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2022年12月 5日 (月)

ヒロシマとベトナム(その39-1)

ベトナム象、広島を歩く-3

ベトナム象、旧山陽道に入る

Photo_20221204103501

諸文献をもとに筆者作成

3月25日、小倉藩大里の港から舟で赤間ケ関に渡り、約3kmの行程を歩き下関宿に入ります。異常寒波のため下関で4日間足止めされ、29日に旧山陽道(西国街道)の旅が始まります。その行程は下表の通りです。

旧山陽道に入ったベトナム象は長府藩を経て長州本藩から徳山藩へと向かいます。その様子が徳山毛利家文庫「御書出控」に残されています。それによると、当初4月1日に徳山宿に着く予定だったようですが、小郡近辺で象が足を痛めてしまい、スケジュール変更を余儀なくされます。急遽、徳山藩は福川宿に象小屋を準備しますが、この日は徳山藩に入らず宮市宿泊まりになります。

翌4月2日、象は徳山藩領に入ります。ちょうど在国中だった第5代藩主の毛利広豊は、父(第3代藩主元次)の側室だった蓮性院や姉などとともに象の宿舎「御客屋」(注1)で待ち受け、見物したと記されています。将軍吉宗が求めた珍獣にどのような感想を持ったのか記述はありませんが、その大きさと姿に驚いたことでしょう。

Photo_20221204103701

なぜ象は足を痛めた? その日の行程も謎

小郡付近で足を痛めということですが、どの辺りだったの探ってみます。と言っても記録が無いのであくまでも想像です。4月1日の朝、山中宿を発ったベトナム象はこの日の宿泊地、徳山宿を目指したことになります。距離にして約12里の46.8Km、通常のほぼ倍の距離です。

筆者にはとても信じ難い行程です。「ベトナム象、広島を歩く-2」(11月5日)で紹介した岡山藩に残る『象御領内通候一件』には、長崎奉行所の御触書が記録されています。「象一日の内に道程(みちのり)四里()ほどずつ()歩行つかまつ()り候」、「五里(り)とハ歩行(かち)得不(えず)仕候由(つかまつりそうろうよし)」と、象が一日に進むことのできる距離を4~5里(16~20Km)としています。

さらに、「象一日に十里()とは歩行(かち)計りがた()く候につき、本宿(ほんじゅく)にてこれなき所にも止宿(ししゅく)申す儀もこれあるべき儀に候」とあるように、山中宿から12里先の徳山宿を目指したとは筆者には信じ難いことです。もしかすると、下関で足止めを食らった4日間を取り戻そうと無理して、象が足を痛めたのかも知れません。山中宿から舟木宿の間に比高100mほどの舟木峠超えがありますので、そこで足を痛め小郡宿辺りで痛みに耐えられなくなったのかも知れません。

いずれにしても、徳山宿を目指したけれど、結果、山中宿から5里(20Km)、通常の象の行程である宮市宿に泊まったということなのでしょう。

4月3日朝五つ時(午前8時頃)徳山宿を出発し他ベトナム象は玖珂宿、関戸宿、小方宿を経て4月5日に芸州広島藩領の最西端、現大竹市の玖波宿に入ります。

(注1)毛利藩には藩主、他他藩大名、幕吏などの休泊に利用される施設として御茶屋、御客屋、本陣などがありました。御客屋は藩外からの使者、巡検使、見使などの接待や休泊に利用されました。当時の御客屋は現在の山口裁判所構内にあったと伝えられています。

(2022年12月5日、あかたつ)

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