「広島ブログ」

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2022年12月

2022年12月31日 (土)

2022年は、どんな年だった?

激動といってよい2022年も、残すところ今日一日となりました。

「新・ヒロシマの心を世界に」をアクセスしていただいた皆さんに、心から感謝申し上げます。

今年を振り返るとき、どうしても忘れることができないのは、今年初め体調不良に陥り、1月中旬から2月いっぱいブログ活動を休止したことです。2019年にこのブログを開始して以来初めての長期休止でしたが、何とか3月に入り不定期ではありましたが、イライザさん、遊川さん、木原さん、あかたつさんの応援を得て、再開することができました。毎日更新するには、苦労もありますが、ブログのネタ探しが私の活動を支えてくれているような気がしています。来年も、毎日休みなしで続けられるかどうか自信はありませんが、いま起きている政治の状況を考えるとメッセージを発信し続けることも大切だと思っています。

それにしてもロシアによるウクライナ侵略戦争の開始は、世界の情勢を大きく変化させました。日本の政治情勢の変化も無縁ではありませんでした。安保3文書の閣議決定に見られるように平和憲法を無視した軍事大国化、他国への攻撃ができる国への大転換が、国民の声を聞くこともなく進んでいます。

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昨日も平和公園に行ってきましたが、原爆ドームが見ながら、この原爆ドームはいったい何を訴えるために立ち続けてきたのか、立ち続けるのか、考えてみました。

来年もこの流れが続くものと思われますが、この流れに竿さし、声を上げ続けることが広島の役割だと改めて感じています。

「新・ヒロシマの心を世界に」が、その役割の一端を果たせるよう来年もがんばりたいと思います。

どうか良い年をお迎えください。

いのちとうとし

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2022年12月30日 (金)

2022.12月のブルーベリー農園その3

東広島市豊栄町のブルーベリー園は標高が約400mあり、雪が多く農作業ははかどらない。安芸の自宅から週末農業で通っているが18日の日曜日などは、自宅から意を決して農園にドライブしたが雪多くつもり、気温1度の自然環境に気持ちが追い付かず農園を見回りして早々と帰った。カラスだけがカアーカアーと終日鳴いてる。冬ざれという言葉通りの景色が広がっている。

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1214日(水)

農園はうっすら雪景色

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3段あるブルーベリー畑の剪定を本格的に始める。

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太くて古い枝は人の手首位の太さで幹といってもいい。今シーズンの剪定では古くて太い枝を切っていきその後で細かい剪定を進めることにしている。

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だから、今の作業は伐採という感じだ。地面から30センチ位のところから切る。新しい芽が出やすいのがこの高さのためだ。

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3時過ぎ雪もちらつきだしたので帰路につく。近くの農家の柿の実にカラスが数羽とまっている。冬のカラスの食べ物になる。

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1218日(日)

里山のブルーベリー園の見回りをすると雪の上にあちこちに赤い実が落ちている。柿の実で、中はきれいに食べられて、外の皮だけが残っている。この周辺の杉林にたくさん住んでいるカラスの仕業だ。

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気温は1度で寒いし、雪は積もっているし、ブルーベリーの剪定はあきらめて農園の見回りだけをして帰ることにした。

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ブルーベリー畑に緑肥用に秋に蒔いた麦科の植物が良く伸びている。

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ブルーベリー畑とナンテン

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雪とナンテン

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ボケの蕾。

 

 

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

【編集者】今年最後の遊川さんの「ブルー農園」便りです。遊川さん一年間、心温まる素晴らしい写真の数々ありがとうございました。

来年もよろしくお願いします。

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2022年12月29日 (木)

酒蔵通り

久しぶりに青空がくっきりと見えた12月最後の日曜日、ある学習会に参加するため東広島に行きました。

会場は、西条駅から徒歩で20分ほどの場所です。会場まで徒歩ですので、久しぶりに酒蔵通りを通っていくことにしました。酒蔵通りは、駅前の最初の横道です。入り口はちょっと小さめですので、見逃しそうです。

少し進むと、右手に造り酒屋の建物の長い白壁が続きます。

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この建物の切れたところに賀茂鶴酒造の仕込み水「福神井戸」があります。だれでも自由に水をくむことができます。

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説明板には「水質は素材の繊細な味を引き出し、緑茶・紅茶・、炊飯、料理全般に適しています」と書かれています。

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いつもここで、この水を飲むことにしていましたので、この日も一口飲みたかったのですが、自宅で使おうと3人ほど水くみに来ておられましたので、遠慮してその場を離れました。

すぐ左手に、旧西国街道の陣屋跡の立派な門が建っています。

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さらに進むと、賀茂鶴酒造の別の醸造用建物が続きます。

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二本の赤い煙突が、青空に映えています。

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酒蔵とは違う西洋風のこの建物には、「賀茂鶴酒造株式会社本店」の看板がかかっていました。玄関の軒下には、杉玉がありましたが茶色でしたので、また新酒はできていないのでしょう。

西洋風の建物右隣に、醸造所の広場があり、右奥の醸造所で使われたと思われる道具が、乾されているのが目に入りましたので、一枚写真撮りました。

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少し歩くと、亀齢酒造の酒蔵の一部が見えるところがありました。

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酒米が入った袋が何袋かありましたが、奥まで見ることはできません。

福美人酒造の前を通り少し歩くと、右側の建物の軒に「鏝絵」がありました。

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この道は何度も通ったことがありますが、「鏝絵」に気づいたのは初めてです。五穀の神様大黒さんは、米俵の上に座り、商売の神様恵比寿さんは、右手に釣り竿、左手に大きな鯛を持っています。五穀豊穣、商売繁盛を願った鏝絵です。

真っ青な青空ですので、白さが際立っています。

短い時間でしたが、前日までの寒波が収まり、思いがけない散策となりました。

いのちとうとし

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2022年12月28日 (水)

旧広島陸軍兵器支廠フィールドワーク-その4

今日は、弾薬庫跡の紹介です。以前からここに弾薬庫の遺構が残っていることは知っていましたが、現地を訪れたのは今回が初めてです。

弾薬庫跡といっても、弾薬庫そのものの遺構はもちろん残っていません。弾薬庫跡を偲ばせるものは、周囲にめぐらされた土塁です。

広大医学部の東側を通る南北に貫く道路の東側・中国管区警察学校の西側境界に当時の土塁の一部が残っています。

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中国管区警察学校の入り口から南に約100m続いています。

土塁の傾斜は急ですが、どういう目的で使用されたのかは不明ですが、所々に煉瓦でつくられた石段が刻まれています。

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この石段をよく見ると、石垣のところで終わっています。現在の土塁は、下側が石垣になっていますが、石垣の高さは私の背丈(180cm)より高いので、当時の土塁は、もっと手前まで延びていたことが想像できます。道路をつくるときに、石垣の部分から道路側に延びていた斜面が削られたため、削り取った垂直部分が、石垣になったのです。土塁の高さは、私の目測ですが、約5m以上あると思います。

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土塁の一番南側まで行くと、コンクリートの壁がありますが、切り口を見ることができ、土塁が頑丈に作られていたことがわかります。

ところで段原公民館の講座で、藤野先生から「弾薬庫は、最初広島城を中心とした陸軍の敷地内に作られたが、広島陸軍兵器支廠が作られると同時に、この場所に移設された。終戦が近くなった時期に、米軍の空襲から逃れるため、東広島の八本松に移設された」ことが紹介されました。藤野先生の話では、それぞれ移転した年を紹介していただいたのですが、メモを取り忘れてしまいました。

私は、藤野先生が「八本松に移設された」と聞いた時、その場所は、八本松に今もある「川上弾薬庫」だと勝手に思っていましたので、メモを取り忘れた移設の年を調べようと「川上弾薬庫」の歴史を調べました。そこで私はとんでもない間違いをしていたことに気づきました。現在は米軍が所有している「川上弾薬庫」は、もともと海軍の弾薬庫として作られたものですから、ここに陸軍の弾薬庫が移されることは絶対にありえなかったはずです。

それでは、「八本松に移設された弾薬庫はどこに移設されたのか?」が気になります。さらにネットで調べてみると、米軍空中写真を用いた広島陸軍兵器補給廠八本松分廠の調査と活用方法の提案 - 広島大学 学術情報リポジトリ (hiroshima-u.ac.jp)が見つかりました。

詳しくはこの論文を読んで欲しいのですが、ここに記載された内容によれば、八本松駅から東南に2.1kmほど離れた丘陵地に陸軍の弾薬庫跡が、見つかっているのです。戦時中は、八本松駅から引込線が延びていたことも紹介されていますので、この場所で間違いありません。ようやく疑問が解けましたので、少し暖かくなったら、東広島のあかたつさんと一緒に、この場所を訪ねることを約束しました。

旧広島陸軍兵器支廠フィールドワークの後に訪ねた場所があります。

それは、霞町に弾薬庫が移る以前の弾薬庫があった基町です。その場所は、現在広島地方・高等裁判所が建っている場所です。

その敷地の北側に、当時の弾薬庫の周りに作られていたと思われる土塁の一部が残っています。

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以前は、手前の空き地部分に住宅が建っていましたが、この住宅が壊され整地されていましたので、今回はこれだけはっきりと残った土塁を見ることはできませんでした。手前のフェンスが約2mですので、ここの土塁の高さも約2mぐらいです。

真ん中に写っている大きな木が、被爆クスノキです。この木も以前は、こんなにきちんと写すことはできませんでしたので、これだけでもここに来たかいがありました。

この報告で、「旧広島陸軍兵器支廠フィールドワーク」は終わりです。

いのちとうとし

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2022年12月27日 (火)

旧広島陸軍兵器支廠フィールドワーク-その3

旧広島陸軍兵器廠の遺構から発掘された一部が移設されている場所に移動しました。

フェンスに説明版が3枚取り付けられています。

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立体駐車場の中ですので、頭に気をつけながら、中に入ります。

最初に目に入ったのは、石組枡です。

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発見当時は、蓋があったようです。中をのぞくと、説明版にあるように、配水用の土管があるのがわかります。陸軍兵器支廠官舎の建設に伴って設定されたものです

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石組排水路の一部も保管されています。説明版が無ければ何かわかりません。

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第14兵器庫の建物周囲に配置されていたものです。説明版に詳しくその様子が記載されていますが、幅約18cm厚さ約20cm、長さが25m前後の角柱材の花崗岩切石2本を平行に並べて作られていたようですから、いかに潤沢な資材を使って兵器廠が作られたのかが想像できます。

もう一つは、大型建物礎石です。

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この礎石の上には、東西約20m以上、南北約25m以上の規模の大型建物が建っており、礎石は、東西約3.6m、南北約7.2mの間隔で設置されていました。

大型建物で入口にあった扉を支えていた軸受付の礎石も移設されています。角が丸く削られていることでそのことがわかりますが、遺構を横から見るとその様子がはっきりと見ることができます。

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写真の一番手前の礎石が、入り口のものです。角が丸くなっているのがよくわかります。こうした発掘によって、当時の配置図が間違にないものだということがわかるのです。

藤野先生たちの努力によって移設保管された貴重な遺構です。取り付けられた説明版に詳しい紹介がありますので、一人で訪れても十分理解できると思います。ぜひ見学してほしい遺構です。

この場所での見学を終え、広大医学部構内を東に突っ切り、道を挟んで東側にある中国四国管区警察学校前まで移動しました。ここは、かつて弾薬庫があった場所です。この弾薬庫の紹介は、次回に回し、広大医学部に残る遺構を続けます。

広大医学部敷地の南側境界の道路に移動しました。ここには、遺構が、今も塀の一部として使われています。

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フェンスを支えている塀はブロックとコンクリートですが、その一番下に少し色の変わった部分があります。ちょうど指さしている部分ですが、花崗岩のブロックが横並びに東端から西端まで続いています。この花崗岩のブロックが、当時の陸軍兵器支廠の境界として使われていた石です。よく見ると何か所かに、当時の排水溝とも割れる部分があります。

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排水口だったと思われる半円形の穴が、今はコンクリートでふさがれています。当時は、手前側(現在道路となっており、私たちが歩いて移動した道)は、溝になっており、その溝に陸軍兵器支廠内の水を排水していたため、こんな排水口が作られていたようです。

