「広島ブログ」

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2023年4月

2023年4月30日 (日)

2023.4月のブルーベリー農園その4

暑くなったと思えば寒くなるなど気温の変動幅が激しい。そのうえ雨がよく4月の下旬の気候。ブルーベリー農園では、ブルーベリーの剪定や畑の防草シートを敷く作業、枝の野焼きなどを続けている。ゴールデンウイークには標高約400mあるこの地域では田植えが行われる。農園の周囲の田んぼは水を張った状態で、畔で区切られた鏡の景色が広がる。

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422日(土)

ブルーベリー畑に沿って里道がある。草の道で緑の草色の中にムラサキゴケがところどころで色を添える。

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ブルーベリーの花が満開の中剪定を続ける。

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いったん切った枝は燃やして片付いたがこの日のブルーベリーの剪定で枝がどっさり。

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4月23日(日)

ブルーベリーの枝を野焼きしながら、剪定を続ける。

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426日(水)

農園の小さな畑のキヌサヤエンドウの白い花。2つほど収穫。

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近くのキンポウゲがちらほら咲く。

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ジャーマンアイリスの早咲き品種が咲きだした。

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昨年秋に種をまいたクリムソンクローバーが、芽が出て葉を茂らせてから花を咲かす。農園の新顔で景観と緑肥の効果を期待している。

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前日たくさん雨降ったのでブルーベリー畑の向かい側、板鍋山のふもとの里山を巡回。道沿いの溝のあちこちに落ちた杉の枝が水をせき止めていたので手で取り除いて流れを良くする手入れを行う。冷たい水が気持ちいい。

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田んぼの代掻きが終わって田に水を引き、田植えを待つ。

①、里山のブルーベリー園のふもとの田んぼ

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②、手前が高くだんだんに下り緩やかに上がっていく形状の田んぼ。いつも通る道すがらの様子。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年4月29日 (土)

山下義信私案 原爆症患者援護法案要綱

今月7日のブログ(広島平和記念資料館企画展「広島戦災児育成所ー子どもたちと山下義信-」: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))で写真で紹介した、山下義信さんの「私案 原爆症患者援護法案要綱」、原爆医療法につながる貴重な内容ですので、全文をきちんと記録して読めるようにしておきたいと思い、写真から拡大しながらワードで作りました。

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山下義信(原爆資料館企画展パンフレットより)

私が写した写真では読みにくい部分があったのですが、原爆資料館で確認をし、全文を文章にすることができました。

以下にその全文を紹介します。


原爆症患者援護法案要綱-31.8.16-

(原爆障害者援護法案要綱と訂正になりました。)

  • 国費により原爆症患者の治療を行うこととする。

原爆症患者については、次の如き特異性が認められるので,これが治療はすべて国庫負担によることが妥当と考えられる。

 1 医学的にみてー治療は長期を要し、かつ、困難である。また、被害者は多数にわたり、かつ、遺伝的影響を残すとされるから、その研究・治療は、総合的で規模も大掛りであることを必要とする。

 2 経済的にみてー右のように症状が特異であり、治療に長い期間と費用を必要とするので、個々患者にとって自らの治療の負担に耐え得ない。

 3 政治的にみてー原爆症は国の責任において遂行した戦争による犠牲であり、これが治療も亦,国の責任で行われるべきである。他方、今日、国の責任において原子力科学及びその実用化の推進を取り上げているのであるからこれに随伴するであろう放射能障害の予防,治療、要は今後あるべき原水爆実験による被害の対策の樹立に対し、原爆症患者に対する治療から得られる治療から得られる知識は貴重な貢献をすることと思われる。

二,国費で治療を行う者の範囲は昭和二十年八月広島市及び長崎市における原爆症患者(当時胎内にいた者を含む。)とする。

三、本法による治療を行う者の決定は、先づ,被災者の登録を行い、次いでこれらの者の内から,具体的に治療を行う者の認定をするという二段の手続きをとること。

登録対象は、現に原爆症患者であるもの及び将来原爆症の発生する可能性のあるもの、すなわち、被爆の当時又はその直後に被爆地域にあったものとし、登録及び認定は、都道府県知事とする。

登録は本人又は第三者の申請によることとし、次に治療に行う者の認定に当たっては、厚生大臣の定める基準により諮問機関の議を経て決定する者とする。

四、治療を行う期間は、厚生大臣の認定するときまで継続すること。

また

五、治療を行う機関は、厚生大臣の指定する医療機関とすること。

また

六、医療機関の治療方針及び治療報酬は、健康保険の例により、それによることのできないときは厚生大臣が定めることとする。

また

七、生活に支障を来すため治療を受けることの困難な者に対しては、治療手当を支給すること。

また、

八、被爆者の健康管理を行うこと。

 本人の意に反しない範囲で,登録の対象者である被爆者の健康状態を調査し、健康状態に関して指導と予防措置を講ずることとし、これが実施は都道府県を当らしめ,費用は国が全額負担する。

九、次のような義務規定を設けること。

 1 治療を受けるもの及び健康管理を受ける者について、症状に関して、又、住居の変更等に関して届け出義務を課する。

 2 治療の委託を受けた医療機関については、治療の経過等に関して,当該機関に対する報告義務を課する。

 3 右の届け出、報告時期、様式等は、省令に委任する。

十、治療状況の報告を行った機関に対して、要した実費を支給すること。


いのちとうとし

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2023年4月28日 (金)

なぜ被爆ヤナギは伐採されたのか?―その2

26日のつづきです。

G7関連予算での工事と言うことですが、なぜあの場所だったんですか」と尋ねると「河川敷に生えている木が茂みとなっていますので、安全対策として実施しました」さらに「今までなかなか実施できなかったので、予算も付きましたので実施することにしました」との返事です。

なんとも不思議の回答です。

「完全対策」ということですが、あのシダレヤナギが植わっていた土手の道路は、以前はよく車が通る道でしたが、その北側に東区スポーツセンター横を通るバイパスができて以降、車の交通量は激減していますし、ましてやG7関連の車両がこの道路を通ることは全くないはずですし、会場からも遠く離れていますから、あの場所での樹木伐採の意味が全く理解できません。

さらに「茂みをなくす」と言っても、その100m上流には、シダレヤナギが伐採された場所以上に木が茂っている場所が、残っています。

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そのことを指摘すると「桜の木など,住民に親しまれている木は伐採の対象にしませんでした。確かに100m上流に残っている木の多くは、桜の木ですが、中には雑木もありますから、これも納得でいるような理由とはとてもいえません。

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「今まで実施できなかったので」という理由にも疑問符が付きます。というのは、誤って伐採されたシダレヤナギは被爆樹木ですから、77年間この河川敷に生えていたのですから、被爆後一度も河川保護のための木が伐採されることはなかったことを示しています。これも、なんとも言い訳の理由としか思えません。

しかし、これ以上問いかけても、担当者をいじめているようになりますので、不満足な回答でしたが、ここで終わりにしました。

広島市内は、河川、港湾を除いてその他道路などは、広島市が管理していますので、想像できることは、「G7の広島開催で思わぬ予算が付いたから、せっかくだからどこかで使なければ」と考えて、計画し執行したとしか思えないということです。

こんなことで貴重な税金が使われてよいのかと思うのは私だけでしょうか。

と思っていたら、24日にはまたまた不思議な光景に出会いました。

相生橋西詰で,又何か新しい工事を始めています。防護用のフェンスを取り付ける作業です。「エッ」と思いましたので、自転車を降りて写真を撮りました。

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この工事が行われている本川右岸のキョウチクトウが伐採されたのは、昨年12月です。広島市民にとって特別の意味を持つキョウチクトウが、「サミットを前に、伸びた枝や葉の陰に不審者が隠れたり、爆発物を仕掛けたりするのを防ぐテロ対策です」(2023年1月17日中国新聞)という理由で、3m余りに木々が、1.3m~1.5mに伐採されました。

このニュースを見たときにも、「これがテロ対策?」「なぜ大切な木をここまで伐採するの?」と強く感じたものですが、今回のフェンス設置工事を見て、あの剪定作業は一体何だったのか,本当に必要なことだったのかと思わざるを得ません。

今回のフェンスの高さは、1.8m、その上、フェンス上部の網目状部分にも目隠しの幕が張られますから、大人でもフェンスの中を見ることは難しい高さです。

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、剪定されたキョウチクトウも全く見えなくなりますし、当然のことですが、フェンスの内側に入ることなどとてもできません。

最初から、フェンスの取り付けを計画していれば(当初からこの計画があったかどうかは不明)、キョウチクトウの剪定など必要なかったのです。

剪定されたキョウチクトウが、基のように茂り花をつけるのは2~3年かかるともいわれています。

税金の無駄遣いはもちろんですが、「環境問題」の主要議題の一つであるG7のためといって、京橋川の件といい、このキョウチクトウといい、あまりにも簡単に樹木が伐採されていると感ずるのは、私だけでしょうか。

いのちとうとし

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2023年4月27日 (木)

2023年「チェルノブイリデー座り込み」

1986年旧ソ連(現在のウクライナ共和国)のチェルノブイリ原発が未曾有の事故を起こしてから37年目となる昨日、広島県原水禁の呼びかけで午後0時15分から30分間、平和公園原爆慰霊碑前で「チェルノブイリデー座り込み」を実施しました。

この座り込みは、事故が起きた翌年1987年4月26日から始まり、毎年(2020年はコロナで中止)してきたもので,今年の参加者は、50名でした。

座り込みの最初に広島県被団協の箕牧智之理事長が、次のように訴えました。

「核兵器、原子力のリスクへの認識を人類はよくよくまなぶできです。特に岸田首相には強く申し上げたい。原子力による事故は、一つの国の事故だけに収まらず、地球規模の被害、つまり人類存続の危機に発展します。まもなく広島においてG7サミットが開かれますが、脱原発、核兵器廃絶につながるような議論を深めていただきたい問いのが私たち被爆者の願いです。」

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その後、呼びかけ団体を代表して県原水禁金子哲夫代表委員が、「チェルノブイリ、福島の原発事故の反省もなく原子力依存回帰を進める自民党政権の政策転換を強く求める」と訴えました。

そして最後に、下記のアピールを自治労の岸田正明さんが、読み上げ提案し、全員の拍手で確認しました。このアピールは、郵送で岸田首相に届けることにしました。


「4・26チェルノブイリデー」アピール

チェルノブイリ原発事故から37年がたちました。事故原発は放射性物質の飛散を防ぐための巨大なシェルターに覆われ、いまだ廃炉に向けた具体的なめどが立たないままです。

この中で、ロシアによるウクライナ侵攻が引き起こされ、チェルノブイリ原発を含めた核施設が攻撃され核兵器の使用・威嚇発言が繰り返されています。核兵器使用の危険性がかつてなく高まるとともに、核物質であっても軍事的には大きなリスクをもたらすものであることも明らかになりました。

一方、「チェルノブイリのような事故は起きない」と宣伝され続けた日本でも、2011311日、東京電力福島第一原発でチェルノブイリと同じレベル7の事故が発生しました。12年を経た今も、メルトダウンによって溶け落ちた核燃料の取り出しは全く手つかずの状態であり、避難住民の生活再建も依然厳しく、事故を受けて政府が発令した「原子力緊急事態宣言」も未だ解除できない状態です。

こうした中にも関わらず、政府は多くの県民・漁業関係者の反対を押し切り、放射能汚染水の「海洋放出」を決定するとともに、原発政策を180度転換し、またも原発の再稼働・推進へと大きく舵を切りました。

いうまでもなく、世界的な動きは脱原発であり、再生可能エネルギーの推進です。つい先日も、ドイツで最後の原子炉3基が発電のための運転を停止し、福島原発事故を受けて決めた脱原発が完了しましたが、ドイツでできたことが日本でできないことはありません。

チェルノブイリやフクシマ、そして世界に広がるヒバクシャの痛みを忘れることなく、脱原発への歩みを加速させなければなりません。

「核と人類は共存できない」。新たなヒバクシャを作らせないためには、「核絶対否定」の道しかありません。

私たちは、人類史上はじめて原子爆弾の惨禍を被ったヒロシマから改めて訴えます。

 ◆チェルノブイリ原発事故を忘れてはなりません!

