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2023年1月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その40-1)ベトナム象、広島を歩く-4

広島城下にベトナム象が “きたゾー”

一国一城令(注1)に先立って消えた亀居城跡を背に玖波宿(現大竹市玖波)をいつものように4月6日の朝五つ時頃発った(であろう)ベトナム象は、その日の夕刻、芸州広島藩の城下に入ります。岡山藩に残された古文書「象御領内通候一件」の中には、「象広島へ去る6日の晩七つ時(午後4時)前着、7日の朝五つ半時(午前9時)出足」と記されています。

身近な地ですので、象が歩いたであろうルートを紹介します。玖波宿(本陣)→残念社→妹尾の滝→千人塚→十郎原→津和野岐→佐伯郡役所跡→廿日市宿(本陣)→桜尾城跡(廿日市)→塩釜神社(佐伯区)→草津→源左衛門橋(広島市西区)→天満宮→広島宿です。これらの地には、それぞれに謂われ(歴史)が刻まれています。関心のある方は調べてみてください。

『廣島市史』に「四月六日、交趾国(注2)より貢せる象一頭、将軍の召により、長崎より江戸に赴く、途中広島を通過し、是日堺町二町目馬頭(注3)助兵衛の後庭に次す、藩主吉長(注4)、同町沢村屋に臨み之を観る」と記されています。

広島県立文書館が2016年に開講した「インターネット版古文書講座」(第6回)資料にも、「象は4月6日に広島城下に到着した。その宿所は、広瀬組堺町二丁目(現広島市中区堺 町一丁目)あたりの馬継場(注5)の後庭があてられ、隣家の芥川屋との境の塀をくりぬいて小屋を作り(注6)泊まらせた。」と紹介されています。

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西国街道~広島宿(より)

上の地図は江戸時代初期の「広島城城下町古地図」で、中央を東西に走っているのが西国街道です。象が泊まったのは本川橋西詰から天満橋東詰の辺りの堺町にあった広島西宿近くだったと思われます。この辺りに馬継場(伝馬駅)、馬頭の助兵衛宅、芥川屋、沢村屋などが軒を連ねていたのでしょう。

(注1)一国一城令:大名が住む城以外の、領国にあるすべての城を取り壊すように幕府が命じたもの。以降、原則として大名の領国には城は1つだけになった。大名が大きな軍事力を持つことを防ぐために大坂夏の陣の直後(1615年)に出された法令。

(注2)交趾国:古くはベトナム北部地域を指していたが、16世紀以降中部地域を含め交趾と呼ぶようになり、象が送られた当時は北部(ハノイ)から中部(ホイアン)にかけて交趾国と呼ばれた。

(注3)馬頭:宿場毎に伝馬の常備が義務づけられ、その手配・差配をしたのが人馬方とか馬頭、人馬役と呼ばれた。

(注4)浅野吉長:1681~1752年)、安芸国広島藩の第5代藩主。現在の修道中学校・修道高等学校の楚となる「講学所」を開く。

(注5)馬継場:駅で馬を交換したり休憩させ物資や人や情報を運ぶシステムを駅継とか伝馬制と呼んだ。江戸時代になると、公用に限らず宿継の荷駄馬を広く「伝馬」と通称。西条四日市宿では15匹の馬の常備が義務づけられていた。

(注6)象小屋:長崎奉行所が各藩に出した「御触書」では次の様に指示されている。

「泊宿にて象を繋ぎ候場所は、二匹立ての厩中仕切りを取り除け、土間を平らにいたし、右土間の内片脇に寄せ、長さ1丈(3.3m)ほどの5寸(15cm)角を縦に半分埋め、半分出し置き、その角木に象を繋ぎ申す事に候、尤も、厩これ無き泊まりは随分丈夫に構え、広さ6畳」「象小屋高さ8尺(2m40cm)余、入3間(5.5m)ほど、横2間半(4.5m)ほど」「小屋に風入り申さぬように仰せ付けられ然るべき由」「象度々小便つかまつり候故、溜まり申さぬようにとの埒に御座候、小屋の内藁を2尺ばかり敷き宜しき由」

2023年元旦、満71歳になりました。あらためて「温故知新」、引き続き学びの旅を続けたいと思います。

本年もよろしくお願い致します。

(2023年1月5日、あかたつ)

【編集者】今回も今日、明日の2回に分けて掲載します。

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