藤野先生も「最近になって分かったことです」と話されていました。

これで、広島大学医学部校内の旧広島陸軍兵器廠の遺構のフィールドワークが終わりましたが、藤野先生の案内のおかげで、ずいぶんと多くのことを学ぶことができました。

いのちとうとし

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2022年12月26日 (月)

旧広島陸軍兵器支廠フィールドワーク-その2

段原公民館での藤野次史先生の調査報告が終わり、いよいよ現地でのフィールドワークです。集合場所は、広島大学医学部正門横に建つ医学資料館前です。参加者約20人は、三々五々集合場所に移動します。私は、自転車で移動しました。

発掘された遺構ではありませんが、最初に医学資料館の外観を見学しました。この建物については、2020年11月27日に(宇品線のモニュメントを訪ねてーその2・ちょっと寄り道: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))で紹介しましたが、今回新しいことに気づきました。

2020年11月27日のブログでは、この医学資料館は、旧広島陸軍兵器支廠の11号館の「被爆煉瓦や石材を再利用して建て替えられた」ことを紹介するとともに次のように書いています。

「正面玄関左右の窓枠の下の煉瓦は、全体と比べると黒っぽい色をしています。ここに、白い石とともに被爆当時の煉瓦が使われています。」

しかし、今回分かったことですが、被爆煉瓦が使われたのは、「窓枠下の煉瓦」だけではありませんでした。正面玄関の左右の窓二つの周りの煉瓦も11号館の被爆煉瓦が使われていることがわかりました。

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写真は正面玄関右側の壁面ですが、下側の二つの窓の周囲の煉瓦とその上の窓の部分(上部が写真では切れている)の煉瓦は、明らかに違いがあります。上部の煉瓦(建物全体がそうですが)が、作られたばかりの鮮やかな色で長方形の形が全くくずれていないのに対し、下側の窓枠の周囲の煉瓦は、この写真では見えにくいのですが、近づいてよく見ると、色も不揃いでほとんどの煉瓦の角が欠けていますので、違いがはっきりと分かります。

正面玄関の左側も同じです。

いよいよ、これからが発掘調査現場のフィールドワークです。この医学資料館の北側に私たちが見学しようとしている立体駐車場があります。

全て埋められていて、何を見るのだろうと思っていました。ところが、立体駐車場の入り口に立つと、そこに看板が取り付けられているのが目に入りました。

柱の陰になっていますので、気をつけないと見逃がしそうです。看板を見逃すというより、そこに看板があることなどこれまでは全然気にもしていなかった場所ですから気づくはずがありません。今回は、発掘調査を行われた藤野先生の案内があったから辿りつけた場所です。

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「こんな柱の影でなくもっとよく見えるようにつければよいのに」と言いながら看板をよく見ると一番下に「広島大学総合博物館埋蔵文化財調査部門」と書かれているのが目に入りました。余計なことを言ってしまったと思いました。この看板は、藤野先生たちの努力によって何とか掲示されたものだったのです。

柱の陰になっていましたが、何とかスマホの位置を工夫し、この看板を写真に収めることができました。

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看板には、「発見された遺構移設のご案内」と書かれています。

看板には、「旧広島陸軍兵器支廠フィールドワーク-その1」で紹介した「上空からの発掘当時の写真」とともに、藤野先生からレクチャーを受けた内容が簡潔にまとめられて書かれています。

そして写真の下側に地図が書かれています。

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看板の「遺構移設」ということばが気になったのですが、この地図を見て納得がいきました。すでに埋め戻されたと思っていた発掘された遺構の一部が、この駐車場の一角に移設保存されているのです。地図には、赤丸でその場所が示されています。早速その場所に移動しました。そこにはいくつかの遺構が、展示されていますが、ここまでの紹介で字数を費やしてしまいましたので、その様子は、次回紹介します。

いのちとうとし

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2022年12月25日 (日)

爽やかな風を感じたい師走だが!!

爽やかな風を感じたい気持ちの師走ですが、なかなか感じさせてくれないですね。11月頃から喪中ハガキが相次いで届きました。「えっー」という唸り声とともに、生前の思い出が沸いてきて悲しくなる日々でした。

「少数労働組合」で頑張っておられ、たくさんのことを教えてもらった二人の方の喪中ハガキは、そのハガキを持ったまま立ち尽くしてしまいました。飲みながら熱く話し込んだこと、一緒にチラシを配ったこと、大切にされたこと、期待されたこと、それに応えようと頑張ったこと、などなどが思い浮かびます。

歌謡曲で「いい奴ばかりが先に逝く。どうでも良いのが残される」というフレーズで始まるのがありますが、まだまだお互いに頑張りたかったのですが。

広島電鉄の宮島線電車が開業から100年ということで、『わたしの宮島線』というタイトルのエピソードを200字程度で募集していました。

なんとなくという気持ちで応募したら採用されてしまい、3月末まで宮島線の2台の電車の吊り広告に掲示されています。

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広島電鉄ホームページより

こんな文章です。

若くして夫を亡くした母は、宮島線の草津駅近くで働いていました。私は小学生の頃、毎日五日市駅まで迎えに行ってました。現在の場所より50メートルぐらい西側に駅はありました。母が到着するまで、駅舎の中でずっと待っていました。

 ある日、母は大きな布袋の中に子犬を入れて電車から降りてきました。「これが居ったら、省治も寂しゅうないじゃろー」と話しました。迎えにくる息子が愛おしかったのか、煩わしかったのか知りませんが、今でもあの前の道を通る度に思い出します。

11月29日、東京都立大学の宮台真司教授が切りつけられて、重傷を負ったというニュースがありました。宮台さんとは直接的な交遊はありませんが、とても共鳴する評論をしている方だと尊敬していました。

しかしこれを知った同大学学生のコメント、「怖いです」「早く捕まってほしい」「あしたから学校へ行くのが怖くなる」と語り、大学は集団帰宅を呼びかけたといいます。学生の気持ちも、学校の措置も分からなくはないのですが、なぜ加害者への怒りのコメントが無いのだろうか、集団帰宅は小中学校生のようで、なんともまあ-イヤハヤという気持ちになりました。

あれから約1か月、日本の警察なら容疑者を捕まえるだろうと思っていましたが、慎重な捜査が続いているのでしょうね。

平和公園を訪れる修学旅行生らへの碑めぐりガイドの用事が、コロナの行動制限の緩和とともに、どんどん入ってきていました。師走になったから、もう無かろうと思っていましたが、22日で年内は終わりました。

平和公園に来て何かを感じ取りたいという思いで来る人に、碑めぐりのひと時が、これからの世界の平和について考える『熱い思いの時間』になって欲しいと思うのですが。

22日のGX(グリーン・トランスフォーメーション)会議で、政府が原発回帰に大きく踏み込んだこと、この号で書こうかと思っていましたが、年明けの最初の号にさせていただきます。

私が担当するブログの年内分は今号で終わりです。読んでいただきありがとうございました。

木原省治

【編集者】木原さん、今年一年様々な問題提起、ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

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2022年12月24日 (土)

旧広島陸軍兵器支廠フィールドワーク-その1

今月18日の日曜日、「加害の歴史から広島を考える会」「廣島、ヒロシマ、広島を歩いて考える会」の2団体が主催する「軍都廣島フィールドワーク 旧広島陸軍兵器支廠周辺の遺構を歩こう」が、開催されました。

もともとは、4日に予定されていたものですが、講師の都合で延期となった企画です。

午前9時から、段原公民館で藤野次史先生(広島大学名誉教授)を講師に、事前学習が行われました。と書きましたが、実は当日この冬一番といわれる寒波が襲来し、藤野先生の到着が遅れました。後で藤野先生にお聞きをすると「自宅の緑井は、朝7時には雪はまだちらちらという降り方だったのですが、いざ家を出ようと思って8時過ぎには、家の周りは雪が積もっており、とても車では行けないと急きょ公共交通手段に乗り換えたため遅れてしまいました」という事情だったようです。

藤野先生の到着が遅れるということで、急きょ「太田川漁業協同組合事務所(安佐北区可部町今井田)として使用されている亀山水力発電所の保存運動」の紹介がありました。この発電所は1912年に建設されたレンガ造りの建物です。この建物が、安佐北市民病院の移転に伴う道路拡幅工事のため、取り壊しされる計画があるため、貴重な建物として保存しようと運動が始まったところです。

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旧亀山水力発電所

こちらの話も興味ある内容ですので、ぜひ改めて紹介したいと思います。

少し遅くなったのですが、講師の藤野先生が無事に到着されたので「広島大学霞学区の旧広島陸軍兵器補給廠(支廠)の遺構」と題しての講演が始まりました。

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広島大学医学部と広大病院が建っている場所には、現在は全て取り壊されていますが、戦前広島陸軍兵器補給廠がありました。

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広島郷土資料館発行「陸軍三廠」より

そのため広島大学は、この場所の建て替えに伴い、遺構や遺物の発掘調査を行っていますが、藤野先生は、その発掘調査の責任者として調査を進めてこられました。

私たちは、この遺構を呼ぶときに普通「旧広島陸軍兵器支廠」と呼んでいますが、1940年(昭和15年)に、従来の兵器廠に造兵廠が加わり兵器廠が誕生し、名称も兵器支廠から兵器補給廠に代わり、そのまま終戦を迎えていますので、正確には藤野先生が書かれているように「旧広島陸軍兵器補給廠(支廠)」と呼ぶのが正しいようです。

広大霞キャンパスの全体の発掘調査が実施されていますが、今回は、現在西側立体駐車場が建っている敷地内北側の発掘調査からわかったことが紹介されました。上の地図の左上部、第14兵器庫、第4未填薬弾丸庫が建っていた当たりの場所です。

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西側立体駐車場の発掘現場(手前が東)

これまでの調査で、建物跡、兵器庫跡、軽便鉄道軌道後、石組排水路、コンクリート敷き道路跡、池跡などが見つかっていることが発掘時の写真を示しながら報告されました。

1時間余りの調査報告が終わり、いよいよ現地に移動しましたが、その様子は26日以降に紹介します。

いのちとうとし

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2022年12月23日 (金)

ベトナムの歴史(その19) 抗仏闘争-3の2

斎藤隆夫の「反軍演説」

日本軍の仏印インドシナ進駐が行われた1940年(昭和15年)の記憶に留めるべき出来事を紹介します。2月2日、民政党の代議士・斎藤隆夫が行った「支那事変処理に関する質問演説」です。

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(演説する斎藤隆夫、1940年 「長州新聞」より)

少し長くなりますが、以下、斎藤隆夫著『回顧70年』(中公文庫)から紹介します。

「一体支那事変はどうなるものであるかいつ済むのであるかいつまで続くものであるか、政府は支那事変を処理すると声明しているが如何にこれを処理せんとするのであるか国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、この議会を通じて聴くことが出来得ると期待しない者は恐らく一人もないであろうと思う」

「そこでまず第一に我々が支那事変の処理を考うるに当たりましては、寸時も忘れてならぬものがあるのであります。それは何であるか、他のことではない。この事変を遂行するに当たりまして、過去二年有半の長きに亘って我が国家国民が払いたる所の絶大なる犠牲であるのであります。即ちこの間におきまして我が国民が払いたる所の犠牲、即ち遠くは海を越えてかの地に転戦する所の百万、二百万の将兵諸士を初めとして、近くはこれを後援する所の国民か払いたる生命、自由、財産その他一切の犠牲は、この壇上におきまして如何なる人の口舌をもってするも、その万分の一をも尽くすことは出来ないのであります。」(拍手)

