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2023年9月

2023年9月30日 (土)

2023年9月のブルーベリー農園その4

9月23日が彼岸のお中日。東広島市豊栄町のブルーベリー農園で作業して安芸区の自宅に夕方帰るときに日が暮れるのがすっかり早くなった。この時期になると、若いころ秋の中国山地の登山でみるみる日が暮れるのを実感し、晩秋の臥竜山の麓のとある場所で一面ススキの原の広がった景色が思い出される季節になった。草刈り、木の伐採、剪定などの地味な作業がこれから来年の初夏まで続く。ブルーベリー畑にはこれまで油粕を施肥してきたが3年前から施肥をやめた。無肥料でもブルーベリーの実の出来具合、木の成長に大きな変化はなかった、昨年に続き緑肥用の種をまく栽培を続けていくことにしている。

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9月24日(日)

3段あるブルーベリー畑の一番上のブルーベリー畑の草刈りの後、緑肥の種をまくので草を熊手で株の周りに集めてやる。

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今年の緑肥は5種類。カラシナ、レンゲ、クローバー(赤、クリムソンクローバー2種類)、ヘアリーベッチにした。

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3段あるブルーベリー畑の法面の下の空間にはカラシナを混ぜてまき、ブルーベリーの木と木の間にはカラシナを除く4種類を混ぜてまいた。午後来客もあったがどうにかばらまけた。本当は土を少し掘ってまき、土を薄くかぶせた方がいいのだが週末農業ではそれがかなわない。昨年もこの方法で、そこそこ芽が出たのでそれを期待している。

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安芸の郷が運営しているcafeさくらが、実が取れるまでブルーベリージュースを提供したいとの要望でブルーベリーを摘みって数キロ納品した。写真の品名は晩生の「パウダーブルー」で、毎年最終ランナーとして、しわしわになるまで実をつけるという品種。

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9月28日(木)は福富町の道の駅「湖畔の里福富」でブルーベリーの苗木やジャムを販売しているので、商品の補充、ブルーベリーの苗木は秋なので全部入れ替えに行った。その後豊栄町のブルーベリー農園を巡回。秋の野の花がいろいろ咲いていた。

①休耕田に咲くイヌタデ

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農園の近くの花畑から

②ヒガンバナとコスモスとヒャクニチソウ

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③シュウメイギク

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農園の道路向こうの休耕田

④ススキとセイタカアワダチソウ。どちらももうすぐ満開に。

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⑤里山の里道。栗の実がところどころに落ちている。

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⑥ブルーベリーにとまるアカトンボ

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ブルーベリー畑を高台にある畑から眺めるとブルーベリーの葉の先端部分にかすかな紅葉が見られる。日中の暑さは続いていてもブルーベリーの紅葉と落葉につづく冬支度は静かに進んでいるようだ。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年9月29日 (金)

「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」を知っていますか?―その3

ヒロシマ委員会に寄せられた募金は、約600万円集まりました。市民以外からの募金も多く集まりました。

「広島県医師会在米原爆被爆者健診事業30周年記念誌」には、次のような事例が紹介されています。

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「原爆病院入院中の被爆者久保ツチヨさんから300万円、毎日出版文学賞、大宅壮一賞を受賞した袖井林二郎さんは、「私たちは敵だったのか」の印税70万、ノンフィクション作家の上坂冬子さんは、1冊1,100円のサイン入り自著「奄美の原爆乙女」を300冊寄贈しています。上坂さんが支援するきっかけとなったのは、1987年の夏取材のため米国西海岸の在米被爆者を訪ね、後障害の治療が困難な現実を目の当たりにしたこと」だったようです。

多くの人々の感銘を与え、支援の広がりとなったことがわかります。

ヒロシマ委員会の「里帰りの治療」運動は、県医師会に引き継がれ、一応の終止符を打ちますが、集まった600万円の基金のうち、約半分の300万円が渡航費に充てられました。残った約300万円がどのように使われたのかを紹介し、「『在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会』を知っていますか?」を終わりたいと思います。

1988年4月15日付中国新聞にはこう書かれています。「ヒロシマ委員会は、近く在米被爆者の生活実態調査に乗り出す。25日に広島入りする米国原爆被爆者協会倉本寛司会長と調査方法などを打ち合わせる。(中略)調査のための通信費などは当面約100万円を用意し、被爆者協会に寄託する。」さらに「調査は倉本会長が米国に帰って、被爆者協会名で実施する。同協会がつかんでいる対象者700人余にアンケート方式で回答してもらいまとめる。」

ここでは、100万円という数字が出ているだけですが、残余の約300万円は、米国原爆被爆者協会に実態調査のための費用や在米被爆者の老後の不安を援助するための「ヒロシマ基金」として寄託されたようです。

倉本寛司さんは自著「在米五十年 私とアメリカの被爆者」(1999年刊)の中で、「又、在外被爆者支援連帯ヒロシマ委員会を設立した石田明先生は里帰り治療招待を実現していただきました。そしてその里帰り資金に三百万円を寄付して頂いた久保田さんに感謝します。後にこの資金を元にして『ヒロシマ基金』を設立、困窮している被爆者の救済を実施しています。」と記述されています。ここには、実態調査のことは書かれていませんが、4月15日の中国新聞記事と連動する内容だということがわかります。同書に付けられた年表には、「1988年8月 『在外被爆者支援連帯ヒロシマ委員会』からの寄付を元にして被爆者協会から独立した『ヒロシマ基金』設立。」と記されています。

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ここまで調べて思い出すのが、今年8月17日に訪れた広島県医師会館の「在ブラジル原爆被爆者協会資料特別展」に展示されていた「在米被爆者調査書」です。この調査書本体の表紙には、「1989年8月」と書かれていますが、「解説文」では、「北米での被爆者調査は、本資料の表記によれば、1988年7月に、当時の北米の被爆者団体・米国被爆者協会(会長 倉本寛司)によって実施された。その表書きには『1000人の被爆者がこの広いアメリカにばらばらに住んでいますので、互いの連絡・通信・交友は大変です。』と書かれている」と紹介しています。

広島県医師会を訪れたときには、まったく気づいていなかったのですが、この「在米被爆者調査」こそ、ヒロシマ委員会から贈られた「ヒロシマ基金」が、活用されたことは間違いありません。

そしてこの在米被爆者調査が、在ブラジル被爆者調査に活かされたことを思うと、在外被爆者支援連帯ヒロシマ委員会が果たした役割をもう一度検証し直すことが必要に思われます。

いのちとうとし

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2023年9月28日 (木)

「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」を知っていますか?―その2

ヒロシマ委員会の当初の計画よりも縮小しましたが、その第1陣としてアメリカ・シアトル在住の在米被爆者の美容師山田勝江さん(当時62歳:以下に記載する年齢はいずれも当時の年齢)が、8月3日に「再び故郷の地が踏めた」と32年ぶりに広島入り。山田さんは、広島市原爆対策部を訪れ被爆者健康手帳を取得。6日には、平和祈念式典に出席し、8日に広大病院に入院しました。爆心地から約3キロの自宅で被爆した山田さんは、昭和26年に渡米後、「体のだるさ、めまい、皮膚の荒れなど」に悩まされ続けたていましたが、約1ヶ月間の治療を受けることになりました。

第2陣は、同じ月の29日に8年ぶりに広島に帰ってきたアメリカ・ワシントン州カークランド在住の会社員中野昭さん(52歳)で、広島到着後すぐに広島市役所を訪れ、被爆者健康手帳の交付を受けます。山田さんは、翌30日に約1ヶ月間の治療を受けるため、山田さんと同じ広大病院に入院しています。

ヒロシマ委員会が実施したこの年の帰国治療事業は2名、翌年は3名と続き、1988年に県医師会に引き継ぐまで継続され、1988年7月17日に帰国の途についたハワイ・ホノルル在住の主婦石元恵美子さん(56歳)を最後に、合計16人の帰国治療が実現しました(中国新聞1988年7月18日付記事)。

しかし、援助や治療対策をさらに強化するのは、募金だけでは困難となり、ヒロシマ委員会石田明会長と県医師会の杉本純雄会長との話し合いによって、1988年2月に県医師会が肩代わりしてこの事業を取り組むことに合意しました。

ここでなぜ県医師会の肩代わりすることになったのかを少し考えてみたいと思います。

県医師会は、放射線影響研究所と伴に、厚生省の事業として1977年から始まった北米在住の「被爆者健康診断事業」に従事し、隔年で医師団を派遣していました。在南米被爆者健康診断事業が始まるのは、1985年からです。

この被爆者健康診断事業は、健診は実施したものの、「治療や診療を受けたい」という希望があっても、米国の医療法上で治療行為を行うことができず、検診を受けた被爆者の中には「広島の専門病院で治療や診察を受けたい」という強い希望がありました。しかし、「被爆者健康診断事業」がスタートした時期の県医師会は、「十分にそれは意識していましたが、財政面などから実行は他者に任せざるを得なかった」のです(広島県医師会「広島県医師会在米原爆被爆者健診事業30周年記念誌」より)。

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倉本寛司著「在米五十年 私とアメリカの被爆者」より

また、帰国治療の対象者の人選は、米国被爆者協会の倉本寛司会長に一任されていましたが、県医師会などのよる在米被爆者健診の結果が強く考慮されたことも新聞記事から読み取ることができます。

こうしたことが、1988年に県医師会が、ヒロシマ委員会の事業を引き継ぐことになった背景にあったのではないかと推察できます。

どうしても記しておきたいことは、広島県、広島市の対応です。1983年に被爆者4団体の代表が石田明会長と伴に県、市に対し「渡航費などの資金援助をして欲しい」と要望したところ、県は「在米被爆者の医療が重要であることは認めるが、県が渡航費を援助することは難しい」、市は「申し出の趣旨は十分わかるが、市は在米被爆者について、健診団派遣事業を充実させたい」と応えていることです。そこには、在外に住む被爆者への思いを全く感ずることができません。当時長崎市は、年に二人ずつ市費で帰国治療を受け入れていましたから、広島県・市の対応の冷たさが際立ちます。

ヒロシマ委員会の資金作りには、県内だけでなく、大きな広がりがありましたが、その紹介とまとめは、明日にします。

いのちとうとし

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2023年9月27日 (水)

「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」を知っていますか?

「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」の名前を聞いて、「あーあのことか」と思い浮かべることのできる人は、何人おられるでしょうか。

広島県原水禁運動の歴史を書いた「原水爆禁止運動50年の歩み」(広島県原水禁2004年発刊)の中にも登場しない組織の名前です。

最近、二つの出来事がきっかけとなって、この組織の活動について調べてみました。

きっかけの一つは、「在ブラジル被爆者」の歴史を研究する高校生平和大使OGの新しい論文が発表されたことです。もう一つは、広島県原水禁運動の代表委員を務めたことのある片山春子さんが今年3月に逝去され、広島市原爆被害者の会から「片山春子さんを偲ぶ」という原稿の依頼を受け、「そういえば、片山さんが県労婦人部の部長だったことカンパ活動を取り組んでいたな」ということを思い出したことです。

手元には資料が何もないところからの出発でしたので、まず頼りにしたのは新聞記事です。

中国新聞の記者にお願いをし、当時の新聞記事を入手することができました。その記事に「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会の事務局は広島平和教育研究所に置いた」とありましたので、広島平和教育研究所に「何か資料は残っていないか」と問い合わせたのですが、「残念ながら資料は保存されていません」とのことでした。結局、中国新聞の記事を頼りに調べていくしかありませんので、中国新聞の記事を元に、「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」の活動をおってみたいと思います。

「在外被爆者支援・連帯ヒロシマ委員会」(以下「ヒロシマ委員会」)は、「原爆に後遺症に苦しむ海外の被爆者(金子注:対象は在米被爆者のみ)を支援し、広島での治療を実現させよう」と1982年12月27日に当時県原爆被爆教職員の会の会長だった石田明さんら7人の呼びかけによって発足しました。

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そのきっかけとなったのは、同じ年の6月に開催された「第2回国連軍縮特別総会」に参加するためアメリカを訪れた石田明さんたち代表団が、在米被爆者と会った際、米国被爆者協会の倉本寛司会長から「広島原爆病院で治療を受けるための渡航費援助」などの強い要請を受けたことです。

帰国した石田さんたちは、被爆者団体や労働組合などに協力を呼びかけ、ヒロシマ委員会を発足させたのです。

設立趣意書などは、当時の資料が保存されていませんので、正確なことを知ることはできませんが、主な活動は次のようにものでした。

①年間3-4人を招いて広島で専門医の治療を実施する②在米被爆者の記録映画「SURVIVORS(生き残り)」の普及③広島、長崎両市が製作した原爆映画「ヒロシマ・ナガサキー核戦争のもたらすもの」の英語版寄贈することです。

一番の目的である在米被爆者の渡日治療を実現させるためには一人約50万がかかるため、年間300-400万の募金を目標に活動が始ったことを記事は紹介しています。こう紹介したあとに新聞記事は、次のように記述しています。「すでに県労婦人部が8月からカンパ活動を進めている。」

