「広島ブログ」

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2023年1月

2023年1月30日 (月)

府中地区・1.27ネバダデー行動

朝起きて見ると私の家でも庭に少し雪がありました。

朝から小雨がやみません。

座り込みをどうしようかと相談した結果、座り込みの場所は濡れているため府中市役所の玄関のひさしの下で20分間のスタンディングに変更となりました。

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参加者は水田、土井市議会議員、府中市職労、社民党のみなさんでした。

終わりに広島県原水禁の常任理事である水田豊市議会議員から「ロシアが核兵器を使うと言っていることからも、唯一の被爆国として戦争終息の調停に回るべき日本は反対に

『台湾有事』などと言って敵基地攻撃など憲法違反の先制攻撃を閣議で決めています。

いまこそ戦争反対の声を上げなければなりません。

その抗議のため中止にせずスタンディングに変えさてもらった。

これからも今まで以上の怒りの抗議を行っていきましょう。」

と挨拶がありました。

小川敏男

【編集者】府中地区でも毎年、「1.27ネバダデー行動」が実施されています。小川さんからの報告が27日に届いていましたが、了解を得て今日掲載します。広島は幸いにして雨が降りませんでしたが、府中では雨の中での行動となったようです。

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2023年1月29日 (日)

「原水爆禁止広島県協議会第92回総会」開催

広島県原水禁は、27日午後6時から自治労会館で「原水爆禁止広島県協議会第92回総会」を開催しました。県原水禁の総会は、毎年この日(1月27日)に開催することにしています。

総会は、高橋克浩代表委員の開会あいさつの後、議長に丸山さん(広教組書記次長)を選出し、スタートしました。続いて、私が3人の代表委員を代表してあいさつ。特に、岸田首相が「核兵器のない世界の実現」と言いながら、安保3文書の改悪による軍事強化の姿勢、核兵器禁止条約締約国会議への不参加、NPT再検討会議に参加しながら「核兵器禁止条約に全く触れなかった」こと、福島原発事故は依然収束していないにもかかわらず原発政策を大転換させたことなど、広島の背を向けた政策をとり続けていることを厳しく批判し、「抑止力論を基にした軍備の増強の行きつくところは核兵器保有に進む危険性がある」と指摘しました。

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福島原発1号機の現在(高橋代表委員の報告資料から)

本部からは、谷事務局長が参加し、あいさつがありました。

その後議事に入り、2022年度活動報告、決算報告、2023年度活動方針、2023年度予算案が、大瀬事務局長から提案され満場一致の拍手で承認されました。運動方針では、特に「①情報発信の強化②運動継承のための原水禁学校の開催③福島の現地の実情を知り、運動を学ぶための「第3回福島現地交流団」の派遣」などを今年度の重点課題として取り組むことになりました。

役員改選では、代表委員に秋葉忠利、金子哲夫、高橋克浩(アイウエオ順)の3名、事務局長に大瀬敬昭、常任理事26名を選出しました。

総会の議事終了後、下記の「G7サミット広島開催にあたっての 広島選出の岸田文雄総理大臣への申し入れ」(秋葉代表委員が原案を作成)が提案され、承認されました。


今年5月に開催されるG7サミットは、貴職の働き掛けによって広島で開催される運びになったことは評価されます。広島選出の総理大臣としてG7サミットを、「ヒロシマ」に込められた被爆者や市民の思い・祈りならびにこれまでの歴史を踏まえて、「ヒロシマ」の意味を世界に広める場にしたいという貴職の強力な意思表示だと受け止めています。

その貴職の思いと、主権者としての私たち市民レベルでの「ヒロシマ」理解に齟齬なきことを期するため、改めて「ヒロシマ」の意味を確認し、「全体の奉仕者」(憲法15)のトップとしての貴職と共有すべくここに申し入れを行います。

⓪ 「ヒロシマ」の意味は、被爆の実相を我がこととして理解し、被爆者のメッセージを謙虚かつ真摯に受け止め、核兵器のない平和な世界を実現することにある。仮初にも、その「ヒロシマ」の意味を蔑ろにしたり、力による支配正当化のための免罪符として利用したりするようなことがあってはならない

① 例えば、長崎以降は核兵器が使われなかった事実は大切だが、それは、『ヒロシマ』の著者、ジョン・ハーシーが1985年に述べたように、被爆者が自らの体験を証言し世界に訴え続けてきたからである。つまり被爆者が「核抑止力」を持つ。それを認めずに、核兵器の所有や使用の脅しが核兵器使用を思い留めさせているという「核抑止論」を容認する口実に使うことは決して許されない。

② 今こそ、被爆者亡き後の世界で核兵器を使わせないために何をすべきなのかを議論するときである。そのためには法的手段である核兵器禁止条約に頼る以外の道はない。

③ その第一歩は、核保有国が「核の先制使用はしない」と宣言することである。核保有三か国の首脳が同時に広島後に集うという歴史的な意味はこの宣言以外にはあり得ない。昨年11月のG20バリ宣言で特筆すべきなのは、貴職を含むすべてのG7メンバーが次のように述べていることだ。「核兵器の使用と核を使用すると脅迫することは許されない。」あらゆる場で、この前提を再確認することが、喫緊の世界的課題の一つ、プーチン大統領による核使用と核使用の脅迫を止めさせるよう他の核保有国が説得する上で、必要不可欠である。

④ 今年没後100年を迎える初の広島出身総理大臣だった加藤友三郎は、ワシントンで軍縮条約をまとめる中心的な役割を果した。当時の軍部を抑えて我が国の軍拡路線を軍縮路線に大転換させ、日米敵対から協調の方向を打ち出しただけでなく、会議には参加していなかった中国やソ連との関係も改善し、世界全体の未来を明るくした。同じく広島出身の総理大臣として、貴職もその故事に倣って、今こそ我が国が日本の軍縮のみならず、G7には参加していない国々も含めた世界の軍縮と協調のためのリーダーシップを発揮する機会として今回のサミットを意義あらしめるべきである。就中、ウクライナ戦争を一日も早く終らせるため、「ヒロシマ」の力と権威に依拠した和平工作を始めるべきである。

以上、「ヒロシマ」の意味を再確認し、G7サミットを「ヒロシマ」の意思実現のための新たな出発点とするため、貴職が断固たる決意の下、世界のリーダーとしての力を余すところなく発揮されんことを期待しています。 


この申し入れ書をどう届けるのかは、事務局を中心に協議し決定することにしました。

その後高橋代表委員による「福島原発見学の報告」学習会が、行われました。

いのちとうとし

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2023年1月28日 (土)

1.27ネバダ・デー座込み行動

1951年1月27日、アメリカは、ネバダで初めての核実験を行いました。ネバダでは、今もアメリカによる核実験が行われています。

1984年、ネバダ核実験場の閉鎖と核被害者の救済を求めて行動していた風下核被害者住民で組織された「シティズンズ・コール」(ジャネットゴードン代表)は、世界の反核運動団体に「ネバダ・デー国際共同行動」を呼びかけました。

その呼びかけに応えて、日本でも共同行動が開始され、広島ではその年の1月27日の昼休みに広島県原水禁が呼びかけて原爆慰霊碑前で座り込み行動を実施しました。

以来、コロナ禍の昨年を除き毎年1月27日を「ネバダ・デー国際共同行動の日」として、慰霊碑前座込み行動を実施しています。

アメリカが新型起爆装置などの核兵器開発のために行っている臨界前核実験は、ネバダ核実験場を使って実施されています。核実験場を閉鎖させることは、新たな核開発をストップさせる大きな意味を持っています。

寒波の襲来した今年も27日の午後0時15分から30分間、慰霊碑前座り込み行動を実施しました。

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最初に私が呼びかけ団体を代表してこの座込みの意義などについてあいさつをし、続いて県被団協箕牧智之理事長があいさつし座込みはスタートしました。

最後に自治労の村主公夫(すぐりきみお)さんが、下記のアピールを読み上げ提案し、全体の拍手で確認し、座込みを終えました。このアピール文は、首相官邸、アメリカ大使館、ロシア大使館に送付します。


「1.27ネバダ・デー」ヒロシマからのアピール

 今日1月27日は、1984年、米国の市民団体の呼びかけで始まった核実験場閉鎖・核実験禁止を求めるネバダ・デー国際共同行動日です。

昨年2月、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まり、今なお終戦・停戦に至らず間もなく1年となります。この間には、プーチン大統領による核兵器の使用・威嚇発言があり、原発や核施設への攻撃も行われました。つい先日もメドベージェフ前大統領が「通常戦争での核保有国の敗北は、核戦争の引き金になり得る」と威嚇するなど、核兵器使用への危機、原発攻撃による放射能被害の可能性が続いています。

一方で、核兵器の廃絶を求めて2017年に国連で採択された「核兵器禁止条約」は、署名国・批准国とも増加し、本年1月9日時点で署名92か国・地域、批准68か国・地域へと拡大を続けています。国際世論が大きく核廃絶へと動き始めていることは確かです。

しかし、当事者である核保有国、そしてアメリカと軍事同盟を結んでいる国やNATO諸国が条約に背を向けています。とりわけ日本は、唯一の戦争被爆国でありながら署名も批准もせず、昨年6月に行われた締約国会議にも、オブザーバー参加すら拒否し、国際社会の中でも大きな批判を浴びています。

この中で5月に開催されるG7広島サミットでは、核兵器の不使用あるいは廃絶への道筋・決意が示されなければなりません。

私たちは改めて、日本政府が被爆地ヒロシマの思いを受け止め、「核兵器禁止条約」に署名・批准に動き、G7広島サミットの議長国として、核兵器の廃絶へリーダーシップを発揮することを強く求めます。そして被爆地ヒロシマの市民として、「核と人類は共存できない」という先達の言葉を心に刻み、全世界に訴えます。

◆ネバダを始めすべての核実験場を閉鎖させよう!

◆核保有国と「核の傘」の下にある国々は、直ちに核兵器禁止条約に参加し、核兵器開発・核実験全面禁止を実現しよう!

◆ロシアによる、核の使用・威嚇は絶対に許さない!

◆東北アジアの非核地帯化と非核三原則の法制化を実現しよう!

◆世界のヒバクシャと連帯し、ヒバクシャの人権を確立しよう!

◆原発の再稼働、新増設に反対し、核に頼らないエネルギーに転換しよう!

 ◆ノーモア ヒロシマ! ノーモア ナガサキ! ノーモア ウォー!

