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2023年6月14日 (水)

記念講演「第五福竜丸を知っていますか?」

被爆78周年原水爆禁止世界大会広島県実行委員会結成総会の後に「第五福竜丸を知っていますか?」と題して、第五福竜丸展示館学芸員・市田真理さんの記念講演が行われました。

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「第五福竜丸」は、ビキニ水爆実験「ブラボー」に遭遇し被曝した静岡県焼津港所属のマグロ漁船です。

第五福竜丸が、廃船処分になって東京江東区・夢の島には遺棄されたのが、1967年。その翌年から「保存の呼びかけ」が始まり、1976年6月10日に「都立第五福竜丸展示館」として開館しました。コロナの影響で、昨年は来館者が6万人に落ち込んだのですが、例年11万人の人が訪れています。

「どうして保存運動にそんなに頑張れたのですか」の問いの答えは「板きれ一枚でも残したい.水爆実験の生き証人だから」。

1966年から募金運動が始まり、翌年に第1回の保存工事が行われ保存が決まった原爆ドームの保存運動に学びながら、「原爆ドームを守った私たちの力でこの船を守ろう」(朝日新聞への投書)と保存運動が始められたことから、市田さんの話は始まりました。

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そして、1954年3月1日にアメリカがビキニ環礁で実施した水爆実験「ブラボー」、そしてなぜ第五福竜丸は被曝したのか、放射能汚染魚の広がり、第五福竜丸が焼津に帰港してからの起こった被曝報道等が、詳しく紹介されました。

当時の中国新聞がどのように報道したかも話されました。改めて調べてみたいと思います。被曝し最初の犠牲者となった久保山愛吉さんに3千通の手紙が届いたこと、内半数が子どもからのものだったことの報告も印象的でした。

さらに市田さんの話は、全国各地で広がった「原水爆禁止」の署名運動,特に広島での署名が瞬くまに100万に達し,国連に送られたことに移ります。今に至る原水禁運動の出発点となった出来事ですので、しっかりと学んで欲しい内容です。

問題の収束を急いだアメリカ政府と日本政府。翌年1月には、アメリカ政府の200万ドル(7億2000万円)の見舞金で、政治決着。一人あたりの慰謝料は、平均200万。久保山愛吉さんへの慰謝料は500万。第五福竜丸の乗組員への補償はこれで終わり。

慰謝料が出たことに対し,広島の被爆女性から「私共の広島では今尚,九年前の原爆による原爆症によって幾人かは治療もろくに出来ず、何の補償すらなく不安におののき死んでいかなければならない方達が居ります。貴女以上の苦しみと淋しさ打ちのめされただれ一人顧みられない・・・・」との手紙が久保山さんの遺族に届いたことも紹介されました。

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広島の被爆者の苦悩がにじみ出たこの手紙が、一方では非難とも受け取れるものですので、この問題をどう考えるべきかと問われた気がします。

しかし、その後の原水禁運動、被爆者救済運動の中で1957年に成立した「原爆医療法」では、第五福竜丸の被曝者は、その対象から除外をされ、「被爆者援護法」が成立した今も、同じヒバクシャでありながら、その対象とならないままであることも忘れてはならないことです。

第五福竜丸の被曝から日本での原水禁運動はスタートし、これを契機に広島・長崎の被爆者救援の運動が進んだのですが、長く私たちが気づかずにいたのが、核実験場となったマーシャル諸島の住んでいた住民の被曝の事実です。私たち日本の原水禁運動がその問題の初めて向き合ったのは、1971年に開催された被爆26周年原水禁世界大会にミクロネシアの代表が参加したときからです。ようやく私たちは、世界の核被害者の問題と向き合うことになったのです。

貴重な資料もあり、原水禁運動の歴史を振り返り、問題を学び直すことの多かった市田さんの講演でした。

約50名あまりの参加者の内、これまでに第五福竜丸展示館を訪れたのは約10名でした。私もまだ一度も訪れたことがありませんので、今度東京に行ったときには、見学に行こうと思います。

いのちとうとし

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コメント

第五福竜丸以外に、被爆した船が、いますか。被爆後、間もなく死亡した乗組員の死因は、明示されていますか。

Aさん、コメントありがとうございます。
当時、多くの日本の漁船がマグロ漁のため、同じ海域で操業していましたので、同じように多くの漁船が被曝したと言われています。アサヒグラフ1954年5月19日号には、第五福竜丸以外に「死の灰をかぶった日本漁船」として、16の船名をあげています。
久保山愛吉さんの死因は、「急性の放射能障害とそれに続発した激症型肝炎による多臓器不全」と言われています。当時の朝日新聞は死因を「放射能症」と報じています。

急性放射線症。ウィキぺディア参照。病理解剖で判明、肝炎。輸血が原因と推定。いのちとうとしさんへの反論は、ありません。どの記事を、信じたら、いいのでしょうか。朝日新聞は、サンゴ落書き事件、捏造が、あります。被曝につきましては別ルートの、聞いた話があります。その人は、治療先の病院長に、お礼として、クルーザーでなくて、モーターボートを、院長の息子さんに、したとか。話を、ご本人から、聴きました、その人の車は、防弾ガラスとか、昭和55年当時、防弾ガラスだけで,400万でですって。別世界の話でした。 非公開希望します。よろしくお願いします。

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