「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」を知っていますか?
「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」の名前を聞いて、「あーあのことか」と思い浮かべることのできる人は、何人おられるでしょうか。
広島県原水禁運動の歴史を書いた「原水爆禁止運動50年の歩み」(広島県原水禁2004年発刊)の中にも登場しない組織の名前です。
最近、二つの出来事がきっかけとなって、この組織の活動について調べてみました。
きっかけの一つは、「在ブラジル被爆者」の歴史を研究する高校生平和大使OGの新しい論文が発表されたことです。もう一つは、広島県原水禁運動の代表委員を務めたことのある片山春子さんが今年3月に逝去され、広島市原爆被害者の会から「片山春子さんを偲ぶ」という原稿の依頼を受け、「そういえば、片山さんが県労婦人部の部長だったことカンパ活動を取り組んでいたな」ということを思い出したことです。
手元には資料が何もないところからの出発でしたので、まず頼りにしたのは新聞記事です。
中国新聞の記者にお願いをし、当時の新聞記事を入手することができました。その記事に「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会の事務局は広島平和教育研究所に置いた」とありましたので、広島平和教育研究所に「何か資料は残っていないか」と問い合わせたのですが、「残念ながら資料は保存されていません」とのことでした。結局、中国新聞の記事を頼りに調べていくしかありませんので、中国新聞の記事を元に、「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」の活動をおってみたいと思います。
「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」(以下「ヒロシマ委員会」)は、「原爆に後遺症に苦しむ海外の被爆者(金子注:対象は在米被爆者のみ)を支援し、広島での治療を実現させよう」と1982年12月27日に当時県原爆被爆教職員の会の会長だった石田明さんら7人の呼びかけによって発足しました。
そのきっかけとなったのは、同じ年の6月に開催された「第2回国連軍縮特別総会」に参加するためアメリカを訪れた石田明さんたち代表団が、在米被爆者と会った際、米国被爆者協会の倉本寛司会長から「広島原爆病院で治療を受けるための渡航費援助」などの強い要請を受けたことです。
帰国した石田さんたちは、被爆者団体や労働組合などに協力を呼びかけ、ヒロシマ委員会を発足させたのです。
設立趣意書などは、当時の資料が保存されていませんので、正確なことを知ることはできませんが、主な活動は次のようにものでした。
①年間3-4人を招いて広島で専門医の治療を実施する②在米被爆者の記録映画「SURVIVORS(生き残り)」の普及③広島、長崎両市が製作した原爆映画「ヒロシマ・ナガサキー核戦争のもたらすもの」の英語版寄贈することです。
一番の目的である在米被爆者の渡日治療を実現させるためには一人約50万がかかるため、年間300-400万の募金を目標に活動が始ったことを記事は紹介しています。こう紹介したあとに新聞記事は、次のように記述しています。「すでに県労婦人部が8月からカンパ活動を進めている。」
カンパ活動を先進的に担った県労婦人部の当時の部長が片山春子さんだったのです。当時片山さんが、県労婦人部以外のいろいろな人にカンパを呼びかけていたことを思い出します。
翌年1983年5月13日の中国新聞記事は、それまでに100万円のカンパが集まったので、とりあえず在米被爆者2人の里帰り治療に充て、7月末頃に受け入れることになったことを報じています。
今日の報告は、ここまでです。その後のヒロシマ委員会の活動状況については、明日紹介します。
いのちとうとし
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