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2023年7月

2023年7月31日 (月)

2023.7月のブルーベリー農園その4

梅雨が明け暑い日が続いている中、ブルーベリーの摘み取りが本格化している。東広島市豊栄町のブルーベリー農園に、安芸区の自宅から農作業に通っているが、暑さをできるだけ避けながら、収穫作業が続く。

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7月23日(日)

剪定した枝が乾燥したので少しづつ野焼きする。

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畑の防鳥ネットを外した。

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ピンクのビニール紐をブルーベリーにかけて回る。おもに4種類あるブルーベリーのうちホームベルという品種にかけて、摘み取りのときこの品種だけ分けていくためだ。

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7月27日(木)

安芸の郷の事業所、森の工房みみずくが農園でブルーベリーの摘み取り研修が20日ら始まっている。

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摘み取ったブルーベリーをコンテナに入れて持ち帰り生食用、加工用に仕分けられる。

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農園の花壇のヤブランの花

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7月29日(土)

農園のブルーベリーの摘み取りには2組のグループがお見えになった。

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いよいよたくさんの摘み取り援農の皆さんの協力が本格化する。

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午後2時の休憩で取れたてのブルーベリーでジュースをふるまう。氷と砂糖とブルーベリーだけのシンプルジュース。

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昼前、トウモロコシがどさっと運ばれた。若いころからの西条町の友人が軽トラックでわざわざ農園に届けていただいた。早速昼ご飯の時にレンジでチンしてこの日摘み取りに来ていた人たちで頂いた。あまくておいしかった。皆さんにおすそ分けもした。

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7月29日(土)

この日は朝から昼まで、安芸の郷がオープンファームを開催した。安芸の郷の建物「森の工房AMA(安芸区矢野東)」の屋上ではブルーベリーが栽培されている。毎年夏には地域の人にブルーベリーの摘み取り体験をする行事を開催している。事前に予約を受た人が楽しんだ。食堂では天然酵母パンやブルーベリーのおジャムやジュレ、生のジュースなども販売して約200人の参加があった。

 

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年7月30日 (日)

ヒロキョレフェスタ2023

昨晩、朝鮮学園の校庭で、「広島同胞夜会 ヒロキョレフェスタ2023」が開催されました。

アイ女性会議のメンバーの誘いを受け、一緒に参加しました。

事前に送られてきたチラシによれば「ヒロ」は広島、「キョレ」は、民族を意味し、「広島の同胞がひとつに集まり、活気に満ちた社会を作ろう!」との趣旨で開催されたフェスティバルです。

開始の午後5時30分には、まだ参加者の姿はまばらでしたが、時間が経つにつれ、参加者が増えていきました。

オープニングステージは、幼稚園の子どもたちによる農楽の演舞。一生懸命に踊る姿には大きな拍手が送られます。

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入場時に食券で、飲み物、食べ物を購入し、飲食をしながらのステージでの演舞を見ました。

次は、桜ヶ丘高校和太鼓部による和太鼓の演奏です。

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桜ヶ丘高校高は、朝鮮学園の東側の丘にある学校で、校庭からもよく見えます。駅からの通学路は同じ道になりますから、親しい関係だと思います。

その後は、朝鮮学校の初級部、中級部の子どもたちの歌や演舞が続きました。

最後は、中高学部吹奏学部と声楽部の演奏でした。

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コロナの影響で、中止を余儀なくされていましたが、久しぶりのフェスティバルの開催です。

親しい知人の姿を見つける度にあいさつを交わし、旧交を温めました。

ステージでの演奏、演舞は続きましたが、紹介はここまでです。

最後は、福岡の歌舞団とヒロシマの朝鮮歌舞団の合同演奏と踊りです。

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その前に、豪華景品の当たる抽選会が行われましたが、残念ながら、同行者には全く該当なし。景品提供者の名前は、入り口にずらっと並んでつるされた提灯に書かれています。

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最後の歌舞団の歌声と踊りのときには、いつものように参加者がステージ前に集まり、手拍子や踊りの輪を作って楽しそうに参加していたのが印象的でした。

日本の人たちも何人か参加していましたが、こうした場にもっと多くの人が参加し、交流すればもっと関係が深まるのに、と思いながら会場を後にしました。

いのちとうとし

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2023年7月29日 (土)

関西電力高浜原発1号機の再稼働に抗議する原爆慰霊碑前座り込み

福井県にある関西電力の高浜原子力発電所1号機が、28日午後、原子炉を起動し、12年ぶりに再稼働させました。この原発は、来年で運転開始から50年になります。

高浜原発1号機は、1974年11月に運転を開始していますので、現在、国内でもっとも古い原発で、東京電力福島第一原子力発電所事故前の20111月に定期検査で停止して以来、126か月ぶりの再稼働です。福島第一原発の事故のあと原則40年に制限されてきた運転期間を超えて再稼働するのは、同じく福井県にある美浜原発3号機に次いで、全国で2例目です。再稼働によって、使用済み核燃料の更に増え続けることになります。

安全対策を講じたとしても、原子力発電所に、「絶対の安全はない」ことは、東京電力福島第一原子力発電所の事故が、残念ながら証明しました。そして、放出された放射能によって核被害者が生まれました。

こうした事実に向き合うことなく、原発の新たな安全神話を振りまき、原発の再稼働を行うことは、絶対に認めることは出来ません。

広島県原水禁は、関西電力の今回の原発再稼働に抗議し、全ての原発の廃炉を求めて、昨日午後6時から原爆慰霊碑前で座り込みを実施しました。

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暑い中でしたが、30名が参加し、次のアピール文を全員で採択し、座り込みは終了しました。


関西電力高浜原発1号機の再稼働に抗議し、原発に依存しないエネルギー政策を求めるアピール

関西電力は本日、多くの国民の反対の声を聞き入れることなく高浜原発1号機を再稼働させました。

この原発は、来年で運転開始から50年となる、国内最古の原発で、原則40年に制限されている運転期間を超えての再稼働です。

2011311日、私たちは、決して忘れることのできない東京電力福島第一原発の過酷事故を経験し、改めて、原発に依存しない社会の実現を決意したはずです。

しかし、岸田政権は今年5月、原発の60年を超える運転を可能にする法律を成立させるなど、原発の再活用へと大きく舵を切りました。

福島原発事故から12年が経過しましたが、「原子力緊急事態宣言」は、現在も解除されておらず、廃炉作業も遅々として進んでいません。また、地元の反対を押し切り、溜まり続ける放射能汚染水の海洋放出を強行しようとしていますが、原発事故がいかに危険で長期にわたり、人々の生活と生命を危険にさらすものであるかを示しています。

 関西電力はさらに9月中旬、高浜原発2号機の再稼働を計画していますが、今求められているのは、危険な原発への回帰ではなく、再生可能エネルギーのさらなる開発など、原発に頼らないエネルギー政策の推進です。

福島の被害者の思いを忘れてはなりません。

核と人類は共存できません!

私たちは、高浜原発1号機の再稼働に強く抗議するとともに、即時運転の中止を求めます。

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      「高浜原発1号機再稼働抗議・慰霊碑前座り込み行動」参加者一同


採択されたアピール文は、関西電力と岸田首相宛に郵送しました。

改めて原発問題を考えます。

東京電力福島第一原子力発電所の事故によって、今もなお、避難先での生活を強いられている住民が多数います。

爆発事故を起こした原発の廃炉作業は難航し、何時収束するのがめどは全く立っていません。それが原発事故の実態です。

大量の生み出された汚染水は、原発敷地内を覆い尽くし、多くの反対の声を無視して、日本政府、東京電力は、海洋放出の計画を強行しようとしています。

さらに5月には、岸田政権は、原発の危険性を全く無視し、原発の60年超の運転を可能にする「GX(グリーントランスフォーメーション)脱炭素電源法」を成立させ、東京電力福島第1原発事故後に導入された「原則40年、最長60年」とする運転期間の制限を緩めました。この関西電力高浜原発1号機は、この法成立による60年超運転の最初の原発となる可能性があります。

原発の危険性は、構造的な問題だけでなく、戦争によっても非常に脆弱なものであることを我々の教えたのが、ロシアとウクライナの戦争です。ロシアによるウクライナ侵略以来、ウクライナのサボリージャ原発が、軍事行動の標的となり度々危険に状況に追い込まれました。

この事実からも原発の危険性を学ばなければなりません。

私たちは、訴えつづけます。「原子炉を直ちに停止し、全ての原発を廃炉にせよ!」と。

いのちとうとし

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2023年7月28日 (金)

非核平和行進・東部コースが広島入りしました。

爆78周年原水爆禁止世界大会実行委員会が呼びかける「非核平和行進」の東部コースが、昨日正午に広島県入りをしました。非核平和行進が広島入りすると、いよいよ原水禁大会が近づいたなということを実感します。

以下、引き継ぎ式に参加し、非核平和行進に参加した高橋克浩代表委員の報告を紹介します。

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「福山市大門町の国道二号線の駐車場で岡山の行進団より引継ぎ,120人の行進団で福山市役所まで行進しました。

気温が35度を超え猛暑日の中,全国から引き継いだ「核兵器廃絶」「核と人類は共存できない」「世界の恒久平和」の思いを行進団はシュプレヒコールを行いながら行進しました。

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福山市役所では,福山市副市長をはじめ教育長・管理職など参加いただき到着式を行い,8月3日に向けて県内を行進していくことを改めて確認しました。

若干の体調不良者はおられましたが大事なく引継ぎを行いました。」

非核・平和行進東部コースは、今日は、午前9時に福山市役所前を出発し、午前中は、福山地区労センターのみなさんが、そして午後は福山市西部市民センター前から尾道市役所を目指して、府中地区労組会議の皆さんによって横断幕を掲げながら、行進が行われます。

直、北部コース(県内のみ)はは、30日に庄原をスタート、西部コースは、8月1日に山口県から大竹市で引き継ぐことになっています。

ここ数日厳しい暑さが続いていますので、体調に十分気をつけて行進を進めて欲しいと強く思います。

いのちとうとし

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2023年7月27日 (木)

被爆者健康手帳交付数

広島市は、毎年この時期に「被爆の実相と被爆者援護施策などについて理解を深めていただく」(はじめに)ことを目的に「原爆被爆者対策事業概要」(以下「被爆者対策概要」)を発行しています。令和5年(2023年)版が、今年も先日発刊されましたので、1冊入手しました。

様々な情報が記載されていますが、特に関心を持って読むのは、被爆者健康手帳の現況です。

広島市の「原爆被爆者対策事業概要」の発行に先立つ今月初め、厚生労働省は、2022年度末(2023年3月末現在)の全国の被爆者健康手帳の発行状況を発表しました。

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それによれば、被爆者健康手帳を持つ被爆者は2023年3月末現在で11万3649人となり、旧原爆医療法の施行で手帳交付が始まった1957年度以降の最少を更新したということです。

そして平均年齢は85.01歳で前年から0.48歳上昇し、初めて85歳を超えました。被爆者の高齢化が進んでいることが、明らかになっています。

年間の手帳所有者数は、5,286人減ったことも報告しています。

この数字を見ながら、気になったのは、この一年間の新規の被爆者健康手帳交付数です。というのも、昨年4月に「黒い雨」被害者の運用基準が新しくなりましたので、これによってかなりの数で被爆者健康手帳交付を受けた人が増えたはずだからです。

厚労省の発表では、新たに認定された「黒い雨」被爆者は、全国で3,981人だったと報告しています。

後に広島県・市に問い合わせでわかったことですが、昨年度の厚労省への報告では、「黒い雨」による新規取得者数を別枠で特別に報告することになっていたようです。

入手した「被爆者対策概要」によれば、昨年度一年間に広島市が新規に交付した被爆者健康手帳は2,614人(一昨年度はわずか65人ですから、前年比2,549人増)となっています。そのうち2,555人が「黒い雨」被爆などに該当する3号被爆者です。

もう少し正確な「黒い雨」被爆者への手帳交付数を知りたいと広島市に尋ねると「2,555人のうち2,549人が『黒い雨』での交付数です」との回答でした。

広島県にも問い合わせてみました。「県が『黒い雨』被爆者として交付した人数は、1,342人です」との回答でした。

この数字を合計すると3,891人になります。全国で3,981人が新たに「黒い雨」被爆者として認定されていますので、広島県・市以外ではわずかに90人しかなかったことになります。広島県・市が多いのは当然ですが、他県がこのように低いのは、周知不足ではないかとも思われます。