2023年1月27日

「1・27ネバダ・デー」市民行動一同


寒い中でしたが53名の参加がありました。

いのちとうとし

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2023年1月27日 (金)

第28回紙屋町シャレオ古本まつり

毎年1月に開催される(昨年はコロナの影響で延期となり5月に実施)「紙屋町地下街シャレオの古本まつり」が、今年は1月21日からスタートし、明後日29日まで開催されています。

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私は、いつものように初日に行きましたが、今回は、私が重点的に見て歩く郷土史関係のコーナーの棚がずいぶん小さくなっていました。ちょっと期待外れです。

初日には、買いたいなと思う本を見つけることができませんでしたが、24日に改めて足を運び、今度はすべての棚をゆっくりと見て回りました。

1冊だけ見つかりました。本のタイトルは「わが国の軍備縮小に身命を捧げた 加藤友三郎」で、著者は田辺良平となっています。この本は、2004年(平成16年)に発行された新しい本ですが、初めて目にしました。

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加藤友三郎については、1月4日のブログ加藤友三郎生誕地碑: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)を書いた時から、もう少し詳しく知りたいと思っていましたので、すぐに手に取りました。

この本は、発行時の定価は「1000円」とですが、裏表紙裏に貼られた値札には「1500円」と書かれています。少し高いかなとも思ったのですが、加藤友三郎の名前は、秋葉さんの話の中によく登場しますので、ずっと気になっていましたので、これも巡り会わせと思い、購入することにしました。今回はこの一冊のみです。

棚から引き出して本文の「はじめに」を読むと、著者は、どうも私たちの運動には批判的な立場のようですが、生い立ちを含め、かなり詳しく加藤友三郎のことが書かれているようですので、全体を読むのが楽しみです。

この本の中には、加藤友三郎の生涯を記した「豊田穣著『蒼茫の海』」の一部が引用されていますので、この本も読んでみようとこちらは図書館で借りることにしました。

「本も整理し、少しずつ減らさなければ」と思っていますが、珍しい本があるとついつい手にしてしまい、蔵書を減らすということは、なかなか難しいことです。

いのちとうとし

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2023年1月26日 (木)

ミャンマー(ビルマ)の今を知る写真展―ミャンマーを忘れないで

ミャンマーを支援する会主催の「ミャンマー(ビルマ)の今を知る写真展―ミャンマーを忘れないで」が、30日午後9時までの日程で、袋町の「まちづくり市民交流プラザ エントランス展示スペース」(南棟1階)で開催されています。

私も写真展が開始された24日の午後3時ころに、NHKが取材している会場を訪れました。

2021年2月1日のミャンマー軍による軍事クーデターから間もなく2年がたちます。ミャンマーでは、軍事クーデターに抗議し、民主化を求める市民は民主主義を取り戻そうと不服従の抵抗を続けています。しかし、ミャンマー国内では、その方向とはま反対の事態が続いています。軍による市民への暴行・不当逮捕はやりたい放題、そして今や内戦状況になっています。

今回の写真展は、いま起きている軍による弾圧の現実と、命がけで戦っているミャンマー市民の様子を広く知ってもらいたいとの思いで企画されたものです。

会場には、「①これまでの経過②現在起きていること③ビルマ難民キャンプ教育支援④軍事クーデターが起きるまでのミャンマー」などの様子がわかる約120枚の写真などが展示されています。

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NHKの取材を終えたアウン・チーミィンさん(広島市立大学留学生)が、私にもいろいろと説明をしてくれました。

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上の写真は、アウンさんの生まれ故郷・マグウェ地方で昨年末に軍によって集落が破壊された様子を写した写真です。上段の2枚は、アウンさんのいとこの家が壊された写真です。この写真では見にくいのですが、左側が攻撃されるまでのいとこの家、右側は軍によって破壊され、瓦礫の山となった家があった場所です。ここに掲示されている6枚は、いとこから送られてきたものですが、この集落だけでも30軒の家が破壊されたそうです。

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「PDF(国民防衛隊)」とタイトルの付けられたこれらの写真には、非暴力の抵抗運動を続けていた市民が、国民防衛隊を組織し、抵抗している様子が映っています。この写真は、PDFに参加しているアウンさんの友人から送られてきたものです。

8枚ある写真の真ん中にミャンマーの地図が描かれた一枚がありますので、それを拡大しました。

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アウンさんによれば、この地図は軍によって燃やされた家の数を地域ごとに示したものです。数字は、ミャンマー語で表示されているのでわかりにくいのですが、アウンさんの解説によれば、ミャンマーの地図の左側一番上の「サクイン」という地域が燃やされた家が一番多く27,496の数字が書かれています。アウンサンの生まれ故郷「マグウェ」は、「サクイン」の南側に隣接していますが、7,818の数字が書かれています。

地図で白くなっている部分のうち、真ん中は首都のネービードーで、左下は、旧首都のヤンゴン周辺です。ミャンマーは、135ともいわれる民族がすんでいますので、少数民族が住む地域での破壊が続いていることが想像できます。

今では、マスコミもほとんど取り上げることのないミャンマーでいま起きている事実を知り、私たちに何ができるかを考えさせてくれる写真展です。ぜひ多くの人に訪れてほしいと思います。

いのちとうとし

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2023年1月25日 (水)

忘れてはならないテニアン島

平和公園やその周辺の碑めぐり案内をする時、必ず行くところに爆心地跡があります。島病院のところです。

太平洋マリアナ諸島の中に在るテニアン島、太平洋戦争末期の米軍基地として原子爆弾リトルボーイを搭載したB29エノラゲイ号が出撃したところと説明をする場所です。僕の頭の中でのテニアンの歴史は、エノラゲイ号が出撃した1945年8月6日の早朝からでした。

吉永直登(よしなが なおと)さんの著書「テニアン-太平洋から日本を見つめ続ける島」を読みました。これを読んで、自らの無知をとっても恥ずかしく思うとともに、テニアンの歴史の悲しさに打ちのめされた気持ちになりました。

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マリアナ諸島に人が定住生活を始めたのは、遺跡調査などで今から3500年前頃だそうです。テニアンは日本の委任統治下にあって、日本人が住みついたのは明治時代頃だと言われてます。最初は移民県であった沖縄の人たちが多かったのようです。

昭和初期、沖縄からテニアンに隣りの島サイパンへの直行船便が開設され、1週間程度で行けたそうです。しかし便数も少なく、多くの人は本土経由のルートを使いました。テニアン元在住者の思い出によると、テニアンへの行き方を次のように書いています。

「奄美諸島を経由して鹿児島まで船で2泊3日、鹿児島で旅館に2泊ぐらいした後、鹿児島から福岡県門司市まで汽車で向かった。船の出発待ちで3泊した後、門司港から船に乗り、神戸経由で横浜に着いた。横浜で2,3泊し、サイパンに向け出港した」という工程を書いているのです。直行船便の倍以上の日時を使って行ってるのです。

これだけの行程を使いながらテニアンに着いた人たち、そこで従事した仕事はサトウキビの栽培だったそうです。しかし最初の頃の移民者の仕事は、広大なジャングルの開墾、整備作業という重労働から始まったのです。

やがて1929(昭和4)年以降、テニアンの海岸通りには学校や公共機関を建ち始めたのです。これらの建物が建ち並ぶ通りは、その後「スズラン通り」と名付けられ、菓子屋、時計屋、自転車屋、床屋、歯医者…などが建ち並んだのです。

終戦の2年前の1943年には人口が6101人に膨らんだとされています。もちろん沖縄の人だけでなく、「本土側」からの人も加わり、熱帯の島に突然現れた「日本の地方小都市」に発展したと書かれています。

そして1941年12月から始まった太平洋戦争、平和だったテニアンが戦争開始から約2年後過ぎから、米軍の総攻撃を受けたのです。その時の様子について元海軍兵士だった人は次のように書いています。

「ジャングルに飛び込んで私は目をみはった。おびただしい死骸が打ちすてられたようにころがり、腐って、ハエとウジが群がりついている。かなたの木陰に、こなたの岩陰にと、うつろな目をした女が腰かけ、老人がうずくまり、子どもが寄りかかっている」と。多くの人が岬から海に飛び込むなどして、自らが死を選んだのです。

1944年8月1日、テニアンは米軍に占領され島には星条旗が掲げられ、それから急ピッチで基地として様変わりの道を歩むことになったのです。それにしても、逆算すれば戦争そのものが終了する1年以上前にテニアンの日本人の歴史は終えたのですが、日本政府はそれを知っているのでしょうが、まさに「見て見ぬふり」で、本土側では「頑張ってる 頑張ってる」の嘘宣伝を繰り返しているようで、そのことがどうしても許せないのです。

そして米本土から極秘裏に原子爆弾が輸送され、ヒロシマ・ナガサキとなったのです。

「あの戦争さえなければ」

「貧しかったが、楽しかった」

テニアンの「はじめに」に書かれている言葉です。

今やテニアンは、サイパンやグアムと並び日本から容易に行ける観光リゾート地となっていますが、忘れてはならない悲劇の歴史でもありますね。

吉永直登さん著「テニアン 太平洋から日本を見つめ続ける島(出版社 あけび書房」、是非とも読んでいただきたいと思います。

木原省治

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2023年1月24日 (火)

三原地区の「19日行動」と広島の「1.23街宣」

昨日召集された「第211回通常国会」に向け行われた三原地区の「19日行動」と広島で行われた「1.23街宣」の報告です。

三原地区の活動は、いつものように藤本講治さんから届きました。

【三原地区】

平和で安心して暮らせる社会の実現を求めて、2023年最初の「19日行動」を1月21日(土)、13時30分から三原駅前におい18人が参加して実施しました。街頭行動の始めに、戦争をさせない三原市民行動共同代表の三原地区労働センター森光議長が「いま国内外で平和が脅かされている時だけに、一人でも多くの人に平和について考えていただき、行動を一緒にしてもらおうと呼びかけていくため今年もがんばって行きましょう」とあいさつを行いました。 その後、6人が憲法をないがしろにし、専守防衛をないがしろにする岸田政権の安全保障政策について、「1月23日から通常国会が始まる。この国会では防衛費増額などの予算案が審議される。国民生活を無視した軍備増強に反対の声を上げていこう」と訴えました。

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スピーチで岡崎敏彦さんは、ロシア・ウクライナ戦争について考えなければならないことを述べました。「報道によればウクライナへドイツの最新鋭の強力な戦車を供与することが準備されている。ゼレンスキー大統領は、『ロシアに対抗しないと我々は生き残れない。正義を守るためには負けられない。今もっとも必要なものは戦車だ。』と強く訴えています。一方、アメリカの軍部最高指導者は、『今のやり方ではウクライナから今年中にロシア軍との戦争を止めさせることはできない。最後は平和的な外交で解決していかなければならない。』とも言っている」と指摘し、「世界から戦争を無くすためには平和的外交以外にない。その原点は、私たちがあの忌まわしい戦争を経験し、誕生したすばらしい日本国憲法だ。残念ながら今、その日本国憲法が傷つけられているが、もう一度私たちが磨いて、我々が元気に人間らしく生きていくためにはこの憲法が武器にしなければならない。このことを大切にして、今の憲法を変えていこうとする動きに対抗していかなければならない。」と訴えました。

今年最初の19日行動は、三原駅員・三原警察署員に1時間にわたって囲まれ、「この場所での行動は止めなさい!」という異様な空気の中での街宣活動となりましたが、憲法に保障された権利(憲法21条=表現の自由)を行使するべく最後まで街頭行動をやり切りました。

藤本講治

【広島地区】

「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」は、国会召集日の23日午後5時30分から45分間、本通電停前で街頭からのスピーチ行動を行いました。

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アピールでは、「軍事費倍増ではなく、①子育て・保育にもっと予算を②貧困者への生活支援の重視を③軍事費を生活、学費などに使えばどれだけ豊かになるか」などを4人の弁士が訴えました。私もマイクを握り、「今国会はどう論議されるべきか」のテーマで次のように話しました。

「昨年12月の臨時国会閉会後の岸田首相の様々な政策決定は、全く国民の声を無視したものでした。それは国会そのものを無視したものでもあります。

日本国憲法は、国会、内閣、裁判所の三つの独立した機関が相互に抑制し合い、バランスを保つことを求め、権力の乱用を防ぎ国民の権利と自由を保障する三権分立の原則を定めています。「法律をつくり、廃止することができる」のは国会だけであり、内閣の役割は「国会で承認された予算や法律に基づいて行政を進める」だけであるにもかかわらず、特に安倍政権以降、この原則がないがしろにされ、内閣が国会の上位にあるかのごとき政治が続いています。その流れは、岸田政権にも引き継がれています。こうした岸田首相の政治手法は絶対に許されません。

今国会に一番求められているのは、日本国憲法に基づき、国会が国会としての役割をしっかりと果たすことです。そのためには、それぞれの問題点に真摯に向き合い、質問には正面から答え論議を深めることです。それは与野党を問わず、すべての国会議員の責任です。そのためにも、国会の論戦に市民がもっともっと注目することが大切です。」

参加者は、51名でした。

いのちとうとし

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2023年1月23日 (月)

