広島ガスの60年史と100年史
1月9日の「広島ガス100年史」と原爆被害: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「広島ガス100年史」(以下「100年史」)に記載された原爆被害について書きました。
その中で引用した広島工場の従業員の体験記は、もともと「広島ガス60年史」(以下「60年史」)に掲載されていたものですので、「60年史」では、原爆被害がどのように記載されているのか気になりましたので、広島市立図書館から借りてきました。
2冊を比較すると、大きなタイトルは「原子爆弾と終戦」(「60年史」)、「広島の壊滅」(「100年史」)と違いますが、原爆被害に関する記述は、文量としてはほぼ同じです。ただ細かく読んでいくといくつかの違いが見つかります。
その一つが、爆心地からの距離です。「60年史」では、「本社は約350m、広島工場は約2,000m」となっていますが、「100年史」では、「本社は約250m、広島工場は約2,200m」と記載されています。広島原爆戦災誌は、「100年史」と同じ距離になっています。「60年史」は、広島原爆戦災誌と同じく1971年10月に発行されていますので、広島原爆戦災誌と同じ距離が使われてもおかしくなかったと思われますが、なぜこの違いが出来たのか不思議です。
二つ目は、これは大きな違いだと思いますが、「60年史」には、原爆で犠牲となった69名全員の氏名が50音順で記載されています。
「60年史」の1ページ
うちはっきりと女性とわかる名前は19名です。女性の犠牲者があったことがわかるのも名簿があるからです。「100年史」には、本文中で役員3名の名前が記載されているのみで、他の犠牲者の氏名は掲載されていません。
三つ目は、本文が始まる前に掲載されているグラビアの部分です。「60年史」は、当時の広島ガスに関する写真のみですが、「100年史」では、「広島ガスの100年」とタイトルが付けられ、被爆写真を含め戦前の写真が見開き2ページにわたった掲載されています。
「100年史」の戦前の写真の1ページ
100年という節目を大切にした編集となっています。
もう一つ気付くのは、「100年史」には、当時の社長が書かれた「社史刊行にあたって」の文章があることです。深山英樹社長は、その中で原爆被害について次のように書かれています。「振り返りみますと、当社の最大の試練は1945年8月の原子爆弾投下により、製造・供給設備はもとより、当時の山口吾一社長をはじめ人的資源に大打撃を受け、これらを一瞬にして失ったことであります。原爆により広島は廃墟と化し、当時は『今後75年間、草木も生えぬ』と噂されたものでありますが、当時の先輩諸氏は、再興に向け一致団結、それこそ泥まみれになりながら日夜業務に精励されました。」
原爆被害がどれほど大きかったのか、この社史からも読み取ることができます。
たまたま目にし、購入した「広島ガス100年史」でしたが、「原爆被害の実相」を別の視点から学ぶことができました。「原爆被害がどのように扱われているか」他社の社史も調べてみたい気になっています。
いのちとうとし
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