カンパ活動を先進的に担った県労婦人部の当時の部長が片山春子さんだったのです。当時片山さんが、県労婦人部以外のいろいろな人にカンパを呼びかけていたことを思い出します。

翌年1983年5月13日の中国新聞記事は、それまでに100万円のカンパが集まったので、とりあえず在米被爆者2人の里帰り治療に充て、7月末頃に受け入れることになったことを報じています。

今日の報告は、ここまでです。その後のヒロシマ委員会の活動状況については、明日紹介します。

いのちとうとし

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2023年9月26日 (火)

森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?―森滝日記より

5月4日のブログ森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?」について、私なりの検証を試みました。その結論として「4月6日には、吉川さんなど4人に加わって県被団協の抗議大会に集まった人たちと一緒に座りこまれた」と記しました。

森滝先生の日記ではどう書かれているのか、ずっと気になっていましたので、先日加納加世子さんの森滝家訪問に同席した機会に、日記を見させていただきました。

昭和32年(1957年)の日記を探しました。

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1957年(昭和32年)4月20日の日記

4月6日の日記には、簡潔に次のように書かれています。

「四月六日() 慰霊碑前で『祈りと抗議の座り込み』及び午後、原爆被害者大会.激励の挨拶。(七時十五分に録音ニュース)

後に「座り込み10年の『前史』と理念」では「この数名の被爆者有志の行動に動かされて広島県被団協は四月六日にこの人たちを囲んで『祈りと抗議の座りこみ』をおこない,その場で被団協の抗議大会を開いた。」と記述された「被団協の抗議大会」については、なぜか日記には全く記されていません。

しかし、日記に「祈りと抗議の座り込み」と、はっきりと記述されていますので、私が得た「座込みを続けていた吉川清、小林薀徹、南小一、河本一郎たち4人と一緒に座り込みをされた」という「一応の結論」が間違いでなかったことを、森滝先生の日記から確認することができました。

5月4日のブログで紹介した「4月20日の原水爆実験抗議広島市民大会」については、日記には、この市民大会のすべての日程、発言者が記述されています。

日記は「四月二十日() 雨さかんに降る」で始まります。気象台の記録「31.1mm」を裏付ける記述で、強い雨が降っていたことが、この1行からも理解できます。

以下「水爆実験阻止広島市民大会を決行。原爆資料館下で。」、その後に「開会 黙祷 大会会長挨拶」と当日のプログラムが記載され、きちんと発言者の名前が書かれています。当日の森滝先生の役割は、次第の6番目の「アピール」です。当日二つのアピールが行われています。最初は、「祈りと路抗議の座り込み団代表」です。吉川清、小林薀徹、南小一、河本一郎の4人の名前が書かれていますので、4人全員のアピールがあったことがわかります。次が、「世界への質問」と題した森滝先生のアピールです。日記の「市民大会の次第」に続いて次のように書かれています。

「世界への質問」(今朝ひらめいたことば)

「今日 私は二十数万の原爆犠牲者の眠るこの慰霊碑の前で、一個の倫理学者として 全世界に向かって 一つの質問を厳粛に提出します。

今日 世界で最も強い國というのは 最も大きな罪悪を犯さなければならない口であろうか。」(原文のママ) 今にも生きる問いかけのような気がします。

そして「雨中乍ら集まったもの約千名。」と記述されて、この日四月二十日()の日記は、終わっています。

森滝先生の日記を見ることで、「森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?」の結論を得ることができました。

いのちとうとし

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2023年9月25日 (月)

福島原発事故汚染水、海洋放出のこと

8月24日、政府と東京電力が強引に初めた福島原発事故汚染水の海洋投棄のこと、汚染水と発言した農水大臣が岸田文雄首相から強く叱られたこと。広島の衆議院選挙の予定候補者が、9月7日に「汚染魚」と発言したことで、予定候補者から外され、所属政党の幹部からも叱責を受けたこと。

まあー8月24日に海洋投棄を開始して2週間で魚が汚染されるのは少し早いにしても、予定候補者から外れることではないだろうと思っています。「魚が汚染されるのは少し早いにしても」と書いたのは、汚染された放射性物質が魚の口に入り汚染魚になるのは、もう少し時間が掛かると思ったからです。

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農水大臣の発言にしても予定候補者の発言に対する対応にしても、戦時中によく言われていたという「非国民」という言葉と同じように思ってしまいました。

広島の被爆者団体の役員の方から電話があり、事務所に差出人の住所も名前も書いていないワープロで作成された手紙が送られてきたというとのことで、その手紙を見させてもらいました。

被爆者団体に送られた手紙には、この被爆者団体が街頭で汚染水海洋放出に反対する署名集めをやっているテレビニュースを観て、「コメントがあまりにひどい」、「知性を欠いた科学的知見を欠いた」という言葉が連なっていました。

以前、私が経験した「日本から出ていけ」とかいう罵倒調の物ではありませんが、こういう議論を提起するのなら、せめて「名前などは明らかにできないので、匿名とします」くらいは書いてほしいものです。

違う被爆者団体の事務所には、広島市の比治山にある放射線影響研究所の幹部が直接やってきて、汚染水は安全だということを熱く語ったそうです。

何よりも情けないのは、マスコミ報道が「処理水」という言葉で固まっていることです。「処理水(汚染水)」とでも言えないのでしょうかね。

9月15日付けの中国新聞の「論考2023」という記事に、『「疑うこと」こそ科学的』というのが掲載されていました。

汚染水の海洋投棄は、事故を起こした福島第一原発の廃炉を進めるための敷地が必要だという理屈です。しかし、廃炉の行程も計画も決まらないままに、汚染水を海に流すという理屈は成り立たないと思うのです。廃炉にむけての「中長期ロードマップ」では、2051年には福島第一原発の廃炉が完了して、汚染水の海洋放出も終了するとしています。

あと28年です。28年で廃炉が終わることはありえません。日本原子力学会・廃炉検討委員会の宮野廣さんも「51年廃炉」はあり得ないと話していました。数百年の幅もあると思います。このまま汚染水放出を続けることは地球に対する大犯罪です。

政府は海洋投棄に対する「風評被害対策」として、1000億円を超えるお金を使うといいます。このお金は私たちの払う税金であり電気料金です。電力会社から「原子力損害賠償・廃炉等支援機構」を通じて東京電力に支払われるものです。当然、電気料金の値上げという事態が想定されます。

私は、廃炉の行程や方法が決まるまでは、福島第一原発構内にタンクを増設するとともに、近くにありこれまた廃炉が決まっている福島第二原発の構内に保管し放射線量の減少を待ち、その間に汚染水の処分方法を考えて良いのではないかと思うのですが。

何がなんでも異論を聴こうとしない態度では、この国の政治への信頼は失われるでしょうね。もっとも困るのは、市民が「怒り」を失うことだと思っています。

木原省治

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2023年9月24日 (日)

府中地区の9月の「19日行動」

「安保法制に反対する府中市民の会」は19日、9月から冬時間となり30分早めて午後3時から上下Aコープ前で9人の参加、午後4時30分から府中天満屋店前で10人が参加し、リレートークとスタンディングをそれぞれ30分間行いました。参加者は今日が8年目ということもあって安保法制の廃止に向けて決意も新たに訴えました。

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リレートークの一部を紹介します。

Aさん 安倍内閣が2017年、臨時国会の開催要求に約3カ月応じなかったのは憲法違反だとして、野党の国会議員が国に損害賠償を求めた裁判で、最高裁は9月12日に原告側の訴えを認めませんでした。憲法53条は衆参いずれかの4分の1以上の議員が要求すれば、内閣は臨時国会を開かねばならないと定めてあります。

判決は「国会の開催を要求がされた場合、内閣が開催を決定をする義務を負う」とした上で「個々の国会議員の権利を保障したものではない」と言っています。

野党議員は2017年6月22日、森友学園や加計学園を巡る疑惑追及のため、臨時国会の開催を要求した訳です。請求議員数は衆参とも必要な人数を超えていました。安倍内閣が国会を開催したのは98日後で、それも臨時国会冒頭で衆院を解散しました。安倍首相は臨時国会で森友学園や加計学園問題を追及されたくなかったからです。あまりにも身勝手な理由で許されるべきものではありません。

「数の支配」が生じやすい国会で、53条は少数派の意見を尊重する重要な規定です。最高裁は「憲法の番人」として、「これは違憲である。」と判決で安倍首相にお灸をすえるべきです。時の権力者に負けて、最高裁が憲法を判断しないのであれば存在価値はありません。今の政治は民主主義を否定して戦争への道を暴走しています。そして裁判所も加担しています。国民みんなで戦争反対の声をあげていきましょう。

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Bさん 劣化ウラン弾の使用は放射能に汚染され放射能まみれのウクライナにすることです。アメリカ軍は自分たちの戦争には使いません。アメリカ軍の兵士が放射能に汚染されるからです。それなのにアメリカは劣化ウラン弾をウクライナに提供しています。私たちがロシアとウクライナの戦争に反対するのは日本が巻き込まれるのではなく加担することになるからです。

Cさん 武器やお金で戦争を止めることはできません。話し合い外交努力です。日本政府はロシアのプーチン大統領に会って話し合いの努力をすべきです。今、日本政府がやっているのは経済封鎖で輸出入ができなくなっています。ロシアにそんな影響はないと思います。それより日本政府はアメリカ政府に気を使い、EUに気を使い軍備増強となっています。また日本の中では軍事産業だけが儲かっているように感じられます。

日本の企業体質もジャニーズ問題が今頃になって取り上げられる。またビッグモーターの不正問題、企業の独裁体制に誰もが意見を出せない。そこで働く人たちは何も言えない。こんな企業がまだまだあるのです。人権教育がいかに遅れているか一人ひとりの意見や問題が相談できる場所が少なくなっていると思います。労働組合にも責任があると思います。一人ひとりの意見は小さくても労働組合で取り組み、要求すれば大きな声になると思います。一人で悩んでいる人に相談できる所を作るよう国や市の行政に要求していきましょう。

最後に司会者が、「天満屋に買い物においでの皆さん、いつも車の中から手を振っていただく皆さん、ありがとうございます。安保法がなくなるまで頑張りますので引き続きのご支援をお願いいたします。今日もありがとうございました。」と呼びかけて9月の「19日行動」を終了しました。

小川敏男

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2023年9月23日 (土)

2023年9月のブルーベリー農園その3

安芸区の自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー農園に週末に車で通い農作業を続けているが、夏のブルーベリーの摘み取りが終わって、援農の人もなく静かな農園が戻ってきた。農作業はいろいろな片づけ、そして草刈りつづく。農園の周囲の田んぼの稲刈りはまだところどころ残っているが大半は刈り終わり稲の株だけがぼこぼこと残っている景色に変わった。それにしても日中の気温が30度以上の日が中旬になってもつづく。続くのは根気だけでいいのだが・・・。

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9月17日(日)

この日から3連休。ブルーベリー畑の電気柵のワイヤーにとまる赤とんぼ。すっかり赤くなった。赤くなるのはオスらしい。

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9月18日(月)

里山のハゼの木の花

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農園の庭のシデコブシの実が赤くなってきた。

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花壇に咲くツルボ。

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夕方帰る頃に出会う隣の農家の親子。近道なので農園の前を通って帰る。

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9月20日(水)

午後から農園で農作業を行う。ヒガンバナが咲きだした。

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夏の間に邪魔になるブルーベリーの枝を切ったので、焼いて片づける。

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太くて長い枝も短く切ったり、枯れた葉が堆積したところは焼かずに集めて一輪車でブルーベリーの株もとにまいたりした。 

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そろそろ緑肥用の種まきをする時期になった。昨年種をまいた緑肥用の大根だが、残り種から芽が出たらしく2株ほど元気な葉が展開している。

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チカラシバの穂が元気そう。

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庭のカクトラノオは長く咲くが、秋になると色が濃くなる。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年9月22日 (金)

三原地区 9月の「19日行動」

9月19日は、8年前に国会において集団的自衛権の行使などを認めた「安全保障関連法(戦争法)」が、多くの反対世論を押し切って強行採決された日です。私たちは、民主主義を否定された9・19を忘れることなく、毎月19日に戦争法廃止と憲法改悪阻止を訴えています。今日の定例「19日行動」は、21人が参加して街頭行動を実施しました。政平智春市議ら6人の弁士は、「市民のみなさん、8年前の9月19日を忘れないようにしましょう。私たちは、毎月駅前に立って戦争法反対、軍備拡大反対を叫び続けています。まだまだ粘り強くこの行動を続けていきます。ご支援をお願いします」と訴えました。

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 街頭行動の冒頭、2015年9月に戦争法の強行採決阻止国会前座り込み行動に参加された「戦争をさせない三原市民行動」共同代表の齋尾和望さんから8年間の私たちのたたかいについてアピールを行いました。また、寺田元子市議は、「9月には歴史的に大きな出来事が起きた月でした。9月1日、関東大震災が起きて100年が経過。大地震・火災で10万人が亡くなる大惨事があった。歴史の中で隠された事実、朝鮮人の人たちが虐殺された。私たちは侵略戦争の歴史、真実を見抜いていくこと、歴史の中から学び取って、二度とその道を繰り返さないということを行動とともに学びながら歩んでいかなければならない」と訴えました。それを受けて司会者(藤本)から、8月に京都宇治市の「ウトロ平和祈念館」、奈良県御所市「水平社博物館」を視察研修した報告を行いました。

