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2023年8月21日 (月)

ベトナムの歴史(その27-2)

ジュネーブ協定で南北分断、切り裂かれた民族

ベトミン軍の攻勢とベトナム人民の抵抗で次第に敗色濃くなってきた1954年、ディエンビエンフー戦いを前にした4月26日、ジュネーブでインドシナ和平会議が開催されました。参加国はフランス、アメリカ合衆国、イギリス、ベトナム国、カンボジア、ラオス王国、ベトナム民主共和国、ソビエト連邦、中華人民共和国です。

7月21日に成立した和平協定(ジュネーブ協定)の内容は、

①インドシナ諸国(ベトナム、カンボジア、ラオス)の独立

②停戦と停戦監視団の派遣

③ベトミン軍の南ベトナムからの撤退とフランス軍の北ベトナム、カンボジア、ラオスからの撤退

④ベトナムを17度線で南北に分離し、撤退したベトミン軍とフランス軍の勢力を再編成した上で、1956年7月に自由選挙を行い、統一を図るというものでした。

合意にはベトナム民主共和国、中華人民共和国、ソ連、フランス、イギリスが署名しましたが、アメリカとベトナム国は署名しませんでした。その後、アメリカを後ろ盾にゴ・ディン・ジエム(注1)がバオ・ダイを追放してベトナム共和国政府を樹立する一方、北ベトナムと自由選挙に関する協議を行うことを拒否したため、協定で定められた南北統一選挙は実現しませんでした。

そして、アメリカの傀儡政権であるベトナム共和国(南ベトナム)とベトナム民主共和国(北ベトナム)との間でベトナム統一をめぐる争いが起こり、アメリカ軍が本格的に軍事介入します。こうしてベトナム民主共和国および南ベトナム民族解放戦線とベトナム共和国(南ベトナム)およびアメリカ軍とその同盟軍との間でベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が戦われたのです。

南北分断、国境(軍事境界線)のまちクアンチ

 ベトナムはアメリカによって南北分断が固定化されました。その国境のまちクアンチ省はベトナム戦争が最も激しく戦われた地域で、私たち広島ベトナム平和友好協会(HVPF)が2009年の設立以降、交流を続けている省です。

2008年10月、「日越国交樹立35周年」を記念し、グエン・フー・ビン駐日特命全権大使を東広島にお迎えし記念講演会を開催しました。その時、ビン大使に「私たちが貴国と継続した交流をするとすれば、どこをお薦めでしょうか」とお訪ねしたところ、即、「クアンチ省です」とお答えになり、「クアンチは日本のヒロシマと同義語です。原爆を体験し核兵器の廃絶と平和を希求する広島の皆さんとクアンチとの交流は意義深いものになるでしょう」と話されました。

翌年のHVPF設立に先がけ訪問した先は、言うまでもなくクアンチ省です。そして旧国境線も訪れました。

 下の地図をご覧ください。非武装地帯を西から東に流れるベンハイ川と国道1号線が交差する北緯17度線に国境線が敷かれました。南北分断は当初、統一選挙が実施されるまでの2年間で終わるはずでしたが、先にも述べたようにアメリカの介入で21年間、1975年のサイゴン解放・統一まで続きました。

Photo_20230818091901

地図の右上の円がベンハイ川に架かるヒエンルオン橋でハノイまで伸びる国道1号線が走っています。非武装地帯のすぐ南には米軍の強力なコンティエン戦闘基地があり、その南にはキャンプキャロル米軍砲撃基地が陣を構えています。

地図の左下、ヒエンルオン橋から南西方向、ラオス国境に続く国道9号線沿いにはケサンがあります。ここにはホーチミン・ルート(注2)の破壊を目的に1,200mの滑走路と4カ所に前衛基地を備え、45,000人の兵力を擁するケサン米軍戦闘基地がありました。1967年1月から77日間にわたる北ベトナム軍と民族解放戦線の「テト攻勢」を経て、米軍自ら基地を破壊し撤退した「ケサンの戦い」が戦われた地です。

さらに右中央に現在の省都ドンハ、その南にクアンチがあります。クアンチでは1972年5月~9月、81日間にわたる「クアンチ古城の戦い」で米軍と南ベトナム軍を撃退しました。この戦いがベトナム戦争の帰趨を制し、「パリ和平協定」、「米軍撤退」、そして75年の「サイゴン解放」へとつながる大きな転機となったのです。

クアンチはベトナム戦争の原因となった南北分断の只中、北に向かっての米軍と南ベトナム軍の最前線基地、そして「ケサンの戦い」、「クアンチ古城の戦い」に勝利し、ベトナム解放・統一への道を切り開いた聖地なのです。その聖地クアンチはベトナムの人々が平和への揺るぎない意思を表す言葉なのです。

次号ではケネディー大統領による米軍正規軍の派遣、北爆の口実となった「トンキン湾事件」など、アメリカの本格的な介入について書きたいと思います。

(注1)ゴ・ディン・ジエム:ベトナム共和国(南ベトナム)初代大統領。貴族、フランス保護(植民地)の下で阮朝の内相を務める。1945年の日本軍の「明号作戦」(仏印処理)後、亡命。1954年帰国しフランス傀儡国家ベトナム国の首相に就く。1955年アメリカの後ろ盾でベトナム共和国を樹立し初代大統領になる。

(注2)ホーチミン・ルート:ベトナム民主共和国(北ベトナム)から中立国ラオス、カンボジア領内を通りベトナム共和国(南ベトナム)に至る南ベトナム解放民族戦線への陸上兵站補給路。10年間にわたり米軍がまき続けた枯葉剤は、このホーチミン・ルートを覆うジャ ングルを枯らすことが目的だった。

(2023年8月21日、あかたつ)

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