また、「被爆者対策概要」見ていて気づいたのは、この一年間で、3号被爆者と共に胎内被爆者と呼ばれる4号被爆者への被爆者健康手帳交付数が急増していることです。厚労省は、4号被爆者の新規交付数を発表していませんので、全国の状況は不明ですが、広島市では、新規に51人(過去3年間ではわずかに1人)、広島県は27人に被爆者健康手帳が交付されています。いずれも「黒い雨」被爆者として昨年度被爆者健康手帳を交付された人の子どもです。

この数字を見て、改めて「もっと早くに『黒い雨』対象地域の見直しをしておれば、救済される人はもっと多かったのに」との思いを強くします。

先に「年間の手帳所有者数は、5,286人減った」と書きましたが、それは「黒い雨」被爆者への手帳交付が3,891人もあったからこの減少数にとどまっています。厚労省の発表によれば、昨年度(222年度)一年間に9,350人の被爆者が亡くなっていますので、例年通りであれば、もっと減少数は大きくなっています。

被爆者数は、1980年度末の37万2264人をピークに減少し、2013年度末に20万人を下回りました。ひょっとすると今年度末にも10万人を下回るかもしれないというのが実態です。

いよいよ被爆体験の継承をどうするのかが、喫緊の課題になっていることを実感します。

いのちとうとし

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2023年7月26日 (水)

今度こそ元気に育て!ライラック

先日被爆者の森の近くに行きましたので、4月のブログで2回紹介した(被爆者の森―ライラックの苗木植栽: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)ライラックの花が咲きました。―被爆者の森: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))北海道のライラックが、その後元気に育っているか気になりましたので、様子を見にいきました。

行ってみると「エッ」と思いがけず言ってしまうような姿を見ることになりました。

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4月に植栽された苗木の部分の上部に付いた葉がすっかり枯れた色になっています。ライラックは、こんな早い時期に葉が枯れるのかなと一瞬思いました。しかしよく見ると根元の部分から、手前に向かった地に這うように枝が伸び、立派な葉が付いています。

私には、植栽時の幹が枯れてしまったか判断できませんので、その足で広島市中区維持管理課を訪れました。

上の写真ともう一枚別角度から写した写真を見せながら「どうも様子がおかしいのです。ライラックの葉は、こんなに早い時期に枯れるのですかね。ただ、根元からヒコバエのようなものが出て、その芽が元気に育っているように思えるのです。このヒコバエを育てれば、この場所の環境で芽を出したのですから、元気に育つのではないかと思うのですが」と話しました。

いつもいろいろと相談する担当者は、この写真を見て「これだけでは判断できませんが、ヒコバエのように見えますね。いずれにしても明日現場に行って、きちんと対処します」(私が区役所を訪れたのは午後5時前でした)との返事で、この日は帰宅しました。

翌日の午後2時過ぎに担当者から電話がありました。

「さっき植栽した業者と一緒に現場に行ってきました。間違いなくヒコバエが出ています。このヒコバエが元気ですので、これを育てるように措置をしました。

私たちが、いつも現地を訪れることがなかなか出来ませんので、もしまた何かありましたらぜひ情報を提供してください。ありがとうございました。」

翌日、再度現場に行ってきました。

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地面に這うように伸びていたヒコバエが、支柱にくくりつけられて、直立しています。

根元部分をよく見ると、切断された跡が残っていますので、植栽時の幹は、やはり枯れていたようです。

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ライラックの木は、何度も植栽が繰り返された木ですが、今度はこの環境の中で芽を出したヒコバエを育てることになりますので、ぜひ今度こそしっかりと育ち毎年きれいな花を咲かせて欲しいと思いながら現地を後にしました。

いのちとうとし

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2023年7月25日 (火)

提訴請求の日から60日が近づいています

関西、中国、中部、九州の各電力会社が、電力自由化を妨害するために談合を繰り返し、公正取引委員会からカルテル締結独占禁止法違反で、排除命令と過去最高となる総額1010億円の課徴金を命じられた事件。

6月7日、私たち20人の株主は中国電力の監査役に対し、取締役の責任を問う訴えを起こすように求める提訴請求書を送付しました。もう少しで60日がやってこようとしています。60日というのは、監査役が提訴するか否かを決めなければならない期間です。

中電はこのカルテル事件について、「違う」「異議あり」として争う意思は無いようです。経済産業省から6月28日までに、この事件について弁明書提出を求められていました。中電はこのことについて、「弁明はない。主張すべき事項はない」としていたことが7月12日になって明らかにし、自らの完全敗北を認めたのです。

そのために7月12日の「弁明は無い」発表から2日後、経済産業省は「適正な競争に対する信頼を著しく害し、電力自由化の趣旨に反した」として、業務改善命令を出し、再発防止策を求めました。

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中国電力中川賢剛新社長

しかし訳が分からないのは、中電は一方で公正取引委員会に対し処分の取り消しを求める訴訟を起こす準備をしていることです。中川賢剛社長は「弁護士と協議し、主張や証拠を整理している。10月2日までの適切な時期に提訴する」としているのです。この態度、いたずらに時間稼ぎをしようとする魂胆としか思えません。

株主総会の場での、707億円の課徴金はどこから調達するのかという質問に対し、「このたびの電気料金の値上げには含まれておらず、今後も電気料金に上乗せすることはありません」とした上で「課徴金の支払原資につきましては、遊休地や有価証券をはじめとした資産売却や、海外を含めたグループ企業からの配当など、資金捻出に向けた取組みを順次進めております」と回答しています。

一見、課徴金で電気料金が値上がりする心配がないと安心されるかも知れませんが、中電が持っているたくさんの資産は、戦前から続く電気事業での儲け(電気料金)から作りあげられてきたものです。そんなに資産があるのなら、高騰している電気料金を下げることに使うべきではないでしょうか。

株主総会での回答を読む範囲では、監査役がカルテルに加担して取締役らに損害賠償を求める訴訟を起こすことは行わないような感じです。しかし本来の監査役としての役割りを担う考えがあるのなら、きちんと責任を問うべきではないでしょうか。

何よりも今に至るも、事件の真相が、公正取引委員会からも中電からも明らかにされていないことです。

提訴請求から60日目は8月7日です。監査役が請求を行わなかったら、私たち株主は、こだわることなく淡々と株主代表訴訟を起こすことになります。

恐縮なお願いではありますが、株主代表訴訟への支援金をお願いする次第です。金額はいくらでも構いません。不祥事が相次ぐ中国電力に怒っておられる皆さんの声を、どうぞよろしくお願いします。

勝手ながら郵便振替え口座を、お知らせさせていただきます。

    口座番号:01370-0-3583

     口座名:原発はごめんだヒロシマ市民の会

本来なら、この問題だけの口座を作るのが筋だと思いますが、現在、新しい口座を作ることが煩雑になっております。そのために、これまでの口座でよろしくお願いします。

木原省治

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2023年7月24日 (月)

三原の「7・19行動」

7月19日(水)午後5時30分から三原駅前において17人が参加して定例の「19日行動」を実施

しました。今月の街頭行動は、まもなく8月、被爆・敗戦78年を迎える中、6人の弁士が第二次世界大戦の反省から、「もう二度と戦争はしない」という平和への強い意志を込めて誕生した「憲法」・「平和」「戦争」について、改めてみなさんと共に考え合い、行動していこうと呼びかけました。

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スピーチで三原地区労働センター議長の森光さん(広島県教職員組合)は、①「8月6日は何の日か知っていますか」と子どもたちに聞くと返ってきた言葉は「ハムの日」(日本ハム・ソーセージ工業組合によって制定された記念日)でした。…返事をするのに少し時間がかかりました…。広島の学校に通っている子どもたちですので私が期待したのは「原爆の日」と答えてほしかった。その言葉を待って、原爆の悲惨さや放射能の話し、なぜ今、学校で折り鶴を織っているのかなどを話すつもりでした。広島の子は答えられるのが当たり前だろうと思っていました。ずいぶん前の調査ですが、広島に原爆が投下された日を問われて広島市の約70%の人が正解。全国の人は30%でした。教師である私としたら「原爆の日」と答えてほしかったなと思いました。「ハムの日」からどのように切り替えようかと迷っていたら、別の子どもが「原爆の日でもある」と答えてくれました。良かったなと心の中で思い、そこから佐々木禎子さんの話などをつなぐことができて少しは安心しました。②このことからわかることは、子どもたちにきちんと戦争や原爆の話しを伝えていかなければならないということです。それは私をはじめとする大人たちの責任です。分かっているだろうとかテレビで報道されているから知っているだろうとかではダメなんだろうと思います。伝えた子どもが自分のこととしてしっかり考えて自分が行動できる。そこまでアシストしなければいけないんだろうと思います。③私の母方の祖父は入市被爆して私が高校生の時に亡くなりました。病気で亡くなる少し前に血液型が一緒だから輸血を行いました。また私の父方の祖父は通信兵としてラバウル島へ戦争に行きました。そうした話を聞いて私は育ってきました。今年で被爆、戦争が終わって78年です。もう直接戦争の話を聞ける人はとても少なくなってきました。だからこそその事実を知っている、その悲惨さを知っていることを次に伝えるために自分でできることをしていきたい。今、学校に勤めていますので目の前にいる子どもたちに戦争の悲惨さ、平和の大切さを伝えていきたいと考えています。④世界ではウクライナをはじめ各地で戦争が続いています。今年になりますが広島市の小学校で使用する平和教材から「はだしのゲン」が削除されました。戦争や原爆の背景を教えていくのは難しいですが、伝えていかなければなりません。日本の今年度の防衛費は約7兆円、その一部でも教育費に回してもらうとどんなにか子どもたちが幸せなのか。岸田政権はぜひ考えてもらいたい。防衛費が11年連続で増額されています。日本は戦争のできる国に突き進んでいます。だからこそ今、私たち市民一人ひとりは平和について考え、行動していかなければなりません。職場の隣の席の人、目の前の子どもたちにぜひ平和のことについて声をかけ、行動していきましょう。と戦争・被爆の実相を継承すること、平和教育の大切さを訴えました。

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平和公園・原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」と刻まれた碑文、戦争という過ちを再び繰り返さないことを誓う言葉。「ヒロシマの心」を胸に刻んで、戦争法の廃止を求めて行動を行っている「戦争をさせない三原市民行動」これからも継続していきます。

藤本講治

【編集者】藤本さんからの原稿は、20日に届いていたのですが、府中地区と2回に分けて掲載することにしたため、遅くなりました。

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2023年7月23日 (日)

2023.7月のブルーベリー農園その3

20日に梅雨が明けた。この日は安芸の郷が東広島市豊栄町のブルーベリー農園にブルーベリーの摘み取り研修を始める日で、雨の心配もなく20.21日と順調に摘み取りが行われた。また福富町の障害者サービス事業所のしゃくなげファームからも参加があって、たくさんのブルーベリーの実を納品することができた。梅雨明けからしばらく好天が続くのでブルーベリーの実も甘さが加味されることが期待できる。それでも受け入れる農園の作業は遅れ気味だが皆さんのご協力でどうにかしのげそう。

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7月15日(土)

ブルーベリー畑ののり面の草刈りが終わった後なのですっきりした景色になった。

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ブルーベリーの栽培の勉強がしたいと若午後から農園で農作業を体験する若い夫婦ずれがお見えになった。真ん中の畑で防草シートが散らかったままなので整理する作業をお願いした。

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おかげでこの段の畑はきれいになった。足元が整備されたのでこれから摘み取りでブルーベリーの中を多くの人が通りやすくなる。

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7月16日(日)

ブルーベリー畑の水路ののり面のネムノキが夏空に向かって茂っている。

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風にそよぎながらネムノキの花が左右に舞う。

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畑では晩生のブルーベリーがぼこぼこと実を太らせている中で青紫色に色づいた丸い球が出てきた。まだちょっと酸っぱい。

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7月17日(月)

