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2023年5月

2023年5月31日 (水)

2023.5月のブルーベリー農園その4

農作業をしているとホトトギスがしきりに鳴く。里山の杉林あたりでこだまするように聞こえるかと思うと、ブルーベリー畑の中に入ってきて近くで鳴くこともある。そのさえずりを遮断するようにオスのキジがケーンケーンと鳴き縄張りを主張する。外に置いてあるピートモスの袋を剥ぐとムカデが動き、つづいて蛇の親子が3匹うごめいていて、うがーっ。スコップでピートモスを取り出して殺生せずにそのまま元に戻した。東広島市豊栄町のブルーベリー農園での作業は、日が長くなりうっかりすると5時過ぎても農園作業をしてしまうが、東広島バイパスの開通で混雑が解消されて安芸区の自宅に時間がほぼ1時間で帰れるようになった。

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522日(月)

里山のブルーベリー園の西側に植えて20年にもなるブルーベリーを1本で数本に成長している幹の中から1本だけ選んで切っていく。太くて高さが3mくらいあった。

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527日(土)

里山のブルーベリー園の周囲に細い竹がすーっと伸びている。ほっておくと茂るので柔らかいうちに剪定ばさみで根元から切っていく。

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竹もだが、ブッシュの中に咲くシライトソウの花穂も随分長く伸びた。こちらは切らない。

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里山の入り口の小さな畑で、ソラマメがよく育っている。さやが下を向いているものがたくさんあり、収穫して持ち帰り湯がいて頂く。

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畑からブルーベリーの畑が見渡せる。背の高くなったアザミ。右端がブルーベリー畑。

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同じ場所に

①、卯の花(ハコネウツギ)に赤い色が混じってきたり

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②、クモの巣に落ちたエゴノキの白い花びらなど、初夏もどんどん進む。

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3段あるブルーベリー畑の一番上の畑の端っこの早生のブルーベリーの木の周囲の草をのこぎり鎌で刈り、実を間引き枝の軽い剪定を行う。

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528日(日)

29日からはしばらく雨の日が続くので昨日と同じブルーベリー畑で枯れた木の後に早生のブルーベリーを7本ほど追い植えした。安芸の郷で育てた苗木を使用。

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周囲には昨秋種をまいた緑肥になるヘアリーベッチがクローバーにまじって花を咲かせている。

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早生の実が大きくなってきている。実の先端のガクが大きく口を開けているのが特徴の早生のスパルタンという品種。

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農園の小屋の側に咲くバラ。クイーンエリザベスという品種。安芸の郷に植えている同じバラより遅く開花。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年5月30日 (火)

運転免許更新高齢者講習に行きました。

7月に75歳を迎えます。最近は車を運転することも少なくなったのですが、もう一度は運転免許証を更新しようと思い、昨日免許更新のための認知症検査・高齢者講習に行ってきました。

今回も3年前と同じ南区宇品東にある中国自動車学校での高齢者講習の高齢者講習を受けました。

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この3年間、無事故無違反でしたので、運転技能検査は免除され認知症検査と高齢者講習だけです。

午後2時半から始まった講習の受講者は、8人です。

講習全体の説明があった後、最初は認知症検査です。1枚の紙に4種類の絵が描かれた紙4枚、計16種類の絵の名前を書き記す問題。最初は、何もなしで思い出す全ての名前を記載する。この時は、10しか思い出すことができませんでした。その後に、最初に絵を見せられたときに教官が出したヒントが書かれた用紙にもう一度名前を書きます。今度はヒントがありましたので、一応全部の名前を書くことができました。次は、並んだ数字の中から指定された数字だけを斜線で消すという検査です。最後にこの日の年、月、日、曜日を記載して認知症検査は終了しました。初めての体験ですので、ちょっと緊張しましたが、何とか無事終了。すぐに、検査結果の診断が行われ、30分ほど待つと自動車学校側の診断が終了。「全員、異常ありません」との報告があり、全員に何となくほっとした気分が広がりました。

次は、前回も行った視力の検査です。視力の平均値は次の通りです。

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免許更新時にも通常視力の検査はあるようですが、一応予備的に通常視力の検査も行います。運転免許更新時の通常視力は、0.7以上が必要とのことですが、私の通常視力は、1.2でした。

動体視力は0.4、視力回復時間は45秒、眩光下視力は0.4でした。この3種の視力検査は、この免許証更新時の講習時しか行いませんので、評価が難しいのですが、75歳ということでは、普通の評価でした。これらの視力検査結果が、免許更新に関わるわけではありませんが、自分の現在の状況を知ることができますので、運転時の参考にはなると思います。

最後は、車を運転しての実車です。最近車の運転をすることも少なくなっていましたし、あいにくの雨模様でしたが、これも無事終了。

全ての検査・講習がこれで終わり、「修了証明書」と「『認知症の恐れがある』基準に該当しない」と書かれた「認定認知機能検査結果通知書」を受け取り、中国自動車学校を後にしました。終了したのは、午後5時半ですから3時間のコースでした。

後は、この書類をもって運転免許センターに行き、新しい免許証の交付を受けるだけです。

いのちとうとし

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2023年5月29日 (月)

被爆復興のために贈られた広大の供木の今-その3

フェニックス北側の花壇には、ホルドノキ4本があります。

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この木の説明板は、木に取り付けられていました。

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説明板には「寄贈/(米国)南イリノイ大学」と書かれています。

フェニックスの奥に進むとメタセコイアの並木が,旧理学部一号館に向かった左右に28本並んでいます。

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樹高はわかりませんが、大きく育っています。

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説明板には、「寄付金によりカリフォルニア大学から移入された個体を母樹とした苗木を京都大学から移入」と書かれています。

このメタセコイアの右側にキンモクセイが植わっています。嘉陽さんの説明では、イギリスのマックローリンさんから贈られたもののようです。個人からも寄贈があったことがわかります。

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説明板は付いていませんし、左右にタイサンボクが大きく繁っていますので、「森戸道路」からは気をつけないと気づかないかもしれません。逆光になりますので、南側に回って写真を撮りました。

キンモクセイの開花時期は、9月中旬から10月下旬ですので、その時期には花の香りが一面に漂いますので見つけるのも簡単だと思います。

少し旧理学部一号館方向の進むと左側、タワーマンションの近くにサンゴジュが2本あります。

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この木も、説明板はありませんが、この木は、イギリスのエジンバラ大学から贈られたものです。

この木から「森戸道路」を挟んで反対の南側に移動するとシマトネリコの説明板が目に付きます。

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この説明板には「寄贈 アルゼンチン ペロン大統領エビータ夫人 記録にはアメリカトネリコとして記載されている」と書かれていますので、大学以外からも贈られたことがわかります。

嘉陽さんから最初の届いた資料では、「看板付近のエリアにシマトネリコの樹木が見当たらないので今回カウントしていない。」と書かれていましたが、改めて昨日この場所に行って見ると、説明板の南側にシマトネリコと思われる木を数本見つけました。

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よく見ると、木の幹がかなり細く見えますので、供木樹木そのものかどうかは不明です。

このシマトネリコの東側にトイレがありますが、その手前南側にスイスのジュネーブ大学から贈られたオリーブの木4本があります。よく探したのですが、説明板は見当たりません。

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4本といっても、わたしたちがよく見るオリーブの木のように高く伸びていません。丸い生垣状ですので、この木が供木樹木だとはとても思えません。

嘉陽さんから「少し枝をかき分けて根元を見てください」と言われましたので、根元を見てみると,根元付近に大きな幹の切り株を見ることができます。

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今のオリーブの木は、贈られて木の切り株から生えたひこばえが育ったもののようです。

このオリーブの木のすぐ近く、トイレの東側には、西ドイツ・マールブルグ大学から贈られた3本のタイサンボクが元気に育っています。

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丁度白く大きな花(手のひら大)を咲かせていました。

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これで、嘉陽さんの「森戸緑化運動樹木」リストに掲載された樹木を見終えました。

最後の嘉陽さんから「私が作ったリストは、この公園内にある『公園の説明板』を元にして作ったのです」」といわれ、公園の真ん中ほどにある説明板を見に行きました。

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この説明板には、公園の概要とともに右端に「献木とキャンバス緑化』とのタイトルで,現存する献木と当時木を贈った大学名が書かれています。

この説明板は、内容からいって公園を管理する広島市が作ったものと思われます。そうであるとすると、広島市は、この情報をどうして得たのだろうかと疑問がわいてきました。

というのも、この旧広島大学跡地には、説明板の「献木」リストには載っていないが、樹木の大きさからそうではないかと思われる木がまだ多数在るからです。

市役所を訪ね、この説明板設置に至る経緯を調べてみたいと思います。

今回、広島大学の供木樹木を訪ねてみた、改めて広島の復興は、多くの人たちの支援によって成し遂げられたということを学ぶことができました。

いのちとうとし

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2023年5月28日 (日)

被爆復興のために贈られた広大の供木の今-その2

当日約束した午前10時半に広島大学東千田キャンパスの広島大学平和センターに行くと嘉陽礼文さんが、入り口で待っておられましたので、すぐに樹木散策をはじめました。

最初に、東千田キャンパス入り口北側(広島大学平和センターの建物の西側)のソテツを見ます。

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このソテツには他の樹木にあるような説明板はありませんが、嘉陽さんの説明では、「2010年頃に理学部の出口教授より『最低でも60年以上の樹齢』と診断されているので、間違いない」とのことでした。このソテツは、台湾大学から送られたものです。

この後、東千田キャンパスにある「広島大学原爆死没者追悼之碑」の周辺も散策しましたが、ここにははっきりと供木樹木と確認できるものはありませんでしたので、東千田キャンパス地域の供木樹木の紹介は終わりです。

いったん電車通りに出て、北側に移動し旧理学部一号館がある東千田公園(旧広島大学キャンパス跡)に移動しました。

最初の目に入ったのは、正門(旧広島大学の正門)の手前にすくっと立つ大きな6本のフェニックスです。

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このフェニックスは、アメリカ・ウエスリアン大学から送られてものです。

よく見ると、右列奥の一番生の高い木の上部には、宿り木が生えていました。フェニックスの宿り木は珍しい気がしましたので、写真を撮りました。

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この木には、説明板があります。

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「寄贈 米国ウェスレイアン大学(寄付金)」と書かれていますので、このフェニックスは、苗木が贈られてきたのではなく、贈られた寄付金によって苗木が購入されたことになります。

さらに説明板には「初代森戸学長がフェニックスス(不死鳥)の意を込めて植栽(1957~1958年)し、学章のデザインとした」と刻まれていますので、当時の緑化運動の中でも重要な樹木であったことがわかります。

ちょっと横道にそれますが、正門の位置のことです。

昨日紹介した石田雅春さんの論文には、「広島大学原爆被災史『生死の火』」から引用した被爆前と1975年(昭和50年)の東千田キャンパスの地図が掲載されています。

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上の図が、被爆前、下図が昭和50年当時の建物の配置図で、両方とも中央上部に黒く塗りつぶされているのが、現在も被爆建物として残っている旧理学部一号館です。

注目して欲しいのは、正門の位置です。被爆前は、旧理学部一号館の正面より向かって左側に位置していますが、昭和50年の地図では、旧理学部一号館の真正面に正門が移設されています。

石田さんは、「戦前は正面から文理科大学本館(旧理学部一号館)を直接望むことはできなかった。ところが戦後は、旧理学部一号館の真正面に正門が移設され、旧理学部一号館を大学の貌(かお)としてキャンパスの整備が進められたのであった。のちにこの正門から旧理学部一号館に至る経路は『森戸道路』と呼ばれるようになり、広島大学を象徴する景観として親しまれるようになった。」と、この論文の中で書いています。

この文章を読めば、このフェニックスが旧広島大学の象徴だったという説明文が、より理解できると思い、あえて横道にそれました。

さらに、先に石田さん経由で贈られてきた嘉陽さんの樹木リストに「植樹された森戸緑化運動樹木」とのタイトルが付けられていた意味もこれでより理解できます。

写真には写っていませんが、左右のフェニックスの真ん中をまっすぐ進んだ先に旧理学部一号館の正面玄関があります。

「被爆復興のために贈られた広大の供木の今」は、今回で終わる予定でしたが、少し長くなりましたので、つづきは明日紹介します。

いのちとうとし

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2023年5月27日 (土)

被爆復興のために贈られた広大の供木の今

広島市の戦後復興期、平和公園や平和大通りの緑化のために全国、県内各地から多くの樹木の苗木が贈られたことは「供木運動」として知られています。

旧広島大学千田キャンパスには、世界から届けられた供木が、今も元気に育っています。

1949年(昭和24年)5月に学制改革によって誕生した新制広島大学で初代学長に就任した森戸辰男さんが、1951年1月に世界各地の大学や研究機関に書簡を送り、広島大学の再建・復興への協力を依頼しました。

その要請の中で森戸辰男学長は、「この新しい大学を平和都市の精神的・文化的中心にふさわしい平和の大学に建設していくために、誠意努力しています」とし、具体的には二つの協力要請をしました。その一つは「平和問題研究所を設置するために必要な関連の書籍」で、もう一つが「原爆被災によって荒廃した大学構内の緑化に必要な植物の種子・苗木の寄贈」でした。

この呼びかけに応じて世界各地から2,096冊(昭和29年7月まで)の書籍と苗木261本・種子934袋寄付金37万円が寄せられました。

届いた苗木と種子は、旧理学部第一号館を中心として、キャンパスの緑化と整備が進められました。

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と書いたのですが、この情報は「芸備地方史研究」(広島大学内芸備地方史研究会発行)272号(2010年発行)に記載された「広島大学旧理学部一号館のあゆみ」からの引用です。