核兵器禁止条約発効2周年キャンドルメッセージ

核兵器禁止条約が発効して2周年となる昨日(22日)原爆ドームまで、HANWA(核兵器廃絶を求めるヒロシマの会)の呼びかけでキャンドルアピールが行われました。

午後4時半から、1500個のキャンドルが、呼びかけに応じた参加者によって、ガムテープによって描かれた文字上に並べられました。

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その後点灯作業が行われ、午後5時50分には、全てのロウソクに明かりがともり、「PEACE FOR UKRAINE ! NO NUKE WAR ! 2023」の文字が浮かび上がりました。

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灯ったキャンドルを前にして、最初に森滝春子顧問が、今回のキャンドルサービスの意義について訴え、続いて足立修一代表が、下記の「核兵器禁止条約発効2年にあたっての声明」を読み上げられました。


本日(2023年1月22日)は、核兵器禁止条約(TPNW)が発効して2年となる。現在、92か国が署名し、68か国が批准している。

 2022年2月、ロシアがウクライナに侵略し、核兵器を使用する旨の威嚇を行うなど、現在、核戦争の危機に直面している状況にある。しかし、広島の被爆者と市民は、決して核兵器を使用してはならないこと、核戦争に勝者はなく、地球の破滅をもたらす結末となること、今も続く戦火により多くの無辜の人々が殺されていることを一刻も早く終わらせ、停戦・終戦することを訴える。

 77年前、広島市はアメリカ軍の核兵器の爆撃により壊滅させられた。日本人だけではなく植民地支配していた朝鮮半島・台湾出身者、強制連行された中国人、アメリカ人捕虜や、国策により東南アジア諸国や中国から日本に留学した人たちも無差別に被爆させられ、また、死亡させられた。また、原爆の爆裂による直接の威力(熱線・爆風・初期放射線)だけでなく、残留放射線による被爆は爆撃後広島市内に入った人にも及び、放射性降下物による被爆は爆心地から30キロを超える地域にまでも及んだ。戦争が終わった後、広島での死亡者は1945年末までで約14万人と推定され、現在に至るまで白血病やガンにより多くの被爆者が死亡させられてきている。また、3日後に爆撃された長崎市も同様な原爆の爆撃を受け、同様の状態になっている。

 昨年6月、核兵器禁止条約の第1回締約国会議が開催され、ウィーン宣言が採択された。核兵器禁止条約の普遍化と核被害者の援護などが課題となっている。本年11月に開催される第2回締約国会議で、議論が深まることを期待したい。

 昨年8月、核不拡散条約(NPT)再検討会議が開催されたが、最終文書の採択に至らなかった。同条約6条の核軍縮義務を履行し完結する(=核兵器を廃絶する)ことは、2000年、2010年の最終文書で確認されているにもかかわらず、一歩も前進しなかったことは極めて残念な事態である。核兵器保有国がNPTを補完するTPNWの署名・批准に背を向ける態度を取ることは許されない。

 私たちは、核兵器保有国が安全保障を理由に核兵器の廃絶を先延ばしすることに抗し、日本政府に核兵器禁止条約へ速やかに署名・批准することを求めるとともに、核の廃絶を求める世界中の核被害者とつながって核なき世界をめざしていきたい。


昨年は、コロナ過ということもあり、昼間の時間にごく少人数での横断幕を掲げてのアピールとなりましたが、今年は人数を少なくしたものの核兵器禁止条約発効の年2021年と同様に、キャンドルによって「ウクライナに平和を 核戦争を許すな︕」のメッセージを発信しました。参加者は、約50人でした。

いのちとうとし

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2023年1月22日 (日)

ベトナムの歴史(その20) 抗仏闘争-3の5

ベトナム人餓死の一方、進駐日本軍には大量の米

下表は2019年94日の「ヒロシマとベトナム」(その4)で紹介しましたが、1941年度から1944年度までにベトナムから三井物産を通して日本に送られた米の量の統計です。

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その4)の一節を以下、再掲します。

――日本からの「要求目標量」と輸送権を独占した三井物産の「買付実績量」、そして『日本に送られた量』を表しています。注目すべきは1944年度です。凶作で「買取実績」は目標の55%余りですが、制海権も制空権もなく輸送自体ができない状況のもと、日本に送られた量はその7.7%に過ぎません。すなわち、凶作で飢饉に苦しむベトナム人から「強制的に買い取った」米の92%余りは残っています。現地軍のための調達米は含まれていませんので、飢饉で餓死しているベトナムの人々の前には実に大量の米があったということです。なぜ?米を配給(返す)しなかったのか!問うだけ、むなしいのかも知れません。それが侵略であり、戦争なのだと思います。――

軍事物資生産のための転作の強要

第二は、日本の軍事的需要のために綿やジュート、落花生、ヒマ、胡麻など繊維性・油性植物の栽培を強制し、米や雑穀など食糧生産を減らしたことです。綿は主に兵隊の衣類だと思います。ジュート、ご存知ですか? 私たちが子どもの頃「どんごろす」と呼んだ麻袋や麻縄に使用される繊維で、アオイ科ツナソ属の植物です。

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(「ジュート~地球に優しい素材」JUNKADO(株)Blogより

落花生と胡麻は植物油の原料ですが、ヒマ(蓖麻)は東アフリカ原産のトウダイグサ目トウダイグサ科トウゴマ属で温帯地域では一年草、熱帯地方では多年草の植物です。毒性を持つ種子を絞ると、私たちも知っている下痢止めのヒマシ油(蓖麻子)になります。

ヒマ(蓖麻)に関する資料(下の写真)を見つけました。

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「平和のいしずえ2006」に展示された戦時中のポスター、「荒鷲のために 蓖麻を栽培しよう」というものです。「蓖麻がなければ飛べません」と書かれていたのでヒマについて調べると、「優れた性状と潤滑性から初期の航空機用エンジンの潤滑油としても使用されていたが、航空機エンジンの高出力化と熱と酸化への安定性の不足から第二次世界大戦の頃には鉱油系が主力となった。」(ウィキペディア)とありました。

特攻を志願した予科練兵だった父から「敗戦直前、鳥取県内の松根油採取場を巡回していた」と聞いたことを思い起こしました。様々な思いが湧きますがまたの機会にします。

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(テーマ展「平和のいしずえ2006」より)

いずれにしても、これらの軍事物資を生産するために必要な植物の栽培をベトナムの農民に強いたのです。「南のウクライナ」と呼ばれていた東南アジアの中でも肥沃な穀倉地帯を持つベトナムは米をはじめ穀物類を生産していましたが、日本軍進駐によって一変します。進駐前には5000㌶しかなかった綿やジュート、落花生、ヒマ、胡麻などの栽培面積は、1944年には4万5000㌶まで拡大します。

こうした転作の強制によって非常時に大きな役割を果たす穀物類の生産は大幅に減少した結果、甚大な飢饉被害が生じたのです。

ベトナム南部から北部への米輸送の減少

第三はベトナム南部から北部への米輸送の減少です。通常でも食糧生産の低い北部地域には肥沃な南部メコンデルタ地帯から北部地域に米が送られていました。しかし、日本軍の南方進出の拠点と化したベトナムに対するアメリカ軍の爆撃は激しくなったことと、日本の軍事的需要を満たすために日仏とも米の買付を最優先したため、南部から北部に向けた民生用の米の輸送が激減しました。

これら第一から第三の要因の結果、19451月頃から餓死者が出始め、その被害規模は短期間に深刻化し、200万人にも及ぶ餓死者を出すという大惨事に至ったのです。

「日仏共同支配」という支配形態をとっていたとは言え、その主たる責任は日本にあります。

数度にわたり日本軍の仏印進駐とそれがもたらした「200万人餓死」という未曾有の惨禍を見てきました。あらためて、「西欧列強からのアジア解放」という日本が掲げた大義名分が、実は「皇国ノ必要トスル重要物資ハ可及的ニ大東亜圏内ニテ確保シ、・・・皇国必須ノ重要物資ヲ優先的ニ皇国ニ輸出ヲナサシムル・・・・」という、アジア諸国を侵略・支配し、略奪を欲しいままにする帝国主義的な本質を隠蔽する以外何物でもなかったことを強く感じました。

次号では日本軍の仏印進駐期におけるベトナム解放(抗仏・抗日)闘争を見て行きたいと思います。

(2023年1月21日、あかたつ)

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2023年1月21日 (土)

府中地区の1月の「19日行動」 リレートークとスタンディング

今年最初の府中地区の「19日行動」は、上下地区は午後3時からAコープ前で6名の参加、府中地区は午後430分から府中天満屋店前で8名が参加し実施しました。参加者はなかなか増えませんが神石高原町から新たな方が参加してくれました。

リレートークでの発言で新しい参加者のAさんは

「私の祖父は上下町から出征した。43歳で陸軍に徴兵され、広島市で甲神(こうじん=甲奴と神石でこうじん)部隊の一員として建物疎開を行っていた。建物疎開とは兵隊が建物の柱を切って学生などがロープでひっぱって倒す作業らしい。練兵場で被爆し、三次まで帰って死亡した。死体は馬洗川の河川敷で焼かれ骨も返ってこなかった。」と切々と話されました。

Bさんは、

「タレントのタモリさんが、黒柳徹子さんの徹子の部屋で、『今年はどうなりますか』と聞かれ、『新しい戦前になるんじゃないでしょうか』と答えていた。そうならないため、みんなが声を出さなくてはいけない」と訴えました。

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Cさんは、

「中国新聞は1月3日と4日に広島出身で初の内閣総理大臣であった加藤友三郎を取り上げました。見出しは『加藤友三郎没後100年』、『軍拡より協調(外交) 今こそ光を』でした。新聞では、加藤友三郎総理大臣は、第1次世界大戦の後、難しい世界の情勢から『どこの国とも仲良くする協調外交を掲げ、軍事費を削減した』とあります。」と紹介しながら、さらに『歳出の半分を占めた軍事費を削って民生や教育、産業振興に振り向けた結果。設立が難航していた旧制広島高校の実現も。加藤友三郎総理大臣のおかげと広島で称賛されてきた』とあります。同じ新聞で広島出身の総理大臣の岸田首相が『協調外交より軍拡』を進めていると批判していることがわかります。

ロシアのウクライナ侵略からも戦争を止める方向を国民みんなが求めています。それなのに岸田首相は、『敵基地攻撃』や『武器輸出の解禁』『防衛費をGDP2%に増額する』と決めています。

岸田首相には同じ広島出身の総理大臣加藤友三郎を見習って、『どこの国とも仲良くする協調外交』と、軍事費を削減して国民の生活が豊かになることに予算は使うことを求めます。岸田首相は広島県民の平和を求める声に耳を傾けてほしい」と訴えました。

最後にまとめが行われ、一人ひとり感想を出し合って、今年もあきらめずに粘り強く取り組む決意を固めました。また2月5日(日)午後1時30分から尾道市立中央図書館で行われる「祝島島民の会裁判応援集会の取り組み」への参加要請もありました。

小川敏男

【編集者】小川さんから、今年も府中の活動報告が届きましたので、あかたつさんの「ベトナムの歴史 坑仏闘争3―5」は、明日に変更して掲載します。

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2023年1月20日 (金)

ベトナムの歴史(その19-2) 抗仏闘争-3の4

「プロパガンダ説」を覆した日越合同調査

下の表は1992年~95年にかけて行われた日越共同調査によるもので、『ベトナムの1945年飢饉 歴史的証拠』(1995年、ベトナム歴史研究所)の資料です。現時点で被害をかなり正確に特定できる資料です。その下の地図は調査された23ヶ村をプロットしたもので筆者が作成しました。

私は専務理事を務める一般社団法人 広島ベトナム平和友好協会(HVPF)が、2009年以来交流を続けているクアンチ省以北が調査対象です。

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最も餓死者率の高いのは524人の村人のうち382人が餓死したクアンイエン省のブイサー村の73.9%、23ヶ村全体では26,149人のうち7,361人が餓死、餓死者率は28.15%です。分析にあたったベトナム歴史研究所のVan Tao氏は、餓死者数を197万人と推計しています。

