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2022年11月

2022年11月30日 (水)

2022.11月のブルーベリー農園その4

夏のブルーベリーの収穫のシーズンと違って晩秋の週末農業はゆっくりモードで午後からとなることが多い。23日の祝日は雨だったが、粘って午後に安芸区の自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー農園にいった。2時過ぎから雨が上がったので数時間農園で作業することができた。2627日の土曜日の天気は晴れで、農園は桜の木にシジュウガラがやってきたり、時折カラスが鳴くだけで風もなく静か。

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1123日(水)

午前中は雨。午後農園に着いてから遅い昼食をとっている間に雨が上がったので里山の竹を数本伐採。あたりにまだ小さいカエデの木が数本紅葉している。

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薄日が差し、黄色い葉のさきにたまるしずくが光る

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庭のサザンカ。今年は花数が多いので落花もたくさん。

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1127日(日)

農園の周囲のあちこちに柿の木がある。葉がすっかり落ちて実だけが残りカラスに食べられるか落柿を待つだけ。小ぶりな実なので人は取らなくなった。

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午後から庭の剪定で出た枝を燃やす。

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ブルーベリー畑の作業は小さいブルーベリーの木の足元の周囲をモグラがトンネルを掘っているのでバールを突き刺し、ほぐし、足で踏み固める作業を続けている。野焼きの煙は畑の中からでも見える。

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そろそろブルーベリーの落葉が始まった。

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それでも、花を咲かせる木もある。11月は暖かい日が多かったせいかもしれない。

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ブルーベリーの古い幹につくのはウメノキゴケ。排気ガスに弱く空気のきれいな場所にしか生えないそうだ。木は植えてから20年たっているので、幹の更新のサインにもなる。とりあえず剪定ばさみでそぎ落とす。

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 我が家で育てている寒蘭の紹介。

2種類の寒蘭が咲いているので、農園に出かける前に自宅で撮影した。鉢からの高さが60㎝位あり花の茎が2本で、花がそれぞれ10個、9個ついている。

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葉も細くてしなやかだが、花も細くて長い。香りが立ち込めるので玄関の中に置いている。名前は「日光」。ブルーベリー栽培よりも長くもう30年以上付き合っている花。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年11月29日 (火)

原爆納骨安置所と佐伯敏子さん

26日(土)午前10時からアステールプラザで開催されたワールドフレンドシップセンターの「Hirosihimaをつ・た・え・る基礎講座」・「中川幹朗さんに聴く2カ月連続企画『原爆納骨安置所と佐伯敏子さん』」に参加しました。10月は、フィールドワークが行われたようです。

今回の講師であるヒロシマ・フィールドワーク実行委員会の中川幹朗さんが編集した「原爆納骨堂を守り続けて 佐伯敏子さんの証言」が発刊されたことを10月21日の中国新聞「小山田浩子の本棚掘り」で知り、この本を入手したいと思っていました。

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そう思っていたところに届いた東京の竹内良男さんの「ヒロシマ通信」1820号(11月20日)にワールドフレンドシップセンターの企画が紹介されていましたので、早速申し込みをするとともに、中川さんにも電話を入れ、「証言集」を申し込みました。

当日の中川さんの話は、「原爆納骨堂を守り続けて 佐伯敏子さんの証言」に出てくる話を中心に、中川さんと佐伯敏子さんとのかかわりなど、わかりやすい話が続きました。講演が始まる前に中川さんからこの本を入手し、本を見ながら講演を聞くことができましたので、理解が深まったような気がします。といっても、ここで全てを紹介することはできません。

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一番印象に残ってことは、原爆納骨安置所(原爆供養塔)に納められた遺骨の遺族探しの話でした。名前が分かっていながら遺族のもとに帰ることのできない遺骨の引き取り手を探し始めた佐伯さんは、わずか半年の間で10人の遺骨を遺族のもとへ返すことができました。その佐伯さんの行動が、広島市を動かし昭和50年(1975年)、被爆30周年事業として「原爆供養塔の納骨名簿」が一枚の大きな紙に印刷されて県内だけでなく全国の自治体に送られ、一定期間、各役場の掲示板に掲示されることになったのです。それは、今も続いています。

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中川さんの話の中に、何度も堀川惠子著「原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年」が登場しました。私も読んだことのある本ですが、中川さんの話を聞くまで、すっかり忘れていました。