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ウトロは日本社会から「置き去りにされた朝鮮人の街」。「2021年8月地区内での放火事件・ヘイトクライム」。「在日朝鮮人の人たちの経てきた過酷な差別の歴史」。そして、部落差別撤廃に立ち上がった原点=人の世に熱あれ、人間に光あれ=「全国水平社創立101年、(広島県水平社創立100年)、部落解放運動の闘いの歴史」。両館とも人権と平和、人間の尊厳を守る砦として次世代に歴史を継承する役割を果たしています。

街頭行動のまとめとして高木武子さんは、「戦争法が成立してから私たちの生活はどう変わったのでしょうか。暮らしやすくなりましたか。子どもはのびのびと教育を受け、人を大事にする。そういう世の中にする教育が行われてきましたか。今年の夏は、テレビでこれだけ戦争の問題、原爆の問題が訴えられた年はなかったように思います。この7年間、自民党の考え方はまさに戦争が普通にできる道を歩んできています。ロシア・ウクライナ戦争、武器を供与するとかなんで戦争を長引かそうとするのか。このままいくと本当にロシアが核を使用するかもわからない。もし核を使うことがあれば広島の問題だけではすまされません。私たちは今日の日を大きな節目にして、また来月からもがんばって行きたいと思います。私たちは戦争をさせない。普通に戦争ができる国づくりを行っている今の政府に対して、NO!を突きつけましょう」と訴えて街頭行動を終了しました。

藤本講治

【編集者】今日、三原地区・府中地区の「19日行動」を一緒に紹介する予定でしたが、編集の都合で、府中地区の行動は、24日に紹介します。

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2023年9月21日 (木)

広島「19日行動」

「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」は、戦争法強行可決から8年となる9月19日午後5時半から1時間、広島市の本通り電停そばで「19日行動」の街頭宣伝を行いました。

ここ数年、憲法の改悪を許さない行動を強めるということで、毎月3日に行動を行ってきましたが、戦争法が強行可決をされた9月は、市民の皆さんにあの日を思い起こして欲しいとの思いで、「19日行動」を実施することにしました。

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この行動には、立憲野党の参加を求め、アピールをお願いし、次の皆さんに参加をしていただきました。

鷹廣 純 (たかひろ じゅん)  立憲民主党広島県連副幹事長 広島県議会議員

大平喜信(おおひら よしのぶ)  日本共産党広島県委員会副委員長 元衆院議員

山内正晃(やまうち まさあき) 社民党広島県連副代表 広島市議会議員

三木郁子(みき いくこ)    新社会党広島県本部委員長

それぞれの立場からの力強いアピールがありました。

総がかり行動実行委員会からは、弁護士で世話人の依田有樹恵さん、世話人の利元克己さん、そして私の3人がアピールを行いました。

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安倍政権による「戦争法」の成立は、その後の日本の安全保障政策を大きく転換させました。そのスタートは、小泉政権による戦闘地域への自衛隊派兵を強行した「イラク特措法」から

だったことを思い起こす必要があると思います。

それからの20年、まさに憲法無視の戦争政策が、どんどんと進んでいます。

同時に進行したのが、国会を軽視して、政府の「閣議決定」のみによって、安全保障政策の変更が強行されていることも、重大な問題です。昨年末の岸田首相による「安保関連3文書の改悪」もその流れの中で進んだといわざるをえません。まさに議会制民主主義そのものが危機を迎えているとも言えます。

軍備の増強だけが声高に叫ばれ、最も大切な外交による話し合いの姿勢が全く後退している今の政治を問題にしなければ、さらに戦争政策が強行されることは間違いありません。軍備の取り分け敵基地攻撃能力の強化のみなら、なし崩し的な武器輸出の緩和などを許すことになります。

今「中国敵視、北朝鮮脅威」論の前に、異論がどんどん抑え込まれていく風潮が広がっていることを危惧します。「汚染水海洋放出問題」で、「汚染水」という言葉を使えばバッシングを受ける風潮にもよく現れています。

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国民の多くが無批判になり、むしろ積極的に戦争に協力していった戦前のような風潮が広がっているように思うのは私だけでしょうか。

「おかしいことはおかしい」と声を上げ続けることで、その声に応えてくれる市民を一人でも多く作っていることが私たちの役割だと思っています。

そんなことを思いながら、最後の弁士として私もマイクを握りました。

今月の参加者は、50名でした。

いのちとうとし

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2023年9月20日 (水)

ベトナムの歴史(その28)

ベトナム戦争はいつ始まった

よく、「ベトナム戦争はいつ始まったのですか」という質問を受けます。

1964年8月の「トンキン湾事件(注1)」に端を発したアメリカ軍の北爆(注2)か、その北爆が恒常化した65年2月、もしくは20万人のアメリカ地上軍がダナンに上陸した3月など諸説ありますが、一般的には北爆の本格化と地上軍が投入された1965年を「ベトナム戦争が始まった年」とされることが多いようです。

しかし、私は常々〔もっと早くに始まっていた〕と思っていました。

前号までにアメリカはベトナムの人々が抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)を戦っていた1950年から軍事顧問団と大量の軍事物資を送りフランス軍を支援していたこと、1954年5月のディエンビエンフーの戦いでフランス軍が敗退したこと、翌55年7月に「南北統一の国民投票を実施」などが盛り込まれた「ジュネーブ協定」が結ばれたこと、同じ55年10月にアメリカの後ろ盾でベトナム共和国(南ベトナム、ゴ・ジン・ジェム政権)が作られたこと、ジュネーブ協定を無視したアメリカとベトナム共和国(南ベトナム)とベトナム民主共和国(北ベトナム)との間で南北統一めぐる争が始まったことなどについて触れました。

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1973年にピュリツア賞を受賞した「戦争の恐怖」。1972年にベトナム人写真家ニック・ウト(本名フィン・コン・ウト)撮影

前にも書きました(ベトナムの歴史(その23)抗仏闘争-3の7)が、第二次世界大戦後に戦われた第一次インドシナ戦争は、再びインドシナでの植民地支配を狙ったフランスと、それに抗し民族独立を目指すベトナム人民との戦いでした。同時に戦後、東ヨーロッパやアフリカ、アジアで勃興する民族独立の気運と社会主義化が進む中で、その伸長を抑え込もうとする西側陣営による防共戦争という性格を持っていました。

いわゆる、戦後冷戦構造のもとで戦われた象徴的な戦争が第一次インドシナ戦争だったのです。だから、アメリカはフランスに13億㌦という莫大な軍事援助をしたのです。にもかかわらずフランスは敗退してしまった。慌てたアメリカはフランスがディエンビエンフーの戦いで敗れた直後の1954年9月、自らが主導しイギリス、フランス、オーストラリア、ニュージーランド、タイ、フィリピン、パキスタンの8カ国と対共産圏包囲網の一環として東南アジア条約機構(SEATO)を結成します。「宣戦布告なき戦争」と言われているベトナム戦争は、この時点に始まったとの説もあります。

しかし、私はアメリカのベトナム人民に対する戦争行為が始まったのは、それ以前、大量の軍事物資とともに軍事顧問団を送った1950年5月だと思っています。

「宣戦布告なき戦争」

下の表をご覧ください。これは私が会長を務める一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会:HVPFが、毎年「エージェントオレンジDay(810日の枯葉剤被害者の日)に取り組んでいる、今なお続く深刻な枯葉剤被害「パネル展」で掲示した年表の一部です。

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表中の横線3本は、下から一般的に言われている「ベトナム戦争が始まった年」(1965年)、真ん中が敗退したフランス軍に替わって米軍が直接ベトナムに干渉し始めた年」(1955年)、そして一番上は私が「ベトナム戦争が始まった年」と考えている1950年です。

 1950年とする理由はアメリカが明確な意思と意図をもってベトナムへの干渉を宣言したのがこの年だからです。トルーマン大統領が承認した「インドシナに関する米国のポジション(The Position of the U.S. with Respect to Indochina)」と題した国家安全保障会議の文書(NSC64)には、次の様に書かれています。「仏領インドシナ(ベトナム、カンボジア、ラオス)は、共産主義者の手に落ちるのを座視してはならない重要な地域であり、米国はこの地域への共産主義の攻勢を阻止するための支援策を提供する」と。

この文章に基づく支援先はフランスなのか、フランスがホー・チ・ミンの指導するベトナム民主共和国(北ベトナム)に対抗するために、ベトナム最後の皇帝バオ・ダイを担ぎ出し建てたベトナム国なのかは明らかにしていません。

「宣戦布告なき戦争」と呼ばれている所以は、戦線布告という明確な区切りがなく、アジアの小国に連続して襲いかかった帝国主義国とその同盟者による侵略戦争であり、ベトナムの人々にとってはフランスに続くアメリカとの連続した抗仏戦争・抗米救国戦争だったことにあります。

その意味で私はベトナム戦争を捉え・語るとき、広くはフランスの植民地支配が始まった1858年からサイゴンが解放された1975年までを俯瞰することが大切だと思っています。狭く捉えても、戦後のフランス再支配のための第一次インドシナ戦争から連続して捉えることが不可欠だと思っています。

もちろん、歴史学者でも軍事専門家でもない私の勝手な思い込みです。

読者の皆さんはいかがでしょうか。

次号では1961810日から19711031日まで10年間続いた米軍による枯葉剤(エージェントオレンジ)散布について触れたいと思います。

(2023年9月20日、あかたつ)

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2023年9月19日 (火)

「ワタシのミライ」スタンディングアクション@広島

ニューヨークの国連本部で、9月24日に開催される国連の「気候サミット」を成功させようと、全国各地で、呼応する行動が展開されています。

広島でも、昨日午後2時から1時間、紙屋町電停前で、気候変動の取り組む市民と連帯し県原水禁や平和フォーラムも参加し、「『ワタシのミライ』スタンディングアクション@広島」のアクションが実施されました。

これは、東京で同じ日に代々木公園で、再エネ100%と公正な社会をめざすプロジェクト「ワタシのミライ」と気候危機の解決を求める若者の団体「Fridays For Future Tokyo(FFF Tokyo)、原水禁や平和フォーラムが中心になった活動する「さよなら原発1000万人アクション(さようなら原発)」が、初めて共同して実施した大規模なアクション行動に連帯して取り組まれた行動です。

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「再エネ100%と公正な社会を目指して」のスローガンを掲げて今回の行動への呼びかけのチラシには「世界でたくさんの人々が、気候危機に対して声をあげています。あなたもムーブメントに参加しませんか」と書かれ、「ワタシのミライ」について、こう書かれています。

「夏休みに子どもたちが外で遊べている/みどりが身近で、美しい四季を楽しめる/地球のめぐみを分け合い、循環させている/子どもを持つという選択を安心してできる/みんなの意見が反映されて、誰もが安心して暮らせる/1日の終わりに、明日を楽しみにできる/それがワタシの望むミライ/

それなのに今、/熱波、干ばつ、洪水、海面上昇、/生物多様性の危機、放射能汚染や大気汚染/弱者へのしわ寄せ・・・/

気候危機はもう現実なのに、/すでに多くのいのちが奪われ、/この先もっと苦しむ人が増えるのに、/なぜ化石燃料の延命、不確実な新技術?/

原発事故はまだ終わっていないのに、/コストも高く、この先数万年も負の遺産を残し続けるのに、/なぜ再稼働、運転延長、新増設、汚染水放出?/

このままではワタシのミライはありません。/でも、今なら間に合います。/化石燃料にも原発にも依存せず、/再エネ100%で安心して暮らせるミライへ、/世界の仲間と一緒に、一歩踏み出しませんか。/」

今年の夏の異常な暑さ、数年に一度の、観測史上初めての降水量、それに伴う全国各地での水害。この異常気象は、日本だけでなく世界の各地で起こっています。

「このままで地球はどうなるのだろう?」と考えている人は、多くいますが、さてどうするのか?何とかしたい、私は何をすればよいの?と思っている人たちに呼びかけたのが、今回の「『ワタシのミライ』スタンディングアクション@広島」でした。

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2018年、スウェーデンの15歳の少女グレタ・トゥーンベリさんが、1人で気候変動に対するストライキを始め、徐々に賛同者が増えていきました。私たちも、このアピールを通じて一人でも多くの人が気候危機に関心を持ち、何らかの行動してくれればと思いながら私もマイクを握りました。

アクション行動には、手作りのプラカードを持参するなど30名の参加があり、6名がマイクを握りスピーチを行いました。

いのちとうとし

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2023年9月18日 (月)