この「広島大学旧理学部一号館のあゆみ」の筆者は、今月1日のブログ森滝市郎先生の自筆資料など広島大学に寄贈: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した広島大学文書館の石田雅春さんです。

10年以上前の文章ですが、届いた苗木などが、今どうなっているのか知りたくなり、石田さんに問い合わせました。問い合わせた翌日に次のようなメールが返ってきました。

「お問い合わせありがとうございました。お尋ねの件について、大学の平和センターで研究員をしている嘉陽礼文氏がもっとも詳しいので、嘉陽氏が調べられた成果を提供してもらいました。いただいたデータを添付ファイルでお送りしますので、よろしくお願いします。」

添付されたファイルは、現存する樹木のリスト、手書きの地図、樹木の写真です。そして連絡先も書かれています。

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早速嘉陽さんに電話を入れました。あらかじめ石田さんから「金子から連絡がある」旨伝えていただいていましたので、話はすぐに通じ、改めて現場を一緒に回ることを約束していただき、電話を切りました。

そして数日後の今月の24日に、嘉陽さんと一緒に現地を回り、現存するリストにある50本を見てきましたが、その様子は明日報告します。

いのちとうとし

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2023年5月26日 (金)

サミット終了翌日の平和公園

G7広島サミットが終了した翌日(22日)、平和公園を訪れました。

一番の目的は、G7サミット招待国として広島を訪れたインド・モンディ首相が除幕式を行ったマハトマ・ガンディーの胸像を見ることでしたので、最初のその場所を訪れました。

場所は、元安川左岸に建つ「原爆犠牲ヒロシマの碑」の南側です。

胸像は、高さ約2・2メートル、幅約1・8メートル、奥行き約1・2メートルある大きなもので,北向きに据えられています。

広島市に「なぜ北向きなのですか」と尋ねると、「特に意味はありません。この場所は北側以外には樹木がありますので、この向きになったのです」とのことで,特に深い意味はないようです。

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 台座の左側面に、日本語と英語,ヒンディ語(と思われる)で次のように刻まれています。

「このマハトマ・ガンディーの胸像は、令和5年((2023年)5月20日、21日,ナレシドラ・モディインド首相がG広島7サミットに出席したことを記念して、インド政府・インド文化関係評議会が、広島市に対し、友好と親善の証として贈呈しました。

マハトマ・ガンディーは,インド国家の父とされ、真理と非暴力の価値観の実践に生涯を捧げました。彼の信念は、今なお世界中の多くの人びとに勇気と希望を与えています。」

ガンディーの非暴力の思想は、森滝先生にとって非常に重要なものでしたので、この胸像建立のニュースを聞いたとき、どうしても訪れたいと思っていたのです。

後に相生橋付近で「マハトマ・ガンディーの胸像は、どこにあるかご存知ですか」と尋ねられましたので、関心を持っておられる人がいるのだなと思いました。

次に慰霊碑前に行きました。多くの外国人観光客の姿が目に付きます。

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資料館入り口にも外国人の長い列が出来ていました。

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海外から広島を訪れる人たちにとっては、どうしても訪れたい場所だと思われますので、せっかく広島を訪れたのに、サミット期間中は、ここには訪れることの出来ませんでしたので、申し訳ない気持ちになります。

慰霊碑前から、すぐ西側の緑地帯にあるサミット参加首脳が植樹をした被爆二世の桜(ソメイヨシノ)を見に行きます。

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この木の親木は、広島市役所前広場の南側植え込みにあるソメイヨシノです。

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親木は、緑の葉を繁らせ、元気な姿を見せています。

この後、21日に岸田総理は韓国の尹大統領が訪れ献花をした韓国人原爆犠牲者の碑に行きました。

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当日は、4つの花束が献花されましたが、そのうちの一つと思われる花束が、残っていました。

ここで、このブログの執筆者のひとり木原省治さんに会いました。木原さんから「今日は、12時半から被爆者7団体が、元安橋で『核兵器禁止条約への日本政府の署名・批准を求める署名活動』をします。私もそれに参加するため、出てきたのです」と教えていただきましたので、この後「フェンスの撤去状況はどうなっているのかな」とその様子を見ながら、原爆ドームを巡り,元安橋に行きました。

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サミット直後の署名活動ということもあったのでしょう大勢のマスコミの姿が目に付きました。

期待を大きく裏切るG7広島サミットでしたが、私たちは諦めることは出来ません。被爆者の皆さんの活動に学びながら、私たちも何をすべきか、何が出来るかを考えながら、夏の原水禁大会に向かって進みたいと思った平和公園散策でした。

いのちとうとし

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2023年5月25日 (木)

説明不足の電気料金値上げ

 大手電力7社の家庭用規制電気料金が、6月の使用分からで平均15・9%~43・4%と値上げされることになりました。中国電力では、4月から値上がりしている託送料金といわれる送配電網の利用料を含めると、標準家庭(260㌗時使用)の場合、27.5%1667円増えて7720円になるとされています。

値上げを申請した時の値上げ率は31・33%でしたから、ほんの少しだけ減額されただけです。認可では、もっと大きく減額されることを予想していましたが、ほんのわずかの減額でした。

また電力会社は、値上げ開始時期を4月1日と希望していましたが、岸田文雄首相の統一地方選挙などや衆参補欠選挙を意識した「政治力」で、予定より2か月遅らせたのが大方の見かたです。

中国電力の場合は、カルテル事件で公正取引委員会から707億円を超える課徴金を命じられたことや顧客情報の不正閲覧事件などで、社会的な批判が継続している中での値上げです。

なによりカルテル事件では、事件の真相はまったくといってよいほど明らかにされていません。電気料金問題を担っている経済産業省は、カルテルや不正閲覧事件について、一定の検証と対策が得られたとしていますが、まったくそうは思えません。こんな状況の中で、消費者の理解が得られるといえるのでしょうか。

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値上げを了承した関係閣僚会議

西村康稔経産大臣は値上げの認可にあったって、「電気事業法で料金値上げは、(カルテル事件など)不適切事業の有無を考慮するとはされていない」と話していました。また新聞記事は、見出しに『不祥事の影響 算出「困難」』と書いているのもありました。不正事件について見逃す考えの西村大臣の発言は、市民感覚を無視したとしか言いようがありません。

6月28日に開催される中国電力株主総会で、清水希茂会長と瀧本夏彦社長は、一連の不正事件で引責辞任をすることになっていますが、清水会長は相談役に就くことになっています。本気で社内改革を行おうとする気持ちがあるのなら、古い体質は一掃すべきだと思います。

なによりも707億円を超える巨額の課徴金を、消費者にツケ回しするのではなく、どういう方法で調達をするのかを明らかにし、株主や消費者の理解を得ることです。

1878年3月25日、この国に初めて電灯が灯ってから145年、戦争と政治の中で翻ろうされながら歩んできた電気をめぐる歴史です。『政治がどうにかしてくれる、なんとかなる』という悪い色がしみ込んだ電力会社の体質を、取り払うことは簡単で容易ではないでしょう。

しかしこの度のカルテル事件こそ、そのキッカケにすべきだと思っているのですが。

木原省治

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2023年5月24日 (水)

三原地区,府中地区の5月の「19日行動」

いつものように、三原は藤本さん、府中は小川さんから「19日行動」の報告が届きました。

【三原地区】

5月19日(金)、17時30分から三原駅前に18人が参加して定例の街頭行動を行いました。開会にあたり、司会者から「戦争法の廃止を求める19日行動日。くしくも米国バイデン大統領など7ヵ国の首脳が広島に集まり『G7サミット』が開催されている。被爆地ヒロシマを利用して日米軍事同盟を強化するための場にしてはならない」と冒頭に表明して街宣活動を始めました。

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6人のスピーカーは、ロシアのウクライナ戦争の長期化・泥沼化を目の当たりにして、大国がいったん戦争を決意すればどうやっても終わらすことはできない。だからこそ戦争を始めてはならない。戦争をさせない、これこそ外交の力である。そのための政治の力である。岸田政権は平和憲法を堅持し、戦争の準備ではなく、平和の準備に努めるべきだ。と平和・いのち・人権の大切さ、核廃絶を訴えました。

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リレートークのまとめで岡崎敏彦さんは、憲法は私たち国民が主権者である。主権者とはいったい何なのか。本当に主権者という意識を持っているでしょうか。と問題を投げかけ、「憲法は政府・国家が守るもの。しかしとんでもない憲法違反を堂々やり、戦争への道へまっしぐらに走っている。国会で多数を占める自公政権と与党化している野党も加わり軍事費の倍増などを決めている」。「本当に腹立たしいが一方で、選挙での投票行為など自分たち主権者たる責務を怠っている。政府をしっかり監視する、憲法が求めている主権者として行動していくことが必要である」。「今の状況を考えれば6月解散・総選挙があるのではないか。続いて憲法改正のための国民投票までも行くという状況にまで来ていると思う。戦後78年間、戦争をさせないできた憲法9条・平和憲法を曲げてしまうのではないかと危惧している。率直に今の現実を見て、岸田政権にレッドカード・NO!を突きつけていくこと。私たちがきちんとした主権者としての責任ある一票を投じていくことが大切である。一つ一つの行動を積み上げていくこと、その積み上げが平和憲法を守り、戦争をさせない私たちの日本・世界をつくることになるのではないでしょうか」と訴えました。

藤本耕治

【府中地区】

午後3時30分から上下Aコープ前9人、府中天満屋前5時から12人の参加で、いずれも30分の行動です。今日はなにか気合が入っているというのか、みなさん声が一段と大きく迫力がありました。G7に向けて横断幕も新たにつくられました。


G7は戦争ではなく平和の準備を!

G7 is ready for peace , not war !

G7は今こそ核兵器禁止条約へ署名!

G7  must now sing & ratify TPNW ! 

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Aさん「上下Aコープ前は午前中の雨があがってくもりです。広島市内ではG7サミットがおこなわれています。マスコミは『核廃絶』と岸田首相の言う『核軍縮』とを区別して報道すべきです。『核軍縮』は核兵器の存在を前提としています。私たちは日本がオバマ元大統領の米国の核兵器先制不使用の宣言に反対し、核兵器禁止条約の加盟をかたくなに拒否していることを知らねばなりません。残念ながらG7は『核兵器廃絶』には言及しないでしょう。広島に住む私たちは今後も粘り強く主張していかなくてはなりません」

Bさん「本日広島でサミットが開かれています。多くの市民が平和のために成功して欲しいと思っています。しかし私は反対です。なぜならばロシアに対して戦争をやめるよう申し入れが全くなされていません。ロシア国内でも戦争をやめようという声はあります。しかしロシア政府によってマスコミが報道しないようにさせられているように感じますし、日本政府もロシアとの外交努力をしているように感じられません。広島サミットをするならロシアで会議をしたらいいと思います。

いま軍事費を増やすことで日本が守れると岸田首相や日本政府は考えていますが、私は軍事力では戦争は止められないと思います。戦争を止められるのは市民、国民の戦争をやめようという声だと思います。多額の税金を使ってサミットをやるより一日も早くウクライナとロシアの戦争をやめるようしてほしいです。なぜ人間はおろかな戦争をするのか、何のために戦争をするのか、私たちも考える必要があります。金儲けのことばかり考えずに将来のことを考えるサミットにしましょう。」

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Cさんのまとめ「スピーチも今日から始まったG7を批判・注文をつける意見が出揃いました。一言で言うなら広島を戦争の準備に使うなということです。21日までの3日間、広島が(選挙)地盤と再三喧伝するこの国の首相も含め、核兵器禁止条約を批准しようとしないG7首脳たちには居心地の悪い思いをたくさん感じてほしい。核兵器廃絶の話もせず戦争当時国の首脳「だけ」を呼んで、味方として結束を図ることと戦争に加担することになんの違いがあるんでしょうか? 私たちはそんな振る舞いを歓迎しません」

今日はなにか気合が入っているというのか、みなさん声が一段と大きく迫力がありました。

小川敏男

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2023年5月23日 (火)

2023.5月のブルーベリー農園その3

19日から22日まで広島でG7サミットが開催されたので安芸の郷の3つの事業所は休所したのでその間東広島市豊栄町のブルーベリー農園でブルーベリーの剪定などの農作業を続けた。晩春だが、農園の景色と気配は初夏のよう。麦が黄色くなってきた。ホトトギスが鳴きだした。卯の花(ハコネウツギ)が咲きだした。キジは嫁をみつけたのか夫婦で農園の周囲を動き回っている。

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518日(金)

黄色のブタナやアザミが里道やのり面に咲いている。

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里山に咲くシロイトソウ。後ろのエビネはしぼんでいてそろそろおしまい。

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519日(金)

剪定したブルーベリーの枝には結実した実がたくさんついている。モッタイナイを無視して剪定を続ける。

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520日(土)

花壇に今年も咲いたジャーマンアイリス。

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里山のブルーベリー園の端っこでエゴノキの花が満開。

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農園の近くでは麦を栽培している。すっかり黄色くなった。

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アカツメクサと麦畑

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521日(日)

里山の農園のブルーベリーの剪定と、草を刈る作業を続ける。

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早稲のブルーベリーの実は大きくなっているがまだ緑色(名前はスパルタン)。

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卯の花(ハコネウツギ)。まだ赤い色は咲いていない。

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アマドコロの花

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農園から帰り道にある田んぼ。苗が伸びてきた。 

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年5月22日 (月)

戦争支援強化を決めたG7サミット

ウクライナ・ゼレンスキー大統領の広島訪問を歓迎する声が、異常に高まりました。戦争を継続する国の大統領が、ヒロシマの地を訪れたことは、そんなに歓迎すべきことでしょうか。

