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2023年3月 6日 (月)

ヒロシマとベトナム(その45) ベトナム象、広島を歩く-9

「越すに越されぬ大井川」

4月9日に四日市宿を出立した象の旅は、さらに50日近く続きます。

私のふる里、備前国岡山藩に4月12日、播磨国姫路藩に4月16日、4月26日に京都に入ります。28日には中御門天皇に拝謁します。象とはいえ無位無官のものが参内する先例がないことから、「従四位広南白象」に叙されます。

東海道を下り江戸に向かった象一行は5月13日、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と箱根馬子唄に歌われる難所に差し掛かります。郷土史研究会の2月例会で「広島を歩いたベトナム象」を発表したとき、「象は東海道を歩いたんですか?大井川はどうやって渡ったんですか」との質問をいただきました。

 「梅雨による増水のため3日間足留めされた」という説もあるようですが、大井川の川会所に残る『川留記録』には川留め事実はなく13日に象は大井川を渡っています。通常の水深は2尺5寸(約76cm)で川留めの基準水深が4尺5寸(約136cm)ですからそれ以下だったのでしょう。

川幅は約10町(約1090m)、大井川を挟んでそれぞれ350人いた川越人足が象の渡る上流で肩を組んで何列にも並びます。激しい流れを人間で堰を造って、象が歩き易いようにしたのです。こうして無事に大井川を越えたと伝えられています。

下の絵はその時の様子を描いたもので、ささご会が製作した紙芝居「江戸に像が来た」からお借りしました。

Photo_20230303204602

大井川を意外と楽に乗り切ったベトナム象、天下の険・箱根越えでついにダウンしてしまいます。急遽、江戸に「象不快」と急報され、近郷から馬のお産を取り上げる名人が呼び出されますが、為す術もなかったようです。失敗すれば切腹ものと関所役人たちが箱根権現で護摩を焚いてもらったり、福井芦川の駒形神社の御札をもらったりと大変だったようです。

その御利益か(?) 4日後には回復し、5月21日に江戸に向かいます。そして25日、六郷川(現在の多摩川)に30艘の船を浮かべ杭で固定。その上に板を敷いた船橋を仮設し渡り、遂に江戸入りを果たします。

「時代の寵象」哀れ、無残な死

5月27日、第8代将軍・徳川吉宗に拝謁。その後も、「従四位広南白象」(時代の寵象)を見学する大名や有力旗本が相次ぎます。絵師によって象画が描かれ、瓦版で虜になった江戸っ子は錦絵や双六に興じ、『象志』や『安南紀略藁』、『月堂見聞集』などベトナムと象に関する書物が綴られます。

Photo_20230303204601   

しかし、浜御殿に暮らすベトナム象に対する厚遇は長く続きません。開幕100年余、幕府財政の逼迫と揺らいできた幕府権力の確立に力を注ぎ、今日で言う行財政改革と政治改革、倹約と殖産奨励などの「享保の改革」を進める吉宗にとって、年間200両(約2600万円)もの金喰い象は放置できません。早くも翌年、享保15年(1730年)6月30日には江戸の名主宛の「象払下げの触」を出します。ところが、なかなか買い手が見つかりません。

11年後の寛保元年(1741年)4月27日、中野村の百姓・源助と柏木村の百姓・弥兵衛が買い取ります。

そして払い下げの翌年、寛保2年(1742年)12月13日にベトナム象は死んでしまいます。

源助は象の餌の竹笹を浜御殿に運んでくる武州中野村の百姓でしたが、金儲けに聡い男でした。一回約10kg、一日に100kgという山のように出る象の糞の掃除を手伝う傍ら、糞をもらい受け近郷の百姓に肥料として分け(売り)ました。享保15年(1730年)、おりしも江戸で麻疹や疱瘡が流行します。源助は内藤新宿の場末、淀橋通りに店を開き、象の糞を「象の涙」と名付け「麻疹と疱瘡、腫れ物に効く」と売り出します。

幕府から、「試候処効能も有之、疱瘡、麻疹、面疔、其の他腫之薬に候間、望之者は右之所江参調可申候」というお墨付きまで貰い、大儲けをしたと伝えられています。

推定7歳で日本に来たベトナム雄象は21歳で亡くなります。60~80歳と言われる象の寿命の3分の1~4分の1という短い生涯です。

源助と弥兵衛に買い取られ僅か一年余りで死んだベトナム象の死因は餓死と凍死と伝えられています。この一事を見てもベトナム象が源助らにどのような扱いを受けたのか、想像に難くありません。

西条四日市宿から一気に江戸に駆け上り、異郷で寂しく亡くなるまで書きあげました。道々にベトナム象の足跡を辿る記録はまだまだあり、様々なドラマが展開されますが、象の旅を追うのは一旦ここで区切りとしたい思います。次号から何回かで「ベトナム象広島を歩く」シリーズを閉じたいと思います。

〔エピローグの予告〕

1.なぜ、ベトナム象は日本に来た

(1)当時のベトナム事情

(2)どのようにして象は運ばれた

2.エピローグ

(1)象好き日本人

(2)「暴れん坊将軍」は何のためにベトナム象を買った

(3)ところで、どうなった  ベトナム象を追う旅の出発点“東広島の地を最初に踏んだ人は誰?”

(4)間近!「ベトナム象来訪300年周年」  2029年4月8日(日)

(2023年3月日、あかたつ)

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