ベトナムの歴史(その17-1) 抗仏闘争-2つづき
市井の医師、浅羽佐喜太郎の支援
厳しいフランスの植民地支配によりベトナム有志からの資金援助が途切れ、日本政府の弾圧が加わり困窮の極に立たされたチャウは、かつて行き倒れのベトナム留学生を助けたことがあるという帝大出の開業医・浅羽佐喜太郎にすがり窮状を訴えます。
浅羽佐喜太郎肖像写真(静岡県袋井市出身)
「まことに少額ですが、家中かき集めて支度しました。これが有り金の全てです。当座のものに使ってください。また今後必要があれば、遠慮なく仰ってください。できるだけの用立てはするつもりです」と書かれた手紙とともに、1,700円(現在の4,700万円相当)もの大金が浅羽から届けられます。
チャウは浅羽の好意にむせび泣いたと伝えられています。
来日から4年後の1909年3月、日本の政治家と日本政府に対する深い不信と失望を抱えて日本を離れ、「東遊(トンズー)運動」は失敗に帰します。9年後の1918年、ファン・ボイ・チャウは日本を再訪し、真っ先に浅羽のもと(現在の静岡県袋井市梅山)を訪ねます。ところが浅羽佐喜太郎はチャウが日本を去った翌年、43歳の若さで亡くなっていました。言葉もなく茫然自失のチャウは、村人の協力を得て、追慕の思いとベトナム独立の悲願を込めた「浅羽佐喜太郎公紀念碑」を建立しました。
浅羽佐喜太郎公紀念碑前の集合写真。1918年、最前列右から2番目がファン・ボイ・チャウ
碑に刻まれた碑文
ファン・ボイ・チャウの「東遊(トンズー)運動」は失敗しますが、ホー・チ・ミンが指導するベトミン(ベトナム独立同盟)によるフランスの植民地支配を断ち切る第4期へとつながって行きます。
次号では1940年から1945年の日本敗戦までの日本軍進駐期のベトナムを見て行きたいと思います。
(2022年11月21日、あかたつ)
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