ヒロシマとベトナム(その46) 「ベトナム象、広島を歩く」エピローグ1 ~なぜベトナム象は日本に来たの~
享保って、どんな時代
これまで9回にわたって第8代将軍・徳川吉宗が買い求めたベトナム象が、長崎から江戸まで75日間かけて歩いた旅を駆け足で追ってきました。今号から何回かにわたって、エピローグを書きたいと思います。
ベトナム象が来た享保13年(1728年)頃は、どんな時代だったのでしょう。
慶長8年(1603年)に徳川家康によって江戸幕府が開闢(かいびゃく)され120年余り経った江戸時代中期、第8代将軍吉宗の時代です。戦国乱世を経験し、心身の鍛練に励む豪壮武勇な気質の江戸初期から大きく変わってきます。泰平の時代に移り武勇より能吏が求められ、軍事による武断政治から経済・政治の文治主義に転じます。新田開発に伴う農業技術や器具の改良などによる生産性向上と貨幣経済の発展を受け、いわゆる元禄文化が花開きます。一方、華やかで贅沢な暮らしに慣れ親しみ、武士気質は変貌し、側用人政治が幅をきかせ幕府財政は逼迫します。
ベトナム象が来たのは、こうした中で徳川吉宗が将軍(1716~1745年)に就き、殖産や倹約の奨励などの財政再建、目安箱設置や側用人廃止などの行政改革による幕府権威の立て直しを図る「享保改革」(現代版「行財政改革」)を断行していた頃です。すなわち、政権に就いた吉宗が幕府権威の復活と行財政改革を両輪で一体的にグイグイと進めていた時代です。
徳川吉宗像:徳川記念財団蔵、出典:ウィキペディア
なぜ、吉宗は象を買った?
では、なぜ、吉宗は象を買い求めたのでしょう。
確かに吉宗は好奇心旺盛で新しいもの好きな「暴れん坊将軍」だったようですが、一方、「頭が良く、切れ者の理論家」、「武芸や絵画にも優れた文武両道の将軍」だったようです。逼迫財政を立て直す行財政改革と低下する幕府権威の復活に邁進する吉宗が、単に新しいもの好きというだけでベトナム象やペルシャ馬、インド産の白牛を高い金を払って買うとも思えません。
長崎奉行所の役人だった近藤重蔵(注1)が著した『安南紀略藁(あんなんきりゃくこう)』(注2)に、「象之益者出戦之時、先備へに相立申候。牡象三歳に成り、 乳放し致候、而から段々教込熟練いたし候。而後出陣之節、筒重さ四十八貫目程石火矢を一挺豪に仕掛け、象の背の上に置き、象遣ひ二人騎り居り候。而則石火矢を打放し懸け仕候(中略)牡象は十五、六歳より軍用に立、牝象は種を取候迄に而、軍用には立不申候」という一文があります。
“象は戦の時、先陣として役立ち、乳離れした頃から教え込む。象の背に重さ48貫目(180kg)程の大砲1門を置き、象遣い二人が乗って大砲を撃つ。雄象は15~16歳から軍用に使える。牝象は子を産むが軍用にはならない”とのことです。
洋の東西を問わず、象の描かれた戦絵が数多く残されています。吉宗もオランダ商館から手に入れた書物や伝聞から、軍用象としての活用と繁殖を意図して雄雌各一頭買い求めた可能性があります。ペルシャ馬も幕府直轄の牧場を作って品種改良したことや、ドイツ人馬術師を招き洋式馬術の導入を図ったことなどとあわせて考えると、軍用象を開発する目的で買ったという推論もあながち間違いではない気がします。
出典:ともにAfloより
江戸に着いた翌年に「払い下げ令」(今日の規制緩和による民間への市場開放に当たる)が出されたことは前号で紹介しました。その「令」が出されて11年後に中野村の源助らに払い下げられるまでの12年間過ごした「浜御殿」が、吉宗の「享保の改革」によって、将軍家の別邸から薬園・製糖所・鍜治小屋・火術所・大砲場などを備えた殖産と軍事に関する研究施設になっていたことを考えると、〔軍用象として買い求めた〕という推論は確信へと傾きますが、記録がなく(あるのかも知れませんが、知り得ませんので)確証はありません。
判断は皆さんにお任せします。
なぜ、ベトナム象は海路でなく陸路で江戸に向かった
昨年11月5日の「ベトナム象、広島を歩く(その2)」で、「ベトナムから船で来たのなら、なぜ船そのまま江戸まで運ばなかったの」と尋ねられ、「ウーン・・・、歩かせることに意味があったのじゃないの・・・」と答えたことを紹介しました。この点についても、そろそろ考えてみたいと思います。
家に簾をかけ外に出るな、煙を出すな、音を出すな、牛馬・鳥まで除け・・・・との長崎奉行所の御触れを思い起こして下さい。どうも、珍獣を江戸っ子だけではなく、沿道各藩の人々にも見せてあげたかっのではなさそうです。しかし、“「見るな」と言われると、余計に見たくなる”のが人情です。こうした心理のことを「カリギュラ効果」と言うそうですが、聡い吉宗は「禁じても、“あの手この手”で人々は見るだろう」とも予測していたでしょう。
すると、陸送の狙いは如何に・・・・
緩んできた士風や幕府の権威を立て直すために、海上ではなく陸路で運ばせた・・・・。長崎奉行所(幕府)の御触に、〔沿道各藩がどれだけ違(たが)わず忠実に従い、安全かつ迅速にベトナム象を送り継ぐか試した〕と考えられないでしょうか。さらに、禁じれば禁じるほど人々は見たがります。話しは広がり瓦版にも載り、象人気は湧き象ブームも起こります。これまた〔幕府にとって無為なことでは無い〕と読んでいたのかも知れません。
この判断も読者の皆さんにお任せします。
次号では、象を送り出したベトナムはどのような時代だったのかを見ることにします。
(注1)近藤重蔵:幕臣(旗本)、寛政7年(1795)、長崎奉行手付出役として赴任。文化5年(1808)から11年間、江戸城紅葉山文庫の書物奉行を務める。生涯に32分野に関する1500巻に及ぶ著作を残した地理学者、書誌学者として知られている。
(注2)安南紀略藁(あんなんきりゃくこう):近藤重蔵が長崎奉行所の時代に書いた安南の歴史・風俗・言語・地誌などに関する書物。
(1796年完成、2巻3冊)
(2023年4月5日、あかたつ)
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