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」―その3

あと二つのコーナーが残っています。

「戦後資料」で、最初に目を引いたのは「被爆死した油谷重工業株式会社関係者に関する各種資料」です。

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左隅には、「過去帳」と書かれた大きな木箱書があります。油谷重工業株式会社は、現在はコベルコ建機株式会社と社名が変わり、安佐南区沼田町大字伴に移転していますが、被爆時は安佐郡祇園町にありました。私が選挙に立候補していたときには、組合に応援をしていただいていましたので、何度も訪れていましたが、油谷重工は、爆心地から5キロ以上も離れていましたので、当時は原爆被害のことなど全く頭に浮かびませんでした。

「その油谷重工がなぜ?」という思いで展示ケースを見たのですが、キャプションを読んで納得です。「職域義勇隊として広島市内天神町の建物疎開作業のため人員を送っていました。同隊には20戸の建物の取り壊しが割り当てられており、1945年(昭和20年)8月5日までに19戸の作業が完了し、8月6日は最後の1戸の解体のため161人が出動していましたが、被爆により全員が亡くなりました。これらは、亡くなった職員と動員された生徒たちの過去帳や履歴書、名簿などです。」

広島市原爆戦災史によれば、油谷重工は、軍需品を生産していたようですが、そんな会社にも職域動員があったことに驚かされます。天神町は、現在の平和公園付近ですので、同戦災史には、出動者161人中、即死は128人、行方不明33人と記録されています。もし8月5日までに、全戸20戸の解体が終わっておればと思わずにはいられません。

企画展の展示品に戻ります。このコーナー「戦後資料」の展示の多くは被爆後に撮られた写真です。気になった写真が2枚あります。

1枚は「大手町国民学校の焼け跡から北北西を見る」とタイトルが付いています。

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大手町国民学校の焼け跡には、現在はドコモのビルが建っています。そこから北北西を見て最も近い位置が、わが家が住みマンションということになります。

大手町国民学校のこともこのブログに書いたことがありますが、その時には、写真を探すのに苦労をしました。この写真から学校の面影を見つけることは難しいのですが、気になる一枚です。撮影時期は、1946年頃となっています。

2枚目は、前にも同じような写真を見たことがある「国泰寺の大クスノキ」の写真です。

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この写真も1946年頃の撮られたものですが、右奥に現存する被爆建物日銀広島支店がはっきりと写っています。

最後が「原爆の絵」のコーナーです。沢山の興味深い絵が展示されていましたが、その最後で意外な絵を見ることになりました。

原水禁がいつもお世話になっている切明千枝子さんが、91歳の時に描かれた絵で、「8月6日の夜空。空が二つに分かれていた。」のタイトルが付けられています。

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「広島市立長束中学校校長角雄二寄贈」となっていますので、切明さんが、近所の長束中学校で被爆証言をされたときに学校に寄贈されたものと思われます。

「作者の言葉から」として次の文章が書かれています。

「被爆して家が崩れてしまい、外で寝た時の空の思い出です。広島の空が、くっきりと二つに分かれていて、北西の方は血の色のように真っ赤に、空が焼けていました。

南東の方は、一面の星空で、数限りない流れ星が流れていました。

流れ星は、死んでいった人たちの魂がもしかしたら天に昇っているのではないかと思い、涙を流しながら眺めた記憶があります。」

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」の私の紹介は終わりですが、この企画展は、来年の2月27日まで開催されます。

それぞれにまた新しい発見があるかも知れません。一度足を運んでみてはどうでしょうか。

いのちとうとし

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2023年9月17日 (日)

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」―その2

「戦前の広島」の次は、「戦時生活から原爆投下へ」のコーナーです。

当然のことかも知れませんが、このコーナーに最も多くの資料が展示されています。

「戦闘機献納のための募金活動で集まった資金と広島実践高等女学校の生徒たち」や「広島招魂社前で撮影された陸軍部隊の集合写真」などの写真は、戦時体制に懸命に協力する国民の姿を見ることができます。

会場入り口の大きな看板(昨日の1枚目の写真)の裏側に、広島市立中学校2年生の檜垣浩さん(当時15歳)が、爆心地から900メートルの小網町の建物疎開作業現場で被爆したときに身につけていたズボン(左側ケース)と父の職場まで歩いてたどり着いたとき父親の兵市さんが着せたワイシャツ(右側ケース)が、展示されています。

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こんなにズタズタに損傷したズボンが、78年間も大切に保管されていたことに、家族の強い思いを感じます。

右側ケースには、檜垣浩さんの写真が付けられています。

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何歳の時撮った写真かは書かれていませんが、この写真があることでどういう子どもが着ていたのかがわかりますので、より実感を持ってみることができます。この写真はもう少し大きめでもよいような気がします。

他にもランドセルやガラス破片が残る桐タンス、焼けたくぎ、変形したガラス瓶など遺品や被爆物が多く展示されています。その中の一つに「竹製の物差し」があります。

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寄贈者の名前が「森川高明」と書かれていますので、びっくりしました。物差しは、母親のアキコさんが持っていたもののようですが、寄贈者の森川高明さんは、平和公園の遺構保存を一緒に取り組んだ被爆者だからです。現在は体調が思わしくなく、なかなかお会いすることができないのですが、意外な出会いとなりました。

「戦時生活から原爆投下へ」コーナーで特に印象的だったのは、手紙類の多さです。その中でも、目を引きつけられたのは福間喬介さんが寄贈された「疎開先から届いて父母からの手紙」とタイトルの付いた手紙類です。

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少し黄色がかっている手紙はお母さんから、お父さんからの手紙は毛筆で書かれています。キャプションには「光道学校5年生だった福間喬介(当時10歳)は、1945年(昭和20年)4月12日から9月12日まで、山県郡都谷村の仙徳寺に学童疎開していました。疎開期間中、父の一郎さんと母の久子さんは喬介さんに宛て手紙や小包を送りました。父母や兄弟は全員無事で、喬介さんは9月に家族と再会しました。」

展示された多くの手紙類の中で、特に目を引きつけられたというか気になったのは、「光道学校」の文字です。ずいぶん前にこのブログで、「光道学校」のことを取上げたのですが、こんな形で学校名を見たのは初めてだったからです。疎開先の「山県郡都谷村」は、現在の山県郡北広島町豊平と思われます。

もう一つは、この手紙類は、すべて学童疎開先に送られたものだということです。当時子どもたちからの返信はできなかったのでしょうか。それはよくわからないのですが、もし返信できたとしても、届けられた先は、市内だったはず(「父母や兄弟は全員無事」という表現から想像すると)ですから、当然焼失してしまったと想像できます。こんなことを思いながら、二つの展示ケースを見ていました。

これらの品々が、ほんとうに大切に保存されていたのだなとの思いながら歩を進めました。

後は、「戦後資料」と「原爆の絵」のコーナーですが、明日紹介することにします。

いのちとうとし

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2023年9月16日 (土)

広島平和記念資料館令和5年度第1回企画展「新着資料展」

広島平和記念資料館の今年度第1回の企画展となる「新着資料展」が、9月14日から東館1階企画展示室で始まりましたので、昨日行ってきました。

これまでは、新着資料の展示は、地下1階の特別展示室で行われていましたが、現在この部屋は、被爆体験伝承講話が行われるようになったため、今年から1階企画展示室で行われるようになったようです。会場が、資料館を見終わった出口の場所だからだと思いますが、以前の地下1階での「新着資料展」よりも、ずいぶん沢山の入場者があるように感じました。もちろん、資料館を訪れる人が総体として増えているということが主要な要因だと思いますが。

また、広島平和記念資料館の企画展となったことで、以前にはなかった充実した内容のパンフレットが作成され、自由に入手できるようになっています。貴重な資料であると同時に、見る者にとっても、より充実した「新着資料展」になったと言えます。

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会場入り口の「はじめに」(パンフレットにも同文を掲載)にはこう書かれています。

「広島平和記念資料館には、現在でも被爆者やその遺族の方々などから、大切にしてきた遺品をはじめとする被爆資料、自らの体験を描いた絵、当時の状況を撮影した写真等の資料が寄せられつづけています。

この展示会では、令和3年度(2021年度)に寄贈された744点の資料から、150点を紹介します。」

この企画展を見る前、「被爆から75年以上経っているが、一年間にどれぐらいの遺品や資料などが寄贈されるのか」が気になっていましたが、この文書によって、その疑問は解明しました。

いまだに744点もの資料が寄贈されているということです。これが多いのか少ないのか、それ以前の寄贈数の資料がありませんので、比較することはできないのですが、私の感想は「今もそんなに寄せられているのか」という思いです。

展示品は、「戦前の広島」、「戦時生活から原爆投下へ」、「戦後資料」、「原爆の絵」の4つに分類され展示されています。

「戦前の広島」のコーナーは、当然とことですが、写真や絵はがきですが、中でも目を引かれたのは、河原町に住んでいた三田嘉一さんが1940年(昭和15年)頃に、自宅周辺で撮影された5枚の写真です。

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当時の市民の生活の様子が映っています。こうした日常生活を営んでいる市民の頭上に原爆が投下されたのだということを想起できる写真だと思いました。

爆心地となった島病院の被爆前の写真も何枚かありました。「島病院の中庭にあった猿小屋の前で」という写真は、以前にも見た記憶があるのですが、玄関前から撮った写真を見たの初めてです。

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この写真のキャプションには、次のように書かれています。

「原子爆弾は、広島市の中心部にあった細工町の島病院上空600メートルで炸裂しました。島病院は、1933年(昭和8年)8月31日に広島郵便局電話課の建物を改築して開院しました。レンガ造り2階建て、正面玄関両側の円い柱と円形の窓が特徴的な建物で診察室や手術室、病室などの部屋がある大規模な病院でした。」

このキャプションに注目したのは「広島郵便局電話課」という言葉です。すぐ向かい側に広島郵便局がありましたので、電話課だけが別棟で、しかも堅牢な建物だったことがわかります。この時期に、電話課は、広島市下中町(現在の広島市中区袋町)に3階建ての広島中央電話局として移転し、ここで被爆することになります。この広島中央電話局の建物も非常に堅固に作られた建物だということを、私が労働運動を始めた頃(1970年代)の全電通広島支部が、この被爆した広島中央電話局の建物の中にありましたので、何度も聞いた記憶があります。

この写真を見ながら、そんなことを思い出しました。

まだまだ、企画展の最初部分を見ただけですが、長くなりました。明日につづけたいと思います。

いのちとうとし

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2023年9月15日 (金)

2023.9月のブルーベリー農園その2

9月上旬の土日は2日、3日、9日、10日。ブルーベリーの援農に来ていただくグループの皆さんの来園はブルーベリーの摘み取りシーズン中も土日が中心になる。農園では最後のブルーベリーの摘み取りを9910日に決めて各グループにご案内した。実った実をできるだけたくさん摘み取ることで木の負担を少なくさせて、晩秋の落葉まで栄養をしっかり蓄積してもらうためでもある。そして、援農の各グループにしっかり実を持ち帰って頂くことができた。わらしべ長者みたいにブルーベリーがぐるぐる回るお役に立てれば何よりだ。まだ日中は暑い日が続くが農園の周囲の植物、作物は秋が来ている。13日にブルーベリー畑で見かけたキジも家族ができて幸せそうだった。

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9月9日(土)

ブルーベリー農園での援農による摘み取りも9日と10日で終了することにした。9日もたくさんのグループが摘み取りにお見えになり好天と秋めいた気温で作業は気持ちよく進めることができ、午前中1回、午後1回の摘み取りで終了。来年もまたよろしくと言葉を交わしてお別れした。

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ブルーベリー畑のあちこちでクモが巣を作っている。大小3匹がひしめいている巣もある。

 

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摘み取りと並行して防草シートの撤去をする前にシート上に生えている雑草をシートごとめくって除草する。はがれないときはのこぎり鎌で根を切ったりする。この雑草の名はメヒシバ(雌日芝)。一株で円形状に広がる。

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ブルーベリー畑は田んぼからの転作で、土は水を含む柔らかくなるが、乾燥した田土は粒状でかちんかちん。この土が無潅水栽培を支えてくれている。

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9月10日(日)

ブルーベリーの摘み取り援農のラストデーも無事終了。ブルーベリーの木のためにも実はできるだけなくしたいので、ほとんど摘み取りでなくなり木のためにもなって大いに感謝。

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農園周辺の稲田の刈り取り、のり面の草刈りも進んでいる。夕方帰り路で、刈った草の野焼きをする農家の人を見かける。

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9月13日(水)

ブルーベリーの援農のグループの皆さんの摘み取りが終わったのでテント、作業台、ブルーベリーを入れるコンテナ、縁側の急ごしらえの板のベンチなどを片づける。ブルーベリー畑を眺めるとキジの夫婦、親子がゆっくり散歩してるのが見えた。

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片づけが終わって、農園の周囲を見て回る。

①クズの花

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②ススキの穂

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③イワシャジン

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④ヤブラン(この時期になるとたくさんの花穂がでている)

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

 

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2023年9月14日 (木)

森滝市郎先生と加納莞蕾―番外編その3

チラシには、講演会の講師の森滝先生の紹介があります。

「先生は、広島こどもを守る会会長、こどもを守る会中国協議会長、原水爆禁止世界大会広島事務局長、原水爆禁止全国協議会事務局長、世界連邦アジア会議広島大会事務局長等の要職についておられ、平和運動には懸命の努力をつづけていられる方です。