 ◆福島第一原発のような事故を二度と起こさせてはなりません!

 ◆原発の再稼働・新増設への方針転換を許してはなりません!

 ◆新たなヒバクシャを生み出してはなりません!

 ◆全ての原発被害者への補償と救済を強く求めます!

 ◆放射能汚染水の「海洋放出」の撤回を求めます!

 ◆ノーモアヒバクシャ、ノーモアチェルノブイリ、ノーモアフクシマ

                             2023年4月26日

                  4.26チェルノブイリデー座り込み参加者一同  


いのちとうとし

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2023年4月26日 (水)

なぜ被爆シダレヤナギは伐採されたのか?

今月の19日から20日にかけ、マスコミが一斉に「広島県が3月に東区牛田本町の京橋川左岸にあった被爆樹木シダレヤナギを『被爆樹木過って伐採』(420日中国新聞33面見だし)した」ことを報じました。

このニュースに接したとき、すぐに「あっ、あのシダレヤナギが切られたのだ」と気づきました。

この被爆シダレヤナギについては、このブログで、201958被爆シダレヤナギは、どっちかな?: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)2019517被爆シダレヤナギはどっち?―ようやく確認できました: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)2回にわたって取り上げていたからです。

新聞報道の翌日、現地に行ってきました。

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伐採後の被爆シダレヤナギ             伐採以前の被爆シダレヤナギ

 ぽっかりと空洞の開いた大きな切り株が残っています。新聞に掲載された写真では切り株のみでしたが、私が訪れたときには、残った幹の部分に黒い寒冷紗がかけられていました。

ヤナギは強い木ですので、何とか残った切り株から新しい芽が出ればと思います。

被爆樹木が伐採された原因について、報道では「工事の発注者である県西部建設事務所は、被爆樹木とは知らずに伐採した」とし、さらに「広島市も被爆樹木を示すプレートをつけていなかった」としています。

帰宅後、県に電話を入れ「被爆樹木だと言うことは、広島市からどのような方法で連絡があったのでしょうか,どこに連絡があったのでしょうか」と尋ねたのですが、「現在調べていますので、すぐにはお答えできないのです」という回答でしたので、それ以上の原因を究明することはできませんでした。

実はこれに似た事例が、昨年起こっています。2022712枯れ死した被爆樹木ムクノキの伐採: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した、被爆樹木ムクノキの伐採です。そこには書いていませんが、この時問題になったのは、「この木が、市の史跡内に在る樹木なので、市の文化財担当課に事前に連絡すべきであったのも関わらず,連絡をしないまま伐採をしてしまった」ことでした。

決して被爆樹木を伐採した県を擁護するわけではありませんが、市役所内ですら起こったことですから、役所を超える場合にはなおさらという感を持ちます。

さらも「広島市が、被爆樹木を示すプレートをつけていなかった」ことも、今回誤って伐採されてしまった原因の一つです。私は、このプレートの件について、先に紹介した2019717日のブログで次のように書いています。

「広島市の被爆リストに掲載されたこの写真と私が映したシダレヤナギは、あまりに違いすぎます。このシダレヤナギは、被爆樹木として2017年8月4日に登録されていますので、その後、何が原因かは不明ですが、地表から4~5メートルぐらいを残し、上部が無くなってしまったようです。ようですというのも、広島市の担当者もこのこと(何時からこうなったのかなど)を承知していなかったからです。一応私がスマホで映していた写真を見てもらい、そのことが確認できました。写真でもわかるとおり折れたと思われる部分からは、新しい枝が伸びており、葉も付けていました。疑問に思っていたことが解明でき、ちょっと一安心です。

ところで、私が間違えてしまった樹木も随分と立派になっていますので、この被爆樹木との見分けがつかないのも、仕方ないかもしれません。ですので、他の被爆樹木のように札を付けて、明示することが急がれます。」

もしこの時、広島市にもう少し強くプレートのことを言っておれば、今回の件は防げたのではないかと悔やまれます。

この件を受け、広島市は、「市内に160本ある被爆樹木の所有者に保存や管理を求める文書を出す」としているようですが、広島市も「被爆樹木を示すプレートの点検」をすべきだと思います。

ところで、私が気になったのは、中国新聞の記事の最初に「工事は、G7サミットの関連予算ですすめた」と書かれていたことです。

この点についても、県に尋ねたのですが、その様子は次回(28日)に紹介します。

いのちとうとし

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2023年4月25日 (火)

4月15日、ドイツと日本の違いを見せつけた

 4月15日、ドイツが脱原発を達成しました。この日停止した、ドイツ北西部に在るエムスラント原発など3基が送電網から切り離されました。原発の建物前では「原発がついに終わる」と書かれた横断幕か掲げられて、反原発団体はデモ行進をして集会を開いたとの報道がされていました。

ドイツは明日4月26日で、丸37年になる旧ソ連ウクライナのチェルノブイリ原発事故を受け、シュレーダー政権は2002年に脱原発法を成立させました。

 その後のメルケル政権は福島原発事故前年の2010年、目標達成を10年間先送りしたのですが、翌11年の福島原発事故を受け、2022年までにすべての原発を停止するとの方針を決めたのです。

ドイツの首相もショルツさんに交代し、ちょっと心配もありましたが原発停止時期を約6か月間延長したものの、ついにこの日を迎えたのです。決断力と実行力には頭の下がる思いです。

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 もちろん原発廃止を決めたとしても、廃炉への時間や費用、放射性廃棄物の最終処分問題、再エネ拡大の行程などなど多くの課題が残っているのは当然です。しかし大前提の原発廃止を決めれば、国民の議論も進むと思います。日本の場合、同じ問題を抱えながらも「今だけ、金だけ、自分だけ」で「あとは野となれ山となれ」の無責任体質丸出しなら、市民の理解が得られるはずがありません。

わが日本、4月15日に札幌市で開催されていたG7気候・エネルギー・環境相会合での共同声明で、政府は行き詰まっている福島第一原発の汚染水放出に、G7のお墨付きを得ようと画策していました。

政府関係者の一部には、G7で結束できれば「処理(汚染)水の安全性をアピールできる」と思っていたようです。しかし別の関係者は、日本固有の問題を共同声明に盛り込むことへの疑問に加え、ドイツを意識して「難しいだろう」という意見もあったようです。

結論は日本政府の浅はかな目論見は、見事に外れました。政府の共同声明のたたき台には「廃炉作業の進捗と、IAEA(国際原子力機関)の厳格な審査のもと、人体・環境に影響のないALPS(アルプス・多核種除去設備)処理水の放出に向けた透明性のあるプロセスを歓迎する」と記していたようです。

往々にして私たちは、身内で考えが同じもの同士での話し合いで、結論を出すことは楽なことだと思うものです。でも政治を行う者は意見の異なる人や組織にこそ相手にして理解を得るか、自らの考えの変更、撤回も決断することが大切だと思います。

汚染水の海洋放出については、福島県の漁業者らは強く反対しています。中国・韓国・ロシア・太平洋諸島フォーラム(15カ国2地域)も懸念の態度を示していますし、日本国内にも反対論・慎重論も根強くあります。これらの人たちとの正々堂々とした議論をすることなく、汚染水放出をG7議長国という立場を利用して、すり抜けようとする考えは、まさにさもしく恥ずかしい限りだと思うのです。

G7気候、エネルギー・環境相会合では、ドイツから処理水放出の、歓迎は得られませんでした。会合に出席していたドイツのレムケ環境・原子力安全相は、会合終了後の取材に対し「東電や日本政府が努力してきたことには敬意を払う。しかし、処理水の放出を歓迎するということはできない」と話したそうです。これに対し、西村康捻経産相のコメントは「(汚染水放出を)着実に進めて参りたい」と報じられています。

木原省治

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2023年4月24日 (月)

三原地区 4月の「19日行動」

戦争をさせない三原市民行動は、12名が参加し、夕方午後5時半からJR三原駅まで「4月の19日行動」を実施ました。

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今回は、各スピーカーの話を紹介します。

政平市議

コロナ感染症が5月から5類に移行 -ワクチン接種、治療費が自己負担となる一方で、政府は軍事費の調達に奔走している。国民の命をないがしろにしながら、命を奪う道具を爆買いしようとしている。大軍拡は平和を守るのではなく周辺諸国を威嚇するだけで、戦争への導火線に火を付けるようなものだ。こんな政治が信用できるのか?

止めるにはどうしたら良いのか?私たちが持っている選挙での一票をしっかり行使する ―「一票一揆」を創り出そう。自公政治を退場させよう。

中西

2月に「脱炭素電源法案」が閣議決定 ―原発については「再稼働」「運転期間40年を60年に延長」「新増設を進める」内容 ―まるで「フクシマ原発事故などはなかった」かのような大転換。

一方でドイツでは4月に全ての原発の稼働がストップし、廃炉に向けて動き出している。このことに対しドイツ市民は、「これでテロや戦争による原発事故の恐怖からも解放される。子や孫のことを考えれば、多少電気代が高くなっても良い。安心を引き継げ!」という反応が多数だという。とはいえ、ドイツでさえ廃炉が完了するまで6070年かかるという。このような負の遺産を一刻も早く無くするように声を上げ続けよう。

寺田市議

「戦争法廃止」を求める行動 ―今日も全国各地で仲間たちが街頭で訴えている。

安倍政権が捻じ曲げた国の形 ―国会での討論もせず、「閣議決定」だけで物事を決めていくやり方で大軍拡が進んでいる。軍事費をGDP1%枠から2%へー5年間で43兆円!米中の覇権争いに日本などが割って入ってどうしようというのか?日中共同宣言をしっかり守らせよう。アジアでの紛争の火種をなくすることが日本の外交の基本に据えなければならない。

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冨中(共同代表)

来月53日で憲法発布76年を迎える。曲がりなりにも、この憲法のおかげで日本は戦争をしないできた。国会で「改憲派」が三分の二を占める中で自民党改憲4項目が再びクローズアップされてきたが4項目のなかで、「憲法への自衛隊の明記」「緊急事態の書き込み」が主要な狙いで「参院選の合区解消」や「教育の無償化」などは法律化すれば出来ることだから耳障りの良い国民受けを狙ったようなものだ。自民党は憲法を変えていく中で「戦争が出来る国」を作りたいのだろう。いまこそ「憲法を暮らしに活かす」運動を巻き起こそう。

先の弁士も言われていたが、原発のように「人間が制御できないもの」は作らない、動かさない政治が必要だ。頑張りましょう。

最後の司会者が次のように訴えました。

53日の憲法発布76周年は全国で様々な企画が準備されている。広島県でも「戦争させない・9条壊すな!広島県総がかり行動実行委主催で講演集会が開かれる。県内各地にオンライン配信され、三原でも中央公民館で10時~12時、連携した集会が開かれる。是非参加を!次回の行動は519日(金)1730から三原駅前で行う。G7広島サミット期間中だが、広島の心を、私たちの声と行動で伝えよう。

上羽場隆宏弘

【編集者】藤本耕治さんも選挙応援のため今月の「19日行動」には参加できませんでしたので、藤本さんからお願いし、いつも一緒に行動に参加されている九条の会の上羽場さんに原稿を書いていただきました。送って頂いた原稿を一部修正しましたが、基本的にそのまま掲載します。

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2023年4月23日 (日)

