「広島ブログ」

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2023年10月

2023年10月31日 (火)

2023年10月のブルーベリー農園その4

安芸区の自宅から通う東広島市豊栄町のブルーベリー農園での農作業はもう長袖シャツでは寒くて作業上着を着ないといけなくなった。里山にあるブルーベリー園の中の草を刈り、周囲の林の笹竹をばさばさ刈り、ブルーベリー畑の溝掃除とし、枯れたブルーベリーの後に新しい苗木を植えたりしている。今夏も農園からブルーベリーを納品した安芸の郷ではジャムやソース、ジャムを練りこんだ天然酵母パンなどの加工作業が続けられている。1011月は地域の行事が多く出店する機会が多い。そのため計画的な製造をしていかないと品不足になるので利用者との作業も活気を呈している。

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10月28日(土)

ブルーベリー畑の向こうに秋らしいきれいな雲と青空が広がる。

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日暮れになると、傾いた日差しで紅葉を始めたブルーベリーの葉も赤く浮かぶ。

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10月29日(土)

農園の家の池の側のリンドウとミツバチ。

①ミツバチは花びらの中心の白い雌しべと、雄しべのある手前でしばらく行きつ戻りつを繰り返しながら

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②えいやっと飛びこみ蜜を吸う。終わるとまた次の花びらで同じことを繰り返す。秋はミツバチの蜜源、花粉源が少なくなるので貴重な蜜源のようだ。そして農園の周囲に咲いているセイタカアワダチソウも秋の貴重な蜜源、花粉源となっている。

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ブルーベリー畑にたくさんいるクモの巣。主の姿が見えない巣もある。

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他のブルーベリー畑の中のクモの巣。おなかを大きく膨らませているので卵を宿しているようだ。カエルも赤とんぼのあまり見ることはなくなったが蛇はまだうろうろしている。

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28日、29日と夏に枯れたブルーベリーの植え替えを6か所行った。太くて大きい枯れた木はそのままにしてすぐそばに植えたところもある。苗木は安芸の郷で育てた木だが挿し木用の穂木はこの農園生まれなので里帰りになる。

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ブルーベリー畑の溝掃除や、枯れた木の後に植え替えたりの作業をした後に子芋を掘り、

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帰って食べる分だけ甘い富有柿をもいで

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ほんの少しの時間帯でしか見れないブルーベリー畑からの夕暮れ時の景色を見てこの日の農作業は終了。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年10月30日 (月)

「広島刑務所壁画」現地見学会

広島拘置所(中区上八丁堀)の建て替えで撤去される外壁に描かれた壁画の保存を求めている会が主催する「広島刑務所壁画」現地見学会が、29日に開催されました。

午前10時、午前11時、正午の計三回、壁画が描かれた当時、それを担当していた広島市職員による説明会が実施されました。

私が訪れたのは、3回目の正午の会でした。

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関心を持つたくさんの市民が訪れていました。主催者によれば、1回目の10時には、もっと多くの人の参加があったと言うことでしたので、関心の高さがうかがえます。

私たち夫婦が見学会に参加するきっかけは、20日の中国新聞の記事ですが、その後で昨年10月から毎月5日を中心に15回にわたって「ベトナム象、広島を歩く」のタイトルで執筆してくれたあかたつさんから「あの壁画の中にベトナムのゾウが描かれていると聞いたので、ぜひ写真に撮っておいてもらえませんか」と電話での依頼があったので、絶対に行かなければならないことになったからです。

現地に行くと、12時きっかりに、当時広島市観光課長としてこの壁画製作に関わった小林さんの解説が始まりました。

この壁画は、広島城築城400年目の記念事業の一つとして企画されたもので、「原爆で喪失した江戸時代前後からの城下町の雰囲気を表現する記念事業として城下町を表現した壁画」が描かれることになったのです。最初に、所有する法務省などの許可を得るための努力や制作者を選ぶ苦労などが紹介されました。

コンクリート壁に絵を描くという難しい壁画作成を担われたのは、入野忠芳さん。

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その年の5月頃から描きはじめ、ほぼ完成したのは、10月下旬。拘置所に隣接する宿院宿舎に泊まり込み、作業助手の男女二人を採用し、製作は進められ多様ですが、本当に短い時間で良く完成したものだと感心しました。

当時、私は白島中町に住んでいましたので、この場所をよく通ったことがあります。壁の廻りに足場を組んだ作業されていた様子をおぼろげながら覚えています。そしてコンクリートの壁面に絵を描くのですから、筆がすぐだめになるというようなことを聞いたような記憶があります。

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この壁画の中には、ちゃっかりと壁画を制作する入野さんと二人の助手が描かれて部分があります。上の部分の右側3人です。これも解説がなければ、見つけることはできなかったでしょう。

さてあかたつさんから依頼のあった像の絵です。描かれている象は、広島の城下を歩いている姿ではありません。

1862年に長年続いた「風俗規制」が全面解除され、「砂持加勢」という祭が行われました。「砂持」とは、上流から流れてくる砂によって浅くなった川底を掘り下げる「川ざらえ」で出た川の土砂を運ぶことですが、それを加勢するために出し物や仮装をして祭を盛り上げたようです。

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その作り物の一つとして、138年前にこの城下を通ったゾウもつくられたのです。それほどに、ゾウが城下を通ったことは、人々に印象強く残っていたようです。

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あかたつさんの依頼に応えて写真を撮りました。

今までに紹介したのは、拘置所の北面の壁画です。

東面には、厳島神社の管絃祭の様子や宮島の大鳥居、城下町の賑わいの図などが描かれています。宮島の大鳥居は、落雷による倒壊や大潮・高潮などによって傾くなどの被害が出てようですが、その寄付金集めに広島藩や広島の町が深く関わったようです。

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賑わいの図では、橋の上の民衆の姿が描かれていますが、どの橋かは特定できていないようですが、考えられるのは京橋ではないかということでした。

東面の壁画の写真も何枚か撮りましたが、光のかげんでうまく撮ることができませんでしたので、紹介するのは上の一枚だけです。

壁画見学会を開催した壁画の保存を目指している会では、現物保存が難しいということで、壁画の画像をデジタル化し、陶板に焼き付けて遺すよう広島市に要望しています。

見学会に参加しながら、何とか絵の保存が進むようにとの思いを強くしました。

いのちとうとし

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2023年10月29日 (日)

これ、壊れていますよね

散歩をしているといろいろと「これ、壊れていない」と思う景色に出合います。今日は、そのうちの三つを紹介します。

その一つが、元安川にかかる平和大橋の上流側東端の欄干の支柱部分の亀裂です。

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これは、10月17日付の中国新聞にも取上げられました。養生テープで何度も巻かれていますので、亀裂そのものを目視で確認することはできません。中国新聞によれば、亀裂は最大で長さ約90センチ、幅約2ミリとのことです。「原因は調べないとわからない』ようですが、被爆地広島の復興を象徴する橋だけに、抜本的な補修が望まれますが、修理が完了するまでには少し時間がかかりそうです。

二つ目は、NHKのビルが建つ敷地の南東角に設置されている時計です。

散歩の途中で、たまたま「今何時かな」とNHK前の時計を見上げたところ、針が1本しかありません。「エッ」?

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よくよく観ても、やはり1本しかありません。午前11時前に家を出ましたので、11時15分くらいのはずですから、残った針は、11時過ぎのところにありますので、短針のようです。長針は?

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と思い近づいて見上げると、写真では見え難いかも知れませんが、下側の円周のところに横たわった針と思えるものがあります。長針で間違いないようです。

前面のガラスが割れたような様子はありません。なぜ長針が外れてしまったのか不思議です。

NHKに問い合わせると次のような答えが返ってきました。

「壊れているのに気づいたのは、9月の28日頃。修理を検討しているのですが、何分にも古いもの(ビルが建って30年ぐらい経つ)なので、どう修理するのか手配ができずにいます。オーナーさんとも相談して、どうするか検討中です。」とのこと。修理するにしても、取り替えるにしても、こちらも時間がかかるようです。

問い合わせてわかったことですが、時計のあるモニュメントは「空の広場」と名付けられているそうです。

三つ目は、平和公園近くの元安川左岸にある「広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑」です。

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この碑については、昨年10月18日のブログ広島ガス株式会社原爆犠牲者追憶之碑: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、ガスが燃える芯の部分(全部で5個)の交換作業を紹介しました。作業が行われていたのは、ちょうど一年前の10月14日のことです。

この追悼之碑は、一日中ガスが燃えているのですが、よく見ると5本ある芯の中の1本が、燃えていないのです。

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上の写真の左手前の芯です。見え難いのですが、右側の芯は明るく燃えているのがわかりますが、左側は全く燃えていません。昨年の作業も「古くなると燃えなくなることがあるのですよ」と取り替えが行われていましたので、一年経って古くなったのでしょう。

奇しくも一年、気になったので、広島ガスに連絡を入れたところ「初めて知りました。ありがとうございます。こちらからも見に行って確認し、すぐに取り替えようと思います」との返事でした。こちらは、早い時期に修理されると思います。

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2023年10月28日 (土)

紙屋町シャレオ「古本まつり」あと二日

紙屋町シャレオで21日から始まった「第30回古本まつり」の会期もあと二日(29日まで)となりました。

毎回のことですが、私も2度ほど会場を訪れ、「何か珍しい本はないか」と物色しました。なかなかこれはと思うものに出合うことが少なくなり、今回は2冊にとどまりました。

1冊は、以前購入したことがあったのに、なぜがわが家の書棚から消えてしまいネットなどでずっと探していた「ヒロシマの女たち」です。1987年の発刊です。1998年には「続ヒロシマの女たち」が発刊されていますが、この「ヒロシマの女たち」で取上げられている人たちの方が、懐かしいというか、改めて足跡をたどりたいなと思う初期の原水禁運動を担ってきた人が多く登場します。幾人かの名前を挙げます。栗原貞子、日詰忍、松原美代子、小西信子、伊藤サカエ、山岡美智子、節子・サーロー、個人ではないのですが、原水爆禁止広島母の会、デルタ・女の会などです。目次を読めば、この他にもこの人のことも知りたいと思う何人かの名前があります。

ようやく入手できた貴重な本です。

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もう1冊は、「占領されたスクリーン わが戦後史」です。1975年に発刊されていますが、ネットや古書目録などを含め初めて目にする本です。著者は岩崎昶さんです。目次を見ると「大本営と原爆」「原爆映画の運命」「原爆と人種差別」「原爆ニュース第一号」「原爆記録映画の発端」など、興味を引かれる文字が並んでいましたので、とにかく買っておこうと購入したものです。

あとがきには次のように書かれています。「とにかく、とりあえず、戦後の記録だけでもまとめてみたのがこの書物である。戦後といっても、終戦からわずか数年間、袖井林二郎氏のことばを拝借すれば『マッカーサーの二千日』の間に限り、しかも主として私自身の直接体験に限った。私ひとりしか知らない出来事をこの際活字の形で記録しておこうと考えた。米軍の占領が日本で何を行ったか、そして何を遺していったのか、それを映画という場面で受け止めたひとりの人間の証言として定着しておきたかった。」

読むのが少し楽しみです。

今回の「古本まつり」は節目の30回です。全く新しいデザインのそしてどこかで見たことのあるタッチで描かれたポスターができあがっています。

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出店店舗の中でも中心的な役割を果たしているアカデミイ書店の話しによれば、「節目の古本まつりなので、こうの史代さんにお願いしたところ、快く引き受けていただき、原画が届き、今までにないポスターができあがりました」と、うれしそうに教えてくれました。

本を購入すると、はがき大に縮小印刷されたものを一緒の付けてくれます。もちろん買わなくてもくれると思います。

あと二日、出かけてみて下さい。思いがけない本に出合うことができるかも知れません。

こうの史代さんの原画は、アカデミイ書店本店(福屋の西隣)のショウウインドウにしばらく展示されています。こちらにもどうぞ。

いのちとうとし

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2023年10月27日 (金)

