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2023年8月

2023年8月31日 (木)

2023.8月のブルーベリー農園4

8月も終わりだが、それにしても雨の少ない月だった。幸い農園の井戸水も枯れず、ブルーベリーの実もしぼむことなくおいしい水とブルーベリーの実を提供してくれている。安芸区の自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー農園に通っている。農作業は草刈り、ブルーベリーの摘み取りが中心で、お盆明けからも多くの援農のグループのお手伝いと農福連携の障害者の4つの事業所の摘み取りのための作業委託が続いており、安芸の郷へのブルーベリーの納品も順調で、購入者の甘くておいしいとの声も寄せられている。月末には農園周辺の稲刈りが早くも始まっている。

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8月24日(木)

農園の周囲の稲田の色は緑色から黄色に変わっている。

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すっかり実った稲穂。827日の日曜日には早々と稲刈りが始まっていた。9月に入ったらあちこちで稲刈りが行われる季節となる。

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道端の法面にはキバナコスモスが咲いている。

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里山のブルーベリー園の里道に咲く白色のオミナエシ。

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8月26日(土)

ブルーベリー畑と隣の休耕田とのあぜ道の草を刈る。

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天気も良くて暑くて、それでも援農に来ていただいた友人知人にブルーベリーの摘み取り作業も行って、

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マイカーにブルーベリーを積み込んで、帰りに安芸の郷に納品した。

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8月27日(日)

ブルーベリー畑での摘み取り。ブルーベリーの木が茂って背も高くなっていて離れてみていると摘み取る人が小さく見える。

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安芸の郷の事業所の森の工房みみずくと森の工房やのの生活介護で毎月1回ボランティア活動をしている「みのり会」の皆さんが摘み取り援農に来園。

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暑い中摘み取りを終わってブルーベリーの入ったコンテナや籠をもって休憩に入る。いつものブルーベリージュースで体を冷やして頂く。

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子どもと一緒に援農に来られた家族。農園の池にトンボがいたので子どもに網を渡してみたがゲットできなかった。

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ブルーベリーの畑で、切った幹から新しいシュートが3本出てきている。この幹の次世代の主木になる。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年8月30日 (水)

森滝市郎先生と加納莞蕾

四國五郎展を見終えての場面にもどります。

別の部屋から出てこられた女性は、美術館の名誉館長加納加世子さんでした。加納さんは、開口一番「森滝春子さんの体調はどうでしょうか。体調が悪いと聞いていましたので、電話をかけるのを遠慮していたのですが」との問いかけられました。。一週間ほど前にあったばかりでしたので、私が知っている限りの森滝さんの今の様子と、私と森滝市郎先生と関わりについて話しをしました。

「時間があれば、もう少し詳しい話を聞かせていただけませんか」とのことでしたので、同じ敷地内にあるレストランに場所を移して、つづきを話すことになりました。

レストランに入ると「ちょっと待っていてください」と席を離れ、しばらくするとアルバムのようなものを手にして、戻ってこられました。

「四國五郎展で展示された絵本『おこりじぞう』の作者の名前に山口勇子と書かれているのを見て、どこかで見た名前だなと思い、資料を探していたら、見つかったのです。」と言って見せていただいたのが、加納莞蕾宛ての森滝先生の手紙です。見覚えの文字が並んでします。

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この手紙は、便せん3枚に書かれています。内容の本題は、布部村の未亡人会(原文のまま)から送られた「原爆孤児救援義金」に対するお礼です。日付は、封筒、手紙には「二月二三日」としか書かれていませんが、手紙の最後に「只今三月一日(ビキニ三周年)原水爆実験阻止広島集会を準備しています」と書かれていますので、1957年に書かれたものだということがわかります。この手紙の文中に、当時「子どもを守る会」の事務局長だった山口勇子さんの名前が、2カ所で書かれていますので、そのことを思い出した加納加世子さんが、資料を探し見つけ出されたようです。ここでも不思議な縁を感じます。

加納加世子さんの話は続きます。「森滝先生は、一度この布部に来られたことがあるのですよ」と言われて開かれたのがアルバムです。「ここを見てください」と示されたページには、小さな写真がびっしりと貼られていました。「村長在職中のスナップ」と書かれています。

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1ページ全体を写し忘れ、必要だなと思った部分のみ写しましたので、2枚になってしまいました。

このページの上部に、森滝先生が布部村を訪れられたときの写真が並んでいます。一番左上の写真には「村長在職当時のスナップ集」とタイトルが付けられ、それぞれの写真にキャプショが書かれています。この写真には、次のように書かれています。

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写真上部に「nov2 森滝先生を迎えて 布部● 議長足立正一、森滝氏令嬢、森滝市郎教授、加納」、そして写真下部には「november3.1956(昭36) 平和宣言式挙行 森瀧市郎広大教授を迎える」と。森滝先生の同行された「令嬢」は、長女の安子さんだと思われます。

昨日のブログを思い出して欲しいのですが、加納莞蕾が、布部村村長となって「布部村平和五宣言」を制定したのは、1956年です。森滝先生は、その「平和宣言式」に招待され、布部村を訪れられたのです。

アルバムには、その日(11月3日)役場の階上で森滝先生を囲んでの座談会が行われた様子の写真もあります。

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話された内容は不明ですが、森滝先生が笑顔で話されているのが印象的です。これが縁となって、手紙にある布部村未亡人会からの「原爆孤児救援義金」につながったことが想像できます。

実は最初に紹介した手紙のはじめの部分には次のように書かれています。「第一に貴兄が村長を辞職なさったとのこと、全く寝耳に水でびっくりして了ひました。なによりも残念でならないのは、昨秋の平和宣言式で新たに雄々しく出発した貴村の平和への歩みが阻まれてはということです。しかし、又考えてみれば、貴兄が蒔かれた種子が、そんなに容易にふみにじられて了ふやうなことはないと信ぜられます。めざめた村民がもう一度ねむらされるということはあり得ないからです」

お二人の間の揺るぎない信頼を感じます.そこで知りたくなったのは、お二人は何時どこで知り合われたかです。そのヒントになる写真が、アルバムの同じページにありました。

つづきは明日紹介します。

いのちとうとし

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2023年8月29日 (火)

安来加納美術館と加納莞蕾(かんらい)

安来加納美術館での不思議な出会いを紹介する前に、この美術館の設立趣旨をまず紹介したいと思います。そのことが、後の話に繋がると思うからです。

美術館ホームページからの引用です。

「当館は、平成8年(1996年)11月1日安来市広瀬町布部(ふべ)(旧広瀬町)に開館しました。

設立は、故加納溥基により郷里の文化発展を願って、文化活動や生涯学習の拠点となるよう願って設立されてものです。

設立の動機は溥基の父であり画家であった加納辰夫(雅号 莞蕾(かんらい))の作品を収蔵したいとの思いと、戦後莞蕾がフィリピン日本人戦犯助命嘆願活動を起こし、6代フィリピン大統領エルピディオ・キリノ大統領ほかに送った300通に及ぶ嘆願書の往復書簡の控えを保存したいとの思いからです。また、同時に広瀬出身の芸術家から寄贈された作品を収蔵してほしいとの強い要請を受けてのこともありました。

(中略)

近時、当館の最も大事な使命として、戦後加納莞蕾がフィリピン日本人戦犯釈放運動から得た大きな教訓『許し難きを許す』というキリノ大統領の平和への思いを、当館の活動指針として設定して事業運営をいたしております。恒久平和を希求する美術館として邁進していきたいと思っております。」

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ここで注目していただきたいのは「近時」以下の下線を付した部分です。

同じホームページに記載されている「加納莞蕾」についての記載から、その経緯をもう少し詳しく紹介します。

美術を学んだ加納莞蕾は、島根で教職に就いていましたが、1937年画家として生きていくことを決意し、朝鮮に渡ります。そして1938年11月従軍画家を命じられ、中国山西省に行き部隊とともに移動します。1940年その任を解かれ朝鮮の京城にもどり、師団各部隊作戦記録画を作成するとともに京城工業高等学校の講師を務め終戦を迎え、1945年9月家族とともに帰郷しました。

帰郷直後の布部村(当時は独立した村だった)で、フィリピン特攻隊司令官であった元海軍少将の古瀬貴季(たけすえ)と出合い、その古瀬は「戦争は過ちであった」「未来ある青年を死に追いやった私の罪は大きい」と加納に語ります。しかし、古瀬は間もなく戦犯として戦争裁判のためフィリピンのマニラに行きます。古瀬は、その後フィリピンのマニラ軍事法廷で「死刑判決」を受けましが、自らの責任と向き合う古瀬の態度を知った加納莞蕾は、フィリピンに助命嘆願をすることになります。

1949年3月末からフィリピンのエルピディオ・キリノ大統領に「戦犯赦免こそが平和の確立につながる」という考え方にもとづく38通の英文の助命嘆願書を送ります。そして、1953年7月6日、エルピディオ・キリノ大統領は、日本人戦犯の赦免を発表します。赦免された戦犯105人(すでに死刑になった17柱の遺骨とともに)は、1953年7月15日に帰国しました。

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美術館入り口左側に建立された碑

その後も加納莞蕾は、「キリノ大統領が日本人戦犯を赦免したことは、われわれは大統領から大きな課題を与えられたのだ」と言い続け、「戦犯の赦免は『平和へのスタート』であり、大統領の思いに応ずるために、われわれは平和を築かなければならない」と決意し、活動します。

その活動の一つとして、1954年(昭和29年)布部村村長となった加納莞蕾は、1956年に村議会で「布部村平和五宣言」を制定します。

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少し長くなったので、「布部村平和五宣言」の内容は、明日以降紹介しますが、これを読んでいただければ、安来加納美術館が「恒久平和を希求する美術館」として運営されている理由がわかっていただけると思います。

帰宅後、フィリピンのエルピディオ・キリノ大統領の「戦犯赦免」の話は、ずっと以前に広島市立大学の市民講座で学んだことがあったことを思い出しましたが、その時の話に加納莞蕾のことが触れられたかどうかは、残念ながら全く記憶に残っていません。

明日からの話の背景には、こんな歴史があることを知っておいて欲しいのです。

いのちとうとし

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2023年8月28日 (月)

安来加納美術館「四國五郎展」を見に行きました。

先日、一日で米子(午前中)と境港(夕方)の2つ講演会の講師を務める機会があり、その合間の時間を利用して安来市広瀬町布部にある「安来加納美術館」で開催されている「四國五郎展シベリア抑留から『おこりじぞう』へ」を見に行きました。

ここを訪れようと思ったのは、8月15日に開催された「原爆・反戦詩を朗読する市民の集い」で、紹介されたからです。

米子を出るとき、ナビゲーターに目的地をセットすると約27kmと表示されました。安全運転で走行し、12時20分頃現地に到着しました。「安来加納美術館」は、周囲を山に囲まれ、前には小さな川が流れる風光明媚な場所に立っています。

この美術館の紹介は明日以降のブログで行いますので、今日は「企画展 四國五郎展 」の様子だけ紹介します。

受付で入館料1100円を払って、会場に入ります。

展示会場は、1階と2階にあります。順路どおりA展示室の「シベリア抑留と原爆の記録」の第1会場に入ります。

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会場に入ると左回りで展示されています。最初は「シベリア抑留の記録」です。

