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2023年10月16日 (月)

原爆死没者名簿

8日、9日に掲載した「被爆地別の被爆者健康手帳所有者数」を呼んだ木原省治さんから電話がありました。

「原爆慰霊碑に納められている死没者名簿の中に、長崎で被爆した死没者名簿があるのですが、あそこに記載されている人たちが、二重被爆者ですよね」との問いです。

うかつなことですが、死没者名簿の中に「長崎で被爆した死没者名簿」があることを、私はこの電話で初めて知ったのですが、この時はこう答えました。「先日広島市にいろいろ聞いたとき、担当者は『今回の調査(被爆地別の被爆者健康手帳所有者数)で、長崎市が二重被爆のことを管理していることを初めて知りました。広島市ではその調査はしていませんから』といっていたので、この名簿に記載されている名前は、二重被爆とは関係ないと思うよ。」と応え、「広島市に問い合わせて、その結果を報告します。」と約束して電話を切りました。

広島市の担当課を訪れてわかったことです。といっても、これまでこのブログでも何度か引用した「原爆被爆者対策事業概要」の「第2章 原爆死没者の慰霊 1 広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑及び原爆死没者名簿)」に記載れていることですが。

木原さんの疑問に答える前に、広島市のホームページと「原爆被爆者対策事業概要」を参照にして、「原爆死没者名簿」について、紹介します。

毎年、8月6日の平和祈念式典で新しい名簿が追加奉納されますが、始まったのは原爆死没者慰霊碑の除幕式が行われ1952年(昭和27年)8月6日です。以後、毎年新たな死没者名が、追加され今年の8月6日現在33万9,227名となっています。ちなみに今年の追加奉納数は、5,320名でした。

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毎年5月の第三水曜日に行われる原爆死没者名簿の風通し

現在名簿冊数は、125冊になっていますが、そのうち「氏名不詳者 多数」とだけ書かれた1冊があります。この「氏名不詳者多数」と書かれた名簿1冊があることは、今回調べていて初めて知りました。この名簿は、「一家全滅やご遺族の死亡により届出がないため、いまだに氏名が判明していない犠牲者が多数おられることから、こうした方々の慰霊のため」2006年(平成18年)に新たに加えられました。

これからが、木原さんの問いへの答えです。

125冊の死没者名簿に加えて、木原さんが指摘された「長崎原爆死没者名簿(広島奉納希望者)」1冊が、奉納されています。この名簿が奉納されたのは、2009年(平成21年)です。現在13名の名前が記載されています。

ここからは、広島市の説明です。

「死没者名簿は、広島で被爆し死没された被爆者の名前が記載されることになっているのですが、長く広島市に住んでいる、もしくは家族を含めて永住している長崎被爆者から『広島の慰霊碑に納められる死没者名簿にぜひ自分たちの名前を入れて欲しい』という強い要望があったため、1冊加えることにしたのです。ですから、『二重被爆』とは、全く関係ありません。」

木原さんにこのことを連絡し、この件は、一応一件落着となりました。

ただ、新たな疑問がわきます。広島市のことではないのですが、二重被爆者を管理している長崎市は、二重被爆者が亡くなられたとき、どう対応されているのかです。

もちろん、長崎に死没者名簿に新たに記載されることになりますが、もう一つの被爆地である広島に連絡(広島市長崎市以外に在住に被爆者が亡くなられたときは、その居住自治体から両市に連絡があり、名簿に記載される)されるのかどうかです。

その取扱いがどうなっているか、長崎市に問い合わせ、回答を持っているところです。

いのちとうとし

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