「パレスチナ・イスラエル情勢」学習会を開催

一昨日25日、広島県原水禁と広島県平和運動センターは、パレスチナ問題を考えるための緊急学習会を午後6時から自治労会館で開催しました。

講師は、広島市立大学国際学部准教授の田浪亜央江さんです。田浪さんの専門分野は、中東地域研究・パレスチナ文化の研究で、パレスチナ問題では広島での第一人者といってよい専門家です。田浪さんは、学者でもありますが、行動の人でもあります。13日のブログガザ戦闘の拡大ストップ!―原爆ドーム前アピール行動: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した行動も田浪さんの呼びかけで実施されましたし、その後も毎週金曜日の夕方、原爆ドーム前では行動が続いています。

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「パレスチナ問題と2,023年<ガザ虐殺>の背景」と題しての講演で、短い時間でしたが、歴史を含めた話は、実に興味深く中身の濃いものでした。私の能力ではとてもすべてを紹介できませんので、いくつか印象に残ったことを書きたいと思います。

まず何よりも印象に残るのは、繰り返し強調されたことですが、パレスチナは、ガザ地区だけでなくヨルダン川西岸地区もイスラエルの占領状況にあるということです。そしてイスラエルは、パレスチナにおいて最終的に民族浄化(パレスチナ人口の消滅)を目指して時間をかけて着々とパレスチナ社会を追い詰めて来た政策の帰着としての現在の事態が発生しているという認識が必要だということです。

ここからは、まさに田浪さんの言葉の羅列です。

今回の事態は、突然起こったことではなく、確かにハマスの攻撃で始まったことではあるが、イスラエルはこの事態を待っていたと考えるべきです。

イスラエルの諜報活動の「失敗」と言われていますが、本当にそうだったのかは検証の余地があると思います。

「戦争・紛争」と言えば、対等にぶつかり合っているという印象を持つのですが、それは全く違うと思います。

マスコミは、ハマスのことを「ガザを実行支配するイスラム国組織」と呼んでいますが、「ハマスは、イスラエルのパレスチナ占領に対する抵抗する組織」であり、2,006年のパレスチナ評議会選挙によって勝利し誕生した政権なのです。

イスラエルは、1947年の「国連パレスチナ分割決議」によって誕生した国ですが、その時、先住民の意見は全く無視されました。分割時の人口は、ユダヤ人60万人、アラブ人123万人。分割されたユダヤ国家は、全領域の56%で、人口はユダヤ人50万、アラブ人40万人、アラブ国家は、全領域の42%で、人口はアラブ人72万人、ユダヤ人1万人でした。

問題点は、全人口の30%(土地の6%)しか占めていなかったユダヤ人が56%の土地を支配したことです。その後、アラブ人を軍事力で追放する作戦が開始され、幾度かの戦争を経て、現在に至っていることです。

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ガザ地区は面積が365平方キロ、人口は220万人(うち8割は難民)、広島市で比較すると、安佐北区の面積が、ガザとほぼ同じ353平方キロですが、人口は約14万人です。

こうした事実に基づく話が展開された後、強調されたのは次のことです。

「今の事態について、自分で調べればわかります。まず何よりも事実を知って欲しいです」

そして、私たちに必要なことを次のように提起されました。

「・イスラエルによるガザ大虐殺に黙っていないというアピール。

 ・認識に基づく発信やメディアへの異議申し立て:イスラエルは占領側であり、パレスチナは被占領地であること

・日本・イスラエル軍事協力関係強化への注目と抗議

・イスラエルの政策批判へのタブー視をやめること。非難されても反論できる情報や論理を自分のものにしていくこと」

国連のグテーレス事務局長も次のように発言しています。

「ハマスによる攻撃が理由もなく起きたわけではないことを認識することも重要だ」とし、さらに「パレスチナ人は、56年間にわたる息が詰まるような占領下に置かれてきた」

田浪さんも繰り返し強調された「占領下」という認識が、日本社会の中に、とりわけマスコミの中にあるのか、厳しく問われています。この視点を見失っては、今起きているパレスチナ問題の本質を理解することはできなのではないかと思います。

緊急の呼びかけでしたが、約60人の参加があり、3名の質問もあり、よい学習会になったと思います。参加者の中から、今夜の原爆ドーム前の行動に一人でも参加があればと思います。

いのちとうとし

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2023年10月26日 (木)

広島被爆二世裁判の控訴審始まる

2月の地裁判決を不服として控訴していた広島の被爆二世裁判の控訴審が、一昨日24日に広島高裁で始まりました。

第1回目の口頭弁論となることから原告団は、横断幕を掲げての入廷を行いました。

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広島高裁では、一番大きな法廷の一つ302号法廷で、小池明善裁判長のもと、午後2時に審理が開始されました。

最初に、控訴人(被爆二世原告団)、被控訴人(国)のそれぞれの代理人弁護団から提出された書証が確認された後、原告2人の意見陳述が行われました。

一人は、全国被爆二世団体連絡協議会の副会長の寺中正樹さん。寺中さんは次のように訴えました。意見陳述書の一部を引用します。

「私の妹雪子は生まれて1日しか生きることができませんでした。

私は生まれてすぐ引きつけを起こし、両親が原爆のせいではないかと心配しました。5歳の頃、遊んでいたら足の骨にひびが入ったり、小学生の時には棚田を飛び降りたりしただけで、よく捻挫をして母に猫車で病院に連れて行ってもらいました。

10歳の時、突然おしっこが真っ赤になって、1時間おきに血尿が出て痛くて夜も眠れず死ぬのではないかと思いました。心配した父が徳山中央病院に連れていってくれました。3ヶ月入院し何とか命が助かりました。

20代半ばには十二指腸潰瘍になり、下血がひどく意識が遠のき救急車で病院に運ばれました。輸血をせざるを得ず国立病院で2週間入院しました。その翌年から、微熱が続きました。被爆二世健診で非A非B型肝炎(現在のC型肝炎)がわかりました。

その後、週1回の強力ミノファーゲンCの静脈注射をずっと続けました。

また、30代の後半には、脳梗塞になりました。今も、心筋の炎症反応があり、継続的に通院治療しています。C型肝炎については、50代後半にウイルスを除去する薬に出会い、現在はウイルスがいません。しかしウイルスは無くなっても、非常に疲れやすく、少し無理をすると肝臓の数値が上がります。

61歳まで生きてきて、ずっと病院にかかり続け、医療費の負担は大きいです。とてもつらいです。」

寺中さんは、さらに「私は、山口で被爆二世の会の代表をしていることもあり、被爆二世の友人がたくさんいます。」とし、3人の被爆二世の友人をうしなったことを紹介し、最後に「私たち被爆二世の切なる思いをくんでいただき、被爆二世に寄り添った判決を出していただけるものと信じております。」と訴えました。

続いて証言台に立った広島原告団団長の平野克博さんは、次のように訴えました。

「私は姉と2人兄弟です。小さい頃から母から『あなたたちには,もう一人一番上のお兄さんがいたんよ。』と聞かされていました。長男は死産でした。そしてなぜか,母は亡くなる直前に『実は一番下に,もう一人弟がいたんよ。』と話し亡くなりました。『どうして亡くなる直前まで弟の話をしなかったのか。放射線の影響で何があったのか』といろいろと考えてしまいます。多くの被爆者の子どもが命を授かったにもかかわらず,生きたまま産まれてくることができなかったと聞いています。しかも,私の兄弟では4人のうち二人もです。

私たち被爆二世は,自分や身のまわりで起こる様々なことを親の受けた放射線の影響ではないのかと思って生きています。」

と自らの生き様を訴え、最後に「私たち被爆二世のおかれている状況や苦しみ、そして痛みを理解していただき,『疑わしきは救済』という血の通った判決を出していただきますよう,心より願うばかりです。」と陳述しました。

これで第1回の口頭弁論は終了し、その後弁護団と裁判所による進行協議が行われました。

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その内容について、在間弁護士から報告集会で次のように紹介されました。

「裁判所は、この裁判を重要事件という認識を持っているようだ。聞く耳を持っていると感じた」とし、さらに「今日の意見陳述が少し響いて裁判官が受け止めればと思っている。」

長崎における控訴審は、2回開廷しただけで結審となり、来年2月29日に判決が出るいことになっていますが、広島での審理は、もう少し深まるようです。

報告集会では、その後、医学的立場から裁判を支援する振津かつみさんから放射能による遺伝的影響についての話があり、終了しました。

第2回公判は、3月8日に行われます。

いのちとうとし

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2023年10月25日 (水)

福島第一原発汚染水問題の無責任とウソ

福島第一原発から海洋に放出されている汚染水、あらためて政府と東京電力の無責任さとウソを書いておかないと「腹の虫が収まらない」という気持ちです。

何といっても今から8年前の2015年8月25日、政府と東京電力は福島県漁連への回答で「漁業者をはじめ関係者の理解なしには、いかなる処分も行わない」と約束しているのです。しかし関係者の理解のない状態の中、海洋放出設備の工事を強引に進めたのです。もちろん今でも漁業者の反対の意思は変わっていません。

そして汚染水の放出期限は、2051年に福島第一原発の廃炉が完了するその時までとしています。耳かき一杯の溶け落ちた燃料デブリも取り出せない中で、燃料デブリが回収されるはずがありません。福島第一原発1号~3号機にある燃料デブリは推計で880トンあるとされているのに、28年後の2051年に取り出せる訳がないし、廃炉が完了する訳がありません。

そして汚染水の放出に反対しているのは、世界中で中国だけということが言われていることです。これはウソです。

私が調べた限りですが、次のところが汚染水放出に反対を表明しています。

・太平洋諸島フォーラム 

・オーストラリアの戦争防止医師協会と自然保護基金 

・ニュージーランドの環境団体

・フィリピンン非核バターン運動などによる「海洋放出は人類への犯罪である」との声明 

・韓国の783の市民団体の声明 海洋法国際裁判所への提訴をもとめる声明 

・米国の核のない世界のためのマンハッタンプロジェクト カリフォルニア州のウエスト ハリウッド市議会

・国連人権理事会

・イギリス・アイルランドの非核自治体協議会(NFLA)

国際海洋法やロンドン条約に抵触する可能性も指摘されています。

ロシアも中国と同じく、日本からの海産物の輸入を制限するとの報道も目にしました。

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また、福島の汚染水と一般の原発から排出されている排水は同じだというウソです。先日、10月1日付けの河北新報(かほくしんぽう)という新聞を手にしました。仙台市に本社のある新聞で、この地方で多くの読者を持つ新聞です。

この新聞の3ページの下に「トリチウム分析結果」というのがありました。「海水に含まれる放射性物質トリチウムの濃度を分析した結果、いずれも排出できる下限値未満だったと発表した」とありました。発表したのは東京電力です。

この検出結果についても、疑問を持って欲しいのです。第一には測定しているのがトリチウムだけということです。アルプス(多核種除去設備)と呼ばれる装置、汚染水はこれを通しているからトリチウム以外は全部除去されているような報告がされていますが、環境省の報告でも62種類の放射性物質が除去されるとしていますが、その他の放射性物質はどうなっているのか解らないのです。対象外の放射性物質は37核種で、これらのものは自主的に検出限界未満であることを確認しているとしていますが、これらの放射性物質の放出量がいくらで、その影響については説明されていません。

検出下限値未満というのは、リットルあたり7~8ベクレルがこの値ですが、この値が今後どういう影響を及ぼすのかは、説明が行われていません。

汚染水を陸上保管するのではなく海洋放出ありきだったのは、福島の全保管量相当を1か月で放出する六ヶ所村再処理工場のためだろうともいわれてます。まさに汚染水問題が原子力政策の矛盾を、示したのだと思います。原発は「トイレの無いマンション」と言ってたことが明確になったのではないでしょうか。

木原省治

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2023年10月24日 (火)

長崎市の死没者名簿と二重被爆者

今月16日のブログ原爆死没者名簿: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)の最後に以下のように書きました。

「ただ、新たな疑問がわきます。広島市のことではないのですが、二重被爆者を管理している長崎市は、二重被爆者が亡くなられたとき、どう対応されているのかです。

もちろん、長崎に死没者名簿に新たに記載されることになりますが、もう一つの被爆地である広島に連絡(広島市長崎市以外に在住に被爆者が亡くなられたときは、その居住自治体から両市に連絡があり、名簿に記載される)されるのかどうかです。

