ベトナムの歴史(その25-2) 抗仏闘争を戦った日本兵-3
「友人を増やし、敵を減らす」
当時、ベトナム北部には中華民国軍(蒋介石軍)、南部にはイギリス軍が進駐し、日本軍の武装解除とフランス軍の再進駐を支援の役割を果たすと同時に、ホー・チ・ミンが建国したベトナム民主共和国潰しを画策していました。長い戦争で農業生産は衰退し、工業生産は停止、植民地支配が生んだギャンブルや麻薬といった社会悪が蔓延り、文盲率90%以上・・・・、と誕生したばかりのベトナム民主共和国は困難に直面していました。最大の問題は再び植民地支配を意図するフランスです。
9月23日(注1)、フランス軍がサイゴン(現ホーチミン市)でベトナム人を銃撃。これに対し南部人民の抗仏抵抗闘争が始まります。ベトミンは「友人を増やし、敵を減らす」との政策のもと、ベトナム国民と在留外国人に独立戦争参加を呼びかけます。そのスローガンは「愛国」と「独立」、「徹底抗戦」でした。
ホーチミン市にある「9月23日公園」ジャパン ベトナム フェスティバルの風景(2018年)
この方針は、「単なる戦術的ではなかった」。前号でも紹介した井川一久氏は、『日越関係発展の方途を探る研究、ヴェトナム独立戦争参加日本人-その実態と日越両国にとっての歴史的意味-』の中で、「インドシナ共産党は、創設者ホー・チ・ミンの別名グエン・アイ・クオック(阮愛国)(注2)が象徴しているように、もともと極めて愛国的な政党として出発し、いかなる運動に際しても、先ずもって国民の愛国心に訴えてきた。(中略)共産党と名乗る以上、共産主義(マルクス・レーニン主義)の革命イデオロギーと無縁ではあり得なかったが、この党に限っては、それよりもナショナリズムの方が本来はるかに強かった。祖国解放・独立は、革命よりも重要な目標であった。」と述べています。
ベトナムを愛した「新ベトナム」日本人
前述の井川氏は、ベトナム独立戦争に参加して生き残った日本人約40名に、①ベトナミンがインドシナ共産党の傘下にあることを知っていたか。②参加や武器提供を求めたベトミン要員もしくは協力者は、自ら共産党員ないしシンパと名乗ったか。③前2項が「イエス」だった場合、ベトミンの最終目標が社会主義革命であり、独立戦争はそのための一過程に過ぎなかったと考えていたか。の3点をインタビューしています。
①については約6割が「知らなかった」、「そんなことはどうでも良かった」、一部情報将校が認識していた程度。②に付いてはほぼ全員が「ノー」で、相手の所属政党やイデオロギーを確かめた上でベトミン参加した人はゼロだったということです。そして、「ヴェトナム人一般の愛国の熱情に対する共感からヴェトミンに加わったのであり、ヴェトナムの独立に貢献することがすべてであった」と述べています。
グエン・ブ・キーはその著、『第一次インドシナ戦争期における『新ベトナム』日本人の誕生-残留日本人の活動(1945~1947年)を中心に』で、「日本が連合軍に降伏したとき、ベトナムにいた兵隊たちは、多大な心理的ショックを被った。多くの兵隊たちは、ベトナムに留まることを決定し、彼ら自身の生活と敗戦後の日本の将来への不安から隊伍を離れたのである」とし、「特に彼らは以下の理由で部隊から逃走し、ベトナムに残留した。第1は、ベトナム人民の独立闘争に対する同情と、ベトナム国と民衆への愛着である」と、井川氏と同様の見解を述べています。
もちろん、井川氏やキー氏も述べているように、「敗戦の日本の将来を悲観」、「戦犯として裁かれるのを恐れて」、「愛人がいたり、特定の女性に好意を寄せていた」、「残置諜報者として任務を全うしよう」などもあったでしょう。
次号では、ベトナム独立戦争に参加しフランス軍との戦闘で戦死した福山市出身の石井卓雄元陸軍少佐について触れます。
(注1)9月23日「南部抗戦の日」
ベトナムでは南部抗戦の中で大規模な人民の抗戦が起こった9月23日を、「南部抗戦の日」に定め、ベトナム人の不屈の精神を象徴する日とされています。ホーチミン市中心部には「9月23日公園」があります。(VIETJO)
(注2)グエン・アイ・クオック(阮愛国)
ホー・チ・ミン(胡志明) 在学中に農民の抗税運動に関わり退学処分。フランス、アメリカ、イギリスなどを経、ロシア革命後フランス共産党入党。第一次世界大戦後のパリ講和会議に安南愛国者協会を代表し出席。8項目の請願書「安南人民の要求」を提出。この請願書を提出する際、本名の「グエン・タト・タイン(阮必成)」ではなく「グエン・アイ・クオック(阮愛國)」として署名。以降ホーは本名を名乗らずグエン・アイ・クオックとして政治活動を行う。「安南人民の要求」はパリ講和会議で採択されなかったが、グエン・アイ・クオックの名は穏健なナショナリスト(民族主義者)として世界に知られることとなった。(ウィキペディア)
(2023年6月20日、あかたつ)
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