正確な餓死者数は特定できないにしろ、このかなり精緻な推計によって、「加害者側」からの不毛で悪意に満ちた「200万人餓死」の「プロパガンダ説」は終わったはずです。

しかし、「素朴な疑問がある。日本軍がベトナムを支配したのは昭和20年3月、クーデターを起こして仏植民地軍を追っ払ってから終戦までの5ヶ月間。どうやればそんな短期間に200万人を餓死させられたのか」などの主張も後を絶ちません。

200万人もの餓死者が出た原因ですが、「1944年秋から1945年春にかけた天候不順による不作」とする主張がありますが、主要な原因は日本軍進駐に伴う日仏共同支配によるものです。

武力を背景にした米の強制的な供出(買付制度)

その第一が「米の強制買付制度」です。

12月20日号(その18)で、〔天皇の治める国が必要としている重要物資を最優先に日本に送れ、・・・・さしあたり仏印に対し米、石炭、燐灰石、マンガン・・・・珪砂等を要求すること〕という1940年93日の閣議決定「対仏印支経済発展ノ為ノ施策」を紹介しました。

この方針に基づき実施されたのが「米の買付制度」です。米を市場価格の2分の1程度という極めて安価で強制的に供出させました。1942年の買付価格は60kg当たり1191銭、1943年には同139銭、1944年には同1428銭と記録されています。※なお、米の重量単位は現地の〔ピクル〕をkgに、通貨単位は現地の〔仏印ピアストル〕を194112月の日本の公定為替相場に基づき円に筆者が換算しました。

決済は一年据え置きで「特別円」とされ、さらに「戦争終結後に返済する」との条件でインドシナ銀行に立替えさせました。立替のためインドシナ銀行はピアストル紙幣を乱発。結果、インフレが襲います。44年には米の市場価格は788銭まで高騰しましたが、買付価格は前述の通り1428銭に据え置かれたままでした。45年には市場価格は42年の70倍近くまで跳ね上がったと言われています。

こうした結果が1945年の「200万人餓死」なのです。

(2023年1月20日、あかたつ)

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2023年1月19日 (木)

ベトナムの歴史(その19) 抗仏闘争-3の3

日本軍の仏印進駐と「200万人餓死」

1940年9月22日の日本軍の北部仏印進駐に続く翌41年7月28日の南部仏印進駐によって始まったフランス領ベトナムでの「日仏共同支配」は、1945年3月9日に日本軍が武力でフランス軍を排除した「仏印武力処理」までの4年半続きます。その後、815日の日本の敗戦までの5ヶ月間は日本が単独支配します。

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(日本軍の「仏印進駐」)

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(1945年3月9日、「仏印武力処理」でフランス軍をベトナムから排除)

その1944年秋から1945年春にかけて200万人と言われる餓死者が出ます。そのことに初めて言及したホー・チ・ミンは194592日の「独立宣言」で、「1940年の秋、連合国に対抗する拠点を更に築くため、日本のファシストがインドシナを侵略し、フランス帝国主義者らは跪いて日本に私たちの国を明け渡し ました。そのときから、私たち民族はフランスと日本という二重の枷をかけられたのです。そのときから、私たち民族は、日増しに困窮し、貧困にあえぎまし た。その結果、ついに昨年末から今年の初め、クアンチから北部にかけて、200万人の同胞が餓死しました。」と述べています。

しかし、「『200万人餓死説』はベトナム共産党のプロパガンダだ」、「天候不順による凶作飢饉で餓死は出たが、数万人程度」などと主張する人がいます。

日仏共同支配から日本軍のクーデターによる単独支配、そして日本敗戦という激動期だったため記録や実態把握が乏しく、その後もベトナム民主共和国建国と第一次インドシナ戦争(抗仏戦争)に続くベトナム戦争で十分な実態調査が不可能で、正確な人数を特定することができなかったことは事実です。

ホー・チ・ミンの「独立宣言」以外で餓死者数に言及したのは1950年代に日本との賠償交渉で南ベトナム政府が「100万人程度」、日本政府の「30万人」という見解です。

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ベトナム人写真家のVõ An Ninh(1907~2009年)によって撮影

「南京虐殺」もそうですが、犠牲者数をめぐる論争が後を絶ちません。その殆どが加害者の側、日本側からの主張です。犠牲者一人ひとり唯一無二の命であり、その人たちには家族をはじめ連なる大切な人があったはずです。犠牲者の正確な人数を把握することは、その一人ひとりに思いを馳せ、それまでの生きた証しと、理不尽に命を奪われた様を確認すること。そのことを通して〔再びこうした事態を起こさない〕、〔起こさせない〕という誓いとすることだと思います。

しかし、日本側から出される主張の多くは加害者としての反省も、犠牲者に対する謝罪も、過ちを繰り返さない(繰り返させない)という将来への誓いもありません。

(2023年1月19日、あかたつ)

【編集者】「ベトナムの歴史」は、毎月20日に掲載していましたが、今月は、2回分が送られてきましたが、編集の都合上今日から3回に分けて掲載します。

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2023年1月18日 (水)

黒木秀尚著「医療は政治―地域医療を守る広島・府中市草の根住民運動の全記録」

15日のブログ「岩国基地の拡張・強化に反対する広島県住民の会」17周年記念講演会: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した講演会が開催された同時刻に弁護士会館ではもう一つ大切な学習会が開催されていました。それは、「『医療を受ける権利の基本法』 制定を目指して」と題した広島弁護士会主催の公開学習会です。

講師は、府中市上下町にある黒木整形外科院長で地域医療を守る会顧問の黒木秀尚さんです。黒木先生と知り合ったのは、上下町を中心とした地域住民が2008年(平成20年)に府中北市民病院を縮小・統廃合問題が起こった時に協議・学習を通じて唯一の病院を守るために作られた「地域医療を守る会」の活動に私も何度か参加したことが契機でした。黒木先生の学習会にも参加したかったのですが、基地問題講演会には、講師として金子豊貴男さんが遠く神奈川から来られるということで、17周年記念講演会を優先することにしました。

黒木先生には、会えないと思っていましたが、ほぼ同時刻に両方の集いが終了したこともあり、偶然にも弁護士会階の1階で出会い、あいさつすることができました。

その時にいただいたのが「医療は政治―地域医療を守る広島・府中市草の根住民運動の全記録」です。

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2008年以降の「地域医療を守る会」の草の根住民運動の全ての記録が綴られたA4判467ページの大部です。黒木先生がまとめられ、自費出版されたものです。

この本の「はじめに」で次のように指摘されています。

「新型コロナウイルス感染症や地球温暖化・異常気象による大災害、そして南海トラフなどの大地震の発生が予想される中、あなたの住んでいるまちで多くの地域住民が頼りにしている地域の公立病院(自治体病院)が、統廃合されて肝心な時に機能不全に陥っていたらどうでしょうか。『命を守る病院』公立病院が、突然、救急車で1時間以上もかかる遠くの病院に行政主導で再編統廃合され、機能も規模も地域の実情に合わない高齢者慢性期医療に特化した『命を終える病院』に縮小・リストラされたり、診療所になったところもあります。こうした事態が、全国特に平成の大合併後に各地で発生しています。」

政治主導で強行されている公立病院の再編統廃合に対し、どうしたら自分たちの命と健康を守ることができるのか、その解決の糸口を知ってほしいとの思いで13年間続けられた上下の地域住民を中心にした地域医療を守るための草の根住民運動の体験が、この運動を支え続けてこられた黒木先生の手によって10年以上の時間をかけてまとめられたのが、この本です。

そして「おわりに」でこう厳しく指摘されています。「日本の医療は、政治に従属させられ、コロナ禍で判明したように高齢者や、基礎疾患を持つ弱者が死に追いやられる『命の効率化』が発生しています。日本には患者の医療を受ける権利と医療従事者の権利を擁護する『医療基本法』の法制化が必要です。そして、これは医学の問題ではなく、医療制度、医療体制の問題、すなわち政治の問題です。猶予はありません。一刻も早く今の経済第一主義の新自由主義体制を改め、人の命、社会保障を第一とする政治に転換しなければなりません。」

私たちの運動の課題も提起されています。

「新自由主義が医療を壊す!」帯に書かれた言葉が、鋭く突き刺さります。

いのちとうとし

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2023年1月17日 (火)

今年最初の原水禁常任理事会

今年最初となる広島県原水禁常任理事会が、昨日午後6時から自治労会館で開催されました。

司会は私が勤め、最初に秋葉代表委員が、「ちょうど100年前、広島初の総理大臣加藤友三郎がなくなった。加藤友三郎は、ワシントン軍縮会議に参加し、日本の軍拡政策を軍縮政策へと転換させた。同じ広島出身の岸田首相は、軍拡政策へと大きく転換させた。広島にとっては由々しきこと。米国にいた時、広島の歴史を考えるとき、なぜ86日から始まるのかと問われた。どこからスタートするのは、非常に重要。G7にどう対応するのか。しっかりと考えよう。そしてヒロシマの運動の核となるよう頑張ろう。」とあいさつし会議はスタートしました。

続いて大瀬事務局長が、昨年11月22日以降の活動(原爆ドーム世界遺産登録記念集会、12.8不戦の誓いヒロシマ集会、福島原発見学など)について報告しました。経過報告に続いて、協議事項が提案されました。

最初の議題は、5月に広島で開催される「G7サミット」に向けての対応についてでした。様々な議論を経て、広島県原水禁として、G7で「核兵器を使わない、使わせない」という明確なメッセージが出されるように首相、広島県知事、広島市長申し入れを行うことを確認し、代表委員に案文は一任し、その案文を総会で承認した後申し入れることを確認しました。

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1月1日の原爆ドーム

続いて、1月27日に開催する「原水爆禁止広島県協議会第92回総会」に提案する議案の協議です。今年度の活動方針としては、従来の運動を強化しながら、組織強化を意識的に取り組むため「①特に若い世代への継承を意識した取り組みや各地区の原水禁運動強化のための個人会員の拡大②原水禁学校の開催③ホームページ、SNSの強化」をあげています。また、「ヒバクシャの権利確立のとりくみ」として、特に2月7日に判決日を迎える「被爆二世裁判」への支援強化をあげています。

活動方針の最終案は、各常任理事が今週中に意見を提出し、それをまとめて総会に提案することが確認されました。

その他に、毎年実施している「1.27ネバダデー」の取り組みなど当面する行動日程を確認し、最後の高橋代表委員から、福島原発視察報告が行われ、常任理事会は終了しました。

高橋代表委員の福島原発視察報告は、総会の時にも学習会として行います。

いのちとうとし

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2023年1月16日 (月)

もうひとつの「8.6」を知っていますか

「もうひとつの『8.6』を知っていますか」は、「ひと・まちプラザ」1階ロビー展示コーナーで14日から始まり、23日まで開催されている写真展のタイトルです。

チラシの「8.6」の文字を見た時、最初は「沖縄の被爆者の問題かな」と思ったのですが、「沖縄伊江島 米軍輸送船爆発事件」のタイトルが大きく書かれていますので、広島の原爆投下とは全く関係ないことに気づきました。

事件は、沖縄の伊江島で1948年8月6日の17時28分に起こった米軍弾薬輸送船LCT積載の爆弾125トンが爆発した事故のことです。死者107名、重軽症者70名を出した戦後最大の米軍事故です。LCTとは、戦車揚陸艦(Landing Craft Tamk)で、戦闘時の上陸用舟艇で複数の戦車輸送に用いられた軍用艇の一種ですが、歩兵団、弾薬輸送などの輸送にも多く使われています。

この事件は、米軍が、沖縄戦時の不発弾や未使用爆弾を船に積み込み、島外に運び出す作業をしていた際に、荷崩れを起こし弾薬が爆発したという事故ですが、夕方5時過ぎに起きたため、ちょうどその時間帯に地元の連絡船が入港して波止場が出迎えなど多くの人でごった返していたこともあり、死者107人のうち伊江村民63人、沖縄本島島民31人、米軍関係者13人と、多数の民間人が巻き込まれ犠牲になりました。