さらに斎藤は戦時下の国民に忍耐を強いながら、戦時経済の波に乗って莫大な利益を得ている者がいると告発します。

「例えば戦争に対する所の国民の犠牲であります。いずれの時にあたりましても戦時に当たって国民の犠牲は、決して公平なるものではないのであります。即ち一方においては戦場において生命を犠牲に供する、或いは戦傷を負う、しからざるまでも悪戦苦闘してあらゆる苦艱に耐える百万、二百万の軍隊がある。またたとえ戦場の外におりましても、戦時経済の打撃を受けて、これまでの職業を失って社会の裏面に蹴落とされる者もどれだけあるか分からない。しかるに一方を見まするというと、この戦時経済の波に乗って所謂殷賑(いんしん)産業なるものが勃興する。或いは「インフレーション」の影響を受け一攫千金はおろか、実に莫大なる暴利を獲得して、目に余る所の生活状態を曝け出す者もどれだけあるか分からない。(拍手) 戦時に当たってはやむを得ないことではありますけれども、政府の局にある者は出来得る限りこの不公平を調節せねばならぬのであります。」

にもかかわらず、政府は国民に求めるだけで責任を果たさないと追及の手を緩めません。

「しかるにこの不公平なる所の事実を前におきながら、国民に向かって精神運動をやる。国民に向かって緊張せよ忍耐せよと迫る。国民は緊張するに相違ない。忍耐するに相違ない。しかしながら国民に向かって犠牲を要求するばかりが政府の能事ではない。(拍手) これと同時に政府自身においても真剣になり、真面目になって、もって国事に当たらねばならぬのではありませぬか。」

 

この演説が原因で一ヶ月後の3月7日、斎藤隆夫は衆議院議員を除名されます。

下はその時に詠った漢詩です。


吾言即是万人声 (吾が言は即ち是れ万人の声)

褒貶毀誉委世評 (褒貶毀誉は世評に委す)

請看百年青史上 (請う百年の青史の上に看る事を)

正邪曲直自分明 (正邪曲直自ずから分明)

この詩は地方政治に身を置く者として働かせていただいた20年間、〔こうありたい〕と目標にしてきた言葉です。年が明けると斎藤隆夫がこの演説をした歳と同じ71歳を迎えます。この演説から80年余経た今日の世情を見るにつけ、当時と重なって見えるのは私一人でしょうか。

あらためて心に刻まなければと思っています。

次号で「200万人餓死」をはじめ、日本軍進駐下のベトナムについて報告します。

(2022年12月23日、あかたつ)

【編集者】今日は、遊川さんの「12月のブルベリー農園その3」の予定でしたが、遊川さんに不測の事態が起こり、掲載が困難となりましたので、24日に予定していたあかたつさんの原稿を掲載しました。「12月のブルベリー農園その3」は、後日掲載します。

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2022年12月22日 (木)

憲法を守る広島県民会議が、2023年度総会を開催

憲法を守る広島県民会議2023年度総会が19日午後6時から自治労会館で開催されました。

大瀬敬昭新事務局次長の開会あいさつで始まった総会は、岩本喜寿常任幹事(平和・福祉を進める会)が、議長に選出され議事に入りました。

最初に檀上正光代表委員があいさつ、続いて藤本講治事務局長が、2022年度活動報告、2023年度活動方針などの議案を提案しました。

活動報告では、昨年12月22日の総会以降の12・8不戦の誓いヒロシマ集会や紀元節復活反対!平和・民主主義・人権を守る2・11ヒロシマ集会がコロナの影響で中止しとなったこと、春季の護憲運動の取組、復帰50周年「5・15沖縄平和行進」、秋季護憲運動の取組について、報告がありました。また、「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動」の街頭アピールなどの取組、このブログでも毎月紹介している府中市、三原市、そして三次で「19日行動」が実施されていることも紹介されました。

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活動方針では、「改憲をめぐる情勢」として「①参議院選挙の結果、改憲勢力が衆議院、参議院とも憲法改正発議に必要な3分の2以上の議席を有しており、改憲が現実的な課題となっている。②衆院・参院の憲法審査会で、緊急事態条項などの論議が行われており、来年の通常国会に向けて改憲手続きが一気に加速する可能性が出ている。③ロシアのウクライナへの軍事侵攻が続くなか、岸田政権が軍事費の倍増や敵基地攻撃能力の保有など安保関連3文書を閣議決定するなど『戦争する国づくり』へ前のめりとなり、実質的な改憲を進めている。④この情勢の中で、改憲にひた走る岸田政権に対峙し、平和憲法を守りぬくため『改憲発議阻止、軍備増強を許さない』取り組みを職場や地域から進めなければならない」ことを提起しました。

この情勢の下、各種集会など従来の取組を継続して取り組むとともに、さらに県民・市民への働き掛けを強める活動方針が提起され、全体の拍手で確認されました。

新役員は、多くが留任となりましたが、平和運動センターの役員交代に伴い新たに代表委員に高橋克浩(平和運動センター議長)さん、事務局次長に大瀬敬昭(平和運動センター事務局長)が選出されました。

総会は、山田延廣(弁護士)代表委員の閉会あいさつで終了しました。

その後、昨年から行われていますが「憲法をめぐる情勢の学習」ということで、今年は私が講師を務めることになりました。私は、「憲法をめぐる情勢」と題して、主に今臨時国会での衆参憲法審査課会の動き、特に12月1日の衆議院憲法審査会に提出された「『緊急事態』に関する論点整理」を中心に現在の憲法改正をめぐる国会の動きを報告するとともに「憲法審査会の状況についてホームページなどでチェックすることが大事だ」という問題提起を行いました。

来年は、国会での改憲論議を進むことが危惧されます。私たちの運動の重要性、課題も明確になっています。常に声を上げ、行動し、世論を喚起する活動を粘り強く取り組みたいと思います。

いのちとうとし

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2022年12月21日 (水)

府中地区・12月の「19日行動」

安保法制(戦争法)に反対する府中市民の会の12月の「19日行動」は、いつものように上下Aコープ前(午後3時から30分間 11人参加)と府中天満屋前(午後4時30分から30分間 参加者12人)の2か所で、リレートークとスタンディングを行いました。
 今月動は、12月16日に政府が閣議決定した「安保3文書改悪」「防衛費倍増」に抗議する街頭行動となりました。

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雪が降り積もる上下での街頭アピール

リレートークでAさんは、「毎日新聞は17、18の2日間、全国世論調査を実施しました。岸田内閣支持率は25% 政権発足以降で最低となっています。理由はロシアのウクライナ侵略から、日本中の人が戦争をやめようと願っているときに、岸田首相が戦争の準備をしているからです。」「また、岸田首相が防衛費増額の財源について、1兆円強を増税でまかなう方針を示したからです。」

Bさんは、「日本の安全保障を専守防衛から先制攻撃である敵基地攻撃に変えた安保関連3文書の閣議決定は憲法9条違反です。このような重要な決定が、安倍元首相による集団的自衛権の行使容認を認めた時と同じく、またしても閣議決定のみで決定しました。国会審議もなく、7月の参議院選挙では一つも言っていません。国民の信を問うのが先です。今すぐ解散です。」

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こちらはまったく雪のない府中での街頭アピール

Cさんは、「今でも日本の軍事費は世界第9位なのに、軍事費を倍増したらアメリカ、中国に次いで世界第3位となります。これでは日本は世界の国々に脅威を与えているだけです。」

Dさんは、「岸田首相は『軍備を拡大することは国民を守ること』と言っていますが全くのデタラメです。今日、サッカーのワールドカップでアルゼンチンが優勝しましたが、日本が負けたコスタリカは軍隊を持たない国です。貧しい国といわれていますが、コスタリカは日本の憲法9条に学び非軍事、軍隊を持たないことを選択しました。軍隊を持たないので軍事費がいりません。そのためコスタリカの教育費は無料です。貧しいけど豊かな心の国です。コスタリカは日本から学びました。こんどは日本がコスタリカから学んで軍事費を増やすのではなく、へらして保育や教育を無料にすることです。げんに世論調査でも『防衛増税不支持は67%』となっています。」

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石岡真由海さん作の横断幕

そして、「軍事で絶対に平和を守ることはできません。粘り強い外交でしか平和を守ることができないことを77年前の歴史が教えています。日本の平和憲法を活かすべきです。」と訴えて今日の行動を終えました。

最後で全員で輪になって、1年間ご苦労様でした。来年も頑張りましょうと一年間の活動の労をねぎあいました。なお、旧府中市はまったく雪がないのに、旧上下町は歩道まで雪に覆われていたのにはびっくりしました。

小川敏男

【編集後記】小川さん、一年間情報提供ありがとうございました。そして府中地区のみなさんの頑張りにも頭が下がる思いです。「継続は力」来年も粘り強く頑張りましょう。

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2022年12月20日 (火)

ベトナムの歴史(その18) 抗仏闘争-3の1

過去に類を見ない過酷な「二重の軛(くびき)」時代

幾度もの他国による侵略と支配を受けたベトナムの歴史の中でも、「二重の軛(くびき)」と呼ばれる最も過酷な時期がありました。フランスの植民地支配に加え、日本軍に侵攻・支配された第二次世界大戦中のことです。

ベトナムは1847年のフランス艦隊によるダナン攻撃に始まる侵略を受け、1884年にフランスの植民地になります。1887年、フランスはベトナムとカンボジアをフランス領インドシナ連邦とし、1889年にはラオスを加えインドシナ3国を支配下に置きます。

そのベトナムに1940922日、日本軍が北部印度支那(ベトナム北部地方)に侵攻し、日本の敗戦まで駐留(支配)を続けます。ベトナムはその間に200万人を超す餓死者を出します。それは過去に類を見ない犠牲者数であり、ベトナムの歴史上でも最も過酷なものでした。

ベトナムの人たちは、この過酷な時代-日本とフランスに二重に搾取された時代-を象徴して、「一つの首に二つの首枷」と表現します。

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(ベトナム歴史秘話~南部仏印進駐での「日本軍サイゴン入城の軌跡」を解明する~より

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(ベトナムに侵攻する日本軍 Wikipediaより)

日本軍の印度支那侵攻

「200万人の餓死」については次号で述べることにして、日本軍のインドシナ侵攻を理解するために、当時の状況について触れたいと思います。

明治維新、戊辰戦争(注1)で封建制度の殻を破り資本主義へと歩み始めた日本は、殖産と富国強兵政策を進めます。1894年に日清戦争に勝利し台湾を併合、10年後には新興帝国主義国として朝鮮半島の利権をめぐり露西亜と戦い(日露戦争)、日本海海戦と旅順の戦いで勝利します。

その後、1931年の柳条湖事件(注2)に端を発した満州事変、1937年の盧溝橋事件(注3)によって中国との全面戦争へと突き進みます。首都南京を攻略したもののアメリカ、イギリス、ソビエトから大量の物資支援を受けた蒋介石が率いる国民党軍と毛沢東が率いる共産党軍による抗戦により戦いは泥沼化します。

ヨーロッパでは19399月、ナチスドイツのポーランド侵攻よって第二次世界大戦が始まり、インドシナ3国を植民地支配しているフランスは19406月にドイツに占領され、ナチス傀儡政権ヴィシー政権が誕生します。

こうした中で「援蒋ルート」と呼ばれる支援ルートを遮断するためとして1940922日に北部仏印(ハノイ)侵攻、翌1941728日には南部仏印(サイゴン:現在のホーチミン)に侵攻します。真珠湾奇襲攻撃と南方作戦が行われたのは1941128日ですから、その1年余り前のことです。

太平洋戦争へと突き進むターニングポイントになったベトナム侵攻

1940年816日に閣議決定された「南方経済施策要綱」には次の様に書かれています。太字と( )内の記述は筆者によります。

一、南方経済施策ノ目標ハ支那事変処理上並ニ現下世界ニ生成発展ヲ見ツツアルブロツク態勢ニ対応スル国防国家建設ノタメ皇国ヲ中心トスル経済的大東亜圏ノ完成ニアリ

二、南方各地帯、地域ノ経済施策ノ軽重緩急ハ左記ニヨル。

イ、仏領印度支那、泰国(タイ)、緬甸(ビルマ)、蘭(オランダ)領印度、比律賓(フィリピン)、英領馬来(マレー)、英領ボルネオ、葡(ポルトガル)領チモール等ノ内圏地帯ノ施策ニ重心ヲ置キ、英領印度、濠洲(オーストラリア)、新西蘭(ニュージーランド)等ノ外圏地帯第二段トス