その取扱いがどうなっているか、長崎市に問い合わせ、回答を持っているところです。」

すぐにメールで問い合わせたところ、長崎市から次のような回答がありました。

「本市では、毎年8月9日に行われる平和祈念式典において、『長崎市原爆死没者名簿』及び『長崎市広島原爆死没者名簿』の2種類の名簿を奉安しております。

 『長崎市原爆死没者名簿』へは、長崎で被爆し、お亡くなりになった方のお名前を登載し、『長崎市広島原爆死没者名簿』へは、広島で被爆し、長崎で亡くなった方などのお名前を登載しております。

 二重被爆者の方におかれましては、両名簿への登載が可能であるため、ご遺族へ連絡をとり、どちらの名簿への登載を希望されるか、もしくは両方の名簿に登載を希望されるのか意思確認を行い、登載の処理を行っております。併せて、広島市に対しても、本市で死亡が判明した二重被爆者の方について、別途情報提供を行っています。

 なお、本市が把握している二重被爆者の死亡者数は、令和51011日時点で27名です。」

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国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館の追悼空間

この回答で、私の最初の疑問は解決しました。二重被爆者が亡くなられて場合は、長崎市原爆死没者名簿に名前が登載されるだけでなく、両方への名簿登載を希望された場合は、長崎市広島原爆死没者名簿にも記載されます。その上、広島市にも情報提供がされています。広島市は、今回の被爆地別被爆者数を調べるまで二重被爆という認識はなかったようですので、この長崎市からの連絡を受けて、広島市の原爆死没者名簿にも名前が登載されることになりますので、二重被爆者の場合、希望されれば、三つの死没者名簿に記載されることになります。

ここまでの回答を得て、さらに知りたいことが出てきました。

一つは「長崎市広島原爆死没者名簿」には、現在何名の名前が記載されているかです。

その答えは、「今年の8月9日現在97名」です。

二つは、二重被爆者は何人だったのかです。

上記のメールにあるように今年10月11日時点で、死亡者は27名ですから、生存されている人10名(昨日再度長崎市に確認)を加えると37名ということになります。

長崎市の死没者名簿も、広島市と同じく3種類あります。

「長崎市原爆死没者名簿」には、今年8月9日現在「195,607人の方のお名前が198冊の名簿に登載され」ており、その他に「名前がわからない死没者のための白紙の名簿1冊」と「長崎市広島原爆死没者名簿」です。長崎市では、この名簿は、通常長崎市平野町の「国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館」(地下2階)の「追悼空間」に納められているそうです。

これで16日のブログから始まった疑問は一応解決しました。が、気になることがあります。

それは、広島市が二重被爆者を把握していないため、もし仮に広島市に住む二重被爆者がおられた場合は、長崎市のようにその情報が長崎市には提供されないということです。

この長崎市の二重被爆者が亡くなられて時に対応を広島市に情報提供し、広島市としても対応を検討する必要があるのではないかと意見を伝えました。

その後の反応はまだないのですが、広島市も、これを契機に二重被爆者がいないかどうか調べて直して欲しいと思います。

いのちとうとし

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2023年10月23日 (月)

2023年10月のブルーベリー農園その3

東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から週末農業で通い続けているが、農園に着くときに時折キジと遭遇することがよくある。1021日にもお昼に車で農園に着いたときにまずメスの時キジが車の前を横切った。カメラ、カメラと車内を探しているうちに畑の草むらに消えたかと思うと今度はオスのキジが後を追い横切る。そのあと2羽目の雄のキジが横切って草むらに消えた。撮影は間に合わなかった。ブルーベリー畑の中がキジのテリトリーにしてくれていることがちょっとうれしい。農作業は草刈り作業中心で3段あるブルーベリー畑がほぼ終了。次は里山に移る予定。

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10月19日(木)

9月24日ブルーベリー畑に種をまいたカラシナがもう葉を広げている。その地面は乾燥でひび割れているが、かすかな水分をキャッチして日の光をキャッチして伸びる。

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ブルーベリー畑の草刈りを続ける。剪定して切られた枝の切り口を自力で修復するブルーベリーが目に入った。楕円形に樹皮を盛り上げている。

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茶の花が咲く。農園の小さな畑の端っこに永く立っている。

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20月21日(土) セイタカアワダチソウ2景。

①休耕田全部に咲いている。山の向こうが福富町の能良という集落。

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②農園のブルーベリー畑。杉林のみぎの斜面が里山のブルーベリー園。

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ブルーベリー畑の草刈りをするのだが、連続作業は避けて間で小さい畑に白菜や玉ねぎを植えてみた。無肥料で育てるつもり。

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里山の里道に咲くヨメナ2種類。2m位しか離れていない。

①花弁の一枚一枚が細長く、先端がとがっているタイプ

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②花弁の一枚一枚が幅広く、先端が丸くなっているタイプ

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ブルーベリー畑の紅葉はすこしすすんでいる。

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農園の庭のナンテンの実も赤くなりはじめている。

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日が短くなった。5時すぎになると空の雲は赤く染まり始める。

2023年1023

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年10月22日 (日)

三原地区・府中地区の10月の「19日行動」

【三原地区】

 戦争法(安保法制)の廃止と憲法を守り活かす政治を求めて街頭行動を行っている定例の「19日行動」。10月~3月までの冬季期間は、第2土曜日の午後1時30分から実施することになりました。

今月の街頭行動は、10月14日に三原駅前において15人が参加して行いました。5人の弁士は、「私たちは今、防衛費の倍増など軍備拡大と戦争放棄の憲法9条を変える改憲の戦争する国か、憲法の人権と民主主義が活かされる平和な国かの岐路に立っている。岸田政権が強行する軍拡と憲法改悪に対して地域や職場から大きな反対の声と行動を発していこう」と呼びかけました。

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スピーカーの政平智春さんは、「日本は70数年前、朝鮮・中国・東南アジアへ侵略を繰り返してきた。その中で多くの人の命が奪われてきた。これもすべて総動員令、戦争に協力しろ。戦争に協力しないものは非国民だとして国民を一つにまとめて戦争に協力させてきた。その中で命を落としたのは多くの若者や男性である。敗戦間際には空襲によって多くの市民が巻き添えになってきた。広島県では福山や呉といった所で空爆によって焼き尽くされた。このようなことを許してはならない。許さないということは、憲法を武器に今の戦争政策を行おうとしている岸田政権に対抗していくことになる。中国や朝鮮、韓国など近隣諸国は日本の平和に対する考え方がどの辺にあるのかということを注目している。日本が徹底した戦争放棄の平和政策をとるならば中国、朝鮮、韓国、東南アジアの国々は日本を敵視するはずはない。このことを私たちはしっかり持って、これからも戦争反対の取り組みを進めていかなければならないと思います」。「みなさん、平和ほど尊いものはありません。戦争ほど悪いものはありません。良い戦争はありません。悪い平和はありません。私たちはしっかりと平和の確立をめざした方向に進んでいこうではありませんか」。と訴えました。

藤本講治

【府中地区】

秋の日差しが照りつける上下Aコープ前に11人が集まり、恒例の安保法制に反対する府中市民の会によるスタンディングとリレートークを行った。今月はいつもの「安保法制は違憲です!」の横断幕に加えて「即時停戦!パレスチナ・ガザに平和を!」の横断幕を掲げたからか、いつも以上に通行する車窓からの反応が良い。続いて、夕闇迫る府中店前で10人が集まりアピール。

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いつもは上下ほどの反応が無い府中天満屋前でも、多くの方が車窓から手を振ってくれた。小さな取り組みだが、世界各地での戦争に反対する気持ちを表すきっかけ作りになったかもしれない。

各弁士が以下のようにアピールした。

「ロシアによるウクライナ侵攻が終わらないうちに今度はハマス対イスラエルの戦争が起きている。ウクライナ市民・兵士の死亡者数は20万人とも言われ、彼らが手を繋げばその距離は300kmにもなる。命を軽視する戦争の愚かさ。一人一人の微力を繋げて日本の大軍拡路線を止めよう」

「9年前を上回るハマスとイスラエルの戦争に対して両者没交渉の中で、安保法制を根拠にシナイ半島に派遣されている自衛隊将校は何をしているのか?各方面の調整を担う任務だというが、その動きは一向に見えない。今こそ健康9条を持つ国として平和的解決を図れと言いたい。それができないのならこの安保法制など役に立たないまやかしの法律だ。廃止しかない。」

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「ホロコーストの歴史を持つイスラエルがなぜパレスチナ人を同じ目に合わせるのか?この戦争が始まってすぐにイスラエルを支持した米国の行動は軽率ではないか?岸田首相には日本国憲法全文にある名誉ある地位を占めるための行動をとってもらいたい」

「海外の戦争に目を向けるのと同時に重要なのは沖縄のこと。軟弱地盤や何回も示されてきた沖縄の民意を無視して強行する政府の辺野古基地建設への執着は異常だ。」

「戦争を繰り返す人間のなんと愚かなことか。しかし日本も同じではないか?集団的自衛権の行使を容認し、国会ではまともに答えず、記録を改竄・廃棄した安倍政権と岸田政権は同じではないか。「外国からの脅威」という言葉に騙されてはいけない。生活を守るには戦争をしないことは一番重要。暮らしの経済を立て直すことに国費を回すべき」

ロシアによるウクライナ侵攻が終わらないうちに今度はハマス対イスラエルの戦争が激化し双方の市民が虐殺されるのは黙認できません。広島県の片隅の小さな街からも声をあげる、それに応えて車窓から手を振る人の多い「19日行動」でした。

石岡真由海

【編集者】今月の府中の19日行動には、小川敏雄さんが参加できませんでしたので、石岡真由海さんから原稿が届きました。石岡さんありがとうございます。

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2023年10月21日 (土)

ベトナムの歴史(その29-2)

ベトナム戦争はアメリカが冷戦構造のもとで勢力を拡大しつつあった社会主義勢力を押し止めるために、ベトナム共和国(南ベトナム)という傀儡国家を作り、南北を分断し、ベトナム民主共和国(北ベトナム)を打倒するために介入した戦争です。その戦いはアメリカと傀儡政権であるベトナム共和国(南ベトナム)にとっては北ベトナム政府を倒し、ベトナム全土を西側陣営に属する国にすることであり、ベトナム民主共和国(北ベトナム)と南ベトナムの人々にとっては、アメリカとその傀儡政権に支配された南ベトナムの解放と南北統一をめざした抗米戦争という性格を持っていたのです。

ベトナム共和国(南ベトナム)に住む人々は、南ベトナム民族解放戦線を結成して南ベトナム政権とアメリカに戦いを挑みます。いわゆる「ベトコン」と呼ばれたの人たちです。私たちもついつい「ベトコン」と口にしますが、そもそもは南ベトナム初代大統領だったゴ・ジン・ジェムが、「ベトナムのコミュニスト(共産主義者)野郎」という侮蔑の思いを込めて「ベトコン」と名付けたと言われています。

正式には民族の独立と統一を目指してゲリラ戦を戦った「南ベトナム民族解放戦線」に組織された人々で、決っして共産主義者だけではなく幅広い階層で構成されていました。日本でもメディアを含め「ベトコン」が通称となっていますが、先に述べた語意であり、ベトナム政府が「ベトコン」と自称したこともないことから、私は「南ベトナム民族解放戦線の人たち」と呼ぶか、短く「南ベトナム解放戦士」と呼ぶことにしています。

なぜ、アメリカと南ベトナム政府は、本来戦っている北ベトナムではなく南ベトナム領内、いわば自国内に枯葉剤を執拗にまき続けたのでしょうか。もうお解りでしょう。南北を分断されたベトナムの人々が分断された国家を越えて、解放と統一に起ち上がり戦った反米戦争(ベトナム戦争)は、主に北緯17度線を境に南ベトナム領内で展開されます。北ベトナム兵士が南進し、南ベトナムのゲリラ戦士とともに戦ったのです。

そこでアメリカは南ベトナムのジャングル深くにあるゲリラ戦士の基地や北ベトナムからの補給路を潰すために「ランチハンド作戦」をたて、枯葉剤でジャングルを枯らしたのです。何かの本でアメリカの政治家が、ベトナム戦争を「アジア人をしてアジア人と戦わせる」と言ったことを読んだ記憶があります。枯葉剤作戦は、まさにベトナム人同士を戦わせ、アメリカの帝国主義的な野望を貫徹しようとしたベトナム戦争の本質を象徴的に示すものだと思います。

