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« ベトナムの歴史(その26ー1) 抗仏闘争を戦った日本兵-3 | トップページ | 府中地区の7月「19日行動」と「反核平和の火リレー」到着式 »

2023年7月21日 (金)

ベトナムの歴史(その26ー2) 抗仏闘争を戦った日本兵-3の2

大阪の中学校卒業後、職業軍人の道を歩む

話しを石井卓雄自身に戻します。まだ、これと言った新たな情報は入手できていませんが、ウィキペディアや書籍などをもとに足跡をたどってみます。

一家がいつ頃大阪に越したのかは分かりませんが、府立今宮中学校を卒業し陸軍予科士官学校に入っていますので、12歳(昭和6年、1931年)のときには大阪に暮らしていたと思われます。関東軍が自ら南満州鉄道を爆破し、「中国軍のしわざ」として満州事変に突入した柳条湖事件のあった年です。

ウィキペディアなどによると、石井卓雄の軍歴は以下です。

5.15事件」や国際連盟脱退など、きな臭く戦雲漂う世情の中、2年間の予科士官学校を経て陸軍士官学校(53)入学し、1940年2月(21歳)卒業。同期(第53期)1,365名のうち651名が戦死しています。

1941年8月、中尉に昇進、第55師団騎兵第55連帯中隊長として太平洋戦争(ビルマ戦)に従軍。194312月、陸軍大尉に昇進。19453月、第55師団参謀部付将校。6月、陸軍少佐に昇進。7月、連合軍のインドシナ侵攻に備えてビルマ戦線からカンボジアに移動、プノンペンで敗戦を迎えています。

終戦時25歳。当時、日本陸軍の「最も若い佐官」でした。

ベトナムでの足跡

石井卓雄がいつ、どこで、どのような経過でベトミン軍に加わったのかベトナムでの足跡は必ずしも明確ではありませんが、『ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越の在り方に関する研究報告』(井川一久・大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員教授)などをもとに辿っています。

1945年815日(敗戦)をプノンペンで迎え、10月中頃数人の将校や下士官・兵とともに軍用トラックでベトナム南部に侵入。ソクチャン市でDRV(ベトナム民主共和国)南部抗戦委員会に迎えられ、ロンスエン市に日本軍離隊者を集めメコンデルタ最大の都市カントーのフランス軍部隊を襲撃。その後、ベトミンの訓練と戦術指導に努めたとあります。

さらに興味深いことは、「石井らはベトナム独立戦争に参加する決意を師団司令部に告げ、その了解のもとに送別会まで開いてもらって離隊した」と書かれていることです。この記述を読む限りにおいて、石井卓雄がベトナムにとどまった理由は、抗仏戦争を戦うベトナム人民への理解や心情的共感というよりも、連合軍への徹底抗戦という職業軍人としての趣が強く、現地日本軍上層部の「思い」にも通じるものだったのではないかと考えられます。そのことは、「死後、戦没者として靖国神社に祀られている」ことを見ても覗えます。

1946年5月、石井卓雄はプノンペンから一緒だった将校たちと別れ、クアンガイ軍政学校の教官に就任します。当時、チャン・チ・ズンと名乗った石井は「寡黙だが明るく温厚な人物」(加茂徳治著『クアンガイ陸軍士官学校』、暁印書館)と評されています。

1947年後半、日本人10数名が加わる人民軍1個中隊の顧問としてフランス軍の後方攪乱作戦に従事し南部を転戦。元部下だったグエン・バン・タインの談話(1969年)により、1950年5月20日にメコン・デルタで仏軍との交戦中に戦死したと伝えられています。

下図は石井卓雄の敗戦から戦死までの5年間の足跡です。戦死したと伝えられているメコンデルタは左下、赤円の地域を指します。ちなみに私が会長を務めている一般社団法人広島ベトナム平和友好協会(HVPF)が2009年の設立以来、交流を続けているクアンチ省はクアンガイ省の北に位置します。