ゼレンスキー大統領が広島を訪れたのは、「停戦を進めるため」のものではありません。ロシアとの軍事行動においてより有利に戦闘を展開させるための協力を求めることが目的だったことは、明白です。

それを証明する出来事の一つは、ゼレンスキー大統領の訪日が明らかになると同じ時期に発表された欧州の同盟国が、ウクライナにF16戦闘機の供与をアメリカが認めたことです。軍事支援の一層の強化は、さらなる戦闘の継続拡大を意味し,戦争の惨禍が広がるのです。

広島が望む、即時の停戦は遠のいたと言わざるを得ないのです。

ロシアの違法なウクライナへの軍事侵攻以降、核兵器の使用の脅し、脅威が強まっています。核による威嚇や使用は、絶対に許されるものではありません。ロシアの度重なるこうした発言を厳しく糾弾しなければなりません。

私たちは、これまで「核兵器の廃絶」を求めてきました。そして「核兵器の使用につながる戦争を否定」してきました。それが「ヒロシマの心」だと私は、広島で学びました。戦争がなければ核兵器が使用されることはありません。「核の脅威」から逃れる道は、即時に停戦し、平和への話し合いを開始することです。

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私たちは、ゼレンスキー大統領の広島訪問が、即時の停戦のための話し合いを進めるためであれば、心から歓迎しました。しかし、今、そのヒロシマが、さらなら戦闘行動を強化するための話し合いの場になってしまったのです。

紛争当事国の一方だけを招き、それを支援すると言うことは、戦争に加担することを意味します。

サミット首脳声明の冒頭で次のように言及していることからも明らかです。

「ウクライナに対する外交、財政、人道、軍事支援を強化し、ロシアとその戦争を支援する国々の負担を増加させる」

これが、岸田首相が議長を務めたサミット首脳声明であることは極めて重要です。

「核兵器の脅しや使用」を厳しく批判してみても、その根源である戦争そのものを否定しないのであれば、真の平和をもたらすことはないのです。

岸田首相は「歴史的サミットだ」と言います。悪い意味でその通りだと私も思います。

この事態の中で、私たちは何をすべきか、何が出来るのか、真剣に考えなければ、ヒロシマは、ヒロシマとしての役割を果たすことが出来ないように思います。

被爆地ヒロシマにG7各国の首脳が広島に集まり、資料館を見学し、被爆者と面接したことを評価しようと思っていたのですが、今はとてもその気持ちにはなれません。

ゼレンスキー大統領の広島訪問のニュースを知ったとき、本当にいやな予感に襲われましたが、それが現実のものとなってしまったと思うのは私だけでしょうか。

いのちとうとし

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2023年5月21日 (日)

資料館視察後の各国首脳のメッセージと「広島ビジョン」

G7が始まった19日、原爆資料館下で岸田首相の出迎えを受けた各国首脳は、最初に原爆資料館を訪れました。その様子を、テレビを通じて目にしました。

最後に到着したアメリカ/バイデン大統領が資料館に入館して約40分後、各国首脳が資料館から出てきました。

館内の様子は、日本政府から箝口令が敷かれているということで、詳しい発表はされないままでしたが、その日の夕刻に放送されたNHKの「コネクト」に出演した被爆者の小倉圭子さんが、その時の様子を話してくれました。

「最初は、5分ぐらいと言われていたのですが、10分かそれ以上に話したと思います。質問もでましたので。場所は、資料館の展示室の中です。・・・」

残念ながら、その時の首脳たちの様子や反応は、「話すことが出来ない」と言うことでした。

オバマ大統領の広島訪問時と違い、資料館の見学時間も長くなり、被爆者の体験を聞くことも実現したようですので、その点は評価してもよいのではと思います。

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各国首脳の資料館見学と被爆者の話を聞いたときの様子を今のところ具体的に知るすべはありませんので、最後に行われた各国首脳による芳名録への記帳の内容が一つの手がかりとなります。ようやく20日の午前になって、核保有国の首脳の記帳の全文が発表されました。核保有国の首脳の記帳文です。

【アメリカ・バイデン大統領】 「この資料館で語られる物語が、平和な未来を築くことへの私たち全員の義務を思い出させてくれますように。世界から核兵器を最終的に、そして、永久になくせる日に向けて、共に進んでいきましょう。信念を貫きましょう!

【フランス・マクロン大統領】 「感情と共感の念をもって広島で犠牲となった方々を追悼する責務に貢献し、平和のために行動することだけが、私たちに課せられた使命です」

【イギリス・スナク首相】 「シェイクスピアは、『悲しみを言葉に出せ』と説いている。しかし、原爆の閃光に照らされ、言葉は通じない。広島と長崎の人々の恐怖と苦しみは、どんな言葉を用いても言い表すことができない。しかし、私たちが、心と魂を込めて言えることは、繰り返さないということだ」

バイデン大統領のみが、「核兵器を永久になくせる日」と核兵器の廃絶に言及していることが特徴のように思います。もちろん他の二人も原爆で犠牲になった人びとへの追悼の思いが込められており、「平和のために行動すること」「繰り返さないこと」を決意する内容にとどまり、「核兵器廃絶への決意」は語られていません。

私たちが、この内容を知ることが出来たのは、翌日になってからですが、資料館を見学して受けた思いが、発表されるであろう「広島ビジョン」にどう反映されるのか期待して待ちましたが、発表された内容は、それらが反映したものとはとてもいえないように思いまものです。

その冒頭で確かに「1945年の原子爆弾投下の結果として広島及び長崎の人々が経験したかつてない壊滅と極めて甚大な非人間的な苦難を長崎と共に想起させる広島に集った。」と核兵器の非人道性を謳ったともとれるよう言及していますが、「我々の安全保障政策は、核兵器は、それが存在する限りにおいて、防衛目的のために役割を果たし、侵略を抑止し、並びに戦争及び威圧を防止すべきとの理解に基づいている。」と、残念なことに依然として「核抑止力論」が政策の基本であることを明記しています。さらに「核兵器不拡散条約(NPT)は、国際的な核不拡散体制の礎石であり、核軍縮及び原子力の平和的利用を追求するための基礎として堅持されなければならない。」とあえて「核の平和利用」にまで言及していることを指摘しなければなりません。

また「ロシアによる核兵器の使用の威嚇、ましてやロシアによる核兵器のいかなる使用も許されないとの我々の立場を改めて表明する」としていますが、私たちが求めた「自らの核先制不使用宣言」については、言及されていません。

「広島ビジョン」についての評価は、今日はこれだけにとどめますが、私がどうしても違和感をもったことがあります。それは、私たち広島市民がG7サミット広島で最も関心を持っていた核軍縮の話し合いが、夕食をとりながら話し合われたことです。議長である岸田首相にとっては、その程度の位置づけだったのでしょうか。

皆さんはどう思われますか?

いのちとうとし

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2023年5月20日 (土)

ベトナムの歴史(その24) 抗仏闘争を戦った日本兵-1

新ベトナム人」

ベトナムの人々は、1847年のフランス艦隊によるダナン攻撃に始まったフランス支配に抗する約一世紀にわたり戦い、第二次世界大戦時には侵攻してきた日本軍との戦い、大戦後は再び植民地支配を企図するフランスとの独立戦争(第一次インドシナ戦争)を戦います。長きにわたるフランスとの戦いは1954年のディエンビエンフーにおける勝利で終えますが、その後も世界最大・最強の軍隊を持つアメリカとのベトナム戦争が1975年4月30日まで続きます。

ところで、「新ベトナム人(ベトナムモイ)」という言葉があります。抗仏戦争最後の9年間をベトナム人民とともに戦った外国人を指す言葉で、その大部分は第二次世界大戦後ベトナムに残留した日本人でした。このことは意外と知られていません。筆者が「新ベトナム人」という言葉を知ったのも、つい最近、2017年に天皇皇后両陛下がベトナムを訪問された時、残留元日本兵の遺児と会見されたとの報道を通してです。

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その後、2019105日号の「ヒロシマとベトナム(その5)」に、「抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)と日本兵」という一節を書き、続いて115日号の「「ヒロシマとベトナム(その6)」で、その戦いに加わり戦死した福山市出身の石井卓雄(元陸軍少佐)について紹介しました。覚えておられる方もいると思いますが、今も石井卓雄のベトナムでの軌跡を追う調べは続けています。

抗仏戦争を戦った日本人について調べているうちに、この時期のことを知ることは、第二次世界大戦に突き進んで行った日本の歩みや南方政策だけでなく、戦後の欧米列強の世界戦略、さらにベトナム人を理解するとともに、今日のベトナム社会主義人民共和国につながる国づくり草創期の状況が少し理解できるようになりました。とりわけ、ベトナム共産党を理解するうえで、とても重要だと思うようになりました。

前置きが長くなりましたが、今号から数回にわたり、「抗仏戦争を戦った日本兵」を書き進めたいと思います。

なぜ、ベトナムに残り抗仏戦争を戦った

日本の敗戦後、インドシナ(主にベトナム)に残留した元日本兵の人数は、約1,000名という推計から800名まであり、正確には把握されていませんが、800名というのが通説のようです。

では、なぜ彼らはベトナムに残り、独立戦争に参加」したのでしょうか。

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2019年12月4日の「ヒロシマとベトナム(その7)」でも紹介しました『ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のあり方に関する研究』(2005 10 月、東京財団研究報告書)には、①米軍占領下の日本の将来を悲観し、帰国しても奴隷的境遇に陥るのではないか、ベトナムで暮らす方がましではないかとの疑問を抱いた。②捕虜として米英軍や中華民国軍に虐待されるのを恐れた。③連合諸国に戦犯として処罰されるのが怖かった。これは士官、下士官と憲兵に顕著な意識であった。④日本に酷似した文化(例えば大乗仏教と神道)を持つベトナムの風土と人間に共感を抱き、この国のために為すところなく帰国する気にはなれなかった。⑤現地に愛人がいた。または特定のベトナム女性に対する憧れがあった。⑥個人として徹底抗戦の意志を貫こうとした(少数ながら陸軍中野学校出身者の場合は残置諜者として任務を全うしようとした)。

これは元朝日新聞ハノイ支局長の井川一久氏が、元残留日本兵やベトナム関係者からの取材、残された当時の記録などをもとに分析されたものです。筆者には、このそれぞれがベトナムに残るという動機付けにはなるだろうけれど、生きて帰ることを待ち望んでいる親や兄弟姉妹への思いを断ち切ってまで残った人たちの気持ちを推し量ることはできませんでした。

 

ベトナム残留元日本兵一人ひとりに戦争の姿

ベトナムで抗仏戦争を戦った方々の綴った本を幾冊か読んだ中の一人、加茂徳治氏(終戦時陸軍中尉)は『クアンガイ陸軍士官学校―ベトナムの戦士を育みともに戦った9年間』で、「なぜ離隊したのであろうか。ベトナム人民の革命に共鳴したからであろうか。私は、革命を理解し思想的、政治的に共鳴したわけではなかった。約100年にたるフランスの支配下、ベトナム人民がいかに搾取され、抑圧された生活を強いられていたかも知らなかった。戦争で荒廃した日本。戦いに勝ち誇った今までの敵が我物顔に振る舞っているであろうわが町、わが故郷、わが国を見るに堪えられない気持ちの方が強かった。」(37㌻)と書かれています。

下は読んだ本のうちの薦め本です。

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加茂さんは著書の中で、ベトナム女性と幼子を抱えてベトミン軍に協力している元日本兵のことや様々な形で抗仏戦争に参加している元日本兵について触れています。しかし、その殆どが元の階級も本名も、離隊と抗日戦争参加の理由も語り合うことはなかったとも書かれています。

600名(800名とも)いわれている残留元日本兵一人ひとりに、強い望郷の念を持ちながらも、離隊・残留を選択した葛藤の中に一人ひとりのドラマがあり、もう一つの戦争の姿があったのです。

先に紹介した井川一久氏の『報告書』が書かれた翌年、続編として『日越関係の発展の方途を探る』が出され、次の様な一文があります。

「(紹介した7つのベトナム残留理由)・・・・とかいうような理由だけで、彼らが夢にまで見たであろう故郷を捨てて、異民族の独立戦争に命懸けで参加したとは到底考えられない。彼らに独立戦争参加を決意させるには、それなりの条件が必要であった。」と。

次号では、元日本兵が抗仏戦争に加わった1945年8月15日の日本敗戦から1946年にかけた時期の、ホー・チ・ミンに指導されたベトナム独立同盟(ベトミン軍)について見てゆきたいと思います。そこから「その条件」が見え、ベトミンと今日のベトナム共産党の理解、そしてベトナム人民の理解につながる道があるような気がします。

(2023年5月20日、あかたつ)

【編集者】あかたつさんは、昨晩午後5時半から30分間、G7サミット拡大会合に参加するベトナムのチン首相と会談し、歓迎のあいさつをされました。

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2023年5月19日 (金)

サミット前日の一風景

「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」は,サミット開催前日となる昨日、午後4時から本通電停前で,緊急の呼びかけで「日米首脳会談に抗議する街頭行動」をおこなしました。

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今回の緊急行動は、サミットを前にして開催される日米首脳会談が、ヒロシマの地で,中国を念頭に「日米同盟の抑止力、対処力強化を協議」の場となることが危惧されたからです。昨年12月に憲法違反の安保3文書を閣議決定した岸田首相は、国民に説明することもなくアメリカを訪問し、その内容を説明し、日米同盟の強化を謳ったのですから、私たちが今回の日米首脳会談を危惧するのは当然のことです。

軍都として侵略戦争に大きな役割を果たしたこの廣島。慰霊碑に刻まれた「過ちは繰り返しませぬ」との誓いは、ただ単に核兵器に使用のみならず、全ての戦争を否定する誓いであったはずです。