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1990年代に作成された油絵やシベリア抑留中に書かれたスケッチ、1991年と1994年の2度にわたって参加したシベリア墓参の時描いたスケッチブック8冊も展示されています。

続いて「原爆の記録」の展示です。

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最初に「峠三吉像」が展示され、「黒い雨」「8月6日」などとつづき、「弟への鎮魂歌(抄)」も展示されています。1950年代にポスターとして作成し、街頭に貼り出されたといわれる辻詩8点も展示されています。私は、いつもこの作品群に目を奪われます。

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次は、受付を挟んで反対側にあるB展示室に移動します。

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絵本「おこりじぞう」の原画19点やそれに関連する2枚の作品が展示されていました。この部屋には新しい辻詩「死んだ女の子」など8点も展示されています。

その右奥のC展示室は、四國五郎が終生描き続けた「母子像」の展示室です。

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作品は全部で12点展示されています。

これで1階は終わりです。2階のE展示室には、実物資料が展示されています。

シベリア抑留から持ち帰った手作りの背嚢など、7点。

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ここには、「わが青春の記録(原本)」や「原爆詩集」も展示されています。さらに奥のコーナーでは、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が2020年に作成したビデオ映像「時を超えた兄弟の対話ーヒロシマを描き続けた四國五郎と死の床でつづった直登の日記」が上映されていました。久しぶりに見る映像です。

これで、安来加納美術館「四國五郎展」の見学は終わりました。充実した展示内容でした。

帰りがけに受付で「どこから来られましたか」と声をかけられましたので、「広島からです」と答えた後「ずいぶん前に森滝春子さんから、この美術館のことを聞いていましたので、何時か来たいと思っていました」と話したところ、「ちょっと待ってください」と言われるので、その場で待っていると別の部屋から女性が出てこられました。ここからびっくりする思いがけない出会いを体験することになりましたが、その話は明日以降にします。

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2023年8月27日 (日)

「加藤友三郎没後100年記念シンポジウム」成功裏に終了

県原水禁代表委員の秋葉忠利さんが中心になって準備を進めてきた「加藤友三郎没後100年記念シンポジウム」は、広島大学病院YHRPミュージアムを会場に、会場参加者約100名、ライブ配信の視聴回数は247回で、昨日成功裏のうちに終了しました。

シンポジウムは、「『広島・日本の誇り』を未来世代に」のタイトルのとおり、加藤友三郎の果たしてきた業績や思想をたどり、今の時代にどう生かしていくのか、一人ひとりの参加者が、考える機会となりました。

午前11時からスタッフが集合し、椅子を並べるなどの会場作りから始まり、1時間足らずで、100席あまりの座席が準備されました。

午後1時から、あらかじめ予約をした参加者の受付を開始、予定された午後1時半には会場はほぼ満席となり、門田よしこ広島市議の司会でシンポジウムは無事スタートしました。

その後のプログラムです。

須磨夢子さんのピアノ独奏:ショパンポロネーズ「英雄」

記念講演は、「海軍大将加藤友三郎と軍縮時代」の著書がある政治学者工藤美知尋さんのお話です。「加藤がもう少し長生きをしていたら、加藤の思想が継承されていたら太平洋戦争は違う流れになったと思われる」と加藤友三郎が断行した「軍縮」の思想を評価。

15分の休憩を挟んでこのシンポジウムのメインとも言える5人のパネリストによる「友三郎への思いを語り未来へどうつなげるのかを提案する」のパネルディスカッションが行われました。

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進行は、秋葉さん。他の4人のパネリストは次のみなさんです。

三牧聖子(同志社大学大学院グローバル・スタディーズ研究科准教授):「考えの違う相手とも対話をすることが重要」

小橋逸雄(加藤友三郎顕彰会副理事長):「事前の根回しをきちんとしていたからこそ軍縮会議で大胆な妥協し成功させることができた」

大井赤亥(政治学者):「今政治の中において、市民一人ひとりがどのように考えるのかが問われている」

加藤礼愛(広島大学教育学部音楽文化系コース4年):「このシンポジウムへの参加することになって初めて広島の出身である加藤友三郎のことを知ることになった。教育の中で、もっと加藤のことを伝えていくことが必要では」

最後に秋葉さんが「オッペンハイマーは『原爆の父』として国内で英雄視されているが『軍縮宰相』とよばれる友三郎は、英雄どころか知っている人さえ少ないのはなぜか?と三段階で解説し『歴史の真実とその背景を考え直そう』」と提起しました。

このシンポジウムを通じて繰り返し強調された「広島市民の中でもほとんど知られていない加藤友三郎のことを、少しでも多くの人たちに知ってほしい」という思いが、参加者に伝わるシンポジウムとなりました。

私の能力では、十分に発言者の思いを伝えることができませんが、シンポジウムの様子は、後日YouTubeにアップされることになっていまので、アップされ次第でこのブログでも紹介しますので、ぜひそちらを見てください。

いのちとうとし

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2023年8月26日 (土)

「在ブラジル原爆被爆者協会資料」特別展

「在ブラジル原爆被爆者協会」が、広島県医師会に寄贈した「南米被爆者に関する資料」の展示が、今月の6日から東区二葉の里にある広島県医師会館1階ロビーで行われています。

先日、その特別展を見に行ってきました。

「南米被爆者に関する資料」は、広島県医師会が広島県医師会館1階ロビーに昨年8月4日にオープンした「被爆者伝承コーナー」の一角に展示用ケースを増設して「被爆者と医師 太平洋を越えて」のタイトルで展示されています。

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ロビーの「被爆者伝承コーナー」と看板が付けられた壁面に、広島大学原爆放射線医科学研究所久保田明子さんの「在南米原爆被爆者調査について」のタイトルで、「①はじめに②調査の概要③被爆時の健康被害④家族の被害⑤健康と生活の影響⑥自由記述⑦終わりに:調査から見えてくるもの」の7項目にわたって、資料からの分析がパネルで表示されています。その全文は、会場に置かれたパンフレットに掲載されていますので、会場で入手することができます。

調査の概要には、1988年にブラジル、ボリビア、アルゼンチン、パラグアイ、ペルーの南米5カ国の被爆者188人に対して協力を求め、1989年3月末に回答のあった139名分をまとめたことが記されています。それによると、広島での被爆者が62%、長崎での被爆者が38%となっています。

広島県が行った在南米被爆者への検診事業は1985年から開始されていますので、この健診事業が、実態調査の契機となったことがわかります。

南米5カ国と書きましたが、その調査は在ブルジル被爆者の皆さんによって進められました。なお、在ブラジル原爆被爆者協会は、1984年に結成され、2008年8月に「ブラジル被爆者平和協会」に2020年末に解散しています。

「南米被爆者に関する資料」は、上記写真の一番右奥の展示ケースに展示されています。

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このコーナーには、二つの展示ケースが設定されています。向かって左側展示ケースには、米国被爆者協会が行った「在米被爆者調査書」が展示されています。

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その資料には、長く米国被爆者協会の会長を務められた倉本寛司さんの名前が書かれています。

この資料を参考にして、在南米原爆被爆者の実態調査が行われましたので、在ブラジル被爆者協会の保存されていたのです。

向かって右側の展示ケースに、在南米被爆者調査の各種資料が展示されています。

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この他にも、在ブラジル被爆者協会会長の森田隆・森田綾子著「ブラジル・南米被爆者の歩み」や広島県医師会刊「広島県医師会在米原爆被爆者検診事業推進30周年記念誌」なども展示されています。

見た感想では、スペースの関係もあり、医師会だから仕方のないことかも知れませんが、健康調査に関する資料のみに限られていましたので、被爆者協会としての活動の歩みに関する資料も展示されれば良かったなと感じました。

まだ資料を調査中のようですから、全てが完了した時点で、何らかの方法で全資料が公開されればと思います。

帰宅後、「在ブラジル原爆被爆者協会資料」特別展の様子を在ブラジル原爆被爆者協会の皆さんに連絡したところ、森田隆さんの娘さんから「父もまだどうにか元気でいます」との嬉しいメールが届きました。

いのちとうとし

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2023年8月25日 (金)

上関町へ中間貯蔵施設建設の動き

8月1日の昼ニュースが、中国電力と関西電力が共同して上関町に使用済み核燃料の中間貯蔵施設を建設するための調査を行うと報じました。

西哲夫(にし てつお)上関町長もこの時点では、中間貯蔵施設だということは明確にしませんでした。町民の中で、このことを知っている人は少なかったと思います。

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しかし上関町が中間貯蔵施設というか、核のゴミ捨て場になる恐れがあるというのは、何年も前から巧妙に仕組まれたものだったのです。

ぼくが初めてこの動きを知ったのは、21年11月号の「エネルギーフォーラム」という月間誌でした。この本は「株式会社・エネルギーフォーラム」という出版社が発行している物で、「我が国唯一の総合エネルギー専門誌」と宣伝しています。原発問題を専門的に扱うものではありませんが、原発推進には間違いありません。

この号の12ページに『「最終処分」議論が前進か 調査検討で注目の自治体は』というタイトルで「上関町」が名指しされていました。エネルギーフォーラムのこの記事のことは、すぐに山口県議会でも取り上げられました。しかし当時の上関町長は全面否定していましたし、一般紙は何も書きませんでした。そして福井県にある業界紙『北陸政界』が、関西電力の使用済み核燃料の中間貯蔵施設について「隠密裏に進む」と書き、このなかでも上関町が名指しされていました。

そして19年10月には、上関町議の原発反対・賛成も一緒になって茨城県東海村の中間貯蔵施設を視察し、その2年後の21年11月には、青森県むつ市に建設中の中間貯蔵施設を視察に行きました。応対した行政機関の方からは「おたく(上関町)は、原発を作られようとしているのではないのですか。こういう(核燃料サイクル)施設にも関心をお持ちなのですね」と、まさに皮肉ぽっく言われていたのです。その時の町議会議長が、西哲夫現町長だったのです。コロナ禍の中で、まさに呉越同舟の旅が行われたのです。

それでも町内では、公けに原発賛否の両方から、中間貯蔵施設の話しは議論が起きなかったのです。

今年になって早々の2月7日、西町長は西村経産大臣と面談をしています。そして4月28日に閣議決定した「特定放射性廃棄物の最終処分に関する基本方針」は、中間貯蔵施設について、「促進するこことし、そのための国の取組を強化する」と明記しているのです。「取組を強化する」とは金しかありません。

鹿砦社(ろくさいしゃ)から出ている、「季節」という本がありますが、ぼくはその夏号に、“唯一の「新設」計画地、上関原発建設反対運動の41年”というタイトルで書きました。その最後の部分に、上関町が中間貯蔵施設に狙われていることを書いていました。

青森県六ヶ所村の再処理工場が運転開始の目途が無い中、中間貯蔵施設が最終貯蔵施設になる恐れがとっても強いのです。広島市中心部からたったの80キロ少しのところを核のゴミ捨て場にしたくありません。上関町からは毎日のように海産物が広島にも運ばれており、スーパーや魚屋さんを通じて私たちの食卓に運ばれ、楽しませてくれているのです。

使用済み核燃料が厄介な物であることは、誰もが知っていることです。これまで、この厄介な物を作らせてきた責任はみんなが負うにしても、もうこれ以上作らないことです。後世の人たちから恨まれたくありません。