2023.4月のブルーベリー農園その3

4月の半ばは不安定な天気で15日は雨で農作業はなし。16日も午後から雨と春雷で荒れた一日となった。ブルーベリー栽培のため東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から週末を中心に通っている。植物も人も活発に動く季節なので農作業もやりやすいのだが、今シーズンもブルーベリーの剪定は遅れ気味。根気づくでいくしかないと言い聞かせている。

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4月16日(日)

ブルーベリー畑の道路の向こうの田んぼではトラクターを使って田植え前の荒おこしが行われている。畔にはその作業に子どもたちが見入っている。

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畑のブルーベリーの木々の色合いは淡い赤茶色になっている。蕾が膨らみ、葉の芽が膨んできているのでこのような景色に変わる。

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ブルーベリー畑を逆方向から眺める。こんもりとした里山の杉林の中にヤマザクラとウワミゾザクラ(上溝桜)が競うように咲いているのが見える。

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白い花穂の長さは10センチくらい。

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午後2時過ぎ、ブルーベリー畑の防草シートを敷いたり、剪定した枝の片付けをしていると、空が暗くなり春雷がやってきた。

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まもなく雨が降り、農作業の手を止めて3時のおやつタイムにする。

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結局上がったりやんだり、帰るころには日がさしたりの気まぐれ天気に振り回されてしまった。

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ブルーベリー畑のタンポポ。今年は多いようだ。

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421日(金)

援農に来た友人たち3人で、いい天気になったのでたまったブルーベリーの枝の野焼きを手伝ってもらったり、畑に切ったままにして散らばっている枝の片付けや、防草シートを敷く作業も協働した。そして熾火で焼き芋を焼くのも忘れなかった。

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農園の庭の真っ赤なキリシマツツジが咲きだした。

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蔵の後ろの庭にもちょこっと咲いている。 

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年4月22日 (土)

府中地区の4月の「19日行動」

府中地区の4月の「19日行動」は、雨空の下、いつものように15時30分から9人が参加し上下町Aコープ前で、17時30分から府中天満屋前で9人が参加し、安保法制に反対する府中市民の会のスタンディングとリレートークを行いました。

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今回も車窓から手を振り会釈する方々に励まされました。

弁士が訴えた内容は次の通りです。

・統一地方選挙の投票率が低く、有権者半分にも満たない意思で政治が行われ続けている。北朝鮮からのミサイルに対するJアラート発出とその報道はまるで戦時下の様相だった。台湾有事に巻き込まれないよう平和の準備をすることこそが政府の仕事。そのためにも戦争ができるようにしたこの安保法制を廃止する必要がある。

・通常国会後半が始まり、60年超の原発の稼働を盛り込んだ法律や増強する防衛費など国民にとって大事な議論が始まっている。国会から目を離さずに監視して市民の微力をつなぎ合わせ小さな勇気を出し合って平和を作っていこう。

・岸田首相への爆弾投下事件容疑者は、被選挙権をめぐり裁判を起こしていた。自民党と統一教会との繋がりや安倍元首相の国葬に反対だったという容疑者の背景が過熱気味に報道されるが、統一地方選挙後半戦を与党有利に作用するのではと危惧する。我々は言論を持って地道にこの法制を廃止することを目指す。

・先日の報道特集で、東京トー横(注:新宿・歌舞伎町の東宝シネマズの横)では一斉補導、大阪グリ下(注:大阪・ミナミのグリコ看板の下)では監視カメラ設置でそこに集まる主に家出した若者たちを排除する報道があった。必要なのは若者の居場所を作りことであって排除ではないはず。大人が若者に向き合わず責任を持たず排除するのは、岸田首相は国会で敵基地攻撃能力の保持について敵基地とはどこかと質問され答えられずにいる無責任さと通底している。

・先月、偶然通りかかった高校生が話を聞き、戦争体験を聞きたいと私たちに懸命に訴えたことがあった。長く続いてきたこの行動ゆえにこのような高校生が現れたのだろう。一方で菅前首相は官房長時代、当時の翁長沖縄県知事に沖縄戦について「私は戦後生まれだからその戦争のことは詳しく知らない」と言い放った。驚くべきことだ。今、南西諸島には次々とミサイル基地が配備され、3月中旬には10万人の住民と1万人の観光客を対象にした対中国戦による図上避難訓練を行なった。呉の弾薬庫も強靭化されるなど、このような戦争の準備を許してはならない。坂本龍一さんや大江健三郎さんといった私たちの運動をリードされた方が亡くなったが怯まず、若い人たちに知っていることを伝え広げ、戦争に巻き込まれない国にしていかなければならない。

・物価高をどうにかしてほしい。消費税も無くしてほしい。異次元の子育て政策も軍備増強も庶民に新たな負担を押し付けようとしている。アメリカの言いなりと、富国強兵の明治時代に逆戻りだ。情報公開が必要だ。戦争しない国へ、それがみんなの願いです。

・ジャニー喜多川による青年への人権侵害(性加害)の報道があまりにもされずマスコミが業界の掟に従っている様子は異常だ。人権と民主主義を守るため、おかしいことはおかしいといい続けていこう。誤りを指摘し、再発防止を講じるという当たり前のことができる国にしていこう。

・温暖化対策が急務の今、最大の環境破壊である戦争に対して準備するなど論外。人権は思いやりではない。誰もが生まれつき持っているという近代社会の基本的考え。最大の人権蹂躙である戦争にNOということは人権を擁護する市民一人ひとりの責務です。

石岡真由海

 【編集者】今月は、小川敏男さんが,選挙応援のため「19日行動」に参加できませんでしたが、小川さんからお願いをしてもらい、石岡真由海さんに原稿を書いていただきました。石岡さん、ありがとうございました。

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2023年4月21日 (金)

ベトナムの歴史(その23-2) 抗仏闘争-3の7のつづき

フランス軍を破ったディエンビエンフーの戦い

アメリカの軍事支援を受けたフランス軍に、ベトミン軍は随所で攻勢をかけます。フランス軍は新兵器ナパーム弾などで反撃しますが、劣勢は挽回できず、戦費は増大し国民の反対も高まり、インドシナからの撤退を考え始めます。戦後の和平交渉を有利に進めるために大規模な作戦を立て、周囲を2000m級の険しい山に囲まれた標高460mの盆地に位置し、陸路は無いに等しい要衝・ディエンビエンフーに兵力を集中します。ディエンビエンフーには日本軍がつくった飛行場もあり、フランス軍は分解した戦車や銃火器、弾薬を空輸し、最終決戦地の体制を整えます。

このような山岳地帯にベトミン軍が重火器で攻勢をかけてくるとは考えられない基地でした。ところがグエン・ボー・ザップ将軍に指揮された人民軍は、山砲(105mm榴弾砲)やロケット砲・対空火器などを分解し、人力で運び上げました。山野を切り開き、兵員や武器弾薬など資材を運ぶ道路を建設。昼間は木で覆い隠し夜間に輸送。ベトミン軍の物資は乏しく、トラックも限られていました。肩に武器と弾薬、背に15kgの米を負い夜間50km、昼間30km移動。木で補強した自転車に300kgの資材を積み・・・・と、輸送のほとんどは人力が頼りでした。

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大砲をロープで引き上げるベトミン軍

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駄目な場合は分解し車輪や砲架、砲身を運びました

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大活躍した自転車部隊。1台で約200~300㎏の荷物を運び計2万台が動員されました。いざという時には彼等も戦闘に参加します。(出典 ディエンビエンフー軍事歴史博物館)

こうして、基地を囲む山々の峰まで運び上げ、要塞を見下ろす位置に設置し、密かにフランス軍を包囲したのです。

ディエンビエンフーの戦いは1954年3月13日に始まり5月7日までの55日間続き、フランス軍の大敗で終わりました。勝利したベトミン軍の犠牲も甚大で、死者が約8,000人、負傷者約15,000人。フランス軍の死者は2,293人、負傷者11,721人でした。

 10年前に友人と訪れたディエンビエンフー

筆者もかねてよりディエンビエンフーには一度は行きたいと思っていましたが、10年前の2013年、ベトナムとの交流を始めた当初からの仲間で50年来の友人である久保さん(HVPF理事)と二人で訪れました。写真左下は激戦地の丘に残るフランス軍の塹壕に佇む久保さん。右下は犠牲者が眠る「ディエンビエンフー烈士墓地」で、子どもの頃の体験を話してくれた女性と筆者(筆者の右は通訳、女性の右は墓地で墓参者に線香を売っている女性)です。話をしてくれた女性は、ほぼ毎日、墓地を訪れているとのことです。

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1847年のダナン攻撃に始まったフランスの植民地支配は、第二次大戦中の一時期を除き100年余り続き、ディエンビエンフーの戦いに勝利したことでベトナムの人々はフランス支配から脱しました。しかし、それはまだ真の民族独立への一歩であり、その後、アメリカの介入により更に20年間も続くベトナム戦争への序章だったのです。

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左上の写真はディエンビエンフーの「チュンタム1市場」で魚を売っていた女性です。親しみを込めて声をかけてくれた笑顔がとても素敵で、思わずシャッターを切りました。右上の写真は少数民族の衣装を纏ったシャイな女性です。カメラを向けると最初、眉をひそめていましたが次第に笑顔でポーズ(?)をとってくれました。ディエンビエンフーにはタイ族、モン族、ザオ族、ザイ族、テイ族、ハニ族、シラ族など20の少数民族が住んでいます。この女性は民族衣装からおそらく、モン族の女性だと思います。

話は飛びますが、ベトミン軍が攻勢をかけたディエンビエンフーのフランス軍基地にはベトナムの少数民族も狩り出され、各陣地に配備されていました。その中にタイ族で構成された部隊もありました。ベトミン軍はその陣地に攻撃をかける前に、明日(3月17日正午)の攻撃開始の前までに、戦闘を止めてそれぞれの村に帰るよう」にスピーカーで呼びかけたそうです。堅く守られていたはずの他の陣地が破られたのを目の当たりしたタイ族は一斉に逃げ出し、残ったフランス兵も仕方なく撤退し、ベトミン軍は戦うことなくしてその陣地を攻略したそうです。

市場で出会った女性たちは、こうした実体験・追体験した平和への意志強固な人たちだったのだと、10年経た今、あらためて思い起こしています。

  昨年10月に始めた「抗仏闘争シリーズ」は今号で閉じたいと思います。ベトナム戦争に入る前に、次号から数回にわたって「抗仏戦争に加わった元日本兵」に関して報告したいと思います。

(2023年4月21日、あかたつ)

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2023年4月20日 (木)

ベトナムの歴史(その23) 抗仏闘争-3の7

第一次インドシナ戦争へのアメリカの介入

アメリカは1950年頃からベトナムの民族解放闘争(第一次インドシナ戦争)への関与を始めます。口実は、ナチス占領から解放されたフランス本国の再建と植民地インドシナの支配を維持するための戦争(第一次インドシナ戦争)に疲弊した「フランス政府からの要請に基づく軍事援助」とされています。

要請に対するアメリカの軍事援助は1950年から4年間で約13億㌦におよぶ莫大なものでした。送られた兵器は航空機約130機、戦車約850輌、舟艇約280隻、車両16,000台、弾薬17千万発以上。その他にも医薬品や無線機などが送られ、400人の軍事顧問団を派遣しベトナム国軍の指導・教育訓練もしました。

しかし、莫大な軍事支援をもってしても、結局、フランス軍を勝利させることは出来ませんでした。

ところで、フランスの植民地支配をめぐる戦いである第一次インドシナ戦争へのアメリカの支援は、本当にフランスの要請に応えたというものだけだったのでしょうか。本質はもっと根深いところにあります。第二次世界大戦後、アフリカやアジア各地で植民地支配からの独立運動が起こり、その多くが民族独立後の国づくりを非資本主義の道を辿ります。そこにアメリカを中心とする資本主義陣営(西側)からの分断が持ち込まれ、〔資本主義か社会主義か〕どちらを選ぶかで対立する国や地域への介入が始まります。