再び過ちを繰り返さないためには、今こそ広島がヒロシマとしての声を上げなければなりません。そんな思いでの街頭行動でした。

2時頃から雨が降り出すあいにくの天気でしたが、街頭行動中は何強い雨も降らず、約40人が集まり,「ヒロシマを日米同盟強化のための場にしてはならない」と訴えました。

この行動に先立つ昼前、平和公園周辺を散歩してきました。

連休明けから、街の中に警察官の姿が目立ちはじめましたが、いよいよいようともいえる姿が目に入ります。

平和公園の周囲は、目隠し用フェンスで覆われています。数日前には目にしなかった平和公園南側もすっかりフェンスが取り付けられています。

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平和公園内に入ると国際会議場前には、手荷物検査場が作られています。

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報道関係者用でしょうか。

資料館は、内部が見えないようにガラスには白い上のようなものが張られ、中が見えなくなっています。私が訪れたときは、まだ入館可能でしたので、外国人の入館者が目に付きました。

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帰るとき(12時過ぎ)再び前を通ると入り口は閉鎖されていました。

平和公園を通り抜け、相生橋を渡り電車通りにでると、相生橋上西詰には、一車線封鎖され上下線とも警察の装甲車が並んでいます。

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相生橋を東へ原爆ドーム前の電停まで進むと、原爆ドームへの入り口がすでにフェンスで封鎖されています。

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すぐ東側のオリヅルタワービル前の入り口も封鎖されていました。

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まだ多くの観光客が訪れていたのですが。

原爆ドーム前電停から紙屋町方面を望むと,こちら側の一車線を潰して警察車両が止まっています。

元安橋東詰では、路上封鎖の柵が準備されていました。12時を過ぎたのですが、まだ封鎖されていません。

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平和公園内には、多くの観光客がいたからだと思います。

 

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資料館南側のタクシー出入り口から、公園外にでました。平和大橋の上も、当たり前のように警察車両が止められていました。

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比治山方面を見ると、ずっと警察車両が目に入ります。

異様に感ずるのは私だけでしょうか。

こんな景色を見ながらわが家に向かうと、わが家のすぐ西側の交差点でも、道路封鎖の準備が進んでいました。

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元安川を挟んで、西側に吉島通りがあるからでしょうか。それにしても「ここまでやるのか!」という感じです。車の交通量は、本当に少なくなっていました。

今日は、さらに警備が厳しくなるものと想像されます。

いのちとうとし

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2023年5月18日 (木)

「―G7サミット広島開催から核兵器廃絶を―「ヒロシマ」のおもい、核兵器廃絶のおもいを世界へ 5・17原水禁集会」

昨日、午後6時から原水禁国民会議が主催する「―G7サミット広島開催から核兵器廃絶を―「ヒロシマ」のおもい、核兵器廃絶のおもいを世界へ 5・17原水禁集会」が、広島YMCA国際文化ホールで開催されました。

原水禁国民会議の谷雅志事務局長の司会で始まった集会の最初に、私は主催者を代表して次のように訴えました。

「広島平和公園に立つ各国首脳は、何より一人の人間として慰霊碑の前に立って欲しい。かつて多くの人びとが生活をしていたこの場所で、起きたことを、そして多くの市民のいのちが一瞬にして奪われたことに思いをはせて欲しい。その事実と向き合った欲しい。その上で、核兵器保有する国の責任者として、核兵器に依存する国の責任者として、このような悲惨なことを再び起こさないために今何をすべきか、何が出来るかを考えて欲しい。広島をパフォーマンスの場にすることは絶対に許されない。そのために私たちは声を上げつづけよう。」

集会のメインは、原水禁顧問で前広島市長の秋葉忠利さんと若い梶原百恵さんのトークセッションです。梶原さんは、元高校生平和大使の一人で、被爆体験継承者として活動を進めています。司会の谷さんの進行で進みました。

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秋葉さんがその中で特に強調されたのは、「核兵器の先制不使用の重要性」でした。梶原さんの話は「・被爆体験を伝承することのおもい/・被爆者の話を直接伺える最後の世代だという自覚/・映像ではなく対面で心から向き合う意味/・思い出すのはつらい体験を話してくれる被爆者へのおもい/・「核抑止力」は存在しないということを訴えたい…どうすればよいかを考えていきたい」(事前にもらっていた資料から)でした。最後に「反核平和の問題をどう発信するのかを大学の研究課題にしている」ことが紹介されました。

その後すぐ行動をしようということで、参加者が、秋葉さんが呼びかけているchange.orguによるオンライン署名をQRコードから読み込んで、実施しました。

この集会では、若い人たちの声を大切にしたいとの思いから4人の元高校生平和大使(井上つぐみさん、梶原百恵さん、大内由紀子さん、神浦はるさん)の意見を聞きながら、準備が進められました。

そこで次のような提案がされ、この集会で生かすことになりました。

①プログラムの下に「#ヒロシマのおもい2023」をつけてつぶやいたり写真をアップしたりしてください、とする共通#を明示する

②集会の最後にカラーコピーでプラカードを作成し、写真撮影をする時間を設ける

③集会アピールの英訳・読みあげ動画を作成する

トークセッションの後、第25代高校生平和大使6名(広島2名、この集会のために駆けつけた長崎4名)からの一年間の活動を通して学んだことのアピールが在りました。

最後に次の集会アピールを元高校生平和大使の大内由紀子さんが読み上げ、全体の拍手で採択されました。


間もなくG7サミットがここ広島で開催されます。私たちはG7サミットが、「ヒロシマ」に込められた被爆者や市民の思い、ならびにこれまでの歴史をふまえ、「ヒロシマ」の意味を世界に広める場となることを望んでいます。

 「ヒロシマ」の意味は、被爆の実相を我がこととして理解し、被爆者の声や訴えをしっかりと受け止め、核兵器のない平和な世界の実現をめざすことにあります。これまで広島・長崎だけが唯一、戦争による被爆を経験しました。原爆の犠牲になったのは何の罪もない一般市民であり、その苦しみは今なお続いています。

その後今日まで、核兵器が使われなかったことは重要な意味があります。被爆者が自らのつらい体験を証言し、その凄惨な状況を訴えることが、核兵器使用を世界で思い留まらせてきたのです。被爆者こそが核使用を阻止する核抑止の最大の力となってきました。G7各国首脳は広島に来たのであれば、まずは被爆者の声に耳を傾けるべきです。

世界各国は核不拡散条約(NPT)と、それを補完する核兵器禁止条約(TPNW)の二つの国際条約をもとに、核軍縮、核兵器廃絶の大きな流れを作り出そうと模索しています。NPT体制が認める核兵器保有国は、20221月に、「核戦争に勝者はおらず,決して戦ってはならない」とする共同声明を出しました。その直後、2月には核兵器保有国であるロシアによるウクライナ侵攻があり、核兵器使用の威嚇が繰り返されています。どの国であっても核兵器保有を認めてはならないことを証明する結果となりました。めざすべき方向性はTPNWの拡大であることは明白です。

核兵器廃絶を実現させるための具体的な一歩として、核保有国が「核の先制使用はしない」と宣言することが必要です。岸田首相が広島選出の首相として、核兵器廃絶を本気でめざすのであれば、まずは今回のG7サミットの場で、「核の先制不使用宣言」をとりまとめる責任を果たすべきです。そして、1日も早くロシア・ウクライナ戦争を終わらせるための外交努力に尽くすべきです。

 私たちはこれまでも、「核と人類は共存できない」として、反戦・反核を訴えてきました。被爆の実相を原点とした世界のヒバクシャ援護・連帯と核廃絶運動、それらの次世代継承をめざし、今後も粘り強く運動を進めていきます。核も戦争もない平和な社会の実現のため、具体的な行動にとりくんでいくことを確認し、本集会のアピールとします。

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5・17原水禁集会 参加者一同


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アピールが採択された後、参加者全員で「核と人類は共存できない」「核兵器廃絶!」と書かれたプラカードを掲げるアピール行動を行い,集会は終了しました。

参加者は約180人、若い人たちの力が発揮されたよい集会でした。

いのちとうとし

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2023年5月17日 (水)

サーロー節子さんとの思いがけない出会い

14日の昼過ぎ県民文化センター近くの本通りでカナダ在住の被爆者サーロー節子さんの姿を見かけましたので、あいさつをさせていただきました。

声をかけようと思ったのは、森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)の原稿を書こうと思って、「ヒロシマの記録―核実験抗議座りこみ10年-」を調べていたとき、その本の中に「サーロー節子さんの慰霊碑前座りこみ」の写真(右端に写っている)があったからことを思い出したからです。

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そしてもう一つは、1987年ニューヨークで原水禁国民会議が中心となって開催した「第1回核被害者世界大会」に私は森滝先生の世話役として参加したのですが、この世界大会にサーローさんもカナダから参加されていたからです。

「そうです、そうです。私も核実験抗議の座りこみに一緒に参加したことがありますよ」「第1回核被害者世界大会のことはよくおぼえています。森滝先生とデモ行進をしましたからね」

この第1回核被害者世界大会の時、森滝先生とサーロー節子さんが一緒に写った写真のことではちょっとしたエピソードがあります。

2019年7月にサーロー節子さんと中国新聞の金崎由美さんの共著で岩波書店から出版された「光に向かって這っていけ」の中で掲載する写真のことで、金崎さんから相談を受けたことがあります。「この写真は、何時の時の写真でしょうか。」

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私は、写真を見てすぐに「第1回核被害者世界大会の写真だ」と気づきました。森滝先生が首にかけておられるプラカードは、先生がデモに参加するとき、ホテルの部屋で書かれたものだからです。ニューヨークでは毎日ホテルの同じ部屋で過ごしましたので、よくおぼえています。まわりに写っている人も、核被害者世界大会参加者です。サーロー節子さんが、森滝先生に寄り添うように写っているのが印象的です。

こんな話をしていると、サーローさんから「原水禁の事務局にいた人、今思い出せないのですが?」と問われました。「宮崎さんではないですか?」「そう宮崎さんです。お元気ですか?」「残念ですが、2007年に亡くなったのですよ」「宮崎さんには、原爆が落ちて間もない頃に映された映画フィルムをいただいたので、忘れられないのです。亡くなられたのですね。残念です。」

短い会話でしたが、サーローさんと原水禁のつながりを改めて確認することが出来ました。

サーローさんには今までにも何度も講演会などでお会いしていたのですが、こんな会話を交わしたのは初めてでした。声をかけてよかったなと思います。

後で知ったのですが、サーロー節子さんは、資料館を見学しての帰り道だったようです。いつもでも元気で「核兵器廃絶」への思いを発信しつづけていただきたいと思います。

いのちとうとし

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2023年5月16日 (火)

「5.17原水禁集会」に参加してください。

G7広島サミットが近づき、市内中心部はどこを歩いていても警察の姿が目に付きます。そして、警察車両がわがもの顔で通行しています。

5月に入り市民の集会も多数開催されていますが、原水禁国民会議は、明日17日午後6時から広島YMCA国際文化ホールで「『ヒロシマ』のおもい、核兵器廃絶のおもいを世界へ 5.17原水禁集会」を開催し、広島で開催するG7では、何が表明されるべきかを問いかけることにしています。

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この集会の意義を、次のように述べています。

「G7サミットが5月19日から被爆地広島で開催されます。岸田首相は『核兵器廃絶はライフワーク』と言いながらも、アメリカの核の傘に守られる現体制を改めようとせず、2年前に発効した核兵器禁止条約に署名・批准するための論議も始めていません。単なる政治的パフォーマンスの場としてG7サミットの広島開催を利用することは決して許されるものではありません。被爆者の願いは核廃絶の実現による平和の保障です。被爆者の、あの惨劇を二度と繰り返させてはならないという強い思いが、世界の核兵器廃絶の流れを牽引してきました。広島でG7サミットが開催されるからには被爆の実相に寄り添い、核廃絶への実効性を伴う内容とする必要があります。

G7サミット開催を前に核廃絶に向けた思いを確認し、対外的に発信することを目的として本集会を開催します。」

集会のメインは、前広島市長秋葉忠利さんと大学生で被爆体験伝承者の梶原百恵さんによるトークセッションです。

秋葉さんは、岸田さんに思いを届けるため、次のことを要望するChange.orgでの賛同署名を呼びかけています。

「最後まで私たちが推進し続けてきた「ヒロシマ」の意味を発信しましょう。そして岸田総理に勇気を持って行動して貰うための激励の言葉を伝えましょう。

私が今岸田さんに伝えたいことは二つあります。

① 一つは、G7の首脳たちを、岸田さん自ら資料館に先導し自分の言葉で被爆の実相を伝えること。

② もう一つは、資料館の出口で首脳たちに立ち止まって貰い、一言はっきりと、「これで核は使えなくなりましたね」と念押しをすること。

続いて、被爆者の体験をG7首脳全員で傾聴することは言うまでもありません。」

詳しくは、ブログ「ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)」を読んで戴き、このオンライン署名にご協力ください。

「5.17原水禁集会」への参加を呼びかけます。

いのちとうとし

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2023年5月15日 (月)

2023.5月のブルーベリー農園その2

広島県のほぼ中央に位置する東広島市豊栄町でブルーベリーを栽培しているが、今の時期は来るたびに野山の緑と花の変化が忙しく変わる。農園に咲くブルーベリーの花もそろそろ終わりで、しきりに花を食べに来ていたヒヨドリもおとなしい。今の時期になっても安芸区の自宅から通ってブルーベリーの剪定を続けている。

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510日(水)