帰宅後、「原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年」を棚から取り出し、ページをくくりました。「第4章 原爆供養塔とともに」で佐伯さんの遺骨の遺族探しの様子が詳しく記載されていますが、そこに1975年から始まった「原爆供養塔の納骨名簿」のことも紹介されています。「たまたま掲示板の前を通りかかって亡き人の名前を見つけたという遺族が、全国から何組も訪れた。この年だけで107人の遺骨が遺族のもとに帰っている。」

佐伯さんの行動が、どれだけ多くの遺骨を遺族のものに返すことにつながったのか、感動する思いで、佐伯さんと身近に接してこられた中川さんの話を聞きました。

「原爆納骨堂を守り続けて 佐伯敏子さんの証言」には、2017年12月3日に東京で行われた「佐伯敏子さんを偲ぶ会」での参列者の話しとともに、ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会の最初の出版「証言 原爆納骨安置所と佐伯敏子さん」が再録されています。2004年に発刊されたこの本は未入手でしたので、今回の出版は、私にとってありがたいものとなりました。

いのちとうとし

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2022年11月28日 (月)

中区(袋町地区)防災訓練・防災フェアに参加しました。

青空が広がる27日日曜日、午前9時から国泰寺中学校の体育館、グランドを会場に袋町地区の防災訓練・防災フェアが開催され、私も大手町4丁目町内会の呼びかけで参加をしました。

今回の訓練の想定は、震度6弱の直下型地震が発生し、袋町地区一帯が①家屋数棟が半壊②窓ガラスの落下やブロック塀の倒壊等により多数の負傷者が発生③電気・ガス・水道・電話等のライフラインの被害(供給が一時的にストップ)という状況です。

会場の国泰寺中学に着くと、受け付け、検温、そして物資が配布されました。

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ここからすでに訓練が始まっていました。物資配給訓練です。参加者全員に非常食が配給されました。

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9時から開会式が行われ、20分ほどで終了すると、参加者は町内ごとに二つのグループに分かれます。一つは、「避難所運営ゲーム」です。

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講師の広島市防災ネットワークのみなさんから出される課題に随って、避難者の配置や避難所で起きる様々なできごとにどのように対応するかをチームで考える疑似体験です。

私は、このメンバーには入らなかったので、詳細は不明ですが、様々なケースに対応しなければならず、なかなか大変だって様です。本番になれば、もっと混乱した中での対応となると思いますので、この経験がどれだけ生きるのかとの思いもありますが、良い試みだったと思います。

この「避難所運営ゲーム」に参加しない参加者は、体育館内と外に設けられた防災フェアに参加します。

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屋外では、NTT西日本が担当する災害用伝言サービスの体験、水道局が担当する給水車の展示・給水訓練、中区消防署が設置した煙体験、119番通報体験、中区消防団が担当する消火器を使っての消化体験などのコーナーがあり、私もいくつか体験しました。消防車、警察のパトカー、白バイも展示されており、試乗(といっても動くわけではありませんが)ができましたので、子どもたちには大人気でした。

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屋内では、AED体験や災害ボランティアセンターなどの紹介コーナーも設けられていました。

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この防災フェアは、スタンプラリー形式になっており、私も一応全部を体験しました。

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11時過ぎに閉会式が行われて、中区(袋町地区)防災訓練・防災フェアは終了しました。好天に恵まれ、屋外の行事も多すべて実施できました。

地震が発生した時、この訓練でどれだけ対応できるのかは、心もとない気もしましたが、119番のかけ方やAED体験など自然災害時以外でも対応しなければならないテーマもありましたので、参加してよかったというのが実感です。

いのちとうとし

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2022年11月27日 (日)

「中国が攻めてきたらどうするか?」と問いかけられたら

日本政府は、中国脅威論を強調し、敵基地攻撃能力行使容認の動きが強めています。しかも、敵基地攻撃能力では反対の声が強くなると考えたのか「反撃能力」と意味不明の言葉に置き換え、姑息な方法まで取っています。

今日のテーマは、この問題を直接的に考えることではありません。19日に開催された「『ノーモア沖縄戦 命(ぬち)どぅ宝』広島のつどい ~ 進む琉球弧の島々(南西諸島)の軍事要塞化 ~」の講師山城博治(沖縄平和運動センター前議長)の発言から考えたいと思います。