ブルーベリー農園の空もずっかり夏空でじりじりと暑い。

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午後は日差しを避けて農園の蔵からブルーベリーを運ぶコンテナを家の廊下に出して雑巾がけを行う。

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7月21日(金)

オニユリの花が開花している。

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20日から安芸の郷のブルーベリー摘み取り研修がスタート。21日の晩生のブルーベリーの摘み取りは里山で行う。

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たくさんのブルーベリーの実をコンテナに入れて車に積み込む。昨年と同じ時期に始めることができて、いよいよブルーベリーの収穫シーズンが本格化する。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年7月22日 (土)

府中地区の7月「19日行動」と「反核平和の火リレー」到着式

府中地区:7月の「19日行動」リレートークとスタンディング

【場所と参加人数】

今日は出かけるときは晴れ、行く途中は大雨、上下は晴れて、府中は雨のち晴れと雨が降ったりやんだりでした。

上下Aコープ前 午後3時30分から7人、府中天満屋店前5時から12人、いずれも30分の行動でした。

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上下Aコープ前

【リレートーク】

Aさん 広島で行われた5月のG7サミットは、核抑止論を肯定し核兵器の廃絶の方向を示しませんでした。世界中の人が被爆地ヒロシマで行われるからにはとG7に期待していたのに裏切られました。今日の新聞に、「被爆者6団体の代表が広島市長と面会し、原爆の日に読み上げる平和宣言に、核抑止体制からの脱却や核兵器禁止条約への参加を日本政府に訴えるよう要請した」と載っていました。どんなに困難でもどちらにも物が言える専守防衛の国であらねばなりません。

Bさん 先の戦争のことが忘れられようとしています。2回目になりますがお話します。78年前に上下駅であったことです。全国の地方都市が空襲にあっていたとき広島市だけが空襲がありませんでした。そこで軍部は必ず広島市に空襲があるだろうと建物疎開を行う部隊をつくらせました。こちらでは本部を上下に置き、甲奴と神石の名前をとって甲神(こうじん)部隊が300名で結成されました。自分の祖父も部隊に入っていました。年は42歳で、「40を過ぎているから徴兵はないだろう」と思っていたそうです。8月3日に300名が上下駅を出発してその日に広島市に入り、4日、5日と作業して、8月6日をむかえたそうです。祖父は大やけどの状況で三次の陸軍病院へ入り17日になくなりました。他の300名の方も上下駅へ帰ることはなくほとんどなくなられました。平和憲法はこうした戦争の反省から、二度と戦争をしないという国民の決意です。戦争するための法律安保法制は許せません。

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府中天満屋前

Cさん 2021年に発効した核兵器禁止条約を署名・批准している国は92か国ですが日本は批准していません。オブザーバー参加もしていません。ほんと核兵器をなくさないと地球はなくなってしまいます。7月の世論調査でも「東京電力福島原発の処理水海洋投棄は説明不十分が8割に上っている」と報道されています。原発の処理水の海洋投棄でも旧統一教会の問題でも自民党はあいまいにしようとしています。あいまいにさせないよう反対の声をあげましょう。

Dさん 袴田さんの冤罪事件で検察は控訴をしました。ただただ検察のメンツだけの控訴です。狭山裁判の石川さんしかり冤罪事件を長引かせる検察は許せません。

Eさん 今日も車の中から手を振って頂きました。「僕たち子どもの未来をかえしてください」という高校生の声もありました。安保法制は違憲状態です。平和を守っていくために戦争の準備をしてはいけません。平和の準備をすべきです。今日もこの場を利用させていただき私たちの思いを訴えさせていただきありがとうございました。これからもよろしく願いいたします。とお礼をのべて終わりました。

 

その後、6月8日の祝島島民の会裁判傍聴報告、7月9日に行われた戦争法廃止尾道総がかり行動実行委員会主催の連続憲法講座の報告、三原市の産廃処分場問題で控訴した広島県知事に抗議ハガキを送ることなどを相談し終わりました。

小川敏男

【反核平和の火リレー到着式】

7月3日の午前8時15分に平和公園慰霊碑前をスタートした反核平和の火リレーは、県内を一周し昨日午後6時に10人のランナーによって平和公園慰霊碑前に無事に帰ってきました。

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途中悪天候のため、一部区間を短縮せざるを得なかったようですが、県内23全市町を走り継ぎ、間違いなく大きな平和の火を灯してきました。

到着式では、実行委員会新田康博実行委員長が、走破報告を行いトーチの灯火が消灯されました。

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来月4日から始まる被爆78周年原水爆禁止世界大会広島大会にこの運動の成果を引き継がなければならないと決意しました。

いのちとうとし

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2023年7月21日 (金)

ベトナムの歴史(その26ー2) 抗仏闘争を戦った日本兵-3の2

大阪の中学校卒業後、職業軍人の道を歩む

話しを石井卓雄自身に戻します。まだ、これと言った新たな情報は入手できていませんが、ウィキペディアや書籍などをもとに足跡をたどってみます。

一家がいつ頃大阪に越したのかは分かりませんが、府立今宮中学校を卒業し陸軍予科士官学校に入っていますので、12歳(昭和6年、1931年)のときには大阪に暮らしていたと思われます。関東軍が自ら南満州鉄道を爆破し、「中国軍のしわざ」として満州事変に突入した柳条湖事件のあった年です。

ウィキペディアなどによると、石井卓雄の軍歴は以下です。

5.15事件」や国際連盟脱退など、きな臭く戦雲漂う世情の中、2年間の予科士官学校を経て陸軍士官学校(53)入学し、1940年2月(21歳)卒業。同期(第53期)1,365名のうち651名が戦死しています。

1941年8月、中尉に昇進、第55師団騎兵第55連帯中隊長として太平洋戦争(ビルマ戦)に従軍。194312月、陸軍大尉に昇進。19453月、第55師団参謀部付将校。6月、陸軍少佐に昇進。7月、連合軍のインドシナ侵攻に備えてビルマ戦線からカンボジアに移動、プノンペンで敗戦を迎えています。

終戦時25歳。当時、日本陸軍の「最も若い佐官」でした。

ベトナムでの足跡

石井卓雄がいつ、どこで、どのような経過でベトミン軍に加わったのかベトナムでの足跡は必ずしも明確ではありませんが、『ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越の在り方に関する研究報告』(井川一久・大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター客員教授)などをもとに辿っています。

1945年815日(敗戦)をプノンペンで迎え、10月中頃数人の将校や下士官・兵とともに軍用トラックでベトナム南部に侵入。ソクチャン市でDRV(ベトナム民主共和国)南部抗戦委員会に迎えられ、ロンスエン市に日本軍離隊者を集めメコンデルタ最大の都市カントーのフランス軍部隊を襲撃。その後、ベトミンの訓練と戦術指導に努めたとあります。

さらに興味深いことは、「石井らはベトナム独立戦争に参加する決意を師団司令部に告げ、その了解のもとに送別会まで開いてもらって離隊した」と書かれていることです。この記述を読む限りにおいて、石井卓雄がベトナムにとどまった理由は、抗仏戦争を戦うベトナム人民への理解や心情的共感というよりも、連合軍への徹底抗戦という職業軍人としての趣が強く、現地日本軍上層部の「思い」にも通じるものだったのではないかと考えられます。そのことは、「死後、戦没者として靖国神社に祀られている」ことを見ても覗えます。

1946年5月、石井卓雄はプノンペンから一緒だった将校たちと別れ、クアンガイ軍政学校の教官に就任します。当時、チャン・チ・ズンと名乗った石井は「寡黙だが明るく温厚な人物」(加茂徳治著『クアンガイ陸軍士官学校』、暁印書館)と評されています。

1947年後半、日本人10数名が加わる人民軍1個中隊の顧問としてフランス軍の後方攪乱作戦に従事し南部を転戦。元部下だったグエン・バン・タインの談話(1969年)により、1950年5月20日にメコン・デルタで仏軍との交戦中に戦死したと伝えられています。

下図は石井卓雄の敗戦から戦死までの5年間の足跡です。戦死したと伝えられているメコンデルタは左下、赤円の地域を指します。ちなみに私が会長を務めている一般社団法人広島ベトナム平和友好協会(HVPF)が2009年の設立以来、交流を続けているクアンチ省はクアンガイ省の北に位置します。

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(注1)シベリア出兵

1918年~22年まで行われたイギリス・フランス・アメリカ・日本など帝国主義国による、ロシア革命に対する軍事干渉。

1918年3月の英仏軍のムルマンスク上陸に始まり、アメリカ軍・日本軍は8月、シベリアに共同で派兵した。口実はシベリアに抑留されたチェコ兵捕虜の救出であったが、ねらいは反革命軍(白軍)を支援して、ロシア革命軍(赤軍)を倒すことであった。しかし、反革命軍が崩壊し、干渉は失敗、米英仏軍はまもなく撤退。

日本軍は最大7万3,000人を派兵し、戦死者3,000~4,000人、負傷者2万人以上を出し、1922年(樺太では25年)までシベリアに留まった。

(2023年7月21日、あかたつ)

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2023年7月20日 (木)

ベトナムの歴史(その26ー1) 抗仏闘争を戦った日本兵-3

福山市出身 石井卓雄・元陸軍少佐

戦後ベトナムに残り、ベトミンとともに抗仏戦争を戦った元日本兵800名の中に広島県出身者がいます。「ヒロシマとベトナム」シリーズ(2019年12月4日-その7)で紹介した石井卓雄・元陸軍少佐です。(以降、石井卓雄と記します)

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石井卓雄は大正8年(1919年)12月3日に福山市北吉津町で生まれています。日清戦争(1894年)、日露戦争(1904年)、第一次世界大戦(1914年)を経て、新興帝国主義国・日本が次第に軍国主義色を強めていた頃、シベリア出兵(注1)の翌年です。

話は少し逸れますが、石井卓雄が生まれた年の福山は活発な梅雨前線による7月の洪水に続き、9月には台風による大きな被害を受けています。下の写真はその時のものです。

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(出典:「大正8年7月洪水」http://www.ccba.or.jp/archives/pdf/disaster_T8.7.pdf

 この写真も「大正87月洪水」から借用した当時の地図です。福山城の右上に「吉津村」(白囲み)と記されています。

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 下の地図は「歴史的行政区域データ」から引用した石井卓雄が生まれた直後、1920年1月の「広島県深安郡吉津村」の区域図(赤囲み)です。福山市は1917年に市制を敷いていますので、正しくは「深安郡吉津村」ではなく福山市吉津町だと思いますが、現在の吉津町、北吉津1~5丁目辺りです。

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出典:歴史的行政区域データ「広島県深安郡志津村」

石井卓雄のことを知ってから関係資料を漁り、防衛省戦史研究室に問合せ、在ホーチミン日本領事館やベトナムの友人などの手を煩わせながら石井卓雄の足跡を追っています。福山の友人に生誕地とされる福山市北吉津町を案内していただき、生家(跡)を探し回りましたが、100年も前のことで地番変更や開発も加わり生家(跡)を見つけることができませんでした。現在も石井卓雄「探索旅」を続けています。どんな情報でも結構ですので、ありましたらご一報ください。

(2023年7月20日、あかたつ)

【編集者】あかたつさんから届いた「ベトナムの歴史(その26)は、あかたつさんの了解を得て、今日明日の2回に分けて掲載します。

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2023年7月19日 (水)

被爆78周年原水禁世界大会第2回広島県実行委員会を開催しました。

被爆78周年原水禁世界大会第2回広島県実行委員会が、大会まであと二週間ほどになった昨日、午後6時から自治労会館3階大会議室で開催されました。

第2回実行委員会の主な課題は、8月4日から始まる被爆78周年原水禁世界大会・広島大会成功のため、現地実行委員会としての最後の意思統一をすることでした。

実行委員会は、高橋克浩代表委員の司会で始まり、最初に秋葉忠利代表委員が、開会のあいさつ。

秋葉代表委員は、「政治の世界は、緊張感を欠く状態が続いている。しかし、重要案件が、我々国民が不在の状況の中で、どんどんと進んでいる。さらに、大雨による大災害が発生している中で、被災者と向き合うことなく、岸田首相は外国に出かけている実態。しかし、そんな状態に全く批判さえ出ない状況。正論がきちんと論議され、進むようにしなければならない。そのことは、私たちにも求められている」と、参加者に訴えました。

