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2023年4月 7日 (金)

広島平和記念資料館企画展「広島戦災児育成所ー子どもたちと山下義信-」

平和公園を訪れる度に、原爆資料館入り口に長い行列が出来ているのが目につきます。先日は、午後4時頃でしたが資料館本館の中程まで行列が続いていました。

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 これから入館できてもゆっくりと館内を見学できるのだろうかと心配になります。警備員の話では、「毎日入館者が多く、時には入館まで1時間以上待たなければ入館できないこともあります」とのことでした。

最近気がついたのですが、広島平和記念資料館のホームページには館内の混雑状況(東館1階入り口付近と東館と本館を結ぶ渡り廊下の2カ所)をリアルタイムの映像(広島平和記念資料館 | 混雑状況 (hpmmuseum.jp))で確認できるようになっています。ただ、入館を待つ館外の長い行列を見ることは出来ませんので、実際の混雑ぶりは、この画像だけでは、十分に把握できないかもしれません。

その広島平和記念資料館の1階企画展示室では、「令和4年度(2022年度)第2回企画展 広島戦災児育成所ー子どもたちと山下義信-」が、3月24日から9月11日までの会期で開催されていますので行ってきました。

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原爆によって多くの子どもたちが家族を失い,原爆孤児と呼ばれて戦後を生きてきました。その孤児となった子どもたちを養育する施設が、相次いで設置されましたが、この企画展では、いち早く1945年12月に広島市郊外の佐伯郡五日市町(現在の佐伯区五日市)に開設された「広島戦災児育成所」が取り上げられています。

企画展では、私財を投じて施設を創り、その運営と子どもたちの養育に携わった初代所長山下義信の遺族から寄贈された資料を中心に,広島戦災育児所の歩みと創設者である山下義信さんの生涯を紹介しています。

第1部は、多くの原爆孤児を生み出すことになった「学童疎開と原爆投下」について、市立白島小学校から提供を受けた写真などを基にした紹介です。

第2部は、「広島戦災育成所と創設者山下義信」のタイトルで、1945年12月23日に比治山迷子収容所から約30人、学童疎開先から約20人の他、行き場をなくした子どもたちを迎え入れてスタートし、翌1946年3月には3歳から16歳の子ども約60人が受け入れられたことや育成所内での生活の様子が紹介されています。

第3部は、「政治家山下義信の活動」が紹介されています。

広島戦災児育成所のことについては、以前から気になっていたのですが、きちんと調べたことはありませんでしたので、今回の企画展はその機会を与えてくれる内容でした。

私が関心を持ったのは、「政治家山下義信の活動」です。山下義信さんは、「全ての戦争犠牲者を救済する」という思いを実現させるため、1947年4月に戦後初の参議院選挙に社会党から立候補し当選されたています。特に、2期12年の国会議員活動中、1957年に成立した「原爆医療法」に先立ち、1956年に私案として「社会党山下義信私案 原爆症患者援護法案要綱」を発表し、国の責任で治療を行うことを求めていたことです。

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山下私案(企画展パンフレットより転載)

恥ずかしながら、山下義信さんが社会党の国会議員だったことも「原爆医療法」の成立に大きく貢献されていたことも、この企画展を見るまで、全く知りませんでした。

もう少し詳しく山下義信さんのことを知りたいと思いますので、「広島戦災児育成所と山下義信:山下家文書を読む」(新田光子著)などの参考文献があるようですので、きちんと調べてみようと思いました。

いのちとうとし

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