ナチスから解放されたヨーロッパでも、その復興の方向性(資本主義か社会主義か)をめぐって、米ソの主導権争いが起きます。

冷戦構造下における共産主義「封じ込め政策」

いわゆる1947年の「トルーマンドクトリン」の「封じ込め政策」により、アメリカを中心とする西側とソ連邦を中心とする東側の2つの陣営が、ヨーロッパでもアジアでもあらゆる面で激しく対立します。アフリカで燃え上がった独立運動では先ずリビアが1951年に独立し、その後スーダン、モロッコ、チュニジア、ガーナ、ギニアなどが1950年代に相次いで独立を果たします。

ナチスから解放された東ヨーロッパでは19482月にチェコスロバキアが社会主義への道を歩み始め、1949年には分割占領されたドイツの東西分断からドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)に分かれます。その後もハンガリーやルーマニア、ブルガリアなどで社会主義国が相次いで誕生します。

一方、アジアはどうだったでしょうか。ベトナムでは再び植民地支配を始めたフランスへの抗仏闘争(第一次インドシナ戦争)が戦われ、国民党軍と共産党軍との連携(国共合作)で抗日戦争を戦った中国は、日本の敗戦を受け再び内戦を始めます。アメリカは共産主義の拡大を阻止するために蒋介石の国民党軍を支援しますが、次第に国民党軍は劣勢に追い込まれます。そして1949101日、毛沢東が中華人民共和国の建国を宣言し、121日に蒋介石は中華民国の首都を台湾の台北市に移します。

このような時期、アメリカはベトナム人民の抗仏戦争(第一次インドシナ戦争)に介入し始めたのです。その意図は先に述べたとおり、共産主義勢力の伸張を阻止することにありました。

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停戦のために会議を行う越仏両国などの代表団

フランスの敗退(第一次インドシナ戦争終結)とアメリカの本格介入(ベトナム戦争)

1954年5月、ディンビエンフーでフランス軍がベトミン軍に敗退。7月のジュネーブ協定により第一次インドシナ戦争が終結。ジュネーブ協定では「北緯17度に臨時の軍事境界線を設ける」、「2年後には総選挙を実施」、「南北ベトナムを統一する」と明記されていました。

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ホー・チ・ミン

ところがアメリカは総選挙が行われればホー・チ・ミンが当選する、ベトナムやインドシナが共産主義国になれば、ラオスやタイ、ビルマなど近隣でも共産主義国が誕生する(いわゆる「ドミノ理論」)と恐れ、ジュネーブ協定と南北統一に否定的な態度を示し、南ベトナムにベトナム共和国という傀儡政権をつくり、南北分断の固定化を図りベトナム戦争への本格介入へと突き進んでいきます。

(2023年4月20日、あかたつ)

【編集者】あかたつさんから届いた「ベトナムの歴史(その23)」は、長文ですので、編集者の判断で、今日明日の2回に分けて掲載します。

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2023年4月19日 (水)

昨年5月に登録された被爆樹木を見に行きました。

昨年7月3日のブログ(被爆樹木リストへの登録と抹消: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))で、最も新しく被爆樹木として登録された黒松のことを紹介し、その時点では、「現在、当該樹木が位置する敷地は工事中のため、現地取材をされる場合は、事前に当課までご連絡ください。一般公開は、令和5年3月の予定です。」と書きました。その一般公開が4月3日の中国新聞で「17日に実施される」と報道されましたので、一昨日見に行ってきました。

場所は、舟入幸町にある結婚式場「ザ・リバーサイドテラス広島ツリーズスクエア」の敷地内です。被爆クロマツは、正面エントランスを入って左側奥にあるラウンジの外側に屋根に接する形で生えています。

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全面ガラスの大きなドアを開けて庭に出ます。3人ほど、参観者がいました。

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立派な枝振りのクロマツが、立っています。

場所を移動させずに、そのまま残されたのでしょう。

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建物改修前のクロマツ

右側の枝が、建物にかかっていますので、最小限にと配慮されたと思いますが、一部が切られています。

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この松の下には、2枚のプレートがあります。1枚は、広島市が作った「被爆樹木」を示すプレートですが、もう一枚は結婚式場が作ったものと思われる、このクロマツの説明板です。

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説明文の最初のところにこう書かれています。「樹齢200年以上とも言われるこの松の木は、近くに立つと独特の存在感を放っているため『賢老人』と呼ばれることもあった。(以下略)」

「エッ、これどういうこと?」です。先に紹介した中国新聞も昨年の私のブログも「樹齢100年」と書いていますが、ここでは樹齢が200年になっているのです。このことは帰宅して気づいたことですので、残念ながらその場で尋ねることはできませんでした。

一応この原稿を書くため、広島市のホームページ「被爆樹木リスト」を検索したのですが、この被爆樹木についての詳細な情報はまだ記載されていませんので、これ以上の情報を提供することはできません。きっと何か根拠があって書かれたものと思われますので、いつか聞いてみたいと思います。

ところで、広島市が被爆樹木として登録している木の「所有者等」は、2つの例外を除いて国、広島市及び神社、仏閣となっています。2つの例外の内、一つは安田学園と明記されていますが、「民間」とだけ記載されているのは、ここだけです。

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受付でお礼を述べて結婚式場を出た後、裏側の天満川の土手の遊歩道に出ると、垣根越しですが、被爆クロマツを見ることができます。

いのちとうとし

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2023年4月18日 (火)

みんなの市民サミット2023―世界のヒバクシャとつながろう

昨日は、県被団連事務局長の田中聰司さんから案内を頂いていましたので、「みんなの市民サミット2023」の分科会の一つ、「世界のヒバクシャとつながろうー世界の核被害者の援助と国際協力を見据えてー」に行ってきました。

最初に田中聰司さんから、この分科会の意義について「本企画への思い」と題して、自らの被爆体験を基に、被爆者運動の歴史を振り返りながら、問題提起がありました。話された歴史の中では、マーシャルの被曝者が初めて原水禁世界大会に参加し、その年原水禁が調査団を派遣した歴史などについて、時間的な前後関係や、第1回原水禁世界大会で発言した被爆者が「生きていてよかった」と思いを述べたことが、第2回大会だったことなど、気になる点もありましたが、改めて歴史を振り返り、きちんと先人の運動を学ばなければならいことを思い起こす機会になりました。

さらに明治大学講師で反核法律家協会の山田寿則さんから、核兵器禁止条約の第6条(被害者に対する援助及び環境の修復)、7条(国際的な協力及び援助)についての簡単の解説がありました。

続いて、パネリストからの問題提起です。

最初に、KNOW  NUKES TOKYOの徳田悠希さんが、「ジェンダー問題からみる核問題」のテーマでスピーチ。続いて明星大学教授の竹峰誠一郎さんは、徳田さんの提起を受け、「若い人たちの関心は、核問題よりもジェンダー、環境問題だ」としながら「核兵器の拡散は、被害を拡散させた問題でもある。フォールアウトは、地球全体を被害者にしている」と指摘しました。竹峰さんは、マーシャルなど世界の核被害者の問題に深く関わっておられるので、その話を聞きたいと思っていましたが、そこに余り触れられなかったのが残念でした。

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次のスピーカーは、山田寿則さん。「核兵器禁止条約では、加害国と被害国との関係が大きく変わった。人権侵害という考え方が入った」と指摘。私は、核兵器禁止条約が成立したときから気になっていたのですが、「加害者責任」があまりにも不明確ではないかと思っていますが、山田さんからは、この点の指摘は無く、むしろ条約では「人権」という側面が強調されたのが印象的でした。4人目は、世界のヒバクシャと出会うユースセッションの高垣慶太さんで、「世界のヒバクシャは、誰なのか。」という視点からの問題提起が在りました。確かに「誰がヒバクシャなのか」は、今後核被害者問題を考える上では、重要なテーマとなるように思います。高垣さんが最後に言った「核サイクル社会のすべてで核被害者が出ることを初めて知った」という発言については、もう少し全体で掘り下げて欲しかったと思います。

その後会場からの発言もあり、予定の時間を少しオーバーして12時半ころこの分科会は終了しました。

参加して感じたことは、森滝先生が1987年の核被害者世界大会の基調報告の中で強調された「核燃料サイクルのすべての段階で放射線被害の可能性がある。その際に、被害者は多くの場合、弱い者の側に、差別され抑圧されている者の側に生ずるのである。」「国家や企業の強き側と使用される弱き側、その弱き側の差別抑圧、人権無視の上に核開発は行われる。力の文明の構造には、その根底に、権力によって支配抑圧するものと、権力によって差別・抑圧・無視される者との関係が横たわる。」という核被害者問題を考える上で重要に視点に対する思いが、弱いのではないかということでした。

いのちとうとし

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2023年4月17日 (月)

「気候変動の現在地」気象科学者江守正多さんの講演とみんなの地球温暖化会議

先日、広島市議会議員選挙の応援に行ったとき、安佐北区玖村にある自家栽培の小麦を使った地粉うどんを昔乍らの手作りで提供するうどんや「わだち草」に昼食を食べによりました。

「わだち草」は、市内からも足を運ぶ人の多い人気のうどん屋です。

おいしい「釜揚げうどん」を食べて終えたところで、旧知の店主原田健次さんから「4月の16日、17日の二日間、『みんなの市民サミット2023』が行われるのですが、その一つとして、私たちが主催する『環境問題』のセッションがあるので、時間があったら参加してもらえませんか?」とチラシを渡されました。

一生懸命の様子でしたので、「参加」を約束して店を後にしました。

「『気候変動の現在地』気象科学者江守正多さんの講演とみんなの地球温暖化会議」のセッションは、昨日午後2時半からオリヅルタワー5階大会議室で開催されました。

参加者は、会場が参加が定員の半分ほどの35人ぐらい、オンラインは約100人ほどです。原田さんが、私に声をかけたときには、「集まってくれるかな」と心配していましたが、何とか一安心の数だったように思います。

最初に主催者を代表して原田さんがあいさつ。

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「2003年からうどん屋をやっています。この仕事がいつまでも続けられるだろうか?北海道で天然の昆布がとれなくなっている。カタクチイワシの値段が2倍になった。燃料費などが高騰したからかと思っていたが、話してみるとカタクチイワシが捕れなくなっているため。その原因は、海水温が高くなっているからと教えられた。私は、5人の子どもの父親。この子どもたちに緑豊かな自然を残してやりたい。どうしても環境問題を考えなければならないと思っています。」

原田さんの思いが伝わるあいさつでした。

このセッションのメインは、気象科学者江守正多さんの講演です。講演はオンラインでした。

江守さんの話の中心は、2015年に発表された「IOCC(気候変動に関する政府間パネ)第6次評価報告(AR6)」の解説です。

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その中で特に,印象にのこったのは「地球温暖化が進んで、誰が一番深刻な影響を受けるのかといえば、その原因に責任のない人たち影響を受けるという不公平な問題です」「現状のCO2削減ペースは、1.5度から2.0度高にとどめるには全く足りないということです」等です。

そして「IPCC統合報告書は何を言っているか ・世界の脱炭素化の転換(+適応)は、人類にとって,やらなければ酷いことになるだけでなく、早くやった方がよい・そのために必要な資金も技術の大部分も持っている・今すぐに急激に舵を切らないと実現不可能になってしまう」という待ったなしの指摘でした。