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続いて、大瀬敬昭事務局長が、前段の平和行進を含め大会の日程等を提案し論議しました。

平和行進は、東部コースが7月28日から、北部コースが7月30日、西武コースが8月1日から実施されますが、来年に向けて「近年厳しい暑さが続いているが、できるだけ多くの参加者を得るため、来年に向けてコースの設定など工夫が必要ではないかと考えている」という意見が出され、大瀬事務長が「今年、三次は市内中心部を歩くコースに変更して実施することになった」ことを紹介しながら、今年の総括の中で、検討していくことが確認されました。

主な討論は、大会二日目(8月5日)に開催される分科会で、中央の運営委員と現地実行委員会の連携強化をどう進めるのかという課題でした。8月4日に開催される全国の運営委員会で、各会場係の責任者も参加し、その場で協議し、連携を強化し運営していくことを確認しました。

さらに、全国からの大会参加者にしっかりと「ヒロシマを知ってもらう」ためには、現地広島実行委員会の役割が重要であることも確認しました。

事務局から提案された大会日程、役割分担を全体で確認し、最後に金子哲夫代表委員が「地元実行委員会として全力で大会成功のため取り組んでいきたい」と閉会のあいさつを行い、被爆78周年原水禁世界大会第2回広島県実行委員会は終了しました。

コロナでの3年間の空白が、大会運営にも様々な影響が出ていることを実感した実行委員会でした。

いのちとうとし

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2023年7月18日 (火)

改めて考える朝鮮半島出身者の原爆犠牲者数―その3

講演会「朝鮮半島出身者の被爆の背景を考える」報告の最終回です。

市場さんが、講演の最後に強調したのは、朝鮮半島出身者の実態は、全く調査されていないと言うことです。

市場さんは言います。「岸田首相は、G7サミットで韓国・ユン・ソンニョル(尹錫悦)大統領と共に韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝しました。ぜひ8月6日の平和記念式典でのあいさつの中で、朝鮮人被爆者の実態にきちんと触れて欲しい」と。

当時どれだけの朝鮮人が、広島で被爆したのか、そして何人が祖国に帰ることもなく被爆死したのか、その実態は、昨日紹介した韓国原爆被害者協会が発表した数字しかありません。

さらに市場さんは指摘します。

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「広島原爆資料館の展示では『死者約14万人』の文字が映像で大きく映し出されるが、それに外国人が含まれるか否かの解説は何もない。原爆資料館のリニューアルに当たって『故郷を離れた地でー外国人被爆者』のコーナーが設けられたが、そこにも外国人の被爆状況を示す数字は皆無である。」

長崎との比較です。「長崎原爆資料館の展示では『死者推定 73,884人、負傷者推定 74,909人』という詳細な数に加えて、外国人被爆者数につき『朝鮮人=長崎市推定 12,000人~13,000人、鎌田貞夫ら推定 13,000人~14,000人、長崎在日朝鮮人の人権を守る会推定 22,198人』『中国人約650人』『オランダ・イギリス・オーストラリア約200人』という展示がある。しかし死者数は明示されていない」

この中の「死者推定 73,884人」という数字については、これまでに何度かこのブログで疑問を指摘してきましたのでここでは控えますが、少なくとも長崎では外国人被爆者について、市民団体の調査を含めて人数を明記していることは、広島との大きな違いです。

市場さんは、厳しくは指摘しませんでしたが、長崎と比べ広島の取り組みの弱さを指摘されたように受け止めました。

日本政府は、死者数を問われると「広島14万人、長崎7万人」と両市による推定を用いるのみで、実態を把握した形跡は全くありませんので、市場さんが言う、8月6日の岸田首相のあいさつで触れられることは、残念ながら想像できません。立憲民主党の辻元清美議員の質問に対し政府は「原子爆弾の投下による死没者数に関する新たな調査を実施することには考えていない」と回答していますので、これからも日本政府による調査に期待することは出来ないのが実情です。

これは、空襲による一般戦災者の被害実態についても言えることです。「国の誤った政策」によって進んだ戦争であったにもかかわらず、その被害の実態について調査すらしない政府の姿勢は絶対に許されるものではありません。

このような市民を犠牲にしても、その責任をとろうとしない姿勢こそ、「再び過ちを繰り返す」ことに繋がるのではないかと、私はいつも危惧しています。

今回の市場さんの講演は、そんな様々なことを改めて問いかける内容でした。

この講演会では、豊永恵三郎さんの特別報告「三菱元徴用工・被爆者裁判から韓国大法院判決までの軌跡」も行われ、午後3時30分に終了しました。

いのちとうとし

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2023年7月17日 (月)

改めて考える朝鮮半島出身者の原爆犠牲者数―その2

今日は「『韓国の広島』と呼ばれる『陜川(ハプチョン)』の人々が、なぜ広島に渡ったのか」がテーマですが、一つだけ昨日の報告に付け加えることがあります。

それは、徴用によって広島に強制動員された朝鮮人労務者が、どこで働いていたかです。

韓国の「対日抗争期強制動員被害調査及び国外強制動員犠牲者等支援委員会」が2015年に発表した事業所ごとの人数です。当日配布された資料をコピーします。

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表が小さくて見え難いと思いますが、クリックしていただくと拡大します。(以下に掲示する図面も)

いよいよ今日の主題である「『陜川(ハプチョン)』の人々が、なぜ広島に渡ったのか」です。

市場さんが理由の第一に上げたのは、主要幹線だけだった鉄道の交通網が、1924年には地方都市であった陜川周辺でも整備され、陜川と広島を結ぶ交通もが整備され移動が容易になったことです。

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第二は、これが一番大きな理由ですが、日本の植民地農業政策によって、1930年代に入って陜川の農民たちが急激に窮乏化したことです。

「産米増殖計画」によって米穀単作農業への再編、紡績・製糸産業の原料確保のために綿花栽培と養蚕業を普及させるという2点を根幹とする日本による植民地農業政策が強要されたため、山岳地帯で狭い農地で人口の約9割が農業で生計を立てていた陜川では、大打撃を受けることになりました。1930年代に入って陜川の農民の窮乏化が急速に進みました。

1920年代から始まった陜川から広島への移住は、1930年代に急激に増加したのです。更に、大水害や大干ばつが、それに追打ちをかけることになりました。植民地政策による生活破壊が、移住の大きな要因だったことがわかります。

こうした事由は、陜川に限らず朝鮮半島全体で起こったことだと思われますが、それではなぜ陜川出身者が、広島に多かったのかです。朝鮮半島から日本に移住する場合、多くが血縁や地縁を頼る「鎖状移民」でした。それは、日本渡航には、日本居住者からの受け入れ証明を地元警察に提出し「渡航証明」を受け取る必要があったからでした。

そのことが「『陜川(ハプチョン)』の人々が、なぜ広島に渡ったのか」の理由だと市場さんは解説します。納得です。

しかし、市場さんの話で、私が一番興味を持ったのは次のことです。

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上の図は、韓国原爆被害者協会の会員に対する調査で明らかになった、陜川の人々が広島市内のどこに住んでいたのかを示した地図です。黒い点が、大きく楕円形に広がっているのがわかると思います。

市場さんはこう言います。「広島市中心部の爆心地から1km以内はほとんどなく、太田川とその支流の河川敷か、山の裾野部分に集住していた。もちろん1km以内の人は、ほとんどなくなり帰国できていなかったことは考慮しなければなりませんが」と。

ここで少し説明を加えます。1978年の数字ですが、韓国原爆被害者協会の登録数で一番多い地域は陜川支部で、3,570人、全体の38%で圧倒的に多くの会員数となっています。これだけ多くの被爆者からの調査に基づいて作成された地図ですから、この地図の精度は高いと言えると思います。そのことを前提にして、次のようなことを考えました。

この地図に興味を持ったのは、私が前々から朝鮮半島出身者の犠牲者数について、提起されている資料に疑問を感じていたからです。市場さんの配付資料にも韓国原爆被害者協会が発表した1985年「被爆者総数 50,000 死亡者 30,000」、1988年「被爆者総数 70,000 死亡者 35,000」という犠牲者数が、書かれていますが、いずれも広島市の1945年末までの原爆犠牲者の比率(被爆者総数 約35万 死亡者 約14万人 率では約40%)と大きな開きがあることに、ずっと疑問を持っていました。

私の考えは、「朝鮮半島の出身者は、広島市の中心部に住んでいた人は少なく、その周辺に住まざるを得なかったのではないか。そうであれば、死亡率は平均よりも低いはずだ」ということです。ただ、これまで朝鮮半島出身者が実際にどの地域に多く住んでいたのかを示す資料を見たことがありませんでしたので、そのことに確信を持つことが出来ませんでした。

しかし今回、陜川という限られた地域の人たちの広島における居住状況ですが、一つの資料が提供されたことで、少しだけ私の疑問を解決する道に繋がるのではないかと感じました。

その意味でも、市場さんの講演「朝鮮半島出身者がなぜ故郷を遠く離れた広島・長崎で被爆しなければならなかったのか」は、有意義なものでした。

市場さんの講演の終わりは、これからの課題の提起でしたが、重要なことですので、明日紹介します。

いのちとうとし

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2023年7月16日 (日)

改めて考える朝鮮半島出身者の原爆犠牲者数―その1

昨日午後1時半から袋町のひと・まちプラザで、韓国の原爆被害者を支援する市民の会・広島支部主催の講演会「朝鮮半島出身者の被爆の背景を考える」が開催されました。

5月に開催されたG7広島サミットに招待国首脳として広島を訪れた韓国・ユン・ソンニョル(尹錫悦)大統領が、岸田首相と共に韓国人原爆犠牲者慰霊碑に参拝したことで、朝鮮半島出身被爆者への注目が高まりました。

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こうした情勢を受け、今回の講演会は、朝鮮半島出身者がなぜ故郷を遠く離れた広島・長崎で被爆しなければならなかったのか、その背景を探ると共に日本が行った植民地政策について改めて学ぶための企画でした。

講演者は、朝鮮半島出身者の被爆者問題の第一人者と言える韓国の原爆被害者を支援する市民の会会長の市場淳子さんです。

何度か市場さんの話は聞いていますが、今回初めて聞く内容がほとんどでしたが、特に印象に残った部分を紹介します。

最初は、「韓国人犠牲者とは」です。

「韓国のメディアでは『日本で強制動員されて被爆』という表現がよく用いられるが、韓国被爆者協会の協会会員全てが、『徴用・徴兵』で日本に強制動員されたわけではない。市民の会では、『韓国の原爆犠牲者は、日本の朝鮮植民地支配により強制的、半強制的に広島・長崎に行かざるを得ず、米国が投下した原爆の被害まで受け、九死に一生を得て祖国(大韓民国)に帰ることが出来た人々』と言ってきた。『強制的』とは、『徴用・徴兵等』によるものを指し、『半強制的』とは『植民地下で生活難に陥れ、仕事を求めて日本に渡らざるを得なかったこと』を指す。」

この前置きが重要でした。

朝鮮半島からの戦時動員のうち、徴兵は1944年から始まり、徴用は1944年9月から国民徴用令が朝鮮半島にも適用されたことにより、急激に徴用者が増大します。そのことを、市場さんは図表を示しながら増加動向を説明しました。広島では、盧溝橋事件に端を発した日中戦争が始まったといわれる1937年頃から急増し、在住朝鮮人数は、全都道府県中、常に第8位だったと言うことです。

次に市場さんは、「韓国人原爆被害者の『渡日理由』」を解説します。

1979年に実施した韓国原爆被害者協会の調査に基づいての紹介です。

当時7つの支部(現在は、会員数が減少し4支部)がありますが、地域ごとに大きな偏りがあります。「生活のために移住した」人が多い地域は、4支部。「徴兵・徴用」が多いのが、畿道、湖南の2支部です。畿道は、現在の全羅南道、全羅北道で、湖南は、現在の京畿道(ソウルを取り巻く地域)ですが、なぜこの2支部に徴兵、徴用が集中しているかです。