森滝先生は、自身原爆の被害をうけられており、その体験をもととして救済事業に力をつくし、現在数十人の原爆孤児の世話をしていられます。」

経歴の最初に「広島こどもを守る会会長」が書かれ、後段でも「原爆孤児の世話」が記載されていますので、このことが「世界児童憲章」の策定を求める加納莞蕾さんと森滝先生を結びつける大きな力となっていることがわかります。

さらに「一昨年には、松江市で開かれた山陰平和大会にまた安来市で開かれた世界連邦の講演に来られ、この地方とも縁故のある方であります。この先生からお話を聞き、また先生を中心にディスカッションを行ったり今後の歩み方を協議したいと思います。」と書かれています。

これを読むと、森滝先生が、「原水爆禁止」の署名活動が行われた1954年からさまざまな場所に足を運ばれていたこともわかります。

さらにチラシに書かれた日程を見ると非常に中身の濃い布部村行きだったことがわかります。

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11月3日 講演会・座談会 講演と討議(べんとう持参のこと)

      午前10:00より午後4:00 布部中学校

      講師 森滝教授

      午後7:00より午後10:00 役場二階

      宗教と文化・教育についての座談会

11月4日 研究会 布部中学校

      午前10:00より午後2:00

      村をたてるにはどうすればよいか総合研究

森滝先生は、日記を読む限りでは、4日の「村づくり懇談会」への参加は午前中で終え、昼食を加納町長足立議長とともにした後、布部を出発された(そうしないと富田城趾の山や清水寺を訪ねて夕方に鳥取県の大山寺に着くことはむずかしい)と思われますが、それにしてもすごいスケジュールです。

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中央が森滝先生、その右が加納莞蕾さん、左が足立議長

チラシにはこうも書かれています。「このたび、この宣言を記念し、また、さあこれから手をとりあって村づくりにたちあがるのだというスタートとするために文化の日を以て『講演会と討論研究の会』と『映画の夕』を催します。」

この大切な行事に森滝先生をメインで招待した加納莞蕾さん、これほど厳しい日程であるにもかかわらず布部村を訪れられた森滝先生。お二人の間に強い信頼関係が築かれていたことを、このチラシから知ることができます。

チラシの「『映画の夕』この映画会は有料ですが、収益金のうちで必要経費を差し引き、純益金は原・水爆被害者救済義金、社会福祉のための基金にあて、気の毒な人たちにわづかながらもつくしたいと考えております。この収支報告は必ず行います。」という文章からも伺うことができます。

純益金がいくらあったのかは知ることができませんが、料金は『大人40円児童10円』となっています。

このチラシは、「平和をどうして作るのか」が、多くの字数を使って書かれていますので、全文を知らせたいとの思いが出てきますが、あまりにも長文ですので、残念ながら全文を紹介することができませんが、自らが鉄筆をもって書かれたと思われる加納莞蕾の強い思いが、伝わってくる文章です。

当時の布部村は、3,250人の住民が住む村だったようですが、加納莞蕾さんの熱い思いと理想が村民にどのように理解されたのか、興味が膨らみます。

加納加世子さんが持参された資料の中には「布部村平和五宣言」ごとに「なぜこの宣言をするのか」が詳細に書かれたものもあります。「原・水爆禁止宣言」の解説は、特に全文を紹介したい内容ですが、「森滝市郎先生と加納莞蕾」のシリーズもずいぶん長くなってしまいましたので、また別の機会に譲ることとし、今回はこれで終わりとします。

いのちとうとし

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2023年9月13日 (水)

森滝市郎先生と加納莞蕾―番外編その2

ガリ版印刷の内容豊富なチラシですが、日記に記載されていた「夜『生きていてよかった』『中国の曲芸』」が映画の題名だということがわかります。

チラシによれば、11月2日の夜は、午後8時から『映画の夕』が開催され、そこで4本の映画が上映されています。「生きていてよかった」と「中国の曲芸」は、そのうちの2本です。

チラシに書かれた映画紹介は、大変興味深いものですので、原文のまま掲載します。

中国のサーカス 初めて公開された中国映画!健康で明るい中国のサーカス!大人も子供も面白く見られる映画。北京映画製作所作品」

生きていてよかった 公開以来全国民の感動をまき起こした。原爆被害者の実相を描く長編記録映画。原爆娘の悲痛な叫び。第一部 死ぬことは苦しい 第二部 生きることも苦しい 第三部 でも生きていてよかった 製作・原水爆禁止日本協議会 作品・日本ドキュメント・フィルム社 徳川夢声氏評―心の底から感動した。私にできることならこの映画を持って説明役をつとめながら世界中の人達にこの悲劇を訴えて歩きたい。」

黄金のりんご チェコスロバキア国立映画製作所作品 楽しい××マンガ映画!一つのりんごをめぐってかもしだす可愛い動物たちの物語」

月の輪古墳 古墳の発掘・それは失われた私たちの歴史の発掘であり、光と希望の発掘であった。村中の人たちが、一つにかたまって協力する素晴らしい記録映画」

4本のこの映画には、主催者の強い思いがこもっているように感じます。

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「生きていてよかった」は、1956年7月6日に公開されたばかりの映画です。小さな文字で読めないと思いますが、チラシの本文で次のように紹介されています。

「原爆被害の記録を綴ったもので、ー死ぬことは苦しいー生きることも苦しいーでも生きていてよかった.と、被害の傷手を受けながらも雄々しくも強く生き世界の人々にうったえるほんとうに清らかに強い人間性のすがたをあらわしたものです。この映画から正しい認識と人間性を読み取っていただきたく、みなさんの知性にうったえたいと思います。」

この映画の紹介に「徳川夢声氏評」が記載されていますが、評の内容はもちろん素晴らしいものですが、あえて徳川夢声氏評が使用されたのは、徳川夢声さんが島根県の益田市生まれだからではないかと勝手に想像しています。

「中国のサーカス」と「黄金のりんご」は、外国映画です。この時期、村の映画祭で外国映画が上映されることは珍しいことではないかと思います。しかも2本とも戦後新しく誕生した社会主義の国で製作された映画です。当時、布施村は「平和五宣言」だけでなく「世界連邦平和村宣言」も行っていたようです(チラシに記載)ので、4本の映画のうち2本も外国映画が、上映されたと思われます。「黄金のりんご」は、マンガ映画ですので、子どもたちも楽しめるようにとの思いが感じとられます。

「月の輪古墳」が選ばれた理由と思われることが、チラシの最初に書かれています。「平和な民主的な国・村をつくるには一人一人の文化××が高められ、すべての人々が、まごころから心を合わせ、よく結合してよい社会よい村を作ろうと努力する強い向上心から生まれるのでありまして、明日を信じて希望をもつことが大切であります。」

チラシの下部に記載された日程には「11月4日 研修会 午前10:00より午後2:00 村をたてるにはどうすればよいか総合研究」とあります。森滝先生の日記に「村つくり懇話会」と記載されているものですが、加納莞蕾さんが、「新しい村づくり」に力を入れておられたことが、想像できます。

今回は、「映画の夕」について、考察したのですが、チラシには森滝先生の布施村訪問についてさらに興味深いことが書かれています。明日さらに続けて考察したいと思います。

いのちとうとし

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2023年9月12日 (火)

森滝市郎先生と加納莞蕾―番外編

93日の「森滝市郎先生と加納莞蕾―つづきのつづきのつづき」の最後に、次のように書きました。「後日談です。私の仲介で、森滝春子さんと加納加世子さんとの電話連絡が再開し、近々再会されることになりました。嬉しい連絡です」と。

8日の午後、森滝家で「森滝春子さんと加納加世子さん夫妻」の対面が実現しました。「再会」と書きましたが、私の勘違いで、今回が初めての出会いでした。

春子さんは森滝先生の思いを、加納加世子さんは加納莞蕾さんの思いをそれぞれ受け継いで活動する二人の出会い(加納加世子さんの表現)です。

翌日に加納加世子さんから届いてメールには次のように書かれていました。

「父莞蕾の考えていたこと、その行動の確かめができました。尊敬する森滝先生とも信頼関係を確かに持っていたことを知り、うれしい限りでした。春子さんのお体のことも心配でご無理があっては・・・と、思っていましたのになんとも長い時間お邪魔をしてしまいました。たくさんのお話ができ、当時の確かめもでき、よかったです。」

私も同席させていただいたのですが、本当に貴重な時間でした。

私は、二人が会われる予定時刻の少し前に森滝家を訪れました。それは、1956年11月3日の布部村訪問のことが、森滝先生の日記にどう書かれているか確かめたかったからです。

きちんと書かれています。布部村訪問に関わる部分の日記の写しです。

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11月1日(木) 布部行き支度。

2日(金) 安子とともに島根県布部村へ。中国山脈越えのところ紅葉美し。三成駅下車。氏出迎え。バス。そろばん、砂鉄。布部村市場に夕方つく。歓迎茶話会。夜「生きていてよかった」「中国の曲芸」

3日(土) 安子は松江へ。布部村平和五宣言宣言式。午後記念講演。夜座談会。村の有志と懇談晩さん。

4日(日) 午前役場階上で「村つくり懇談会」昼食には、加納氏及び足立議長と。村を辞し、大山に向ふ。富田城趾の山。清水寺。夕方、大山寺部落、山の家に泊まる。

   5日(月) 安子と大山頂上(1715米)にのぼる。壮大な紅葉。夕方米子市で安子と夕食。レストラン白菊で。夜ちどりにのる。

日記によれば、布部村の滞在は、3日間ですが、毎日精力的に活動されたことがうかがえます。

加納加世子さんが、森滝家に到着され春子さんとのあいさつが終わったところで、「布部村への訪問、森滝先生の日記にきちんと書かれていますよ」と日記をお見せしました。

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森滝日記を前にして

その時の思いを加納加世子さんは「最初森瀧市郎先生のあの日記にであえたことは、感激でした。」とメールに記されていました。

この日記を見るなり、加納加世子さんが、たくさんの沢山の資料の中から少し茶色くなったガリ版刷りのチラシを取り出されました。そのチラシには、「文化の日に村民に贈る布部村平和宣言記念の講演討議と映画の夕べ」とタイトルが付けられ、この3日間の意義と11月2日から4日にかけての日程が記されています。森滝先生の日記には、このチラシに書かれた日程通りの行動が記されていますので、加納さんが感激されるのも納得です。

森滝先生の日記に書かれていた「夜『生きていてよかった』『中国の曲芸』」の意味もこのチラシを見れば、よく理解できるので紹介したいのですが、少し長くなりますので、つづきは明日にします。

いのちとうとし

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2023年9月11日 (月)

朝鮮民主主義人民共和国創建75周年広島県友好集会

1945年9月2日に日本が降伏文書に調印したことによって、1910年以来30年間にわたる日本による植民地支配が正式に終了しました。その後、さまざまな紆余曲折を経て、1948年9月9日に朝鮮民主主義人民共和国の樹立宣言が行われ、国家として独立しました。しかし、朝鮮半島の南半分には、大韓民国が誕生し、朝鮮半島には二つの国が存在することとなり今も分断が続いています。

朝鮮民主主義人民共和国が建国を宣言してから75周年に当たる今年の9月9日に、朝鮮総連広島県本部主催の「朝鮮民主主義人民共和国創建75周年 広島県友好集会」が、南区荒神町にある広島市留学生会館で開催されました。

「広島県友好集会」の名の通り、参加者は在日朝鮮人の皆さんだけでなく日朝友好運動を行っている「日朝友好広島県民の会」のメンバーも参加し、朝鮮民主主義人民共和国(以下「共和国」)の創建75周年を祝うとともに、交流を深めました。

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集会は、最近の共和国の様子を撮影したDVDの上映からスタートし、呂世珍委員長の主催者あいさつ、出席した日本側を代表して足立修一日朝友好広島県民の会代表委員があいさつし、祝意を込めた乾杯を行い、懇談会に入りました。

食事が終了すると、文芸同の皆さんの楽器の演奏、歌声で会場の雰囲気は一気に盛り上がりました。

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文芸同は、朝鮮学校での民族教育を通じて培った民族心、朝鮮人としてのアイデンティティー、朝鮮文化を愛する気持ちを変わらず持ち続けようと、舞踊部、器楽部、声楽部など部署ごとに定期的に集まり、練習や発表会などの活動を続け、先日結成30周年の記念講演を終えたばかりです。文芸同の皆さん出演のあいだに朝鮮学校の子どもたちによる打楽器の演奏も行われました。

文芸同の出演が終わった後、日本側の出席者から3人がお祝いのあいさつをしました。私もその一人としてあいさつをさせていただきました。

私と在日朝鮮人の皆さんとの交流が始まったのは、1973年の平和友好際からですから、今年でちょうど50年になります。そして私が初めて共和国を訪れたのは、在朝被爆者問題を取り組むきっかけとなった1992年です。その後10回近く訪朝。最後の訪問は朝鮮被爆者協会の招待を受け「在朝被爆者の実態調査」のため訪れた2018年でした。そんな思い出を語るとともに、厳しい情勢の中だからこそ、今まで以上の友好連帯を進めたいとの思いを述べました。

