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2023年4月14日 (金)

中国電力の慰霊碑は、なぜ本願寺広島別院にあるの?

現在の中国電力株式会社の前身の一つである中国配電株式会社の原爆犠牲者慰霊碑について、昨年123日のブログ中国配電職員弔魂塔: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しました。

その中で、この碑のことに関わって次のように書きました。

「本願寺広島別院に建つこの碑の前に立って『なぜこの碑は、ここに立っているのだろう?』と疑問が頭に浮かびました。

というのは、この境内には、親鸞聖人の像や鐘楼、納骨堂など本願寺広島別院ゆかりのものはたくさんあるのですが、私が気付いた限りで本願寺広島別院と直接かかわりのないものは、この中国配電職員弔魂塔しか見つけることができなかったからです。

気になったものですから境内を散策した後、事務所を訪ねて『民間の慰霊碑などは、この碑一つのように思えますが、どうしてこの碑がここに建立されたのか経緯をご存じですか?』と聞いてみました。『確かに、言われる通りこの碑だけですが、なぜ中国配電職員弔魂塔がここに建立されることになったかは経緯を記したものがお寺に残っていませんので、はっきりしたことがわかりません』との答えでしたので、真相は不明のままです」と。

「なぜこの碑は、ここに建っているのだろう?」という疑問は、それ以降もずっと続いていました。

その手がかりになる資料はないかと最近原爆資料館の資料室を訪ねました。「中国電力の社史はないですか」と尋ねたところ、「社史はありませんが、この資料があります」と教えていただいたのが、中国電力が被爆50年の1995年に発行した「あの日あのとき」という書籍です。

20230328_151011

この本には、サブタイトルに「電力会社の被爆と復興の記録」と記されています。

開いて中を見ました。中国電力の前身である中国配電株式会社、日本発送電株式会社中国支店の被爆状況や復興状況が書かれています。

本願寺広島別院の「中国配電職員弔魂塔」について書かれていないかと探したところ、中国配電株式会社の項の最後に次のように書かれているのが見つかりました。

「8月9日になって現在の本館2号館西側付近に、壕を三筋掘って,遺体を整然と並べ、火葬にふした。その時、鈴川社長は、みずからの手で火を付け、骨上げもした。

広島支店・広島電業局は爆心地にも近く,木造家屋であったから、死体もおおむね白骨と化していた。これらの遺骨は、可部電業局の職員が作った白木の箱に納められ、総務部長室であった場所に安置した。そして9月20日には、亡くなられた職員の慰霊祭を本店総会場で行った。その後、引き取り手のない十余柱の遺骨は、昭和23年8月、本願寺広島別院内に建立した当社弔魂塔の中に葬られた。」

私が知りたかった「なぜ本願寺別院に中国電力の慰霊碑が建立されたのか」は書かれていませんが、これを読んでびっくりしたのは、あの「弔魂塔」には、原爆犠牲者の遺骨が納められていたことです。

ちなみにここに書かれている本館2号館は、現在の中国電力本社ビル(電車通りに面した)を通り抜けた東側の中庭に建っている建物ですので、その西側は、本社ビルとの間ということになります。

ところで、帰宅して改めて「広島原爆戦災誌」を開いてみると、昨年12月3日のブログの原稿を書くときに気がつかなかったのですが、「あの日あのとき」から引用した文章の下線部分を除いて,ほとんど同じ内容の記載がありました。きちんと読んでおくべきでした。

もう少し詳しいことが知りたいと思い、発行者である中国電力総務部に電話を入れました。その様子は、16日に紹介します。

いのちとうとし

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コメント

何も知識を、持っていません。別院に、墓所が、ありますか.個人、団体の物が。墓は無し、慰霊碑、供養塔は、昔は、建立できたのですか。中電は、当時、そこに、納骨の許可を、得ていますか。

児玉さん
コメントありがとうございます。
墓所というべきかどうかわかりませんが、境内の右奥に「納骨堂標石」という灯ろうがありますので、ぼっちと言ってよいと思いますが、これは被爆以前かのようです。のようです。これ以外には、墓地と思われるものは見当たりませんでした。
ただ、中電の「弔魂塔」の他に、原爆犠牲者の追悼碑ではありませんが、明治時代に建立されたと言われる「廣島県警察官殉難の碑」が建っていますが、どういう性格のものかは詳しくはわかりません。
ブログにも書きましたが、なぜここに中電の「弔魂塔」が建てられたのかは、不明です。1948年に納骨されていますので、当時の混乱状況を考えるとどんな手続きが取られたのかは、今のところ不明です。

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