木原省治

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2023年8月24日 (木)

三原地区・府中地区の8月の「19日行動」

【三原地区】

 8月19日の定例「19日行動」は、17時30分から三原駅前において街頭行動を行いました。今月は広島・長崎への原爆投下、アジア・太平洋戦争の敗戦から78年を迎えて、二度と戦争をしないことを改めて誓って12人が街頭に立ち、4人の弁士が意見を述べました。

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今回は、齋尾和望さん(九条の会・三原)のスピーチを紹介します。

「この頃、「新しい戦前」という言葉が新聞紙上で取り上げられるようになってきた。今の日本の政治状況ではないのかと思う。この新しい戦前を煽るような行動が先ごろの自民党麻生副総裁の台湾訪問ではないか。日本は中華人民共和国に対して反攻作戦を行ってきたが1972年、日中共同声明・日中友好平和条約を締結し、戦後の後始末を行ってきた。それに伴い台湾との国交が止まっている。そういう関係からすると日本の政府・要人が台湾に行くことは基本的にあってはならないが今回、麻生副総裁は台湾を訪問した。こともあろうに「戦う覚悟を持とう」という言葉を使った。また来年の総統選挙では、台湾の独立を見いだせるような人を選ぶべきだとも話したようだ。まさに台湾に戦争を仕掛けるような発言である。もちろん中国は反発している。この時期ほっとけない問題発言である。

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憲法を守る、戦争を絶対してはいけないという立場の私たち市民はこの発言を認めるわけにはいかない。日本の取るべき方向は、憲法の精神にのっとって紛争が起こる前にちゃんと話し合いをして紛争が起こらないようにすること。これが日本国憲法の精神(「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起きることのないようにすることを決意」)である。そういう意味でも積極的に中国へ行くべきであり朝鮮にも行くべきである。これが日本の考え方ではないのか。日中問題・日朝問題、憲法の精神に基づき、話し合いをすれば必ず明かりが見えてくる。力づくで、軍事力で平和は守れない。これは過去の歴史が証明している。日本のあるべき立場は、あくまでも話し合って紛争を解決すること。そういう方向になってほしい。今回の麻生副総裁の発言から改めてそう思った。新しい戦前が本当に戦中になってはならない。憲法の精神にのっとって、話し合いをする方向で取り組んでもらいたい。私たちはそのことを支持し、これからもそういう思いで憲法を守る・戦争をさせない行動を行っていきたい。」

藤本講治

【府中地区】

安保法制に反対する府中市民の会は、今月も午後3時30分から上下Aコープ前7人、5時から府中天満屋店前6人で、リレートークとスタンディングをそれぞれ30分間行いました。

Aさん

山口県の上関町の使用済み核燃料の中間貯蔵施設の建設調査を、町長の判断で受け入れる決め方は民主主義ではありません。マイナンバーカードの保険証問題同様決めたことなんだから従えという国のやり方と同じです。もともと福井県知事から関西電力に「なぜ福井県だけに中間貯蔵施設を押し付けるのか、県外に貯蔵施設をつくれ」と迫られて行っているものです。中間貯蔵施設と言われていますが青森県六ケ所村に建設された再処理工場が稼働していませんので、中間貯蔵施設は最終処分場になることは明らかです。調査も建設も許してはなりません。反対の声を上げていきましょう。

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Bさん

中国電力は関電に闇カルテルに誘われたものの関西電力に裏切られ、公正取引委員会から707億円を超える課徴金を命じられました。普通であれば関西電力の中間貯蔵施設建設に応じないはずです。個々の会社の経営ではなく背後に国の意思があり、国の判断に行われていることは明らかです。原発は国策であって上関町に押し付けてきています。国民全体が反対の意思を示さなくてはなりません。

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Cさん

いま政府が進めている電気の安定的な供給を確保するため原子力発電所を再稼働させようとしています。また稼働年数を40年から60年に延長しようとしていますが安全に稼働できる訳がありません。日本はどこでも地震が起きており安全性が確保できません。

また核燃料のごみを再処理するところがありません。いまその核のゴミの中間貯蔵施設を山口県の上関町に建設しようとしています。私は絶対反対です。原子力発電や火力発電に頼らない太陽光発電や水力発電、風力発電の小さくコンパクトな施設で電気をつくるようにしたらどうでしょうか。原子力発電は事故が起きれば取り返しのつかない事態になります。

さらに福島原発事故によるトリチウム汚染水を薄めて海に放出すると岸田首相は決めましたが、漁民は反対しています。汚染水を薄めても魚など動物の体に影響を及ぼすものです。絶対に汚染水を海に放出することは許されるものではありません。新たなドーム型の大型タンクを新設すれば解決するといわれており、その用地もあるそうです。東京電力と政府に汚染水の海洋投棄反対を強く申し入れましょう。

小川敏男

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2023年8月23日 (水)

2023.8月のブルーベリー農園その3

お盆を挟んで安芸の郷は山の日から6連休でブルーベリーの選別作業はお休みとなるが、東広島市豊栄町のブルーベリー農園には15日を除いて途切れずブルーベリー摘み取りの援農のグループがお見えになる。摘み取ったブルーベリーを安芸の郷のプレハブ冷蔵庫に納品し続けてお盆明けから予約注文のブルーベリーの生食の選別作業が忙しく続いた。今夏は雨がほとんど降らないのでブルーベリーの実の状態も良くて、20日の日曜日にはたくさんの援農グループが来園し、ブルーベリーの需要にこたえられる量の確保ができてこの農園と安芸の郷のつながりがよく機能している夏となっている。農園は残暑厳しい中でもそろそろ初秋の気配が漂う。

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8月14日(月)

道路下のブルーベリー畑の水路に水が停滞していたので溝さらいをした。

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8月16日(水)

広島市中区の障害者の事業所の皆さんがブルーベリーの摘み取りに来園。帰り際、農園のブルーベリー整理で出た実がついた枝を見せると「きれい」といって持ち帰る若者。

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農園の庭のハギの花が咲きだした。この花は秋を感じさせる。

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8月19日(土)

農園のブルーベリー畑ののり面のサクラは葉がかなり少なくなり、かさかさ状態。空はすじ雲も見えて初秋の気配が漂う。

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8月20日(日)

この日は援農グループがこの夏一番多くて、5か所あるブルーベリー園のそれぞれに入って摘み取りして頂いた。

①、一番下の畑で摘み取りをするグループ。いつも10人を超える人達で今シーズン2回目の来園。

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②、里山の東側で摘み取りをする5人のグループ。今シーズン2回目の来園。

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③、昼になったので休憩。畑の出口で首にかけた籠の中の実の様子を見る10人のグループも今シーズン2回目の来園。

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④、昼休み前。摘み取りから帰って水場で手を洗い、顔を洗い、水を飲む。井戸水なので冷たくて「気持ちいい」。

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⑤、友人、知人のグループ。午後の摘み取りが終わり里山からコンテナに入ったブルーベリーを運ぶ。休憩では農園が作るブルーベリージュースをみんなでごくりしてホットになった体を冷やしていただく。

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⑥、援農の皆さんが帰った後、摘み取りに使う籠やコンテナを洗って竿に干す。たくさんのブルーベリーの実は別便で安芸の郷のプレハブ型の冷蔵庫に納品された。

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里山に毎年咲く花だが、ネットで調べてもヒットしない。名前知らず。

2023年823

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年8月22日 (火)

「加藤友三郎没後100年祭」に参列しました。

先週の土曜日の8月19日午前11時から大手町第2公園に建つ「加藤友三郎生誕地碑」の前で、NOP法人加藤友三郎顕彰会主催の「加藤友三郎没後100年祭」が、挙行されました。

「加藤友三郎生誕地碑」については、このブログの今年1月4日「加藤友三郎生誕地碑: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」で紹介しました。

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軍備縮小を進めた加藤友三郎が、内閣総理大臣在職中のまま死去したのが、100年前の8月24日です。その功績を偲び、継承しようということで挙行されたのが、「加藤友三郎没後100年祭」です。

この祭典に参加することになったのは、今月26日に開催される「加藤友三郎没後100年記念シンポジウム」の実行委員会のメンバーとして「加藤友三郎顕彰会」の皆さんと知り合いになったことと、会場がわが家からすぐ近くだということもあったからです。

「加藤友三郎没後100年記念シンポジウム」の詳細は、実行委員会のホームページ加藤友三郎没後100年記念シンポジウム、広島、加藤友三郎 | 加藤友三郎 (katotomosaburo.com)を参照してください。

「加藤友三郎没後100年祭」lは、東区双葉の里の東照宮の宮司による祝詞から始まりました。ただ、マイクを使わずの進行でしたので、一番後ろにいた私には、全く聞き取ることができませんでした。何度か起立して、頭を垂れたことだけが記憶に残っています。式典は、約30分で終了し、その後全員で記念写真を撮って、誕生碑前での行事は終了しました。参加者は、暑い中でしたが約70人でした。

参加者には、お土産が用意されていました。袋の中には、1月4日のブログで紹介した中国新聞「オピニオン加藤友三郎没後100年上・下」のコピーや郷土史家田辺良平さんの「忘れてはならない8月24日」など、加藤友三郎の足跡を知ることのできる参考資料が多数同封されていました。少し重いなと思って中を見ると「広島初の総理大臣加藤友三郎没後100年祭」とラベルの貼られたお酒が入っていました。

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この式典の後、場所を移動し講演会や懇親会が行われました。講演会の講師は、1月4日付・オピニオンの執筆者中国新聞特別論説委員岩崎誠さんでしたので、聞けば良かったかなとの思いもありましたが、私は祭典だけで失礼しました。

当日、東京では加藤友三郎の墓のある青山墓地で墓前祭が行われたそうです。

26日に開催する「加藤友三郎没後100年記念シンポジウム」も、すでに会場への参加希望者は予定数に達しているようですので、一連の流れの最後として成功すると期待しています。

いのちとうとし

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2023年8月21日 (月)

ベトナムの歴史(その27-2)

ジュネーブ協定で南北分断、切り裂かれた民族

ベトミン軍の攻勢とベトナム人民の抵抗で次第に敗色濃くなってきた1954年、ディエンビエンフー戦いを前にした4月26日、ジュネーブでインドシナ和平会議が開催されました。参加国はフランス、アメリカ合衆国、イギリス、ベトナム国、カンボジア、ラオス王国、ベトナム民主共和国、ソビエト連邦、中華人民共和国です。

7月21日に成立した和平協定(ジュネーブ協定)の内容は、

①インドシナ諸国(ベトナム、カンボジア、ラオス)の独立

②停戦と停戦監視団の派遣

③ベトミン軍の南ベトナムからの撤退とフランス軍の北ベトナム、カンボジア、ラオスからの撤退

④ベトナムを17度線で南北に分離し、撤退したベトミン軍とフランス軍の勢力を再編成した上で、1956年7月に自由選挙を行い、統一を図るというものでした。

合意にはベトナム民主共和国、中華人民共和国、ソ連、フランス、イギリスが署名しましたが、アメリカとベトナム国は署名しませんでした。その後、アメリカを後ろ盾にゴ・ディン・ジエム(注1)がバオ・ダイを追放してベトナム共和国政府を樹立する一方、北ベトナムと自由選挙に関する協議を行うことを拒否したため、協定で定められた南北統一選挙は実現しませんでした。