〔支那事変(日中戦争)の泥沼化により疲弊する経済・国家状況に対処し、天皇の治める日本を中心とする大東亜共栄圏を完成させること〕、〔その対象地域は仏領印度支那(ベトナム、ラオス、カンボジア)、タイ、ビルマ・・・・を重点とし、印度、オーストラリア、ニュージーランドなどは第2段とする〕としています。

さらに、同年9月3日には「対仏印支経済発展ノ為ノ施策」が閣議決定されます。

二、皇国ノ必要トスル重要物資可及的ニ大東亜圏内ニテ確保シ、・・・皇国必須ノ重要物資ヲ優先的ニ皇国ニ輸出ヲナサシムル・・・・、差当リ仏印支ニ対シ米、石炭、燐灰石、マンガン、工業塩、錫、生ゴム、亜鉛、珪砂等ニツキ輸出ノ保障ヲ要求スルコト・・・・

〔天皇の治める国が必要としている重要物資を最優先に日本に送れ、・・・・さしあたり仏印(ベトナム)に対し米、石炭、燐灰石、マンガン・・・・珪砂(けいさ)を要求すること〕とあります。〔食糧・物資不足に喘ぐ日本国内に向けて速やかに、米などの重要物資を送れ〕ということです。結果、1944年秋から1945年4月頃までの極めて短期間に200万人もの餓死者が出たのです。

この仏印侵攻が鉄屑の全面禁輸、航空機潤滑油製造装置ほか15品目の輸出許可制、 日本の在米資産凍結、石油の対日全面禁輸などを招来させます。そして、10年にも及ぶ泥沼の日中戦争から太平洋戦争へと突き進み、ヒロシマ・ナガサキの惨禍を招いたと言えます。

(注1)戊辰戦争:1868年(明治元年)~1869年(明治2年)、王政復古を経て明治新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が戦った日本最大の内戦。

(注2)柳条湖事件:1931年(昭和6年)9月18日、満州(現在の中国東北部)の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖付近で、大日本帝国の関東軍南満州鉄道線路を爆破した事件。関東軍はこれを中国軍による犯行と発表することで、満州における軍事展開およびその占領の口実として利用。

(注3)盧溝橋事件:1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日本軍と中国軍が衝突し、日中戦争の始まりとなった事件。日本軍への発砲をきっかけに交戦状態となったが、誰が発砲したかについては現在も定説はない。

(2022年12月20日、あかたつ)

【編集者】あかたつさんから「ベトナムの歴史(その19)抗仏闘争-3の2」の原稿も届いていますので、22日もしくは24日の掲載します

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2022年12月19日 (月)

三原地区・12月の「19日行動」

2022年最後の「19日行動」を12月17日(土)、午後1時30分から小雨が降る中、12人が参加して実施しました。

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私たち戦争をさせない三原市民行動は、毎月、三原駅前において安保法制(戦争法)の廃止、憲法改悪反対を訴えており、今年も延べ200人の市民の皆さんが街頭に立って平和憲法を守ろうと訴えてきました。今月の街頭行動は、昨日(16日)岸田政権が敵基地攻撃能力(反撃能力)の保有や軍事費の倍増を明記した防衛力強化に向けた新たな「国家安全保障戦略」など安保関連3文書を閣議決定したことに対し、憲法9条を破壊し再び戦争する国に向かっていると抗議の声を上げました。

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リレートークで花田喜代子さんは、「岸田総理は軍備拡大すると話し合いの時にこちらが有利になる。また、軍備拡大して増税をすることは国民の責任である。と言いました。どちらの話しも大変おかしいと思います」。「今、サッカーのワールドカップ大会が行われています。日本はコスタリカに負けましたが、テレビでコスタリカの国を紹介していました。コスタリカには軍隊はありません。それでも国民は平和で穏やかで、貧しいけれども幸せな毎日を過ごしています。軍隊は無くても平和に暮らせることはできます」。「岸田総理が言うように、軍備を拡大すれば話し合いが有利になるというのは全くでたらめです。こちらが軍備を準備すれば相手側は軍備をそれ以上作ってくると思います。絶対に軍備を増強させてはなりません。できれば今以上に減らしていく方向にがんばっていかなければならないと思います。それをやるのが政治の力ではないでしょうか。軍備拡大でこちらの話しを有利にするのではなく、話し合いでもって、外交でもって平和な世界を作っていく努力をすることが政治の力ではないのでしょうか。」と軍備拡大反対の意見を述べました。

専守防衛から反撃能力(先制攻撃)へと日本の安全保障政策が大きく転換する今、戦争をさせない三原市民行動は、来年も市民の皆さんとの共同で平和憲法を守るために街頭に立ち続けます。

藤本講治

【編集後記】藤本さん、一年間情報提供ありがとうございました。三原地区の行動に敬意を表します。「継続は力」来年もがんばりましょう。

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2022年12月18日 (日)

どんな外交努力がされたのか

岸田首相は一昨日、敵基地攻撃能力保有を明記した「国家安全保障戦略」など安保関連3文書を閣議決定しました。憲法9条に違反するこのような重要な決定が、安倍元首相による憲法違反の集団的自衛権の行使容認を認めた時と同じく、またしても閣議決定のみで決定されました。

ここ数日、自民党内では拡大する防衛費の財源をどうするのかの議論のみが行われ、憲法9条の更なる空洞化というよりも事実上の改憲ともいえる今回の安全保障政策の変更については、全く論議されていません。

安全保障政策の変更の根拠の最大の理由は、中国の軍事動向と朝鮮民主主義人民共和国(以下「北朝鮮」)のミサイル発射だとされていますが、仮にそうだとしたら、この脅威を取り除くためどのような外交努力が行ってきたのかが問われます。

残念ながら、この「脅威」を取り除くための外交努力は、全くされていません。今大事なことは、脅威をあおり軍備を拡大増強する事よりも、粘り強い外交の努力によって、その脅威を取り除くことです。それが平和憲法を持つ日本が進める外交政策、安全保障政策の基本でなければなりません。

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首相官邸ホームページより

戦争はいつも時代も「国を守るため」「防衛」の名によって始まったことを忘れてはなりません。一度始まった戦闘行動を停止させることは、極めて困難です。今のロシアのウクライナ侵攻もそうです。すでに10カ月を超えています。

軍事的脅威とはいったい何かも考えてみたいと思います。

多くの人が指摘しているように、例えばミサイル発射が準備されたとき、そのミサイルがどこを狙っているのかは、誰がどう判断するのでしょうか。

北朝鮮がミサイル発射実験を行った時、「日本の上空を通過した」ことが、繰り返し報道されました。そして、そのミサイルは、米国のグラム島に達する能力があるとも報道されました。同じ方向に向かって飛ぶミサイルが、どこを狙って発射準備をされているのか、正確に判断できるのでしょうか。発射準備中に判断することはできません。それにもかかわらずそれを脅威と感じてしまえば、「専守防衛」など無視され、間違いなく、先制攻撃をするしかなくなるのです。

中国も同じです。中国が日本を攻撃するのはどんな理由からですか。きちんと説明は、一度も聞いたことがありません。むしろそういう事態が発生するとしたら、日本を攻撃するためではなく、中国と戦闘状態に入った日本に駐留する米軍を攻撃する為ではないでしょうか。日本に米軍が駐留することが、日本に危機を招く要因になるのです

安倍元首相が、米軍と共に戦う「集団的自衛権の行使を容認」したからこそ、日本が戦争に巻き込まれる危険性が高まったのです。

外交の努力を置き去りにして、いたずらに「脅威」のみを強調する政治は、終わりにしなければなりません。

「抑止力、対処力を向上させることで、わが国への現実的な武力攻撃の可能性を低下させる」と岸田首相は主張しますが、この抑止力論では、際限のない軍事力拡大を続けるしかなくなります。そしてこの論理が正当化されるなら、いずれ日本は核兵器保有への道を進むことになります。

幣原喜重郎首相(当時)が、憲法に第9条を入れることにした最も大きな根拠は「広島、長崎への原爆投下」でした。

今こそ、憲法9条の精神に立ち返り、非武装国家として日本の安全保障政策の在り方を考えるべきです。その基本は、外国からの脅威を生じさせない徹底した外交努力です。

確かに外交政策を重視する政策は、勇ましく聞こえる「軍事力に頼る」安全保障政策よりも、はるかに時間と粘り強い努力が求められます。

しかし、本当に国民の生命や財産を守るためには、この道しかないことを私は強調したいと思います。「軍事によっては、決して国民のいのちを守ることはできない」ということは過去の歴史が教えていることです。

いのちとうとし

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2022年12月17日 (土)

本願寺広島別院のもう一つの被爆石碑

本願寺広島別院の正門を入ると左奥に鐘楼と並んで一番南側に「表忠塔」と刻まれた大きな石碑が目に入ります。

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上部が、先日紹介した「納骨所石碑」と同じように上部の一部が欠けているのがわかります。

裏側に廻ると、こちら側も少し欠けている部分があるのに気づきます。こちら側には、少し読みにくいのですが、この碑の由来が、カタカナで次のように刻まれています。

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「七八年戦役ニ出征シ戦地ニ傷病ヲ得テ當地豫備病院ニ没セラレシ

竹中陸軍少将以下二千百七十九名ノ香骨ヲ納安シ永ク殉国ノ誠忠ヲ

追慕セシガ為ニ本塔ヲ建設ス

大正七年四月    廣島別院

   輪番 真宗司教凌雲識」

「七八戦役」とは、明治37年(1904年)から翌年にかけて行われた日露戦争のことです。この碑は、その日露戦争に出征し戦地でケガをしたり病気になったため帰国した後、廣島別院の本川を挟んだ対岸にあった予備病院(後の陸軍病院)で治療中に亡くなった人のために本願寺広島別院が建立したものです。2197人もの多くの兵士がなくなったことがわかります。

大正七年四月の文字が刻まれていますので、この石碑が被爆していることがわかります。

この「表忠塔」と刻まれた石碑の右横には、新たに造られたと思われるこの石碑に関わる説明板があります。

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この説明板にこれまで記した「建立の経緯、被爆した」ことなどが記載された後、次のような文章が続いています。

「私たち浄土真宗本願寺派は、明治から第二次世界大戦終結まで『国家神道』という国の宗教を受け入れた教えを説き、戦時体制を擁護してきました。これは、あらゆるいのちの平等を説かれたお釈迦さまの教え(仏教)に背くふるまいでした。

この表忠碑を通して、わたしたちは自らの教団の歴史を直視し、自覚的に非戦平和に向かう道を問い続けます。同じ過ちを繰り返さないために、たち返るべき『慚愧(ざんぎ)の証』として表忠塔はここに存在します。」

事務所ではこんな話も聞きました。「こうした石碑は、全国のお寺に立っていたようですが、それらは終戦とともに撤去されたり、埋められたりして現存するものは、ほとんどないと聞いています。ここでも、そうした声はあったようですが、この石碑を残すことで、過去の誤りと向き合い、同じ過ちを繰り返さないように戒めにしようということで、そのことをきちんと記した説明版を作って、あえて残すことにし、境内を整備した時、この場所に置くことになりました。」

本願寺広島別院としては、この石碑をあえて残すことで、過去の過ちと向き合い、「非戦平和」への道を進む決意を見える形で示されたのです。紹介されることの少ない被爆した「表忠塔」ですが、ぜひ本願寺広島別院を訪れた際には、見てほしい石碑です。

14日のブログ(本願寺広島別院の被爆: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))に「被爆前の写真が見たいです」とのコメントがありましたので探したところ、次の写真を見つけることができました。

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広島原爆戦災誌の第4巻に「被爆前の広島別院と墓地」と書かれて、上記の写真が掲載されていました。よく見ると写真の左上部は半円で囲まれて墓地の写真が編集されています。

いのちとうとし

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2022年12月16日 (金)

日朝友好広島県民の会2022年度総会の開催

日朝友好広島県民の会の2022年度総会が、14日午後6時から広島留学生会館で開催されました。

総会は、佐藤奈保子事務局次長の司会で始まり、最初に足立修一代表委員が開会のあいさつ。続いて議事に入り、大瀬敬昭事務局長が、2021年度活動報告、会計決算を提案、森脇浩二会計監査が、会計監査報告を提案しました。

