長く苦しいベトナム戦争を強いられます。1963年当時、南ベトナムはアメリカ傀儡のゴ・ディン・ジェム政権でフエは南ベトナムに属していました。キリスト教徒のゴ・ディン・ジェム政権は仏教弾圧を強めながら、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)壊滅作戦を進めていました。

 不屈・不滅のベトナム ~僧侶、ティック・クアン・ドックの焼身自殺~

1963年6月11日、ティンエンムー寺の僧侶、ティック・クアン・ドックはその弾圧に抗議し、サイゴン(現ホーチミン)まで車でいき、アメリカ大使館前で自らガソリンをかぶって焼身自殺しました。燃え盛る炎の中で絶命まで姿勢を崩さなかった様子はカメラを通じて世界中に放映され、ベトナム国内だけではなく国際的世論に大きな影響を与えました。

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マルコム・ブラウンが撮影したドックの焼身自殺。(ウィキペディア)

その時サイゴンまで乗って行ったオースチンA95(写真下)がティエンムー寺に展示されています。

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また、ティック・クアン・ドック僧の身体が焼け落ちても心臓は形をたもったまま残り、その不滅の精神を体現したといわれています。その心臓の写真パネルも展示されていました。

初めて訪れた団員はもとより、幾度も訪れてた私と久保さんも身の引き締まる思いでした。

フエ料理にベトナムを味わう

フエといえば宮廷料理、定番の鳳凰のパテです。
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ベトナムの麺はフォーですが、ここフエでは米粉麺ブン・ボー・フエが名物です。

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ブンはビーフン、ホーは牛。レモンを搾り、レモングラスとトビ切り辛いフエ蒼唐辛子で食べると絶品!!

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次号ではホイアンとダナンの旅を紹介します。

(2024年1月6日、あかたつ)

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2024年1月 5日 (金)

ヒロシマとベトナム(その54-1) ~日越外交関係樹立50周年記念訪問―その3-1~

ベトナム最後のグエン王朝の都、フエ

ご愛読くださっている皆様、新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。

今日はお約束した日越外交関係樹立50周年記念訪問の3つめの目的だった「歴史・文化、ベト味Tour(ベトナム満喫)」について報告します。クアンチ省での「公式行事」と「ホアビン(平和)Tour」を終え、向かったのは、1802年にベトナム全土を初めて統一したグエン王朝の都として栄えた世界遺産のまち「古都フエ」です。先ずはフエを象徴する観光スポット、グエン朝王宮。ベトナム戦争でその大半、40もの建物が破壊されましたが、現在では復旧工事も進み多くの建築物が往時の姿を見せてくれます。

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ベトナム中部は古都フエ、チャンバ王国のミーソン遺跡、朱印船で栄えたホイアン、歴史と発展とダナンと観光のメッカです。

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グエン王宮正面、後方には2009年にユネスコの無形文化遺産に登録された閲是堂(当時の王宮劇場)がそびえる。  

次に訪れたのはカイデン帝廟です。フランス統治下、ファン・ボイ・チャウの抗仏運動に呼応し、逮捕・廃位・流刑された前皇帝、ズイタン帝(維新帝)に代わってフランスが擁立した第12代カイデン帝(啓定帝)の陵墓(りょうぼ)です。フランスの搾取に苦しむ国民から「フランスの保護下で贅沢な暮らしをしている傀儡皇帝」と反発されていたカイデン帝が、税金を20%も引き上げ、1920年に着工し1931年の完成まで11年を要し造られました。カイデン帝に対する国民の怨嗟の声は、当時パリに亡命中のホー・チ・ミン(当時グエン・アイ・コックと名乗っていた)に伝わり、ホー・チ・ミンは戯曲「竹の籠」を著したと伝えられています。

日本のビール瓶も埋められたモザイク装飾

ベトナム国民の血涙を注ぎ込んで造られたカイデン帝廟は、ヨーロッパで発達したバロック様式の建築物に混在するザイク装飾によって東洋独特の雰囲気が漂い、建築的にも芸術的にも価値のあるフエ建造物群の一つとして1993年に世界遺産に登録されました。