この週末は雨の予報なので、時間稼ぎに休みを取って一人農園でブルーベリーの剪定を続けた。来てみると、違う種類のジャーマンアイリスが咲いている。

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ブルーベリー畑の向かい側の板鍋山ふもとの里山には農園の管理するため池や杉林がある。ため池にはイトトンボや、

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メダカがいて、それにミズスマシも数匹するすると水の上を歩いていた。

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池の土手には、ワラビや、

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アザミやマムシソウ(マムシグサとも)が一気に顔を出している。

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マムシソウは去年と同じ場所で今年も元気。

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513日(土)

一番上のブルーベリー畑の道路そばののり面で赤く咲くのはオオタニウツギ。

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結果的にバラのスタンダード仕立てのようになったこの花木はだらりと下に向かってたくさんの小さな花を咲かせている。

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雨の中、ブルーベリー畑とその後ろの杉林のある里山の向かい側のある里山の見回りをした。田んぼの見えるすぐ上ののり面にツツジが一株咲いている。多分レンゲツツジだろう。

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雨に煙る板鍋山。「目を開けて泣く子と明るくなって降る雨はやまん」とは、会社勤めをしていた時に聞いた先輩の言葉だが、この日まさにそれであかるい景色の中しとしとと雨が降り続ける。気温は15度でちょっと寒い。カッパをきて午後少し作業をし、カッパから水がしみてくるのを機に作業をやめて早めに帰る。

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黄色いエビネ。去年は咲かなかった。

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ブルーベリー畑に咲くツボスミレ

ブルーベリー農園の周囲は小さいがそれでも春は絶え間なくたくさんの色合いの緑と花と生き物が姿を現す季節。 

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年5月14日 (日)

HANWA核被害者フォ-ラム「世界の核被害者は問う~G7首脳へ」

核兵器廃絶をめざすヒロシマの会(HANWA)が主催する「HANWA核被害者フォ-ラム『世界の核被害者はという~G7首脳へ』」が、昨日午後1時半から世界平和記念聖堂で開催されました。

この集会は、タイトルにもあるように核被害者の立場から、核保有3か国を含み核抑止力を安全保障の要とする7か国の首脳が原爆の投下地・広島に集まり何を話し合おうとしているのかを問いかけようと開催されたものです。

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HANWA森滝春子顧問の開会あいさつの後、ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)創始者ティルマン・ラフさんが、オンラインで核被害とは何か?人類の破滅をもたらす核戦争の危機に直面して」と題した基調報告。ティルマンさんは、「核被害の科学的エビデンスと被爆者が長年訴えてきた実体験がしっかりと結びつくことによって核戦争を防ぐ力になる」ことを強調しました。

第2部は、核被害者たちからのアピールです。登壇者の名前と肩書きを羅列します。

切明千枝子さん 広島の被爆者、山家(やんべ)真紀さん 福島原発事故被害者、朝長万朝男さん 長崎大学名誉教授/核廃絶地球市民集会ナガサキ代表、次の3人はビデオメッセージ アッシシ・ビルリさん インド ジャドゴダ・ウラン鉱山放射能反対同盟、イサイア・モンビロさん コンゴ・シンコロブエ鉱山核被害コンゴ市民社会NGO代表、エヴェレン レレボウ=ジェアリックさん マーシャル諸島核実験被害者二世、ジャナン・ハッサンさん イラク劣化ウラン被害者問題を取り組む産科・小児科医師、佐藤真紀さん 劣化ウラン弾の使用に反対する市民ネットワーク、川崎哲さん ICAN国際運営委員兼会長/ピースボート共同代表、渡部久仁子さん HANWA運営委員・ANT-Hiroshima

最後に足立修一共同代表がアピールの提案と閉会あいさつをして集会は終了しました。アピールの一部を紹介します。


G7広島サミットに対する声明

ここヒロシマは、78年前にアメリカ軍が投下した一発の原子爆弾で十数万人の市民が無差別に虐殺された人類史に刻まれた地である。この地には名も知れぬ無数の人々の遺骨が重なる。また原爆の地獄を生き残った人々は78年後の今日も晩発性放射線障害に苦しみ、死が訪れるまで彼らにとっての戦争が終わることはない。だからこそヒロシマに生きる私たちは核兵器廃絶を全力で発信し続けるのである。

このヒロシマに核保有国とその軍事同盟国のG7首脳が集うのであれば、その目的はただひとつ。核兵器禁止に向けた具体的かつ積極的な検討以外にはありえない。そうでなければヒロシマに集う意味は全くないと私たちは断言する。

(中略)

「核兵器のない世界」は「理想」ではない。核戦争の危機を回避し、核被害者をこれ以上生み出さないための、その現実的な第一歩こそが核兵器禁止条約である。G7首脳は、このヒロシマで核兵器の禁止にむけた具体的な議論に着手せよ!期限を定めて核兵器禁止条約への参加のプロセスをつくれ!

G7広島サミットに参加する核保有国首脳は、自らの核開発によって生み出した世界の核被害者に対する責任を果たす義務がある。核保有国の核の傘のもとで、連携して核開発を推進してきた同盟国の首脳も同様である。核の被害者への贖罪と人類の未来のために、ここヒロシマの地で核兵器禁止を誓うべきではないか。

私達はG7サミットに集う各国首脳に以上のことを強く要求する。


いのちとうとし

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2023年5月13日 (土)

「国際平和文化都市の基(はじまり)」展

基町のユニテで、明田フォトプロジェクトが主催する「国際平和文化都市の基(はじまり)」展が、4月21日から5月21日(木・金・土・日の12時~17時)までの会期で開催されています。

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私は、11日の午後に行ってきました。

展示されている写真は全て、写真工房を構え、仕事の傍ら60年以上にわたって復興した町や人びとの暮らしをとり続けた明田弘司さんが撮影されたものです。

会場は、明田さんの写真を中心に3つのタイトルで編成されています。

第1のタイトルは「児童文学館」・「焦土広島の児童たちのために」で、戦後の広島で最初の文化施設児童館が、「終戦の翌年の苦しい時代に小学校教師60人が結成した『広島児童文化振興会』が企画した『児童文化センター』構想の中心施設として建設された」と記されています。下の写真では、第1のタイトルが切れてしましましたが。

この構想の中で、児童文学館は、教師が中心とした民間人の活動によって建設され、昭和23年(1948年)5月3日という早い時期に開館式が行われてということに注目したいと思います。

ここで、「なぜ子どもの日の5月5日ではないのか?」と疑問を持たれる人もあるかもしれませんが、5月3日のブログ(76歳となった日本国憲法: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))に書いたように、「国民の祝日」が公布されたのは、1948年7月20日からですので、まだこの時には、「こどもの日」は定められていませんでした。

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第2は「児童図書館」・「広島の子どもたちが夢と希望をもつように、子ども図書館を立てて欲しい」で,この建物は、戦前に移民した人たちによる募金で建設されたことが次のように書かれています。

「戦前から移民を多数送出した広島県。ふるさとの惨状を伝え聞いた在外広島県人たちは、大戦中は『敵国人』の扱いを受け、戦後は生活の立て直しに精一杯でありながらも募金活動に励み、被爆後の広島をいち早く支援した。」

児童図書館も市民といっても在外の市民ということになりますが、そうした人たちの援助によって、昭和27年(1952年)12月4日に児童文化会館の近く基町に開館しています。

第3部は「文化のまちへ」・「未来につなぐ、国際平和文化都市ひろしまです。ここで初めて1949年8月6日の平和記念都市建設法公布・施行を機に、文化施設の整備が進んだことが展示されています。

会場の置かれたパンフレットの最後に「未来を担う子どもたちのために」とのタイトルで、次のように記されています。

「被爆後、著しい人口減少や経済的打撃で市は深刻な財政難に陥り、教育など社会の仕組みも一変。戦後の混乱に翻弄され、ものの不足する苦しい暮らしを強いられながらも、児童文化の復興に尽力する市民の行動が、ここ基町で早くも始まっていました。

当時の様子を写真で振り返り、『国際平和文化都市ひろしま』の礎を築いた市民の心意気を,現在そして未来へとつづく<文化のまち>の礎(はじまり)の姿を,今まさに変わりゆくまちの『これから』を、感じていただけると幸いです。」

柔らかな文章で書かれていますが、広島市中央図書館、児童図書館の移転問題での広島市の対応を、過去の歴史の中から厳しく批判している展示会だと思うのは、私だけでしょうか。

著作権の問題があり、明田さんの写真を掲載することが出来ませんが、子どもたちの表情豊かな写真が何枚もあります。またその他にも豊富な資料が用意されており、基町が、戦後の広島文化の基(はじまり)だったことが理解できます。

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また会場には、主催者である明田フォトプロジェクトの梅森美帆さんや明田さんの次女などが常駐されていますので、説明を聞いたり意見を交換することが出来ます。

ぜひ会場に足を運んでいただき見て欲しい展覧会です。

いのちとうとし

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2023年5月12日 (金)

初代「原民喜詩碑」の銘板―つづき

広島県立図書館に展示された「原民喜旧詩碑-銘板・陶板-」の説明板の4項目目には次のように書かれています。

「傷ついた旧詩碑の銘板陶板は、預かっておられた民喜の実兄である原守夫氏のご厚情により、民喜自筆原稿『屋根の上』等とともに当館へ寄贈していただきました。(1978年2月24日受入)」

この文章から、「原民喜旧詩碑-銘板・陶板-」が原守夫氏が寄贈されたことがわかります。

ところが、次の5項目目を読むと、ちょっと疑問がわいてきます。5項目目は次のように書かれています。

「なお、この陶板が当館に至る経緯について、豊田清史氏は、次のように書いておられます。『傷つけられた陶板は一応制作者である名古屋の加藤唐九郞氏に送られ、すでに他人に渡っていたが、民喜の文学資料に大切な品と私は考え、唐九郞氏に交渉して返送してもらい、現在県立図書館の郷土資料室の陳列ケースに保管されている。(図書新聞1983年4月9日)』」

疑問とはこうです。4項目目を読めば、間違いなく「原守夫氏から寄贈された」ことがわかりますが、図書新聞に掲載された豊田清史氏の文章には、「豊田さんが、加藤唐九郞氏から返送してもらった」としか書かれておらず、原守夫氏に預けたという記述がないのです。そのため、5項目目では、豊田さんが寄贈されたとも読める内容なのです。

県立図書館は、図書新聞の復刻版を所蔵していますので、1983年4月9日号を見させていただき,確認したのですが、5項目目と同じ文章しか書かれておらず、原守夫さんの名前は出てきません。なぜ豊田さんが、原守夫さんの名前を書かれなかったのか、真意を推し量ることが出来ないのが残念です。

改めて調べていただいたのですが、県立図書館受贈品目録には、はっきりと「1978年2月24日に原守夫さんから寄贈を受けた」ことが記録されているとのことでした。

最後の6項目目は次のように書かれています。

「昭和63年に県立図書館が中区上幟町から現在の地に移転した後、長く館長室に展示・保管されていましたが、この度、広く公開するために、開架室で展示することにしました。(平成30年3月13日)」

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このことと関連して脇康治さんの「図書館たより」・「出会い」には、次のように書かれています。

「それから(引用者注:「文芸大柿No.6発刊時」)約30年、県立図書館の書庫で偶然、旧詩碑の碑銘陶板に巡り会ったのです。陶芸家加藤唐九郞制作の、あの傷ついた陶板にです。私は運命的なものを感じました。旧館の時代には、郷土資料のコーナーに展示してあったのだそうです。

旧詩碑建設に努力された人びとのことばにあるように、『彼の平和への祈りを永遠に記念』するものとして、また、民喜を超えてヒロシマの『平和への祈りの永遠に象徴する』ものとして、現在、展示コーナーに展示しています。(9月29日まで)」

この文章から二つのことがわかります。

一つは、「旧詩碑の碑銘陶板」の展示には、「ヒロシマの『平和への祈りの永遠に象徴する』もの」としての想いが込められていること。

二つは、6項目に書かれた「昭和63年に県立図書館が中区上幟町から現在の地に移転した後、長く館長室に展示・保管されていました」は正確ではないということです。「正確ではない」というのは、脇康治さんが館長に就任されるまでは、「館長室」ではなく「書庫」に保管され、県民の目に触れることはなかったが、脇館長が見つけ出され、一時期展示コーナーに展示された後、館長室に展示され、ようやく平成30年(2018年)になって、現在のように常設で「カウンタ-」に展示されるようになったということです。

もし脇さんの目に触れなければ、今も書庫に眠っていたかもしれません。

ところで、私にはもう一つ気になっていることがあります。脇さんの「出会い」には、大柿高校の文芸誌だけでなく国泰寺高校の文芸誌「文芸進路」も紹介されていることです。文芸誌「文芸進路」には何が書かれているのか知りたくなり、国泰寺高校を訪ねたのですが、「文芸進路」はすぐに見つからず、所在を調査していただくことになりました。見つかれば、原民喜のことや詩碑のことがどんな風に書かれているか、ぜひ読みたいと思っています。

いのちとうとし

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2023年5月11日 (木)

初代「原民喜詩碑」の銘板

広島県立図書館(中区千田町3丁目)に入ってすぐ左手のカンターの奥側に「原民喜旧詩碑-銘板・陶板-」が、ケースに収められて展示されています。

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 「旧詩碑」の後ろに取り付けられた2枚の説明板の右側には、詩碑に刻まれている銘文と新しい詩碑の写真が、左側には、この場所の展示された経緯が6項目に分けて書かれています。

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その最初の二つは、次のように書かれています。

「小説『夏の花』で知られる郷土の作家原民喜の詩碑は、最初,広島城跡の被爆した石垣を背景に建てられました。(1951年11月15日)」

「しかし、まもなく佐藤春夫氏起草の碑文を刻んだ裏面の陶板は盗まれ、民喜自筆による『碑銘』を刻んだ表面の陶板(陶芸家加藤唐九郞制作)は、投石などによって傷ついてしまいました。」