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ホーチミンルート 左が散布前 右が散布後

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作戦で枯れたマングローブとフン少年(中村悟郎)

だから、枯葉剤が地図の上部にある旧南北境界線(クアンチ省)より南に位置する南ベトナム国土にまかれたのです。その面積は全土の20%に当たる243万㌶に当たります。コロンビア大学のテルマン教授らの推計では、10年間に約2万回、86%は2回以上、11%は11回以上も撒布されました。8万キロリットルもの枯葉剤が、3,118ヶ村以上の村々に浴びせられ、210万~480万人の人びとが猛毒ダイオキシンに汚染させられたとのことです。

「ベトコン」について

前述の「なぜ枯葉剤は南ベトナムにまかれた?」の項で「ベトコン」について触れ、(注1)を付けましたが、本文で説明することにしました。

これまで幾度か「ベトミン」という記述とその意味について触れましたが、「ベトコン」という記述は「ベトナムの歴史シリーズ」ではおそらく初めてだと思います。それぞれについて簡単に紹介します。

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ベトナム民族解放戦線の女性兵士

ベトミンは、正式名を「ベトナム独立同盟会」といい、抗仏闘争(戦争)を戦った独立運動組織で、ホー・チ・ミンが指導するベトナム国民戦線で、1941519日に結成されました。

「ベトコン」は「南ベトナム解放民族戦線」が正式名称で、19601220日に南部タイニン省で結成されました。南ベトナム政府の弾圧や米軍の介入に反対する仏教徒や自由主義者、華僑などが参加した、これまた広範な国民戦線です。参加団体は11の大衆団体、3つの宗教団体、3つの諸政治グループなどでした。

その南ベトナム解放民族戦線が南ベトナム国内において、北ベトナムからの武器・弾薬の支援を受け、その指導の下でゲリラ戦を展開し、「世界最強の軍隊」と言われた米軍に勝利しベトナムを解放したのです。

ところが、その南ベトナム民衆の抵抗闘争を共産主義者によるものと決めつけ、蔑視・喧伝するために、前述しましたゴ・ジン・ジェム初代南ベトナム大統領が「ベトコン(ベトナムのコミュニスト:共産主義者)と名付け、それが世界に広がり、今日に至っているのです。

そうしたことから、私は「ベトコン」ではなく「南ベトナム解放戦士」と呼ぶことにしています。

少し長くなりましたが、次号では今なお続く深刻な枯葉剤被害の実態について報告します。

(2023年10月21日、あかたつ)

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2023年10月20日 (金)

ベトナムの歴史(その29-1)

10年間続けられたランチハンド作戦(枯葉剤散布)

「宣戦布告なき戦争」と言われるベトナム戦争が始まった時期について、前号で私は抗仏戦争当時、フランス軍を支援するためにアメリカが軍事顧問団を派遣し、大量の武器・弾薬などの軍事支援を始めた1950年と考えていると書きました。ベトナム戦争はその後、1975年4月30日の「サイゴン解放」まで続くことになります。

1950年以降、アメリカの軍事顧問と大量の軍事支援を受けつつもフランス軍は、1954年5月7日にディエンビエンフーの戦いで敗れベトナムを去ります。7月2日には「(一旦)17度線で南北に分断」した上で、「1956年に自由選挙を実施し南北の統一を図る」とする「ジュネーブ協定」が結ばれます。しかし、アメリカは「ジュネーブ協定」を無視し、1955年10月、ゴ・ジン・ジェムにベトナム共和国を樹立させます。それまでのインドシナ軍事顧問団を南ベトナム軍事援助顧問団に改組・増強します。

こうしてアメリカはフランスに代わってベトナム共和国(南ベトナム)という傀儡政権をつくり、ホー・チ・ミンが指導するベトナム民主共和国(北ベトナム)を倒し、共産主義勢力の伸長阻止を図ろうとします。

そうした中で米軍は、今なお深刻な被害をもたらしている枯葉剤(エージェントオレンジ)作戦を始めます。1961年8月10日、ベトナム共和国軍(南ベトナム軍)のマークを付けた米軍C-123輸送機に枯葉剤を積み込み、ベトナム中部高原地帯のコントウム省で初めて実験的な散布が行われます。そして1130日、ケネディー大統領が「ランチハンド作戦」と名付けられた枯葉剤作戦を承認し、1971年10月31日までの10年間、休みなく反復的に南ベトナムの国土と人々の頭上に降り注がれました。

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出典:ウィキペディア「ランチハンド」と書かれた看板とC-123輸送機 1960年代

その結果、どのようなことがもたらされたのか、皆さんご存知のとおりです。そう、結合性双生児として生まれた“ベトちゃん・ドクちゃん”です。“ベトちゃんドクちゃん”は、ベトナムで最初に枯葉剤がまかれた地、コントウム省で1981年2月25日に誕生しました。

  なぜ枯葉剤は南ベトナムにまかれた?

下の地図は米軍によって枯葉剤が反復的にまかれた地帯を示した地図です。枯葉剤が本格的にまかれ始めた1965年から米軍の出撃記録を基に作成された散布地域の地図に筆者が手を加えました。

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枯葉剤作戦で出撃した米軍の記録を基に作成されたものに筆者が手を加えました

赤色部分が散布地点でその回数に応じて線が太くなり、赤く塗りつぶされた場所は散布の線が縦横に重なり一面に散布されたことを物語っています。地図上中央部の青囲みの地域がコントウム省、がラオスとカンボジア国境近くにある“ベトちゃんドクちゃん”の生まれた村です。

皆さん、地図を見て不思議に思われないですか? おそらく気づかれたと思いますが、枯葉剤が散布されたのはアメリが後ろ盾になっている南ベトナム、ベトナム共和国の領内です。

〔なぜ?!〕と、お思いでしょう。

私は、そこに「ベトナム戦争の本質があると思っています」と、いつもお話しします。それについては明日触れることにします。

(2023年10月20日、あかたつ)

【編集者】ベトナムの歴史その29は、明日に続きます。

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2023年10月19日 (木)

平和大通りに新しい碑が建立されます。

散歩コースの一つとなっている平和大通りの白神社前交差点の東南角(白神社の向かい側)で、白い塀を目にしました。数日前までは、アイビーの大きな葉っぱが生い茂っていた場所です。

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ちょうど、平和大通りのドルミネーションの準備が始まる時期でしたので、その作業の一つかなと思ったのですが、今まで塀で囲って作業をした様子は見たことがありませんでしたので、塀に何か表示されているのではないかと近づいていました。

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A4サイズの紙が2枚貼ってあります。道路使用専用許可書の道路使用の目的には「(仮称)月丘夢路記念碑建立計画に伴う仮囲いの設置」と書かれていますので、ここに月丘夢路さんの記念碑が建立されるのだということがわかりました。

それにしても、「なぜ月丘さんの記念碑?」と疑問がわきます。その時、頭に浮かんだのは「そうか、月丘さんは、日教組が製作し1953年に公開された映画『ひろしま』の出演されていたから」ということでした。

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たしか月丘さんは、「生徒を引率し、市内の建物疎開西行に当たっているときに被爆し、生き残った生徒たちを安全な場所に避難させようとして川に入り、生徒ともに力尽きる先生の役だった」ということを思い出したのです。

帰宅後ネットで調べると月丘さんは、広島市大手町生まれだということもわかりました。しかし、それぐらいの理由で平和大通りへの記念碑建立が許可されるのだろうかと疑問に思いましたので、詳しいことを知りたいと思い広島市に行きました。

道路専用使用の許可を出すのは、広島市役所中区維持管理課ですが、月丘さんの業績についてチェックしたのは、文化振興課ということでした。

月丘夢路記念碑建立の申請者は、「井上月丘映画財団」です。同財団は、「映画監督井上梅次とその妻であり女優である月丘夢路が、自分たちを育ててくれた日本の映画・演劇界の発展と普及のために役に立ちたいという願いのもとにこの財団を設立」(ホームページより)された組織です。

広島市の説明によれば、碑建立に当たって「井上月丘映画財団」からは次のような理由が挙げられているようです。

  • 広島市の出身でゆかりがある
  • 原爆を題材にした映画「ひろしま」や「長崎の鐘」に出演している
  • 原爆孤児の支援(チャリティーの集いを開催し、益金を広島市に寄付・自らも精神親となって支援など)に尽力した

ことなどです。

何となく納得ですが、原爆孤児の支援が気になりますので、中国新聞社が発行した「年表ヒロシマ核時代50年の記録」を引っ張りだし、自分なりに調べたところ、次のようなことがわかりました。

映画「ひろしま」が初めて上映された1953年7月31日と8月1日の二日間、同じ女優であった妹の千秋さんとともに広島児童文化会館で「原爆孤児援助の集い」を開催し、その益金計13万8,940円を広島市に寄付しています。広島市は、その寄付などを基にして翌年1954年11月に「原爆孤児奨学金制度」を発足させています。さらに「原爆孤児援助の集い」を行った2日後の8月3日には、月丘さんは妹さんとともに広島市原爆戦災孤児育成所の子どもの精神親となり、その子どもが高校卒業後も支援を続けていたようです。

そんな月丘さんの行為を評価して記念碑建立が許可されたようです。

記念碑の除幕式がいつかは聞いていませんが、道路使用許可は、11月4日までとなっていますので、それ以降に除幕式が行われるのではないかと思われます。

いのちとうとし

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2023年10月18日 (水)

第16回中国人受難者を追悼し、平和と友好を祈念する集い

今日は、二日目(15日)に中国電力安野発電所に建つ「安野中国人受難者之碑」前で行われた「第16回中国人受難者を追悼し、平和と友好を祈念する集い」の報告です。

今年は、広島駅南口からマイクロバスで参加しました。現地に着くと早速、川原さんの解説でフィールドワークが行われました。中国電力安野発電所入り口で、中国人がこの地での働き方や暮らしなどなどの解説。以前も聞いたことがあるのですが、新鮮な気持ちで聞きました。

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後ろの白い建物が発電施設。タービンは、地下深く掘られた中に据えられています。この穴も中国人の人たちが、掘らされました。発電所に向かって上から二本の導水管が伸びていますが、中国電力は作られた時期よりも据えられている位置で番号を付けているようですので、左側が作られた時期は新しいのですが1号路、1号の横にもう一本付いているのは、放水用の導管です。古い方の右側が2号路と呼ばれていますが、こちら側が中国人が作った導水路です。今は鉄管になっていますが、中国人は、地下に導水路を掘りました。その後、その導水路が破裂したため、現在のような鉄管になりました。

このまま、川原さんの話を書いていると終わりが見えませんので、ここまでで終わりにします。

その後、「安野中国人受難者之碑」に移動し、さらに横の急な石段を登って、約7.7キロの導水路の最終点を見に行きました。これで今回のフィールドワークは終了しました。

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その後、山口から参加された内田喜美子さんのお話を聞きました。内田さんは、当時4歳。安野発電所の水の導入口である土居に住んでおられ時の中国人との体験を話していただきました。

1時間ほど休憩した後の午後1時半から「安野中国人受難者之碑」前で「第16回中国人受難者を追悼し、平和と友好を祈念する集い」(以下「追悼する集い」)が始まりました。今年もテントや椅子、机などの会場作りは、地元加計町の仲間に協力していただきました。感謝です。

岡原美智子さんの司会で始まった「追悼する集い」は、全員で黙祷の後、広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会世話人代表の足立修一弁護士が、これまでの経緯を紹介しながら最後に「今後もこの和解事業によって築かれた日中間の友好と交流をさらに深め、被害者の追悼、歴史の継承を皆様方とともに継続していく」という決意を表明しました。

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今年もコロナ感染の影響で、中国からの遺族を招くことができませんでしたので、届いたメッセージが紹介されました。その一部です。

「2010年10月にこの地で除幕式が開催されてから、今年は足かけ14年になります。私は被害者遺族を代表して、日本の支援者の皆さまが毎月10月にこの地で強制連行された中国人の歴史を追想することに感謝いたします。過去を振り返ると、第二次世界大戦が中国の人々に永遠に忘れることのできない苦痛をもたらしましたが、最後には正義の側が勝利しました。本日、私たちは記念碑の前に立って受難者たちを偲ぶとともに、若者たちがこの歴史を理解し正しく向き合って平和を重んじ戦争に反対するように促します.両国の友好を発展させ、平和的な関係を拡大させるために、ご来席の皆さまの努力が必要です。」

