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2023年4月20日 (木)

ベトナムの歴史(その23) 抗仏闘争-3の7

第一次インドシナ戦争へのアメリカの介入

アメリカは1950年頃からベトナムの民族解放闘争(第一次インドシナ戦争)への関与を始めます。口実は、ナチス占領から解放されたフランス本国の再建と植民地インドシナの支配を維持するための戦争(第一次インドシナ戦争)に疲弊した「フランス政府からの要請に基づく軍事援助」とされています。

要請に対するアメリカの軍事援助は1950年から4年間で約13億㌦におよぶ莫大なものでした。送られた兵器は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬17千万発以上。その他にも医薬品や無線機などが送られ、400人の軍事顧問団を派遣しベトナム国軍の指導・教育訓練もしました。

しかし、莫大な軍事支援をもってしても、結局、フランス軍を勝利させることは出来ませんでした。

ところで、フランスの植民地支配をめぐる戦いである第一次インドシナ戦争へのアメリカの支援は、本当にフランスの要請に応えたというものだけだったのでしょうか。本質はもっと根深いところにあります。第二次世界大戦後、アフリカやアジア各地で植民地支配からの独立運動が起こり、その多くが民族独立後の国づくりを非資本主義の道を辿ります。そこにアメリカを中心とする資本主義陣営(西側)からの分断が持ち込まれ、〔資本主義か社会主義か〕どちらを選ぶかで対立する国や地域への介入が始まります。

ナチスから解放されたヨーロッパでも、その復興の方向性(資本主義か社会主義か)をめぐって、米ソの主導権争いが起きます。

冷戦構造下における共産主義「封じ込め政策」

いわゆる1947年の「トルーマンドクトリン」の「封じ込め政策」により、アメリカを中心とする西側とソ連邦を中心とする東側の2つの陣営が、ヨーロッパでもアジアでもあらゆる面で激しく対立します。アフリカで燃え上がった独立運動では先ずリビアが1951年に独立し、その後スーダン、モロッコ、チュニジア、ガーナ、ギニアなどが1950年代に相次いで独立を果たします。

ナチスから解放された東ヨーロッパでは19482月にチェコスロバキアが社会主義への道を歩み始め、1949年には分割占領されたドイツの東西分断からドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)に分かれます。その後もハンガリーやルーマニア、ブルガリアなどで社会主義国が相次いで誕生します。

一方、アジアはどうだったでしょうか。ベトナムでは再び植民地支配を始めたフランスへの抗仏闘争(第一次インドシナ戦争)が戦われ、国民党軍と共産党軍との連携(国共合作)で抗日戦争を戦った中国は、日本の敗戦を受け再び内戦を始めます。アメリカは共産主義の拡大を阻止するために蒋介石の国民党軍を支援しますが、次第に国民党軍は劣勢に追い込まれます。そして1949101日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言し、121日に蒋介石は中華民国の首都を台湾の台北市に移します。

このような時期、アメリカはベトナム人民の抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)に介入し始めたのです。その意図は先に述べたとおり、共産主義勢力の伸張を阻止することにありました。

First_indochina_war_collage

停戦のために会議を行う越仏両国などの代表団

フランスの敗退(第一次インドシナ戦争終結)とアメリカの本格介入(ベトナム戦争)

1954年5月、ディンビエンフーでフランス軍がベトミン軍に敗退。7月のジュネーブ協定により第一次インドシナ戦争が終結。ジュネーブ協定では「北緯17度に臨時の軍事境界線を設ける」、「2年後には総選挙を実施」、「南北ベトナムを統一する」と明記されていました。

Ho_chi_minh_1946

ホー・チ・ミン

ところがアメリカは総選挙が行われればホー・チ・ミンが当選する、ベトナムやインドシナが共産主義国になれば、ラオスやタイ、ビルマなど近隣でも共産主義国が誕生する(いわゆる「ドミノ理論」)と恐れ、ジュネーブ協定と南北統一に否定的な態度を示し、南ベトナムにベトナム共和国という傀儡政権をつくり、南北分断の固定化を図りベトナム戦争への本格介入へと突き進んでいきます。

(2023年4月20日、あかたつ)

【編集者】あかたつさんから届いた「ベトナムの歴史(その23)」は、長文ですので、編集者の判断で、今日明日の2回に分けて掲載します。

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コメント

フランス軍とあります。それは、ヨーロッパのフランスから来たフランス人の編成軍ですか。それとも、フランス人が幹部で、兵隊は、別の人ですか。

 ご質問ありがとうございます。
 ベトナムは1858年からフランスの植民地下に置かれており、本国からフランス人兵士と外人部隊を送り、ベトナムで招集した現地軍を配下に置いていました。フランス軍の規模は第二次世界大戦中の1944年頃には、フランス兵および外人部隊が約1万5,000人、現地軍が約3万5,000人、計5万人だったといわれています。
 1940年からベトナムに侵攻していた日本軍が、1945年3月9日にフランス軍を急襲しベトナムから排除しました。日本の敗戦によって再びベトナムに入ってきたフランス軍と、ベトナム人民との戦いが第一次インドシナ戦争です。
 その第一次インドシナ戦争を戦ったフランス軍は、本国から送られたフランス兵と外人部隊の増援部隊が主力で、その規模は最高時には55万6,000人でした。その他にブログにも書きましたように、少数民族などの現地軍が基地の守備や武器・弾薬運搬などに狩り出されたいうことです。
 長々となりましたが、フランス軍はフランス兵とヨーロッパの外人部隊を中心とした編成だったということが出来ます。

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