実は、県立図書館を訪れてすぐに「原民喜旧詩碑-銘板・陶板-の由来を知りたい」と館員に尋ねたところ,「ぜひこれを読んでください」と1枚の資料「1996年7月 図書館たより 広島県立図書館報第81号」を手渡されました。

その「図書館たより」には、「原民喜の旧詩碑銘陶板」と「原爆ドーム東側に再建された詩碑」の2枚の写真とともに当時の県立図書館長だった脇康治さんの「出会い」と題した手記が掲載されています。

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その手記の冒頭に次のように書かれています。

「大柿高等学校の文芸誌『文芸大柿』(1965・No.6)に、『文学散歩-近辺文学碑めぐり-』という文章があります。その中で『原民喜の詩碑』については、次のように記されています。

『広島城を歩くと人影もない、ひっそりとした所に,ポツンと一つの詩碑が立てられています。これは広島が生んだ原爆詩人、原民喜の詩碑なのです。雑草の中に埋もれ、建設の縁起を記した佐藤春夫氏の文が刻まれた銅板は、何者かによって持ち去られていました。碑の正面も、子供たちが、標的としてぶつける石で傷つけられ読めなくなっています。

遠き日の石に刻み/砂に影おち/崩れ墜つ天地のまなか/一輪の花の幻

と書かれた詩が、この傷ついた貧しい詩碑に刻まれているのです。わたしたちは、碑のまわりを掃除し、心ばかりの花を供えて、静かにひざまずいたのでした。』

顧問として案内した時のことを懐かしく思いだしています。」

この文章からは、原民喜詩碑が広島城のどのあたりにあったのかはわかりませんが、当時広島城が子供たちの遊び場だったことや詩碑が傷つき雑草の中に埋もれるなど放置状態にあった様子が想像できます。

説明板に書かれた当時の様子は、この文章を元にして書かれてものだということが理解できます。「文芸大柿」には、1965年の何時頃この場所を訪れたかは書かれていませんが、原爆ドーム横に新しい詩碑が建立されたのが、1967年7月29日ですので、旧原民喜詩碑の様子が、これでよくわかります。

原民喜詩碑が再建された際に作られた報告集「原民喜詩碑再建記念」には、詩碑が傷ついていたことについて、冒頭の「原民喜詩碑の再建について」の最初に次のように書かれています。

「この度、原民喜の詩碑を,十幾星霜にわたって痛ましく傷つけられた儘になっていました広島城跡から・・・。そもそもこの原民喜詩碑が、毀損されたにつきましては、彼を識るものも識らぬものも,心を痛めますこと久しく,修復と保存について・・・」(原文のまま)

図書館の説明板の3項目は、「原民喜詩碑が原爆ドーム横に再建された」ことが記されています。

4項目以降に、詩碑再建に伴って、撤去されることになった「原民喜旧詩碑-銘板・陶板-」が県立図書館にたどり着き、展示されるまでの経緯が記されていますので、その内容を次回紹介します。

いのちとうとし

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2023年5月10日 (水)

中国電力OB会、カルテル問題で後輩たちへ激励のメッセージ

 4月28日、中国電力は23年3月期の決算発表を行いました。1553億7800万円という、これまでで最大の赤字額となりました。発電燃料費価格の高騰と、カルテル問題で公正取引委員会から排除措置命令とともに707億円を超える課徴金を命じられ、これを特別損失に計上したことが影響したと発表しています。

 株主への年間配当金もゼロで、配当ゼロは会社創業以来のことです。今年の春闘では大企業を中心に賃上げが進んでいるとされていますが、中国電力社員のベースアップはこれまたゼロで、労働組合も受け入れました。私は、いくら赤字とはいえ、社員のベースアップまで無しにすることはないと思います。

 何年か前、どこかの証券会社が破綻した時、社長が泣き声で「社員が悪いのではありません」と叫ぶように語ったのを思い出しました。

 中国電力OBに対し、「OB会員の皆さまへ」というのが、社内報別冊として送られていました。タイトルは「後輩たちへの激励メッセージについて」とあります。文書には、公正取引委員会から課徴金を命じられたことなどが書かれた上で、OBの人たちへのお願いとして、『この難局を乗り越えるべく企業再生に向けて取り組む後輩たちに対し、温かい「叱咤激励のメッセージ」を送りたいと思います。厳しい意見も含め、私たちOB会員の思いを直接届けることで、今後の中国電力の歩みを少しでも後押しできればと思います。』とあります。

 先輩たちからの後輩への涙の出るようなお願いに思えますが、この度のカルテル事件の主犯格は、2017年~18年の事件が起こった時の社長であった清水希茂(まれしげ)・現会長と、当時経営企画部門長の職にあった瀧本夏彦・現社長であったことは間違いありません。

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 この18年6月に開催された株主総会で、瀧本さんは取締役に昇格しました。株主総会招集通知書には、瀧本さんを取締役候補者とした理由について、『震災後の著しい経営環境変化の下、経営企画部門において当社経営のあり方を描く中核的役割を担っております。多面的かつ即応性の高い思考・分析能力を活かした的確な業務運営が期待できることから新たに候補者としております』とあります。どこが「即応性の高い思考・分析能力」だったのでしょうか。

 清水希茂さんについては、あえて書きませんが、豊富な知見と強いリーダーシップのある人物と絶賛しています。

 こんな幹部の元で働かされていた社員たちに、なにを激励するようにというのでしょうか。求められているのは、幹部たちへの怒りだと思うのです。

 決算発表を行った同じ日に、カルテル課徴金問題で公正取引委員会に対する取り消し訴訟を起こすことも発表しました。取り消し訴訟を起こして、司法の場で事件の真相を明かすことはとても大切なことだと思います。しかし中国電力は、カルテルでは関西電力に騙されたという主張をしているのですから、その損害請求を関西電力に起こすことが先だと思い、問い合わせをしました。戻ってきた回答は「現時点では答えられない」というものでした。

一般的には被害者が加害者に責任を問うのが先で、それを調べた「捜査機関」を訴えるのは、順序が逆だと思うのですが。やっぱり電力会社はみんな「グル」で、同じ『ムラ』仲間なのでしょう。

木原省治

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2023年5月 9日 (火)

精神的原子の連鎖反応が物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ

「精神的原子の連鎖反応が物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ」

この言葉は、1962年(昭和37年)4月20日から始まった昼夜連続無期限の核実験抗議の坐りこみに参加された森滝市郎先生が、反核運動の「さとり」として、全世界に向かって宣言(注:先生の言葉)されたものです。今、この「さとり」は、核実験抗議の坐りこみの理念となっています。

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坐りこんでいる前を往ったり来たりしていた小さな女の子の「座とっちゃ止められすまいでえ」のとのつぶやきの問いに対し、見つけ出された回答がこの言葉でした。

この思索の経緯については、先に紹介した「座りこみ10年の『前史』と理念」の中で詳しく紹介され、その後の森滝先生の著書の中に収録されているので、私も何度も読み返した文章ですが、ぜひ多くの人に読んでほしいと思います。

今日の話は、この「さとり」に使われている「精神的原子」という言葉の由来についてです。

私自身は長く、座りこみの「さとり」から生まれた言葉だと思っていました。しかし、最近になって改めて著作を読み直してみると10年も前に「精神的原子」につながる言葉を使われていたことがわかりました。

そのきっかけは、書棚にあった「平和をもとめて 長田新論文・追悼記」を最近手にした時です。この表紙の題字「平和をもとめて」は、森滝先生が書かれたものです。

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この中で森滝先生も「幼き神の子の声を聞け」と題した「追悼記」を書かれています。内容は、長田新先生が、昭和26年(1951年)に広島市内の子どもたちから原爆体験の作文を集めて編集出版された「原爆の子」(注:現在は岩波文庫として発刊)に森滝先生の長男、長女が深くかかわったことなどについて書かれています。そして、翌昭和27年(1952年)2月27日に長田先生の呼びかけで原爆の作文を書いた子どもたちをねぎらう集会が開催され、その集会が自然発生的に「原爆の子友の会」の発会式となったことを紹介されています。

その発会式で、森滝先生は父兄(注:原文のまま)代表として挨拶をされたのですが、「精神的原子の連鎖反応」のつながる次のようなあいさつをされています。その一部を引用します。

「原子爆弾のあの大音響には私もびっくりしたのですが、考えて見ればしかし、その音響はたかだか230里位しか聞こえなかったのであります。ところが長田教授が発見し、結集された子供たちの精神的原子爆弾の音響は世界中にひびきわたったのであります。しかもかれはのろいと破壊の大音響であり、これはすくいと平和の大音声であります。小さきものに巨大な力がひそむことの発見という点では物理学的発見も教育学的発見も同じでありますが、精神的原子力の発見を伴わない物理的原子力の発見は人類の破滅を招く以外の何ものでもありません。」

「精神的原子の連鎖反応が物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ」のさとりが生まれた10年前に、すでに森滝先生の思想に「精神的原子」(ここではまだ「精神的原子力」となっていますが)という考え方があったと考えるのは、私の考えすぎでしょうか。

この「原爆の子友の会」の発会式のあいさつ文は、「長田先生から後日あの挨拶を是非書いておいてくれないかと熱心に頼まれましたので、私はそれを文章化してお届けしました。」ため、きちんとした文章として残っています。

「平和をもとめて 長田新論文・追悼記」の発行年は、「精神的原子の連鎖反応が物質的原子の連鎖反応にかたねばならぬ」の理念を確立された年の1962年の3月25日となっています。何か深い縁を感じます。

森滝先生の長田新先生への追悼記は、「核絶対否定への歩み」(広島県原水禁1994年3月25日発刊)には、「幼き神の子の声を聞け」のタイトルで収録されていますが、「核と人類は共存できない」(2015年8月6日発刊)には、残念ながら収録されていません。

「核絶対否定への歩み」は、森滝先生が生存中に編集された本ですから、ここに「原爆の子友の会発会式のあいさつ」が収録されているということは、先生のとって大切な文章だったことを示していると考えてよいと思います。

いのちとうとし

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2023年5月 8日 (月)

2023.5月のブルーベリー農園その1

春も半ば、東広島市の豊栄町のブルーベリー農園ではブルーベリーの花をはじめ野山にも多様な花が咲いていて、ミツバチ、特にマルハナバチがブンブンと動きまわって受粉に忙しい。2日には友人の援農もあり、剪定した枝の野焼きや畑の防草シートを敷く作業が終了。3日には午後からブルーベリーの栽培を検討している人の見学があり、季節柄、ブルーベリー畑の中で聞こえるミツバチの音も体験していただいた。安芸区の自宅から連休中は農園に通ったが、6日と7日は終日雨で中止。この春は雨が多い。

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430日(日)

ブルーベリー畑の花が満開。のり面の草刈りも続ける。

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ブルーベリー畑や里山に咲く野の花。

①、キジムシロはブルーベリー畑のあちこちに広がる。

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②、バイカイカリソウは里山の林の中に咲く

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③、里山のサンショウの花。この木は昨年実がならなかったが、今年は実がつくかもしれない。

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53日(水)

田植えが始まる。すんだ田とこれからの田と。

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54日(木)

昨年と違い今年はレンゲやクリムソンクローバーやダイコンや菜の花の種をまき、春になって花を咲かせているのでブルーベリー畑の中のミツバチもいろんな花の蜜を吸う。

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レンゲも結実して種ができているし、

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ブルーベリーも落花、結実がすすむ。

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農園の道向かいの田んぼの畔にはシバザクラが植えてあるが満開を過ぎて、花色が淡くなってきて目に優しくなった。道の向こうの祠は水神様。

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55日(金)

ブルーベリーの剪定は3段ある畑がすんで里山に植えてあるブルーベリー園に移っている。剪定する人、枝を片付ける人など手分けをして作業を続けている。

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夕方帰るころ、ブルーベリー畑ののり面の草を刈ってくれているのは親戚の男性。2日にお会いした時のエピソードは、里山の草刈りをしていると突然メスのキジが飛び立ったのでよく見ると巣があり、中に卵があったので途中で草刈りを中止したそうだ。話を聞きその後巣にそっと近づき確かめてみたが幸い卵を温め続けているようで目と目があったことでもあるし、ほっとしている。生まれて親子で農園の周囲を歩く姿を見れる日がくるのが楽しみだ。 

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年5月 7日 (日)

終わりなき核被害を生きるーエヴェレンさんの話

5月2日の午後1時半からエソール広島で「被爆体験を継承する会」などが主催する「マーシャル諸島からエヴェレンさんがやってくる 終わりなき核被害を生きるー今伝えたい想い」が、開催されました。

エヴェレンさんは、マーシャル諸島政府のもとに設立された核問題委員会(NNC)で、教育普及担当を務める子育て中の女性です。(講演会案内のチラシより)

マーシャル諸島は、1946年から58年にかけ、アメリカが67回もおこなった核実験場の島々です。

エヴェレンさんの母は、8歳の誕生日を迎えた日1954年3月1日に行われたのがビキニ水爆実験です。

実験場のエニウェトク島から180km離れた島ロンゲラップに住んでいたエヴェレンさんの母は、放射性降下物による放射能被害によって、その後甲状腺がんになり7回の流産をすることになりますが、「アメリカと話し合いが出来るように」とその後、政治家となり,核被害問題の解決に努力します。1995年には「核兵器の違法性を問う」国際司法裁判所で証言も行います。

核実験当時、ロンゲラップ島にいた人は、87人。この人びとが避難できたのは、実験の3日後のこと。一度は、島に戻ったのですが、汚染濃度が高すぎ、1985年に再び島を離れ、今も帰ることが出来ない状況が続いています。