そして、アメリカの傀儡政権であるベトナム共和国(南ベトナム)とベトナム民主共和国(北ベトナム)との間でベトナム統一をめぐる争いが起こり、アメリカ軍が本格的に軍事介入します。こうしてベトナム民主共和国および南ベトナム民族解放戦線とベトナム共和国(南ベトナム)およびアメリカ軍とその同盟軍との間でベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が戦われたのです。

南北分断、国境(軍事境界線)のまちクアンチ

 ベトナムはアメリカによって南北分断が固定化されました。その国境のまちクアンチ省はベトナム戦争が最も激しく戦われた地域で、私たち広島ベトナム平和友好協会(HVPF)が2009年の設立以降、交流を続けている省です。

2008年10月、「日越国交樹立35周年」を記念し、グエン・フー・ビン駐日特命全権大使を東広島にお迎えし記念講演会を開催しました。その時、ビン大使に「私たちが貴国と継続した交流をするとすれば、どこをお薦めでしょうか」とお訪ねしたところ、即、「クアンチ省です」とお答えになり、「クアンチは日本のヒロシマと同義語です。原爆を体験し核兵器の廃絶と平和を希求する広島の皆さんとクアンチとの交流は意義深いものになるでしょう」と話されました。

翌年のHVPF設立に先がけ訪問した先は、言うまでもなくクアンチ省です。そして旧国境線も訪れました。

 下の地図をご覧ください。非武装地帯を西から東に流れるベンハイ川と国道1号線が交差する北緯17度線に国境線が敷かれました。南北分断は当初、統一選挙が実施されるまでの2年間で終わるはずでしたが、先にも述べたようにアメリカの介入で21年間、1975年のサイゴン解放・統一まで続きました。

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地図の右上の円がベンハイ川に架かるヒエンルオン橋でハノイまで伸びる国道1号線が走っています。非武装地帯のすぐ南には米軍の強力なコンティエン戦闘基地があり、その南にはキャンプキャロル米軍砲撃基地が陣を構えています。

地図の左下、ヒエンルオン橋から南西方向、ラオス国境に続く国道9号線沿いにはケサンがあります。ここにはホーチミン・ルート(注2)の破壊を目的に1,200mの滑走路と4カ所に前衛基地を備え、45,000人の兵力を擁するケサン米軍戦闘基地がありました。1967年1月から77日間にわたる北ベトナム軍と民族解放戦線の「テト攻勢」を経て、米軍自ら基地を破壊し撤退した「ケサンの戦い」が戦われた地です。

さらに右中央に現在の省都ドンハ、その南にクアンチがあります。クアンチでは1972年5月~9月、81日間にわたる「クアンチ古城の戦い」で米軍と南ベトナム軍を撃退しました。この戦いがベトナム戦争の帰趨を制し、「パリ和平協定」、「米軍撤退」、そして75年の「サイゴン解放」へとつながる大きな転機となったのです。

クアンチはベトナム戦争の原因となった南北分断の只中、北に向かっての米軍と南ベトナム軍の最前線基地、そして「ケサンの戦い」、「クアンチ古城の戦い」に勝利し、ベトナム解放・統一への道を切り開いた聖地なのです。その聖地クアンチはベトナムの人々が平和への揺るぎない意思を表す言葉なのです。

次号ではケネディー大統領による米軍正規軍の派遣、北爆の口実となった「トンキン湾事件」など、アメリカの本格的な介入について書きたいと思います。

(注1)ゴ・ディン・ジエム:ベトナム共和国(南ベトナム)初代大統領。貴族、フランス保護(植民地)の下で阮朝の内相を務める。1945年の日本軍の「明号作戦」(仏印処理)後、亡命。1954年帰国しフランス傀儡国家ベトナム国の首相に就く。1955年アメリカの後ろ盾でベトナム共和国を樹立し初代大統領になる。

(注2)ホーチミン・ルート:ベトナム民主共和国(北ベトナム)から中立国ラオス、カンボジア領内を通りベトナム共和国(南ベトナム)に至る南ベトナム解放民族戦線への陸上兵站補給路。10年間にわたり米軍がまき続けた枯葉剤は、このホーチミン・ルートを覆うジャ ングルを枯らすことが目的だった。

(2023年8月21日、あかたつ)

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2023年8月20日 (日)

ベトナムの歴史(その27-1)

抗仏戦争勝利とアメリカの介入

1847年のダナン攻撃に始まったフランスの植民地支配に抗してきたベトナム人民が、100年余の闘いを経て1954年5月7日、ディエンビエンフーの戦いに勝利したことは4月20日の(その23)-抗仏闘争3-7で述べました。

今号はその後、アメリカの介入によるベトナム戦争が本格的に始まるまでの間について触れます。まず、当時の複雑なベトナムを理解するために、年表で振り返って見たいと思います。

1940年9月 日本軍・ベトナム侵駐、日本とフランスによるベトナム支配がはじまる

1945年3月 日本軍・フランス軍を急襲・武装解除(明号作戦)、日本の単独支配はじまる

1945年8月 日本・無条件降伏、ベトナムからの撤退はじまる

                      ホー・チ・ミンの指導による「ベトナム8月革命」(注1)

                     フランス軍の再進駐はじまる

1945年9月 ホー・チ・ミン、ベトナム民主共和国の独立を宣言

                    フランス軍、ベトナムの独立を認めずベトナム人民を弾圧しベトミン軍を攻撃、第一次インドシナ戦争勃発

1946年3月 フランスとベトナム民主共和国間でトンキン(ベトナム北部)とアンナン(ベトナム中部)はベトナム民主共和国の自治を認め、コーチシナ(ベトナム南部)は住民投票で決めるという「仏越予備協定」を締結。フランスはその一方で、ベトナム人協力者を擁立しコーチシナ協商委員会を組織。同委員会にベトナム民主共和国との統一反対を決議させ、コーチシナ共和国臨時政府を樹立

1946年6月 フランスの保護国としてコーチシナ共和国を樹立

1948年5月 ベトナム全土をフランス連合に組み込むため、ベトナム臨時中央政府を成立させる

1948年9月 朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)建国

1949年4月 北大西洋条約機構(NATO)結成

1949年6月 フランス、ベトナム民主共和国に対抗するため傀儡国家・ベトナム国(南ベトナム)を樹立したため、コーチシナ共和国(南ベトナム)は消滅

ベトナム国は阮朝の最後の皇帝であったバオ・ダイ(保大帝)を元首としたため「バオ・ダイ政権」とも呼ばれる

1949年10月 中華人民共和国建国

1950年5月 アメリカ、フランスの要請を受け軍事援助を開始。軍事顧問団も派遣

※2023年4月20日「ベトナムの歴史」(その23)-抗仏闘争-3の7

1950年6月 朝鮮戦争勃発(1953年7月~休戦)

1954年5月 ベトミン軍(ベトナム民主共和国)、ディエンビエンフーの戦いに勝利

1955年7月 インドシナ和平会議で「ジュネーブ協定」成立

1955年10月 アメリカの後ろ盾でゴ・ジン・ジェムがベトナム共和国(南ベトナム)を樹立

1956年 5月 北ベトナム、統一選挙のための協議を提案(南ベトナムは拒否)

1957年 7月 北ベトナム、統一選挙の実施の申入れ(南ベトナムは拒否)

Photo_20230818090801 クアンチで南北分断されたベトナム と ホーチミン・ルート

第一次インドシナ戦争は、フランスにとって植民地支配を復活・維持するための侵略戦争であり、ベトナムの人々にとっては解放独立の戦いでしたが、構図としてはフランス及びその傀儡政権であるベトナム国とベトナム民主共和国及びベトミン(ベトナム独立同盟)との戦いでした。

同時に、フランス軍を支援したアメリカをはじめ西側諸国にとっては共産主義の伸長を阻止する戦争であり、アジアで社会主義国として歩み始めた朝鮮民主主義人民共和国や中華人民共和国にとっては西側との戦いという性格を帯びていました。

注1)ベトナム8月革命:1945年8月13日、日本のポツダム宣言受諾が近いとの情報を得てホー・チ・ミンが「総蜂起」指令。

8月23日フエ、25日サイゴンの人民蜂起でベトミン(ベトナム独立同盟)が権力を奪取。8月30日、保大帝(バオ・ダイ)退位を宣言。日本政府がポツダム宣言に調印した9月2日に、ホー・チ・ミンはハノイ市内で大衆集会を開催し、ベトナム民主共和国の独立を宣言

(2023年8月20日、あかたつ)

【編集者】届いた「ベトナムの歴史(その27)」の原稿が少し長めでしたので、あかたつさんの了解を得て、今日と明日の2回に分けて掲載します。

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2023年8月19日 (土)

広島中央図書館企画展「いしぶみは語る」―その2

昨日のつづきで、「広島市内の碑③」からです。

「広島市内の碑③」は、地域の慰霊碑やその他さまざまな慰霊碑が紹介されています。

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取り上げられているのは、福島地区町民慰霊碑や広島県防空機動隊員慰霊碑など8つの碑です。今まで一度も訪れたことのない碑が最も多いのがこのコーナーです。初めて名前を目にする書籍も多くあります。何度か訪れようと思いながら実現していない「戸坂供養塔」もあります。少し涼しくなったら行ってみようと思います。

「広島市内の碑④」は、その他さまざまな慰霊碑のコーナーです。

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このコーナーは「韓国人原爆犠牲者慰霊碑」「移動演劇さくら隊原爆殉難碑」「原爆供養塔」など7つの碑が紹介されています。全て何度も訪れたことのある碑です。よく知られた碑だからでしょう関連する書籍も多様です。中国新聞記事も多数採用されています。

「広島市内の碑⑤」は、平和記念碑です。

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「嵐の中の母子像」「平和の鐘」「原爆の子の像」など、全て平和公園内にあるもので、なじみの碑ばかりです。やはりという感じですが、「原爆の子の像」に関する資料が多く展示されているのが、特徴的です。

同じような写真ばかりが並んでしまいましたが、これで「広島市内の碑」五つのコーナーめぐりは終わりです。

全国の原爆慰霊碑・平和記念碑も一部ですが紹介されています。

目を引くのは、「広大生による全国の原爆碑の調査」に関する展示です。昨日掲載した1枚目の写真(会場正面)の下側に展示されています。

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展示されている昨年5月16日付けの中国新聞記事から引用します。

「全国の原爆に関連した碑の分布や特徴を昨年春から調べている広島大学教育学部の社会系コース2年生の4人が、36都道府県に計544基あることを確認した。『建立背景は、地域と時期によりさまざま。どれも関係者の思いがこもっている』」

この調査の結果、最も古い碑は「戸坂供養塔 1945年」だとし「爆心地から約5キロ北にある市営墓地内に建っています。被爆直後、中心部から避難してきた多くの被災者は、戸坂国民学校(現戸坂小学校)に設置された臨時の陸軍病院に収容されました。地区で死亡した約600人を火葬した後、慰霊する目的で建立されました。」と解説が書かれています。

この文章を読んで、この碑を訪れてみなければという思いをさらに強くしました。

同じパネルに長崎で最も古い碑、長崎市長崎工業高校内に建つ「弔魂碑」についても紹介されています。

全国原爆碑リストも展示されていますので、一見の価値があります。

その他「広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)」に関する資料も多数(各コーナーで最も多い資料)展示されています。

