ガザに支援物資を届けたいー森下雄一郎さんの話し
11月27日から12月8日まで、ガザへの支援物資を届けようと活動して来られた森下雄一郎さんの話を聞く会が、昨日午後2時から平和会館で行われました。
この聞く会の呼びかけ人は、広島県被団協の前田耕一郎事務局長。私も案内をもらいましたので、参加をしました。
これまで世界各地にでかけ支援活動を続けてこられた森下さんが、紛争のニュースを聞いて何とかしてガザの人々に支援物資を届けたいと思い、選んだのがエジプトのカイロからの道でした。いまガザへ物資を届けることが可能と思われる唯一の道です。以下は、自らが映した映像を流しながらの森下さんの話しです。
届けようと思った支援物資は、食料、水、医薬品です。ガザ近郊に住む人でないとガザには入れないとカイロで支援者を探し、何とかガザへの車の手配ができ、ガザへと向かった。カイロからガザまでの道のりは、シナイ半島を経由し約1000キロ。何カ所もの軍が管理する検問所があります。後300キロとなった地点の検問所では、それまでにない非常に厳しいチェックがあり、これ以上外国人である私が進むことは難しいという状況になりました。協力者のひとりに、ガザに住んでいた住民がいましたので、この人に後は託すことにしました。
この協力者は、何とか難民キャンプにたどり着いて物資を届けることができ、彼を通じてスマホでその様子が知ることができました。その施設には、約1000人が収容されているようです。
この難民キャンプにいる人たちは、今回の紛争で逃れた人なのか以前から難民となっていた人たちなのかは、残念ながらはっきりしませんでした。
スマホの画像を通じてですが「シュクラン」(ありがとう)の言葉があったので、きちんと物資が届き、感謝されていることがわかりました。
これまでの支援活動もそうなのですが、「人が人を助けることができないのが戦争だ」と言うことを感じます。そして、いつも現地の支援者(といっても、日本を出るときからはっきりしているわけではなく、現地に行ってから森下さん自身が探すようですが)が協力し、助けてくれるから、いつも何とか進むことができています。
ガザへの支援の報告は以上ですが、森下さんがなぜこの危険と思われる場所に行くのかを次のように話してくれました。「NGOの手の届かないところ、それは最も危険な場所です。しかし、そんな場所が最も支援が必要な場所なんです」「水、食料、教育、女性の問題。国は関係ありません。人は人です。明日ではない、今日届けたいのです。私たちは、国境を越えてわかり合えるのです」。森下さんの強い思いが伝わります。
森下さんは、ガザへの支援行動のほかにも、次のような活動をしていることが紹介されました。濁った水をのんで生活するブルンジ共和国の村に行き、井戸掘りをしたこと、トルコ・シリア地震の被害を受けながら、ほとんど支援の手が届いていないシリアに行ったこと、大水害に合ったリビアへの支援、ミャンマーの難民を支援するためタイに行ったことなど。2,3ヶ月に1回海外を訪れて支援活動を続けていること。
最後に森下さんは、こう言いました「『微力だけど無力ではない』と言うことをいつも思わせてもらっています。」
どこかでいつも耳にする言葉です。
いのちとうとし
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