もう一つの重要な話は、「日本の若者は,気候変動をとても心配している人の割合が低い」ということでしたが、それは若者だけでなく、日本全体の問題ではないかと受け止めました。それは次の調査結果からも明らかです。「あなたにとって気候変動対策は、どのようなものですか」との問いに「多くの場合生活を脅かすものである」と考えている人は、世界では、26.7%であるのに日本は、60%の人がそう考え、「多くの場合、生活の質を高めるものである」と考えている人は、世界では66%に対し、日本は17%しかいいないという世論調査結果です。

ただびっくりする数字ですが、私も原田さんの誘いがあったから初めて、このセッションに参加したという「環境問題」に対する意識ですから、考えさせられる貴重で有意義な2時間半になりました。

今日は、原爆資料館で開かれる「みんなの市民サミット2023」の「世界のヒバクシャとつながろう」に参加します。

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2023年4月16日 (日)

中国電力の慰霊碑は、なぜ本願寺広島別院にあるの?―つづき

中国電力に電話をしたところ、資料室につながりました。

そこで私が問い合わせたことは、二つです。

・昭和23年に「弔魂塔」の下に埋葬された遺骨は、今も埋葬されたままですか。

・本願寺別院には、中国配電株式会社以外に民間の慰霊碑は建立されていないのですが、なぜ中国配電株式会社の原爆犠牲者の慰霊碑が、あの場所に立つことになった経緯がわからないでしょうか。

「調べてから連絡します」との返事でした。

翌日、「あの日 あのとき」の発行元である総務部から電話で回答がありました。

「『弔魂塔』の下に埋葬された遺骨は、今も埋葬されたままです。『弔魂塔』が、どういう理由で本願寺別院に建立されたのかは、資料も残っていませんので、残念ながらわからないのです。」

結局、中国電力に問い合わせても「中国電力(中国配電)の慰霊碑は、なぜ本願寺広島別院にあるの?」という疑問の回答を得ることは出来ませんでした。

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中国電力から回答を得て、改めて本願寺別院に電話をし「『弔魂塔』の下に遺骨が今も埋葬されていることはご存じでしか」と尋ねたところ、「それは承知していませんでした。この本堂が、ようやく再建されたのも1964年になってからですので。その間の経緯は、ほとんど資料として残っていないのですよ」という答えでした。

今回の調査でも、明快の答えは得ることが出来ませんでしたが、調べてわかったことは、中国配電株式会社の慰霊碑「弔魂塔」の下には、今も遺骨が納められているということです。そこから想像できるのは、「遺骨を埋葬した慰霊碑を作るために場所として,会社の敷地の中ではなくお寺である本願寺広島別院が選ばれたのではないか」ということです。

ちなみに広島市のホームページ「原爆関係の慰霊碑などの概要」の「中国配電職員弔魂塔」の「建立経緯・来歴等」には「爆心地から680メートルに位置していた中国配電株式会社(現在の中国電力株式会 社)本店の犠牲者163人を始め、電業局、支店、被爆当時出張で広島にいて犠牲と なった社員全278人を慰霊するために建立された。」と書かれているだけで、遺骨が埋葬されていることは記載されていません。

このホームページで「遺骨の埋葬」について記載されているのは、平和公園内にある「原爆供養塔」の項に「土盛りの内部には、原爆犠牲者約7万人の遺骨が納められている。」だけのようです。

本願寺広島別院の「中国配電職員弔魂塔」を訪れたときには、そこに遺骨が埋葬されていることをまだ知りませんでしたので、碑の裏面に刻まれた文字の写真を撮りたいと「弔魂塔」が建つ盛り土の上まであがってしまったことが、今になって悔やまれます。

今のところ、「原爆供養塔」と「中国配電職員弔魂塔」以外に、遺骨が埋葬されている慰霊碑は無いように思いますが、慰霊碑には,それぞれに深い思いが込められていることをあらあめて感じながら、これからの「碑めぐり」を進めたいと思います。

いのちとうとし

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2023年4月15日 (土)

2023.4月のブルーベリー農園その2

49.10.11日と3日間連続して東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から農作業に行った。農園では10.11日と風が強く吹いた。そのためこれまで敷いていたブルーベリー畑の防草シートのめくれを直したりした。農園の周囲の田んぼではトラクターが行きかい田の土越しのエンジン音が響いて農家の人たちの動きが伝わってくる。

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49日(日)

ブルーベリー畑の地面には雑草の中にいろいろな花が咲くが、来るたびに花開く様子が変わる。この日はスミレがたくさん咲いている。

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農園に着いたら野焼きで出た灰や炭を片づけて、次の野焼きに備える。取り出した灰や炭は農園のブルーベリーの木と木の間にばらまいておく。

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ブルーベリーの剪定と、剪定した枝の片づけ作業がつづく。枝の片付けも拾って集めて野焼きの場所まで運ぶので体力を使う。

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410日(月)

野焼きの場所の上の畑は里山にあるブルーベリー園の入り口でもある。伸びてきた草を刈る。

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農園の花壇や農道にムスカリが青い顔を出している。

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411日(火)

里山のブルーベリー園の見回り

①早生のブルーベリーの木の根元に丸くなった木くずが2か所から出ている。穴の開いた根元から殺虫剤を入れて中にいる虫の駆除をする。

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②山ツツジが1本立ちで満開。

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③エビネの花軸から蕾が伸びてきた。

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④畑に大根の花とホトケノザの花が咲く。右隅にソラマメがいい具合に育っている。

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この日は一人で農作業をした。畑に防草シートを敷く作業を続けた。終日風が強く吹いたので野焼きは自重した。

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その畑に咲く夕闇の中のレンゲ。防草シートをかぶせるのがちょっとためらわれる。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年4月14日 (金)

中国電力の慰霊碑は、なぜ本願寺広島別院にあるの?

現在の中国電力株式会社の前身の一つである中国配電株式会社の原爆犠牲者慰霊碑について、昨年123日のブログ中国配電職員弔魂塔: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しました。

その中で、この碑のことに関わって次のように書きました。

「本願寺広島別院に建つこの碑の前に立って『なぜこの碑は、ここに立っているのだろう?』と疑問が頭に浮かびました。

というのは、この境内には、親鸞聖人の像や鐘楼、納骨堂など本願寺広島別院ゆかりのものはたくさんあるのですが、私が気付いた限りで本願寺広島別院と直接かかわりのないものは、この中国配電職員弔魂塔しか見つけることができなかったからです。

気になったものですから境内を散策した後、事務所を訪ねて『民間の慰霊碑などは、この碑一つのように思えますが、どうしてこの碑がここに建立されたのか経緯をご存じですか?』と聞いてみました。『確かに、言われる通りこの碑だけですが、なぜ中国配電職員弔魂塔がここに建立されることになったかは経緯を記したものがお寺に残っていませんので、はっきりしたことがわかりません』との答えでしたので、真相は不明のままです」と。

「なぜこの碑は、ここに建っているのだろう?」という疑問は、それ以降もずっと続いていました。

その手がかりになる資料はないかと最近原爆資料館の資料室を訪ねました。「中国電力の社史はないですか」と尋ねたところ、「社史はありませんが、この資料があります」と教えていただいたのが、中国電力が被爆50年の1995年に発行した「あの日あのとき」という書籍です。

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この本には、サブタイトルに「電力会社の被爆と復興の記録」と記されています。

開いて中を見ました。中国電力の前身である中国配電株式会社、日本発送電株式会社中国支店の被爆状況や復興状況が書かれています。

本願寺広島別院の「中国配電職員弔魂塔」について書かれていないかと探したところ、中国配電株式会社の項の最後に次のように書かれているのが見つかりました。

「8月9日になって現在の本館2号館西側付近に、壕を三筋掘って,遺体を整然と並べ、火葬にふした。その時、鈴川社長は、みずからの手で火を付け、骨上げもした。

広島支店・広島電業局は爆心地にも近く,木造家屋であったから、死体もおおむね白骨と化していた。これらの遺骨は、可部電業局の職員が作った白木の箱に納められ、総務部長室であった場所に安置した。そして9月20日には、亡くなられた職員の慰霊祭を本店総会場で行った。その後、引き取り手のない十余柱の遺骨は、昭和23年8月、本願寺広島別院内に建立した当社弔魂塔の中に葬られた。」

私が知りたかった「なぜ本願寺別院に中国電力の慰霊碑が建立されたのか」は書かれていませんが、これを読んでびっくりしたのは、あの「弔魂塔」には、原爆犠牲者の遺骨が納められていたことです。

ちなみにここに書かれている本館2号館は、現在の中国電力本社ビル(電車通りに面した)を通り抜けた東側の中庭に建っている建物ですので、その西側は、本社ビルとの間ということになります。

ところで、帰宅して改めて「広島原爆戦災誌」を開いてみると、昨年12月3日のブログの原稿を書くときに気がつかなかったのですが、「あの日あのとき」から引用した文章の下線部分を除いて,ほとんど同じ内容の記載がありました。きちんと読んでおくべきでした。

もう少し詳しいことが知りたいと思い、発行者である中国電力総務部に電話を入れました。その様子は、16日に紹介します。

いのちとうとし

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2023年4月13日 (木)

2023年4月広島県原水禁常任理事会の報告

広島県原水禁は、昨日午後5時から自治労会館で17名(構成は30名)が参加し、常任理事会を開催しました。司会は、高橋克浩代表委員でした。

私は、少し遅れての参加となりましたが、協議事項には何とか間に合い,議論に参加しました。

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主な議題と論議の状況は、は次の通りです。

 1,「『ヒロシマ』をおもい、『核兵器廃絶』のおもいを世界に 5.17原水禁集会」

原水禁中央の主催で、5月17日(水)午後6時から午後7時半まで広島YMCA国際文化ホールで開催します。

原水禁国民会議顧問、前広島市長秋葉さんと大学生で被爆体験伝承者の梶原百恵さんとのトークセッションです。

常任理事会では、「G7に向けて、きちんとした原水禁としてのメッセージを発信することが大事」「若い人たちにどれだけ参加してもらうのか」「会場からの質問を事前に募集するなどの工夫をしよう」などの意見が出され、様々なSNSを使って、若い人たちの参加呼びかけや意見募集を行っていくことが集約されました。広島県原水禁のG7に対する考え方は、2月16日のブログG7広島サミットに対して岸田首相あてに申し入れ: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)ですでに明らかにしています。G7広島サミットが、「広島の名前を使って、自分たちのやっていることを正当化させる場」にさせてはならないことを改めて確認しました。

この集会のついての詳細は、改めてこのブログで紹介したいと思っています。

2,「原発回帰を許さず、再生可能エネルギーの促進を求める全国署名」

この署名は、・老朽原発の延長と原発の再稼働を中止すること・原発のリプレースを含む新増設を中止すること・福島第一原発の汚染水の海洋放出を中止することなど4項目の要請事項を掲げています。

広島では、8月末を締め切りとして取り組みこととし、組織内だけでなく、広島県原水禁として街頭署名活動を行うことを決めました。

3,「被爆78周年原水禁大会」

すでに3月29日のブログ「被爆78周年原水爆禁止世界大会」実行委員会結成総会・第1回実行委員会の開催: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しています。広島県原水禁としては、6月上旬に広島県実行委員会結成総会を開催し、広島大会(8月4日~6日)を成功させるため、全力で取り組むことが確認されました。

なお、大会基調に昨年漏れていた「国家補償にもとづく被爆者援護法の制定」をきちんと盛り込むことを中央に要請することになりました。

4,「当面の取り組み」

当面の取り組みとして次のことを行います。

①毎年実施している「4.26チェルノブイリデー座り込み」を、今年も原爆慰霊碑前で4月26日午後0時15分間から30分実施する

②5月14日に広島県の選考会が行われ6月10日、11日に結団式が行われる第26代高校生平和大使支援カンパを例年通り取り組みこと

以上のことを協議確認し、4月の常任理事会は終了しましたが、今回は各常任理事から活発に意見が出され、充実した会議となりました。

いのちとうとし

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2023年4月11日 (火)