これで「広島中央図書館企画展『いしぶみは語る』」見学の報告は終わりです。

このコーナーに隣接して(常設と思われる)「ヒロシマ文学碑」に関する展示スペースがあります。一昨日のブログ「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」で紹介した「広島文学資料室」に納められた資料の一部が展示されていると思われます。

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もう少し多くの資料が常設展示できるコーナーになればと思いながら帰宅しました。

いのちとうとし

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2023年8月18日 (金)

広島中央図書館企画展「いしぶみは語る」

「基町写真展2023」を見た帰り道、市立中央図書館2階展示ホールで開催されている「企画展 いしぶみは語る」を見に行きました。

中央図書館は、毎年8月6日を中心に被爆の実相や広島の復興を伝えるとともに、平和の尊さを共有するために、被爆体験継承事業として企画展を開催しています。

今年の企画展は、「碑(いしぶみ)」に焦点を当てて、戦後数多く建立された原爆慰霊碑や平和記念碑について、写真パネルや図書館の所蔵資料を紹介しています。会期は、9月24日までです。

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展示は、「被爆の実相」「広島市内の原爆慰霊碑・平和記念碑」「碑めぐり」「広島市内の碑」①~⑤「全国の原爆慰霊碑・平和記念碑」「広大生による全国の原爆碑の調査」「広島平和都市記念碑(原爆死没者慰霊碑)」のテーマで分類されています。

全てのコーナーごとに、「写真パネル」とともに図書館の企画らしく関連する図書館所蔵の図書が展示されているのが特徴的です。

会場に入って、右手の壁面に大きく展示されているのが「被爆の実相」コーナーです。

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平和記念資料館提供の写真パネル8枚とともに「広島原爆戦災史」全巻や体験記、被爆写真集など12冊の書籍が展示されています。

「広島市内の原爆慰霊碑・平和記念碑」のコーナーは、西尾隆昌編「広島のいしぶみはみつめる第」第1集、第2集など6冊の書籍が、「碑めぐり」のコーナーには、広島教育ジャーナル編宅和純著「ひろしま碑めぐり」などのガイドブックやピースマップなど8点が展示されています。ケースは別々ですが並んでいます。

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会場中央には、五つに分類された「市内の碑」コーナーが設けられています。

「広島市内の碑①」は、学校(学徒)関係の慰霊碑が紹介されています。

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六つの碑とそれに関連する書籍や市民が描いた原爆の絵(画像パネル)が展示されています。どれも一度は訪れたことのある碑です。書籍もなじみのものが並んでいます。

わが家の近くにある「大手町小学校・国民学校跡地記念碑」がとりあげられているのには、ちょっと驚きました。碑めぐりでも余り訪れることのない碑です。この碑の解説は、藤岡久之さんが描いた「大手町国民学校校庭。朝礼中に被爆し、焼死した生徒たち」の画像パネルです。

「広島市内の碑②」は、職場関係の慰霊碑です。

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「広島市医師会原爆殉職碑」や「広島銀行役職員物故者慰霊碑」など7つの碑と関連する書籍が展示されています。その中には、このブログでも取り上げた「広島瓦斯株式会社原爆犠牲者追憶之碑」や「日本発送電株式会社中国支店原爆殉難者慰霊碑」もあります。

次は、「広島市の碑③」ですが、ここまでで少し長くなりましたので、残りの紹介は、明日にします。

いのちとうとし

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2023年8月17日 (木)

基町写真展2023

基町資料室第4回企画展「基町写真展2023」が、8月31日までの会期で、市営基町17号アパートなど3会場で開催されています。

毎回楽しみに会場を訪れていますので、今回も行ってきました。

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基町の活性化を図るために活動を続ける「基町プロジェクト」が、2015年から基町地区内外の皆さんから懐かしい写真を提供していただく活動を開始しました。その写真を多くの人に見ていただこうと、毎年8月に「基町・昔の写真展」が開催されています。2020年からは、基町資料室の企画展「基町写真展」と名称を変えてスタートしました。

これまでに集まった写真は、5,000枚以上になっているようです。

第4回となる今年写真展のテーマは「コンティニュー」です。基町地区の「三大行事」と呼ばれている「基町地区原爆死没者慰霊盆踊り大会」「基町地区敬老会」「基町町民体育祭」などの写真が今年のメインのようです。

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会場は、3会場に分かれています。上の写真は、第3会場の様子です。通りすがりに見ることができるように展示されています。

私が興味を持ったのは、写真会場1に展示された写真です。ここには、1970年代後半に撮影された写真が展示されています。

そのうちの2枚に注目しました。

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左側に写っている写真を見てください。個別の写真撮影は禁じられています。会場風景を写すと言うことで許可をもらって写しましたので、こんな写真になりました。

右側の小さなキャブションには次のように書かれています。「馬用の水飲み場(飲水槽)。戦前の基町には軍用地が広がり、この貯水槽は軍馬のためであったと考えられる。現在、空鞘橋の東詰には、『輜重隊(しちょうたい。軍の輸送を担う)』の馬碑が復元されている。1977年/昭和52年頃」

なぜ注目したのか?サッカースタジアム予定地の発掘調査で出てきたのが、輜重隊跡でした。その中に、確かに「馬用の水飲み場」の跡が、有ったからです。1977年には、まだ水飲み場そのものが完全な形で残っていたのです。当時、近くの基町電電ビルで働いていたのですが、ここを訪れることがなかったことが今になって悔やまれます。

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上の4枚の写真は、現在の青少年センター付近の風景です。興味を持ったのは、右上の写真です。よく見ると家の中から伸びているのは、ヤナギの木です。

広島市が指定している被爆樹木の中で、最も近い(370m)場所で被爆したのが、青少年センター西側のシダレヤナギですが、この写真に写っているヤナギが、その被爆樹木だと思われます。同じ向きで同じ場所を写した現在の写真が右側に小さく添付されています.その写真を見れば間違いなく被爆シダレヤナギです。

河岸公園としてきれいに整備された後の被爆シダレヤナギしか見ていませんので、住宅が建ち並び、その住宅の中でたくましく育っていた被爆シダレヤナギの姿には、何となく感動です。

今回も懐かしい風景に出会うことができた「基町写真展」でした。

今も写真の提供があるようですので、次回が楽しみです。

いのちとうとし

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2023年8月16日 (水)

原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい

終戦記念日の8月15日、今年も「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」が、袋町のひとまちプラザで、午後2時から開催されました。

この「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」は、2002年8月15日に5人の有志によって元安橋のたもとの路上で、沖縄県人会の人たち数人が三線片手に「沖縄を返せ!沖縄に返せ」を歌い、女子生徒の「ひろしまの空」(林幸子・作)の朗読などから始まったものです。翌年からは、原爆ドームの東側・原民喜詩碑付近で朗読を中心に歌や演奏の青空集会が行われてきましたが、2013年から屋内での実施となりました。

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今年の主催者は、広島文学資料保全の会、広島花幻忌の会、四國五郎追悼の会の三団体です。

広島文学資料保全の会の土屋時子さんの司会で会はスタート。全員で黙祷した後、オープニングは、鎮魂の願いを込めたチャンゴの演奏です。演奏者は、友人のペ・ハクテさん。

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後で聞くと演奏した曲は自作とのことでした。

今年の「市民のつどい」は、サブタイトルに「グランド・ゼロの記憶 被爆作家8月6日の記録」でした。全体が、1部、2部、3部となっていましたが、全体を通してユネスコ遺産登録をめざしている原爆文学資料の4人の作家を中心にして構成されていました。

1部は、恒例の原爆作品の朗読です。

原民喜は、原爆被爆時のノートの一部、原民喜詩碑の銘文、詩「永遠のみどり」です。

大田洋子は、「屍の街」の一節。

栗原貞子は、「生ましめんかな」、「ヒロシマというとき」です。

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峠三吉は、「原爆詩集」より「序」、「8月6日」、「影」、「呼びかけ」です。

何度も聞いたものもありますが、今回も新鮮な気持ちで聞きました。

2部は、広大名誉教授で広島文学資料保全の会顧問の水島裕雅先生の講演「ヒロシマに文学資料館を設立する意義と課題」です。

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・広島の原爆資料の重要性 ・広島中央図書館に寄贈した約2万点とその後に収集された数万点の文学資料が「広島文学資料室」に納められているが、死蔵の状態 ・1981年の広島平和記念館主催の「原民喜展」で初めて原爆文学資料に接し、特に「原爆被災時のノート」に出会ったとき受けた強い感銘 ・今年一月に発表された「世界終末時計」が、後90秒となったことの危機感 ・もし文学館ができたら予想以上に核戦争が迫っている現在、世界の人々が広島を訪れ、原爆資料館に寄り、次に「言葉館」としての文学館を訪れることで、じっくりと人間の過去と未来に思いを寄せて、自分は何をすべきか、他の人に何を伝えるべきか考えてほしい ・広島の文学は、原爆だけでなく頼山陽の頃から現代に至るまで日本文学に大きな影響を与えている。例えば児童文学の鈴木三重吉、新劇運動の中心的存在である幼い顔ロルはいずれも広島市出身 ・今回広島の原爆文学資料がユネスコの「世界の遺産」に登録されれば、文学館の役割も大きくなる

そういう内容でした。

3部は、「ユネスコ「世界の遺産」登録申請の歩み」について、広大名誉教授で広島文学資料保全の会幹事の成定薫先生が、報告。これまでの2回の反省を生かし、申請書作成作業が進んでいるとのことでした。今回の申請では、新たに大田洋子の「屍の街」の初稿・原稿が加わったことが詳記されました。

もう一つの報告は、新たに登録資料に加わった「大田洋子『屍の街』(自筆原稿)」について、広島文学資料保全の会事務局次長川口悠介さんが解説。

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大田洋子「屍の街」(自筆原稿)は、現在日本近代文学館に所蔵されていること、白島九軒町で被爆し、3日間河原で野宿した後、佐伯郡玖島に逃れ執筆をはじめ、同じ年の11月に脱稿し出版しようとしたが占領下のプレスコードによって一部削除され、ようやく出版、そして1950年になって削除部分を増補し、大幅に訂正されて出版されたことなどが紹介されました。大田洋子「屍の街」(自筆原稿)は、貴重な原爆資料だということです。

いろいろと調べてみたいことが出てきた今年の「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」でした。

いのちとうとし

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2023年8月15日 (火)

2023.8月のブルーベリー農園その2

雨が降らない日が続くのでブルーベリーの実は甘さを増してくる。中でもその木の中で大きい粒で、青くなっている粒はとてもおいしい。安芸区の自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー農園に通っているが、今はブルーベリーの実の最盛期で9月上旬まで摘み取りの援農の皆さんが多くお見えになる。おかげで安芸の郷へのブルーベリーの納品も順調だ。6月の夏至を過ぎたので植物は少しずつ秋に向けて動き出す。草刈り、ブルーベリーの手入れなどをしていると行く場所行く場所でその動きを形で見ることができる。それにしても暑い日が続く。

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8月10日(木)

台風6号の影響で風がつよい。テントタープも外しておく。

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8月11日(金)

安芸の郷の事業所の就労継続支援B型あきの利用者、職員が来園。休日だが研修の日にしてブルーベリーの摘み取りを行う。ボランティアの職員も参加して大きくておいしい実を摘み取る術を練習。

