木本誠二著「原子爆弾空襲の體験」
「原子爆弾空襲の體験」は、1945年8月6日に所用で郷里広島に立ち寄った牛田町の生家で、軽い病気のため臥床のまま被爆した東京帝国大学医学部の医師木本誠二さん体験記です。
この冊子のことを中国新聞記事で知り、発行関係者に連絡を取ったところ、大切な1冊が送られてきました。
この小冊子(A5版で28ページ、内体験記は、16ページ)は、昨年8月6日に発行されたものです。
表紙には、次のようなサブタイトルが付けられています。《ヒロシマで被爆した ある医師の手記 GHQが発禁 七七年を経て いま甦る》
体験記は、最初に自分自身の8月6日の被爆の体験状況が書かれています。その後に「空襲状況」「爆圧による破壊程度」「焼夷力」「人體損傷」の小見出しごとに、その詳細な状況が記されています。ここではその詳細の記述はしませんが、活字化進められた工藤一喜さんが「木本先生の原稿は、広島での原爆投下により未曽有の被害を受けた直後の体験談であり、原爆で被災されながら科学的な鋭い視点から、当時全く想定外であった原子爆弾の可能性を確信され、発生した事実を極めて冷静に伝えておられる。」と指摘されているように医学者ならではの貴重な体験記といえます。
気になるのは表紙に記された「GHQ」の文字と「七七年を経て」です。そのことをこの冊子の後段に付された注意書きで読み解くことができます。もともとこの体験記は「ある雑誌社の切なる依頼に応じて」書かれたものだったのですが、木本さんが後になって「私は自分の原爆体験を戦後まもなく雑誌に書いたが、GHQによって差し止められた」と書かれているように、GHQによって発行が禁止され、結果として75年間封印され、存在する知られることがなかったのです。
その体験記が活字化されるようになったのは、1945年広島、長崎の原爆調査を行った金井清さんの資料を広島原爆資料館に寄贈(2018年11月)するための調査を行っている時にこの体験記が発見されたからです。発見された体験記は、筆写されたもののようですが、筆写された時期が、1945年15・16日と特定されているため、それ以前の被爆から1から2か月前後に書かれた貴重なものであることがわかっているようです。
木本誠二さんの原稿を大切にするため、旧漢字もそのまま使われていますが、難漢字にルビが振られ、原本の邪魔にならないようにと気を使いながらも事実に関する注も付され、理解が深まるようにとの丁寧な編集となっています。
私がお願いのメールを送った工藤さんからのその後のメールによれば、この小冊子の入手希望者が多く増刷されたそうです。
この貴重な被爆体験記の復刊に努力された工藤さんたちも希望されているように「広く末永く読み継がれる」ことを望みます。
いのちとうとし
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