ライラックの花が咲きました。―被爆者の森

先月29日に植栽された被爆者の森のライラックの苗木(被爆者の森―ライラックの苗木植栽: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)のつぼみの様子を見ようと昨日被爆者の森に行ってきました。

植栽されたときには、まだ小さかったライラックのつぼみが開き、立派な花を咲かせていました。花が、咲いていました。

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品種が変わったからでしょうか、昨年より少し花の色が薄くなっているように思います。もう少しで満開です。

今回新たにつけられた柵に護られてライラックの木も元気に育っています。このままきちんと根付き、大きく育って欲しいと思います。

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ついでですからいくつかの木を見て回りました。

ライラックのすぐ近くに、香川県のオリーブの木があります。昨年のライラックの木が折られた事故以降、広島市の被爆者の森への対応がずいぶんよくなってきました.このオリーブの木に添えられた支柱もその一つです。

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かつて地面に這うように伸びていた枝が、支柱がつけられ元気な姿で見ることが出来るようになりました。

被爆者の南側のゾーンの一番西には、奈良県の八重桜がありますが、今年も満開の花をつけていました。

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ほんの少しですが、花びらが散り始めています。

この木には、竹屋小学校の子どもたちが「ふつうの桜よりはおくれて牡丹のような花が咲きます。」と手書きした名札が付いています。

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書かれているとおり、ソメイヨシノが、すべて花が散り葉が茂り始めた今、この木は満開の花をつけています。

道路の北側に渡り、山形県のサクランボの木を見に行きました。

見上げるとまだ小さな実ですが、青い実がたくさんついています。

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今年も赤い実をつけ、子どもたちの口に入ることでしょう。

最後に、富山県のアスナロを見てきました。

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昨年秋に葉が茶色くなったのを見つけたので、広島市に連絡したところ、すぐ後に市の担当者から「まだ少し緑の部分が残っていますし、もし枯れていたら枝がすぐに折れるのですが、まだ柔らかく曲がりますので、完全に枯れたとはいえません。出来ればこの子を育てたいので、もう少し様子を見たいと思います」とのことでした。私もその話を聞いて、枝に触ってみたのですが、確かにすぐに折れる感触はありませんでした。しかし、春を迎えても残念ながら緑色が復活していませんし、昨日も枝に触ってみたのですが、昨年のような柔らかさを感じることは出来ませんでした。枯れたと判断するしかないように思います。

市と改めて連絡を取りますが、近いうちに判断することになると思います。

いのちとうとし

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2023年4月10日 (月)

元・中国電力社長、白倉茂生さんの逝去

 中国電力の元社長、白倉茂生さんが去る2月25日に満87歳で亡くなられたという連絡がありました。白倉さんは、2001年の株主総会で第7代の社長に就任され、06年までの5年間社長をやっていました。

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毎日新聞より転載

 白倉さんとの出会いは、白倉さんが社長として総会議長をされていた時の株主総会です。それなりに緊迫感のある総会が終了し、総会場が『ほッ』とした雰囲気になった時、白倉さんから「木原さん、本を出版されましたね。読みましたよ」と声を掛けられたのです。

「ありがとうございます」と議長席側に近づいたら、警備会社の人に行く手を遮られました。書いた本とは『原発スキャンダル』という題名のものです。それから僕は白倉さんに手紙を書きました。

白倉さんは広島県安芸郡海田町の生まれで、小学4年生の時に原爆の閃光に襲われました。14年2月20日付けの毎日新聞記事によると『とっさに机の下に隠れたが、爆風で窓ガラスは割れ、畳が跳ね上がった』話しておられます。

翌7日に、お母さんとお兄さんと一緒に親戚を探しに市内の白島町に向かっています。だから入市被爆者となります。

社長を退任されて自由人になられた後、食事を共にすることがありました。初めての時は、紙屋町にあるメルパルク2階の店で昼食を食べました。その時に話されたのは「株主総会の時のことは一生忘れられない」という言葉でした。山口大学工学部大学院客員教授として、火力発電の問題で講義をすることがあると話されていたと思います。

それからは年賀状のやり取りが続いていましたが、21年だったと思いますが、電話が掛かってきました。「木原さん、こんど自叙伝を出すのだけど、一文書いてくれないだろうか」とのお願いでした。すぐに「私が書いてよいのですか」と聞き返したのですが、白倉さんは、即座に「木原さんに書いてほしいからお願いしているのですよ」と丁寧に話されました。字数制約の中で、「白倉さんからもらったちょっとした出来事」という原稿を書きました。

僕は株主総会での出会いを書いた後、次の文章で締めました。

『白倉さんは人間味のある優しい思いやりの有る人だなと思った。

そのこと(株主総会)があって以降、私は相対する立場の人にも、必ず挨拶の言葉をかけることを心掛けた。挨拶にどういう反応をするかで大げさかも知れないが、その相手の余裕というか人間味を、白倉さん的にいわせれば「情」の育ち度が分かる。

立場の異なる人たちとの関係も、根底が通じ合っていれば繋がりは保てるし、人間としての尊厳の心を持つことができる。ずっと以前の株主総会の場のちょっとした出来事が、白倉さんから貰った人生の大きな教訓となった。

その根底にあるのが、白倉さんの云う「情」ではなかろうか。』

自叙伝は2021年夏に、ハードカバーの立派な装丁で出されました。『白倉茂生の言葉-「情」の継承-』というタイトルが付けられていました。

白倉さんが亡くなられたという連絡は、ご家族からのハガキでした。『亡くなる前日には米寿の祝いをしてご機嫌でした。たまたまテレビで木原様の姿を拝見して喜んでおりました。又、会いたいと話したのが昨日の事のようです』と。

木原省治

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2023年4月 9日 (日)

今日は、投票日です。

今日9日は、3月26日に公示された広島市長選挙,31日に公示された県議会議員、広島市議会議員選挙の投票日です。

わが家では、二人で午前中の早い時間に投票に行きます。投票所は、家から歩いて5分ほど(約300m)の近くです。ちなみに期日前投票所となっていた中区役所は、150mの近距離ですが、今回は投票日当日に投票することにしました。

広島市内の県議会議員選挙では、無投票の選挙区もありましたが、わが家のある中区では、12年ぶりの選挙戦となりましたので、久しぶりにと投票用紙に名前を書くことが出来ます。

広島市議会議員選挙は、全ての選挙区で定数以上の立候補があり、選挙戦となりましたので、投票権を行使することが出来ます。

私も何日か安佐北区の選挙の応援に入りましたが、安佐北区の市議選は、定数が今回の選挙から1削減の6となりましたが、2倍の12人が立候補し、全8選挙区の中でも最も激戦の選挙区となっています。厳しい選挙戦となりましたが、吉報を待ちたいと思います。

言うまでもないことですが、自治体議員、首長選挙は、これから4年間の私たちの暮らしにとって最も身近な課題・政策を託す選挙です。身近な政治をよくするためには、大事な選挙権をきちんと行使することが、大事です。

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広島市議会議員選挙中区の選挙広報

しかし、最近の選挙は、選挙の度に投票率が、低下しているように思います。マスコミ報道によれば期日前投票は、やや伸びていると言われています。確かに期日前投票は、投票がやりやすくなったこともあり、選挙の度に多くなっているように思いますので、今回もその傾向が続いているように思われます。

問題は、全体の投票率が上向くかどうかです。政治に不満、不信を持つ声は、多くなっていますが、それがなかなか投票行為に結びついていかないのはなぜか、自問自答しますが、なかなか答えが見つかりません。

ただ、一ついえることは、自らは投票しなかったとしても、間違いなく選挙で選ばれた人によって政治は進むということです。

棄権は危険!といわれています。

選挙によっては、「投票する人がいない」ということも皆無とはいえないと思います。しかし、今回の選挙,特に議会議員選挙は、いくつかの選択肢が用意されていると思います。

政治を身近なものとするためにも、ぜひ、貴重な選挙権を行使して欲しいと強く願っています。

いのちとうとし

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2023年4月 8日 (土)

2023.4月のブルーベリー農園その1

安芸区の自宅から東広島市豊栄町にあるブルーベリー園におもに週末を利用して農作業を続けている。4月に入っても全部で約1100本あるブルーベリーの剪定作業はまだ半分しか終わっていない。剪定作業はどこを切るか一本一本見ながら、考えながら切っていくのであきることはない。カエルが出てきたり、山ツツジやスミレが咲き始めたり、鯉のぼりが上がったりして目には優しい。耳からは統一地方選挙の候補者カーが時折とおる音と生地の鳴く音が混ざるくらい。

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 330日(木)

春はカエルを呼ぶ。ブルーベリー畑の剪定をしているとぴょんこぴょんこと動くのが目に入る。カエルだった。他にもみどり色のアマガエルも出てきている。農園の家の庭の池でもげろげろと鳴く声がしている。

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早稲のブルーベリーの穂木を採取する。安芸の郷で毎年挿し木をして育てているがメインのラビットアイ系の晩生のタイプはもう挿し木が終了したが、すこしだけ早生も栽培したいためだ。

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41日(土)ブルーベリー畑の中に鳥の巣があった。中には枯れた落ち葉だけで卵もないし、雛もいなかった。

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42日(日)

毎年見る景色の一つが鯉のぼり。この日は風が山側に向いて吹いているので撮影する位置からは横にたなびいてくれない。

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ブルーベリー畑と里山にそれぞれ1か所スズメバチ捕獲のためのペットボトルを取り付けた。ペットボトルの中には穀物酢、ブルーベリー酢、リンゴ酢と砂糖を混ぜ混ぜにした液体が入っている。

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里山の周囲に咲くのは、春の初お目見えのスミレ。

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ブルーベリー畑ではゼニゴケがところどころで群生している。

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45日(水)

里山のブルーベリー園の周囲を見て回る。

①早生のブルーベリーの木は若い葉が出てきだした。

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②里山の麓の隣家の畑。ハナズオウの桃色の花が満開、畑には菜の花

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③里山のブルーベリー園の法面に山ツツジとアシビの白い花。この山ツツジはちょっと早く咲く。

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農作業は、切った枝の回収整理のほかに新たに防草シートを敷く作業を始める。午後から雨になったので作業は中止。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年4月 7日 (金)

広島平和記念資料館企画展「広島戦災児育成所ー子どもたちと山下義信-」

平和公園を訪れる度に、原爆資料館入り口に長い行列が出来ているのが目につきます。先日は、午後4時頃でしたが資料館本館の中程まで行列が続いていました。

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 これから入館できてもゆっくりと館内を見学できるのだろうかと心配になります。警備員の話では、「毎日入館者が多く、時には入館まで1時間以上待たなければ入館できないこともあります」とのことでした。

最近気がついたのですが、広島平和記念資料館のホームページには館内の混雑状況(東館1階入り口付近と東館と本館を結ぶ渡り廊下の2カ所)をリアルタイムの映像(広島平和記念資料館 | 混雑状況 (hpmmuseum.jp))で確認できるようになっています。ただ、入館を待つ館外の長い行列を見ることは出来ませんので、実際の混雑ぶりは、この画像だけでは、十分に把握できないかもしれません。

その広島平和記念資料館の1階企画展示室では、「令和4年度(2022年度)第2回企画展 広島戦災児育成所ー子どもたちと山下義信-」が、3月24日から9月11日までの会期で開催されていますので行ってきました。

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原爆によって多くの子どもたちが家族を失い,原爆孤児と呼ばれて戦後を生きてきました。その孤児となった子どもたちを養育する施設が、相次いで設置されましたが、この企画展では、いち早く1945年12月に広島市郊外の佐伯郡五日市町(現在の佐伯区五日市)に開設された「広島戦災児育成所」が取り上げられています。