その後橋本博明安芸太田町長、善福寺藤井慧心住職、広教組頼信委員長のあいさつ、中国中大阪総領事館薛剣総領事のメッセーが紹介されました。

続いて、竹内ふみのさんの二胡の演奏。演目は、別れの歌で名高い「陽関三畳」。

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毎年のことですが、二胡の調べは、心に響きます。その演奏が終わると、二胡の演奏が続く中で、参加者全員の献花が行われました。私も広島県原水禁を代表した献花を行いました。

献花を以て「追悼する集い」は終了しました。

その後参加者は、同じ坪野にある善福寺に移動し追悼法要を行いました。

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中国から強制連行され、安野に送られた人は、360人。うち29人が異国の地でなくなりました。そのうち3人は、日本に来る途中で死亡、原爆による犠牲者は5人、8月15日の終戦を迎えながら、帰国の途につけずに亡くなった人は3人です。

藤井慧心住職による読経のもと焼香を行って追悼法要は終わりました。

これでこの日のすべてに日程が終了し、再びマイクロバスで広島駅を目指しました。

今年も遠方からの参加者がありましたが、私の友人である日中労働者協会の伊藤彰信さんも東京から参加し、二日間行動を共にしていただきました。

いのちとうとし

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2023年10月17日 (火)

和解を導いた力Part3ー西松建設裁判原告・宋継堯さんの闘いをふりかえるー

毎年10月の第3日曜日には、山県郡北広島町坪野の中国電力安野発電所敷地に建つ「安野中国人受難者之碑」前で、「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」が開催されます。

今日と明日は、「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会」(以下「継承する会」)が主催し、14日、15日の二日間に開催した二つの行事を紹介します。

今日は、初日の14日午後2時から広島弁護士会館で開催された「和解を導いた力Part3ー西松建設裁判原告・宋継堯さんの闘いをふりかえるー」です。

タイトルの「和解を導いた力Part3」とあるように、今年は、過去2年間にふりかえった呂学文さん、邵義誠さんとともに西松建設裁判の受難者として原告となった3人の一人、宋継堯さんの闘いをふりかえる企画でした。

西松安野友好基金運営委員会の世話人だった杉原達さんの司会で、集いはスタートしました。杉原さんは、毎回大阪から参加されています。

最初に、「継承する会」の川原洋子さんが「宋継堯さんの軌跡」を紹介。川原さんは「宋さんの生い立ちから日本に強制連行された経緯、安野発電所現場でのトロッコ事故から失明に至る経緯、その後病気やケガで働けなくなった13人とともに下関から帰国、下関で船を待つ間に右目が腫れあがり、月のあまり2回気を失い、痛みに耐えきれず、自分の両手で右目の眼球を押し潰したこと」、さらに帰国後の苦難の生活が続いてことを紹介し、1992年に明らかになった安野の生存者の確認、1995年の50年ぶりの来日、その後の西松建設裁判において宋さんの証言が大きな役割を果たしたことなどが紹介されました。

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川原さんの話で印象に残ってことが二つあります。

一つは、1994年5月の聞き取り調査での体験。「ようやく自分の話を聞いてくれる人が出てきた。本当にうれしかった。中国では、それまで自分の話を聞いてくれる人はいなかったので」という安野生存者の声。二つは、「宋さんの観察力、記憶力がすごかったことに驚かされた。当時の引率者の名前、現場の総監督の帽子に『吉田』と書いてあったことをはっきりと覚えておられた。その話をビデオに撮り、西松建設に持って行って見せた。そうすると、それまで拒否していた合同調査に西松がすんなりと応じた。」という話です。川原さんは、宋さんの観察力、記憶力がその後の裁判や西松建設との交渉で大きな力になったと紹介しました。

川原さんの「宋継堯さんの軌跡」の紹介のあと、当時のニュース映像(4本をまとめたもの)が上映され、宋継堯さんの在りし日の姿を偲びました。

川原さんの話やニュース映像を見ながら、不自由な目をおして来日された宋さん、その宋さんの来日のためのビザ請求の手続き(当時は、中国から受け入れるときには、身元保証人などの申請が必要だった)のお手伝いをしたことなどを思い出しました。

休憩を挟んで、第二部の「宋さんを語る」がスタートしました。

最初に、中国在住の陳輝さんの話を聞きました。陳さんは、西松建設裁判で通訳として活躍されていました。残念ながら、今年も中国からは遺族や関係者を迎えることができず、ZOOでの対話となりました。

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川原洋子さんの質問に答えながらの話です。「1999年9月に中国を訪れた二人の日本人(川原さんと杉原さん)の通訳をすることから関わることになって以来、18回ぐらい調査や裁判、申入れに同行し、活動を共有してきました。当時マスコミもほとんど報道することはなかったので、活動に参加するまでは、強制連行の話は、知りませんでした」。その陳さんですが、車の中で「中国人被爆者・癒えない痛苦(トンクー)」(強制連行された中国人被爆者との交流をすすめる会1995年発刊)を見つけ、「加計を訪れてもなかなか現地の人が証言してくれなかったことを知り、太田川が中国人の苦しみを込めて流れていることなどの言葉に動かされて、本を翻訳することになった」経緯を話してくれました。

宋さんについては、「失明して帰国した宋さんにとって当時の中国で生活するのが、どれだけ大変だったか。本人のみならず、子どもたちも差別を受けていた。そのため長男は武術を習っていた」ことなど、陳さんならでの話を聞くことができました。

陳さんの話のあとは、陳さんが登場するまで通訳として活動された奈良在住の老田裕美さんの話と足立修一弁護士の話がありましたが、長くなりますので、今回はこの話は省略します。

最後に継承する会世話人の土屋信三さんが「日本は今どこに行こうとしているか、過去の歴史を学び、日中友好が子々孫々続くよう我わらが努力しなければならない」とあいさつし、閉会しました。

いのちとうとし

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2023年10月16日 (月)

原爆死没者名簿

8日、9日に掲載した「被爆地別の被爆者健康手帳所有者数」を呼んだ木原省治さんから電話がありました。

「原爆慰霊碑に納められている死没者名簿の中に、長崎で被爆した死没者名簿があるのですが、あそこに記載されている人たちが、二重被爆者ですよね」との問いです。

うかつなことですが、死没者名簿の中に「長崎で被爆した死没者名簿」があることを、私はこの電話で初めて知ったのですが、この時はこう答えました。「先日広島市にいろいろ聞いたとき、担当者は『今回の調査(被爆地別の被爆者健康手帳所有者数)で、長崎市が二重被爆のことを管理していることを初めて知りました。広島市ではその調査はしていませんから』といっていたので、この名簿に記載されている名前は、二重被爆とは関係ないと思うよ。」と応え、「広島市に問い合わせて、その結果を報告します。」と約束して電話を切りました。

広島市の担当課を訪れてわかったことです。といっても、これまでこのブログでも何度か引用した「原爆被爆者対策事業概要」の「第2章 原爆死没者の慰霊 1 広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑及び原爆死没者名簿)」に記載れていることですが。

木原さんの疑問に答える前に、広島市のホームページと「原爆被爆者対策事業概要」を参照にして、「原爆死没者名簿」について、紹介します。

毎年、8月6日の平和祈念式典で新しい名簿が追加奉納されますが、始まったのは原爆死没者慰霊碑の除幕式が行われ1952年(昭和27年)8月6日です。以後、毎年新たな死没者名が、追加され今年の8月6日現在33万9,227名となっています。ちなみに今年の追加奉納数は、5,320名でした。

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毎年5月の第三水曜日に行われる原爆死没者名簿の風通し

現在名簿冊数は、125冊になっていますが、そのうち「氏名不詳者 多数」とだけ書かれた1冊があります。この「氏名不詳者多数」と書かれた名簿1冊があることは、今回調べていて初めて知りました。この名簿は、「一家全滅やご遺族の死亡により届出がないため、いまだに氏名が判明していない犠牲者が多数おられることから、こうした方々の慰霊のため」2006年(平成18年)に新たに加えられました。

これからが、木原さんの問いへの答えです。

125冊の死没者名簿に加えて、木原さんが指摘された「長崎原爆死没者名簿(広島奉納希望者)」1冊が、奉納されています。この名簿が奉納されたのは、2009年(平成21年)です。現在13名の名前が記載されています。

ここからは、広島市の説明です。

「死没者名簿は、広島で被爆し死没された被爆者の名前が記載されることになっているのですが、長く広島市に住んでいる、もしくは家族を含めて永住している長崎被爆者から『広島の慰霊碑に納められる死没者名簿にぜひ自分たちの名前を入れて欲しい』という強い要望があったため、1冊加えることにしたのです。ですから、『二重被爆』とは、全く関係ありません。」

木原さんにこのことを連絡し、この件は、一応一件落着となりました。

ただ、新たな疑問がわきます。広島市のことではないのですが、二重被爆者を管理している長崎市は、二重被爆者が亡くなられたとき、どう対応されているのかです。

もちろん、長崎に死没者名簿に新たに記載されることになりますが、もう一つの被爆地である広島に連絡(広島市長崎市以外に在住に被爆者が亡くなられたときは、その居住自治体から両市に連絡があり、名簿に記載される)されるのかどうかです。

その取扱いがどうなっているか、長崎市に問い合わせ、回答を持っているところです。

いのちとうとし

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2023年10月15日 (日)

2023年10月のブルーベリー農園その2

段々と涼しくなってきた。東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から主に週末に通いながらブルーベリーを栽培している。夏の収穫時期を終え、畑や周辺の伸びた草を刈り、ブルーベリーの植えてある列に敷いてある防草シートをはがして整理する作業を続けている。また、合間に地面に緑肥用の種まきを行いながら頭で来年に向けていろいろと栽培方法を考える季節でもある。

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10月8日(日)

ブルーベリー畑から里山のブルーベリー園に入る途中に小さな畑があるがその畑の隅に植えてある甘い柿を少しばかり収穫した。もう甘くなっている。今年は豊作だ。

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10月9日(月)

3段あるブルーベリー畑の真ん中の畑で防草シートをはぎ取りそのあとブルーベリーの木と木の間の草を刈り取っていく。

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この日で真ん中の畑の防草シート整理と草刈りが終了。

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10月11日(水)

緑肥用の種を丈夫そうな草花の種と混ぜてブルーベリー畑にばらまくことにした。種まきは2回目となる。

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種を混ぜてから3つに分けて容器に入れる。

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種をまくスペースはブルーベリー畑の防草シートをはがして列の真ん中に寄せるのでその隙間に地面が現れる。そこにまいた。メインはホワイトクローバーにした。

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畑のブルーベリーの木の小さい場所にはヒメジョオンがのびのびと花を咲かせている。

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ブルーベリーの紅葉が始まった葉にとまる赤とんぼ。

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ブルーベリー畑の法面に実った渋柿。今年初めて実った。自然に芽が出て数年切らずいたので高さも3mくらいに伸びた。切ろうか残そうか・・・。

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農園の周辺の休耕田に咲くセイタカアワダチソウやススキの穂。

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10月14日(土)

安芸の郷の「第一回あきのそらまつり」が1000から1330まで開催されたのでブルーベリー農園での作業は休み。会場は森の工房AMAと第2森の工房AMA2か所で、ステージ発表は森の工房AMAの広い庭とデッキで行われた。最初に演奏するのは矢野中学校のギター・マンドリンクラブの生徒の皆さん。

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つづいて登場したのが森の工房みみずく、やの生活介護の利用者の自主参加によるダンス披露。昼の休みに1ケ月かけて練習してこの日を迎えた。薄曇りの気持ちのいい天気の中で楽しい時間を共有した。祭りの参加者は約400名だった。

2023年1015

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年10月14日 (土)

