先人を語る会ー吉田治平さんを語るー
広島市原爆被害者の会が主催し、今回で9回目を迎える「先人を語る会」が、11日の午後1時半から大手町平和ビルで開催されました。
今回のタイトルは「被爆地復興へ日雇いの被爆者とともに 労働運動、反戦・反核運動の先駆け」となっています。
語られる先人は、吉田治平さんです。
最初に、広島市原爆被害者の会の田中聰司さんが、映像を交えて吉田治平さんの経歴を紹介。
以下はその一部です。
吉田さんは、1945年8月15日、兵器受領のために佐賀の部隊から神奈川県に行く途中で、入市被爆。広島市の縮景園の前に住んでいた家族のうち母と妹3人は、被爆死しています。
1945年9月に中国新聞に入社しますが、1949年11月にGHQのレッドパージで、中国新聞を解雇され、翌年12月に日雇い労働者を集めて労働組合を結成。その後失対事業(失業対策事業)に働く人々と1953年に全日本自由労働組合(全日自労)を結成し、失対労働者の改善に取り組んだ人です。
吉田治平さんの歩みは、中国新聞の「生きて」(生きて・労働運動家 吉田治平さん(1922年~) | 中国新聞デジタル (chugoku-np.co.jp))に取上げられていますので、詳しくはぜひそちらを読んでください。
今回の語る会には、吉田さんと一緒に失対労働者として働いた人から、当時の吉田さんの話がありましたが、私が特に記憶に残ったのは、「平和記念公園、平和大通り、と広島の都市基盤は、失対事業者がつくった」という話しです。
失対事業者がつくった全日本労働組合は、広島が最大の組織だったようで、1960年には、7200人いたそうです。失対労働者が最も多かった1961年には、広島市の登録者は7,500人でした。そして広島の特徴と思いますが、うち半数以上が被爆者で、更に2割近くが朝鮮半島の出身者だったようです。
「広島の復興は被爆者が担った」と言い換えてもよいと思います。
友人の佐藤奈保子さんも登場し、ハナミズキ短歌会で一緒だった吉田さんの思い出も語られました。
会場から「当時の平和公園はどんな様子だったですか」との問いに、吉田さんと一緒に働いていたという廣木照代さんは「当時、あの場所は本当にでこぼこしていました。少し掘ると骨が出てきます。私は、その骨を洗う役割をしていました。丁寧に洗った後、新聞紙に広げで干しました」と当時の様子を語ってくれました。
今のようなきれいな平和公園になる前を知ることのできる貴重な証言でした。
話しは貴重でしたが、参加していて違和感を持ったのは「なぜ吉田治平さんなのか?まだ語るべき人は、ほかにおられるのでは」という率直な気持ちです。
いのちとうとし
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