写真を撮り忘れたのですが、会場には最近の共和国の様子を映した写真が展示されていました。最後に訪れてから5年、マスコミではミサイルの発射などの安全保障問題だけが報道されていますが、この写真を見ると平壌の街並みだけでなく、農村部における野菜栽培のためのハウスの建設や新しい住宅の建設が進んでいることがわかりました。

最近日朝間においては、新しい動きも見られるようですが、厳しい共和国パッシングは続いたままです。そして、幼保無償化問題や朝鮮高校無償化問題などの解決の道も見通せない状況が続いています。

「近くと遠い国」の関係にある日朝関係が、「近くて近い国」の関係となるようにすることこそ、東アジアの安定にとって、必要なことだと思いながら、会場を後にしました。

いのちとうとし

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2023年9月10日 (日)

平和友好祭で話しをして思ったこと

 9月2日~3日、廿日市市の吉和にある県立もみのき森林公園で開催された第48回広島県青年女性平和友好祭典(平友祭)に参加し、3日の午前中に講演をしました。

もみのき森林公園は標高が900メートル近くにあり、残暑が厳しい中でも秋の気配を感じさせてくれました。

私も何十年か前の平友祭に、参加したことがあります。呉市の野呂山キャンプ場で開催され、まだ青年だったと記憶しています。

なんといっても平友祭が今でも開催されているということに、強い感銘を受けました。参加者は総勢71人、広島県東部からの参加者が多く、駐車場には大型バスも止まっていました。コロナ禍で何年か中断していたようで、久しぶりに集まっての開催となったようです。

参加者は初日、スポーツ祭典としてビーチボールバレーを楽しみ、その後に被爆者から体験を聴き、夕食はバーベキューを楽しんだとのことでした。

私の講演のタイトルは「中国地方は原発問題のすべてあり!」というもので、副題として「新設・増設・再稼働・廃炉・中間貯蔵施設など」としました。

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参加者は市役所などの行政組織で働いている人が多く、原発事故時の避難計画に関心を持っていたようで、熱心に聴いていました。

 1時間の講演を終えて、10分間のトイレ休憩の時間に若い方に話しかけたら、「今まではなんとなく解っていたつもりになっていたことが、はっきりした」という声を聞き嬉しかったです。

 質疑応答では、①なぜこんな中でも日本は原発を止めないのか②原発に頼らない再生可能エネルギーのこと③中間貯蔵施設の役割りと、今後の動きの予想④上関町祝島になぜI(アイ)ターンがいるのか、などなどの質問が時間いっぱい集中しました。

 こういう題名で話しをしていて思うことは、私たちの年齢では当然知っているはずのことを、どの程度リアルに知っているかが推察できないことです。具体的には島根県からの政治家の名前で、例えば衆議院議長をしていた桜内義雄さんとか、総理大臣をしていた竹下登さんのことです。竹下登さんならミュージシャンDAIGOのおじいさんの方が解りやすいかもですね。

そして原発問題は、なんといっても専門用語が多くあります。例えば「島根原発2号機がB(沸騰水)型原発の最初の再稼働になること」と話したのでは理解されません。「島根原発が、福島原発事故の原発と同じ形の原発の再稼働になる心配」とした方が良いと思うのです。

 私たちでは日常的に使う言葉でも、聴いている人には専門用語として理解できなかったら、可哀想なことです。

 原水禁大会参加者も多くが初参加という状況ですから、「解りやすく」ということにもっと気配りすることが大切だと思っています。聴いている人の理解度を測る手段、それは聴いている人たちの顔の表情ですね。

 涼しいもみのき森林公園から帰宅したら、猛暑が待っていました。いつまでこの暑さは続くのかを感じた一日でした。

木原省治

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2023年9月 9日 (土)

オスプレイの超低空飛行を容認する日米合同委員会合意の撤回を求める申入れ

日本政府とアメリカ政府は、今年67日の日米合同委員会で、「日本国における新たな航空機(MV-22)に関する合同委員会への覚書に係る特別措置」の覚え書きを確認しました。航空機(MV-22)は、危険が指摘されているオスプレイのことです。

これに対し、95日「岩国基地の拡張・強化に反対する広島県住民の会」と「瀬戸内海の静かな県境を守る住民ネットワーク」の二つの市民団体が、防衛大臣と広島県知事に対し、撤回を求める申し入れを行いました。

私も岩国基地の拡張・強化に反対する広島県住民の会の皆さんからの要請があり、同行しました。

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防衛施設局への申入れ

日米合同委員会合意の問題点について、申し入れ書が指摘していますので、全文を掲載します。


日米両政府が米海兵隊のMV22オスプレイについて、日本の航空法で定める最低安全高度150メートル(約500フィート)を大きく下回る約60メートル(200フィート)での訓練に合意したことが明らかとなった。

オスプレイは回転翼モードと固定翼モードをもつ特殊な機体で、開発時から重大事故を重ね、安全性が確立していない航空機と言える。昨年6月8日米本国で発生したMV22オスプレイの事故は、先ごろ公表された調査報告書によると、エンジンとローターを接続するクラッチの不具合(HCE‥ハード・クラッチ・エンゲイジメント)が原因と断定されている。オスプレイが構造上に重大な欠陥を有する航空機であることが証明された。

欠陥機のオスプレイが200フィートという超低空で飛行することは、極めて危険な状況を作り出すと言わざるを得ない。合意文書によれば、超低空飛行を行う場所は沖縄県を除く日本国内の山岳地帯の訓練航法経路とされているが、その図は公表されていない。実施時間は午後10時までの夜間飛行が予定されている。

中国地方には広島県・島根県・山口県にまたがる広大な訓練空域エリア567が設定され、また中国山地を縦走するように飛行経路ブラウンルートも存在している。岩国基地はMV22オスプレイが沖縄県から日本本土や朝鮮半島に展開する際の中継基地とされ、事実上のMV22オスプレイの本土の母基地となっている。岩国基地の目と鼻の先にあるエリア567や関西方面への経路となるブラウンルートでの超低空飛行の強行は可能性が高いと判断されるべきである。オスプレイの超低空飛行、とりわけ夜間での飛行は極めて危険性が高いものであり、いかに山岳地帯で行われると強弁しても、ひとたび墜落事故などが起きれば、住民生活には大きな影響が及ぶ。以上より。下記の点について要請する。

  • オスプレイの超低空飛行を容認した日米合同委員会合意の撤回を日米両政府に求めること。
  • 訓練航法経路の公表など、超低空飛行に関する情報の開示を日本政府に求めること。

この申入れに同行するまで、この日米合同委員会合意について、全く知りませんでしたが、申し入れを通じて、問題の深刻さを理解することができました。

申し入れに対して防衛施設局は、いつものことですが「安全対策をとりながら、住宅地等の上空を避けた山岳地帯において実施するから安全だ」と外務省ホームページ(日本国における新たな航空機(MV-22)に関する日米合同委員会合意に係る特別措置|外務省 (mofa.go.jp))に記載された事項を読み上げるだけで、市民の危機感には全く応えるものとなっていませんでした。

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広島県への申入れ

その後行った広島県に対しては「オスプレイの危険性については、中国五県の知事会も以前から申し入れを行っているのだから、さらに危険が予測される今回の問題については、改めてその危険性を把握され、県としてきちんと国に対し申し入れを行って欲しい」と要望し、今後もその結果などについて話し合いの場をもつことを約束し、申し入れを終えました。

岩国基地が、オスプレイの中継基地となっているだけに、その移動の際、中国地方において超低空での飛行訓練が行われるのは必至だと言えます。

岩国基地米軍による爆音問題とともに、今後この合意によってどのようナ訓練が行われるのか、オスプレイの動向についても関心を持って対応しなければならないと感じました。

いのちとうとし

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2023年9月 8日 (金)

2023.9月のブルーベリー農園その1

ブルーベリーの実る季節は、東広島市豊栄町のブルーベリー農園では6月上旬から9月上旬まで続く。農園の標高は約400mあり9月に入ると朝夕冷えてくるので、例年は日に日にブルーベリーの実が熟した柿のようになり、摘み取りもむつかしくなり、味も落ちる。今年は8月末から9月上旬にかけて秋雨前線も来ないので適度の雨で実の状態は割と良い。実の納品先の安芸の郷の事業所森の工房みみずくへの納入も終わったので、収穫作業もぼちぼちのペースにダウン。一方で安芸の郷の事業所の森の工房やのが運営しているcafeさくらではブルーベリージュースが好評で農園からのブルーベリーの納品が欠かせないがこちらは少ない量で続けていくことになる。

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8月31日(木)

ブルーベリー摘み取りシーズン中、農福連携で協力いただいた4つの事業所の最終日。この日は3事業所が来園し、摘み取り作業を行った。

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2つの事業所が昼まで作業して帰った後、安芸の郷の森の工房みみずく事業所は午後からも作業していたが、午後1時半ころ雨が降り中断。

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10分くらいは激しい雨がで外に出られないざざあーっと降り続いた。小雨になってから作業を中止して摘み取ったブルーベリーを車に積んで帰ることにした。あっけない最後の摘み取り日だった。

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9月2日(土)

安芸の郷の職員家族がまだ幼い末っ子など3人の子供連れで摘み取り援農に参加。この日は1グループだけの静かな日となった。

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9月3日(日)

ブルーベリーの畑や里山の草刈りや防草シート整備もほぼ済んだので、たまったブルーベリーの枝を野焼きする。

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ブルーベリー畑の中では安芸の郷の2つのボランティアグループが職員の案内で来園。他に家族のグループが来園。1本のブルーベリーの木に家族みんなで摘み取りをする。祖父母、息子、孫のグループの姿や、

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小さい子どもと一緒の家族は母さんと一緒に低めのブルーベリーの木の回りで摘み取りを手伝う姿が見える。お父さんは・・・少し離れたところに。昼食をはさんで前後1時間ほどの摘み取りを行って、ブルーベリージュースを飲んで一息ついてから、1時過にはお帰りになった。

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摘み取りの援農グループの皆さんが帰った後里山のブルーベリー園を見て回り、里道にはみ出しているブルーベリーの実を里道の側から自家消費用に摘み取る。

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ブルーベリーの実たくさんついているが赤い実はもう実ることはなさそうだ。

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里山にあるエゴノキにはたくさんの実がうすいうすい緑の丸い球の形で姿を現した。

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農園からの帰り道の田んぼと集落。まだ稲刈りをしていない田と終わった田と刈った草を燃やす煙と。

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撮影したその田んぼのあぜ道には、野生のニラの花が咲きだした。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年9月 7日 (木)

指揮者山下一史さんは被爆二世

昨日のブログを読んでいただいた広島県被団協事務局長の前田耕一郎さんから次のようなメールが届きました。

「おはようございます。

本日のブログで取り上げている指揮者の山下一史さん。お母上は山下博子さんという被爆者です。

博子さんは抜け落ちた頭髪を原爆資料館に寄贈し、それはかつての展示で「放射線」のコーナーに長く展示されていました。

博子さん自宅に伺ってお目にかかったことがあります。非常に品の良いお方でした。その手記が資料館にもあり、一緒に被爆した弟さんは身を寄せていた先で血を吐いて亡くなったこと、一史さんの出産に際し、非常に苦労したことなどが記されています。博子さんが被爆した場所は手記の記述から、本逕寺の被爆したタブノキの辺りと推察しています。

ブログを拝見して思い出したことを記しました。

一史さんが博子さんの手記を学校などで使ってと広島市長に届けたことが中国新聞にも載っています。」

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山下博子さんから寄贈された広島平和祈念資料館のリニューアル後の新しい図録には収録されていませんが、以前の図録には収録されています。

昨日(9月5日)の中国新聞に「被爆した母の手記450冊、指揮者山下さん寄贈 広島市に活用願う」という新聞記事は読んでいたのですが、「今回はコンサートのことだけに」と、書かずにいました。

前田さんからのメールを読んで、改めて調べてみると山下一史さんは、今年5月4日から中国新聞の「緑地帯」に「広島に生まれた指揮者」を書かれています。

そこには、お母さんのことが何度も登場します。

第1回では「あの父と母のもとに生まれていなければ、広島で育った14年間がなければ、きっと僕は指揮者になっていなかったのではないかと思う」と書き、第2回では、お母さんの被爆について「そんな2人をあの原子爆弾が襲ったのだった。母は18歳、祐策は6歳だった。当時自宅は大手町にあり、爆心からわずか800メートルの距離で2人は被爆した。母は足を中心に37カ所もの傷を負い生死の境をさまよったが、祐策は奇跡的にほぼ無傷であったという。被爆から1週間後、2人の髪の毛は同時にすべて抜け落ちてしまう。祐策はそれを境に急激に体調を悪化させて3日後に亡くなった。その後4カ月を経て母は徐々に回復していったが、健康な状態からは程遠く、髪もまだ生えてこなかった。被爆後のことを母が僕に語ることはなく、僕の出生時の話と共に主に祖母(母の母)から聞かされた。後に母が手記を出すまで詳しいことは何一つ母の口から僕に語られることはなかった。」と書かれています。