チラシによれば、大事故であったにもかかわらず、報道はたった7行で済まされ、関係資料は60年後に初めて公開されたそうです。

写真展は、1948年8月6日に起こった最大の爆発事件の詳細を広島に伝えるため当時の様子を伝える約40枚の写真などが掲示されています。

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この写真展の主催者、「広島と沖縄をむすぶドゥシグヮー」ですが、「伊江島米軍LCT爆発事件8.6の会」(以下「8.6の会」)の共催によって実現したものです。共催団体の「伊8.6の会」は、「なぜ彼らは甚大な被害を受けなければならなかったのかを時を超えて問い続け、この悲惨な事故を記録に残し、未来永劫に語り継がれるよう」にと2016年に結成された組織です。その後体験者などからの聞き取り調査を行い、2021年には、記録誌「伊江島の記憶と記録 時を超えて伝えよう 伊江島米軍爆弾輸送船LCT爆発事件」を発刊しています。

写真展2日目の昨日(15日)午後1時から5時までの日程で「あの日の記憶をもとに:8月6日を語る」と題したお話とシンポジウムが開催されました。

このシンポジウムには、伊江島から「8.6の会」の会員が来広されていましたので、ぜひ参加したかったのですが、午後2時からどうしても参加しなければならない別の行事があったため、残念ながら参加できませんでした。「8.6の会」事務局長の長嶺福信さんは、写真展会期中、会場で解説をされるそうですので、きちんと時間をとって話を聞きたいと思っています。

伊江島と聞けば、沖縄戦での激しい戦闘、そして住民の集団自決の歴史を思い起こすのですが、戦後にこんな悲惨な事件があったことを今回初めて知りました。

写真展は、午前9時30分から午後10時まで(最終日の23日は午後5時まで)開催され、長嶺福信さんの解説は、午前10時から午後5時までの時間帯です。

遅い時間まで開催されていますので、「もうひとつの『8.6』」を知るために、ぜひ行ってみてほしいと思います。ただ今日16日は、休館日ですので注意してください。

いのちとうとし

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2023年1月15日 (日)

「岩国基地の拡張・強化に反対する広島県住民の会」17周年記念講演会

昨日午後2時から広島弁護士会館で岩国基地の拡張・強化に反対する広島県住民の会主催の「みんなではね返そう!岩国基地の拡張・強化」とサブタイトルのついた同会の17周年記念講演会が開催されました。

岩国基地への艦載機移駐から5年が経過しました。岩国基地は沖合埋め立て・拡張に合わせて専用港湾施設もつくられ、その機能は飛躍的に拡大し、名実ともに東アジア最大の基地になっています。基地の拡張・強化の影響は岩国市にとどまらず広島県、島根県にも広くおよび、騒音などの影響も非常に増えています。

その騒音の様子が、毎日のように岩国基地の拡張・強化に反対する広島県住民の会のメーリングリストを通じて情報が提供されています。

1月12日のメールです。

「岩国基地の拡張・強化に反対する広島県住民の会です。

謹賀新年 新しい年が静かな良い年になりますように心から願います。

次の爆音情報が寄せられました。

お聞になった方、目撃された方はお知らせください。

1月5()859104714581600 廿日市市宮園

1月6()10381148 廿日市市宮園

1月9()1103110513351342 廿日市市宮園

1月11()1103110513351342 廿日市市宮園

              ②1350ごろ 廿日市市阿品台北 (2機編隊で宮島のほうへ)

住民から寄せられた爆音情報です。」

「艦載機移転から5年、岩国と厚木の今」と題した記念講演は、二人の話でした。

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「艦載機移転から5年、岩国と厚木の今」と題した記念講演は、二人の話でした。

田村順玄さん(元岩国市議・あたごやま平和研究所代表)は、岩国基地の現状として「①12月28日に、住民436人が原告となった第2次爆音訴訟を提訴した。②三沢基地から飛来した戦闘機が、1月1日に飛行訓練を行った。元日の飛行訓練は初めてのこと。③米兵による犯罪は依然として続いており、昨年12月には車が盗難にあい、その盗んだ車で米兵が交通事故を起こした米軍基地に逃げ込んでしまった。」などを報告されました。

続いて神奈川の厚木基地の監視を続けている金子豊貴男さん(リムピース共同代表・相模原市議)から、米軍艦載機が岩国に移転した後の厚木基地の状況の報告がありました。

金子さんは、「確かに始めの数年は騒音がかなり無くなったとの声もあったが、米軍機の代わりに自衛隊機が厚木基地での訓練やP-1配備を増やし、騒音がひどくなっている。日米両軍の共同使用や合同訓練などが増加している。」と具体的に事例を示しながら、報告されました。

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そして騒音問題について「政府は、騒音被害を70デシベル以上が5秒間以上続いた時としているが、70デシベル以下でも住民はうるさいと感ずる。この住民の感じている実態に即した調査こそが求められている。だから、皆さんが爆音をうるさいと感じた時には、きちんと自治体に届ける監視活動が重要です」と、私たちの運動へのアドバイスもありました。そして「『基地はどこにもいらない』ということを主張しつづけよう」と呼びかけて講演は終了しました。

この講演会に参加し、今後も第2次岩国基地騒音訴訟支援や爆音監視など私のできる活動を続けなければと決意しました。

いのちとうとし

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2023年1月14日 (土)

広島ガスの60年史と100年史

1月9日の「広島ガス100年史」と原爆被害: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「広島ガス100年史」(以下「100年史」)に記載された原爆被害について書きました。

その中で引用した広島工場の従業員の体験記は、もともと「広島ガス60年史」(以下「60年史」)に掲載されていたものですので、「60年史」では、原爆被害がどのように記載されているのか気になりましたので、広島市立図書館から借りてきました。

2冊を比較すると、大きなタイトルは「原子爆弾と終戦」(「60年史」)、「広島の壊滅」(「100年史」)と違いますが、原爆被害に関する記述は、文量としてはほぼ同じです。ただ細かく読んでいくといくつかの違いが見つかります。

その一つが、爆心地からの距離です。「60年史」では、「本社は約350m、広島工場は約2,000m」となっていますが、「100年史」では、「本社は約250m、広島工場は約2,200m」と記載されています。広島原爆戦災誌は、「100年史」と同じ距離になっています。「60年史」は、広島原爆戦災誌と同じく1971年10月に発行されていますので、広島原爆戦災誌と同じ距離が使われてもおかしくなかったと思われますが、なぜこの違いが出来たのか不思議です。

二つ目は、これは大きな違いだと思いますが、「60年史」には、原爆で犠牲となった69名全員の氏名が50音順で記載されています。

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「60年史」の1ページ

うちはっきりと女性とわかる名前は19名です。女性の犠牲者があったことがわかるのも名簿があるからです。「100年史」には、本文中で役員3名の名前が記載されているのみで、他の犠牲者の氏名は掲載されていません。

三つ目は、本文が始まる前に掲載されているグラビアの部分です。「60年史」は、当時の広島ガスに関する写真のみですが、「100年史」では、「広島ガスの100年」とタイトルが付けられ、被爆写真を含め戦前の写真が見開き2ページにわたった掲載されています。

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「100年史」の戦前の写真の1ページ

100年という節目を大切にした編集となっています。

もう一つ気付くのは、「100年史」には、当時の社長が書かれた「社史刊行にあたって」の文章があることです。深山英樹社長は、その中で原爆被害について次のように書かれています。「振り返りみますと、当社の最大の試練は1945年8月の原子爆弾投下により、製造・供給設備はもとより、当時の山口吾一社長をはじめ人的資源に大打撃を受け、これらを一瞬にして失ったことであります。原爆により広島は廃墟と化し、当時は『今後75年間、草木も生えぬ』と噂されたものでありますが、当時の先輩諸氏は、再興に向け一致団結、それこそ泥まみれになりながら日夜業務に精励されました。」

原爆被害がどれほど大きかったのか、この社史からも読み取ることができます。

たまたま目にし、購入した「広島ガス100年史」でしたが、「原爆被害の実相」を別の視点から学ぶことができました。「原爆被害がどのように扱われているか」他社の社史も調べてみたい気になっています。

いのちとうとし

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2023年1月13日 (金)

「核兵器なき世界」はどこにいった

昨日のブログでも触れましたが、岸田首相のG7参加国訪問のニュースの報道されるたびに、「何のための広島開催?」と改めて強く考えさせられます。

伝わるニュースは、武器の共同開発、軍事協力の強化など安全保障面での強化の約束だけで、多くの広島市民が期待する「核軍縮、核兵器なき世界に向けた道しるべ」が話し合われ、その一部でも宣言の中に盛り込まれるサミットとなるように岸田首相が、核国首脳に働きかけた様子は全くありません。

最終訪問地となるアメリカ・バイデン大統領との首脳会談では、もっとひどい内容が話し合われることは今から予想できます。

唯一核問題に触れたのは、ロシア・プーチン大統領の「核使用発言」を意識した「核兵器による威嚇や使用を断固拒否する」というものです。このこと自体を否定するものではありませんが、そこには「核使用の危機を防ぐ道は、核兵器廃絶しかない」という考えは、全くありません。「核抑止力」に頼る核政策からは一歩も抜け出ていないのです。

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官邸ホームページより

 思いだすのは、昨年6月に開催されたNATO首脳会合に、日本政府の首脳として岸田首相が、初めて参加したことです。NATOについて、外務省ホームページは次のように記載しています。

「北大西洋条約機構(NATO:North Atlantic Treaty Organization)は『集団防衛』、『危機管理』及び『協調的安全保障』の三つを中核的任務としており、加盟国の領土及び国民を防衛することが最大の責務です。」

NATOは、第5条で「欧州又は北米における一又は二以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国 に対する攻撃とみなす。締約国は,武力攻撃が行われたときは,国連憲章の認める個別的又は集団的自衛権を行使して,北大西洋地域の安全を回復し及び 維持するために必要と認める行動(兵力の使用を含む。)を個別的に及び共同して直ちにとることにより,攻撃を受けた締約国を援助する。」ことを定めた軍事同盟ですから、集団的自衛権はもちろん、軍備を持つこと自体を禁止した憲法を持つ日本とは相いれないものですから、その首脳会議には参加すべきでなかったのです。

軍事同盟であるNATO首脳会議に参加することがどんな意味を持つのかの論議も全くないままに、会議への参加が行われたこと自体、政治の危機といえます。

こうした流れの延長線上に、今回のG7メンバー国への訪問があると考えれば、「核なき世界」の理念が押しやられ、軍事協力強化のみが論議・確認されたのは、ある意味で当然のことのように思えます。

問題は、広島で開催されるG7サミットです。核軍縮や核廃絶を話し合うどころか、ロシア、中国に対抗する軍事結束を強化するための舞台となることが危惧されます。

県知事も広島市長も無条件といってよい程歓迎・歓迎ムードづくりに躍起ですが、それでよいのでしょうか。

確かに、両首長もそして多くの広島市民が「核国首脳が、原爆資料館を見学し、被爆者の話を聞くこと」などを求めていますが、G7参加国訪問のニュースを聞く限り、岸田首相がそうしたメッセージを伝えた様子はありません。

岸田首相の「核なき世界は、私のライフワーク」を言葉だけに終わらせないために、広島が、そして私たちが何をすべきか、何をするのか改めて厳しく問われる事態になっています。

いのちとうとし

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2023年1月12日 (木)

インドの戦闘機が来日したのはなぜ?