報告された主な活動は、「コロナ禍で活動は制限されたものの①署名活動や支援活動を続けてきた成果として本年3月に広島市議会で「幼保無償化」が可決されたこと②11月7日に行われた「金剛山歌劇団2022年アンサンブル公演」をチャリティーコンサートして取り組み、広告料・チケットを合わせて1,392,000円を朝鮮学園支援として送ることができた」ことでした。

拍手・承認の後、大瀬事務局長から2022年度活動方針、予算案が提案されました。

取り組みの柱として「①日朝国交正常化の実現を目指し、全国の仲間とともに日本政府への働き掛けを強化する②朝鮮学園への「高校無償化」の適用、補助金の再開、物価高騰対策補助金適用対象を勝ち取るため、政府、広島県、広島市に対する取り組みを強化する③広島朝鮮初中高級学校における民族教育諸活動を財政面から支援するためのチャリティーコンサートなどのカンパ活動を引き続き取り組む④在日朝鮮人に対するあらゆる差別・偏見を許さず、在日朝鮮人の民主的民族的諸権利を擁護するための取組を継続・強化する」ことを確認しました。

役員改選では、代表委員に佐古正明代表委員の後任として高橋克浩さんが選出されました。

全ての提案が、参加者全員の拍手で確認されました。

最後に閉会あいさつを高橋新代表委員が行い、総会は終了しました。

総会の後、足立修一代表委員から、チャリティーコンサートの益金が、朝鮮学園に贈呈されました。

今年の記念講演は、「高校無償化裁判と今後の課題および取り組み」と題して朝鮮学校を支援する全国事務局代表長谷川和夫さんの講演でした。

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長谷川さん話しは、自らの経歴に触れながら「なぜ朝鮮学園に関わるようになったのか」から始まりました。特に印象に残ったことは、「現地の持つ力が大切だと思い、朝鮮学園の授業参観を地域ぐるみで実施した。そこに参加した小学校のPTA会長、保守といえる人ですが、参観後『地域の子どもは地域で守る』と発言し、その後、地域の見守り隊が組織され、続いている。地域の原点に戻る。そして地域から変えていかないと何も変わらない」という話でした。運動体だけでなく、地域をどれだけ巻き込んで朝鮮学園の存在、そしてそこで行われている授業などの様子を知ってもらうのか、これからの私たちの課題が提起された気がします。

この他にも長谷川さんは、毎年原水禁大会に参加していること、3月には杉並の子どもたちヒロシマ派遣団を連れて広島を訪れていることなど、私にとって別の意味で大事な活動の報告もありました。

厳しい情勢にありますが、この総会を契機にさらに日朝友好運動、とりわけ朝鮮学園支援運動を強化しなければならないと決意した総会でした。

いのちとうとし

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2022年12月15日 (木)

2022.12月のブルーベリー農園その2

この時期は東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から車できて作業するのは午後になる。冬は朝早くから出発して作業すると生活のリズムが狂うので、出発時間を気にせずに動くことにしている。農園の周辺にはキジが住みついていて農園の見回りをするときに時折バタバタと飛び立つ姿に出会う。ブルーベリーの葉がほとんど落ちてきたのでそろそろ剪定を始めないといけない。

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128日(木)

安芸の郷の給食用の米を購入している農事法人の事務所に米を取りに行ったので、そのついでに法人で保管しているもみ殻をビニール袋に入れて6個ほど持って帰った。もみ殻の下には米の袋が積んである。もみ殻は下ろしてブルーベリーのマルチングに使う。

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9月にブルーベリー畑に大根の種をまいたので芽が出て葉っぱが伸びてきている。土を耕していないので一体どんな大根ができるかわからない。目的は緑肥なので収穫を期待してるわけではない。

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畑の中のブルーベリーの枝を見ると、葉がほとんどなくなっている。

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1210日(土)

一人で農園に行き、ブルーベリー畑の枯れたブルーベリーのある所に8か所追い植えをした。

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作業をしていると、夏に実ったブルーベリーがそのまま残っている木があった。

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1211日(日)

農園に行くたびに切った枝を燃やすようにしている。

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ブルーベリーの剪定をはじめることにした。今年は古くて太い幹を1~2本切って幹の更新をはかることにしたので、2人で手順を打ち合わせ。手始めに切る幹を決めたら麻ひもをくくり目印をつけてみた。4列ほど目印をつけてみた。

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試しに剪定用ののこぎりで地上から30センチくらいの所で切ってみる。切った枝は3mくらいの高さになっている。切ったところから春に新しい枝が伸びるはず。

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ブルーベリー畑にまいたカラシナの背が30センチくらいの高さになってきた。春先に黄色い花が咲くのが楽しみ。花数が増えればミツバチも来てくれる。

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まだ蕾を付けているバラ。寒さが厳しくなってきているので開花はむつかしいかも。後ろの杉林には日が暮れるとカラスが数十羽やってくる。お宿にしているのだろう。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年12月14日 (水)

本願寺広島別院の被爆

今日は寺町の本願寺広島別院の話です。

1945年8月6日の原子爆弾投下によって、本願寺広島別院も堂宇の全てが焼失しました。現在の本堂が完成したのは、19年後の1964年10月です。現在も、広く門信徒の信仰の中心道場として、その役割を担っています。

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今月3日のブログ中国配電職員弔魂塔: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、中国配電職員忠魂棟を紹介しましたが、本願寺広島別院の境内には、その他にも原爆に関連するものがいくつかあります。

最初に広島原爆戦災誌に書かれた本願寺広島別院の被災の状況を引用します。

「爆心地から1.1キロ。8月6日は例日のとおり午前6時に勤行を行い、7時過ぎの警報解除後は輪番室において用談中、被爆した。本堂及び他の建物も全壊に近い被害であった。

原子爆弾の炸裂下、まず放射熱線により中庭の樹木が燃えはじめたので、職員が棒ぞうきんに水を浸して消火しようとしたが、ぞうきんの方が燃えだし、こちらを消せば他が燃えはじめるという状況で、ついに本堂に延焼し、次々に燃え移っていった。火の粉を避けようと、ふとんをとりに室内に入ってみると、爆風で天井は吹き飛ばされており、そこにふとんが舞い上がって、ひっかかっていた。

火勢は急激に高まり、各自無我夢中で近くの本川に逃げるのが精一杯であった。夕方になってようやく自然鎮火したが、槇籐輪番と職員1人、雇員の老爺1人及び参詣者2人計5人が即死し、10人が負傷した。」(原文のまま)

この項の最後に「なお、境内には現在、被爆しながらも奇跡的に枯れなかった蘇鉄樹が残っており、また納骨所石碑が一部かけたまま立っている。」と書かれています。この広島原爆戦災誌は、1971年に発刊されていますので、本堂の再建が終わった後の境内の様子を記述したものだということになります。

まず広島原爆戦災誌に書かれた蘇鉄樹を紹介します。

被爆ソテツは、本堂に向かって左側にある鐘撞堂の奥にあります。

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このソテツは、被爆当時、1609年に建てられた本堂の前にありましたが、本堂の全焼に耐えてよく生き残ったものです。本堂再建時に現在の場所に移植されました。

次は、納骨所石碑です。現在は、本堂の東隣にありますが、被爆時どこにあったのかは、まだ調べることができていません。

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中央に「還浄」と刻まれた大きな石塔があり、前の左右に「夜燈」と書かれた石塔があります。還浄とは、死んだ人が浄土にかえったという意味のようです。

大きく欠けているのが目につきます。

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「夜燈」には、「昭和六年六月」と刻まれていますから、間違いなく被爆した石塔だということがわかります。

さらによく見ると、三つの石塔全てですが、欠けているだけでなく大きな亀裂が入っています。倒壊した時に、ばらばらになったと思われます。

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本願寺広島別院は、爆心地から1.1キロの距離にありましたが、爆風のすさまじさを表しています。

とここまでは、広島原爆戦災誌に書かれていた「被爆の痕跡を伝えるもの」ですが、実は境内には、あまり紹介されている書き物に出会ったことがない歴史を伝えるものがあります。

17日のブログで紹介します。

いのちとうとし

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2022年12月13日 (火)

被爆二世訴訟で長崎地裁、「原告らの請求棄却」の不当判決

昨日午前10時、長崎地裁において「国が被爆二世に対し援護法に基づく施策を実施していないことは不法だ」とし、損害賠償を求めている被爆二世訴訟に対する初めての判決の言い渡しがありました。

判決は、「原告らの請求をいずれも棄却する」という不当なものですが、原告・弁護団は下記の声明を発表しました。その中で特に「『放射線被害の遺伝的影響』についてはその可能性を認めたと理解できる」と評価し、国に対し「改めて、速やかに被爆二世、そして被爆三世等に対し、被爆者援護法上の援護の措置を執ること」を求めました。

来年2月5日に判決が出される広島では、午後6時半から開催された長崎の報告集会をオンラインで結び、足立弁護士、中敷弁護士によって行われた判決に対する評価などを共有しました。

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【被爆二世訴訟・長崎地裁判決に対する声明】

         原告団長 崎山 昇

弁護団長 弁護士 在間 秀和

2017年2月提訴以来、5年10か月の審理を経て、本日長崎地裁は、原告らの請求を棄却するとの判決を示した。結論において、私たちの求めた被爆二世に対する賠償を否定したことは、到底納得し得るものではなく、強く抗議する。

原爆による放射線の被害は、19458月に広島・長崎の人たちが人類史上初めて経験したものであり、極めて多数の人たちが、瞬時に、そして耐えがたい苦痛の末に命を失い、また被爆による深刻な健康被害に苛まれてきた。日本政府は、被爆者の切実な訴えを受けて、ようやく1957年に原爆医療法を制定し、以降現在の被爆者援護法によって被爆者援護の政策を続けてきた。

原爆放射線が人間に遺伝的影響を与えるかについては、すでに1950年代から指摘されてきたことであり、現在に至るまで、多くの研究者がその影響を否定できないことを動物実験等科学的根拠をもって明らかにしてきた。現実に多くの被爆二世が、何らかの形で原爆放射線の影響を受けていることは否定できず、多くの二世が様々なガン等の疾病に苦しみ、またほとんどの被爆二世が健康に不安を覚える日々を過ごしてきた。本件裁判においても、原告の人たちはその現実を裁判所に切々と訴えた。

これに対する国の対応は、「放射線被害があるという科学的根拠は示されていない」という主張を一貫して続け、原告らの訴えに全く耳を貸そうともしない不当極まりないものであった。

この度長崎地裁は、放射線被害の遺伝的影響の可能性を認め、被爆二世である原告らの主張の正当性を認める判断を示した、と理解することができる。この点における裁判所の判断は、当然のことといえるものの、それ以上に政府・厚労省の基本的対応の問題に言及していないことは決定的に不十分と言わねばならない。

 被爆者援護法1条3号は、「身体に原子爆弾の放射能の影響を受けるような事情の下にあった者」を被爆者として援護の対象とし、今回の判決においても、原爆放射線により健康被害が生ずる可能性がある事情の下に置かれていた者をいうと解されるとしている。そうであるならば、当然被爆二世に対しても同様に被爆者援護法による援護がなされるべきである。そして、そのための立法措置を怠ってきた国の責任は明らかである。にもかかわらず、今回の判決は極めて不十分と言わざるを得ない。

 しかし判決は、「放射線被害の遺伝的影響」についてはその可能性を認めたと理解できる。国はこれまで一貫して「遺伝的影響の科学的根拠はない」と主張し、被爆二世に対する援護法上の措置を拒否してきたが、この対応が基本的に誤りであることが判決において指摘されたと受け止めるべきである。そして、国は、被爆二世に対する援護についてこれまでの態度を根本的に改めるべきである。私たちは国に対し、改めて、速やかに被爆二世、そして被爆三世等に対し、被爆者援護法上の援護の措置を執ることを求める。


この判決を受け、控訴するかどうかは、14日に弁護団、原告団の会議を行い、その論議を経て判断することになっています。

いのちとうとし

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2022年12月12日 (月)

平和公園に消防車?―「平和の池」の清掃活動

一昨日(10日)午後2時頃、平和公園を訪れると国立原爆犠牲者追悼祈念館前に消防車が一台停まっていました。「何が起こったんだろう」と周囲を見ましたが、特別変わったことは見受けられません。ちょっと不思議な光景です。

