忘れてはならないテニアン島
平和公園やその周辺の碑めぐり案内をする時、必ず行くところに爆心地跡があります。島病院のところです。
太平洋マリアナ諸島の中に在るテニアン島、太平洋戦争末期の米軍基地として原子爆弾リトルボーイを搭載したB29エノラゲイ号が出撃したところと説明をする場所です。僕の頭の中でのテニアンの歴史は、エノラゲイ号が出撃した1945年8月6日の早朝からでした。
吉永直登(よしなが なおと)さんの著書「テニアン-太平洋から日本を見つめ続ける島」を読みました。これを読んで、自らの無知をとっても恥ずかしく思うとともに、テニアンの歴史の悲しさに打ちのめされた気持ちになりました。
マリアナ諸島に人が定住生活を始めたのは、遺跡調査などで今から3500年前頃だそうです。テニアンは日本の委任統治下にあって、日本人が住みついたのは明治時代頃だと言われてます。最初は移民県であった沖縄の人たちが多かったのようです。
昭和初期、沖縄からテニアンに隣りの島サイパンへの直行船便が開設され、1週間程度で行けたそうです。しかし便数も少なく、多くの人は本土経由のルートを使いました。テニアン元在住者の思い出によると、テニアンへの行き方を次のように書いています。
「奄美諸島を経由して鹿児島まで船で2泊3日、鹿児島で旅館に2泊ぐらいした後、鹿児島から福岡県門司市まで汽車で向かった。船の出発待ちで3泊した後、門司港から船に乗り、神戸経由で横浜に着いた。横浜で2,3泊し、サイパンに向け出港した」という工程を書いているのです。直行船便の倍以上の日時を使って行ってるのです。
これだけの行程を使いながらテニアンに着いた人たち、そこで従事した仕事はサトウキビの栽培だったそうです。しかし最初の頃の移民者の仕事は、広大なジャングルの開墾、整備作業という重労働から始まったのです。
やがて1929(昭和4)年以降、テニアンの海岸通りには学校や公共機関を建ち始めたのです。これらの建物が建ち並ぶ通りは、その後「スズラン通り」と名付けられ、菓子屋、時計屋、自転車屋、床屋、歯医者…などが建ち並んだのです。
終戦の2年前の1943年には人口が6101人に膨らんだとされています。もちろん沖縄の人だけでなく、「本土側」からの人も加わり、熱帯の島に突然現れた「日本の地方小都市」に発展したと書かれています。
そして1941年12月から始まった太平洋戦争、平和だったテニアンが戦争開始から約2年後過ぎから、米軍の総攻撃を受けたのです。その時の様子について元海軍兵士だった人は次のように書いています。
「ジャングルに飛び込んで私は目をみはった。おびただしい死骸が打ちすてられたようにころがり、腐って、ハエとウジが群がりついている。かなたの木陰に、こなたの岩陰にと、うつろな目をした女が腰かけ、老人がうずくまり、子どもが寄りかかっている」と。多くの人が岬から海に飛び込むなどして、自らが死を選んだのです。
1944年8月1日、テニアンは米軍に占領され島には星条旗が掲げられ、それから急ピッチで基地として様変わりの道を歩むことになったのです。それにしても、逆算すれば戦争そのものが終了する1年以上前にテニアンの日本人の歴史は終えたのですが、日本政府はそれを知っているのでしょうが、まさに「見て見ぬふり」で、本土側では「頑張ってる 頑張ってる」の嘘宣伝を繰り返しているようで、そのことがどうしても許せないのです。
そして米本土から極秘裏に原子爆弾が輸送され、ヒロシマ・ナガサキとなったのです。
「あの戦争さえなければ」
「貧しかったが、楽しかった」
テニアンの「はじめに」に書かれている言葉です。
今やテニアンは、サイパンやグアムと並び日本から容易に行ける観光リゾート地となっていますが、忘れてはならない悲劇の歴史でもありますね。
吉永直登さん著「テニアン 太平洋から日本を見つめ続ける島(出版社 あけび書房」、是非とも読んでいただきたいと思います。
木原省治
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