Photo_20230719102701

(注1)シベリア出兵

1918年~22年まで行われたイギリス・フランス・アメリカ・日本など帝国主義国による、ロシア革命に対する軍事干渉。

1918年3月の英仏軍のムルマンスク上陸に始まり、アメリカ軍・日本軍は8月、シベリアに共同で派兵した。口実はシベリアに抑留されたチェコ兵捕虜の救出であったが、ねらいは反革命軍(白軍)を支援して、ロシア革命軍(赤軍)を倒すことであった。しかし、反革命軍が崩壊し、干渉は失敗、米英仏軍はまもなく撤退。

日本軍は最大7万3,000人を派兵し、戦死者3,000~4,000人、負傷者2万人以上を出し、1922年(樺太では25年)までシベリアに留まった。

(2023年7月21日、あかたつ)

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コメント

中学校卒業とあります。4年生の時に、陸士を受験しなかったのですか。海軍兵学校は、中卒資格また、優秀者は、4年終了で、学力あれば、合格します。陸軍大臣から思っていましたが、少尉任官の書状は、内閣総理大臣からでした。また、その時の書状に正八位,,後に従七位は、宮内大臣の松平名が、あります。県から、軍歴を、貰いました。陸軍が、キチンと記録していることに、驚きました。入隊から、除隊まで。最後は参謀長の副官でした。尉官なら、誰でも、できる?参謀長は、後に旅団長で転進。。女優の馬淵晴子さんの父親です。父は、20代半ば、参謀長とは、親子ほど、年齢差があります。師団長は、副官が、必須。参謀長副官は、規則はなく、任意でした。副官をつけてもつけなくても自由。がんじがらめの軍隊でも、なかったのですね。父は、昼は、師団司令部へ、寝るときは、原隊です。将官から兵隊とまで、接しています。師団長自決の銃声を聞いています。上官から、生きて日本へ帰れ、と、言われています。5師団ですが、自決者は、師団長だけだったのだろうか.橘丸のことも、知っていました。

山下さん

コメントありがとうございます。
遅くなりました。
当時の軍隊の仕組み、もう少し勉強したいと思います。

ウキペディア、石井卓雄さんのことを、何ら疑問には、思いませんが。軍隊、死亡通知、ただの紙切れのみだったと。通知書だから、遺骨はないでしょうね。うちの場合は、無事帰還しました。確かめは、してませんが。遺髪?キチンとした上質の紙に、髪の毛が、入っているのを、見ました。遺骨替わりに、遺髪として、出征時に残していったものと、思っています。そういうことする家がありました。我が家だけが、特別にしたとは、思えません。そういう例があるので、我が家も、そのようにしたのだろうと、考えています。 あのエノラゲイ機。ア、石井卓雄さんのことを、何ら疑問には、思いませんが。軍隊、死亡通知、ただの紙切れのみだったと。通知書だから、遺骨はないでしょうね。うちの場合は、無事帰還しました。確かめは、してませんが。遺髪?キチンとした上質の紙に、髪の毛が、入っているのを、見ました。遺骨替わりに、遺髪として、出征時に残していったものと、思っています。そういうことする家がありました。我が家だけが、特別にしたとは、思えません。そういう例があるので、我が家も、そのようにしたのだろうと、考えています。 あのエノラ・ゲイ機。南から来た。思い込みは、間違いでした.四国の東の方から、瀬戸内海を飛んだ。西条・瀬野の方から、南へ飛行。ヒロシマへは一機だけではなかった。私は、知らないことが、多すぎます。

山下さん

繰り返しのコメントありがとうございます。
戦争、理不尽なことはつきません。そして正しい情報も全て知り得ているかと言えば、わからないこと、不明なことが多すぎます。
しかし、今わかっていることからだけでも、知り得ることを正しく認識することが大切ではないかと思います。
軍人には、それでも死亡の通知が届いていますが、一般人はどうでしょうか。調査もされなければ、どこでなくなったかを知るすべもない人が多くあります。
それが戦争かも知れません。だからこそ、どうしたら戦争をなくすことが出来るのかと、いつも考えます。

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