左下の写真はカイデン帝廟のモザイク装飾です。割った磁器やガラスの破片を使ったベトナム独特の装飾で、高価な中国の磁器やワインボトルの破片などが皇帝の墓を飾っています。右下を見てください。花びらをあしらったモザイク装飾の幹部分に、日本のビール瓶が埋め込まれています。

“TOKYO”との文字に、訪問団一様に驚きと出来映えの素晴らしさに感嘆の声を上げました。

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中国の磁器やワインボトルの破片に描かれた動植物

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"綺麗だな~”見入っていると左の茎は、なんと瓶・"TOKYO"と書いている。

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大正から昭和にかけたカイデン帝廟造営に日本も関わっていたようです。

(2024年1月5日、あかたつ)

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2024年1月 4日 (木)

正月明けから病院がよいです。

歯が痛いのは大変です。

山口に帰省することに予定していた昨年末の29日、朝起きたときから下顎の右奥歯に痛みを感じるようになりました。一日おけばよくなるだろうと、予定通り帰省することにしました。

その日の夕食は何とか痛みをこらえて全部食べたのですが、翌朝起きると痛みは治まるどころか、さらにひどくなっています。とても正月明けまで持ちそうにはありません。昼過ぎ帰宅し、とにかく病院に行くしかないと思ったのですが、病院は、年末年始の休院に入っています。当然ですかがいつもお世話になっているのぶもと歯科も休院中です。

ネットで「年末年始の休日歯科救急医療」を探すと、東区二葉の里の広島県医師会館にある広島口腔保健センターが、救急医療を行っていることがわかりました。とりあえず、電話を入れます。「こちらは、やっていますが、今どこにお住みですか?」「中区大手町です」「でしたら近くで今日開院している病院をお知らせします。中区小町のじぞう通り歯科こども歯科が、今日は開いています。こども歯科となっていますが、大人も大丈夫だと思います」と丁寧に教えていただきました。

電話を切るとすぐに「じぞう通り歯科こども歯科」に電話を入れます。「大人も診ていただけるのでしょうか?」「もちろんです。どうぞすぐに来て下さい」

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これで一安心。すぐに病院に行きました。レントゲンを撮った結果、「奥歯の周辺に歯槽膿漏の気がありますので、きちんと治療しなければなりませんが、それはかかりつけ医ののぶもと歯科でやられた方がよいと思います。今日はとりあえず、消毒して薬を出しておきます。薬局も年末年始で休んでいますが、今日は大手町1丁目のすずらん薬局大手町店が開いています」。10分ほどで、治療が終わり薬の処方箋をもらった病院を後にします。丁寧な対応に感謝です。

薬局でもらった薬が効いたのでしょう、翌朝と起きたときには、少し腫れはあるのですが、歯をかみ合わせても痛みを感じません。

お陰で、31日から正月3が日にかけては、歯の痛みを感ずることなく、普段通りに食事をとることが出来ました。しかし1日になっても腫れは残っていますので、痛みがぶり返すのが心配で、昨日まで痛みを和らげる薬は飲み続けました。

そんなわけで、きちんと治療をしなければと年始開けの今朝一番にのぶもと歯科に行くことにしています。歳のせいでしょう、歯茎がだんだん弱っていくようですので、今回はきちんと治療をしなければと思っています。

と思っていたのですが、出かける前に念のため病院に電話を入れると「今日まで休みです」とのことで、明日午前8時の予約を入れて電話を切りました。

ヒロシマ女たちの会の新春街宣

毎年恒例となっている1月3日のヒロシマ女たちの会の新春街宣が、今年も元安橋で行われました。午後1時から2時までの予定と聞いていましたので、1時半頃現地に行きましたが、雨模様と言うことでちょうど街宣行動が終わ、みなさんが解散された後でした。まだ現場に残っていた森容子さんにお願いし、写真だけ送ってもらいました。