ガザ戦闘の拡大ストップ!―原爆ドーム前アピール行動

昨日「ガザ戦闘の拡大ストップ!」の思いを広島から届けようと午後5時半から原爆ドーム前で、市民の四つアピール行動が行われました。

「急なお知らせとなってしまいましたが、地上戦が始まったら、ほんとうに大変なことになります。

ガザでは万単位の死者が出るかも知れません。

他の地域にも拡大する可能性がありますし、イスラエルが核保有国であることも深刻な懸念材料です。

ともかく今は、さらなる暴力の応力のエスカレーションを止めることです。」

こう前書きされ、「ガザ戦闘拡大ストップ!~先ずはパレスチナ占領を続けるイスラエルに、地上戦回避を求めます~ 原爆ドームスタンディング 10月13日(金)17時集合 17時30分からアピール、一言メッセージ~歌や踊りでのアピールも大歓迎です」との呼びかけが、前日の12日夕方に届きました。

呼びかけたのは、旧知の広島市立大学准教授の田浪亜央江さんです。

私も、この呼びかけに応えて昨晩原爆ドーム前でのアピール行動に参加しました。

午後5時半、私が少し遅れて原爆ドーム前に着くと、参加者が原爆ドームを背に集合写真を撮り終えたところでした。「なぜ、こんなに早く」と思ったのですが、その意味は、そのあとの呼びかけ人田浪さんのあいさつで理解できました。

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「今撮った集合写真をガザの友人に送りました。広島での行動を受け止めたというメッセージが返ってきました。」そうなのです。この広島の行動を日没前にとって早くガザに届けたかったのです。田浪さんの話は続きます。「写真を届けた女性は、30年間、今まで一度もガザを離れたことがありません。というか離れることができなかったのです。少し前の連絡では、家族一緒にどこに逃げようかとずっと考えているということでした。イスラエルの進出で200万のガザの住民が暴力的に封鎖状態に置かれています。イスラエルは、16年間封鎖し続け、その間最低の数の食料や医薬品しか入れていないのです。今回のハマスの攻撃には、問題がありますが、そうした思いにさせたのはイスラエルの占領政策によってです。今イスラエルが準備している軍事攻撃は、まさにガザに対するジェノサイトでしかありません。この地広島から、軍事攻撃はさせないという声を上げましょう」

田浪さんの呼びかけで、参加者がアピールや歌で自分の思いを訴えます。

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途中日没の時間となり、呼びかけ人が準備したキャンドルにも火が灯され、一人一人が手にします。

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開始から1時間、午後6時半に約30人あまりが参加したこのアピール行動は終了しました。

アメリカをはじめ西側の諸国がこぞって、イスラエル支持を表明していますが、イスラエル軍によって周囲を完全に封鎖されたガザ地区では、食料、医薬品、電気、燃料が遮断され、人道上の悪化が進んでいます。

12日までにパレスチナ、イスラエル双方ですでに2700人を超える人々の命が奪われています。ガザ地区では、女性や子どもの犠牲が絶え間なく続いています。

イスラエル軍が、地上侵攻を開始すれば、「天井のない監獄」と呼ばれるガザ地区で、深刻な被害、とりわけ市民の犠牲が拡大することは、明らかです。

イスラエル、パレスチナ双方の歴史的問題が存在することはとりあえず置いたとしても、これ以上の市民の犠牲を出さないためには、イスラエル軍の地上侵攻を絶対にさせてはなりません。

「ガザ戦闘の拡大ストップ!」広島からさらに大きな声を上げましょう。

いのちとうとし

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2023年10月13日 (金)

被爆二世裁判―控訴審に向けた決起集会

広島の被爆二世裁判原告団が、広島地裁判決を不服として高等裁判所に控訴している裁判の、第1回公判が今月24日に開かれます。

この控訴審開始を前に、控訴団(控訴しましたので、控訴審では、原告団から控訴団と呼ばれることになる)による決起集会が、今月9日の午後2時から広島弁護士会館で開催されました。

今回の決起集会は、5月15日に提出した「控訴理由書」について改めて学習し、高裁での審理に向けて意思統一を図るというものでした。

集会は、平野克博広島控訴団団長の司会で始まり、最初にオンラインで崎山昇全国被爆二世団体連絡協議会会長が、あいさつ。

続いて、大阪から参加された弁護団団長の在間秀和弁護士が、「控訴理由書」をもとに、「広島地裁判決の問題点がどこにあるのか」を解説が行われました。

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真ん中が、在間秀和弁護団長

「控訴理由書」は丁寧に問題点を指摘しているため長文ですので、「控訴理由書」の「結論」部分だけ引用します。

「原判決について、大きく2点について指摘してきた。1点は、被爆者援護法における『被爆者』の趣旨についてであり、あと1点は、原爆放射線の遺伝的影響(継世代)影響である。

以上の結論は極めて簡明である。

第1に、被爆者援護法の趣旨は、原爆放射線による健康被害を受けている可能性のある人たちを対象にしている。そして、第2に、原爆放射線による健康被害の遺伝的(継世代)影響は否定できない。

 以上が本件において明らかにされた事実である。原判決は、第1の点は、同様の結論を肯定した、と理解できる。しかし、第2の点については、要は『放射線の遺伝的影響による健康被害の発生が科学的に承認も否定もされていないという意味での可能性』という趣旨不明の文章表現によって『判断回避』を糊塗し、『立法裁量』との結論を示している。

原判決を総じて見れば、原判決は、控訴人らの主張立証を正面から受け止めそれに応えるという姿勢を示さず、アプリオリに設定した『立法裁量』という結論と符合するように組み立てたといわざるを得ない。(以下略)」

在間弁護士は、「今後の審理では、第2の『原爆放射線による健康被害の遺伝的(次四代)影響は否定できない。』の点を中心に、証拠書類などの提出を進めていく」と解説されました。

その後、参加者からの意見表明を受け、今後の日程を確認し決起集会は終了しました。

24日に開かれる控訴審第1回公判では、2人の控訴人が、意見陳述をすることになっています。弁護団の報告によれば、1回の審理で結審する(審理終了)ことも危惧されたのですが、第1回公判終了後、裁判所と双方の弁護団による「進行協議」が行われることになりましたので、2回目以降も引き続き、審理が行われることになるようです。

長崎の被爆二世裁判は、すでに6月29日に福岡高裁で第1回控訴審が行われ、国側は「双方の主張・立証は尽くされた」として結審するよう主張しましたが、審理が継続され、今月17日に第2回公判が行われ、控訴人団長の崎山昇さんによる意見陳述が行われることになっています。

いのちとうとし

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2023年10月12日 (木)

朝鮮人強制労働犠牲者追悼法要

 今月3日から本願寺広島別院で始まった「北海道・笹の墓標展示館全国巡回展in広島」の最終日となった10日、本願寺広島別院本堂で「朝鮮人強制労働犠牲者追悼法要」が行われました。別院の本堂で「朝鮮人強制労働犠牲者追悼法要」が行われてのは初めてのことです。

法要が始まる午後1時前に会場に着くと、受付横には灯ろうが用意されており、一人一人がその思いを書き、本堂祭壇前に並べるように準備されていました。

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午後1時、亀井顕雄実行委員長による「過去の歴史の真実に向き合うことが大切。犠牲者の痛みを心にして、和解の尊さを考えたい。この場所、本願寺別院は日露戦争の時第2陸軍病院が有、ここで亡くなった引き取り手のない遺骨を表忠塔に納めている。」と本願寺別院の戦争に関わる歴史を紹介する主催者あいさつ後、榮俊英輪番(広島別院の最高責任者)など4名の僧侶による「阿弥陀経」が読経されるなか、参加者は焼香を行いました。

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焼香しているのは、進徳高校の生徒です。この追悼法要に先生と高校生平和ゼミナールの生徒二人が参加していました。高校生平和ゼミナールの生徒は、毎年庄原市の高暮ダムでの追悼式に参加しています。

他宗教の人も参列されていますので、それぞれの立場で追悼の意を表します。

全員の焼香が終わると、会場を整理して広島朝鮮学園生徒などによる「チェサ」が行われました。

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「チェサ」は、朝鮮民族に伝わる法事などで「先祖への感謝の気持ちを表し、親族の結束を強めていく」思いを込めて行われる行事です。たくさんのお供え(食物)を作り、お酒、ご飯、お茶の順で同じ動作が繰り返され、普通は、1時間ぐらいかけて行われる行事のようです。

「チェサ」が終わると、広島朝鮮歌舞団の黄玲実(ファン・ヨンシル)さんの追悼の踊り、

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朝鮮学園高級部の生徒30人によるアピールと合唱(「故郷の空」「イムジン河」)とアピールです。

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高校生たちは、午前の3時間の授業を受けて参加しています。

これで追悼の行事は終わり、次は記念講演です。

記念講演の講師は、金英鉉(キム・ヨンヒョン 38歳)さん。金さんは、笹の墓標展示館再生・和解と平和の森を作る実行委員会で活動を続けています。

金さんは、京都生まれの在日3世で朝鮮学園の中高学校を卒業、朝鮮大学校卒業後、朝鮮青年同盟の活動家として活動を続けながら「何をもって自分を朝鮮人であると形容できるのか」を問い続けているとき、2013年に初めて「遺骨発掘事業」に参加し、「笹の墓標」展示館と出会い、この場所を守ろうと京都から北海道に移住し、現在に至っています。

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講演のタイトルは「東アジアの未来と希望の種を」で、二つのテーマ「朱鞠内での強制連行・強制労働」「私が朱鞠内を語る理由―植民地主義の克服のために-」での話でした。

今なお続く朝鮮人差別の中で、私たちは何を考え、何をすべきなのかを突きつける厳しい内容の話でした。その内容を今文字としてあらわすことができないのが残念ですが、印象に残ったのは「死者と向き合うことで、忘れられようとする歴史を学んで欲しい」ということでした。

約3時間あまりの「朝鮮人強制労働犠牲者追悼法要」は無事終了し、それとともに「北海道・笹の墓標展示館全国巡回展in広島」の行事も成功裏にすべて終了しました。

「笹の墓標展示館」は、2020年豪雪の重みで倒壊し、その再建のための募金活動が行われ、その一環として全国巡回展が開催されています。現在も募金活動が続いているようですので、ぜひご協力をお願いします。

いのちとうとし

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2023年10月11日 (水)

Connect Hiroshimaの街頭署名活動

11月27日から12月1日にかけて、アメリカ・ニューヨークにある国連本部で開催される「核兵器禁止条約第2回締約国会議」に日本政府がオブザーバー参加することを求めるオンライン署名活動を開始したConnect Hiroshima(代表大内由紀子)が、連休最終日の9日、平和公園原爆の子の像周辺で、対面署名活動を行いました。

代表の大内由紀子さんは、第24代(2021年)の高校生平和大使で、昨年オーストリアのウィーンで開催された「核兵器禁止条約第1回締約国会議」に参加し、大活躍をしています。

そんな大内由紀子さんたちの呼びかけでしたので、私も8月30日から始まったオンライン署名に賛同署名しました。

先日、署名をした人たちに次のような情報が提供されました。

「Connect Hiroshimaは現在行っているオンライン署名に加えて、対面でも署名を集めることといたしました。10月9日(月・祝)9時半~12時半に、平和公園内の元安橋付近で実施します!もしお近くを通られた際は、ぜひ声をかけてください。」

近くに住んでいますので、応援したい気持ちもあり、10時過ぎにどんな様子か見に行ってきました。

いつも高校生平和大使が署名活動を行っている元安橋上かと思ったのですが、そこには姿が見えず、廻りを探すと原爆の子の像の前に署名用紙を手にした大内さんを見つけることができました。

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大内さんの姿しか見つけることができませんでしたので、「一人でがんばっているの?」と声をかけると、「あと四人います。」とのこと。道路を挟んで反対側の慰霊碑側に二人ずつペアになって4人の高校生が、署名用紙を手にして署名を呼びかけている姿がありました。

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高校生4人は、安佐南区祇園にあるAICJ高校の生徒たちでした。大内さんに聞くと「Connect Hiroshimaは、AICJ高校を経営する欧州塾のサポートを受けています。その縁で私も何度か学校を訪れ話したことがあります。それで、今回の署名活動を手伝ってもらうことになったのです」ということでした。

4人のうち話を聞いた二人は高校1年生。「学校で、平和の活動について話を聞いたことがあり、何かできないかなと思っていましたので、今回参加しました。」

AICJ高校は、大下学園祇園高等学校の敷地や校舎を転用し、2007年に開校した学校です。大内さんの話によれば「平和活動にも力を入れている学校」とのことでした。

高校生4人は、街頭での署名活動は初めての体験のようで、通りかかる人に声をかけるのが難しかったようでしたので、短い時間でしたが私も旅行者に呼びかける手伝いをしました。私がいたのは、10分あまりでしたが、県外からの旅行者何人かの人が署名に協力していました。

