ヒロシマとベトナム(その43)ベトナム象、広島を歩く-7
ベトナム象は「飢坂(かつえざか)」を登った?
大山峠を下った西国街道は八本松駅の南に位置する県教育センター前の道を東に進みます。そして八本松東のシャープの工場内を通って「材修場跡の碑」までほぼ平坦な道が続き、そこから四日市宿までの最後の登り、「餓坂」を越え西条の町へと入ります。船越さんに「餓坂」入口までお連れいただいたので、近いうちに歩いてみたいと思っています。
「電子足跡:旧山陽道(西国街道)歩き旅 本郷宿から安芸中野へ 最高地点 松子山峠・大山峠越え」からお借りしました
案内板に「江戸時代にここを西国街道が通り、この峠の西側(八本松側)を飢坂と言います。江戸時代、飢饉の時、ここで多くの人が飢えて力尽き亡くなったことから、この地名になったと伝えられています。」と由来が書かれています。
ベトナムの像が西(八本松側)からこの峠を登った享保14年(1729年)には既に「飢坂」と呼ばれていたのか、いつごろから「飢坂」と呼ばれるようになったのかを調べてみました。下表はウィキペディアなどを基に作成した江戸時代の4大飢饉の表です。
江戸時代の4大飢饉に関する広島藩の動向を広島県文書館作成の「広島県史年表」から探ってみました。寛永大飢饉(1642年)には、「百姓作食、種米に難渋する者多く、餓死者少なからず、凶作は正保元年まで続く」とあり、少なからぬ餓死者があったと思われます。その他、飢饉に関するであろう動きは「幕府、在々での酒造を禁止する」、 「広島藩、倹約に励み耕作に精出すべきとの幕令を領内に布達する」だけでした。
享保の飢饉(1732年)に関しては、「うんか大発生、広島領の田畑損毛31万4,028石余に及び、翌春まで飢人32万4,255人、餓死者 8,644人。福山領の田畑損毛5万2,917石に達し、翌春までの飢人2万830人、 餓死者731人に及ぶ」と書かれています。その他にも「飢饉救済のため郡中に救援米を支給」、「酒造りを 3分1造りに制限」、「町郡中飢人救米3万3,470石、家中扶持米不足の者への貸米1万2,000石余、 計4万5,470 石余放出する」などの記述があります。
天明の飢饉(1782年)」に関しては「気候不順により凶作、広島領の田畑損毛11万690石余に及び、飢民少なからず」のみ。天保の飢饉(1833年)に関しては藩内の飢饉に関するものはなく、「広島藩、幕命により、米払底の江戸に1万1,400石余を廻米する」というものだけでした。
江戸時代、広島藩を襲った96回の災害・飢饉
私が所属する東広島郷土史研究会の12月例会で蔵楽恭子さんが「『社倉(注1)』を通してみる近世の農村・村役」について研究報告されました。その時頂いた資料(飯田米秋著『東広島近世年表』)に、賀茂郡原村でいなごの虫害が発生、洪水で水漬かり(天保2年、1831年)。肥前の国(注2)の者、原村で行き倒れ死亡(天保3年)。広島、福山両藩とも旱、冷害による損耗甚大(天保4年)。天候不順、大凶作(天保5年)。春から秋にかけて洪水、凶作、大飢饉となり餓死者多数出る。賀茂郡志和村、西野村(注3)、造賀村に百姓一揆起こる。原村八幡神社で施しの粥が炊き出される(天保7年)。路上に死者多数出る、疫病流行(天保8年、1837年)とありました。
『広島藩』(土井作治著)によると18世紀以降の広島藩内で記録されている災害・飢饉は96回に及ぶそうで、中でも享保の飢饉も天保の飢饉は相当深刻な大飢饉だったようです。
「飢坂」の名がついたのは西日本各地、特に瀬戸内沿岸に大きな被害をもたらした江戸中期の「享保の大飢饉」か、江戸後期の「天保の飢饉」かのいずれかと思いますが特定できませんでした。しかし、いずれにしてもベトナム象が峠を越えた時には、まだ「飢坂」の名は付いていなかった可能性が高いのではと思います。
3月13日に長崎を発ったベトナム象は歩くこと26日目の4月8日、わがまち西条四日市宿に到着しました。あと2カ月もすると「ベトナム象来宿295年」を迎えます。次号(その44)では、西条四日市宿でのベトナム象をたぐって見たいと思います。
(注1)社倉
飢饉などに備えて米や雑穀を蓄えておく倉のことで、天明飢饉後に全国に広まったもの。
広島藩の社倉は,海田市の儒者加藤缶楽の教えを受けた安芸郡矢野村の神官香川正直の指導によって矢野村・押込村で寛延2年(1749)社倉法による備荒貯麦をはじめたことに由来する。
(注2)肥前の国
佐賀県全域、および長崎県の壱岐・対馬を除く地域の旧国名。当時は鍋島成義が治めていた。
(注3)西野村
当時の賀茂郡は竹原市域も含まれており、現在の竹原市西野町。
(2023年2月7日、あかたつ)
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