旧広島陸軍兵器支廠フィールドワーク-その3
旧広島陸軍兵器廠の遺構から発掘された一部が移設されている場所に移動しました。
フェンスに説明版が3枚取り付けられています。
立体駐車場の中ですので、頭に気をつけながら、中に入ります。
最初に目に入ったのは、石組枡です。
発見当時は、蓋があったようです。中をのぞくと、説明版にあるように、配水用の土管があるのがわかります。陸軍兵器支廠官舎の建設に伴って設定されたものです
石組排水路の一部も保管されています。説明版が無ければ何かわかりません。
第14兵器庫の建物周囲に配置されていたものです。説明版に詳しくその様子が記載されていますが、幅約18cm厚さ約20cm、長さが25m前後の角柱材の花崗岩切石2本を平行に並べて作られていたようですから、いかに潤沢な資材を使って兵器廠が作られたのかが想像できます。
もう一つは、大型建物礎石です。
この礎石の上には、東西約20m以上、南北約25m以上の規模の大型建物が建っており、礎石は、東西約3.6m、南北約7.2mの間隔で設置されていました。
大型建物で入口にあった扉を支えていた軸受付の礎石も移設されています。角が丸く削られていることでそのことがわかりますが、遺構を横から見るとその様子がはっきりと見ることができます。
写真の一番手前の礎石が、入り口のものです。角が丸くなっているのがよくわかります。こうした発掘によって、当時の配置図が間違にないものだということがわかるのです。
藤野先生たちの努力によって移設保管された貴重な遺構です。取り付けられた説明版に詳しい紹介がありますので、一人で訪れても十分理解できると思います。ぜひ見学してほしい遺構です。
この場所での見学を終え、広大医学部構内を東に突っ切り、道を挟んで東側にある中国四国管区警察学校前まで移動しました。ここは、かつて弾薬庫があった場所です。この弾薬庫の紹介は、次回に回し、広大医学部に残る遺構を続けます。
広大医学部敷地の南側境界の道路に移動しました。ここには、遺構が、今も塀の一部として使われています。
フェンスを支えている塀はブロックとコンクリートですが、その一番下に少し色の変わった部分があります。ちょうど指さしている部分ですが、花崗岩のブロックが横並びに東端から西端まで続いています。この花崗岩のブロックが、当時の陸軍兵器支廠の境界として使われていた石です。よく見ると何か所かに、当時の排水溝とも割れる部分があります。
排水口だったと思われる半円形の穴が、今はコンクリートでふさがれています。当時は、手前側(現在道路となっており、私たちが歩いて移動した道)は、溝になっており、その溝に陸軍兵器支廠内の水を排水していたため、こんな排水口が作られていたようです。
藤野先生も「最近になって分かったことです」と話されていました。
これで、広島大学医学部校内の旧広島陸軍兵器廠の遺構のフィールドワークが終わりましたが、藤野先生の案内のおかげで、ずいぶんと多くのことを学ぶことができました。
いのちとうとし
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