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大内さんのところではドイツから訪れた4名の観光客(+ガイド1名)が、署名に協力してくれていました。

大内さんたちのオンライン署名は、10月10日午前10時現在17,465名が集まっていますが、さらに25,000名を目標に続いています。

いのちとうとし

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2023年10月10日 (火)

10月12日に株主代表訴訟を起こします

2016年4月から始まった電力全面自由化後明らかになった、中国、関西、中部、九州の各電力会社による独占禁止法違反のカルテル事件(談合による営業活動制限)、公正取引委員会による立ち入り検査を受けた事件です。

この事件は関西電力が主導したとされていますが、18年秋に公正取引委員会から立入り検査を受け、中国電力には排除措置命令と707億円を超える課徴金が命じられました。707億円を超える課徴金というのは、前代未聞の史上最高の額です。

当時、経営企画部門のトップとして、カルテルの実質的な責任者であり、この6月まで社長だった瀧本夏彦前社長や清水希茂前会長は辞任しましたが、事件の真相は株主や消費者にはまったく明らかにされないままとなっています。

12日の木曜日、カルテルに関わった4電力の株主が一斉に株主代表訴訟を起こすことになりました。私たち中国電力の株主は、広島地方裁判所に訴状を提出し、その後に会見をして発表することにしています。 

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株主代表訴訟を起こす前の手続きとして、6月7日、会社の監査委員会に対して、関わった取締役らに「損害を求めなさい」という提訴請求の手続きを行っていました。

この提訴請求について去る8月3日、中国電力は前会長ら3人に対し賠償請求をするために提訴すると発表しました。私たち株主は当時の取締役ら総勢22人の提訴を求めていました。他の3電力会社はすべて提訴しないとしたのです。

このカルテル問題で中国電力、三つの裁判を行うことになっています。

一つめは9月28日に行った公正取引委員会への課徴金と排除措置命令の取り消しを求める訴訟、この裁判は東京地方裁判所で裁判が行われます。

二つめは、10月4日に3人の当時の取締役への損害賠償訴訟、これは請求額が約6,000万円というもので、弁護士らが調査に要した費用だとされています。

そして三つめは、10月12日に私たち株主が行う株主代表訴訟です。

二つめで書いた約6,000万円の裁判について、中国電力は9月28日に公正取引委員会に行った取り消し訴訟の結果によっては、変更するとしていますから、とりあえず調査費用を求める裁判を起こしたと理解をすることができると思います。

お金も組織も大きな「巨象」である中国電力に比べると、私たちが起こす株主代表訴訟はお金も組織も小さい、まさに「蟻が巨象に挑む」戦いです。頼りになるのは、皆さんからのご支援です。

12日は13時に弁護士会館3階ホールに集まり、裁判所へと向かいます。14時頃から同じく弁護士会館で記者会見と報告会を行うことにしています。

是非とも弁護士会館にお越しください。そして可能であるならば、支援金のカンパをお願いする次第です。

郵便口座番号は、01370-0-3583

 口座名は、原発はごめんだヒロシマ市民の会

どうぞよろしくお願いします。

木原省治

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2023年10月 9日 (月)

被爆地別の被爆者健康手帳所有者数―つづき

7日のつづきです。

「被爆地不明」が438人もいるのですが、どういうことですかね。

確かに、被爆者健康手帳を取得するため、申請するときには、当然被爆地が書かれているはずですので、私たちも不明というのはなぜだろうかと疑問に思っています。最初は、「3号被爆者の場合、被爆した場所が広島市や長崎市に限定されないのでそのためか」と考えたのですが、1、2の自治体に問い合わせたところそうでもないようです。不明と報告があったのは、長崎市を含んで11自治体ですが、各自治体に詳細を問い合わせたわけではありませんので、はっきりしたことはわからないのですが、一つ考えられるのは、住所を変わられたとき、絶対に必要な新旧の住所、被爆者健康手帳の番号のみが引き継がれ、被爆地などの情報は、引き継がれなかったのではと思います。被爆地は、被爆者行政に特に必要な項目ではないものですから。

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二重被爆者が10人となっていますが?

そうなんです。「人数が合った」と言いましたが、当初は10人多くなっていました。問い合わせてわかったのですが、長崎市には、広島、長崎の両方で被爆した二重被爆者が、10人おられて、それぞれの被爆地で計上されたものですから、厚生労働省がまとめた総数を10人オーバーしていたのです。長崎市は、以前から二重被爆者の人数を把握されていたようです。広島市は、二重被爆ということを調べたことがないので、把握できていません。調べるとすれば、被爆者健康手帳の交付申請書を調べるしかありませんが、今のところ、調査をする要諦はありません。ただ、当時の状況から想像できることは、二重被爆者は、広島で被爆してさらに長崎で被爆したケースがホトンではないかと思います。理論的には、長崎で被爆したあと、広島で入市被爆したということは、考えられなくはありませんが、壊滅的な状況の広島市にわざわざ長崎から来られるというのとは、ほとんど皆無と言ってよいのではないでしょうか。

来年度以降、厚生労働省は、調査しないのでしょうかね?

2年前、各都道府県(長崎市を含む)に調査を依頼するとき、厚生労働省とも相談をし、今回の調査結果についても一応報告し、「来年度以降、3月末現在の被爆者健康手帳所持者数の報告に中に入れることはできないか」とお願いをしたのですが、回答はありません。「各自治体からの報告項目に調査して欲しい」旨伝えたのですが、「被爆地がどこか」は、被爆者行政に直接必要のないことですので、いまのところよい返事は返っていません。

 

確かに被爆者行政には、直接関係のない統計数字かも知れませんが、今の被爆者状況を知る上では、必要な情報のように思います。各自治体からの報告に1項目加えれば済むことですので、厚生労働省の来年度の報告には、被爆地別の人数も合せて発表されることを期待したいと思います。

都道府県別の被爆地別被爆者健康手帳所有者数の詳細は、https://www.city.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/220504.pdfで検索することができます。

いのちとうとし

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2023年10月 8日 (日)

2023年10月のブルーベリー農園その1

ブルーベリー栽培をしてから身についたのが天気の様子の推移。今年の8.9.10月は雨が少ない。安芸の郷で育てているブルーベリーの苗木もこの影響で毎日水やりは行うが乾いた鉢がたくさん出ている。トロ箱に水をはり鉢ごと水にしばらくつけておいてしっかり水を吸わせて枯れない対策に追われている。東広島市豊栄町のブルーベリー農園でも土が乾いた状態が続いているが、ブルーベリーは元気なので安心している。残った実を取り除いたり、草刈りをしたりの作業が続く。

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10月1日(日)

に行く途中の高屋町造賀にある無人の野菜売り場にいつもよって新鮮な野菜を買っている。隣の田んぼの稲はしっかり実っているがまだ刈っていない。聞けばこの地区の農事法人は稲のすべてを酒米を育てているそうなので他の田んぼも黄色になった稲田の景色が広がっている。

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ため池とそこに行く途中の里道の草刈りを行った。

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ため池は春に草を刈ってからそのままに開いておいたので夏草が人の背丈くらい伸びている。

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2手に分かれて草刈り機で伸びた草を払う。1時間ほどで刈り終えた。

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池の草刈りを終えて農園に帰る道で、隣の畑に小さな赤い花が見える(マルバルコウソウ)

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10月4日(水)

ブルーベリー農園は穏やかな秋晴れ。

 

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ブルーベリー畑の防草シートの片付けに取り掛かる。3段ある畑の一番上から始める。シートの上の草やブルーベリーの実を払いきれいにしてから真ん中に寄せておく。それが終わるとブルーベリーの木と木の間に生えている草を刈る。

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農園の周囲の様子。

①里山のヤブランの花が散り、代わって結実した緑色の実がついている。

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②時期も赤とんぼがブルーベリー農園の電気柵にとまっている。

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③富有柿が色づいてきたが、まだちょっと早いよう。

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少し遅いがジャガイモの種芋をネットで購入したので農園にある小さい畑に植えた。土の上に置き枯草をかぶせただけの植え方。春までにどうなるか。

2023年923

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年10月 7日 (土)

被爆地別の被爆者健康手帳所有者数

先月29日、中国新聞に「広島で被爆61.5%」と見出しが付けられた広島市が発表した興味ある記事が掲載されました。小さな記事でしたので、気づかなかった人も多いのではないかと思います。

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厚生労働省は、毎年7月の初めに、その年の3月31日現在の全都道府県と広島市、長崎市の被爆者健康手帳保有者数を発表します。しかし、その詳細は、被爆状況ごと(1号:直接被爆者、2号:入市被爆者、3号:救護・看護、死体処理、黒い雨、4号:胎児)の人数は発表されますが、被爆地別の人数が発表されることはありません。

私は、以前から被爆地別(広島か長崎か)の人数は、どうなっているのだろうかと気になっていましたので、広島市の発表を紹介した中国新聞記事を「興味ある記事」といったのです。厚生労働省は、被爆地別の人数を発表していませんが、広島市は以前から広島市が管轄する被爆者健康手帳所持者については、毎年発行される「原爆被爆者対策事業概要」で、被爆地別の人数を発表しています。私の手元にある最も古い「原爆被爆者対策事業概要」は2008年版ですが、そこには被爆地別の人数が掲載されていますので、それ以前から広島市は独自で集計していたことがわかります。

今回の広島市の発表によれば、被爆地別の内訳は、広島被爆が6万9877人で61.5%、長崎被爆が4万3344人で、38.1%です。比率が100%となっていないのは、被爆地不明者が438人となっているからです。

この「不明者438人」の意味など、新聞記事では、読み取れない内容もありましたので、広島市原爆被害対策部調査課を訪れ、もう少し詳しい内容を聞きました。問い合わせたこと(強調体文字)とその回答です。

なぜ広島市が、被爆地別の被爆者数を把握しようと思うようになったかです。

時々市民から「被爆地別の人数はわかりませんか」と問い合わせがあるのですが、10年ぐらい前に実施された抽出調査で明らかになった「おおよそ広島6割、長崎4割」という答えしかできなかったので、きちんとしたことを調べてみたいと思い2年前から厚生省の了解を得て、全国の自治体の協力を得て、調査してきました。残念ながら、過去2回は全部の自治体からの回答がそろわず、発表するのを控えていたのですが、ようやく今年は、全部の自治体からの回答がそろい、しかもその合計が厚生労働省が3月末時点にまとめた人数と合致したので、発表することにしました。

結果を見てどう思いますか。

まず、広島市からのお願いによく答えていただいたというのが率直な感想です。集計してみると、以前の抽出調査ででた比率とほぼ同じだったことがわかりました。調べてみて、確かに被爆行政に直結する内容ではないかも知れませんが、やはり必要な情報だなと改めて思いました。

 

もう少しお聞きをしていますので、その内容は次回・9日に紹介します。

いのちとうとし

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2023年10月 6日 (金)

北海道・笹の墓標展示館全国巡回展in広島

「望郷のおもいを抱いて異国の地で命はてた、あなたお念う。

第2次世界大戦中、日本国内では70万人以上の朝鮮人強制連行・強制労働がありました。北海道朱鞠内での雨龍ダム建設では、多くの朝鮮人・日本人が犠牲になり笹ヤブの下に埋められ、忘れ去られました。忘れ去られた犠牲者を遺族のもとに帰そうと、1980年から遺骨の発掘が僧侶や市民の手によって始まり、97年からは東アジアの青年たちが集い、交流し、遺族に届けてきました。犠牲者の遺品や交流の記録から、過去と出会い、現在、未来を考えます。」(巡回展チラシから引用)

1980年5月から北海道北部にある朱鞠内の山奥深い笹ヤブの下に埋められていた朝鮮人強制労働・たこ部屋労働犠牲者の遺骨掘り出し運動が始まり、2015年9月、発掘された115体の遺骨が、僧侶や市民の手によって、70年ぶりに里帰りを果たしました。

