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2023年5月 5日 (金)

ヒロシマとベトナム(その47)

独立王朝時代後期、内乱の時代

ベトナム象はどのようにして日本に運ばれてきたのか見てゆきます。下表は、私が会長を務める東広島郷土史研究会の「2月例会」で発表した研究発表資料の一コマです。

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「資料」に見るように、939年に紀元前から続いた1000年に及ぶ中国による支配を脱し、約1000年の独立王朝時代に入りますが、ベトナム象が日本に来たのはその独立王朝時代の後期、ベトナム中北部で諸侯(それぞれ王朝を名乗る)が覇を争った「内乱の時代」です。下の地図はその時代のベトナムの勢力圏図です

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北部地域(トンキン:東京)は、現在のハノイ(安南)に拠点を置く鄧氏(ていし)と鄧氏に政権を追われた後黎朝(こうれいちょう)の勢力が支配。中部地域(コウナン:広南)は、フエを拠点に後にベトナムで初めて全土を統一した阮氏(ぐえんし)が支配しています。南部にはもともとベトナム中部からカンボジアにかけて強大な王国を築いていたチャンパ国 (占城)が、追われて辛うじて勢力を維持していました。

このようにベトナムでは大きく3つに分かれ、とくに北部と中部の2大勢力が覇権をめぐって争っていた時代、日本の戦国時代の後期とでもいう時代です。

鄧氏と阮氏は国内での支配権めぐる争いと同時に、近隣諸国とのベトナム国主をめぐる外交面でも競っていたものと思われます。

鄧氏(北部)vs阮氏(中部)の威信をかけた「象戦争」

江戸幕府開闢の1603年から1635年までの間、朱印船貿易行われており、ベトナムや暹羅(シャム:タイのアユタヤ王朝)、柬埔寨(カンボジア:カンボジア王国)、太泥(タニ:マレー半島のパタニ王国)、呂宋(ルソン:マニラを首都とするスペイン領ルソン島)、高砂(タカサゴ:オランダ領台湾)と交易し、356隻が行き交いしました。そのうちの130隻がベトナムで、北部のトンキンに37隻、中部の広南に97隻と記録が残っており、阮氏が鄧氏を圧倒していたようです。

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ベトナム北部と中部と交易した朱印船 出典:北進塾・情報局より

1639年に始まった鎖国政策のために公式な交易は無くなりますが、その後も中国商人などを介した日本との交流は続き、北部の鄧政権と中部の阮政権との交易をめぐる争も続きます。

そうした折、日本国の支配者である将軍が象を求めているという話しが伝わってきます。

この時代のベトナム人研究者の一人、ハノイ国家大学人文社会科学大学のファン・ハイ・リン准教授の論文、「前近代ベトナムにおける象の国家的管理と象貿易」(2018年3月『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報・第4号』に興味深い記述があります。雄雌2頭のベトナム象が日本に渡った「出来事が注目される一つの理由は、献上されたものではなく、将軍徳川吉宗の要請によりもたらされたからであろう」とし、「実はその要請が以前から商人の中で伝えられていたようだ。」と書いています。

そして、こうした要請をもとに北部トンキンの貿易商・呉子明が、徳川幕府に、ベトナム象ではなく暹羅(シャム)産を薦めていたという記録を紹介しています。ところが、実際に日本に送られた象は、暹羅産ではなく中部・広南のダンチョン象で、運んだ船主は鄧大成でした。

面白いですね。ベトナム国内の覇を争う北部(鄧政権)と中部(阮政権)が、日本に送る象でも争っていたようです。

ハウマッチ? ベトナム象

ところで皆さん、徳川吉宗は幾らでベトナム象を買い入れたのか気になりませんか? これも、ファン・ハイ・リン准教授の論文に参考になる記述があります。「一象可載米三十擡、毎擡二十鉢、亦有一市番、駆牛至、三百隻来売、一牛不過十貫、一象價銀二笏」。「一象價銀二笏これは当時ベトナム国内で売買されていた象の値段の記録で、一頭の象の價(あたい)2笏(しゃく)で、日本の20両に相当する金額です。

 1973 Photo_20230504160501  

1973年に撮影された象。1990年代には数千頭余野生象がいたが、200年には150頭未満に減少

実際に日本に運ばれた象の値段はいくらだったのでしょうか。

残っていた呉子明の手紙には次の様に書かれています。「一象其帯来、小船不堪装載、徒新定造大船二艘、毎艘只装得一隻、但欲定造お大船二艘、要用銀一萬餘兩、又唐山發船到暹羅、往来雑費、該用銀二萬餘兩」(『通行一覧』)。象を運ぶのに小さな船では駄目なので、新たに2艘建造などで1万両余り、シャムからの輸送など諸経費に2万両余りが必要と書き残されています。象一頭当たり、実に1万5千両余りです。

なんと! ベトナム国内の750倍になります。

実際に運んだのは呉子明ではなく鄧大成であり、暹羅象ではなくベトナム(広南象)だったので、吉宗が支払った金額が幾らだったのかわかりません。もしかすると、どこかに記録が残されており、いつの日か発見されれば判明するでしょう。

ちなみに、1両≒12万円として1頭当たり18億円になります。東洋経済(2018年4月)によると、動物園のアジア象1頭の値段が100~500万円ということですから、とてつもない金額です。「享保の改革」で奢侈禁止や倹約、殖産で財政再建を進めていた徳川吉宗、象に何を求めていたのでしょうか。前号で紹介した「軍象」・・・・?

 次号(6月5日)では、象好き!日本人の歴史を振り返りながら、ベトナム象が来た頃の日本とベトナムの興味深い「外交秘話」を紹介します。

(2023年5月5日、あかたつ)

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