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しかし、近づいてみると放水用のホースが、平和の池に延びています。

平和の池では、消防隊員がホースから出る水の勢いを利用して、底にたまった汚れを流し落としています。

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水の勢いで底に敷かれた石の表明が、ぐんぐんと綺麗になっていきます。

作業中の消防士さんに訊ねると「年2回、この作業をしています」との返事でした。

年2回といえば、夏の8・6前にボランティアによる平和の池清掃活動が、ニュースになることを思い出したのですが、私が、この光景を見た時には、平和の池やその周辺には、消防士以外の姿は見えませんでしたので、この放水による清掃が、ボランティアによる清掃活動の一環だということには、気が付きませんでした。

しかし、帰宅後夕方のNHKのニュースを見ていると「新しい年を迎える前に、広島の平和公園では、ボランティアの人たちが『平和の池』を清掃しました。」が放送されました。下の写真は、そのニュース番組を写したものです。

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1957年(昭和32年)にこの「平和の池」が作られて以降、ほぼ毎年、8月6日の広島原爆の日の前と年の瀬のこの時期に、地元の市民団体によって清掃活動が行われているとのことです。今年は、たまたま私が平和公園を訪れたこの日(12月10日)、30人のボランティアの人たちによって実施されたようです。「平和の池」清掃のことは、何度かニュースでは見ていたのですが、直接遭遇するのは初めてのことです。厳しい寒さも少し和らいだ土曜日の昼下がりの思いがけない光景でした。

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12月に入ったのですが、平和公園には多くの修学旅行生の姿がありました。

いのちとうとし

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2022年12月11日 (日)

易地思之―12・8不戦の誓いヒロシマ集会

「12月4日にラグビーの早明戦がありました。」

12・8不戦の誓いヒロシマ集会の講師内田雅敏弁護士の講演のスタートのことばです。一瞬何のことだろうと思ったのですが、次の話で納得です。

「早明戦は、学生ラグビーの花形でが、1923年(大正12年)に第一回目が開催され、その後かなり早い時期から毎年12月の第一日曜日に開かれるようになりました。81年前の12月の第一日曜日は、12月7日でした。この日もラグビーの早明戦が行われました。その時、日本海軍機動部隊が真珠湾に向けて航行し、日本陸軍の輸送船団がマレー半島に向けて台湾から出向していました。このようなときに日本国内ではラグビーの早明戦が行われていたのです。戦争は、日常生活の中で突然始まりました。」

「真珠湾奇襲攻撃によって日米戦争が開始されるや一部の例外を除いて日本の知識人は、一斉に戦争賛美に変わってしまいました。」

この後内田さんの話は、1972年9月29日の田中・周恩来会談を経ての「日中共同声明」に始まる日中国交正常化50年の歴史を、その時々にかわされた会談や共同声明等を一つ一つ丁寧に紹介されました。とくに、「一つの中国」問題や「尖閣諸島問題」の日中双方の考え方についての話は、改めてこの50年の歴史を振り返り、何が問題なのかを考えるきっかけになりました。初めてこんな話を聞くことになった参加者も多く、真剣に聞く姿が印象的でした。

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内田さんは、講演の中でいくつかの4文字熟語を紹介されましたが、中でも特に印象に残っているのは最後に紹介された「易地思之」です。調べてみると、この言葉は、韓国の文大統領は2021年3月1日の演説で、日本に対するメッセージの中でも使われた言葉のようですが、韓国語では역지사지(ヨクチサジ)と表記され、その意味は「相手の立場に立って考える」ということです。このことは、言うは易く実践しようと思えば、なかなか難しいことですが、外交においては、ことの要諦だと思います。

いま声高に、中国脅威が叫ばれ、軍備の拡大・状況が進められていますが、立場を変えて、冷静に今の状況を考えることが本当に求められているのではないかと思います。

同時に、81年前の12月7日のように、普通の生活を送っていた日常が気付かないうちに戦時のもの言えぬ社会に変わってしまったと、後悔しないように日々の政治の動きに関心を持つことが重要だと改めて実感しました。

そして誤った戦争の歴史をくり返さないためには、過去の歴史からその教訓を学ぶことが大切だと学ばされた内田さんの講演でした。

最後に

「私たちは、引き続き平和と安全に関わる岸田政権の方向性をしっかりと見据え、軍備増強を許さないたたかいを進めていかなければなりません。

開戦の日を迎え、私たちは過去の植民地支配と侵略戦争の反省に立って『12月8日』を『8月6日』と並んで、ヒロシマが忘れてはならない日と位置付け、毎年『不正の誓いヒロシマ集会』を開催しています。日本国憲法発効75年、サンフランシスコ講和条約70年、沖縄本土復帰50年、日中国交正常化50年の節目の年。近隣諸国を侵略した歴史を持つわが国では、誠実かつ忍耐強く平和への努力を続けることこそが求められています。

いまを生きる私たちは、先人が守ってきた『戦争しない国づくり』を誇りをもって続けなければなりません。」

などを内容とする集会アピールを採択し、12・8不戦の誓いヒロシマ集会は終了しました。

いのちとうとし

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2022年12月10日 (土)

「自滅(じめつ)の刃(やいば)」

映画、テレビ、漫画でも大ヒットし、今でも続編が計画されている「鬼滅の刃」、僕も映画館で観ていました。

中国電力が関西・中部・九州の電力会社と、法人向けの電力販売(特別高圧・高圧の契約)でお互いの販売エリアでのお客獲得を控えるというカルテルを結んだとされる、まさに前代未聞の破廉恥事件です。

16年4月からの電力全面自由化で誕生した、新電力会社の営業を妨害しようとした意図が明確な事件で、公正取引委員会から独占禁止法違反(不当な取引制限)で課徴金を払うように通知されました。

連日のように報道されていますから、多くの人が関心を持っていると思います。課徴金の総額は、中国・中部・九州の3社で1000億円超となり、その中でも中国電力は707億円となりダントツの最高額となりました。

このカルテルの元締めというか主導したとされている関西電力は、不正を最初に自主申告したことで、課徴金は免れると報じられています。『さすが浪速の商売人』と思いました。

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中国電力本社

ある中国電力の知り合いは、「これは鬼滅の刃ならぬ、自滅の刃だ」と話していました。おもわず笑いそうになりましたが、700億円を超える額には身体が震えるような怒りが沸いてきました。

1997年11月、山一証券が不正会計事件によって自主廃業した時、当時の社長が涙と鼻水を流しながら「私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから」と大きな声で叫ぶように語ったのを思い出します。

中電社内からは「関電から働きかけたのに、(関電は)課徴金を逃れるというならとんでもない話だ。全く迷惑千万だ」、「関電にはめられた」という、恨み節が聞こえてきます。

事件が起こったのは2018年秋ごろからのことです。当時の中電社長は清水希茂(しみず まれしげ)君、現在は会長となっています。この人らから「私らが悪いんであって…」という言葉は聞こえてきません。たぶん反省よりは、『運が悪かった』『関電が憎い』ということしか考えていないのでしょうね。

事件が発覚した時、公正取引委員会は関係書類やパソコンも押収したと聞いています。関電を恨むよりは、この時点でなにも手を打たなかった中電の判断力の無い体質が目に浮かびます。

何よりも、誰がどういう形でカルテルに関与したかという、事件の詳細と責任を明らかにすることだと思います。もちろん責任の取り方もです。それにしても、会社には監査役というのがいるのに、何もしなかったのでしょうかね。

中電は通期決算で1390億円の純損益赤字を発表したのは、つい先日の話しでした。これに課徴金707億円を足せば赤字は2097億円となります。役員は少しでも『私が悪いんだと』思うのなら、現在の役員報酬30%カットは軽すぎます。

『自滅の刃』から抜け出せない中電、鬼滅の刃のように生まれ変われ。無理だろうな!!!!

木原省治

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2022年12月 9日 (金)

原爆ドーム世界遺産登録26周年記念集会

1996年12月7日に「原爆ドーム」がユネスコ世界遺産に登録されて26年経った一昨日(12月7日)午後6時から、核兵器廃絶広島平和連絡会議が主催する「原爆ドーム世界遺産登録記念集会」が、原爆ドーム前で開催されました。

集会は、連合広島の大野真人会長の主催者あいさつでスタート。大野会長は、特にロシア・プーチン大統領の「核使用を認める」との発言に触れながら、核兵器使用の脅威が拡大していることを指摘し、日本政府が核兵器禁止条約を一日も早く書名・批准して核兵器廃絶の先頭に立つべきだと訴えました。

続いて広島県被団協、広島県原水禁、KAKKIN広島、連合広島の代表が、花輪を献花し、原爆犠牲者への慰霊と、核兵器廃絶運動への決意を誓いました。私も県原水禁を代表してこの献花に参加しました。

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続いて、核兵器廃絶広島平和連絡会議の構成組織(平和運動センターや県労被爆連など)の各団体代表が、献水を行い、その後参加者全員で黙とうです。

連合広島女性委員会亀井美砂子委員長が、集会アピールを提案し全員の拍手で確認されました。アピールの一部を紹介します。

「(略)この『原爆ドーム』のユネスコ世界遺産登録に向けて、多くの市民や県民が一体となって4年の歳月をかけて署名活動などの運動を取り組んだ。その熱い情熱の結集である164万を超える請願署名が政府を動かし、世界遺産登録委員会の決定を手繰り寄せることになった。

私たちヒロシマが求めてきたものは、『原爆ドーム』の建築物としての文化的価値の評価ではなく、『原爆ドーム』に刻まれた被爆者の慟哭と被爆の実相を世界の人々へ伝え、核兵器の使用を決して許してはならないという警鐘を鳴らし続けることである。(略)

世界はまさに現実的な核の脅威に直面している。このような状況の中で日本政府は、核軍縮を呼びかける一方、唯一の戦争被爆国でありながら、核兵器禁止条約には否定的で、米国の『核の傘』にとより、『核共有』の議論まで起きている。

こうした状況だからこそ、ヒロシマの果たす役割は重い。(略)

私たちは、77年前の惨劇を目の当たりにし、今もなお『核兵器廃絶と世界の恒久平和実現』を無言で訴え続ける『原爆ドーム』とともに、思いを共有する多くの人との連帯の輪をさらに広げ行動することをここに誓う。」

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閉会の挨拶は、広島県被団協箕牧智之理事長。箕牧さんは「広島に住む私たちは、原爆ドームは、見るたびに戦争の愚かさ、平和の大切さを学ばせてくれます。核兵器禁止条約が発効してから692日になります。原爆ドームが無言で語り続けてくれている課題を皆さん考えていこうではありませんか」と呼びかけました。

その後参加者全員が献花をして、26周年を迎えた「原爆ドーム世界遺産登録記念集会」は終了しました。

今年の参加者は、71名でした。

いのちとうとし

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2022年12月 8日 (木)

2022.12月のブルーベリー農園その1

12月最初の土日の午前中は、安芸区でかかわっている地域の障害者の行事や会議があったので東広島市豊栄町のブルーベリー農園に行くのは午後になった。数時間の農作業になるが、行けば少しでも作業はすすむ。切った枝を燃やしたり、農園の見回りをしたり、ブルーベリーの手入れをしたりした。農園の周囲では刈った草を燃やす煙に人の息遣いを感じるくらいで、静か。

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123日(土)

ブルーベリー畑のブルーベリーは、枝の下まで紅葉しているが、上の方の枝はもう落葉している。

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一番下のブルーベリー畑の木の根元の土を踏み固める作業を続けているがその折、作業中に畑に落とした剪定ばさみがブルーベリーの枝にぶら下がっていたのを発見。なくしたとき地面ばかり探して見つからなかったのに、このような状態であったとは・・・。どうやら防草シートをかたづける作業の時に腰のサックに収めている剪定ばさみの持ち手の部分が枝に引っかかったのが原因のようだ。すこしさびていた。

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124日(日)

安芸区の自宅から農園に着いたら、サクラの木にとまるシジュウガラが見えた。

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里山の農園の竹の伐採を30分ほど行い早生のブルーベリー園を見回る。ほとんど落葉していて、初冬の午後のこの場所は日陰になるので寒々とした景色になっている。

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周辺を見て回ると雑草の中にヤブコウジではない赤い色があるのが目に入った。キイチゴがほんのひと塊だけ実をつけていた。

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ブルーベリー畑の周辺では霜が降りたのか寒々とした花姿が見える

①アジサイの葉が黒ずみ、

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②サザンカの花びらもしゃがれている。

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③庭の蔵の庭では八重のツバキがひっそりと開花

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ブルーベリー畑の作業のひとつはブルーベリーの木の根元にびっしりと生えている草をバールをてこにして取り除くこと。

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すっきりした。それにしても根元を草にマフラーのようにまかれても季節季節をこなしていくブルーベリーのしたたかさに感心。並行してブルーベリーの根元のモグラの掘ったトンネルを踏みつぶす作業も続けた。

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隣家の畑は豆を植えているがその間から菜の花が花を咲かせている。 

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年12月 7日 (水)

「開戦の日を迎え、平和と護憲を誓う! 12・8不戦の誓いヒロシマ集会」に参加を!