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摘み取ったたくさんのブルーベリーは持ち帰ってから、ブルーベリーの選別をして宅急便で送る準備をする作業が待っている。お盆前にできるだけたくさん届けるためだ。

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8月12日(土)

農園のブルーベリー摘み取りに土木関係の仕事をしている友人家族が来園。

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その中に2人nベトナムの社員もいて、暑いなかブルーベリーの摘み取りに汗を流していただいた。昼休みには日陰になっている縁側で横になってくつろいでいた。

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農園の家の庭の池にとまるシオカラトンボ。

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8月12日(土)

ブルーベリー畑の草刈りを続けている。地面の小さな花が場所を変えると現れてくる。

①、フウロソウ

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②、ヨメナ

夏至を境に植物は秋へと移っているようだ。

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8月13日(日)

アブラゼミが里山のブルーベリー園にはたくさんいた。あちこちに抜け殻がある。日中の農園の気温は34度ありとても暑かった。それに風もないなか摘み取りや草刈りを友人たちと一緒に行った。

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オオハンゴンソウの花。この時期になると背丈は2mくらいになるものもある。そろそろ夏を見送りながら花じまい。

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農園の庭のシデコブシ。種もつけているが花芽もつけている。今から綿帽子に包まれて秋冬を経て春を待つ。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年8月14日 (月)

泉美術館「広島の記憶」

6月17日から西区商工センターの泉美術館で始まった「広島の記憶」展に行ってきました。熱心に見学する多くの来館者の姿がありました。

この展覧会の思いは、私が駄文で紹介するより、チラシの文章を紹介することの方がよくわかると思います。

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「未来に伝えてほしい歴史があります」

チラシ表面にこう書かれています。

裏面には「伝えられなかったヒロシマ」のタイトルで、次のように書かれています。

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「本展は『戦前の広島』と『占領下のヒロシマ』の2つの視点から、その歴史を考察していきます。

『戦前の広島』では、原爆により多くの記録資料は消失。奇跡的に残った資料から、軍都へと向かう戦前の広島を振り返ります。『占領下のヒロシマ』では、連合国軍の統治下にあった日本で、原爆の被害を伝えることができずプレスコードという言論統制のなか、主権が回復するまで公表できなかった事実を検証していきます。多くの写真や記事は検閲を受け、没収、廃棄されました。いま目にすることができるのは、記録者たちが守った命がけの記録なのです。

被爆当日の記録、松重美人の写真、福井芳郎のスケッチ。変わり果てた故郷を記録し続けた佐々木雄一郎。木村伊兵衛、菊池俊吉、大木実らの『LIVING HIROSHIMA』の記録。吉田初三郎が描いた『廣島原爆八連図』。被爆12年後に初めて広島を訪れ、いまだ残る原爆症の恐怖を伝えるべく撮影に挑んだ土門拳。中国新聞の報道記事や、海外報道からはキノコ雲の下の惨状を初めて伝えたジョン・ハーシーの報道記事、米国国立公文書館所蔵の目標検討委員会資料など。これらの貴重な記録を、国内外の視点から検証していきます。

その刻まれた記憶が、未来を生きる子どもたちの『平和への道標』となるために」

この展覧会では、図録が発行されています。遠くにいて、すぐには展覧会に来ることができない人が、送られてきた図録を受け取っての感想です。

「話はうかがっていましたが、現物を手にして驚きました。

まるで人類の歴史に永遠に残る『ヒロシマ』を集大成したような素晴らしい図録ですね。それも過不足ない重要な事象がコンパクトにまとめられていて、まるで『被爆前の広島』と『被爆後の広島』が再現されているようです。こうした図録が地方の一美術館によってつくられたとは驚きです。多くの方々の協力があったからでしょう。

出来れば、全国の主要な図書館に配布して、多くの国民に見てもらいたいですね。それには金がかかりますから無理だとは思いますが。」

この感想から、この展覧会の意味、規模を想像してください。

これだけの資料を集めるのには、どれだけの苦労があったのだろうか?想像も付かないほどの資料の数々です。

「広島の記憶」展は、今月27日まで開催されています。私たち(友人と私の家族との4人で行きました)もそうでしたが、少しゆっくり見ると、1時間半以上かかります。

いのちとうとし

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2023年8月13日 (日)

「世界の子どもの平和のための美術展」(せこへい美術館)

11日付け中国新聞の「情報交差点・展示」を見ていると「世界の子どもの平和のための美術展」(せこへい美術館)が、16日まで県民文化センターで開催されていることが案内されていました。

 旧日銀広島支店の建物で開催されたこの美術館に何度か足を運んだことがありましたので、その日の午後1時過ぎに会場に行ってみました。

 地下1階の第1展示室に行ってみると何か様子が変です。カキ船問題を一緒に取り組んだ人たちの姿見えましたので、「まだですか」と声をかけました。「今日は、午後3時にオープンをします。今準備中なんですよ」との返答。

中国新聞には、その日の午後からのオープンということで、「世界の子どもの平和のための美術展 せこへい美術館」は、まだ準備中だったのです。

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オープン(午後3時)までには少し時間がありますので、いったん会場を後にし、この美術展の原点とも言える旧広島市民球場跡地(現ひろしまゲートパーク)に、2001年8月6日に建立された「世界の子どもの平和像」を見に行きました。この像には、「核も戦争もない21世紀の実現を願うヒロシマの子どもたちの愛と平和のメッセージ」を伝えるために作られたものです。

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「世界の子どもの平和像」が完成した後、これに関わった高校生たちが、「像を作ったから終わりではなく、続けて行動することが大切ではないか」と訴え、翌年から始まったのがこの「せこへい美術館」です。

別の用事を済ませて午後4時過ぎ、再び会場を訪れました。オープンセレモニーが終わったばかりだったからでしょうか、会場には多くの人の姿がありました。報道関係者の姿もあります。

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世界の子どもたちの絵、招待作家の展示コーナー、セミパラチンスクの写真展、沖縄の子どもの絵、ユニセクの活動紹介などが展示されていますが、メインは、9枚?のボディ・マッピングです。

ボディ・マッピングとは、畳一帖大の紙に、体の輪郭を型取って、その人のこれまでの体験した出来事、心身で感じる痛みや喜び、大切な思いや将来の希望などを身体図にマッピングしていくアートのことです。今回の作品は、被爆者の方たちです。被爆者の話を聞きながら高校生が、被爆者と一緒にその人生をマッピングしたそうです。

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写真は、そのうちの3枚です。1枚1枚をゆっくり見ると良いと思います。

展示を見ていた気になったことがあります。

イラク、カザフスタン、パレスチナ、フランス、シリア、エクアドル、カンボジアから送られてきた子どもたちの絵の中に、ウクライナの子どもたちの絵がありました。

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他の国の子どもたちの絵と比べると、大きな違いが目に付きます。戦争の場面を描いた絵がほとんどです。戦車、傷ついた兵士の姿、爆撃によって燃えあがる街、住宅。これが今、ウクライナのこともたちが描く平和の絵なのです。

早く、他国の子どもたちと同じように花や、ハトなどが描けるように「即時の停戦・休戦」が必要だと痛感します。

「世界の子どもの平和のための美術展」(せこへい美術館)は、16日まで午前9時から午後5時まで開館しています。近くまで出かけたら一度会場に行ってみてください。

いのちとうとし

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2023年8月12日 (土)

岸田首相の芳名録

昨日紹介した「原爆の絵画展」と同じフロアーの並びの部屋で「G7広島サミット回想展」が開催されていましたので、各国首脳が記帳した芳名録を見てみようかなと思い、ちょっと会場を覗いてみました。

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芳名録は、写真左手奥の写真パネルの下に展示されていました。この回想展の当初は、実物が展示されていたようですが、私が行ったときには複製に置き換えられていました。

興味を持って見たのは、岸田首相が書いた芳名録です。

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次のように書かれています。

「歴史に残るG7サミットの機会に議長として各国首脳とともに『核兵器のない世界』をめざすためにここに集う 日本国内閣総理大臣 岸田文雄」

何度も訪れたことがあるからかも知れませんが、そこに書かれた文言の中には、被爆者と面談した思いや遺品と対面した思いは、全く語られていません。議長としての思いも大切ですが、語られるべきは、一人の人間としての思いはなかったでしょうか。

これを読めば、「広島ビジョン」に被爆者が一言も語られなかったのは、当然のことのようにも思えてきます。ましてや、核兵器保有国首脳に「もう二度と核兵器を使用することは出来ないですよね」と呼びかけることなど、あろうはずがありません。

芳名録が展示されているケースには、首脳の同伴者たちの芳名録も展示されています。

岸田裕子さんの芳名録もあります。

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「今日、皆様と共に原爆資料館を見学できた事は、大変意義深く一生心に残る出来事でした。G7広島サミットにおいて皆さんと平和への願いを共有し、核のない世界の実現に向けて前進することを心より願っています。 岸田裕子」

皆さんはどう思われますか。私は、もう何も言う気も起こりません。

ところで、この展示を見て帰宅後、録画していた何本かのビデオを見ました。その一つが、テレビ新広島が作成し8月6日に放送された「アイ アム アトミックボム サバイバー~小倉圭子が伝えつづける理由~」です。

小倉さんは、あの日5月19日にG7広島サミットで資料館を訪れた各国首脳と対面した被爆者です。

この番組には、たびたび小倉圭子さんのパートナーである小倉薫さんが登場します。そこで紹介されたエピソードの一つに、資料館見学後、参観者が自由に感想を書く「対話ノート」がありました。

この「対話ノート」を提唱したのが、当時原爆資料館の館長だった小倉薫さんだったのです。

テレビの画面には、最初の対話ノートが映し出されました。

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表紙には、「10.15~11.8 1970」と書かれています。15の文字の下には斜線で消した19の文字があります。8の字もはっきりは読み取れませんが、私がかってに想像した数字です。この絵から、「対話ノート」は、1970年から始まったことがわかります。そしてわずか20日あまりで、このノートが一杯になったこともわかります。

首脳たちが、小倉圭子さんの話を聞いた後に記帳した芳名録は、この「対話ノート」と同じ役割を持っています。

不思議な思いで見たテレビ番組でした。

いのちとうとし

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2023年8月11日 (金)

今年も「原爆の絵画展」に行きました。

86日から24日まで広島国際会議場地下2階ダリアで、「聞き、描く。共に、描く。高校生が描いたヒロシマ 原爆の絵画展」が、開催されています。

今年もこの「原爆の絵画展」に行ってきました。

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原爆被害の実相を後世に伝えていくとともに、被爆体験を継承していくため、基町高校の生徒たちが、被爆体験を聴き、想像を絶する光景をどう描くが思い悩みながらも、資料を集め、証言者と何度も打合せを行い、約一年かけて描き上げたのが「原爆の絵」です。

7月3日に完成披露された今年の作品は、9点です。会場には、9点全てが展示されています。

全ての作品を紹介したいのですが、ここでは新作のうち最初に展示されていた作品を紹介します。

タイトルは「赤子を抱き、腕から血を噴き出しながら『助けてー』と叫んでいる母親」です。被爆体験証言者は山瀬淳子さん、制作者は木村光希さんです。

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作品一枚一枚に、説明文や生徒、被爆体験証言者のコメントが書かれてパネルが展示されています。