「10日インド空軍の戦闘機4機が、航空自衛隊との共同訓練に参加するため来日した」ことが、何の疑問符も付けられないまま報道されています。

今回の来日は、16日から26日まで実施される戦闘機訓練に参加するためですが、インド空軍の戦闘機が、日本に来たのは初めてのことです。

今回の共同訓練は2019年の日印の外務防衛担当閣僚協議で開催を申し合わせによって合意されていたものですが、そのことをはたしてどれだけの国民が知っていたでしょうか。

アメリカ、オーストラリア、インド、日本の4カ国による海上軍事訓練の実施、二国間の軍事共同訓練、外国軍事艦船の寄港など、いつの間にかあたりまでのごとく、実施されるようになりました。

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百里基地(茨城)に着陸したインド空軍機(航空自衛隊提供)

外国軍の戦闘機の日本飛来も、アメリカだけでなく、これまでにイギリス、ドイツ、オーストラリアなど4カ国から来日しており、インドは5カ国目になります。

私たちが関心を持たないうちに、自衛隊の海外での活動、他国との共同訓練は、急速に拡大しています。

さらにG7議長国外交として各国を訪れている岸田首相は、二国間の防衛協力強化を働きかけています。

フランス・マクロン大統領との間では、「欧州とインド太平洋の安全保障は不可分だ」とし、その中味はよくわからないのですが、フランスを「特別パートナー」と位置付けたといわれています。また、イタリアのロメーニ首相とは、安保政策を協議する枠組みを創設で合意し、安保協力を強化することで一致しています。

安保3文書の改訂のみならず、日本が前のめりにヨーロッパの各国を含む多国間の軍事協力に走っているのが、この数日の報道だけでも明らかになっています。

インドとの関係を調べているとこんな情報も見つかりました。

「2022年2月27日から3月10日までの日程で、陸上自衛隊とインド陸軍の対テロ共同訓練が、インド西部ベラガビのインド訓練施設で行われた。今回は初の市街地戦闘訓練などを実施する。この訓練は、2018年から始まり今回は3度目で、これまでジャングルでの合同訓練などを重ねてきたが、今回は日本にはない市街戦や室内での戦闘を想定した訓練施設を使用してヘリから降下した部隊の突入訓練を行う。」

多くの情報の一つですが、えっそこまで進んでいるの!と驚くばかりです。時期は、ロシアによるウクライナ侵略戦争が始まった直後のことですが、報道を見たこともありませんので、この事実を知っている人は、ほとんどいないのではないかと思います。

今回のインド空軍機の日本国内での共同訓練実施を機に、今自衛隊が行っている他国との共同訓練の実態にもっと関心を持ち、監視することが大切だと思います。

2021年9月にイギリス海軍の空母「クイーンエリザベス」が、横須賀に初寄港し、その後2022年2月14日にもイギリス海軍哨戒艇が寄港していますが、最初の寄港には「えっ、こんなことが許されるの」と感じたのですが、2度目のニュースでは、私自身の関心も薄くなっていました。

こうした実績が繰り返されることで、疑問符を消えていきますが、自衛隊による他国との共同訓練や他国に軍艦、戦闘機が来日するのが当たり前の社会にしてはならないよう、関心を持ち続けなければいけないなと思わされた今回のニュースです。

いのちとうとし

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2023年1月11日 (水)

木本誠二著「原子爆弾空襲の體験」

「原子爆弾空襲の體験」は、1945年8月6日に所用で郷里広島に立ち寄った牛田町の生家で、軽い病気のため臥床のまま被爆した東京帝国大学医学部の医師木本誠二さん体験記です。

この冊子のことを中国新聞記事で知り、発行関係者に連絡を取ったところ、大切な1冊が送られてきました。

この小冊子(A5版で28ページ、内体験記は、16ページ)は、昨年8月6日に発行されたものです。

表紙には、次のようなサブタイトルが付けられています。《ヒロシマで被爆した ある医師の手記 GHQが発禁 七七年を経て いま甦る》

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体験記は、最初に自分自身の8月6日の被爆の体験状況が書かれています。その後に「空襲状況」「爆圧による破壊程度」「焼夷力」「人體損傷」の小見出しごとに、その詳細な状況が記されています。ここではその詳細の記述はしませんが、活字化進められた工藤一喜さんが「木本先生の原稿は、広島での原爆投下により未曽有の被害を受けた直後の体験談であり、原爆で被災されながら科学的な鋭い視点から、当時全く想定外であった原子爆弾の可能性を確信され、発生した事実を極めて冷静に伝えておられる。」と指摘されているように医学者ならではの貴重な体験記といえます。

気になるのは表紙に記された「GHQ」の文字と「七七年を経て」です。そのことをこの冊子の後段に付された注意書きで読み解くことができます。もともとこの体験記は「ある雑誌社の切なる依頼に応じて」書かれたものだったのですが、木本さんが後になって「私は自分の原爆体験を戦後まもなく雑誌に書いたが、GHQによって差し止められた」と書かれているように、GHQによって発行が禁止され、結果として75年間封印され、存在する知られることがなかったのです。

その体験記が活字化されるようになったのは、1945年広島、長崎の原爆調査を行った金井清さんの資料を広島原爆資料館に寄贈(2018年11月)するための調査を行っている時にこの体験記が発見されたからです。発見された体験記は、筆写されたもののようですが、筆写された時期が、1945年15・16日と特定されているため、それ以前の被爆から1から2か月前後に書かれた貴重なものであることがわかっているようです。

木本誠二さんの原稿を大切にするため、旧漢字もそのまま使われていますが、難漢字にルビが振られ、原本の邪魔にならないようにと気を使いながらも事実に関する注も付され、理解が深まるようにとの丁寧な編集となっています。

私がお願いのメールを送った工藤さんからのその後のメールによれば、この小冊子の入手希望者が多く増刷されたそうです。

この貴重な被爆体験記の復刊に努力された工藤さんたちも希望されているように「広く末永く読み継がれる」ことを望みます。

いのちとうとし

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2023年1月10日 (火)

23年、「核」と決別する年に―原発回帰は許されない

今年は「3・11」から12年、干支では一回りです。当然あの年もウサギでした。考えてみれば日本で原子力発電所が発電に成功したのが63年のウサギ、茨城県東海村のJCO臨界事故が起こったのも99年のウサギです。

12月22日、政府はGX(グリーントランスフォーメーション)実行会議を開催し、原発回帰に向けての政策に転換することを決定しました。この春にも閣議決定しようとしています。

もともとグリーントランスフォーメーションとは、環境保護を表す「グリーン」と、変容を意味する「トランスフォーメーション」を組み合わせた言葉で、原発復活を意味するものではありません。

もっと詳しくいえば「温室効果ガスの排出原因となっている化石燃料などから脱炭素ガスや太陽光・風力発電といった再生可能エネルギーに転換して、経済社会システムの全体を見直すこと」とされています。欧米を中心にこれへの投資が拡大しているのです。例えば、2030年までに温室効果ガスを19年比で43%削減し、50年までには実質ゼロにするための戦略を打ち立てるというのが本質です。

なぜかわが日本の政治は、浅はかというか環境保護イクオール原発ということしか考えない知恵の無さしかないようです。報道も「原発回帰」をクローズアップしている節を感じます。

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政府のGX基本方針では、原発活用策として①60年超運転、②再稼働促進、③核融合炉を含め次世代型原発建設、④放射性廃棄物への対応促進となっています。GX実施に向けて官民合わせてトータルで150兆円を投資するといいます。

GXを決めた実行会議の「有識者」13人は、オール原発推進派です。岸田首相から指示を受けた経済産業省の「総合資源エネルギー調査会 電力・ガス事業分科会原子力小委員会」の委員20名は、2名が原発に反対を訴えただけです。9月以来、これだけの委員がそれも5回の審議で、12月8日に、上に書いたような原発活用策を決めてしまったのです。

12年前の福島第一原発事故で、原発依存を下げて、再生可能エネルギーを拡大させよう、新増設は止めよう、原発の運転は40年を原則にしよう、発送配電分離を行い、電力小売りの全面自由化を実現し、広域的運用を強めようと決めたのです。もちろん不十分な部分はたくさんあり、まだまだ見直す必要はありますが、世論の大勢はその方向に向かっているのは間違いありません。

僕は楽観主義者ではありませんが、直感的な感覚でこの政策転換はうまく行かないだろうと思っています。

同じ考えの方が多いと思いますが、政治の場だけでなく多くのことを決める時に議論をしない、頭ごなしで物事を決めるという傾向が特に強くなったように思うのです。

平和公園内には「平和の鐘」が三つあり、いずれも核兵器全廃と恒久平和を伝えるために作られたものです。一つは、8月6日の平和式典で鳴らされる鐘、二つは、毎朝8時15分に鳴らされる鐘、そして三つめは、平和公園を訪れた人のために、自由につくことができる鐘です。

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この鐘の表面には、国境のない世界地図が浮き彫りにされ、「世界は一つ」を象徴しています。撞座(つきざ)という鐘をつく部分は「核」との決別の思いをこめて原子力のマークになっており、反対側には、鐘をつく人の己の心を映しだすための鏡が入っています。

2023年は、核兵器としての「核」、民生利用としての「核」、ともに決別する年にしたいものです。

木原省治

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2023年1月 9日 (月)

「広島ガス100年史」と原爆被害

昨年末、妻の実家がある山口に帰省した時、いつも行くブックオフ山口店にのぞきました。ブックオフの各店には、100から200円のコーナーがありますが、その棚で珍しい一冊を見つけました。「広島ガス100年史」です。発行日は2010年3月となっていますが、広島ガスが、100周年を迎えたのは、前年2009年10月30日です。

「原爆被害が記載されているか」気になりましたので、すぐ目次を確認しました。「広島の壊滅」の項に「原爆投下と広島瓦斯の犠牲」と書かれていますので、本文は読まずに、とりあえず購入しました。110円の定価がついていましたが、私にとって定価以上の貴重な資料です。余談ですが、年が明けて広島の古本屋で見つけた「広島ガス60年史」には、6000円の定価がついていました。

広島ガスの原爆被害については、広島ガス株式会社原爆犠牲者追憶之碑: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、広島原爆戦災誌からの引用を紹介していますが、「広島ガス100年史」を読んでいると、その被害の実相が違うことに気づきました。

原爆の犠牲者数は、69人で同じなのですが、勤労動員で建物疎開作業中に亡くなった犠牲者の人数が、原爆戦災誌では、34人になっていますが、「広島ガス100年史」では、30人と記載されています。さらに「100年史」では、原爆戦災誌にはなかった「爆心地から約2,200mの距離にあった広島工場では、従業員1人が即死した」ことが、記載されています。また本社に出勤していた社員数も原爆戦災誌では、約35人となっていますが、「100年史」では、「出勤していた社員30人は、本社の倒壊とともに全員が死亡した」と記載されています。

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被爆前の広島瓦斯本社

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原爆で破壊された本社社屋

 どちらが正しいのか調べてみたいと思いますが、これが原爆被害の実相なのかなとも感じています。

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原爆で焼きついたガスホルダーの階段の影

 原爆資料館では別の写真が掲示されていますが、原爆の熱線の強さを示すものとして私たちがよく目にする写真です。「ガスタンクの表面が、熱線を受けて塗料のコールタールが焼け、階段で熱線がさえぎられて部分だけが、元のまま黒く残った」(広島平和機縁資料館総合図録より)。資料館の写真では「階段」ではなく「ハンドル」の影となっていますが、この写真は広島瓦斯広島工場に残った影を写したものです。