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「徴兵、徴用」の対象者は、20代前半の人たちです。行われた時期は、先にも紹介しましたが植民地支配の末期にもかかわらず、この地域に集中しているのです。その理由は、この二つの地域(畿道、湖南)は、朝鮮半島の穀倉地帯だったため、日本への食糧供給のためこの地域での増産は、必至の課題でした。そのための労働力として、若者が必要とされ、この地にとどまっていたという事情があったのです。

市場さんのこの話は、次のその他と地域の「生活のため移住」に続きますが、初めて聞く話で目からうろこのような気持ちで聞きました。

このことに関連して、日本政府は、朝鮮半島出身の旧軍人・軍属に関して、1971年様々な名簿の写しを韓国政府に渡していますが、広島、長崎の部隊に配属された朝鮮人の数は、「特定の時点における具体的な活動場所関する記載がないため、困難」と回答しているようです。

市場さんの次の話は、「韓国の広島」と呼ばれる「陜川(ハプチョン)」の人々が、なぜ広島に渡ったのかの話に移りましたが、その話は明日紹介します。

いのちとうとし

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2023年7月15日 (土)

2023.7月のブルーベリー農園その2

7月の8.9.10.日にかけて雨が降り続いた。安芸区矢野東にある安芸の郷の2つの建物の屋上の早稲のブルーベリーも日が照らず、雨が多いので水っぽく、甘みの乗らない味になる。東広島市豊栄町のブルーベリー農園でも同じ状態。天気には勝てないので梅雨明けを待つしかない。週末、安芸区の自宅から通う豊栄のブルーベリー農園での農作業も空の様子を見て行く、行かない、の判断をしながら本格的な摘み取りのシーズンを迎えるための草取り、防草シートの整理整頓などを進めている。

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7月7日(金)

午後から畑の早生のブルーベリーの防鳥ネットの中の草刈りを行う。

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7月8日(土)

隣の畑に夏の花、ルドベキアが一株咲いている。

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畑のサクラの木の枝に下げているスズメバチの捕獲器につかまったオオスズメバチ。春先はほとんどかからなかったが暑くなった今頃よくかかっている。

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ブルーベリー畑の水路の法面のネムノキが葉が茂り。花をつけている。マメ科の植物は大きくなるのが早い。幹は直系30㎝位の太さになっている。

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7月12日(水)

農園の庭で割と平たんになっているガクアジサイの花の上を何匹ものマルハナバチが忙しく動き回り花粉を集めている。翅の下に花粉の塊を抱えて、せかせか、ばりばり、ささささっと走り回っては次の花に移っていく。

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雨が降りそうなので草取りなどの作業をする前に、里山の早稲のブルーベリーを少し摘み取りした後で予報通り昼前に雨が降ってきた。

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昼食を済ませたころには雨が上がったのでブルーベリーの木と木の間の草刈りや、列間に垂れ下がっているブルーベリーの枝を剪定した。

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実と葉っぱのついた枝を農道のそばおいている。今の時期は燃やそうとしてもなかなか燃えないのでこのまま積んでおく。

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農園の花壇でこれから咲く花の蕾。

①オニユリ

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②カクトラノオ

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③ヤブカンゾウの花は今が盛り。

2023年715

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年7月14日 (金)

原爆死没者遺骨探しの名簿

7月1日広島市は、毎年のように「原爆供養塔納骨名簿」が全国に発送しました。

一昨日の「加藤友三郎没後100年シンポジウム」の企画発表記者会見のため、広島市役所を訪れたとき、1階市民ロビーに掲示された新しい「原爆供養塔納骨名簿」を見ました。いつも見る同じ風景ですが、今年は、ちょっと違う様子に出会いました。といっても、これまで私が気づかなかっただけかも知れませんが。

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2枚のパネルの左面には、広島市の「原爆供養塔納骨名簿」が掲示されています。いつもと違う、と思ったのは右側のパネルです。

広島市の名簿と比べるとずいぶんと小さいのですが、「長崎原爆無縁死没者遺骨名簿―ご遺族を探しています-」と書かれています。長崎の遺骨探しのポスターです。恥ずかしながら、初めて見た気がしましたので、広島市に問い合わせると「記録が残っているのは、平成15年度から貼り出しています」との回答でした。ずいぶんいい加減に見ていたなと反省しています。

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今年の広島市の「原爆供養塔納骨名簿」には、813名の名前が書かれています。広島市のホームページによれば、これまでに納められた遺骨(約7万柱)のうち氏名判明遺骨は2,437柱、うち遺族へ返還又は永久安置した遺骨は1,624柱ですので、今回の名簿に書かれた遺骨は、813柱ということになるようです。ちなみにこの一年間では、1名の遺骨の身元が判明し、縁者によって引き取られています。

さて、私が今まで気にとめていなかった長崎の「原爆無縁死没者遺骨名簿」です。よく見ると、いくつかの特徴があります。

まず、記載されている人数です。広島市の815名に対し、長崎市は122名です。犠牲者全体の数(1945年末まで 広島約14万人、長崎約7万人)と比較して、広島よりずいぶん少ない人数となっています。

もう一つは、例えば「池山佐和夫(池山左知夫)」と(  )付きの名前が併記されている人が、15人います。ポスターには、注意書きとして「*名簿の(  )書きは、氏名が特定できない人について併記しました。」と記載されています。広島市の名簿では、このような名前はありません。逆に広島市の名簿では、わずかですが(  )書きで、住所が書かれている名前がありますが、長崎市の名簿には、住所のような他の情報は全く記載されていません。

よく見ると二つの名簿には、微妙な違いがあることがわかります。

ところで、広島市の引き取り手のない遺骨は、約7万柱が平和公園の「原爆供養塔」に納骨されていますが、長崎市は「長崎市原子無縁縁死没者追悼祈念堂」に納骨されています。安置されている遺骨は、8,964柱 です(ここでも広島との人数の大きな違いがあります)。「長崎市原子無縁縁死没者追悼祈念堂」は平和公園の近くにあるようですが、まだ一度も訪れたことがありませんので、今度長崎に行ったときには、ぜひ訪ねてみたいと思います。

ただ、これを調べていた気づいたことがあります。納骨されている遺骨の人数が、広島市は約7万柱とアバウトなのに長崎市は、8,964柱とはっきりと人数が特定されていることです。

2018年8月26日のブログ「長崎の原爆犠牲者数―7万3884人: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)でも書きましたが、長崎市では、原爆犠牲者数も7万3884人と特定されています。安置されている遺骨数も特定されていることにいささかの驚きをもっています。犠牲者数が特定されていることの疑問については、何度も長崎市に問い合わせたのですが、その根拠は明確になってはいません。ですから今回の遺骨数の数字にもちょっと疑問を感ずるのですが、これ以上追いかけても疑問は解けないと思いますので、これ以上は追求しないことにします。

いずれにしても、一人でも多くの遺骨が、身寄りの元に引き取られることをお祈りするばかりです。

いのちとうとし

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2023年7月13日 (木)

「加藤友三郎没後100年記念シンポジウム 『広島・日本の誇り』を未来世代に」記者発表

今年は、広島で最初に総理大臣になった加藤友三郎の没後100年です。

私も加藤友三郎の生誕地がすぐ近くの公園ということもあり関心を持ち、今年1月4日のブログ加藤友三郎生誕地碑: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しました。

加藤友三郎については、イライザさんが、ブログヒロシマの心を世界にで、何どうも取り上げ、紹介をしています。最近も、7月6日から10日にかけ、連続して加藤友三郎の業績や政治姿勢、人となりを紹介されていますので、ぜひ読んで欲しいと思います。

加藤友三郎没後100年となる今年、秋葉忠利前広島市長の呼びかけで、8月26日に「加藤友三郎没後100年記念シンポジウム『広島・日本の誇り』を未来世代に」を開催するための準備が進められています。このシンポジウムの呼びかけ人・実行委員は、今中亘(元中国新聞社社長)さん、秋葉忠利前広島市長など26人が名前を連ねています。私もその一人です。

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昨日は、そのシンポジウムのチラシが完成しましたので、広島市役所市政記者クラブで、呼びかけ人の秋葉忠利(前広島市長)さん、田辺良平(郷土史家・「我が国の軍備縮小に身命を捧げた加藤友三郎」著者)など5人が出席し記者発表を行いました。

昨日完成したチラシの呼びかけ文には次のように書かれています。

2023年は、広島市出身初の総理大臣として我が国ならびに世界に多大なる貢献をした加藤友三郎が総理在任中に亡くなってから、100年目に当ります。

加藤は日露戦争時には日本海海戦で、東郷平八郎連合艦隊司令長官の下、参謀長を務め日本を勝利に導き、その後4つ の内閣で海軍大臣としての重責を果たしました。さらに、1921年に開かれたワシントン会議では世界の情勢と未来を大局的に捉え軍縮条約を締結、日米の敵対から日米 協力へという路線の大転換を敢行し、その実現のため翌1922年には総理大臣に就任しました。残念なことに志半ばにして 翌23年に逝去しました。このシンポジウム講師の工藤美知尋氏の言葉、「あと数年友三郎の命がもってくれれば、太平洋戦争は避けられたので はないだろうか」が、友三郎の存在の大きさを何よりも雄弁に物語っています。友三郎は、人に阿ることもなく、功をひけらかすこともしない、出身閥・閨閥とは無関係、御用聞きの真似事もしない、しかし、世界的な視野から大きな時代を構想し実現する力を具体化した偉大な政治家でした。今年という機会に改めて彼の足 跡を辿り、人間的な真実に迫りつつ実績に思いを致し、後世が友三郎から学び続ける出発点にしたいと考えています。」

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開催日時  8月26日(土)13時30分~16時30分

会 場   広島大学病院YHRPミュージアム

プログラム ピアノ演奏、記念講演;講師工藤美知尋

      パネルディスカッション

ぜひ多くの皆さんに参加して欲しいと思います。

詳しくは、参加方法などが書かれた加藤友三郎没後100年記念シンポジウム、広島、加藤友三郎 | 加藤友三郎 (katotomosaburo.com)をご参照ください。

いのちとうとし

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2023年7月12日 (水)

運転免許証更新が完了しました。

今月は、75歳を迎える誕生月ですので、運転免許証の更新に行ってきました。

高齢者免許更新となる今回、免許返納をどうしようかと考えましたが、妻の実家である山口に帰るには、車で帰らないとちょっと不便だなと思い、やはり更新手続きをすることにしました。

昨日までの雨模様から一転して好天になりましたので、昼過ぎに思い立って、バスで出かけることにしました。

横川駅から12時28分発の免許センター方面のバスに乗って、約40分、免許センターには、13時10分過ぎに到着しました。

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すぐに窓口に行き、更新申請書を作成し、更新手数料2,500円を納付し、更新申請書、質問書に必要事項を記載し、更新受付に移動しました。

ここで、5月29日の高齢者運転免許更新講習で交付された「修了証明書」と「認定認知機能検査結果通知書」を一緒に提出し、書類の申請は終了しました。

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次は、視力検査です。視力検査のマーク、ランドルト環3コ見ただけで検査は終了です。『視力は ××』とは言われませんでしたがもちろんOKです。

次は新しい免許証の写真撮影です。これもほとんど待ち時間なしで終わりました。高齢者講習を受けた人は、ここでの講習などは免除ですので、顔写真撮影室のすぐ横にもうけられた椅子に座って待つことになります。

5分もかからないうちに、新しい免許証が交付され、運転免許証更新の手続きは全て終了しました。

新しい免許証の有効期限は、2026年8月18日となっていますので、3年間はこの免許証で運転が出来ることになります。

免許センターに到着してから新しい免許証を受け取るまでに約30分かかりました。短時間で終了したことになりますが、運転免許更新高齢者講習は、3時間かかっていますので、そのことを考えると、高齢者にとってはずいぶんと長い免許証更新ということになります。

免許センター前を午後2時9分に発車するバスに乗って帰りました。

いのちとうとし

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2023年7月11日 (火)

広島の気象百年誌

9日のブログ「柳田邦男著『空白の天気図』からー黒い雨」を書いた後、「そういえば昔、広島地方気象台が発行した『広島の気象百年誌』を購入した」ことを思い出し、倉庫を探しました。

