ベトナムの歴史(その19) 抗仏闘争-3の3
日本軍の仏印進駐と「200万人餓死」
1940年9月22日の日本軍の北部仏印進駐に続く翌41年7月28日の南部仏印進駐によって始まったフランス領ベトナムでの「日仏共同支配」は、1945年3月9日に日本軍が武力でフランス軍を排除した「仏印武力処理」までの4年半続きます。その後、8月15日の日本の敗戦までの5ヶ月間は日本が単独支配します。
(日本軍の「仏印進駐」)
(1945年3月9日、「仏印武力処理」でフランス軍をベトナムから排除)
その1944年秋から1945年春にかけて200万人と言われる餓死者が出ます。そのことに初めて言及したホー・チ・ミンは1945年9月2日の「独立宣言」で、「1940年の秋、連合国に対抗する拠点を更に築くため、日本のファシストがインドシナを侵略し、フランス帝国主義者らは跪いて日本に私たちの国を明け渡し ました。そのときから、私たち民族はフランスと日本という二重の枷をかけられたのです。そのときから、私たち民族は、日増しに困窮し、貧困にあえぎまし た。その結果、ついに昨年末から今年の初め、クアンチから北部にかけて、200万人の同胞が餓死しました。」と述べています。
しかし、「『200万人餓死説』はベトナム共産党のプロパガンダだ」、「天候不順による凶作飢饉で餓死は出たが、数万人程度」などと主張する人がいます。
日仏共同支配から日本軍のクーデターによる単独支配、そして日本敗戦という激動期だったため記録や実態把握が乏しく、その後もベトナム民主共和国建国と第一次インドシナ戦争(抗仏戦争)に続くベトナム戦争で十分な実態調査が不可能で、正確な人数を特定することができなかったことは事実です。
ホー・チ・ミンの「独立宣言」以外で餓死者数に言及したのは1950年代に日本との賠償交渉で南ベトナム政府が「100万人程度」、日本政府の「30万人」という見解です。
ベトナム人写真家のVõ An Ninh(1907~2009年)によって撮影
「南京虐殺」もそうですが、犠牲者数をめぐる論争が後を絶ちません。その殆どが加害者の側、日本側からの主張です。犠牲者一人ひとり唯一無二の命であり、その人たちには家族をはじめ連なる大切な人があったはずです。犠牲者の正確な人数を把握することは、その一人ひとりに思いを馳せ、それまでの生きた証しと、理不尽に命を奪われた様を確認すること。そのことを通して〔再びこうした事態を起こさない〕、〔起こさせない〕という誓いとすることだと思います。
しかし、日本側から出される主張の多くは加害者としての反省も、犠牲者に対する謝罪も、過ちを繰り返さない(繰り返させない)という将来への誓いもありません。
(2023年1月19日、あかたつ)
【編集者】「ベトナムの歴史」は、毎月20日に掲載していましたが、今月は、2回分が送られてきましたが、編集の都合上今日から3回に分けて掲載します。
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