指揮者山下一史さんは被爆二世
昨日のブログを読んでいただいた広島県被団協事務局長の前田耕一郎さんから次のようなメールが届きました。
「おはようございます。
本日のブログで取り上げている指揮者の山下一史さん。お母上は山下博子さんという被爆者です。
博子さんは抜け落ちた頭髪を原爆資料館に寄贈し、それはかつての展示で「放射線」のコーナーに長く展示されていました。
博子さんには自宅に伺ってお目にかかったことがあります。非常に品の良いお方でした。その手記が資料館にもあり、一緒に被爆した弟さんは身を寄せていた先で血を吐いて亡くなったこと、一史さんの出産に際し、非常に苦労したことなどが記されています。博子さんが被爆した場所は手記の記述から、本逕寺の被爆したタブノキの辺りと推察しています。
ブログを拝見して思い出したことを記しました。
一史さんが博子さんの手記を学校などで使ってと広島市長に届けたことが中国新聞にも載っています。」
山下博子さんから寄贈された広島平和祈念資料館のリニューアル後の新しい図録には収録されていませんが、以前の図録には収録されています。
昨日(9月5日)の中国新聞に「被爆した母の手記450冊、指揮者山下さん寄贈 広島市に活用願う」という新聞記事は読んでいたのですが、「今回はコンサートのことだけに」と、書かずにいました。
前田さんからのメールを読んで、改めて調べてみると山下一史さんは、今年5月4日から中国新聞の「緑地帯」に「広島に生まれた指揮者」を書かれています。
そこには、お母さんのことが何度も登場します。
第1回では「あの父と母のもとに生まれていなければ、広島で育った14年間がなければ、きっと僕は指揮者になっていなかったのではないかと思う」と書き、第2回では、お母さんの被爆について「そんな2人をあの原子爆弾が襲ったのだった。母は18歳、祐策は6歳だった。当時自宅は大手町にあり、爆心からわずか800メートルの距離で2人は被爆した。母は足を中心に37カ所もの傷を負い生死の境をさまよったが、祐策は奇跡的にほぼ無傷であったという。被爆から1週間後、2人の髪の毛は同時にすべて抜け落ちてしまう。祐策はそれを境に急激に体調を悪化させて3日後に亡くなった。その後4カ月を経て母は徐々に回復していったが、健康な状態からは程遠く、髪もまだ生えてこなかった。被爆後のことを母が僕に語ることはなく、僕の出生時の話と共に主に祖母(母の母)から聞かされた。後に母が手記を出すまで詳しいことは何一つ母の口から僕に語られることはなかった。」と書かれています。
第7回では、前田さんの文書にある出産についても記述されています。「結婚から15年を経た昭和36(1961)年、母は懐妊した。母の体調は依然として不安定で、2カ月に入ってから出血を起こし入院したところ、医師から出産は難しいと告げられる。しかし母は、夫に父になってほしいという強い思いから文字通り必死に6か月間耐えてくれた。そうしてこの世に生を受けたのがこの僕である。1400グラム足らずの未熟児だった。
大げさではなく、命を懸けて僕を産む決心をしてくれた母には感謝しかない。あの病弱な母のどこからその力が出たのか。『母は強し』というが、われわれは産んでくれた母という存在にもっと感謝しなければならないと思う。」
締めくくりとなる第8回では、「昨年の8月3日、東京混声合唱団の広島公演を指揮した。この日のプログラムの中心は、林光先生の「原爆小景」(原民喜の詩による)だった。
東京混声合唱団は、1980年から毎年8月にこの曲を歌い継いでいる。僕が初めて指揮したのは2018年8月。その公演に寄せた文章の中で、初めて母が被爆者であったことを公に語った。そしてそれをなぜ封印していたかも。
毎年8月が近づくとさまざまな媒体から取材が殺到し、幼い僕の目には、精神的にも体力的にも弱っている母親をまるで寄ってたかっていじめているように映って、そんな僕の様子を見た母が取材をお断りすることもあったようだ。
しかし母の死後、母がテレビの取材に答えて『私が死んでも私の髪の毛は残る(母の抜け落ちた毛髪は原爆資料館に収蔵されている)。それが原爆の悲惨さを語ってくれる。しかしこの髪の毛がなくなってしまったら』と語っているのを見て、僕の中に新しい思いが芽生えた。
文章は次のような言葉で締めくくられている。『私は音楽家です。言葉で発信するのではなく音楽に思いを乗せていくことができる。それが命をかけて産んでくれた母の思いに応えることになると』」。
長い引用になってしまいましたが、山下さんのことをもっと知っていたら、コンサートの音色も違って聞こえたのでは、との思いになっています。
いのちとうとし
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