「広島の気象百年誌」では、宇田さんたちの調査の様子がではどう書かれているのか気になったからです。

この本は、広島地方気象台が、前身である県営の広島測候所が、明治12年(187911日に創立されてから100年という大きな節目を記念して創立105年となる1984年に発刊されたものです。

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「発刊に当たって」には、「自然現象を相手にして長い間営々として築き上げてきたこの道は必ずしも平坦なものではなく、とくに広島の場合におきましては自然災害の脅威とは異質な世界的に例のない原爆被災地として、古今未曾有の大試練にさらされながら課せられた職務を遂行して、今日に継承された当時の関係者の方々に敬意を表したいと思います。」「一世紀にわたる観測成果や地域に関わりの深い気象知識等をコンパクトにまとめたもの」と書かれています。

その内容のほとんどは、この間の気象観測から得られた広島県の気象傾向や災害状況などが書かれています。

資料編にもっとも多くのページが割かれ、月平均の気温や月平均の湿度など、たゆまぬ観測結果の集積が編集されています。興味を引かれるのは、1897年11日以降100年分の日々の天気を、月ごとに見開き1ページにまとめて記号(○、●など)で表記した「毎年の日々の天気」です。その記号を解説に従って読み取ると、観測が始まった明治12年(1879)1月1日の天気は、「平均雲量が、1.5以上8.4以下の日」となっています。平均雲量とは、1日4回測った値の平均値と言うのだそうですが、気象庁は、現在2未満が快晴、8以上を曇天としているようですので、この日は、「晴れ」と言うことになるのでしょうか。

ちなみに1945年8月6日は、1897年11日と同じマークになっています。

私が、この「広島の気象百年誌」が探し出してきたのは、原爆時のことがどう書かれているか知りたかったからですので、関係する箇所を探しました。

「発刊に当たって」以外に「沿革編」では、次のように記載されています。

「昭和20年(8月6日) 原子爆弾のため職員中に死傷者出て、庁舎・測器等も甚大な破損を受けたが、職員の努力により一般観測だけは継続する。

     (9月17日)枕崎台風により、原子爆弾による破壊に更に追打ちがかかり深刻な打撃を受ける。」

そして最後の「付録」編に「原爆被爆時の広島の気象」として「風の変異」と「降雨と発雷」という小見出しが在り、「降雨と発雷」の項には、に次のように記述されています。短い文章ですので、全文紹介します。

「この爆撃と火災に随伴して激しい夕立のような驟雨が広島市北西方地域に起こり、雷鳴も伴った。以前に都市焼夷弾爆撃に伴う特異驟雨を発生したが、今回のは実に猛烈で、降雨域は長径29km、短径15kmの長卵形をなして爆心地(相生橋南東100m位、倒壊物、破壊状況、焦痕より判定)付近より発して遠く西方山間域に及んでおり、1時間乃至それ以上も継続した激しい降雨域は長径19km、短径11kmの楕円形乃至長卵形を示している。

雨水は爆心地から上昇した黒塵灰に一部爆発物の空中に飛散した残片を加えた塵を含有するため、墨汁のように黒かった。この雨水中の泥分を検査すると(高須)、2ヶ月後で爆心地から数倍する高放射能を有することが判明した。(理研調査班佐々木、宮崎両氏の測定教示による)。即ちこの爆発による高放射能微粒子が上空中を浮遊し南東気流に運ばれ行くうち連続的に豪雨に洗滌され(1~2時間の洗滌により黒雨は白雨に変わった)落下したのであろう。(気象庁100年史より抜粋)」

そこには「雨域及び飛散物の分布」のタイトルが付いた下図が添付されています。

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ここには、宇田さんたち気象台員が、懸命にこの雨域を調査したことは、書かれておらず、「黒い雨」という言葉も登場しません。

本論は、気象観測状況をまとめるために編集されていますので、やむを得ないことではありますが、もう少し詳細な記述があっても良かったのではないかと思いました。

いのちとうとし

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2023年7月10日 (月)

カルテル不祥事、開き直り中国電力株主総会

6月28日に中国電力本社で開催された第99回株主総会、取締役はカルテル事件について最後まで「不祥事」と言わずに「不適切」を貫き通しました。

不適切という言葉を調べてみると、「事がらに対する配慮を欠いていること」とあります。「カルテル事件は配慮の問題かあー」と思ってしまいました。

 課徴金が命じられた後に、社内に設置された対応組織の名前は、「不適切事業再発防止対応本部」です。総会での謝罪の言葉も「一連の不適切事案を起こしたことについて、極めて厳しく受け止めております」というものでした。

 ビックリしたのは、2016年から開始された電力事業の完全自由化について、役員も含めてその内容に対する認識が無かったと開き直ったことです。認識の無かった理由を「(自由化の)ルールを追い切れていなかった」と語ったことです。要するに知らなかったという開き直りです。

自動車造る会社やお酒を造る会社が「(自由化)認識がなかった」というのなら、まだ分からないではありませんが、あれだけ報道もされた大改革について、当事者の会社に認識が無かったでは、いくらなんでも許されない大不祥事だと思いました。

総会では、普通の株主さんから取締役に対し「恥を知れ」と言われたことには、さぞかし大きな衝撃だったのではと思いましたが、意外とそうではなかったようです。

新社長になった中川賢剛(なかがわ けんごう)さん、彼はカルテル事件の真っ最中だった17~20年に販売事業本部の副本部長という仕事をしていたのです。株主総会翌日の会見で「直接小売事業は担当しておらず、関電の小売りのメンバーも知らなかった」と意気揚々と語る図々しさ、これにはまさに開いた口が塞がらないという気持ちにさせられました。

会社の最高責任者という立場にいる人から、こういう発言が恥ずかしげもなく語られるということを、どう考えれば良いのでしょうか。

福島原発事故の直後、何かの書物に次のような言葉があったのを思い出しました。

「組織された無責任」 

「組織されたあきらめ」

そして、この国の体質について次のような文章も見つけました。

「総括しない」

「反省しない」

「責任を取らない」と。

40年以上に亘って中国電力に注目し続けてきましたが、怒りというより嘆かわしい限りです。

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こうした日本の動きについて、ドイツARD(公共放送連盟)ニュースは、日の丸の赤丸の中に原子力のマークを入れて「日本の新国旗誕生です」と報道しています。

木原省治

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2023年7月 9日 (日)

柳田邦男著「空白の天気図」ー黒い雨

4月4日のブログ「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ-」: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)の最後に「これを機会に『空白の天気図』を読み直したいと思っています。」と書きましたが、ようやく柳田邦男著「空白の天気図」を読み終えました。

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手元にあったのは、新潮文庫の初版(昭和56年7月25日発行)です。

ずいぶん前に一度は読んだことがあったはずですが、「あっこんなことが書いてあったのだ」と思う場面の数々に出会いました。

特にその思いを強くしたのが、「黒い雨」のタイトルの付いた第5章です。

柳田さんは、この著作の中で「黒い雨被爆者」の命運を分けることになった「宇田雨域」が、どういう経過を経て調査され、決定したのかを詳細に記述しています。

もちろんその後の「黒い雨訴訟」では、この宇田雨域が大きな争点となるのですが、私が関心を持ったのは、「黒い雨の降雨地域」の調査することになったきっかけです。

「空白の天気図」の中では、その時の様子が次のように記されています。少し長いのですが、引用します。

「宇田は、原爆で皆実町の自宅が破壊されたため、原爆後は爆心地から西に4.2粁程離れた郊外の高須に移り住んでいた。子供は三人いたが、そのうち一人だけ親許を離れて疎開していた小学校六年生の次男が、十月になって疎開先から帰ってきた。ところが、その次男が、広島に帰ってまもなく髪の毛が脱ける脱毛症状を起こした。高須から己斐にかけての一帯では、脱毛したとき下痢をしたという話をよく耳にしたので、宇田は次男も残留放射能にやられたに違いないと心配した。それにしても二ヶ月も経っているのにおかしいと思っていたところへ、近所に理化学研究所の調査班が残留放射能の調査にやって来た。調査班は、理研仁科研究室の宮崎友喜雄と佐々木忠義という二人の若手研究員だった。宇田は、仁科研究室の人たちと顔見知りだったので、自宅へ招いて、昼食をふるまった。

宇田は、宮崎、佐々木の二人に、原爆のときは広島に居なかった自分の次男が最近疎開先から帰ったら急に脱毛したのだが、このあたりはまで強い放射能が残っているのだろうか、と尋ねた。『この付近の泥を測定しますと、どうもかなりかなり高い放射能の値を示しています。直後に降った雨で放射能が運ばれてきたようです。ひとつ先生のお宅も測ってみましょうか』と、宮崎が言った。二人は携帯用の測定器機をもっていたので、宇田の家のまわりをあちこち測定してみた。驚いたことに、雨戸にこびりついた泥から非常に強い放射能が出ていることが発見された。その雨戸は、原爆のとき爆風で庭に吹き飛ばされ、間もなく降って来た黒ずんだ雨に打たれて、雨水中の泥分がこびりついていたのだった。」

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赤色の部分が宇田雨域

その後宇田は、黒い雨の調査の重要性について台員たちに次のように説明した。「黒い雨が強い放射能を帯びた泥を含んでいたとするなら、雨がどのように発生し、どのような地域にどれぐらい降ったのかを明らかにすることは、単に原爆に伴う気象現象の変化を解明するのに役立つばかりでなく、放射能の影響範囲と影響度を調べるためにも重要な資料となる筈だ」

当時の少数の気象台員による調査を元にした「宇田雨域」が、黒い雨被爆者の拡大の大きな阻害になった(といっても、その責任は、宇田報告にあるのではなく、頑なに黒い雨降雨地域の拡大を拒んだ国の責任が問われるべき)のも事実ですが、もし宇田の「黒い雨への疑問」がなかったら、黒い雨の被爆者を救済する道は本当に開けたのだろうか、との思いをこの本を読みながら感じました。

いのちとうとし

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2023年7月 8日 (土)

2023年7月のブルーベリー農園その1

標高400mのところにあるブルーベリー農園の周囲では7月になるとトンボが孵化して姿を現す。ヤンマやオニヤンマはまだ見ない。今年生まれのアマガエルも蛇もまだ小さい。出会うとぎょっとするムカデが今年は多いし、スズメバチの捕獲器の成果は数匹で少ないのでちょっと心配。雨の合間に安芸区の自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー農園に週末に農作業に通っている。早稲のブルーベリーの収穫が始まっているので少しづつだが安芸の郷に納品をしている。主に早稲のタイプのブルーベリージャムに加工される。

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72日(日)

農園にあるヤブカンゾウ蕾がずいぶん大きくなった。この系列のノカンゾウやヘメロカリスの花は安芸の郷の庭ではもう咲いている。標高約400mの農園ではこれから開花を迎える。

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農園の庭の池は水の好きな生き物が集まる。ショウブの葉にじぃーっと止まっているシオカラトンボのメス。今朝孵化したのだろう。

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名前知らずのトンボは動きが活発。

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庭のガクアジサイ。少しうえからみると、わさわさわさといった感じで咲き誇っている。

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1日は雨だったが、2日は晴天でブルーベリーの茂み中から仰ぐ空は青い。

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早稲のブルーベリーを数キロ摘み取ったので、安芸区の自宅に帰る途中安芸の郷に立ち寄り納品した。

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73日(月)

この時期は農園に着いたら最初に庭の池の周りを見に行く。黄色がかったイトトンボがゆっくり枝から枝に飛んではしばらくとまっていた。

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早稲のブルーベリー畑で摘み取りをしていると小指の先くらいの小さなアマガエルが葉にとまっていた。大きなブルーベリーの粒と見比べても小さい。

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早稲のブルーベリーの新しい枝がたくさんついて、よく伸びている。この枝に8月下旬から9月末頃までに花芽が作られる。

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ブルーベリーの畑の中の草刈り。木と木の間の草を刈っていくが垂れ下がった枝が刈払機に絡んで作業の邪魔をする。

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ブルーベリー畑の上は」梅雨空の雲が重くのしかかっている。梅雨明けはまだ先。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年7月 7日 (金)