この絵には、次のような説明が付いています。

描いた場面の説明「原爆投下後間もなく、隣のおばさんが幼児を抱き抱え、山瀬さんの家の前のバス道路で『助けてェー、助けてェー』と叫んでいて、左手から血を噴き出していました。近所の人は、パニック状態で、誰も助ける余裕がなかった。」

生徒のコメント「『助けて』と叫ぶ表情、血が噴き出している、赤ちゃんを抱きかかえているという三つの大切な要素を1つ1つ、どうやって表現するかということに苦労しました。人物が主役になる絵だったので、出来るだけリアルに描くことを意識しました。原爆の絵を通して、広島に住む高校生として、山瀬さんのお話を絵で表現し、平和について向き合う機会を得られて良かったです。少しでも多くの若い世代の人や広島県外に住んでいる人の目にとまれば良いなと思います。」

被爆体験証言者のコメント「顔合わせの時には、言葉ではなかなか伝えにくい場面、状況の映像をどうにか言葉で伝えるつもりでした。その絵の制作途中では、絵を見ながら意見を交わしたり、メールで画像を送ってもらって確認しました。絵がほぼ完成の段階で訂正を求めたりもしました。大変申し訳なく思っております。お陰様で被爆の悲惨さが伝わる良い絵に仕上げていただきました。ご苦労様でした。有り難うございました。感謝。」

制作者と被爆体験証言者、二人が葛藤しながら作品を仕上げたことが伝わってきます。

全ての作品に同じような説明文が付けられていますので、一つ一つ読んでいくとかなりの時間がかかりますので、今回は、新作9点を中心に読み進んでいきました。

ただ、この説明文は作者、被爆体験証言者の思いが知ることが出来、絵をより理解することが出来ますので、少しでも多く読んで欲しいなと思います。

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これまでに完成した作品は、191点。作成に協力した被爆体験証言者は、31人です。

今回展示された作品は、約50点です。(数え忘れましたので、約としました。)

最近は、この絵が被爆証言を話すとき、当時の状況をより理解してもらうために使われているようです。

今月24日まで開催されていますので、ぜひ見に行ってください。

いのちとうとし

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2023年8月10日 (木)

『サミット前、サミット後』を感じた、78周年「原爆の日」

酷暑の中、78周年の「原爆の日」を乗り越えることができました。この暑さの中、全国から全世界から多くの人たち広島に来ていました。この地から何かを得たい、学びたいという姿に受け入れる側の者として、その責任を新たにしました。

8月5日・7日には、平和公園内の碑めぐりガイドという役目もありました。この時期は、労働組合や〇〇市(町)平和使節団という人たちで、とっても有意義な出会いを得ることができたと思います。

碑めぐりだけでなく、原水爆禁止世界大会や市民団体の集会などへの参加、恒例になっている8月6日早朝の中国電力本社前の「反原発座り込み集会」、全国からやって来た友だちとの飲み会、新しい出会いも多くあり、とっても楽しい時間となりました。

初めて会った人と、「それではまたどこかで会いましょうね」と挨拶をし、握手を交わして笑顔で別れる時、長い間この活動を行ってきたことの、まさに醍醐味と感じます。中村雅俊さんの歌『ただお前がいい』の一部、「また会う約束などすることもなく、それじゃまたなと別れる時のお前がいい」を思い出します。

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5月に広島市でサミットが開催され、この国の平和運動について『サミット前』、『サミット後』ということを感じるのです。この区切りに明確な線が在る訳ではないのですが。

サミットを終えての感想で、カナダ在住の被爆者サーロー節子さんが、「広島サミットは大きな失敗だった、首脳たちの声明からは体温や脈拍を感じなかった」と断じておられました。首脳たちの声明とは「広島ビジョン」を指しているのだろうと思いますが、体温や脈拍を期待していたことが、サーローさんの優しさと、言葉が悪いのですが「お人好し」だったと思うのです。

今さらという思いもありますが、私たちの「お人好し」が分かったことが、広島サミットから得ることのできた、「成果」と「教訓」であったとも思っているのです。

平和公園を訪れる人に、外国人の姿がとっても多くなりました。そのシーズンになれば修学旅行生の姿も多いです。一方で平和公園沿いの道で、核兵器禁止条約制定署名を集める街頭宣伝をやっていたら、私たちに対し「核兵器は要るわいのー」「時代遅れのことを言うな」という意味の言葉を掛けられることがあります。

その数はすごく多いということではありませんが、以前に比べるとそれなりに有るようになりました。これは中国やロシアの「脅威」ということが宣伝されすぎて、軍備増強の方向に舵を切ろうとしている政権の魂胆が強く作用しているように思うのです。

広島・長崎の体験が根底にあるこの国の平和運動、平和を脅かしているものが、明確で且つ具体的な姿で見え始めている今、新たな教訓を与えてくれたのではないでしょうか。でもそれはかなり以前から言われてきたものだとも、思っています。

山口県上関町に使用済み核燃料の中間貯蔵施設を作るための調査を、中国電力と関西電力が共同事業として行うというニュースが入ってきました。上関町長は初めて聞いたようなコメントをしていますが、この計画は巧妙に準備されたものです。そのことを「寝耳に水」というような表現をすることこそ、原発開発の「うさん臭さ」を感じるのです。

そして中国電力と関西電力によるカルテル事件でも、新たな展開が出てきました。それが1年中で一番忙しいこの時に明らかになったこと、多くの人から質問やメディアからの取材がありました。この問題については、次号で書きたいと思っています。

木原省治

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2023年8月 9日 (水)

被爆78周年原水禁世界大会広島大会

2日を最後に、私・いのちとうとしのブログアップを休止していましたが、今日から再開します。

4日から6日にかけて開催された「被爆78周年原水禁世界大会広島大会」は、開会総会に2100人が参加し、5日の分科会・国際シンポジウム、6日のまとめ集会と、無事に終了しました。

今日は、少し遅くなりましたが、まとめ集会(600人参加)で採択された「広島・アピール」を紹介します。

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被爆78周年原水爆禁止世界大会・広島大会「ヒロシマ・アピール」

 1945年8月6日午前8時15分、広島に投下された原子爆弾は、強烈な「熱線」、「爆風」、「放射線」のもと、その年の内に14万人もの生命を奪い去りました。あの日から78年、被爆者の高齢化は進み、限られた時間の中で、被爆2世・3世も含めた援護対策の充実と国家の責任を明確にすることが急務となっています。

ロシアによるウクライナ侵攻から1年5ヵ月以上が経過し、今なお多くの生命が奪われています。この侵攻では核施設が標的となり、核兵器の使用や威嚇発言も繰り返されるなど、核被害の危険性がかつてなく高まっています。平和の実現のために、外交努力による即時停戦をさらに強く希求していきます。

2023年5月19日から5月21日にかけてG7広島サミットが開催されました。岸田首相がこだわった被爆地広島での開催でしたが、サミットで出された「核軍縮に関する広島ビジョン」は核廃絶どころか、核兵器禁止条約や核兵器の先制不使用宣言にも全く言及されておらず、核による抑止力と北大西洋条約機構の核共有を正当化しただけの許しがたいものでした。

核兵器を所持することが核抑止になることは絶対にありません。被爆の実相こそが、核兵器使用を思いとどまらせてきた最大で唯一の核抑止力であるということを、改めて強く社会に発信していく必要があります。

そして、これからも「核と人類は共存できない」ことを基本に核兵器廃絶への動きを前進させなければいけません。

2022年1216日に政府は安全保障関連3文書を改定しました。これは沖縄を中心とした南西諸島を戦場にする恐れがあるものであり、これまでの日本の専守防衛を逸脱した軍拡と改憲をさらに助長する危険な状況となっています。

外交努力による国際社会の平和の構築こそが日本国憲法のめざす理念であり、軍備拡大政策を進める岸田政権に反対の声を上げ続けていきます。

東日本大震災・福島第一原発事故から12年が経過しましたが、いまだに「原子力緊急事態宣言」も解除できず、原発事故の「風化」も懸念されています。この中で、政府は放射能汚染水の海洋放出を強行しようとしています。関係者や近隣周辺国からも反対の意思が示されており、海洋放出を断じて許してはなりません。政府が「原発60年超の運転」を可能とするなど、原発回帰を鮮明にするなか、山口県上関町では中国電力と関西電力が使用済燃料の中間貯蔵施設を建設する方針を示しました。私たちはこれからも全ての原発の廃炉と再生可能エネルギーへの転換を強く求めていきます。

原水禁運動の原点は被爆の実相です。しかし、子どもたちに核のない未来を実現するためには、若い世代の積極的な平和運動と、被爆の実相をつなげて、次世代へと継承していかなければなりません。

未来ある子どもたちに、「核も戦争もない平和な社会」を届ける取り組みと、次世代への継承を全力で進めていきましょう。

ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・フクシマ、

ノーモア・ウオー、 ノーモア ヒバクシャ


今日は、78年前に長崎に原爆が投下されて日ですが、台風の影響で平和記念公園での「平和祈念式典」が初めて中止となり、屋内で主催者(長崎市)のみで開催されることになったようです。

被爆78周年原水爆禁止世界大会長崎大会も昨日までの2日間の開催となり、今日予定されていた閉会総会、爆心地公園までの非核平和行進、原爆中心碑への献花、折り鶴献納、原爆投下時刻の黙祷は中止となりました。

いのちとうとし

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2023年8月 8日 (火)

2023.8月のブルーベリー農園その1

ブルーベリーの摘み取りでほぼ毎日農園に通う。今年は農福連携で西条町のエミリィプラス、福富町のしゃくなげファーム、安芸の郷の森の工房みみずく、広島市中区のあおぎりの4つの事業所の皆さんに摘み取りの援農が始まっている。そして西条町の西条農業高校からも5名の生徒の皆さんがインターンシップ農作業体験で農園が受け入れるご縁ができた。援農の皆さんの来園でにぎやかになっている。雨が降らないので、草刈りをするときに見るブルーベリーの株元の土もかちんかちんだが、ブルーベリーの実はしぼれることなく甘い実をつけてくれている。

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7月31日(月)

西条農業高校園芸科2年生の生徒のみなさん5人がこの日から4日間のインサーンシップで来園簡単な説明の後早速摘み取り作業を体験していただく。

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農園の倉庫の戸に座るアマガエル。いつまでも動かない。

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8月2日(水)

農園の周囲の田んぼではもう稲穂がたくさんの実をつけている。

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古くからの友人の山仲間のグループが来園。午後の休憩でブルーベリージュースをごくり。みなさん一様に「おいしい」。

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8月3日(木)

ブルーベリー畑全景。青い空と雲のコントラストが暑さを忘れさせてくれる。

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午前中里山に張ってあった防鳥ネットを撤去し倉庫に運ぶ西条農業高校の生徒のみなさん。自分たちで作った竹のつき棒は来年来るかもしれない後輩が使うかも・・。防鳥ネットの撤去作業は7人がかりだったので1時間ばかりで終わることができた。

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農園の庭の池のミニスイレン。手前に蕾がのぞき、そのの葉っぱにとまっているのはイトトンボ。

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8月5日(土)

