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2023年7月17日 (月)

改めて考える朝鮮半島出身者の原爆犠牲者数―その2

今日は「『韓国の広島』と呼ばれる『陜川(ハプチョン)』の人々が、なぜ広島に渡ったのか」がテーマですが、一つだけ昨日の報告に付け加えることがあります。

それは、徴用によって広島に強制動員された朝鮮人労務者が、どこで働いていたかです。

韓国の「対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会」が2015年に発表した事業所ごとの人数です。当日配布された資料をコピーします。

Photo_20230716101701

表が小さくて見え難いと思いますが、クリックしていただくと拡大します。(以下に掲示する図面も)

いよいよ今日の主題である「『陜川(ハプチョン)』の人々が、なぜ広島に渡ったのか」です。

市場さんが理由の第一に上げたのは、主要幹線だけだった鉄道の交通網が、1924年には地方都市であった陜川周辺でも整備され、陜川と広島を結ぶ交通もが整備され移動が容易になったことです。

Photo_20230716145601

第二は、これが一番大きな理由ですが、日本の植民地農業政策によって、1930年代に入って陜川の農民たちが急激に窮乏化したことです。

「産米増殖計画」によって米穀単作農業への再編、紡績・製糸産業の原料確保のために綿花栽培と養蚕業を普及させるという2点を根幹とする日本による植民地農業政策が強要されたため、山岳地帯で狭い農地で人口の約9割が農業で生計を立てていた陜川では、大打撃を受けることになりました。1930年代に入って陜川の農民の窮乏化が急速に進みました。

1920年代から始まった陜川から広島への移住は、1930年代に急激に増加したのです。更に、大水害や大干ばつが、それに追打ちをかけることになりました。植民地政策による生活破壊が、移住の大きな要因だったことがわかります。

こうした事由は、陜川に限らず朝鮮半島全体で起こったことだと思われますが、それではなぜ陜川出身者が、広島に多かったのかです。朝鮮半島から日本に移住する場合、多くが血縁や地縁を頼る「鎖状移民」でした。それは、日本渡航には、日本居住者からの受け入れ証明を地元警察に提出し「渡航証明」を受け取る必要があったからでした。

そのことが「『陜川(ハプチョン)』の人々が、なぜ広島に渡ったのか」の理由だと市場さんは解説します。納得です。

しかし、市場さんの話で、私が一番興味を持ったのは次のことです。

Photo_20230716145602

上の図は、韓国原爆被害者協会の会員に対する調査で明らかになった、陜川の人々が広島市内のどこに住んでいたのかを示した地図です。黒い点が、大きく楕円形に広がっているのがわかると思います。

市場さんはこう言います。「広島市中心部の爆心地から1km以内はほとんどなく、太田川とその支流の河川敷か、山の裾野部分に集住していた。もちろん1km以内の人は、ほとんどなくなり帰国できていなかったことは考慮しなければなりませんが」と。

ここで少し説明を加えます。1978年の数字ですが、韓国原爆被害者協会の登録数で一番多い地域は陜川支部で、3,570人、全体の38%で圧倒的に多くの会員数となっています。これだけ多くの被爆者からの調査に基づいて作成された地図ですから、この地図の精度は高いと言えると思います。そのことを前提にして、次のようなことを考えました。

この地図に興味を持ったのは、私が前々から朝鮮半島出身者の犠牲者数について、提起されている資料に疑問を感じていたからです。市場さんの配付資料にも韓国原爆被害者協会が発表した1985年「被爆者総数 50,000 死亡者 30,000」、1988年「被爆者総数 70,000 死亡者 35,000」という犠牲者数が、書かれていますが、いずれも広島市の1945年末までの原爆犠牲者の比率(被爆者総数 約35万 死亡者 約14万人 率では約40%)と大きな開きがあることに、ずっと疑問を持っていました。

私の考えは、「朝鮮半島の出身者は、広島市の中心部に住んでいた人は少なく、その周辺に住まざるを得なかったのではないか。そうであれば、死亡率は平均よりも低いはずだ」ということです。ただ、これまで朝鮮半島出身者が実際にどの地域に多く住んでいたのかを示す資料を見たことがありませんでしたので、そのことに確信を持つことが出来ませんでした。

しかし今回、陜川という限られた地域の人たちの広島における居住状況ですが、一つの資料が提供されたことで、少しだけ私の疑問を解決する道に繋がるのではないかと感じました。

その意味でも、市場さんの講演「朝鮮半島出身者がなぜ故郷を遠く離れた広島・長崎で被爆しなければならなかったのか」は、有意義なものでした。

市場さんの講演の終わりは、これからの課題の提起でしたが、重要なことですので、明日紹介します。

いのちとうとし

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