原民喜ゆかりの被爆シダレヤナギ

先日、中区図書館で雑誌コーナーの1冊を開くと「平和を伝える木 原民喜ゆかりの被爆シダレヤナギ」の記事が目にとまりました。

見開き2ページのうち、右1ページはは、「被爆シダレヤナギ」にまつわる片山典子さんが書かれた文章が、左1ページには、写真が掲載されています。この被爆シダレヤナギは、京橋川右岸上の柳橋西詰河岸緑地に生えています。

片山さんの文章の中には、被爆樹木を診てこられた樹木医坂口力さんから聞いた話が多くのスペースを割いて紹介されています。

気になったのは、このシダレヤナギの川側への傾きの話です。私もこれまでに何度かこの木を見に来たことがありますが、「ずいぶん川側に曲がっているが、折れないのかな」とは思ったのですが、それ以上のことを考えることはありませんでした。

この話ちょっと気になりましたので、久しぶりの青空が見えた昨日、現地に行ってきました。

片山さんの文章を読んだ後だからでしょうか、以前訪れたときよりも、ずいぶんと川側に傾いているように感じました。

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片山さんの文章には、このシダレヤナギが被爆樹木に登録された2006年(被爆61年)当時の写真が掲載されています。キャプションに「広島市提供」とありましたので、広島市の被爆樹木リストを検索しました。登録時のシダレヤナギの写真が使われています。雑誌に使われていた写真と同じものと思われますので、私も借用することにしました。

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少しは、川の方向に傾いていますが、今ほどでないことがわかります。

雑誌には、樹木医坂口力さんの話が次のように紹介されています。

「川岸に立つ樹木は、岸川だけに根を張るので、傾きやすいんです。あれだけの放射能。変異があっても不思議はないが、もっと長いスパンで研究しなくては」

シダレヤナギの傾きの大きな原因は、川岸に立っていることのようです。確かに、この根元の護岸は、石垣が積まれていますので、川方向に根を張ることは困難だということがよくわかります。

さらに、坂口さんの話は続きます。「一般的に100から150年の寿命と言われるシダレヤナギ。推定樹齢100年。」片山さんは、「被爆ヤナギは台風にでも遭えば折れるのではないか」と心配しますが、坂口さんの話は違います。「ここに出ているヒコバエが成長してくると、少しずつ重心が岸側に傾いてくる。」「老いた木、親木は次第に葉を落とし、自然に枯れていくのです。」

この「ヒコバエ」という言葉が気になったものですから、昨日現地に行ってきたのです。

根元をよく見ると、「ヒコバエ」が、川と反対方向に大きく育っています。

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こんなに大きくヒコバエが育っていることに気づいたのは初めてです。雑誌を読まなければ、気づかないままだったと思います。樹木の生命力の強さを感じます。ヒコバエには、しっかりと支柱が添えられ、手厚く保護されているのがわかります。これらは、全て樹木医坂口力さんの指導で、進められているようです。

この姿を見れば、親木が枯れたり折れたりしたとしても、このヒコバエが「被爆樹木」としての役割を果たすことが出来ると思いました。

雑誌(今名前が思い出せない)に綴られた片山さんの文章を目にしなければ、原民喜ゆかりの被爆シダレヤナギを、ここまで細かく観察しなかったと思います。

被爆から78周年、それぞれの歴史の中で、この長い間を生き抜いた被爆樹木達が、何時までも元気にその姿を残して欲しいとの思いを強くしました。

いのちとうとし

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2023年7月 6日 (木)

広島県原水禁、「平和宣言」で広島市に申入れ

広島県原水禁は昨日,高橋克浩代表委員、金子哲夫代表委員、大瀬事務局長の3名が、広島市の担当課を訪れ、8月6日の平和記念式典で発表される「平和宣言」について、申し入れを行いました。

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G7広島サミットが、5月19日に発表した「広島ビジョン」は、「核兵器の保有」を事実上容認する「核抑止論」を前面的に肯定するものであり、広島はとても容認できるものではありません。

G7広島サミット後の広島市は、この「広島ビジョン」を明確に否定する意思表明を行っていません。

「広島ビジョン」に対し、これまで主張してきた広島の立場とは明確に違うことを,明らかにしなければ、「核抑止論」を肯定する広島ビジョンを広島も受け入れたことになります。

その意味でも、今年の「平和宣言」は、重要な意味を持つことになります。

そうして立場から、今回の申し入れを行うことにしました。その申し入れの全文を掲載します。


平和宣言では、「核抑止論」を明確に否定してください。

 日頃から、市民生活の向上、平和行政の推進のためご尽力されていますことに敬意を表します。

 広島は、まもなく78回目のあの日8月6日を迎えます。

 貴職におかれましては、現在8月6日の平和記念式典で読み上げられる「平和宣言」の作成を進められていることと拝察いたします。

 広島市民は、今年の「平和宣言」がどのような内容になるのか、とりわけ強い関心を持っています。

それは、言うまでもないことですが、今年5月にG7広島サミットが開催されて初めての平和宣言となるからです。

G7広島サミットでは、初日の5月19日に「広島ビジョン」が発表されました。私たちは、その内容が広島の期待に応えるものとなるのか強い関心を持って見守ってきました。

しかし、残念ながら発表された「広島ビジョン」は、広島の思いに応えるものではありませんでした。

せっかく、原爆資料館を見学し、被爆者との対面が行われたにもかかわらず、「広島ビジョン」には、被爆者の言葉もなければ、核兵器禁止条約に触れることも全くありませんでした。

それどころか、「核兵器の保有」を容認し、とりわけ「核兵器は、それが存在する限りにおいて、防衛目的のために役割を果たし、 侵略を抑止し、並びに戦争及び威圧を防止すべきとの理解に基づいている。」と、核抑止論を肯定しています。

これは、被爆者や広島市民の「核兵器の非人道性」や「核兵器の廃絶」の訴えと真っ向から対立するものであります。

貴職は、これまで度々「核兵器は『絶対悪』だ」と強調されてきましたが、この考え方をも否定するものでもあります。

今年発表される平和宣言においては、このような「広島ビジョン」の考え方を広島は絶対に受け入れないことを表明することが絶対に必要です。もし、このことに触れなければ「広島が核抑止論を認めた」ことになってしまいます。

つきましては、貴職が、今年の平和記念式典で発表される「平和宣言」において、広島は、「広島ビジョン」のいう「核抑止論」を完全に否定すると共に、日本政府に対し「早期に核兵器禁止条約の批准する」ことを強く求めるものとなることを要望します。


この要望に対し、対応した平和推進課長は「現在、平和宣言の案作りが、市民の代表や有識者の意見を聞きながら進めています。検討会では『今日の情勢では、G7サミットについて触れるべきだ』との多くの意見が出されています」と話しながら「広島市の核抑止を否定する考えは、いささかも変わっていませんので、平和宣言の中で、当然このことですが盛り込まれると思います。」との回答でした。

その後「広島ビジョン」をめぐっても意見交換をしましたが、あまりにも支離滅裂でお粗末な(私が勝手に思っただけかも知れませんが)広島市の説明にただただ唖然とする思いでした。

ただ、申し入れの中心である「平和宣言で核抑止論を否定すること」は、実現しそうですので、8月6日に発表される内容を待ちたいと思います。

いのちとうとし

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2023年7月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その49) 「ベトナム象、広島を歩く」エピローグ4 ~日越外交秘話~

豊臣秀吉に送られたベトナム書簡

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「安南国副都堂福義侯阮粛書」九州国立博物館

これは九州博物館が2013年4月15日に「最古の安南国書簡」と発表した「安南国副都堂福義侯阮粛書簡」です。京都市内の古書店で見つかった文書を九州博物館が買い取ったもので、ベトナムから日本に届いた最古の書簡ということから、2018年に国の重要文化財に指定されました。

日付は「光興十四年閏三月二十一日」となっています。「光興」は15世紀から18世紀にかけて現在のハノイを都にしていた黎(レイ)王朝の元号で、日本では天正19年4月21日(西暦1591年5月13日)に当たります。ベトナム象(享保の象)が来る137年前の豊臣秀吉の時代、鮮出兵の前年、千利休が切腹した年です。

当時のベトナムは「ヒロシマとベトナム」(その47)で紹介したように現在のハノイを都とする黎(レイ)朝が衰退し、台頭した軍司令官・莫登庸(マク・ダン・ズン)とベトナム北部の覇を争い、同じく有力な家臣の阮(グエン)氏が中部に独立しつつあった独立王朝時代後期、内乱時代に入った頃です。

日本は「天下布武」を目前に倒れた織田信長の後継者として躍り出た豊臣秀吉が天下を治め、長く続いた戦国時代が終わろうとしていた頃です。ちなみに戦国時代は応仁の乱が始まった1467年から大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶ1615年までの約150年間とされています。

 差出人の「安南国天下統兵都元帥瑞国公」とは、黎(レイ)王朝の家臣でありながら、ベトナム中部のフエを中心に勢力を固め、なかば独立国としての「広南(クアンナム)国」を樹立した阮潢(グエン・ホアン)とされています。

詐欺師の海商と日本人僧が取り結んだ「書簡」

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上の囲みは「安南国副都堂福義侯阮粛書簡」の文面です。(文中の二重線は筆者)

少し長いですが、蓮田隆志氏と米谷均氏による『近世日越通交の黎明』から訳文を見てみましょう。

「安南國の副都堂•福義侯である玩某が、謹んで日本国国王座下に書を送ります。『信は 国の宝であり、誠は(その君主が)備えるべきものだ』 と申します。先年、陳梁山という者が我が国に来たので会ったところ、「(日本)国王は強くて力のある象を好む。」と言いました。(手元に)象が一頭いるので、陳梁山に預けて(彼を)国王の元へ帰そうとしましたが、乗船が小さくて載せることができませんでした。(そこで)上質の香木二本、雨油諦一本、象牙一本、上等の貯(絹織物)二匹が有ったので、 国王に差し上げて、それによってよしみを結ぼうとしました。次の年、隆巌という者がまた我が国にやってきて『陳梁山や(彼に預けた)財物は見たことがない。』と言います。ここに雨油蓋が一本あるので、もう一度国王に贈って信義(の証し)とします。 もし国王が我が国の珍奇な品物をお気に召したならば、重ねてもう一度隆巌を遣わして、上等の剣二振りと上等な鎧一揃いを持たせて、(我が国に)来航して(わたくし)玩にお送り下さい。珍奇な品々を買って国王にお返しし、これによって両国が往来し通信するよしみを通じたいと思います。ここに書す。光興十四年閏三月二十一日。」

 訳文で意味はお解りいただけたと思いますが、問題は陳梁山と隆巌です。蓮田氏らによると「陳梁山は華人 ・ ベトナム人双方の可能性があるが決め手はなく、 南シナ海を往来する海商と考えられる。当時、日本には日本国王を名乗ったものはおらず、(日本国王というのは)陳梁山のでっち上げた架空の存在であろう」と分析しています。

 隆厳は「僧侶であっても不思議ではなく、日明貿易や日琉貿易に僧侶が果たした役割などから、日本人僧の可能性もある」としています。

得体の知れない詐欺師の海商・陳梁山に欺された福義侯。しかも、欺されたとも知らず、日本の国王との誼を何としても結びたいという思いがたぎる福義侯の書簡に、当時のベトナムの時代を感じます。

詐欺師・陳梁山と日本人僧・隆厳が取り結んだ日越最古の書簡に、やがて徳川家康によって始まる朱印船貿易の曙を感じます。歴史とは面白いものですね。

昨年から14回にわたって続けた「ベトナム象広島を歩く」シリーズ、これをもちまして「完」とします。

(2023年7月5日、あかたつ)

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2023年7月 4日 (火)

第42回反核平和の火リレー出発式と「3の日行動」

第42回反核平和の火リレー出発式

今年で42回目となる広島県青年女性平和友好祭実行委員会主催の「反核平和の火リレー」の出発式が、昨日午前7時45分から原爆慰霊碑まで行われました。

出発式が始まる直前、ちょっとした出来事がありました。シルバー人材センターの人たちによる原爆慰霊碑献花台の清掃作業が始まったのです。出発式が始まりそうになっても中断する様子はありませんでしたので、広島県被団協の前田事務局長がお願いをし、作業を中断してもらったのですが、私は、この反核平和の火リレーの出発式には、1982年に始まって以来、ほぼ毎回(私の記憶では)参加していますが、こんな景色に出会ったのは初めてです。

