本願寺広島別院のもう一つの被爆石碑
本願寺広島別院の正門を入ると左奥に鐘楼と並んで一番南側に「表忠塔」と刻まれた大きな石碑が目に入ります。
上部が、先日紹介した「納骨所石碑」と同じように上部の一部が欠けているのがわかります。
裏側に廻ると、こちら側も少し欠けている部分があるのに気づきます。こちら側には、少し読みにくいのですが、この碑の由来が、カタカナで次のように刻まれています。
「七八年戦役ニ出征シ戦地ニ傷病ヲ得テ當地豫備病院ニ没セラレシ
竹中陸軍少将以下二千百七十九名ノ香骨ヲ納安シ永ク殉国ノ誠忠ヲ
追慕セシガ為ニ本塔ヲ建設ス
大正七年四月 廣島別院
輪番 真宗司教凌雲識」
「七八戦役」とは、明治37年(1904年)から翌年にかけて行われた日露戦争のことです。この碑は、その日露戦争に出征し戦地でケガをしたり病気になったため帰国した後、廣島別院の本川を挟んだ対岸にあった予備病院(後の陸軍病院)で治療中に亡くなった人のために本願寺広島別院が建立したものです。2197人もの多くの兵士がなくなったことがわかります。
大正七年四月の文字が刻まれていますので、この石碑が被爆していることがわかります。
この「表忠塔」と刻まれた石碑の右横には、新たに造られたと思われるこの石碑に関わる説明板があります。
この説明板にこれまで記した「建立の経緯、被爆した」ことなどが記載された後、次のような文章が続いています。
「私たち浄土真宗本願寺派は、明治から第二次世界大戦終結まで『国家神道』という国の宗教を受け入れた教えを説き、戦時体制を擁護してきました。これは、あらゆるいのちの平等を説かれたお釈迦さまの教え(仏教)に背くふるまいでした。
この表忠碑を通して、わたしたちは自らの教団の歴史を直視し、自覚的に非戦平和に向かう道を問い続けます。同じ過ちを繰り返さないために、たち返るべき『慚愧(ざんぎ)の証』として表忠塔はここに存在します。」
事務所ではこんな話も聞きました。「こうした石碑は、全国のお寺に立っていたようですが、それらは終戦とともに撤去されたり、埋められたりして現存するものは、ほとんどないと聞いています。ここでも、そうした声はあったようですが、この石碑を残すことで、過去の誤りと向き合い、同じ過ちを繰り返さないように戒めにしようということで、そのことをきちんと記した説明版を作って、あえて残すことにし、境内を整備した時、この場所に置くことになりました。」
本願寺広島別院としては、この石碑をあえて残すことで、過去の過ちと向き合い、「非戦平和」への道を進む決意を見える形で示されたのです。紹介されることの少ない被爆した「表忠塔」ですが、ぜひ本願寺広島別院を訪れた際には、見てほしい石碑です。
14日のブログ(本願寺広島別院の被爆: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))に「被爆前の写真が見たいです」とのコメントがありましたので探したところ、次の写真を見つけることができました。
広島原爆戦災誌の第4巻に「被爆前の広島別院と墓地」と書かれて、上記の写真が掲載されていました。よく見ると写真の左上部は半円で囲まれて墓地の写真が編集されています。
いのちとうとし
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