企画展では、私財を投じて施設を創り、その運営と子どもたちの養育に携わった初代所長山下義信の遺族から寄贈された資料を中心に,広島戦災育児所の歩みと創設者である山下義信さんの生涯を紹介しています。

第1部は、多くの原爆孤児を生み出すことになった「学童疎開と原爆投下」について、市立白島小学校から提供を受けた写真などを基にした紹介です。

第2部は、「広島戦災育成所と創設者山下義信」のタイトルで、1945年12月23日に比治山迷子収容所から約30人、学童疎開先から約20人の他、行き場をなくした子どもたちを迎え入れてスタートし、翌1946年3月には3歳から16歳の子ども約60人が受け入れられたことや育成所内での生活の様子が紹介されています。

第3部は、「政治家山下義信の活動」が紹介されています。

広島戦災児育成所のことについては、以前から気になっていたのですが、きちんと調べたことはありませんでしたので、今回の企画展はその機会を与えてくれる内容でした。

私が関心を持ったのは、「政治家山下義信の活動」です。山下義信さんは、「全ての戦争犠牲者を救済する」という思いを実現させるため、1947年4月に戦後初の参議院選挙に社会党から立候補し当選されたています。特に、2期12年の国会議員活動中、1957年に成立した「原爆医療法」に先立ち、1956年に私案として「社会党山下義信私案 原爆症患者援護法案要綱」を発表し、国の責任で治療を行うことを求めていたことです。

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山下私案(企画展パンフレットより転載)

恥ずかしながら、山下義信さんが社会党の国会議員だったことも「原爆医療法」の成立に大きく貢献されていたことも、この企画展を見るまで、全く知りませんでした。

もう少し詳しく山下義信さんのことを知りたいと思いますので、「広島戦災児育成所と山下義信:山下家文書を読む」(新田光子著)などの参考文献があるようですので、きちんと調べてみようと思いました。

いのちとうとし

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2023年4月 6日 (木)

シュウモーの庭

先月の27日、「広島旧陸軍被服支廠出汐倉庫Open Week自由見学会」(広島旧陸軍被服支廠出汐倉庫Open Week自由見学会: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)の会場で、主催者のわが町活性化委員会・藤原美香さんから「すぐ近くの皆実平和住宅の中に『シュウモーの庭』が有るのをしっておられますか」と教えていただきました。

初めて聞く話でしたので、帰りに現地を訪れました。小さな庭園ですので、気をつけないとわからない場所にありましたが、皆実平和住宅集会所のすぐ前で見つけることが出来ました。

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解説板が有りますので間違いありません。解説板には次のように書かれています。

皆実平和住宅と『祈平和』灯ろう アメリカの森林学者フロイド・シュモー氏(1895年~2001年)は、原爆で家を失った人たちの住宅を建てるため約4,000ドルの募金を集め、1949年(昭和24年)、仲間とともに広島を訪れ、市内4カ所に住宅や公民館など20戸を超える『広島の家』を建てました。(中略)

この皆実町にも2棟4戸の『広島の家』を建て、これは『平和住宅』と名付けられました。ここに地元の人たちも手伝って小さな庭を造り、『祈平和』,『THAT THERE MAY BE PEACE』と彫った灯ろうを置きました。

その後、シュモー氏が建てた住宅は建て替えられ,庭も移設されまたが、シュモー氏の心は『皆実町平和住宅』という名称と庭の灯ろうに生き続けています。

広島市は1983年(昭和58年)11月,『広島の家』の建設・寄贈を通じて平和運動に尽力したシュモー氏に広島市特別名誉市民の称号を贈りました。

私たちは、この灯ろうとともにシュモー氏をはじめ『広島の家』の建設に関わった人々の人類愛と深い平和への思いを伝えていくことを誓います。」

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続けて「広島平和記念資料館付属展示施設シュモーハウス 中区江波二本松にあるシュモーハウスは、唯一現存する『広島の家』です。シュモー氏をはじめ、被爆後に寄せられた海外からの支援を伝える展示施設として改修し、2012年(平成24年)11月に開館しました。」と記載されています。

私がシュモーハウスとして思い浮かべるのは、江波二本松にある展示施設のことでしたので、ここに縁(ゆかり)の「シュウモーの庭」があることは全く知りませんでした。

庭園の前には、鎖が取り付けられていますので、最初は中に入るのを遠慮したのですが、「祈平和」,「THAT THERE MAY BE PEACE」と彫った灯ろうを間近で見たいと思い、ここを管理する広島市南区役所の建設課を訪れ、許可を得て中に入り写真を撮りました。

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2007年(平成19年)に広島平和記念資料館が開催した企画展「海外からの援助 被爆者の援助と込められた再建への願い」で作成されたパンフレットにこの皆実町の「平和住宅」の建設の様子を収めた貴重な写真がありました。うちの2枚を紹介します。

「建設が進む『広島の家』」のタイトルがついています。

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一番左の帽子をかぶっているのがシュモーさんです。

「完成した『広島の家』の前での記念撮影」とタイトルがつけられた写真の右隅に「灯ろう」が写っています。

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この写真のキャプションには、次のように書かれています。

「最初に完成した皆実町の家には、3,800家族から入居希望があり、広島市の抽選で,4家族に決まった。」

当時住宅事情が本当に深刻なものであり、シュモーさんが建てた2棟4戸の住宅がどれだけ貴重なものだったかが、この文章からうかがえます。

別の写真のキャプションには、石灯ろうについて次のように書かれています。

「庭園の石灯ろうには、日本語で『祈平和』、英語で『THAT THERE MAY BE PEACE』というシュモー氏の思いが刻まれた。シュモー氏にとって住宅と庭園は希望と祈の象徴だった。」

広島の復興には、こうした海外からの援助があったことを忘れてはならないと改めて感じました。

いのちとうとし

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2023年4月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その46) 「ベトナム象、広島を歩く」エピローグ1 ~なぜベトナム象は日本に来たの~

享保って、どんな時代

これまで9回にわたって第8代将軍・徳川吉宗が買い求めたベトナム象が、長崎から江戸まで75日間かけて歩いた旅を駆け足で追ってきました。今号から何回かにわたって、エピローグを書きたいと思います。

ベトナム象が来た享保13年(1728年)頃は、どんな時代だったのでしょう。

慶長8年(1603年)に徳川家康によって江戸幕府が開闢(かいびゃく)され120年余り経った江戸時代中期、第8代将軍吉宗の時代です。戦国乱世を経験し、心身の鍛練に励む豪壮武勇な気質の江戸初期から大きく変わってきます。泰平の時代に移り武勇より能吏が求められ、軍事による武断政治から経済・政治の文治主義に転じます。新田開発に伴う農業技術や器具の改良などによる生産性向上と貨幣経済の発展を受け、いわゆる元禄文化が花開きます。一方、華やかで贅沢な暮らしに慣れ親しみ、武士気質は変貌し、側用人政治が幅をきかせ幕府財政は逼迫します。

ベトナム象が来たのは、こうした中で徳川吉宗が将軍(1716~1745年)に就き、殖産や倹約の奨励などの財政再建、目安箱設置や側用人廃止などの行政改革による幕府権威の立て直しを図る「享保改革」(現代版「行財政改革」)を断行していた頃です。すなわち、政権に就いた吉宗が幕府権威の復活と行財政改革を両輪で一体的にグイグイと進めていた時代です。

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徳川吉宗像:徳川記念財団蔵、出典:ウィキペディア

なぜ、吉宗は象を買った?

では、なぜ、吉宗は象を買い求めたのでしょう。

確かに吉宗は好奇心旺盛で新しいもの好きな「暴れん坊将軍」だったようですが、一方、「頭が良く、切れ者の理論家」、「武芸や絵画にも優れた文武両道の将軍」だったようです。逼迫財政を立て直す行財政改革と低下する幕府権威の復活に邁進する吉宗が、単に新しいもの好きというだけでベトナム象やペルシャ馬、インド産の白牛を高い金を払って買うとも思えません。

長崎奉行所の役人だった近藤重蔵(注1)が著した『安南紀略藁(あんなんきりゃくこう)』(注2)に、「象之益者出戦之時、先備へに相立申候。牡象三歳に成り、 乳放し致候、而から段々教込熟練いたし候。而後出陣之節、筒重さ四十八貫目程石火矢を一挺豪に仕掛け、象の背の上に置き、象遣ひ二人騎り居り候。而則石火矢を打放し懸け仕候(中略)牡象は十五、六歳より軍用に立、牝象は種を取候迄に而、軍用には立不申候」という一文があります。

“象は戦の時、先陣として役立ち、乳離れした頃から教え込む。象の背に重さ48貫目(180kg)程の大砲1門を置き、象遣い二人が乗って大砲を撃つ。雄象は15~16歳から軍用に使える。牝象は子を産むが軍用にはならない”とのことです。

洋の東西を問わず、象の描かれた戦絵が数多く残されています。吉宗もオランダ商館から手に入れた書物や伝聞から、軍用象としての活用と繁殖を意図して雄雌各一頭買い求めた可能性があります。ペルシャ馬も幕府直轄の牧場を作って品種改良したことや、ドイツ人馬術師を招き洋式馬術の導入を図ったことなどとあわせて考えると、軍用象を開発する目的で買ったという推論もあながち間違いではない気がします。

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出典:ともにAfloより

江戸に着いた翌年に「払い下げ令」(今日の規制緩和による民間への市場開放に当たる)が出されたことは前号で紹介しました。その「令」が出されて11年後に中野村の源助らに払い下げられるまでの12年間過ごした「浜御殿」が、吉宗の「享保の改革」によって、将軍家の別邸から薬園・製糖所・鍜治小屋・火術所・大砲場などを備えた殖産と軍事に関する研究施設になっていたことを考えると、〔軍用象として買い求めた〕という推論は確信へと傾きますが、記録がなく(あるのかも知れませんが、知り得ませんので)確証はありません。

判断は皆さんにお任せします。

なぜ、ベトナム象は海路でなく陸路で江戸に向かった

昨年11月5日の「ベトナム象、広島を歩く(その2)」で、「ベトナムから船で来たのなら、なぜ船そのまま江戸まで運ばなかったの」と尋ねられ、「ウーン・・・、歩かせることに意味があったのじゃないの・・・」と答えたことを紹介しました。この点についても、そろそろ考えてみたいと思います。

家に簾をかけ外に出るな、煙を出すな、音を出すな、牛馬・鳥まで除け・・・・との長崎奉行所の御触れを思い起こして下さい。どうも、珍獣を江戸っ子だけではなく、沿道各藩の人々にも見せてあげたかっのではなさそうです。しかし、“「見るな」と言われると、余計に見たくなる”のが人情です。こうした心理のことを「カリギュラ効果」と言うそうですが、聡い吉宗は「禁じても、“あの手この手”で人々は見るだろう」とも予測していたでしょう。

すると、陸送の狙いは如何に・・・・

緩んできた士風や幕府の権威を立て直すために、海上ではなく陸路で運ばせた・・・・。長崎奉行所(幕府)の御触に、〔沿道各藩がどれだけ違(たが)わず忠実に従い、安全かつ迅速にベトナム象を送り継ぐか試した〕と考えられないでしょうか。さらに、禁じれば禁じるほど人々は見たがります。話しは広がり瓦版にも載り、象人気は湧き象ブームも起こります。これまた〔幕府にとって無為なことでは無い〕と読んでいたのかも知れません。

この判断も読者の皆さんにお任せします。

次号では、象を送り出したベトナムはどのような時代だったのかを見ることにします。

(注1)近藤重蔵:幕臣(旗本)、寛政7年(1795)、長崎奉行手付出役として赴任。文化5年(1808)から11年間、江戸城紅葉山文庫の書物奉行を務める。生涯に32分野に関する1500巻に及ぶ著作を残した地理学者、書誌学者として知られている。