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第7回では、前田さんの文書にある出産についても記述されています。「結婚から15年を経た昭和36(1961)年、母は懐妊した。母の体調は依然として不安定で、2カ月に入ってから出血を起こし入院したところ、医師から出産は難しいと告げられる。しかし母は、夫に父になってほしいという強い思いから文字通り必死に6か月間耐えてくれた。そうしてこの世に生を受けたのがこの僕である。1400グラム足らずの未熟児だった。

 大げさではなく、命を懸けて僕を産む決心をしてくれた母には感謝しかない。あの病弱な母のどこからその力が出たのか。『母は強し』というが、われわれは産んでくれた母という存在にもっと感謝しなければならないと思う。」

締めくくりとなる第8回では、「昨年の83日、東京混声合唱団の広島公演を指揮した。この日のプログラムの中心は、林光先生の「原爆小景」(原民喜の詩による)だった。

 東京混声合唱団は、1980年から毎年8月にこの曲を歌い継いでいる。僕が初めて指揮したのは20188月。その公演に寄せた文章の中で、初めて母が被爆者であったことを公に語った。そしてそれをなぜ封印していたかも。

 毎年8月が近づくとさまざまな媒体から取材が殺到し、幼い僕の目には、精神的にも体力的にも弱っている母親をまるで寄ってたかっていじめているように映って、そんな僕の様子を見た母が取材をお断りすることもあったようだ。

 しかし母の死後、母がテレビの取材に答えて『私が死んでも私の髪の毛は残る(母の抜け落ちた毛髪は原爆資料館に収蔵されている)。それが原爆の悲惨さを語ってくれる。しかしこの髪の毛がなくなってしまったら』と語っているのを見て、僕の中に新しい思いが芽生えた。

 文章は次のような言葉で締めくくられている。『私は音楽家です。言葉で発信するのではなく音楽に思いを乗せていくことができる。それが命をかけて産んでくれた母の思いに応えることになると』」。

長い引用になってしまいましたが、山下さんのことをもっと知っていたら、コンサートの音色も違って聞こえたのでは、との思いになっています。

いのちとうとし

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2023年9月 6日 (水)

久しぶりの広島交響楽団演奏会鑑賞

「明日の夕方の広響演奏会のチケットが2枚あるけど、行けるようだったら譲りますよ」

土曜日の夜、いつもこのブログに「ブルベリー農園」の原稿を送ってくれる遊川さんから電話がありました。もちろん「イエス、イエス」です。

コロナ禍前は、「音楽の花束シリーズ」(年3回)など年数回広島交響楽団の演奏会を聞きに行っていましたが、最近足が遠のいていました。遊川さんの好意で、久しぶりの広島交響楽団演奏会の鑑賞です。

「第37回広響ホットコンサート このまち思いシンフォニー」とタイトルの付いたこのコンサートは、広島ガスが「1987年から地域社会への貢献と広島交響楽団の活動を支援するため」(「広島ガス100年史」より)に毎年行っている演奏会です。後で知ったのですが、今年も公募により600組1200名の無料招待券が配布されたようです。

広島ガス100年史によれば、スタートとなった1987年の演奏会は、奇しくも今年と同じ9月3日に同じ会場の厚生年金会館(現「広島文化学園HBGホール」)で開催されたそうです。さらに当日の様子を次のように記しています。「当日は、開場時間を繰り上げるほどの盛況で、満員の観衆は、熱の入った演奏に聞き入った。これを契機として、毎年秋に行われることになった。」

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当日配布されたパンフレットには「このまちの皆さまとともに 音楽で明るい未来を紡いでいく希望のひとときをお届けします」と書かれています。以下もパンフレットからの引用です。

「今年のコンサートの指揮は、世界の巨匠カラヤンが育てた最後の愛弟子山下一史氏(広島市出身)。ソリストは、幼少期を広島で過ごし、高校在学中に日本音楽コンクールで最年少優勝を果たしたピアニスト・吉見友貴氏。2000年生まれの新鋭です。」

広島ゆかりの二人の指揮と演奏でした。

演奏の評価をする力はありませんので、当日の演目を紹介します。

ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲

ショパン:ピアノ協奏曲第1番ホ短調Op.11

もちろん、ソリスト吉見友貴さんの演奏です。

アンコール曲は、ショパン作曲「マズルカ作品50-2」でした。

ここで15分の休憩。後半は、

リスト:ハンガリー狂詩曲2番

レスピーギ:リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲より「「シチリアーナ」

シベリウス:交響詩「フィンランディア」Op.26

アンコール曲は、シベリウス作曲「組曲『カレリア』より『行進曲風に』」でした。

レスピーギ以外は、一度は聞いたことのある曲でしたので、楽しく聞くことができました。

最後に観客の拍手に応えて登場された指揮者の山下一史から、マイクなしでこんなあいさつがありました。

「広響の皆さんとは、2年前にここで一緒に演奏しましたが、その時は観客席には、全く人の姿がありませんでした。今日は、ほぼ満席の中での演奏。演奏をしながら観客席からの反応を感じながら演奏することができました。観客と一体となった演奏こそ本来の演奏会だと実感しています。

広島ガスさんの演奏会も今回で37回、本当に長く支援していただいています。どうか、これからも長くこの『広響ホットコンサート』が続けられるようご支援をください。」

帰宅後、遊川さんに「久しぶりの生演奏、二人で楽しい時間を過ごしました。感謝です。』とメールを送ったところ「コンサートの最後の『フィンランディア』は聞きたかったですね。いい時間が過ごせてよかったです」と返信がありました。

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2023年9月 5日 (火)

ヒロシマとベトナム(その51) ~技能実習制度を考える-2~

「名目」と「実質」、趣旨と乖離した技能実習制度

1993年に「技能実習(人材育成)を通した技術移転(国際貢献)」を目的に始まった技能実習制度は30年経ました。「技能実習は、労働力の需給の調整の手段として行われてはならない」(技能実習法第3条)とする崇高な目的は、当初から人手不足に悩む産業界からの強い要請で作られた制度だけに名目化し、実質的には低廉で豊富な労働力を受け入れる制度として続いてきました。

2017年には賃金や時間外手当の不払い、暴力をはじめとする人権侵害、増え続ける失踪や自殺などの社会問題化を背景に法改正が行われました。「外国人の技能実習の適正な実施及び技能実習生の保護 に関する法律(技能実習法)」という改正法の名称に、技能実習制度が抱える深刻な問題がうかがえます。

改正の大まかなポイントは、①制度の理念に基づく実習計画の認定、および管理団体の許可制。②人権侵害行為などの違反規定と罰則規定を設ける。③技能実習生からの相談対応や情報提供などによる技能実習生の保護に努める。④これらを従来の国際研修協力機構(JITCO)に替わる外国人技能実習機構(OTIT)を創設し権限を持って当たる。⑤不適切な送出し機関を排除するため、相手国政府との間で順次、取り決めを作成する。⑥産業界からの強い要請だった研修期間の延長に関しては、優良な実習実施者・管理団体には4~5年目の技能実習を認める、というものでした。

さらに2019年には深刻な人手不足を背景に入管法が改正され、在留資格に「国内人材を確保することが困難な状況にある産業分野において、一定の専門性・技能を有する外国人を受け入れる」ことを可能にする「特定技能」が新たに加えられました。

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技能実習制度の仕組み(出典:法務省入国管理局)

「名目」(国際貢献)を捨て、「実質」(労働力確保)へ舵を切る

法改正以降、技能実習制度の適正化と実習生の保護が図られ、深刻な実態の改善は進んだのでしょうか。前2回のシリーズでも触れましたが、一向に改善は進まず、むしろ技能実習生の実態も人手不足に悩む(特に中小零細)事業者もその深刻さは増してきました。

そうした中、昨年12月に「技能実習制度及び特定技能制度の在り方に関する有識者会議」(有識者会議)が設置され、今年4月に、「技能実習制度を廃止すべき」とした「新たな制度のたたき台(中間報告)」が出されました。見直しの柱は、これまでの「人材育成による国際貢献」、したがって、「労働力の調整弁としてはならない」という従来の趣旨を大きく転換し、「技能実習制度を廃止した上で、国内産業にとって人材確保の制度として再出発を」という端的な意見を含め、労働力確保を前面に押し出した「新たな制度」をというものになっています。

確かに技能実習生として日本を目指す多くの(その殆どと言っても良い)若者の目的は、私の知る限りにおいても「お金を稼ぎ家族に送る」、「子どもや兄弟姉妹の学資のため」、「お金を貯めて家を建てる」、「店を開く」などを挙げます。次に多いのは「日本語を勉強して帰国後は日本語活かした仕事をしたい」という人たちです。

日本での技能実習が母国での技術移転として活かされていない実態は、帰国した技能実習生のフォローアップ調査を見ると歴然としています。下のグラフは「Jinzai Plus」(2023年2月4日)からお借りしました。

ベトナムでは元実習生の26.7%しか就職しておらず、そのうち研修と同じもしくは同じ分野の仕事をしている人が約半数で、帰国した元実習生全体では僅か13%でしかありません。

その意味では、現在の「技術移転のための技能実習」という名目上の主旨から転職できず、自分に合わない仕事、暴力や賃金不払などの不法・不当な扱いから逃れられないという実態からは解放される可能性はあります。

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出典:JICA「ベトナム国産業人材育成分野における情報収集・確認調査最終報告書」2022年5月)

しかし、「国際労働市場において、需給ギャップは発生するもので、これを乗り越えるためには送出し機関や管理団体などが担っている機能は必須」(「中間報告」)にあるように、非営利をうたいながら「現代版口入業」と言える送出し機関と受入れ機関(管理組合)を前提とした「新たな制度」の下で、果たして問題は解決されるのでしょうか。

確かに、「技能実習制度を廃止」し「人材確保の制度」を新たに作れば、の「国際貢献」という名目と実質的には「労働力の調整弁」という乖離(矛盾)はなくなるでしょう。しかし、それで今日的な問題の根本的な解決につながるとは到底考えられません。むしろ、さらに大きな歪みと問題を生むのではないかとの危惧を禁じ得ません。

我々は労働力を呼んだが、やってきたのは人間だった

「我々は労働力を呼んだが、やってきたのは人間だった」

これは戦後のスイスを代表する作家、マックス・フリッシュが述べた言葉です。1965年にアレキザンダー J. ジーラー著の『私たちはイタリア人だ—スイスのイタリア人労働者との対話』に寄せた序文に綴られたものです。

いま日本で、60年も前のヨーロッパで起きた「移民問題」と同じような事態が起きています。

次号からマックス・フリッシュの言葉を教訓としながら、技能実習制度の現状と課題、有識者会議の「中間報告」とそれに対する懸念・危惧、そして私たちが考えなければならないことを書き進めたいと思います。

(2023年9月5日、あかたつ)

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2023年9月 4日 (月)

広島弁護士会主催「敵基地攻撃能力と憲法9条」講演会

9月2日午後2時から広島弁護士会館3階大ホールで、広島弁護士会主催の講演会「敵基地攻撃能力と憲法9条」が開催されました。

広島弁護士会は、講演会参加をこう呼びかけています。

「2022年12月に、安保三文書が改定され、反撃能力の保有が明記された上、防衛費は今後5年間で約2倍の43兆円とする内容が閣議決定されました。従来、政府は憲法9条に基づく専守防衛を掲げてきましたが、この度の安保三文書は、その防衛政策の大転換となるものです。このような中、市民の方々に安保三文書の内容や、日本の現状を知っていただき、今後の日本と世界の平和のために、日本の進むべき先を市民の皆さんと一緒に考えていきたいと考えています。」

ゲスト講師は、東京新聞記者の望月衣塑子さんです。望月さんの話は、数年前の講演会で、熱弁と鋭い指摘に感心したことがありましたので、もう一度聞いてみたいとの思いで参加しました。

案内チラシでは、講演会は、3時間が予定されていましたので、望月さんの話はそんなに長いのかと思いながらの参加でした。

しかし、講演会には前段がありました。主催者のあいさつの後、「岩国米軍基地・呉自衛隊基地の現地報告」が、組み込まれていました。持ち時間一人10分足らずの報告でしたが、岩国の田村順玄さん、呉の森芳郎さんは、二人とも現地で反基地闘争を取り組んでおられるだけに最近の両基地の増強ぶりがわかりやすく報告されました。岩国基地問題は、それなりにマスコミ報道もありますが、呉基地問題は、ほとんどマスコミに報道されることはありませんので、新鮮な気持ちで聞くことができました。

いよいよメインの望月衣塑子さんの講演です。講演のタイトルは「敵基地攻撃能力と憲法9条~どうなる?軍拡と財政問題~」です。

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配布されたパワーポイントの資料は、この種講演会では初めて手にする132ページという膨大なものでした。