「広島ガス100年史」には、8月5日に当直していた従業員の証言が掲載されていますので、その一部を引用します。

「午前8時すぎ、私は工場を出て帰途についた。300メートルばかり歩いて専売局の前にさしかかったとき、とつじょ、焼けつくような閃光にみまわれ、とっさに道路の中央の電車軌道の上にとびだして身を伏せた。その瞬間、ごう然たる爆音とともに強い衝撃と熱風を全身に感じ、自分のすぐそばに爆弾が落ちたものと思いこんで周囲をみまわしたところ、そのとき、すでに両側の家々は瓦もガラスも飛び散って廃屋同然となり、なかには倒壊したものもみられた。私は急いで工場にひきかえしたが、ここも同様、建物の瓦やガラスがみじんに吹き飛んでいた。そして、2基のガスホルダーは、天井が裂け、頂骨が折れこみ、ガスが燃える間もなく瞬時に発散したらしく沈下してしまい、強烈な閃光のため、ホルダーの階段の影が不気味に濃く焼きついた側壁だけが残っていた。そのときになって、私は右顔面に激痛を覚えたが、出勤してきたばかりの従業員は、軽重の差こそあれ、全員、熱傷を負い、ガラスの破片などで外傷をうけており、とりあえず重傷者を安全な場所の移道としたとき・・・」(原文のまま)

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原爆で焼失した広島工場

ここではガスホルダーと記載されていますが、ガスタンクのことだと思えますが、「階段の影」が強く印象に残ったことがよくわかります。

今日使用した写真は、上記の体験記とともに「広島ガス100年史」に掲載されている写真です。

「広島ガス100年史」、思いがけない出会いで、貴重な資料を入手することができ、新たな被爆の実相を知ることになりました。

いのちとうとし

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2023年1月 7日 (土)

働き方改革

「取分け働き方については、在宅勤務やリモート会議が普及し昔とは大きく変わったように感じます。その中でも昨年発表されたNTTの新人事制度は時代の変化を端的に表したもので、その革新性に驚きました。例えば、勤務場所は原則自宅で、出社は通勤ではなく出張扱いで旅費が出るというものです。札幌在住の社員が本社へ異動になっても、転居する必要はなく、そのまま札幌の自宅で仕事を続け、自分が所属する本社に出社する時は出張扱いで旅費が出るという制度です。私たちの時代には想像もできない大変なパラダイム変革です。どちらかと言えば保守的なイメージの強いNTTグループが他社に先駆けて20世紀型の雇用制度、働き方から脱皮して、このような社員本位の新制度を導入したことをOB・OGとして誇らしく感じたのは私だけではないと思います。」

これは、NTTデータ同友会からメールで送られてきた「年頭のごあいさつ」の中の一文です。

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NTTデータ本社ビル

私は、20代から30代の初めまで電電公社の中国データ通信部(現在のNTTデータ)で、ある銀行のオンライシステの開発(プログラム作成)に携わっていました。中国データ通信部には、1981年までのわずか10年ほどしか在職しなかったのですが、皆さんのご理解で、電電公社、NTTデータの退職者組織であるNTTデータ同友会の一員として中国支部(本部の他に8支部がある)の活動に参加しています。ここ数年は、コロナの影響で様々な企画が中止となっているため、なかなか会員のみなさんとお会いすることができないのですが。

最近「働き方改革」ということが言われ続け、特にコロナの影響でオンライン在宅勤務が増えたということをニュースで何度も耳にします。

それにしても、この内容にはびっくりです。このあいさつ文は、データ同友会の会長が書かれたもので「このような社員本位の新制度を導入したことをOB・OGとして誇らしく感じたのは私だけではないと思います。」ということばにすぐには共感できないのですが、ここまでの変化にはただびっくりするだけです。本社に出社するのが出張扱いで、旅費が出るというのですから、いいことづくめのようにも感じられます。

しかし、私がこの文章を見てまず頭に浮かぶのは、オンラインの在宅勤務もそうですが、全てが自己管理ということになるので、労働時間の管理は?、そして健康障害が起きた時には、だれの責任になるのだろうかということです。

今春闘は、賃上げが大きな課題になっていますが、それとともに働き方改革も進められると思います。しかし、それが本当に社員本位になっているのかどうかは、しっかりと見極めることが必要な気がします。そして労働組合の役割も厳しく問われることになります。

そんなことを考えた「年頭のごあいさつ」文でした。

いのちとうとし

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2023年1月 6日 (金)

ヒロシマとベトナム(その40-2)ベトナム象、広島を歩く-5

古文書が紐解いてくれたベトナム象、広島の宿

下の写真は、「享保14年酉4月6日 象止宿之刻御附廻り御衆中 宿々賄料之帖」という、象の運送に携わった人たちの宿泊料に関する広島藩の文書で、前述の県立文書館「インターネット版古文書講座」で使われたテキストです。

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上下・久枝家で発見された文書

下の囲みは約300年前の帳面の4枚のうちの1枚の一部分です。中嶋庄右衛門という人と家来の夜食と朝夕の3回の賄い料、計銀2匁7分。但し御切手1通これあり、と書かれています。

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長崎奉行所が各藩に出した「御触」には、「旅籠料理一汁三菜、酒三遍、肴一種、上下これ無く、代1匁」とありますが、実際には身分の違いで料理の内容が違っています。身分の上下による賄方の「忖度」なのでしょうか。、郷土料理が振る舞われたのでしょうが「一汁三菜」のメニューは何だったのでしょう? 関心が湧きます。

同テキストには、続いて「・・・文章が残されたのは、宛所となっている城下広瀬組大町年寄り(注1)芥川屋に残されたものと考えられるが、これが見つかったのは、山県郡北広島町大朝の郷土史家の久枝秀夫氏(故人)宅の襖の裏張りからである。広島城下芥川屋に伝わった帳面が襖の下張の材料としていつの日か山県地方まで流れていたわけである。」と紹介しています。

北広島町で見つかった貴重な資料

それにしても、広島城下から大朝町の久枝家に“いつ頃”、“どのような経緯”でたどり着いたのでしょう。“なぜ襖の裏張り”に使われ、“どのような経過で発見された”のでしょうか。もしも、そのまま広島城下の芥川屋に残っていたなら原爆で焼かれ、私たちが目にすることは出来なかったかも知れません。そう思うと、大朝までどのようにして運ばれ、どのように発見されたのか・・・・と、関心は一層募ります。

同じように、数奇な運命をたどり、原爆や戦禍を免れ発見されるのを待っている古文書が、今もどこかに眠っているかも知れません。開発や世代交代、歴史や文化に対する認識の変化などに伴い、大切な歴史的な遺産が人知れず急速に失われていると思うと居たたまれません。

遺跡や史跡、伝統文化や古文書は国民的財産です。意図的に歴史を歪曲したり、歴史を紡ぐ営みの記録を消し去ったり改竄することは許されない犯罪行為です。一方、無意識のうちに連綿と続いてきた貴重な歴史的財産が失われていくことも、未来への大きな損失です。

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ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王と法皇の言葉が刻まれた平和記念資料館の石碑 (NHK NEWSWEBより)

「歴史とは、過去と現在との間の尽きることのない対話」(E.H.カー)、「過去に目を閉ざす者は、現在にも盲目になる」(ヴァイツゼッカー)、「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うこと」(ヨハネ・パウロ二世)・・・・。賢人たちが異口同音に「歴史との対話が大切」と語っています。

次号では広島から西条四日市宿までの旅を追って見たいと思います。

(注1)城下広瀬組大町年寄り:広島城下の町家は町組と新開組に分かれ、1677年には69の町組がありました。西から広瀬組・中島組・白神組・中通組・新町組が河川に囲まれ5つの組があった。その一つ、広瀬組の下にあったのが象の泊まった堺町2丁目。町年寄りとは、町奉行所のもとで町政を司る町役人の筆頭に位置する。

(2023年1月6日、あかたつ)

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2023年1月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その40-1)ベトナム象、広島を歩く-4

広島城下にベトナム象が “きたゾー”

一国一城令(注1)に先立って消えた亀居城跡を背に玖波宿(現大竹市玖波)をいつものように4月6日の朝五つ時頃発った(であろう)ベトナム象は、その日の夕刻、芸州広島藩の城下に入ります。岡山藩に残された古文書「象御領内通候一件」の中には、「象広島へ去る6日の晩七つ時(午後4時)前着、7日の朝五つ半時(午前9時)出足」と記されています。

身近な地ですので、象が歩いたであろうルートを紹介します。玖波宿(本陣)→残念社→妹尾の滝→千人塚→十郎原→津和野岐→佐伯郡役所跡→廿日市宿(本陣)→桜尾城跡(廿日市)→塩釜神社(佐伯区)→草津→源左衛門橋(広島市西区)→天満宮→広島宿です。これらの地には、それぞれに謂われ(歴史)が刻まれています。関心のある方は調べてみてください。

『廣島市史』に「四月六日、交趾国(注2)より貢せる象一頭、将軍の召により、長崎より江戸に赴く、途中広島を通過し、是日堺町二町目馬頭(注3)助兵衛の後庭に次す、藩主吉長(注4)、同町沢村屋に臨み之を観る」と記されています。

広島県立文書館が2016年に開講した「インターネット版古文書講座」(第6回)資料にも、「象は4月6日に広島城下に到着した。その宿所は、広瀬組堺町二丁目(現広島市中区堺 町一丁目)あたりの馬継場(注5)の後庭があてられ、隣家の芥川屋との境の塀をくりぬいて小屋を作り(注6)泊まらせた。」と紹介されています。

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西国街道~広島宿(より)

上の地図は江戸時代初期の「広島城城下町古地図」で、中央を東西に走っているのが西国街道です。象が泊まったのは本川橋西詰から天満橋東詰の辺りの堺町にあった広島西宿近くだったと思われます。この辺りに馬継場(伝馬駅)、馬頭の助兵衛宅、芥川屋、沢村屋などが軒を連ねていたのでしょう。

(注1)一国一城令:大名が住む城以外の、領国にあるすべての城を取り壊すように幕府が命じたもの。以降、原則として大名の領国には城は1つだけになった。大名が大きな軍事力を持つことを防ぐために大坂夏の陣の直後(1615年)に出された法令。

(注2)交趾国:古くはベトナム北部地域を指していたが、16世紀以降中部地域を含め交趾と呼ぶようになり、象が送られた当時は北部(ハノイ)から中部(ホイアン)にかけて交趾国と呼ばれた。

(注3)馬頭:宿場毎に伝馬の常備が義務づけられ、その手配・差配をしたのが人馬方とか馬頭、人馬役と呼ばれた。

(注4)浅野吉長:1681~1752年)、安芸国広島藩の第5代藩主。現在の修道中学校・修道高等学校の楚となる「講学所」を開く。

(注5)馬継場:駅で馬を交換したり休憩させ物資や人や情報を運ぶシステムを駅継とか伝馬制と呼んだ。江戸時代になると、公用に限らず宿継の荷駄馬を広く「伝馬」と通称。西条四日市宿では15匹の馬の常備が義務づけられていた。

(注6)象小屋:長崎奉行所が各藩に出した「御触書」では次の様に指示されている。

「泊宿にて象を繋ぎ候場所は、二匹立ての厩中仕切りを取り除け、土間を平らにいたし、右土間の内片脇に寄せ、長さ1丈(3.3m)ほどの5寸(15cm)角を縦に半分埋め、半分出し置き、その角木に象を繋ぎ申す事に候、尤も、厩これ無き泊まりは随分丈夫に構え、広さ6畳」「象小屋高さ8尺(2m40cm)余、入3間(5.5m)ほど、横2間半(4.5m)ほど」「小屋に風入り申さぬように仰せ付けられ然るべき由」「象度々小便つかまつり候故、溜まり申さぬようにとの埒に御座候、小屋の内藁を2尺ばかり敷き宜しき由」

2023年元旦、満71歳になりました。あらためて「温故知新」、引き続き学びの旅を続けたいと思います。

本年もよろしくお願い致します。

(2023年1月5日、あかたつ)

【編集者】今回も今日、明日の2回に分けて掲載します。

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2023年1月 4日 (水)

加藤友三郎生誕地碑

3日付の中国新聞5面に掲載されたオピニオン「加藤友三郎没後100年上」を興味深く読みました。縦書きの大きなタイトルは「『軍拡より強調』いまこそ光を」ですので、今日掲載される「下」がどんな内容になるのか楽しみです。