(注2)安南紀略藁(あんなんきりゃくこう):近藤重蔵が長崎奉行所の時代に書いた安南の歴史・風俗・言語・地誌などに関する書物。

(1796年完成、2巻3冊)

(2023年4月5日、あかたつ)

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2023年4月 4日 (火)

「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ-」

平和公園内にある国立広島原爆死没者追悼平和祈念館企画展「空白の天気図―気象台員たちのヒロシマ-」が、3月15日から来年2月29日までの期間で開催されています。

「空白の天気図」といえば、最初の思い浮かぶのは柳田邦男さんの名前です。今回の企画展も同書とともに気象台員の体験記を基に,これまでの企画と同じように30分の映像構成となっています。

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同展を紹介するチラシには次のように書かれています。

「1945年86日、原爆は広島市に甚大な被害をもたらしました。爆心地の南方約3.7kmに位置する広島地方気象台でも、爆心に面した窓ガラスは割れ、職員の中には重傷を負うものが少なくありませんでした。

その状況下でも、『気象観測を担う者は、現象についての時間的な変化を絶えず記録しなければならない』と、最新の気象データを中央気象台へ電報で伝えるため、3名の若手台員が市の中心部へ向かいました。しかし、そこで彼らが目にしたのは、まさに地獄絵図と呼べるものでした。

さらに、被爆後わずか1か月後に広島を襲った枕崎台風は原爆被害を一層深刻なものにしました。気象台員たちはこの二重災害の被害を後世に教訓として伝えようと、現地へ出向いて一人ひとり詳細な聞き取り調査を行い、貴重な調査報告書にまとめました。

今回の企画展では、観測者の視点から記録された被爆体験記をもとに被爆の実相を明らかにします。」

壊滅的な被害を受けた広島で気象観測を続けた気象台員たちの様子を知ることが出来る映像となっています。

被爆当時は、天気予報は禁止されており、解禁になったのは8月22日になってからだったことや気象台員が百数十件の体験談を基に、500部印刷紙発行する予定だったものが、GHQの指示で発行できなかっただけでなく、回収されることになってようですが、100部だけ隠しておいたため残すことが出来、1953年にようやくそれを世に出すことが出来たことなどが、映像を見ていて印象に残っていることです。

会場には、その年の9月に広島を襲った枕崎台風の雨量計の記録紙など貴重な資料も展示されていますが、撮影禁止ですのでここでは紹介することが出来ません。

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会場の地下1階の「情報展示コーナー」は、今年初めから始まった改修工事終了後初めての企画展です。

最も大きな改修は、スクリーンの大きさと位置です。従来さん分割されていたスクリーンが、縦2.4メートル横4.2メートルの大型スクリーンに変えられ、設置位置が会場入り口から見て向かって左側にあったものが、右奥に設置されています。これによって、後から来た人が入りやすくなったように思います。観覧者のために設置された座席が、固定ベンチだったものから移動式椅子に変えられ、20人分ほどが用意されています。

私が見に行ったときは、ほぼ満席の状態でしたが、そのうち4分の3は、外国からの訪問者だったことが印象的でした。

この企画展開催を記念して『空白の天気図』の著者で、企画展の監修を行われた柳田邦男さんの講演会が、開催日前日の3月14日に開催されました。当初、会場は追悼平和祈念館の研修室で、定員100名で企画されましたが、参加希望が多く、急遽原爆資料館地下大ホールに変更となりました。私も参加申し込みを行ったのですが、その日にコロナに感染していることが判明し、断念せざるを得ませんでした。

柳田さんの講演を聴くことは出来ませんでしたが、これを機会に『空白の天気図』を読み直したいと思っています。

いのちとうとし

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2023年4月 3日 (月)

被爆者の森―ライラックの苗木植栽

被爆者の森の北海道のライラック(エゾマツの代木)が、誰かによって無残にも折られたしまったことは、昨年618日(無残にもおられてしまった被爆者の森のライラック: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))と26日(折られてしまった被爆者の森のライラック―つづき: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))の2度にわたって紹介しました。

その後広島市は、器物損壊事件として警察に届け出をしましたが、今も誰が折ったのかは判然としません。

そのライラックの木が、ようやく先月29日に新しい苗木に植え替えられました。前日に市の担当者から「明日午前8時半頃から植栽をします」と電話で連絡を受けましたので、現場に行ってきました。

私が現場に着いた時には、すでに市から委託された造園業者の作業が始まっていました。現場には、今回は業者だけでなく広島市の担当者もきていました。

ライラックは、一昨年の3月にも植栽(その時は、枯れ死のため)されましたが、今回は、今回は枯れ死ではないにもかかわらず、植栽される場所の土の掘り起こしが、広範囲にそして深く行われました。

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そして深く掘られた穴に新しい苗木が、植え込まれました。

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苗木は、千葉の業者が育てた3年もので高さは90センチあります。業者の話では、「ライラックもいろいろと種類があるが、できるだけ高温にも強い木を選びました」とのことです。

植え終わると、添え木がつけられました。

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そして、ライラックを保護するための柵が作られました。

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昨年6月に誰かによって折られた時、当初広島市は「自転車で転んだりしたため折られた可能性もある」といっていましたので、「ライラックの木は、他の木と比べると細く低いので、今度植え替える時には、保護用の柵を作って欲しい」と要望しました。その時には、明確な返事はなかったのですが、今回はきちんとした柵を設け保護することになったようです。

新しく植栽されたライラックは、小さな苗木ですが、先端にはたくさんのつぼみをつけています。

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この写真では見え難いのですが、一輪すでに咲いていました。一昨年も同じ3月末に植栽されましたが、4月に入るときれいな花を咲かせましたので、今年ももうすぐ満開の花を咲かせると思います。

今回は、周囲にきちんとした柵も作られましたので、必ず成長してくれるものと期待しています。

このライラックが植えられた場所の道路を挟んで向かい側に京都から送られたしだれ桜が植わっています。

昨年、歩道の上の枝が少し剪定されたようですが、今年もきれいな花を咲かせていました。

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他にも鳥取県の梨の木が花を咲かせていました。

被爆者の森は、他にも花を咲かせる木もたくさんあります。まもなく今回植栽されたライラックも花を咲かせると思いますので、訪ねて欲しいと思います。

いのちとうとし

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2023年4月 2日 (日)

郭貴勲さんを偲ぶ会

今年1月3日の在韓被爆者郭貴勲さんの訃報: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した在韓被爆者の「郭貴勲さんを偲ぶ会」が、韓国の原爆被害者を救援する市民の会(以下「市民の会」)が主催し、昨日午後2時から大阪で開催されました。

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市民の会松田事務局長の司会で始まった偲ぶ会は、最初に市民の会代表の市場淳子さんがあいさつ。

その後当日ソウルから駆けつけた郭さんの三男郭孝成(ヒョソン)さん、大阪在住のお孫さん郭芝榮(チヨン)さんのお二人の遺族が紹介されました。

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そして全員での黙祷し郭貴勲さんの証言映像「ドキュメンタリー映画『狂夏の烙印~在韓被爆者になった日から~』」(イトウソノミ監督・2011年制作)が上映され、参加者全員で郭さんの熱い思いを改めて聞きました。

続いて追悼の辞でしたが、最初に在ブラジル原爆被爆者の会森田隆代表など海外から届いた2通のメッセージが代読されました。

その後参加者の代表が、追悼の辞を述べました。

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名前だけ紹介します。在韓被爆者問題市民会議共同代表・市民の会創設メンバーの小田川興さん、市民の会前広島支部長の豊永恵三郎さん,市民の会長崎支部長平野伸人さんなど市民の会のメンバー、郭貴訓裁判弁護団長の永嶋靖久さんと足立修一弁護士など弁護団の皆さん、「在外被爆者に援護法適用を実現させる議員懇談会」の元衆議院議員・前宝塚市長の中川智子さん、そして私、在韓被爆者渡日治療に尽力された阪南中央病院の村田三郎さん、同中央病院労組の衣川隆志さん、原水禁国民会議の共同議長藤本康成さんと井上年弘さんなどが、それぞれの郭貴勲さんとの関わりを懐かしく話されました。私も久しぶりに懐かしい人たちに出会いました。

これらの追悼の辞を受け、遺族を代表し郭孝成さんが次のようにあいさつをされました。

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「20年前、父と一緒に国会を訪問しました。その時の奮闘していた父の姿を思い出しています。そこで本当に努力している父の姿に深い感銘を受けました。父の訴訟の勝利は、ここにいる皆さんの勝利だと思っています。父の裁判が勝訴してから韓国内でも被爆者への関心が高まりました。そして,それを契機に韓国内での人権意識の高まりが創られました。一人の被爆者の人生を追悼し、考えていただくことは、大切なことですし、本当にうれしく思っています。」

最後に市場淳子さんが、郭貴勲さんが残された言葉を紹介しながら「郭さんが遺した意思を引き継いでいく」決意を訴えました。

当日配布された資料の表紙には,郭さんの名言である「被爆者はどこにいても被爆者」とともに「国境を越えて人々の心の中に反核・反戦・反差別の灯火をともした郭貴訓さん。私たちはその灯火を絶やしません。どうか安らかに眠ってください。」と書かれています。

この思いを参加者が共有した「偲ぶ会」でした。

いのちとうとし

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2023年4月 1日 (土)

県会議員選挙、広島市議会議員選挙がスタート

今年は、4年に一度の統一自治体選挙の年です。広島市長選挙は、3月26日に告示され、すでに選挙戦は中盤となっています。

昨日3月31日は、投票日が同じ4月9日となる広島県議会議員選挙、広島市議会議員選挙が公示さ、立候補の届け出を終えた候補者が、それぞれ出発式を行い選挙戦のスタートを切りました。私も、安佐北区の市議会議員候補者の出陣式に参加しました。

広島市議会議員選挙の立候補者は、定数54に対し84人が立候補届を行いました。

告示日前の30日には、広島県選挙管理委員会が,県庁前に縦2.5M横4.5Mの大きな投票を呼びかける啓発看板を設置しました。

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今回のイメージキャラクターは、カープの新井貴浩監督でメッセージは「素敵じゃね!票に希望を託すキミ」です。すぐ横には、幟が並んでいます。

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この呼びかけに応えて、一人でも多くの有権者が投票に行くことを望んでいます。

告示日の午後3時過ぎの中区の公営掲示板の様子です。

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市議会議員選挙のポスターはすべて貼られていますが、市長選挙、県議会議員選挙は、2番の掲示板には、まだポスターが貼られていません。

ポスターの掲示は、別にしてしっかりとした論戦で、自らの主張を有権者に訴えて欲しいと思います。

それにしても、最近の議会の状況は、その本来の役割を果たしているのだろうかと思えることが多くなっています。

例えば、県政では、教育長の友人への便宜供与の問題、市政では、中央図書館の移転問題に象徴されるように、知事、市長の政治姿勢に対して、県民・市民が望むしっかりとしたチェック機能を果たしているとはとても思えない議会の対応が続いています。これでは、議会が議会としての役割を果たしているとは、とてもいえません。

政策を述べることも大切ですが、知事・市長の政策をしっかりとチェックできるかどうかが、議会に問われていると思うのは私だけでしょうか。

選挙戦を通じて、首長と議会の関係はどうあるべきか、有権者が考える機会になればと思います。

また、河井大規模買収事件で、公職選挙法違反の罪で在宅起訴された現職5人が立候補しています。まさに政治と金に対する有権者の問題意識が問われているといえます。

最近投票率が、選挙ごとに下がっている傾向にありますが、一人でも多くのの有権者が投票することによって、政治が身近なものとなったと思える選挙戦であった欲しいと強く願います。

いのちとうとし

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