「岸田首相の支持率の現状」から話はスタートし、日米参加国の首脳会談、麻生副総理の「他高く覚悟」発言、処理水海洋放出問題、防衛財源確保法の成立、G7広島サミット・・・、次々と興味あるテーマが続きます。それぞれ取材で得た情報を元に、解説が進みます。

以前と同じ、滑舌のきいた話しぶりには、感心します。

特に、「憲法9条、専守防衛の概念を無視した政策区作りへのマスコミトップらの加担」については、自らがマスコミに身を置く立場だけに、厳しい指摘となりました。

あまりの量に、ここではこれ以上紹介することは無理ですので、終わり部分の話をパワーポイントの資料を使って紹介します。

「記者として私のテーマ 戦争したい人たちに戦争をさせないこと!」

「そもそもメディアの役割とは、権力の監視、チェック」そうだそうだと相づちを打ちながら聞きました。

「何が必要か 多様な声を社会や政治に 連帯し声を上げよう!」自らの体験を交えての提起でした。

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「市民の声を官邸や記者たちへ」

「憲法とは何か 憲法とは支配者の暴走を防ぐもの」

ここで幣原喜重郎の次の言葉が紹介されました。「正気の沙汰とは何か。武装宣言が正気のさたか。それこそ狂気の沙汰だという結論は考え抜いた結果出している。世界はいま一人の狂人を必要としている。自ら買って出て狂人とならない限り世界は軍拡競争の地獄から抜け出すことはできまい。これは素晴らしい狂人である。世界の扉を開く狂人である。その歴史的使命を日本が果たすのだ。」(日本国憲法~9条に込められた魂~)

締めくくりは、ガンジーの言葉でした。

「あなたのすることの殆どは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分自身が変えられないようにするためである」

1時間20分の予定だった講演は、1時間50分の長い講演となりましたが、何度も共感を覚える内容でしたので、充実した時間でした。そしていくつも問題意識を共有できる講演を聞くことができました。

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2023年9月 3日 (日)

森滝市郎先生と加納莞蕾―つづきのつづきのつづき

2回にわたって「森滝市郎先生と加納莞蕾さんの出会い」について考察してきましたが、今日が最後です。

昨日、森滝先生と加納莞蕾さんの最初の出会いは、「1955年の原水爆禁止世界大会だった」と思われることを検証してきました。

今日は、加納莞蕾さんの原水爆禁止世界大会への参加が、その後の活動にどんな形で引き継がれたのかを考えます。

8月29日の「安来加納美術館と加納莞蕾(かんらい): 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で、「布部村平和五宣言」について触れ、その内容を後日紹介することを約束しましたが、ようやくその順番が回ってきました。

「布部村平和五宣言」は、次の五項目です。

  • 自治宣言
  • 国際親善宣言
  • 世界連邦平和宣言
  • 原・水爆禁止宣言
  • 世界児童宣言制定促進宣言

4を除く各宣言は、加納莞蕾さんが続けた「フィリピンの戦犯釈放」運動の延長線上にあり、特に「5,世界児童宣言制定促進宣言」には、平和のモラルを確立するために子どもの権利を確立することが大切だという強い思いが込められています。

私が注目するのは、「4,原・水爆禁止宣言」です。この「布部村平和五宣言」は、1956年に制定され、その年の11月3日に「平和宣言式」が行われ、その式に森滝先生が参加されたことを紹介しました。

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そこで紹介した写真を拡大してよく見ると「宣言」は、1956年8月3日に布部村議会が決議したとあります。8月6日を意識して決議がされたと思うのは私の考えすぎでしょうか。4項目目に「原・水爆禁止宣言」があることを考えれば、86日の前のこの日を選んで決議されたと考えても不思議はないと思います。もう一つ考えられるのは、ちょうど3ヶ月後に当たる11月3日の「憲法公布の日」に「平和宣言式」を行いたいという思いがあったのではということです。

いずれにしても、この「布部村平和五宣言」に「原・水爆禁止宣言」が入れられたのは、加納莞蕾さんが1955年の「原水爆禁止世界大会」に参加されたことと深いつながりがあったことは、間違いないでしょう。

安来加納美術館に掲示された「布部村平和五宣言」の説明文には、「平和宣言式に、周りの多くの自治体からの祝詞、また全国的に子どもを守ろうとする団体、原水爆禁止協議会からの祝詞も来ています。」と書かれていますので、その代表として森滝先生が「平和宣言式」に招かれたようです。

ここにも森滝先生と加納莞蕾さんの強いつながりを感じますが、加納加世子さんからは、更にそれを証明する貴重な資料を見せていただきました。

アフリカのガーナから届いた森滝先生からの手紙です。宛名は、「加納辰夫様村民一同様」となっています。

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 手紙の冒頭に次のように書かれています。「出発前には、わざわざ歓送会に御出くださり、心からの激励を賜り誠にありがとうございました。」

そして最後のところで「昨日で会議がすんだので、いよいよこれからランバレネにシュヴァイツァー博士を訪れていきます。」と書かれ、日付は「六月二九日朝」と記載されています。

この手紙は、1962年ガーナのアクラで開催された「爆弾のない世界」会議に出席された森滝先生が、全ての会議が終わり、いよいよシュヴァイツァー博士を訪ねる旅に出かけられる朝に書かれた手紙です。

この手紙からさらに二人の繋がりの深さを知ることができます。ガーナへの出発前の歓送会に加納莞蕾さんが、島根の布部村から遠い道のりをいとわず、参加されたことです。当時の交通事情を考えると、島根から広島に出てくるには相当の時間がかかったと思われます。そしてそのことに対し、他に何通の手紙を書かれたかわかりませんが、森滝先生が、遠いガーナの地から加納莞蕾さんと村民の皆さんにお礼の手紙を書かれたことです。最初の出会い(私が考える)から7年後のことですから、この間にも深い交流が重ねられたことが想像できます。

「四國五郎展」を見るために訪れた安来加納美術館でしたが、加納加世子さんと出会うことができ、そしてそのご厚意で森滝先生の新たな足跡を知ることができました。

感謝です。

後日談です。私の仲介で、森滝春子さんと加納加世子さんとの電話連絡が再開し、近々再会されることになりました。嬉しい連絡です。

ずいぶんと長くなった安来加納美術館訪問記もようやく終わりを迎えました。

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2023年9月 2日 (土)

森滝市郎先生と加納莞蕾―つづきのつづき

森滝先生と加納莞蕾さんの出会いのつづきです。

「加納辰夫 広島へのメッセージ」の冒頭には、次のように書かれています。

「昭和30.8.6~8 広島市で開かれた原・水爆禁止世界大会に於いて、私はこの問題をアピールした。」

この問題とは、「世界児童憲章」のことですが、これについては後でもう少し詳しく紹介しますが、ここで重要なことは「原・水爆禁止世界大会に於いて、アピールした」との記述です。

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ご承知のように森滝先生は、この「原・水爆禁止世界大会」では、地元広島の事務局長として大会の準備に追われ、大会成功の重要な役割を担われました。当然のことですが、大会運営にも深く関わられたことは、間違いありません。

ですから、加納莞蕾さんが、大会でアピール(どの場で行われたかは定かではないが)をしようと思われれば、事務局長であった森滝先生が、その判断に関わられたと考えても不思議はありません。

加納莞蕾さんが一参加者として「原・水爆禁止世界大会」に参加されたのであれば、この大会の場で森滝先生と加納莞蕾さんの出会いがあったかどうかは、はっきりしないのですが、どの場であれ、加納莞蕾さんは大会でアピールされたのですから、「どんな内容のアピールか」などを、森滝先生を含めた事務局で検討され、その時加納莞蕾さんを知ることになったと考えるのは当然のことです。

これらのことから、私は、森滝先生と加納莞蕾さんが、1955年の「原・水爆禁止世界大会」で会われたと結論づけました。森滝先生の日記は、8月4日以降空白となっています(中国新聞社編「ヒロシマ四十年森滝日記の証言」より)ので、日記から確認することはできませんが。

次に、アピールされた「加納辰夫 広島へのメッセージ」を理解するため、その一部を資料からの引用し紹介します。

「原水爆禁止のためのいかなるとりきめも、申し合わせも、或は法律も、世界のヒューマニティに支えられなければ何らの効力もない。過去に於いていかなる国際協定も一片の反古と化して戦争防止に何の力もなかったことを省みれば自ずから明らかである。平和は次の時代に期待すべく、それは児童に期待せねばならぬ。児童憲章の任務はここにある。(中略)されば、児童憲章が真に権威をもつには“過去の厳しい反省と懺悔”そして“世界性の獲得と基礎付け”がなければならず、それはまた“戦争否定“の理念をもたねばならない。これらの反省と自覚を促す動機となるものこそ最も具体的な“比島赦免のモラル“でなくてはならない。そして“児童は最も尊重せられた”実証たる、愛児の名において赦した真意が世界の知性に訴えられ、児童憲章が真に時代を作る平和憲章となることを要求する。かかる理由において原水爆禁止、さらに根源的なる戦争防止と否定のために世界児童憲章の速やかに制定せられることを求めている。」

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日本人戦犯を赦免したエルピディオ・キリノ元大統領(妻や子どもを日本軍によって殺された)と会見する加納莞蕾

この文章の中から、加納莞蕾さんの思想、「児童憲章」と原水禁運動の関わりを学ぶことができると思います。この考え方に、原爆孤児を守るための精神養子運動「広島子どもを守る会」の会長を務めていた森滝先生が強い共感を持たれたことも想像でします。

そして1956年の森滝先生の布部村訪問と布部村未亡人会による「子どもを守る会への義援金」集めにつながったのだと言えます。

後もう一つだけ触れておきたいことがありますので、「森滝市郎先生と加納莞蕾」の「つづきのつづきのつづき」を書きたいと思います。

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2023年9月 1日 (金)

森滝市郎先生と加納莞蕾―つづき

森滝市郎先生と加納莞蕾さん(今回から本文中は「さん」付けにします)のお二人は、何時どこで知り合われたかです。

当時、二人が住んでおられた場所は、広島市と島根県能義郡布部村とずいぶん離れた場所ですので、早くから交流があったとは思えません。間違いなく出会いがあったと思われるのは、1955年8月6日に広島市で開催された原水爆禁止世界大会の会場です。それは、一昨日紹介したアルバムの同じベージの一番下に貼られている写真が説明してくれます。

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写真下の説明文には、「Aug.5.1955 原水禁世界大会広島大会に出発。前田貞明君と 松江駅にて。」と書かれています。2枚同じ松江駅前の写真が貼られていますので、どちらの写真が、前田貞明さんと写ったものかは不明(多分左側の写真と思える)ですが、2枚の写真の左側に写っている人物は同じですので、この方が加納莞蕾さんだということがわかります。

注目して欲しいのは、人物の後ろの垂れ幕です。垂れ幕の全体は写っていませんが、「水爆禁止   界大會 島根代表」の文字が書かれているのがわかります。アルバムの説明文だけでなくこの写真からもはっきりと、1955年8月6日に開催された原水禁世界大会に参加するため、8月5日に松江駅を出発するときに撮られたことがわかります。

ただ、気になるのは「説明文」にある「原水禁世界大会広島大会」という表現です。

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上の写真は、1955年に開催された「原水禁世界大会」の写真です。よく見ていただければわかるように、会場に掲げられた看板には「原水爆禁止世界大会」と書かれているだけです。確かにこの大会は広島で開催されましたが、「とにかく大会を開催しよう」との呼びかけで開催が決まった経緯がありますので、後にこの大会の名称に付けられることになった「第一回」という文言はもちろん「広島大会」という名称も使われていません。

このアルバムは、貼り付けられている順番が、必ずしも年代順ではないことから考えると、後になって写真が整理され、説明文も書かれたため、『広島大会』との記載が加わったと思われます。

少し横道にそれましたが、森滝先生が布部村を訪れたれた写真と加納莞蕾さんが1955年の原水禁世界大会に参加するため松江駅を出発する時撮られた写真が、同じページに貼られていることから、二人の最初の出合いが、原水禁世界大会の場だったと想像して間違いないと思います。

「確かに加納莞蕾さんが、1955年の原水禁世界大会に参加されたことはわかるが、あの大会には、5千人を超える参加者があったと言われているのに、この写真だけを根拠に、二人の出会いがあったと結論づけるのには不十分ではないですか」という疑問がわきます。

その通りです。ところが加納加世子さんは、「二人の出会いがあった」と考えることのできるもう一つの貴重な資料を見せてくださったのです。

その資料、といっても加納莞蕾さん手書きのものではありません。パソコンで打ち替え、A4の紙に印刷されたものです。

タイトルは「加納辰夫 広島へのメッセージ」で、その下に「(昭和30年(1955年)8月6日 第1回原水爆禁止世界大会(広島)における「世界児童憲章」の提案より)と付記されています。

この文章を読むと、間違いなく二人の出会いが原水禁世界大会の場であったことが、はっきりします。それとともに前回紹介した「布部村の未亡人会(原文のまま)から送られた『原爆孤児救援義金』」が、なぜ布部村で集められたのかも理解することができます。

ここまでで、またまた長くなってしまいましたので「加納辰夫 広島へのメッセージ」の紹介は次回にします。

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