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写真だけですが、報告にします。

 

いのちとうとし

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2024年1月 3日 (水)

STOP GENOCIDE―広島パレスチナ連帯デモ

昨日(2日)午後4時30分からパルコ横のアリスガーデンを出発点に、本通と通り原爆ドームに向けて「広島パレスチナ連帯デモ」が行われ、私も急きょパレスチナの旗と「STOP GENOCIDE」の文字を入れた手作りのプラカードを持って参加しました。

私がこのデモのことを知ったのは、1月1日夕方に行われた原爆ドーム前スタンディング行動に参加したときです。広島市立大学の湯浅政江さんから「明日アリスガーデンから原爆ドームまでのデモをしますが、参加しませんか?参加されるときには、音の出るものかプラカードを持って来て下さいね」と誘いを受けていたからです。

出発時間の少し前、アリスガーデンに着くと、すでにデモに参加する人が集まっています。

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デモ中に行うシュプレヒコールの練習をして、いよいよ出発です。

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ラップ調のシュプレヒコールが繰り返されます。楽器を鳴らしながら声を張り上げます。

道行く人も「何事?」と、多くの人が目を向けながら通り過ぎます。後の報告によれば、チラシを受け取る人も多かったようです。

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Free Free Palestine!

かわからパレスチナ/うみまでパレスチナ

ぎゃくさつやめろ/ジェノサイドやめろ

せんりょやめろ/ていせんもとめろ

こどもをころすな/だれもころすな

せかいはみている、こえあげる

いのちをまもれ/こどもまもれ

いますぐていせん/ただちにていせん

などなどです。

私がいつも参加するデモとは、全く違う雰囲気でのデモ行進でしたが、新鮮な気持ちで参加することができました。

午後5時過ぎに、原爆ドーム前に到着です。

10月7日のイスラエルによるガザ攻撃が始まって以来、原爆ドーム前での行動の中心を担っている一人、広島修道大学の田浪亜央江さんがアピールします。他にも何人かがアピールします。ミュージシャンも何人か参加していますので歌でのアピールもありました。

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ちょうど原爆ドームを訪れていた7、8人のインドネシアの若い人も横断幕を持ちます。参加者の輪が広がりました。

最後にレベッカさん(アメリカに住むユダヤ人で広島修道大学生:毎日原爆ドーム前の行動を行っている)のリードで全員が、ジョンレノンの「イマジン」を歌って一応行動は終了しました。この後もいつものように午後7時までのスタンディングが続きますが、私はここで行動を終了しました。

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パレスチナのガザ地区では、大晦日の31日もイスラエル軍による地上侵攻と空爆が続き、ガザ地区の保健当局によれば150人が死亡し、これまでの死者は2万1822人になったと発表しています。さらに食糧事情も深刻だと伝えられています。

「何よりも大切な命を守るためにも直ちに停戦すべきだ」と改めて強く訴えたいと思います。

いのちとうとし

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2024年1月 2日 (火)

2024年元日の平和公園

元日に平和公園を訪れるのは、ここ数年恒例になっていますが、今年は、昨年より少し早く午前9時前に平和公園を訪れました。

最初に原爆慰霊碑に参拝します。

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慰霊碑の前には、花が飾られています。今年はいつもより早かったからでしょうか、慰霊碑前で献花用の菊の花を手渡していただきました。NPO法人HPS国際ボランテァのメンバーが、「一人一輪千人献花」運動として毎年1000本の菊の花を参拝する人に配布しているそうです。NPO法人HPS国際ボランテァは、2005年に設立された組織ですが、代表者である被爆者の佐藤廣枝さんの話しによれば、献花の活動は、被爆60周年の年から続けているとのことです。

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慰霊碑前に供えられた花のうち、南天の木は、佐伯町の山中で育てられ、毎年年末に切り出して持参し、供えられるそうです。