憲法を守る広島県民会議/広島県平和運動センター/ 広島県原水禁/8の日平和行動ヒロシマおんなの会/ 戦争をさせないヒロシマ1000人委員会の5団体が主催し、毎年1月8日開催してきた「12・8不戦の誓いヒロシマ集会」が、今年も明日12月8日午後6時から広島弁護士会館2階大会議室で開催されます。

81年前の12月8日、日本は真珠湾攻撃を開始し、太平洋戦争へと突入しました。と語られていますが、同じ日に広島にあった第5師団の広島11聯隊が、マレー半島への上陸作戦の先陣を切ったことに触れることは、ほとんどありません。広島に住む私たちが決して忘れてはならないことだと思います。この上陸作戦に広島が深くかかわっていたことを吉村昭著「大本営が震えた日」で教えられました。その後堀川恵子著「暁の宇品」によって、さらに詳細に知ることができました。すでに知られていることですが、改めて記せば、マレー半島上陸作戦は、真珠湾攻撃に先立つこと1時間前に開始されていますので、3年8カ月にわたる太平洋戦争は、広島の第11聯隊のマレー半島のコタバル上陸作戦の開始から始まったことになります。

この歴史の事実を忘れないためにと始まった「12・8不戦の誓いヒロシマ集会」ですが、今年は、日本国憲法発効75年、沖縄日本復帰50年、日中国交正常化50年の節目の年にあたりますので、「日本はアジアで何をしたのか?など過去の過ちを振り返り、平和と護憲を誓う場」となる講演を弁護士の内田雅敏さんにお願いしました。

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講師 内田雅敏さん(弁護士、1000人委員会事務局長)

講演 =憲法発効75年、沖縄「復帰」・日中国交正常化50年=

   「日本はアジアで何をしたか ~二度と戦争を起こさないために~」

会場 広島弁護士会館2階

参加費 500円

講師の内田さんには、これまで何度か集会での講師をお願いしてきましたが、コロナ感染の拡大でいずれも講演会が中止になってしまい、お話を聞くことができませんでした。内田雅敏さんは、戦後補償問題や靖国問題に深くかかわってこられましたので、今回の講演が楽しみです。

戦争をしないためには、どうすべきかを考えるのではなく、中国、北朝鮮の脅威論をあおり、ひたすら軍備増強への道を突き進む岸田政権、そしてそれに疑問を感じないどころか、それを無批判に後押しするような国民世論の状況をみて、いつか来たあの戦争への道を思い起こすのは私だけでしょうか。

再び過ちを繰り返させないためにも、太平洋戦争に突入した81年前の12月8日を忘れずこだわり続けることが大切だと思います。

「12・8不戦の誓いヒロシマ集会」への参加を呼びかけます。

いのちとうとし

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2022年12月 6日 (火)

ヒロシマとベトナム(その39-2)

ベトナム象、広島を歩く-3のつづき

いよいよ芸州広島藩・玖波宿に入る

11月19日、大竹市で開催された広島県郷土史研究会協議会大会に参加しました。大竹は旧山陽道と山陰道が交わり、瀬戸内海航路に繋がる要衝で古くから栄えた地です。福島正則が築き一国一城令で廃城となった亀井城趾、幕末期の第二次征長戦争(芸州口の戦い)の砲弾跡が残る西念寺などをめぐりました。

下の地図は「電子足跡ルート地図:旧山陽道(西国街道)歩き旅」から引用したものです。旧山陽道は亀居城の南側を通るルートで紫色で描かれています。県史協大会で講演された石田雅春・広島大学准教授は、「亀居城築城当時(注1)は海岸線が城の南側近くまで迫り、西側は入り江が深く入り込んでいた。西の毛利への備えとして築城された目的から見て、城の北側を通る狭い山陽道で芸州侵攻を防ごうとしたと考えられる」と、赤線のルートを示されましたので、筆者が赤線ルートなどを加えました。

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 ベトナム象が旧山陽道を江戸に上ったのは亀居城が破却され100年余経た享保14年(1728年)ですので、当時の西国街道(旧山陽道)は狭い北側ではなく、紫色の海側だったと思われます。

岩国藩の関戸宿と広島藩の小方宿の間には地図の下方に見るように「苦の坂峠」という峠があります。厳島神社の祭神である市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)(注2)が通ったおり、「えらや 苦しや この苦の坂は 金のちきりも 要らぬものを」と、あまりの急坂でこう呟いたことから名前がついた伝えられています。苦の坂峠は第二次征長戦争(芸州口の戦い)の激戦地にもなりました。

峠越えの様子は分かりませんが、長崎を発って以来幾度も難所を克服した賢いベトナム象は、さほど苦労せず超えたものと思います。峠を超え程なく下ると小方のまち並みに入ります。象一行は、恐らく亀居城北側ではなく南側(紫色)を通り小方宿に入ったものと思われます。

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和田家長屋門跡

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上田宗箇が贈ったと伝えられる手水鉢

現在のイズミゆめタウン大竹店北側に位置する旧山陽道筋には和田家長屋門跡が残されています。長屋門を潜ると芸州広島藩の家老で茶人、上田宗箇が贈ったと伝えられる「手水鉢」も残されています。是非、一度訪れてみてください。

和田家は元大内家の家臣で旧佐伯郡21ヶ村の割庄屋(注3)を務め、第二次征長戦争時には焼け出された村民の救済に尽くすなど、大竹市の復興・発展に多大な貢献をされた旧家です。その和田家には江戸期の古文書1万数千点が残されているとのこと。ベトナム象は小方宿に泊まっていませんが通過しています。“もしかすると、和田家文書に何らかの記録が残されてはいないか”と期待し、前出の広島大学・石田准教授にお尋ねしてみようと思っています。

次号では広島城下に入ったベトナム象を紹介します。

(注1)1600年の関ヶ原の戦いで敗れた西軍の盟主・毛利氏が山口(萩)に移封され、福島正則が広島城に入ります。慶長8年(1603年)、甥の福島伯耆守正宣に1万石を与え築城を開始、慶長13年(1608年)に城は完成。しかし、築城から僅か3年、慶長16年(1611年)に破却されました。その理由は明らかではありませんが、様々に思いを馳せることができます。

(注2)宗像三女神(むなかたさんじょしん)の1柱と言われ、アマテラスとスサノオの誓約(うけい:誓って約束すること)で生まれた水の神とされています。

(注3)士分に準じて郷士としての家格を付与されている者も多く、藩によっては扶持を与えられていることもありました。当時の郡村行政は代官・郡代の下、割庄屋・庄屋・与頭(くみがしら)などの村役人によって行われていました。割庄屋は代官・郡代と庄屋の間にある立場で 数ケ村から数十ケ村を一括支配し、年貢や諸役などの割り振り、指令などを行っていました。

(2022年12月6日、あかたつ)

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2022年12月 5日 (月)

ヒロシマとベトナム(その39-1)

ベトナム象、広島を歩く-3

ベトナム象、旧山陽道に入る

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諸文献をもとに筆者作成

3月25日、小倉藩大里の港から舟で赤間ケ関に渡り、約3kmの行程を歩き下関宿に入ります。異常寒波のため下関で4日間足止めされ、29日に旧山陽道(西国街道)の旅が始まります。その行程は下表の通りです。

旧山陽道に入ったベトナム象は長府藩を経て長州本藩から徳山藩へと向かいます。その様子が徳山毛利家文庫「御書出控」に残されています。それによると、当初4月1日に徳山宿に着く予定だったようですが、小郡近辺で象が足を痛めてしまい、スケジュール変更を余儀なくされます。急遽、徳山藩は福川宿に象小屋を準備しますが、この日は徳山藩に入らず宮市宿泊まりになります。

翌4月2日、象は徳山藩領に入ります。ちょうど在国中だった第5代藩主の毛利広豊は、父(第3代藩主元次)の側室だった蓮性院や姉などとともに象の宿舎「御客屋」(注1)で待ち受け、見物したと記されています。将軍吉宗が求めた珍獣にどのような感想を持ったのか記述はありませんが、その大きさと姿に驚いたことでしょう。

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なぜ象は足を痛めた? その日の行程も謎

小郡付近で足を痛めということですが、どの辺りだったの探ってみます。と言っても記録が無いのであくまでも想像です。4月1日の朝、山中宿を発ったベトナム象はこの日の宿泊地、徳山宿を目指したことになります。距離にして約12里の46.8Km、通常のほぼ倍の距離です。

筆者にはとても信じ難い行程です。「ベトナム象、広島を歩く-2」(11月5日)で紹介した岡山藩に残る『象御領内通候一件』には、長崎奉行所の御触書が記録されています。「象一日の内に道程(みちのり)四里()ほどずつ()歩行つかまつ()り候」、「五里(り)とハ歩行(かち)得不(えず)仕候由(つかまつりそうろうよし)」と、象が一日に進むことのできる距離を4~5里(16~20Km)としています。

さらに、「象一日に十里()とは歩行(かち)計りがた()く候につき、本宿(ほんじゅく)にてこれなき所にも止宿(ししゅく)申す儀もこれあるべき儀に候」とあるように、山中宿から12里先の徳山宿を目指したとは筆者には信じ難いことです。もしかすると、下関で足止めを食らった4日間を取り戻そうと無理して、象が足を痛めたのかも知れません。山中宿から舟木宿の間に比高100mほどの舟木峠超えがありますので、そこで足を痛め小郡宿辺りで痛みに耐えられなくなったのかも知れません。

いずれにしても、徳山宿を目指したけれど、結果、山中宿から5里(20Km)、通常の象の行程である宮市宿に泊まったということなのでしょう。

4月3日朝五つ時(午前8時頃)徳山宿を出発し他ベトナム象は玖珂宿、関戸宿、小方宿を経て4月5日に芸州広島藩領の最西端、現大竹市の玖波宿に入ります。

(注1)毛利藩には藩主、他他藩大名、幕吏などの休泊に利用される施設として御茶屋、御客屋、本陣などがありました。御客屋は藩外からの使者、巡検使、見使などの接待や休泊に利用されました。当時の御客屋は現在の山口裁判所構内にあったと伝えられています。

(2022年12月5日、あかたつ)

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2022年12月 4日 (日)

12月の「3の日行動」

戦争させない・九条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会の12月の「3の日行動」は、今月は3日が土曜日ということで正午から本通電停前で実施しました。

今月の「3の日行動」のスローガンは、「軍事費の倍増反対 暮らしを守れ」です。

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ロシアのウクライナへの軍事侵略が始まって以降、日本でも「中国の脅威」「北朝鮮の脅威」が強調され、軍備増強の動きが急速に強まっています。そしてついに岸田首相は、自衛目的としながら、他国領域のミサイル基地などを破壊する敵基地攻撃能力の保有を明記した国家安全保障戦略など安全保障関連3文書を今月中旬にも閣議決定をしようとしています。その欺瞞性を覆い隠すために「敵基地攻撃能力」を「反撃能力」などと訳の分からない言葉に置き換えてですから、姑息としか言いようがありません。