この記事を読みながら思い出したことがあります。近くの公園に立つ「加藤友三郎生誕地碑」のことです。その公園は、わが家から180mほどの近くにある大手町第2公園で、中電病院のすぐ南側にあります

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この公園に東南に加藤友三郎生誕地碑が立っています。

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この碑の正面には次のように刻まれています。

「先内閣総理大臣元帥海軍大将正二位大勲位功二級子爵加藤友三郎閣下生誕之地」

裏側には、「昭和五年八月」と刻まれ、左側面には「為教育大詔煥発四十周年海陸軍二十五周年記念建立」と刻まれています。

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この碑の左横に、NPO法人加藤友三郎顕彰会によって2015年2月に設置された「先内閣総理大臣加藤友三郎閣下生誕地碑について」と題した説明版があり、広島で最初の内閣総理大臣になった加藤友三郎が1861年2月22日にこの地で生まれたことや1921年にワシントンで開催された「海軍軍縮会議」に日本の首席全権として出席し功績をあげたことなどが記載されています。

この説明版の下側には、いつの時代かまでは書かれていませんが、古い地図が付けられ、真ん中ほど上部の「加藤種之介」という住居に矢印が付けられ、ここで加藤友三郎が生まれた場所であることが示し、その場所が現在「大手町第2公園」になっていることが書かれています。

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この説明板では、加藤友三郎のことは書かれていますが、この碑の由来は何も書かれていませんので、左側面にある「為教育大詔煥発四十周年海陸軍二十五周年記念建立」がどんな意味を持っているかは不明です。気になったので「教育大詔煥」ということばをネットで検索したのですが、この言葉では見つけることができませんでした。「教育勅語」のことかなと思ったのですが、教育勅語は1980年に出されていますので、この碑が建立された昭和5年(1930年)との間は、50年ということになりますので「四十周年」とは合いませんので、私には理解不能の一行です。

加藤友三郎生誕碑の正面の文字を紹介しましたが、実は右側にもう一行肩書が刻まれています。「華府第一回平和会議首席全権」です。一番上の文字「華」の字が良く読み取れないのですが、「華府」とはワシントンの漢字表記です。

加藤友三郎が参加したワシントン会議については、中国新聞に詳しく紹介されていますので、ここでは触れませんが、この会議のことで思い出したことがあります。

このワシントン会議には、加藤友三郎(海軍大臣)が首席全権と務めましたが、同じ全権委員として貴族院議長の徳川家達(いえさと)とともに元日のブログで紹介した幣原喜重郎(駐米大使)も参加していたことです。

ワシントン会議は、海軍の軍縮交渉が行われたことが最も良く知られていますが、中国問題も議題となっており、1920年代の東アジア・太平洋の国際秩序、国際関係を規定する諸条約も締結されました。そこで大きな役割を果たしたのが幣原喜重郎です。

このワシントン会議の体験、外交の努力によって、世界平和の実現を図るという考え方が、日本国憲法制定の中に活かされることになったと言えます。

大手町第2公園を訪れた後、加藤友三郎の銅像が、確か中央公園にあったはずだと思いだし、ついでに中央公園まで足を運びましたが、サッカースタジアム建設中の中央公園では見つけることができませんでした。

帰宅後調べると、「2008年に中央公園に建立された」という新聞記事がありますので、銅像があったことは間違いありません。今この銅像がどこにあるのか調べてみたいと思います。

いのちとうとし

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2023年1月 3日 (火)

在韓被爆者郭貴勲さんの訃報

元日の朝、メールを開くと大阪の市場淳子さん(「韓国の原爆被害者を救援する市民の会会長」)からメールが届いていました。

「新年のご挨拶をすべきところですが、悲しいお知らせをしなければならなくなりました。

今朝、郭貴勲さんのご長男から『20221231日午後1158分、郭貴勲さんが入院先の療養病院で亡くなられた』との知らせがありました。

昨日の午後3時半に郭さんのお子さんたちが、療養病院に面会に行かれ、郭さんはお子さんたちを認知されて手を振られたそうですが、その8時間後に息を引き取られたそうです。 」

享年98歳でした。いつかはこの日が来ると思ってはいましたが、実際にその日を迎えると本当に悲しく寂しい思いになりました。

郭貴勲さんとの出会いは、郭さんが「在外被爆者にも援護法適用を」と訴えて争った大阪地裁の裁判闘争の時からです。

大阪高裁判決後、政府が上告を断念し、在外被爆者への援護法適用が実現した時のことを、私は、当時のホームページに次のように記載しています。

「12月18日、坂口厚生労働大臣が記者会見し、『在外被爆者郭貴勲さんの大阪高裁判決の上告を断念する』と発表した。ついに『在外被爆者に対し被爆者援護法の適用』が実現した。

このニュースを議員会館の私の部屋で郭さんと一緒に聞いた時、心のそこから『本当によかった』という思いでいっぱいになった。

昨年4月に『在外被爆者に援護法適用を実現させる議員懇談会』を立ち上げ、事務局長を努めることになって以来多くの在外被爆者の皆さんとお会いした。

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その度に、熱い思いで、そして大きな期待を寄せて話される被爆者の皆さんの声を聞きながら、なかなか前進しないことに何度も『申し訳ない』と心の中で思いつづけてきた。昨年10月に韓国を訪問したときほど、重い気持ちになったことはない。  

ようやくそうした在外被爆者の皆さんに答えることができた。しかし、これですべての在外被爆者問題が解決したわけではない。『被爆者手帳を持っていない被爆者は』などなど課題が山積している。今回の上告断念を期に、裁判でも示された『被爆者はどこにいても被爆者』を本当の意味で実現させるため、さらにがんばる。」

郭貴勲裁判で、大阪高裁での勝訴判決で日本政府に上告を断念させ、その後の在外被爆者への被爆者援護法適用への道を開くことになったことは、私の短い国会活動の中でも、最も印象に残っていることの一つです。

「被爆者はどこにいても被爆者」

この郭さんの訴えが、在ブラジル、在米被爆者等の在外被爆者を結び、お互いの連帯と共闘の輪を作りました。

国会の議席を失った後も郭さんには、広島に来られるたびに声をかけていただきましたし、特に夏の原水禁世界大会では、毎回海外ゲストとして参加され被爆者の救援を訴えつづけていただきました。

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私は、郭さんとお会いするたびに、会話を楽しみにし、元気な姿に励まされたものです。

郭貴勲さんとの最後の対話は、2017年の「被爆72周年原水爆禁止世界大会長崎大会」です。この年もいつものように夕食をともにしながら語り合ったことが思い出されます。

どうか安らかにお眠りください。

郭貴勲さんのご冥福を心からお祈りします。

いのちとうとし

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2023年1月 2日 (月)

外国人の姿が目立つ平和公園

一夜明けた元日の昼過ぎ、再び平和公園を訪れました。二つの目的がありました。

一つは、当然のことですが、原爆慰霊碑に参拝し平和公園の様子を見ることです。

原爆慰霊碑前には、予想以上に多くの人の姿がありました。

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特に気が付いたのは、ここだけでなく平和公園全域で、外国人の訪問者が多かったことです。半数とは言いませんが、三人に一人ぐらいの割合で外国人の姿を目にしました。この場に立って願うことは、誰もが核兵器の廃絶と平和への願いだと思います。今年が、そう願う人たちにとって、大きな変革の年となったと言えるような年にしたいものです。

資料館の入り口には入館待つ人の列が外まで延びていました。

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館内をじっくりと見て広島の実相を少しでも深く実感してほしいと思います。

資料館南口横にある地球平和監視時計の上段「広島への原爆投下からの日数」は「28272」日、下段の「最後の核実験からの日数」は「472」となっています。

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下段の日数が、さらに伸び続けるよう声を上げていきたいと思います。

資料館を訪れる人たちの列を見ましたので、北隣の被爆遺構展示館には、どれだけの人が訪れているのか気になりましたので、そこにも足を運びました。私が入った時には、一人だけ訪問者がいました。午前中に82人の入館者があったようです。資料館を訪れた人にここまで足を運んでもらうのには、もう一工夫が必要のようです。

二つ目の目的は、12月29日の中国新聞記事で紹介された中国からの留学生の遺影を国立広島原爆死没者追悼平和記念館地下2階の遺影コーナーで見ることです。

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中国新聞の記事によれば、今回遺影が登録された中国人留学生の名前は張秀映さんです。広島で被爆した中国からの留学生は12人でしたが、うち6人が原爆死しています。張さんは原爆死した一人です。6人の生存者で現在も健在な被爆者は王大文さんただお一人です。留学生12人中11人がすでに亡くなっておられることになりますが、中国人留学生の遺影が登録されたのは張さんが初めてです。

この遺影は、1月1日から見ることができるということでしたので、登録日のこの日に訪れたいと思い遺影コーナーで検索しました。

追悼空間スロープの壁面に掲げられた「原爆投下に至る経緯や被害の概要」の6枚のパネルの3枚目には、中国人留学生が犠牲になったことが記されていますので、遺影が登録されたことは本当によかったと思います。

その後も平和公園内を散策し、帰宅しました。

いのちとうとし

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2023年1月 1日 (日)

新しい年を平和公園原爆供養塔前で迎えました。

新年あけましておめでとうございます。

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被爆画家田谷行平さんの絵馬

みなさんは、新年をどこで迎えられましたか。多くの方が自宅だと思いますが、私は今年初めて、平和公園の原爆供養塔まで迎えました。

昨年10月に、毎月6日に原爆供養塔まで行われている原爆犠牲者の月命日の供養に初めて参加したことはこのブログでも紹介しましたが、その時から年越しは、この場所でと思っていました。

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除夜の鐘が遠く近く四方から聞こえる原爆供養塔の前に立ったのは、私一人でした。

原爆の最大の犠牲者は、一瞬のうちに命を奪われた人たちです。しかし多くが、自らの名前を証明することもできず、肉親のもとに帰ることもできなかった遺骨のうち約7万体が、原爆供養塔に眠っていることは、決して忘れてはならないことだと思います。

私は、その思いを新たにするためにこの場所で新年を迎えることにしました。

昨年末の読んだ「憲法9条と幣原喜重郎―日本国憲法の原点の解明」(笠原十九司著)は、日本国憲法の平和主義第9条がなぜ生まれたのかが、様々な資料に基づいて書かれています。その中に収録された対談の中で、「軍隊のない丸裸のところへ敵が攻めてきたら、どうするというわけなのですか」との問いに対し幣原喜重郎(憲法改正原案をまとめて首相)が次のように答えています。

「確かに今までの常識ではこれはおかしいことだ。しかし原子爆弾というものが出来た以上、世界の情勢は根本的に変わって終ったと僕は思う。何故ならこの兵器は今後更に幾十倍幾百倍と発達するだろうからだ。恐らく次の戦争は短期間のうちに交戦国の大小都市が悉く灰塵に帰してしまうことになるだろう。そうなれば世界は真剣に戦争をやめることを考えなければならない。そして戦争をやめるには武器を持たないことが一番の保証になる。」

私はこのくだりを読み、改めて「広島、長崎への原爆投下の犠牲になった人たち」への私たちの誓いが憲法9条だということを確認しました。

被爆78周年を迎える今年、これまで確かに核兵器の使用は押しとどめてきましたが、ロシアのウクライナ侵略によって核兵器の脅威を身近のこととして実感させられているのが今の世界情勢です。幣原喜重郎のことばが重みを増しています。

2023年を戦争も核兵器もない世界にすることを誓う場所として、原爆供養塔ほどふさわしい場所はないと思い、2023年の新年を迎える場所としてこの場所を選んだのです。

原爆供養塔前から自宅に帰り、その決意がゆるぎないものとなるように今年も努力をしたいとの思いを込めてこのブログを書いています。

明るくなったらもう一度、平和公園を訪れる予定です。

いのちとうとし

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