いただいた花を献花した後、原爆供養塔に向かいました。

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ここにも新しい花が供えられています。

相生橋を渡り原爆ドームへ移動しようと北方面へ移動します。いつかこのブログでも紹介した島根の夫婦松が目に入ります。

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以前見たときに比べるとずいぶんとすっきりと刈り込みされています。昨年末平和公園のこの一帯では選定作業を行われていましたので、この夫婦松もその時剪定されたのだと思われます。

相生橋を私原爆ドームに移動します。

早い時間だったからでしょうか、平和公園に着いたときから外国人旅行客の姿が特に目に入りますが、ここにも何人もの姿があります。。

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上の写真でも、左右で二組のグループが、ガイドの話を聞いている様子がわかりますが、いずれも外国人のグループです。

帰りに原爆資料館を覗くと、少し受付前に列ができていましたが、ここにも外国人の姿が目立ちました。

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原爆資料館の平和監視時計は、広島への原爆投下からの日数は「28637」を示し、最後の核実験からの日数は「837」を表示しています。この2年あまり核実験が行われていないことを示していますが、この数字がさらに大きくなるように、今年もがんばらなければと思いながら、平和公園めぐりを終えました。

いのちとうとし

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2024年1月 1日 (月)

2024年 新しい年を迎えて

明けましたおめでとうございます。

2411  田谷行平さんから届いた絵馬

新しい年をどのような思いで迎えられたでしょうか。

今年は、原水爆禁止広島県協議会にとって二つの大切な節目の年を迎えます。

一つは、今年の9月7日に原水爆禁止広島県協議会発足70年を迎えます。

1954年3月1日のビキニ水爆実験被災から燃え上がった国民運動は、広島では5月15日に行われた「原爆・水爆禁止広島市民大会」をスタートに署名運動が開始され、この運動を契機に「原爆水爆禁止広島県民運動連絡本部」が結成され、「百万人の署名」が展開されました。署名運動は、約3ヶ月後の8月21日に目標の百万署名を達成しました。当時の広島県の人口は205万人ですので、その半数の署名を達したことになります。

そして、その署名運動の成果を継続させるための組織として9月7日に「原水爆禁止運動広島県協議会」が、結成されました。この組織が、現在の原水爆禁止広島県協議会(略称「広島県原水禁」)です。それは今に至る「被爆の実相」を原点にした核兵器廃絶の運動組織のスタートだったのです

この70年間、創意工夫をこらしながら「被爆者救援と核兵器廃絶」のための運動を展開してこられた先人の闘いに、しっかりと学びたいと思います。

二つは、今年1月25日は、「反核運動の父」ともよばれた森瀧市郎原水爆禁止国民会議議長が、亡くなられてちょうど30年目に当たります。

森滝先生は、「核と人類は共存できない」「核絶対否定」の原水禁運動の理念を確立されると共に被爆体験後「力の文明から愛の文明へ」と訴え続けてこられました。

森滝先生が、1987年に開催された第1回核被害者世界大会の基調演説で、核社会について「ウラン採掘の段階から放射能廃棄物の処理の段階に至るいわゆる核燃料サイクルの全ての段階で、放射線被害の可能性がある」「その際に、被害者の多くの場合は、弱いものの側に、差別さえ抑圧されているものの側に生ずるのである。」「核の開発利用は構造的に差別・抑圧の構造の上に成り立っているのである。」と告発されたことをニューヨークの会場で耳にしたことを今改めて思い起こしています。

2024年の新年を迎えるに当たり、原水禁運動の歴史をもう一度振り返りながら、「核と人類は共存できない」という深い意味を考え、さらなる原水禁運動の前進を図らなければとの決意を新たにしています。

そして、市民の大切ないのちを奪う、ロシアによるウクライナ侵略、イスラエルによるガザでのパレスチナ人へのジェノサイトともいえる虐殺を始めとする戦争を許さない声を粘り強くあげつづけるヒロシマの役割を果たしたいと思います。

そんな思いをこのブログでも発信し続けたいと思いながら、新年を迎えました。本年もよろしくお願いします。

いのちとうとし

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