出発式は、定免大生事務局長の司会で進行しました。

最初に新田康博実行委員長が献花をし、その後全員で黙祷を捧げます。続いて、竹元寬徳自治労広島県本部青年部長の手で、「平和の灯」からトーチに採火。最初の年1982年、平和の灯からの採火は、初めてのことで、その許可をもらうため、何度も市役所に足を運んだことを思い出しながら、見つめました。

採火された火は、原爆慰霊碑前で新田康博実行委員長のもつトーチに点火されました。

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続いて激励の言葉です。広島県原爆被害者団体協議会前田耕一郎事務局長、広島県原水禁を代表して私の二人がマイクを握りました。広島県平和運動センター大瀬敬昭事務局長、社民党県連合有田優子副代表、新社会党広島県本部三木郁子委員長の紹介。

松井一實市長からのメッセージの紹介です。メッセージの紹介の最中に、平和の時計が、リレーのスタートを予定していた8時15分を告げました。

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第1走者の新田康博実行委員長が「『核と人類は共存できない』ことを幅広く市民や自治体、世論に訴えながら、リレー運動を取り組みます」と決意を表明して,他の5人のランナーと共に、平和の火を掲げ原爆慰霊碑前を元気に次の中継地原爆ドーム前バス停(約1キロ)をめざして元気にスタートしました。

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どんよりとした曇り空でしたが、雨も降らず出発式は、無事終了しました。

今年の反核平和の火リレーは、7月21日まで(土日祝日を除く)の14日間、県内23全市町自治体、579区間、639.3kmを1000名のランナーを目標に走り継ぐことになっています。県内を一周した反核平和の火リレーは、7月21日の午後6時に原爆慰霊碑前に最終ランナーが到着する予定です。

各自治体では、庁舎前で集会が行われ①核兵器開発や核実験など核廃絶への思いを踏みにじる動きに、抗議の表明をすること②「核兵器禁止条約」に批准に向け政府に働きかけ、合せて議会決議をすることなど11項目にわたる要請書を提出することになっています。この平和の火リレーを契機に、全自治体で「核兵器禁止条約批准」を求める動きが、強くなることが期待されます。

「3の日行動」

同じ3日の夕方午後5時半から、戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会は、7月の「3の日行動」をいつものように本通電停前で実施ました。

今月の主なアピールは次の内容でした。

「岸田内閣の大軍拡 大増税反対」

・平和記念公園とパールハーバー国立記念公園との姉妹協定問題

・国会情勢について
・マイナ保険証問題

・多文化共生・入管法改悪問題

・島根原発再稼働問題

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私も、「国会情勢について」で「ほとんど論議も深まらないまま、そして国民がほとんどその内容を知らないままに、次々と悪法が成立した。最も重い責任は、国会の解散権をもてあそび、それを強行的に進めた岸田政権、自公与党にあるが、その内容を厳しく追及すべき野党の中に、その責任を放棄して与党へすり寄っていく姿勢こそが、国会論議を形骸化させる原因となった」ことなどをアピールしました。

参加者は、30人でした。

いのちとうとし

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2023年7月 3日 (月)

絵本「シュモーおじさん」の原画展と布で描く絵手紙展

いつもこのブログの間違いを指摘してくれる貴田月美さんから,一昨日「絵本『シュモーおじさん』の原画展と、布で描く絵手紙展が明日夕方5時まで、ひと・まちプラザ1階ロビーで開催中です。お時間があれば見に行ってください。」とのメールが届きましたので、最終日の昨日会場に行ってきました。

ひと・まちプラザ1階ロビーの展示会場の受付には、多賀俊介さんの姿がありました。ちょっとびっくりです。

多賀さんに話を聞きました。

この展覧会を開くきっかけとなったのは、3年ほど前シュモーハウスにシュモーに学ぶ会の西村会長を訪ねて来られた山根良だったそうです。だったそうです。当時シュモーハウスにいたのが多賀さんだったのです。

そんな縁から、今回の展覧会は、戸田幸一郎さんの絵本「シュモーおじさん」の原画と山根美子さんの布で描いた手紙の合同展示会となったようです。

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会場に入って左側のコーナーが、絵本の原画展。

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シュモーハウスを紹介する資料も置かれています。

右側が山根さんの布で描く絵手紙が展示されています。

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貴田さんからのメールには、「布で描く絵手紙」と書かれていましたので、どんな作品だろうと思っていたのですが、作品は、文字は手書きですが、図柄の部分が布を切って貼り付けられていました。

山根さんは、現在は佐賀に在住ですが、お母さんが広島での被爆者。当時、愛媛から海田高女工場に転校する手続き中だった叔母は、広島市稲荷町に住み京橋で被爆死。「おばさんといっても、私は会ったこともありませんし、若いときに亡くなられてので、お姉さんと呼んでいます」と話しておられました。叔母佐々木八重子さんの遺影は、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館に登録されています。山根さんが、その遺影を見つけ、そのコピーが、会場に展示されていました。私との話の途中で山根さんの友人が会場に来られましたので、残念ながら、「だれが遺影を登録されたのか」を聞き漏らしてしまいました。

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山根さんご自身は、戦後生まれ(私と同い年)ですから、被爆はしていませんが、長い間長崎市に住んでおられたため、作品の絵手紙には、長崎の被爆に関するものも多くありました。だからでしょう、展覧会のタイトルは「母の広島 私の長崎布手紙展」となっています。

思いがけない出会いがあり、被爆の実相を知ることになった展示会でした。

いのちとうとし

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2023年7月 2日 (日)

浪速の歌う巨人:パギヤん(趙博)のLIVE&TALK in HIHUKUSHO

広島⽂学資料保全の会が主催する「浪速の歌う巨人:パギやん(趙博)のLIVE&TALK in HIHUKUSHO」が、昨日午後3時から広島陸軍被服⽀廠敷地内で開催されました。

趙博(チョウ・バク)さんは、大阪生まれで"浪花の歌う巨⼈・パギやん"の愛称で親しまれている歌⼿・役者・物書きとして活躍されています。

今回の企画は、35日に行われた「峠三吉没後70年碑前祭」の後に行われた懇談会の場で出た話がまとまって実施になったものです。 

「LIVE&TALK」は、広島⽂学資料保全の会の土屋時子さんの司会で始まりました。最初に、参議院議員三上絵里さんを中心にした5人による詩「仮繃帯所にて」(峠三吉「原爆詩集」より)の朗読です。元アナウンサーの三上さんの朗読に参加者一同聞き入ります。

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詩の朗読が終わるとパギやんこと趙博さんのライブです。

最初の歌は、2011年東日本大震災の後に訪れた釜石小学校の校歌でした。歌った後に「校名が全く入っていない校歌は珍しいですね。」と紹介。次は原発を批判する自作の「核々死か慈か」です。ユニークな歌詞が並びます。

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トークも入ります。「1976年の原水禁大会に初めて参加しました。その数年後ですが、森瀧市郎さんの通訳の仕事をしました。その時森滝さんが言われた『核兵器だけでなく私は『反核世界連合』が作りたいのです』が忘れられません。」

その後、グー・チョキ・パーなどの歌が続き、韓国の歌「ひでり」から、チャンゴの伴奏が入りました。

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チャンゴの演奏者は、私の古い友人裴学泰(ペ・ハッテ)さんです。二人は古い知り合いのようです。息の合った演奏が続き、最後は「アリラン」の歌(2400曲あるともいわれ、地方によって少しずつ違う)2曲で約40分間のライブは終了しました。

これで終わったわけではありません。後半こそが、今回のメイン、声体⽂藝館(パギやん⼀⼈芝居)「ヒロシマの⺟⼦像 / 四國五郎と弟・直登」予告編の上演です。

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四國五郎さんの「弟への鎮魂歌」などを元にして、今準備が進められている一人芝居の文字通り、予告編です。

弟・直登さんの日記の朗読の時には、参加者一同、シーンと聞き入りました。

予告編の上演時間は、約40分あまりでしたが、本番は、1時間半ぐらいの長編になるようです。

本番の一人芝居を聞き見たいと思います。

始まる少し前から雨も上がり、多くの人に強い印象を残し「パギヤん(趙博)のLIVE&TALK」は無事に終了しました。

いのちとうとし

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2023年7月 1日 (土)

「広島平和記念公園と米国パールハーバー国立記念公園との姉妹公園協定」について要望書提出

戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会は、6月29日、高橋克浩(平和運動センター議長)など4人が広島市を訪れ、広島市松井一實市長に対し、「広島平和記念公園と米国パールハーバー国立記念公園との姉妹公園協定の締結を松井市長は白紙に戻し、市民的な議論の場を設定すること」を求める要望書を提出しました。

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要望書にもあるように、広島市民がこのことを知ったのは、広島市とアメリカ政府が締結するわずか1週間前で、市民がこの問題に意見を述べることは事実上封殺されたまま進められたということです。暴挙以外のなにものでもありません。

問題点は、以下の申し入れ書に書かれていますので、ぜひ読んで欲しいのですが、もう一つ私が関心を持っているのは、協定の相手が自治体ではなくアメリカ政府だということです。

これまでの広島市の様々な姉妹提携で、こんなケースがあったのだろうかと疑問を感じています。


広島平和記念公園と米国パールハーバー国立記念公園との姉妹公園協定の締結を松井市長は白紙に戻し、市民的な議論の場を設定することを求めます

 629日本日、広島市は、米軍の原爆無差別大量虐殺の地に立つ広島平和記念公園と、旧日本軍の真珠湾攻撃と日米開戦にまつわる米国のパールハーバー国立記念公園が姉妹公園協定を締結すると報じられています。市民が今回の協定を知ったのは、622日の報道を通してであり、あまりに性急すぎます。

 パールハーバー国立記念公園は、アメリカ太平洋艦隊の司令部があるパールハーバーの中で、第二次世界大戦の旧日本軍による奇襲攻撃を忘れるなと、沈没した戦艦アリゾナの残骸と記念館、戦艦ユタの遺構などからなります。戦死者の軍人を顕彰し、米軍を常に鼓舞するための施設であり、言うなれば「広島・長崎への原爆攻撃を正当化する」ための原点であると、私たちは考えます。

 広島市の発表した「経緯等」によると、本年4月、在大阪・神戸米国総領事から、G7広島サミットの開催を契機として姉妹公園協定の打診があり、6月には市長を訪問して、パールハーバー国立記念公園と平和記念公園は目指すところは共通しているとの見解を示されたそうですが、両公園の目的は、それぞれ何であり、どこが共通しているのかについて、広島市の見解を具体的に明らかにしてください。

 また、「本市としても、戦争の始まりと終焉の地に関係する両公園の提携は、過去の悲しみを耐えて憎しみを乗り越え、未来志向で平和と和解の架け橋の役割を果たしていくことになると考えています」とありますが、「過去の悲しみを耐えて憎しみを乗り越え」ていくべき主語を広島市民と考えているのか、広島市の見解を具体的に教えてください。

 さらに、「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」の実現に向けた第一歩として、その機運の醸成に資することにつながることから、協定締結の申出を受け入れることにしました」とありますが、「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」の中身を広島市は、全面的に肯定し、これまでの広島平和宣言との整合性を全く問題ないと考えているのか、あらためて広島市の見解を具体的に教えてください。

 最後に、広島市の発表した「提携協定の概要」の【目的】によると、「国際協力プロジェクト」を通じて両公園に関わる人材の経験を豊かにし、研修を充実させるとありますが、広島市として、旧日本軍の真珠湾攻撃と米軍の原爆無差別大量虐殺の関係をきちんと整理して見解を示さない限り、意味をなさないと考えますが、広島市としての見解を具体的に教えてください。

 以上のような広島市の見解が市民に明らかになっていない現時点では、今回の姉妹公園協定の締結は余りにも性急ですので白紙に戻したうえ、下記のことを早急に検討していただくよう要請します。

1、広島平和記念公園と米国パールハーバー国立記念公園の目的は、それぞれ何であり、どこが共通しているのかを含めて、被爆者をはじめ市民との議論の場を設定し、広島市の見解を示してください。


いのちとうとし

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