エヴェレンさんの話は、こうした核実験による被害とその現状とともに、母の活動を引き継ぎ「マーシャル諸島の人びとが体験したことを誰にもさせたくない」との思いで続けている現在の活動状況についてでした。

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エヴェレンさんのお話を聞きに行こうと思ったのは、ビキニ水爆実験被害後の今を,当事者から直接聞きたかったからですので、本当は、もう少しその内容を紹介しすべきですが、今日は原水禁国民会議とマーシャルの核実験被害者との出会いについて、書きたいと思います。

よく知られているように、日本の原水禁運動の出発点となった第5福竜丸が被災した核実験が、このビキニ水爆実験です。

しかし、残念ながら当初の日本の原水禁運動は、その出発点となったマーシャル諸島の核被害者の問題を取り上げることはありませんでした。

ようやくマーシャルの核被害者の問題と向き合うようになったのは、被爆26周年原水禁世界大会(1976年)にミクロネシア代表団が参加したときからです。

この大会の国際会議で、ミクロネシア代表のモーゼス・ウルデゥングさんは次のように訴えています。

「1940年代と50年代には、ビキニ島は原水爆の実験場にされました。ビキニの人びとは不毛の地に移住させられ、今ではネズミと食糧不足に苦しんでいます。1954年の水爆実験は、罪のないミクロネシア人約100名に未曾有の被害をもたらしました。アメリカは、世界的な非難を受けて、彼らのイメージが落ちるのを防ぐために、10万ドルを支払いました。アメリカの医師たちは、これらの犠牲者を治療はせず、水爆の放射能が人体に及ぼす影響を研究するため“人間”モルモットのように扱っています。」そして、「その被害の実相を調査する調査団の派遣」を求めます。

これを受け、「調査団派遣をする」国際共同決議が行われ、同年12月に原水禁国民会議は、日本で最初の医師を含む被曝調査団を派遣しました。

この時初めて、日本の原水禁運動は、原水爆被爆国が日本だけでなかったことを知ったのです。

その後1974年には、ポリネシア代表団が、そして1975年の「3,1ビキニデー」には、マーシャル諸島ロンゲラップの村長が来日し交流が深まります。

こうした歴史をもう一度振り返りたいとの思いも、エヴェレンさんの話を聞きに行きたいと思った動機の一つです。

いのちとうとし

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2023年5月 6日 (土)

2023平和といのちと人権を!5.3ヒロシマ憲法集会

少し遅くなりましたが、「2023平和といのちと人権を!5.3ヒロシマ憲法集会」の簡単な報告です。

メイン会場の弁護士会館では、予定通り午前10時丁度に戦争させない千人委員会・アイ女性会議の貴田月美さんの司会で、集会がスタートしました。

主催者あいさつは、「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」共同代表の山田延廣弁護士。山田さんのあいさつ冒頭のことば「日本国憲法よ、76年間よく民主主義を育ててくれた。そして、戦争をしない、平和な時を過ごさせてくれた」が、印象に残っています。

主催者あいさつの後、川崎哲さんの「戦争の準備ではなく,平和の準備をー“抑止力”で戦争は防げない-」と題した記念講演です。

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川崎さんの話は、「安保三文書」が閣議決定される前に川崎さんが座長となってまとめられた「平和構想会議の提言」を詳しく紹介されました。「核兵器も武器も使うために作られている。だから,それが増えれば戦争に近づくのは当然のこと。軍備を増やせば、戦争の危険が高まるのも当然のこと。戦後78年、戦争をリアリティに考える世代が少なくなっているが、抑止力を高めれば高めるほど戦争に近づくことになる。安全保障のジレンマである」と「抑止力論」の危険性を指摘し、さらに「軍拡に向かう危険性を歴史の事実を提起して訴えなければならない」ことを強調しました。

川崎さんの講演内内容が豊富でしたので、ここで全部を紹介することが出来ません。YouTubehttps://youtu.be/euNGEk9GGi4)にアップされていますので,詳しくはぜひそちらを見てください。

集会の最後に以下の集会アピールが提案採択されました。少し長いのですが、全文掲載します。


戦争の準備ではなく 平和の準備を

 2023年5月3日、今日は、日本国憲法が施行されて76年目となる記念の日です。

 76年前、日本は、日本が引き起こした侵略戦争で、多くの国々と市民に大変な被害をもたらしたことを反省し、二度と戦争を起こさない、軍隊は持たない、平和国家として世界に尊敬される国になることを憲法に明記して約束しました。

 しかし今、日本は、戦争できる国、戦争を準備する国につくりかえられようとしています。

 岸田政権は、去年の12月、国会にも国民にも諮ることなく、敵基地攻撃能力を持つ、5年間で43兆円もの軍備拡大を行う、日本の安全保障政策を大転換させる「安保3文書」を閣議決定し、今年、過去最大の軍事費を盛り込んだ2023年度予算を成立させました。また、原子力発電政策を再起動させるGX法(グリーントランスフォーメーション法)、健康保険制度の改悪と抱き合わせて国民のくらしと財産を監視するマイナンバー法、世界から時代錯誤と批判されている入国管理法改定案、いのちやくらしに関わる財源を軍事費に注ぎ込み、大増税への道を開く軍拡財源法案など、戦争国家に突き進む悪法のオンパレードです。

 さらに、岸田首相は、「時代は憲法の早期改正を求めている」(2月の自民党大会)と改憲を掲げ、改憲勢力は国会の憲法審査会の毎週開催を主張し、9条への自衛隊明記や緊急事態条項創設の改憲案まで示されています。

 日本国憲法と憲法9条は、最大の危機に直面しています。

 しかし国民は、改憲を政治の最優先課題とは考えていません。物価高騰、先進国で最下位のジェンダー問題、貧困と格差、3年余のコロナ禍で浮き彫りになった公衆衛生、医療と介護の貧困、農林水産業の衰退と低い食糧自給率、気候危機と大災害、原発の後始末と汚染水の処理など、日本は戦争の準備をするどころではない、大切な課題が山積みです。

 ウクライナにロシアが侵略して一年余。市民がどれほどの戦禍に見舞われるかを、私たちは目の当たりにしています。ロシアが核兵器の使用もあり得るとおどし、核抑止の論理が破綻する中、被爆地ヒロシマでG7広島サミットが開かれ、拡大核抑止を強化し、日本の国是である非核三原則が崩されようとしています。

  私たちは、今日、「戦争の準備ではなく、平和の準備を」と集いました。全国でも「新たな戦前にさせない、平和と命、憲法を守ろう」と、同じ思いで「憲法集会」が開かれています。

 多くの市民が、岸田政権の暴走を止めよう、憲法の改悪は許さないと声をあげ、戦争への道でなく、憲法を活かし、世界から、平和の国として尊敬されることを心から求めています。

 本集会に参加した私たちは訴えます。

 戦争の準備ではなく、平和の準備を

  憲法を変えて、戦争する国になるのではなく、

   憲法を活かし、平和・人権・民主主義の理念の実現を

   ウクライナに平和を ロシア軍の即時撤退・停戦を

 戦火におびえることも、飢えることもなく、

  すべての人が、豊かに、平和に暮らせることを


弁護士会館の参加者は、約200人でした。弁護士会館以外に6カ所でZOOM会場が設けられましたが、まだ参加者は集約できていません。熱心に聞く、参加者の姿が印象的でした。

いのちとうとし

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2023年5月 5日 (金)

ヒロシマとベトナム(その47)

独立王朝時代後期、内乱の時代

ベトナム象はどのようにして日本に運ばれてきたのか見てゆきます。下表は、私が会長を務める東広島郷土史研究会の「2月例会」で発表した研究発表資料の一コマです。

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「資料」に見るように、939年に紀元前から続いた1000年に及ぶ中国による支配を脱し、約1000年の独立王朝時代に入りますが、ベトナム象が日本に来たのはその独立王朝時代の後期、ベトナム中北部で諸侯(それぞれ王朝を名乗る)が覇を争った「内乱の時代」です。下の地図はその時代のベトナムの勢力圏図です

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北部地域(トンキン:東京)は、現在のハノイ(安南)に拠点を置く鄧氏(ていし)と鄧氏に政権を追われた後黎朝(こうれいちょう)の勢力が支配。中部地域(コウナン:広南)は、フエを拠点に後にベトナムで初めて全土を統一した阮氏(ぐえんし)が支配しています。南部にはもともとベトナム中部からカンボジアにかけて強大な王国を築いていたチャンパ国 (占城)が、追われて辛うじて勢力を維持していました。

このようにベトナムでは大きく3つに分かれ、とくに北部と中部の2大勢力が覇権をめぐって争っていた時代、日本の戦国時代の後期とでもいう時代です。

鄧氏と阮氏は国内での支配権めぐる争いと同時に、近隣諸国とのベトナム国主をめぐる外交面でも競っていたものと思われます。

鄧氏(北部)vs阮氏(中部)の威信をかけた「象戦争」

江戸幕府開闢の1603年から1635年までの間、朱印船貿易行われており、ベトナムや暹羅(シャム:タイのアユタヤ王朝)、柬埔寨(カンボジア:カンボジア王国)、太泥(タニ:マレー半島のパタニ王国)、呂宋(ルソン:マニラを首都とするスペイン領ルソン島)、高砂(タカサゴ:オランダ領台湾)と交易し、356隻が行き交いしました。そのうちの130隻がベトナムで、北部のトンキンに37隻、中部の広南に97隻と記録が残っており、阮氏が鄧氏を圧倒していたようです。

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ベトナム北部と中部と交易した朱印船 出典:北進塾・情報局より

1639年に始まった鎖国政策のために公式な交易は無くなりますが、その後も中国商人などを介した日本との交流は続き、北部の鄧政権と中部の阮政権との交易をめぐる争も続きます。

そうした折、日本国の支配者である将軍が象を求めているという話しが伝わってきます。

この時代のベトナム人研究者の一人、ハノイ国家大学人文社会科学大学のファン・ハイ・リン准教授の論文、「前近代ベトナムにおける象の国家的管理と象貿易」(2018年3月『専修大学古代東ユーラシア研究センター年報・第4号』に興味深い記述があります。雄雌2頭のベトナム象が日本に渡った「出来事が注目される一つの理由は、献上されたものではなく、将軍徳川吉宗の要請によりもたらされたからであろう」とし、「実はその要請が以前から商人の中で伝えられていたようだ。」と書いています。

そして、こうした要請をもとに北部トンキンの貿易商・呉子明が、徳川幕府に、ベトナム象ではなく暹羅(シャム)産を薦めていたという記録を紹介しています。ところが、実際に日本に送られた象は、暹羅産ではなく中部・広南のダンチョン象で、運んだ船主は鄧大成でした。

面白いですね。ベトナム国内の覇を争う北部(鄧政権)と中部(阮政権)が、日本に送る象でも争っていたようです。

ハウマッチ? ベトナム象

ところで皆さん、徳川吉宗は幾らでベトナム象を買い入れたのか気になりませんか? これも、ファン・ハイ・リン准教授の論文に参考になる記述があります。「一象可載米三十擡、毎擡二十鉢、亦有一市番、駆牛至、三百隻来売、一牛不過十貫、一象價銀二笏」。「一象價銀二笏これは当時ベトナム国内で売買されていた象の値段の記録で、一頭の象の價(あたい)2笏(しゃく)で、日本の20両に相当する金額です。

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1973年に撮影された象。1990年代には数千頭余野生象がいたが、200年には150頭未満に減少

実際に日本に運ばれた象の値段はいくらだったのでしょうか。

残っていた呉子明の手紙には次の様に書かれています。「一象其帯来、小船不堪装載、徒新定造大船二艘、毎艘只装得一隻、但欲定造お大船二艘、要用銀一萬餘兩、又唐山發船到暹羅、往来雑費、該用銀二萬餘兩」(『通行一覧』)。象を運ぶのに小さな船では駄目なので、新たに2艘建造などで1万両余り、シャムからの輸送など諸経費に2万両余りが必要と書き残されています。象一頭当たり、実に1万5千両余りです。

なんと! ベトナム国内の750倍になります。

実際に運んだのは呉子明ではなく鄧大成であり、暹羅象ではなくベトナム(広南象)だったので、吉宗が支払った金額が幾らだったのかわかりません。もしかすると、どこかに記録が残されており、いつの日か発見されれば判明するでしょう。

ちなみに、1両≒12万円として1頭当たり18億円になります。東洋経済(2018年4月)によると、動物園のアジア象1頭の値段が100~500万円ということですから、とてつもない金額です。「享保の改革」で奢侈禁止や倹約、殖産で財政再建を進めていた徳川吉宗、象に何を求めていたのでしょうか。前号で紹介した「軍象」・・・・?

 次号(6月5日)では、象好き!日本人の歴史を振り返りながら、ベトナム象が来た頃の日本とベトナムの興味深い「外交秘話」を紹介します。

(2023年5月5日、あかたつ)

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2023年5月 4日 (木)

森滝市郎先生が最初に座り込みをされたのはいつか?