「北海道・笹の墓標展示館全国巡回展in広島」は、この歴史的事業を振り返り、未来継承したいとも思いで、開催されたものです。

私も、巡回展広島実行委員会の一人吉川徹忍さんの誘いを受け、初日の今月3日に会場となっている本願寺広島別院共命ホール(中区寺町)に行ってきました。

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初日の3日は、犠牲者遺品・記録の展示の他、午後2時から同会場で2015年の遺骨奉還の様子を記録したドキュメント映画「長き眠り」が、上映されましたので、その映画を見に行ってきました。この映画は、巡回展最終日の10日の午前11時から上映が予定されています。

映画上映が終わると、友人のペ・ハクテさんの鎮魂のチャンゴの演奏、

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そして遺骨発掘、韓国への遺骨送還運動の中心的役割を担われた浄土真宗本願寺派・一乗寺住職殿平善彦さんの講演がありました。

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殿平さんの講演のほんの一部ですが、強く印象に残った話を紹介します。

「強制労働犠牲者の遺骨と向き合い、人との繋がりを作ることが平和を作ることだと思うが、しかし、それはなかなか難しい。1982年初めて韓国に行った。『遺骨を帰したいと思った』その時は、喜んでもらえるだろうと思っていた。しかし、遺族に厳しく接しられた。『遺骨だけ持ってきてどうするのか。きちんと謝罪することこそ大事ではないか。』当時韓国では、強制連行・強制労働は誰でも知っていた。しかし、日本ではほとんど知られていなかった。この時、韓国人の思いを日本人に知らせなければならないと強く思った。

真っ黒な遺骨。死者のとの出会い。遺骨に出合ったら祈られずにはいられない。なぜ祈るのか。非業の死をした死者に対し手、ここでどんな死をしたのか、どのように埋められたのか。そして、対立を超えてこの死者に対して何ができるのだろうかと考えるようになった。再び繰り返さないためには、私たちは何ができるのか考えざるを得ない」

最近の政治状況を考える時、殿平さんの言葉が私の心に突き刺さりました。

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今回の「北海道・笹の墓標展示館全国巡回展in広島」では、朱鞠内の犠牲者遺品・記録展示だけでなく、広島での開催らしく、広島朝鮮学園の子どもたちの作品や庄原高野の「高暮ダム」関連資料、朝鮮半島徴用工被爆者問題、広島安野発電所・中国人強制連行被害者に関する資料も展示されています。

犠牲者遺品・記録展示は、8日9日を除く10日までの午前10時から午後4時まで行われています。

最終日の10日には、午前11時から映画「長き眠り」の上映、午後1時からは、広島別院本堂において「朝鮮人強制労働犠牲者追悼法要」と広島朝鮮学園生徒の歌と踊り、そして金英鉉(キム・ヨンヒョン)さん(笹の墓標展示館再生・和解と平和の森を作る実行委員会)の講演「東アジアの未来に希望の種を」が行われます。

ぜひご参加ください。

いのちとうとし

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2023年10月 4日 (水)

10月の「3の日行動」

10月に入り、日の入りがずいぶんと早くなったなと感ずるようになりました。

少し暗くなり始めた昨日午後5時30分、本通電停前で、戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会の「3の日行動」が始まりました。

今回は、11月3日に開催する「NO WAR NO KISHIDA 11・3ヒロシマ憲法集会2023」への呼びかけるチラシを配布しながらの行動でした。

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マイクを握ったのは、5人です。

①主催者の呼びかけ②岸田内閣の改造人事に見えてくる女性参加の弱さの問題・過ちを繰り返さないためには、歴史に事実と向き合うことが大切③岸田首相の軍備増大の乍らの出発点は、安倍国葬での自衛隊の異常とも言える登場から④税制負担の増大が進んでいること・もし軍事攻撃が起きれば、原発の危険性は一気に増大・大切なのは国民の暮らしを守る政治⑤岸田首相の少子化対策は、真の対策にはならない.例えば、保育所の保育士の増大や経済的社会的負担をどう減らすのかこそが急がれるべき。

などを訴えました。

11月3日に開催する「NO WAR NO KISHIDA 11・3ヒロシマ憲法集会2023」では、「ミサイルより〇◯を」の◯◯ に当てはまる参加者の想い寄せてもらうことにしています。

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昨日の行動でも、参加者がそのリハーサルの思いを込めて街頭行動が始まる前に一人一人が、「ミサイルより生活を」などと書いたプラカードを作成し、掲げ、1時間の行動を展開しました。

10月の「3の日行動」の参加者は、30人でした。

11月3日の集会は、午後1時から原爆ドーム前で集会を行い、アピールの後、八丁堀の岸田文雄事務所まで、デモ行進し市民に訴えることにしています。

一人でも多くの市民に参加してほしいと呼びかけながらの街頭行動でした。

いのちとうとし

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2023年10月 3日 (火)

船舶の定期検査

今日も散歩中の話です。

元安川の水面が異常に高くなっていたことは、昨日のブログで紹介しました。同じ時間帯に散歩に出ましたので「今日はどうだろうか」と元安川を見ながら右岸を上流に向かって歩きました。ほぼ同じような水面の高さでした。

ちょうど、「カキ船かなわ」付近にたどり着いたところ、数人の人が、カキ船の方を見ながら話をしているのが目に入りました。

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何をしているのか気になりましたので様子を見ていると、二人が少し上流に移動し、カキ船の外観を見ながら、手元の紙に何か書いています。

「何をしているのですか」と尋ねると女性が「船舶検査です」との答えてくれました。さらに「係留船といっても船舶ですので、検査をしているのです」とのこと。「その検査には、係留状況の検査もあるのですか?」と問うているとかなわの社長に同行していた従業員が、少し大きな声で「時間がないから」と、私の声を遮ります。客商売を行っている人の態度とも思えない姿勢でしたので、エッと思ってのですが、検査を進めている二人が、船舶の中に移動しはじめましたので、それ以上の問いかけは断念し、写真を撮って私たちも原爆ドーム方面へ移動しました。

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午後になって、少し詳しいことが知りたいと思い中国運輸局海上安全環境部船舶検査官に電話を入れました。

電話に出てきたのは、午前中かなわの船舶検査を行っていた検査官でした。丁寧な回答で、次のようなことを教えてくれました。

船舶の検査は、年1回実施し、検査項目は、「外観(損傷がないか)、脱出経路の安全が確保されているのか、消火器、非常灯、火災報知器の作動などに異常はないか」などです。消火器以降の項目は、消防署が点検するような内容ですが、船舶検査でも実施するとのことです。

念のため、「離岸が可能かの検査はないのですか」と尋ねたところ、「離岸が可能かどうかは、船舶検査の対象ではありません。ただ、動力を持たない船舶ですから自力では移動できませんので、移動させようと思えば他の船で曳航するしかないですね」との答え。やはり、誰が考えても簡単には離岸できないのです。「カキ船かなわ」の撤去を実現させることは、事実上困難ですが、ごまかしを押し通して進められたことだけは、決して忘れてはならないことだと今でも思っています。

それにしても、現場での「かなわ」の対応は、市民の声を軽視する姿勢が全く変わっていないとの思いを強くさせる出来事でした。

いのちとうとし

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2023年10月 2日 (月)

あっと思う景色

最近、毎日のように散歩をするのですが、今まで気づかなかった「あっ」とか「えっ」と思う景色に時々出合うことがあります。

袋町小学校平和資料館前の歩道で、ちょっと不思議な電信柱を見つけました。もう数え切れないほど何度も通った道ですが、なぜか先日ようやく気づきました。

電柱が、根元が曲がって立ち上がっているのです。

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歩道側から車道側に曲がっていますので、車がぶつかって曲がったとは思えません。よく見てもどこにも、何かがぶつかったような形跡は残っていませんので、電柱そのものが曲がっていたとしか思えません。すぐ南側にある交差点の横の電柱は、当たり前のことですが真っ直ぐ建っています。

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そして写真見ていただければわかりますが、電柱の根元に障害になるようなものは何もありません。わざわざ、手間をかけて、こんな根元を曲げた電柱が作られたのでしょうか。とにかく不思議な電柱です。

どなたか、理由をご存知でしたら教えてください。

二つ目は、不思議なというよりちょっとびっくりする景色です。

昨日昼前、散歩のため元安川に架かる万代橋を東から西に渡っていました。川面を見ると、ずいぶんと水位が高くなっています。万代橋の上から、本安川下流の右岸を撮った写真です。

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写真の左端の川岸は、石積みの護岸のほとんど最上部付近まで水位があがっています。こんな水位の高さを目撃したのは、初めてです。写真の撮影時刻は、114分です。

広島気象台発表の広島湾の潮位表によれば、101日は大潮で満潮は2回あります。昼間の最高潮位は、午前1044分に391cmとなっています。11時ちょうどの潮位は、388cmです。7分間で7cm潮位が下がっていますので、私が写真を撮った11時4分は、満潮時を少し過ぎてはいますが、ほとんど川の流れは止まっていたように思いますので、満潮時とそんなに大差はなかったと言えます。

思いがけず、カメラを向ける景色との出会いでした。

ちなみに前日9月30日の満潮は、午前10時3分で、潮位は389cm、今日10月2日の満潮は、午前11時24分で潮位は381cmですので、今回の満潮では、10月1日が一番高い潮位だったようです。ここまで書いて、さらに調べてみると、10月1日の潮位は、今年一番高い潮位だったことがわかりました。

少しだけ気をつけながら歩いていると、あっと言う思いがけない景色に出合うことができるかも知れません。

いのちとうとし

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2023年10月 1日 (日)

今日は、中華人民共和国の74回目の建国記念日です。

中国では日中戦争後、1946年6月から蒋介石が指導する国民党軍と中国共産党の人民解放軍の間で内乱が勃発しましたが、1949年に人民解放軍が勝利し、74年前の今日10月1日、「中華人民共和国」の建国が宣言されました。

中国では、10月1日は、この中華人民共和国の樹立を記念し、国慶節とよばれ、法定休日となっています。今年の国慶節の連休は、9月29日から10月6日までの8日間となり、マスコミでも報道されているようにこの連休を利用して、日本を訪れる観光客が、増大しています。

在日中国大使館は、建国74周年と日中平和友好条約締結45周年を記念し、9月28日に東京で祝賀のレセプションを開催しました。

今年は、初めて原水禁国民会議にも招待状が届きましたので、谷事務局長と二人で参加しました。私は、20年ぶりの参加となりました。

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あいさつする呉江浩駐日中国大使

私が、この祝賀レセプションにわざわざ広島から出かけていって参加しようと思ったのは、もちろん招待があったことからですが、大きな理由は二つあります。

一つは、夏の原水禁世界大会に周力中国人民平和軍縮協会副会長を団長とする6名の代表団が参加し、交流を深めることができましたので、今後も中国人民平和軍縮協会との関係を強化したいとの思いがあったからです。

二つは、日中間の関係が厳しい状況にあるときにこそ、交流を重視する思いを伝えたかったことです。

4年ぶりに開催された建国記念のレセプションの参加者は、1500人だったと言われています。この人数が多いか少ないかはわかりませんが、日中関係が今のままではいけないと思っている人が多くいることを感じました。

建国を祝賀するとともに、今年のレセプションは、「日中平和友好条約締結45周年」の冠があることを重視する必要があると思います。

日中両国は、平和条約の締結に先立つ1972年9月29日に、「日中共同声明」を発表し、平和友好関係を築くことを確認しました。

そのような歴史を経て結ばれたのが「日中平和友好条約」です。同条約では、

第1条 

1 両締約国は、主権及び領土保全の相互尊重、相互不可侵、内政に対する相互不干渉、平等及び互恵並びに平和共存の諸原則の基礎の上に、両国間の恒久的平和友好関係を発展させるものとする。

2 両締約国は、前記の諸原則及び国際連合憲章の原則に基づき、相互の関係において、すべての紛争を平和的手段により解決し及び武力又は武力による威嚇に訴えないことを確認する。

としています。

日中関係が厳しいと言われる今、この日中平和友好条約に盛られた精神に立ち返ることこそ、両国の平和にとって、ひいては東アジアの平和にとって重要なことではないでしょうか。そのことは、レセプションの挨拶に立った日本側来賓から口々に指摘されたことです。

そのことを改めて痛感した祝賀レセプションでした。

いのちとうとし

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