「3の日行動」の先駆け「19日行動」は、安倍政権による憲法違反の「戦争法」強行成立を許さない行動としてはじまりました。「戦争法成立」後の日本政府の安全保障政策は、さらに憲法の平和主義を無視した政策が続き、事実上の改憲ともいえる状況となっています。

今や「憲法に基づく専守防衛」との理念すら形骸化させ、先制攻撃への道を開くことを平気で実行しようとしています。それは戦争法によって容認されることになった集団的自衛権の名のもとに米国など密接な関係にある他国が攻撃された場合でも、日本の存立が脅かされれば、敵基地攻撃の行使も可能ということになりますから、限りなく日本が戦争に巻き込まれる危険性は高まることになります。

81年前のこの月12月8日に始まった真珠湾攻撃も、防衛の名によってはじめられた侵略戦争だったことを忘れるわけにはいきません。

こんな思いを込めた今月の「3の日行動」となりました。

その他にも最近の政治状況に合わせ「国葬違憲裁判、消費税インボイス、許せない性暴力裁判、統一協会問題」などをテーマにスピーチが行われました。

岸田自公政権の暴挙をとめるためには、こうした行動を粘り強く続けていくことが大切です。

参加者は、30人でした。

いのちとうとし

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2022年12月 3日 (土)

中国配電職員弔魂塔

現在の中国電力が建つ広島市小町にあった事業所が、中国配電株式会社です。原爆資料館を出るとその足で、この中国配電株式会社の慰霊碑が建つ、寺町の本願寺広島別院を訪れました。

本願寺別院の東南角(正門入って右)、親鸞聖人の像の南側に立派な「中国配電職員忠魂碑」が建っています。

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正面には「忠魂碑」と刻まれているだけで、「中国配電職員」の文字はありません。背面の文字は夕方だったこともあり、読みにくくきちんと読み取ることができませんでした。

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広島市の「原爆関係の慰霊碑等の概要」によれば次のような碑文が刻まれているようです。

「昭和20年8月6日ノ戦災ニ因リ本社社員ノ前後非命ニ斃レシ者278名是レ皆国会再造ノ犠牲本社進展ノ礎石ト謂フ可シ慈ニ3周年二当リ僚旧均シク哀シミヲ新ニシ感ヲ増ス仍テ此ノ塔ヲ建テテ聊々追弔ノ情ヲ 表ハシ亦以テ永ク其ノ幽魂ヲ慰メント欲ス。昭和23年8月6日 中国配電株式会社取締役社長 島田 兵蔵撰並書」

この文を読んで二つのことに気づきます。

一つは、被爆後3周年という早い時期に建立されたことです。中国発送電株式会社中国支店原爆殉難者慰霊碑が建立されたのは、中国電力発足後の被爆後8年目ですから、この碑の建立はずいぶんと早かったことになります。二つは、占領軍支配下にあったためと思われますが「原爆」や「被爆」という文字が全く使われていないことです。

中国配電株式会社の原爆による犠牲は、11月2日のブログで「中国発送電株式会社中国支店の犠牲者」として紹介した本店の犠牲者163人、電業局、支店、被爆当時出張で広島にいて犠牲となった社員を合わせるとこの碑に刻まれているとおり278人となります。11月2日にも書きましたが、この犠牲者の中には、学徒動員され作業中だった第三国民学校の教師1名学徒9名の犠牲者は含まれていません。

本願寺広島別院に建つこの碑の前に立って「なぜこの碑は、ここに建っているのだろう?」と疑問が頭に浮かびました。

というのは、この境内には、親鸞聖人の像や鐘楼、納骨堂など本願寺広島別院ゆかりのものはたくさんあるのですが、私が気付いた限りで本願寺広島別院と直接かかわりのないものは、この中国配電職員弔魂塔しか見つけることができなかったからです。

気になったものですから境内を散策した後、事務所を訪ねて「民間の慰霊碑などは、この碑一つのように思えますが、どうしてこの碑がここに建立されたのか経緯をご存知ですか?」と聞いてみました。「確かに、言われる通りこの碑だけですが、なぜ中国配電職員弔魂塔がここに建立されることになったかは経緯を記したものがお寺に残っていませんので、はっきりしたことがわかりません」との答えでしたので、真相は不明のままです。

中国発送電株式会社中国支店原爆殉難者慰霊碑のことを調べている時から気になっていたことですが「毎年慰霊祭はどんな形で行われているのだろうか」ということでしたので、このことも本願寺広島別院の方に聞きました。「毎年中国電力の方によって慰霊祭が行われていますが、8月6日ではありません。8月6日より少し前に会社の役員数名がここに来られて、まず本堂で読経をした後、忠魂碑前で慰霊をされます。そしてその後に私たちも同行して大手町にある中国発送電株式会社中国支店原爆殉難者慰霊碑に移動して、そこでも慰霊の行事が行われます。」と教えていただきました。

忙しい中で丁寧に対応していただきました。

事務所では、この他にも被爆した納骨堂のことや被爆樹木ソテツのことなどいろいろなお話を聞かせていただきましたが、それは別の機会に紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2022年12月 2日 (金)

大きな間違いをしていました。 中国発送電株式会社中国支店原爆殉難者慰霊碑と中国配電職員弔魂塔

大きな間違いをしていました。

11月1日(日本発送電株式会社中国支店原爆殉職者慰霊碑: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))と2日のブログ(日本発送電株式会社中国支店(現中国電力)の原爆犠牲者: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で「中国発送電株式会社中国支店原爆殉難者慰霊碑」と中国発送電株式会社中国支店の原爆犠牲者について書きました。

その記事には、大きな間違いがありました。その間違いの原因は、現中国電力の前身は、一つの会社だと勝手に思っていたことと「広島原爆戦災誌」の目次です。

現在の中国電力株式会社は、1951年に日本発送電中国支社と中国配電株式会社が合併して発足した会社です。ですから、当然のことですが原爆投下時には、中国電力株式会社は存在していませんので、原爆被害にあったのは日本発送電株式会社中国支店(後中国支社)と中国配電株式会社ということになるのですが、前身は一社と思い込んでいた私が、二つの会社を混同して、11月1日、2日のブログを書いてしまったのです。

あのブログで書いた、犠牲者数の違いについて、原爆資料館の情報室で訊ねたところ、「よく間違われるんですよ」と言いながら、被爆時上記の二つの会社があることを教えていただきました。

改めて、「広島原爆戦災誌第3巻」を開いてみました。目次には「第15項 中国配電株式会社 484」と書かれているのみで、「日本発送電株式会社中国支店」の名前は出てきません。484頁を開きました。「第15項 中国配電株式会社(現在・中国電力株式会社)」と書かれ、当時の中国配電株式会社の被災状況が書かれています。ここから私の間違いが始まりました。日本発送電株式会社中国支店は、中国電力の前身ということが頭にありましたので、ここに書かれた「中国配電株式会社」が該当する企業だと思い込んでここに書かれた情報をもとにブログを書いてしまったため、一番大事な犠牲者数の間違いを犯してしまったのです

原爆資料館での指摘を受けて、「広島原爆戦災誌」のページをさらにくくると508頁に、確かに「(付)日本発送電株式会社中国支店(現在・中国電力株式会社)」の題字があり、その後に被爆状況が書かれています。そこには私が問題にしていた犠牲者数が「169人の犠牲」とはっきり書かれています。広島市のホームページの犠牲者数と当然のことですが一致しています。(付)となっていますので、目次を見ただけでは、見逃してしまいます。爆心地からの距離は、約0.9キロメートルです。

「原爆戦災誌」には、所在地は「広島市大手町7丁目89番地の6」となっていますが、別の資料から当時の地図を見つけることができました。

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戦前の住居表示ですので、大手町7丁目となっていますが、現在の大手町3丁目と4丁目辺りになります。地図の左側、万代橋の東詰めに「日本発送電(株)中国支店」の文字が見えます。現在この場所には、中国電力の社員寮があります。右側の電車道沿いの上方(北側)に中国配電(株)の文字が見えます。現在の中国電力本社があるところです。下方に「市庁」の文字も見えます。地図の一番上に切れていて読み取れませんが「大手町変電所」と書かれています。現在中電病院があるあたりになると思います。

実は、11月1日のブログを書いた時には、万代橋の東詰めに「日本発送電(株)中国支店」があったことを知りませんでしたので、中国電力に電話をして「なぜあの場所に慰霊碑が建立されたのですか」と問い合わせました。しかしその時は、明確な答えは返って来ませんでしたが、この地図が見つかったことで、疑問は解決しました。「中国発送電株式会社中国支店原爆殉難者慰霊碑」は、もともと会社があった場所に建立されたのです。

一応問題は解決したのですが、次に気になったのは、中国配電株式会社の慰霊碑はどこにあるのかということです。これも「寺町の本願寺別院に中国配電職員弔魂塔がある」ことを原爆資料館の情報室で教えていただきました。

すぐに本願寺別院に行きましたが、その様子は次回に報告します。

いのちとうとし

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2022年12月 1日 (木)

「原爆納骨安置所と佐伯敏子さん」余話―中島竜美さんと佐伯敏子さん

29日のブログで紹介したワールドフレンドシップセンターの「Hirosihimaをつ・た・え・る基礎講座」・「中川幹朗さんに聴く2カ月連続企画『原爆納骨安置所と佐伯敏子さん』」「原爆納骨安置所と佐伯敏子さん」の余話です。

講座の前日、佐伯敏子さんの被爆体験記を所有していることを思い出し、読んでおこうと思い書棚を探しました。「十三人の死を見つめて 佐伯敏子」という赤表紙の小さなパンフ(18cm×13cm)が、すぐに見つかりました。

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26日の中川さんの講演では、「佐伯さんの証言集は、1968年7月に最初の証言集『原爆の手記』が発行されて以降15冊ある」ことが紹介されましたが、私が持っている証言集は、1972年8月6日に第4番目の証言集として発行されたものです。

読み終えて最後の奥付を見ると「発行所東京都世田谷区上野毛4の33の20 中島竜美方」と書かれています。

「えっ中島竜美さん?」 どういう関係なんだろうと思い「中川さんに聞いてみよう」と会場に出かけました。

私の頭の中の中島竜美さん(2008年逝去 享年80歳)は、在外被爆者問題の専門家ということしかなかったからです。中島さんと私の直接の関わりは、私が2001年4月に国会に「在外被爆者に援護法適用を実現させる議員懇談会」を作った時から始まりました。その後郭貴勲裁判を始めとする在外被爆者裁判の支援者として、度々打合せを行い、色々とアドバイスをいただきました。

講演が終わった後中川さんに「この証言集に中島竜美さんの名前があるのですが、佐伯敏子さんとはどんな関係ですか」と尋ねたところ、中川さんから以外の答えが返ってきました。

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「堀川惠子さんの『原爆供養塔』は、中島竜美さんが持っておられた資料を基にして書かれたものなんですよ。中島さんが、早くから佐伯さんのことを取材され、いつか本にしたいと思われていたのですが、急逝されて実現しなかったのです」

中島竜美さんが、平岡敬さんなどとともに早くから在韓被爆者問題にかかわってこられたことは、それなりに知っていたのですが、佐伯敏子さんとのかかわりも深かったことを初めて知りました。

改めて堀川さんの「原爆供養塔」を開いてみると、あとがきで次のように記されています。

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「佐伯敏子さんを十数年がかりで取材し、執筆の計画をあたためながら2008年に急逝したジャーナリスト、中島竜美さんのご家族からは、大切な遺品をお預かりしました。氏の綿密な取材ノートは、被爆者の人生から被爆証言を美術品のように取り出すのではなく、ひとつの人生に徹底して寄り添おうとされていることを深く感じさせられるものでした。中島さんのおかげで、より詳細な取材を行うことができました。」

この「原爆供養塔」は、中島竜美さんの思いのこもった本でもあるなと、改めて読み返しています。

中島竜美さんと直接お話をすることは、本当に短い時間でしたので、私が知っている中島さんは、ほんのごく一部の姿でしかありませんでした。

ありし日の中島さんの姿を思い浮かべながら、もっともっと学ぶことがあったのにと、思わずにはいられません。

いのちとうとし

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