今日も森滝先生の話です。

先日の「森滝先生の自筆資料などの搬出」を取材した記者の一人から「森滝さんの最初の座り込みは、昭和37年と思っているのですが、その前の昭和32年に『イギリス水爆実験に抗議して4人の被爆者が座り込んだのが最初』という資料館のパネル展示があるのですが、本当はどちらでしょうか」と尋ねられました。

改めて問われると、「サー?」と即答できませんので、大事なことですのできちんと調べることにしました。

手がかりは、1973年7月20日からスタートした「核実験抗議の座りこみ」10周年を記念して、広島県原水禁が,1984年3月20日に発刊した「ヒロシマの記録―核実験抗議座りこみ10年-」に掲載された森滝先生の巻頭言です。

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この巻頭言のタイトルは「座り込み10年の『前史』と理念」(1994年刊「核絶対否定への道」、2015年刊「核と人類は共存できない」にも収録)です。何度も読んだはずですが、改めて読み直しました。

この中で、森滝先生は、核実験抗議の座りこみの「前史」として、「昭和32年の慰霊碑前座りこみ」と「昭和37年4月の慰霊碑前座りこみ」の二つの座りこみが在ったことを紹介されています。これによって、核実験抗議の座りこみの最初は、昭和32年だったことがわかりますが、記者からの問い合わせは、「森滝先生が最初に座りこみをされたのは?」ということでした。

昭和37年4月の座りこみについては、「もう一つの大きな事例は、昭和37年4月の慰霊碑前12日間の座りこみ行動である。(中略)4月20日から核実験計画を中止せよと要求して座りこみ行動がはじめられた。通して座りこむのは吉川清君と私であったが、私は大学に辞表を提出して背水の陣の決意で座りこんだ。」と書かれているので、森滝先生が、この時座りこみをされたことははっきりしています。

問題は、「昭和32年の慰霊碑前座りこみ」の時どうだったのかです。その時のことを次のように書かれています。「この時、広島では三月下旬から四月中旬にかけて被爆者数名が原爆慰霊碑前で『祈りと抗議の座りこみ』をつづけた。吉川清、小林薀徹、南小一、河本一郎などの諸君であった。」これを読む限りでは、この時の座りこみには森滝先生は参加されていません。ところが、この記述の少し後に「この数名の被爆者有志の行動に動かされて広島県被団協は四月六日にこの人たちを囲んで『祈りと抗議の座りこみ』をおこない,その場で被団協の抗議大会を開いた。しかし、この数名の座りこみは猶もつづけられ,遂に四月二〇日の実験抗議広島市民大会にこぎ着けて座りこみ行動を打切った」と書かれています。これを読むと、一日だけですが、4月6日には、吉川さんなど4人に加わって県被団協の抗議大会に集まった人たちと一緒に座りこまれたことになります。

ですから、「森滝先生が最初に座りこみをされたのは?」の答えは、「昭和32年(1957年)4月6日」と言ってよいのではないかと思います。これが私が得た一応の結論です。

この他にも調べてみてかわかったことがあります。

その一つは、森滝先生の記述では、「3月下旬」となっている座りこみが始まった日は、「3月25日」だということです。「4月6日の県被団協の抗議大会」には、山口、岡山、愛媛の各県代表も参加し、参加者は100人でした。また「4月20日の原水爆実験抗議広島市民大会」は、市民や学生、被爆者など1000人が参加し,資料館下で開催されています。場所が、資料館下となっており、ちょっと不思議な気がしましたので、気象台の過去の天気を調べてみました。それによると、昭和32年4月20日の広島市の降雨量は「31.1mm」で一日中雨が降っています。雨が降っていたため、会場が資料館下となったようです。

これらは天気情報を除いていずれも中国新聞社が発刊した「年表ヒロシマ 核時代50年の記録」に記載されていたのでわかったことです。、調べてみるといろいろと新しいことがわかりますので、楽しみながら進めています。

いのちとうとし

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2023年5月 3日 (水)

76歳となった日本国憲法

1946年11月3日に公布された「日本国憲法」が施行されたのは、翌1947年の5月3日です。

5月3日が、「国民の祝日」の「憲法記念日」として定められたのは、1948年7月5日に成立し、同年7月20日に公布・施行された「国民の祝日に関する法律」によってです。制定時には、「国民の祝日」として剪定されたのは、元日など九つですが、「憲法記念日」は、その一つです。ですから「日本国憲法は76歳の誕生日」となりましたが、「国民の祝日」としての「憲法記念日」は、今年で75回目を迎えたことになります。ちなみに日本国憲法の公布日11月3日は「文化の日」として「国民の祝日」となりました。

こんな話を長々と書いたのは、「国民の祝日」は、日本国憲法の誕生と深い関わりがあるからです。

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「国民の祝日に関する法律」の制定前は、年間11の祝祭日があり,休日とされていましたが、それらはいずれも勅令で定められたものでした。勅令とは、「大日本帝国憲法下において、帝国議会の協賛を経ずに天皇の大権によって制定された命令」ですから、国民が主権者となった日本国憲法にはふさわしくないとして、新しい憲法の精神に基づいて再検討されるべきだとなり、国会で立法され、「国民の祝日に関する法律」が成立し、九つの「国民の祝日」が定められました。

日本国憲法が成立した当初、内閣は政令によって改正することを考えたようですが、国会側から「国民生活に密接につながる」として、国会で決めることが適当との指摘があり、国会で立法されることになったのです。

内閣府のホームページによれば、「国会では、衆参両院の文化委員会において審議が行われ、衆議院では『委員会12回、打合会9回、参議院文化委員会との合同打合会4回』、参議院では『委員会、打合会、懇談会、合同打合会など40回』の審議が重ねられ、法案の作成が進められた」とされています。

近年「憲法違反の国の重要施策」が、憲法を無視して「閣議決定」によって作られていることを考えると、日本国憲法が制定された当時、いかに憲法を大切にしようとしていたのはが、この一つからもうかがえます。

今日の憲法記念日を前後して、「改憲」を巡る国会の動きや世論調査の結果が報道されますが、私たち自身が、今日の「憲法記念日」を改めて「日本国憲法の理念」とは何かを考える日にしたいものです。

今日は、これから「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」が主催する「2023平和といのちと人権を!5.3ヒロシマ憲法集会ー戦争の準備ではなく,平和の準備をー」に参加するため、弁護士会館に行きます。今年の講師は、川崎哲さん(ICAN国際運営委員兼会長・ピースボート共同代表)です。

毎年、憲法を護る広島県民会議が取り組んでいる「輝け9条生かそう憲法」の意見広告が、中国新聞に掲載されました。

いのちとうとし

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2023年5月 2日 (火)

「百万署名を発送するに当たって」―森滝先生のメッセージ

今日は、昨日のブログで紹介した「百万署名を発送するに当たって」の全文紹介しようと思います。

理由は、二つです。

一つは、日ごとに増えていく署名,わずか3ヶ月で百万人に達したことを対する高揚感を感じたいからです。

もう一つは、森滝先生が文章を作られるとき、最後まで推敲を重ねられる姿を思い浮かべて欲しいからです。昨日の写真とともに下の写真を見ていただくと、いくつもの修正が加えられていることがわかると思います。

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森滝先生が推敲に推敲を重ねられる姿を、私は直接体験したことが在ります。それは、1987年ニューヨークで開催された「第1回核被害者大会」に参加途上の飛行機の中でのことです。森滝先生の同行者として参加することになった私は、ホテルも同じ部屋でしたが、この飛行機でもずっと隣座席に座ることになりました。その飛行中、何度も「基調演説」の原稿を取り出し、読み直し、読み直しをされていました。「百万署名を発送するに当たって」の原稿を見て、そのことを思い出したのです。

少し長いのですが、全文修正後の文章を原文のまま掲載します。


「百万署名を発送するに当たって」メッセージ

原水爆の禁止ということは今日人類の最大の課題であります。この課題に応える一つの運動方法として広島県下に百万人の署名運動を展開いたしました。県民皆々様の絶大なるご協力を得まして誠に感謝にたえません。お陰で八月六日の県民大会の時までに八十九万八千十三名の署名者数に達しました。八月二十日には、遂に目標の百万名を突破しました。而して八月二十七日今日現在百一万に達しています。

さてこの百万人の署名簿は、三百枚一綴りとして八十四冊,百二十五キログラムとなり,之を直接ニューヨークの国連本部に送るためには莫大な輸送費を必要とし、その費用の捻出に苦労してゐました所、日本通運広島支店の義侠的行為により、本日之を国連本部に発送することが出来るやうになりましたことを皆様に報告し得ることは私の最も大きなよろこびであります。

之を国連本部に送るに当たって,私はこの手紙で広島県民の衷情いかに訴えるべきか心を砕いて居ります

百万署名者の皆様に代って,国連事務総長超宛の手紙を書きました。九月二十一日から開かれる国連総会に集まる各国代表たちが,広島から送られるこの百万人署名簿の実物を見広島からの訴えをきくことによって必ずやその心を動かされて原水爆禁止の国際的努力に励んで呉れるであろうことを信じてゐます。

これは後程朗読いたしますが、要するに九月二十一日から開かれる国連総会に集まる各国代表に之を展示して原水禁止及び原子力国際管理の為の国際会議をひらかれるよう提案されたい旨を訴えのであります。

原水爆禁止という歴史的課題に於ける広島県民の使命を想いつつ今日の貴地の大会の御成功を心よりお祈り申し上げます。

昭和二十九年八月二十一日

原爆水爆禁止広島縣民運動本部

事務局長 広島大学教授 文学博士 森瀧市郎


この文章にはいくつかの注が必要だと思います。

「八月二十七日」は、国連本部に署名が発送された日です。この時点での署名数は、103万3472人です。

「日本通運広島支店の義侠的行為」について、森滝先生の日記の8月13日では、次のように書かれています。「午前、国連協会広島支部を訪れ、原水爆禁止署名簿を国連に送る費用につき相談。午後、日通広島支店長の大原茂樹氏を訪れ、署名簿をニューヨークの国連本部に送ることについて相談。大原支店長はずばりと引き受けてくれる。一切無料で。近来の快事。会館に帰って一同に語る。意気大いにあがり、早急に百万署名達成のてはずたてる。ただいま九十五万」。

下線の部分は、原稿用紙の枠外に書かれていますが、私の判断で、ここに挿入しました。

「今日の貴地の大会」と最後の日付「昭和二十九年八月二十一日」は、調べてみたのですが、はっきりしたことはわかりませんが、この文章は、広島大学文書館によれば、「827日国連に送る署名簿を日通広島支店長に伝達するときの挨拶の原稿」ということです。

森滝先生は、同年96日付で署名簿とともに国連事務総長に宛てて送られた添え状「国連事務総長あて書簡」の文案も作成されています。

いのちとうとし

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2023年5月 1日 (月)

森滝市郎先生の自筆資料など広島大学に寄贈

広島大学の希望と森滝春子さんの意向で、森滝市郎先生の自筆資料などが、広島大学に寄贈されることが決まり、2018年2月から広大文書館によって受け入れ作業が開始されました。これまでに2回の搬出が行われ、10,582点の文書が、広島大学に受け入れられています。

森滝先生の資料寄贈に当たっては、広島大学文書館の石田雅春准教授から何回か相談を受けたことがありましたので、大掛りの搬出としては3回目の今回が最後になるということで、石田さんから連絡がありました。

当初は、25日が予定されていましたが、雨の心配があり28日に変更となりました。当日は、午後1時から森滝春子さんと広島大学との打ち合わせがあるということですので、私もその時間に合せて森滝家に行くことにしました。

広島大学に対し中国新聞記者から「最後の搬出の際には、事前に連絡をください」との要望があったようで、今回はマスコミ各社に事前に連絡がいったため、私が森滝家に着いたときには、すでに多くのマスコミが駆けつけていました。

これまでの2回は、倉庫などに保管されていた資料が搬出されたようですが、今回は、森滝先生の書斎の文書が、搬出されました。この書斎は、森滝先生と何度もお会いし,先生が亡くなられてからも訪れる度に入れていただいた部屋です。

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過去に運び出された資料の中には、第五福竜丸が被曝したことを契機に始まった原水爆禁止運動の署名活動で集まった百万人の署名簿を国連本部に送るときの「百万署名を発送するに当たって」とタイトルの付いた直筆のメッセージなどもあったようで、今回マスコミが駆けつけるということで、石田さんがわざわざ持ってきておられました。以前の資料の中にもこうした貴重なものがあったようですが、今回運び出される資料は、まさに森滝先生の今に納められ、いつも手元に置いておかれた資料ですから、より貴重なものが含まれていると思います。

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打ち合わせの時間より早めに着いた私は,資料が収められていた押し入れなどを少しだけ見させていただきました。目に触れた中には、1975年の「非核太平洋会議」の資料や精神養子運動の「子どもを守る会」の資料などが在ることが確認できました。いずれの資料もきちんと茶封筒に整理して納められています。

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私が、短い時間で手にした「非核太平洋会議」と書かれた資料の中には写真もあります。以前から気になっていた同会議に参加し、森滝先生の「核と人類は共存できない」の理念確立の最後の一押しをしたアボリジニの女性の写真が、在りましたので、春子さんにお願いしその一枚をもらって帰りました。

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左端がアボリジニの女性

もう一つ、これは春子さんが事前に用意されていたのですが、「社会党に期待する」という直筆原稿をいただくことができました。年数が入っていませんので、いつか書かれたものかは不明です。

マスコミによる森滝春子さんへのインタビューと部屋の撮影が終わった後、ようやく午後3時過ぎから搬出作業が始まりました。私は、次の予定があり作業が始まると同時に帰宅の途につきましたので、作業の様子を写真に収めることはできませんでした。石田さんとのメールのやりとりでわかったことですが、今回は11箱が搬出されたようです。

これまで広島大学が受け入れた資料とともに、数年後には一般公開できるように目録作りが進められるようです。

被団協の運動や原水禁の運動のどんな資料が残っているかに強い関心があるのですが、石田さんの話によれば、講義メモなども含まれているようで、広島大学にとっては、この点からも貴重な資料だということでした。

なお、春子さんの希望で、森滝先生の日記は、今回は寄贈されず残ることになりましたので、日を改めて「日記」を見に行きたいと思っています。

いのちとうとし

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