一番下のブルーベリー畑の防草シートの上に生えている雑草を手作業で刈る。暑いので長くはできない。

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里山のそばの小さい畑にある富有柿の青い実が大きくなて来た。今年はたくさんなっている。

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2歳と5歳の子どもの家族がブルーベリーの摘み取りにやってきた。午前中で終わって帰るときにもう一度ブルーベリー畑の中に入ると、別のグループの摘み取りの人からおいしそうなブルーベリーの実を渡されていた。名残惜しそうな様子。

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農園からの帰り道。いつも利用している高屋町の造賀に無人の野菜売り場でトラックにスイカを売っているのを見て立ち寄り2個ほど選んでもらって買う。今日が初日らしい。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年8月 5日 (土)

ヒロシマとベトナム(その50) ~技能実習制度を考える~

安芸津で発生した技能実習生による「男児遺体遺棄事件」 ~妊娠したら帰国させられる~

4月20日、「安芸津町でベトナム人技能実習生が遺体遺棄容疑で逮捕された」というニュースが飛び込んできました。3年前、東広島市志和町で発生した同様の「事件」を機に「二度とこうした事件が起きないように」と、各地域で交流会・イベントを重ねてきました。幾度か開催した安芸津町でもベトナム人技能実習生たちも参加してくれていただけに、本当にショックでした。

皆さんも記憶に新しいと思いますが、「事件」の概要は次の通りです。

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(2023年8月3日、RCC中国放送報道より)

当時19歳の実習生(以下、Aさん)は、出国前から妊娠の可能性を認識していたが、渡航のために父親が負った借金が返済できなくなることを恐れ、妊娠を隠して10月に来日。1月20日、出産。間もなく死亡したため自室のベッドに遺体を隠したまま生活。その後、出産と男児の死亡が知られ、帰国させられるかもしれないと考え、21日、東広島市安芸津町の空き地に穴を掘って遺体を埋めて遺棄。4月18日に遺体が発見され、20日に逮捕されたという「事件」です。

未成年のため家庭裁判所に送られましたが、家裁は「異国の地で出産し、誰にも助けを求められないまま、悩みを抱え込んでいた」事情を「同情の余地が相応にある」とした一方、「わが子の死体を敬うという意識を欠き、地域社会の平穏に与えた影響も見過ごせない」、「日本語でのコミュニケーション能力が著しく低いため、保護処分による更生援助は困難で、実効性は乏しい」などとして、刑事処分が相当と地裁に逆送したものです。

懲役1年4ヶ月、執行猶予3年  ~多くの支援者が支えた裁判~

8月3日、Aさんの公判が広島地方裁判所・第304法廷で開かれ、スクラムユニオンひろしまや大学の先生、牧師や市民など支援を続けてきた皆さんと傍聴しました。以下、その裁判を報告します。

起訴内容の確認、弁護人と検察による質問、裁判官からの質問の後、検察側から「『出産すれば帰国させられる』と考え、経済的利益を優先させ遺体を埋めた犯行は自己中心的で悪質。情状の面もあるが責任は重く厳罰に処すべき」と、懲役1年6ヶ月が求刑されました。

これに対し弁護側からは、「保釈中、男児の遺骨を引き取り、反省と贖罪の思いを込め供養を続けている。管理組合や多くの支援者のサポートで日本での技能実習を継続するために日々努力しており、社会内での更正の可能性が大きく、執行猶予で更正のチャンスを」と意見が述べられました。

「最後に一言何か言いたいことがありますか」との裁判長の問いかけに、Aさんは「色んな人に迷惑をかけてしまった。異国で頑張ろうと来て、異国で犯罪を起こしてしまい申し訳ありません。子どものために毎日お祈りをしているが、どれだけ悔み、反省しても自分の言葉で言い表せない。家族や亡くなった子どものために頑張っていく」、「私がこんなことをしたのに、日本の周りの人が最大限のサポートをしてくれて、感謝の気持ちを忘れない。その方たちに恩返しをするために悪いことをせず、周りに困っている人がいたら恩返しをしていく」と話しました。

30分の休廷の後、初公判当日に裁判は結審しました。

裁判長から「懲役1年4ヶ月、ただし執行を3カ年猶予する」との主文に続き、「若年で経験が浅く、日本語も十分でなく妊娠について相談できなかったことは同情するが犯行は短絡的だ。亡くなった男児に対する行為は、一般的な宗教的感覚とも異なり責任は軽くない。しかし、前歴はなく素直に事実関係を認め、今後も支援者による支援が期待される。これらにより、直ちに刑を執行するに当たらない」と判決理由が述べられました。

判決後、裁判長からの「一つだけ伝えておきたい。今回のことで分かったと思うが、あなたの周りには多くの支援者がいる。亡くなった赤ちゃんのためにも、その人たちに力を借りて今度は道を間違うことなく過ごしてください」との言葉が印象に残りました。

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(支援カンパの呼びかけ)

「事件」はまだ終わっていない  ~彼女の人生と「事件」の背景にある課題~

Aさんを支援しカンパを寄せてくださった皆さん、本当にありがとうございました。多くの方々の物心両面にわたる支援に支えられ裁判は結審しました。

しかし、この「事件」の背景に潜む課題はまだ残っています。安芸津の「事件」が発生した翌月、5月には兵庫県篠山でもベトナム人技能実習生による同様の「事件」が起きるなど、後を絶ちません。

若いAさん人生も今からです。引き続き、Aさんが希望する日本での技能実習継続のための支援、実習を満了し元気に母国へ帰国するまでの支援を続けていきます。皆さまのご支援をあらためてお願い致します。

 2020年2月4日の「ヒロシマとベトナム」(その9)から6月6日(その13-2)まで計6回、技能実習制度の問題を取り上げました。その5ヶ月後の11月に志和町で出産間もない「幼児の遺体遺棄事件」が発生したのを受け、2021年12月5日(その19)から2021年6月5日(その25)まで7回、あらためて技能実習制度を取り上げました。

今回から幾度かにわたって3回目の「技能実習制度」シリーズを組みたいと思います。

(2023年7月5日、あかたつ)

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2023年8月 2日 (水)

非核平和行進西部コースが広島入りー大会準備進む

昨日、非核平和行進西部コースの横断幕が、山口県から広島県に引き継がれました。

午前10時からの引き継ぎ式に参加するため、JR山陽線横川駅発859分に乗って行くことにしていましたが、倒木事故でJRが不通となり、急きょ車で行くことになりました。実は、昨年も山陽線で人身事故が起こり、列車がおおはばにおくれる事態になったのですが、その時はすでに横川駅構内で列車を待っている時でしたので、引き継ぎ式に行くのを断念しました。今年は8時前に不通の情報を知りましたので、何とか引き継ぎ式に参加することが出来ました。

今年の引き継ぎ場所は、以前の引き継ぎ場所だった小瀬川にかかる栄橋から950mほど上流にある大和橋の大竹側です。昨年から変更になっていたのですが、私がこの場に立つのは初めてです。

午前10時少し前に現地に到着。5分ほど待つと対岸から街宣車の声が届きはじめ、やがてデモ行進団が進んできました。

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到着するとすぐに引き継ぎ式が始まりました。最初のあいさつは山口県原水禁林事務局長。7月7日に萩を出発し、山口県内を引き継いできたことが報告されました。続いて受け手側の広島県を代表して私から、山口県代表団へのねぎらいと「8月4日から始まる原水禁世界大会広島大会を成功させるために皆さんの思いを引き継いで行進をつづける」との決意を表明しました。そして横断幕が引き継がれました。

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いよいよ広島県側のスタートです。

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私も先頭に立たせていただき行進に参加しました。初めて歩くコースです。

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午前中とはいえ、厳しい暑さでした。

私の行進は、いつものように大竹駅付近まででした。

その後、行進は大竹市役所に到着し、入山大竹市長の激励を受けました。

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写真は、いずれも大竹市職労の宮下さんからの提供です。

連年、この日は原水禁大会用資料の袋詰め作業が同じ時刻に行われます。今年は、袋詰めする資料が少なかったこともあり、私たちが事務所に帰ったとき(11時40歩過ぎ)には、作業は終了していました。

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従来よりはずいぶん少ない量になりましたが、袋詰めされた資料は、がきちんと積まれ3日から始まる参加受付を待つことになります。

いのちとうとし

【編集者】明日以降、原水禁大会の準備、大会参加のため多忙になりブログの更新が難しくなりますので、長崎大会が終了するまでは、5日のあかたつさんの「ヒロシマとベトナム」、8日の遊川さんの「2023年8月のブルベリー農園便り1」以外は、休止します。

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2023年8月 1日 (火)

被爆ユーカリの花

今日から8月、いよいよ原水禁大会の月に入りました。今日午前10時に非核・平和行進西部コースが、大竹市の大和橋で山口県から広島県に引き継がれます。私も、県実行委員会の代表としてこの引き継ぎ式に参加します。

忙中閑ありではありませんが、今日は「ユーカリの花」の紹介です。7月7日のブログで京橋川右岸の「原民喜ゆかりの被爆ヤナギ」原民喜ゆかりの被爆シダレヤナギ: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)を紹介しました。

雑誌の記事が契機だったことを書きましたが、同じ雑誌(季刊で発行)の一つ前の号には、「広島城二の丸跡の被爆ユーカリ」が紹介されています。この記事を見て気づいたのですが、「平和を伝える木」のタイトルで、「01」「黒焦げでよみがえり、容姿を変えて生き続けるユーカリ」と書かれていますので、この号から「平和を伝える木」の連載がスタートし多たようです。「原民喜ゆかりの被爆シダレヤナギ」は、「02」となっていますので、間違いありません。次号以降、どんな被爆樹木が紹介されるのか楽しみです。

さて本題の「被爆ユーカリ」です。この被爆樹木は何度も訪れ、案内をしたことのある木ですが、記事に掲載された6枚の写真を見てびっくりしました。その一枚に「開花を待つ、つぼみ」とキャプションが付けられています。

「エッ、ユーカリに花が咲くの?」今までに何度も訪れたことのある木ですが、一度も花など見たことがありません。というより、私は今まで、花が咲くことなど想像もしたことがありませんでしたので、ちょっと意外に気がしたのです。

本文の中に「葉群の中に小さな一輪のつぼみを発見。夏には薄緑色の花を咲かせるという」と書かれています。今は夏、ひょっとすると花が咲いているのではと思い、暑い中ですが広島城まで行ってきました。

大きく枝を広げ、元気な姿を見せています。

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新しい枝も伸び、若葉が出ています。ユーカリの葉は、最初は丸みを帯びていますが、だんだんと細長く変化するそうです。

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近づいて探すと、雑誌の写真で見たのと同じつぼみが見つけることが出来ました。

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最初はつぼみを見つけるのにちょっと苦労しましたが、よく見るとたくさんのつぼみが着いています。

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残念ながら開花した花を見つけることは出来ませんでした。もう夏の盛りですが、開花には、早すぎるのでしょうか。

どんな花か気になりましたので、帰宅してネットでユーカリの花を探しました。

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色形ともいろいろありましたので、この被爆ユーカリの花がどんなものかは、見てみなければわかりませんが、今日は、つぼみがよく似ているこの花を紹介します。

原水禁大会が近づき、なかなか時間を見つけることが出来ないかも知れませんが、今回花を見ることができませんでしたが、もう一度足を運んでみようと思います。

いのちとうとし

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