山城さんは、よく知られているように沖縄・辺野古基地反対行動の中心的役割を担ってきた人です。講演の中心は、いま沖縄から鹿児島に連なる南西諸島(琉球弧)が急速に軍事化されていることについての話でしたが、その中で私が特に印象に残った話は、次のことです。

辺野古基地反対の座込みの場所での出来事です。この場所を訪れた学生にいろいろと話した後、学生から出た質問です。「中国が攻めてきたらどうするのですか」。よく出る質問です。この質問に山城さんは「中国が攻めてきたら降参します。白旗をあげて、手をあげて」と答えたという話です。山城さんは、この後「台湾有事になれば、中国が日本を攻めてくるというが、しかしなぜ中国が攻めてくるのかは誰も語っていません」とも指摘しています。

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私が、なぜこの話が特に印象に残っているかといえば、私も衆議院の憲法調査会で同じ質問をされたことがあるからです。

私は、「有事が発生するとしたら、それは政治の失敗。そうならないために政治がどう努力するのかが問われている。徹底した外交の努力によって、有事の事態を発生させない事こそが政治の役割だ」ということを、憲法調査会で繰り返し主張してきました。憲法調査会では、自由討論の時間があり、他の委員に対して質問することが許されていましたので、ある日の委員会で公明党の委員から私に対し次のような質問が行われました。「いのちとうとしさんは、外交の努力によって有事を防がなければならないと主張されていますが、それでも万、万、万が一、他国からの武力攻撃があったらどうしますか」というのです。万を数回繰り返したように記憶しています。まさに辺野古での山城さんに対する学生の質問と同じです。もちろん当時は、具体的な国の名前が出たわけではありませんが。

この質問に私は次のように答えました。「今の国際関係の中で、日本が攻撃されるような事態にはならないし、そのための外交努力を徹底して行わなければならないと思っている」としたうえで「それでも万、万が一といわれるのであれば、私は、無抵抗で手をあげます。もし日本が攻撃されるということになれば、国内が戦場になるということです。この狭い日本が戦場になったらどうなるでしょうか。多くの市民のいのちが奪われることは必至です。政治が何よりも優先しなければならないことは、国民の生命や財産を守ることです。国民のいのちを守るためには、武力を行使しないことが一番です」と。当時は、専守防衛のみ武器使用が許されると憲法解釈がされていましたので、武力攻撃を受けるということは、国内が戦場になることです。国内が戦場になればどんなに悲惨な状態になるのかは、沖縄が戦場となった第2次大戦が私たちに教えています。

山城さんも同じことを指摘されました。「あの沖縄戦で、住民が旗をあげて出ていったら、あんな悲惨な事態にはならなかった。命どぅ宝―命を一番大切にすることが大事。だからこそ、再び戦禍がおとずれることが無いように頑張ってきた。何のために77年間がんばってきたのか。なぜこんなことが起きるのか思わざるを得ない」と。

山城さんの話を聞きながら、憲法調査会でのことを思い出し、今こそ、本当に命を守るとはどういうことなのか、どうやったら命が守れるのかを考える時に来ていると思いました。

いのちとうとし

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2022年11月26日 (土)

素晴らしい眺望の韓国料理店NaRi Joa( ナリゾア)

被爆者の豊永恵三郎さんと原民喜研究者の竹原陽子さんの「俳句談義」に同行して二葉山の中腹にある韓国料理店NaRi Joa( ナリゾア)に昼食を食べに行きました。ナリゾラは、ハングル語で「いい日だね」という意味だそうです。

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急な坂道を登っていきますので、徒歩ではちょっと辛いものがあります。私たちは、広島駅新幹線口で待ち合わせをし、短い距離ですがタクシーに乗りました。

お店のオーナー安さんは、在韓被爆者問題で何度か席を同じくした知人でした。もちろん豊永さんの古い古い友人ですが。

このビルは、4階建てです。レストランの入り口が3階です。

このビルは、1968年に讃井さんによってアジアからの留学生の宿泊施設として建てられ、2001年に広島留学生会館が開館するまでは、この建物が留学生の宿泊場所として活用されてそうです。その名残が、館内だけでなくいたるところに残っています。この時は、讃井という名字しかわからなかったのですが、帰宅してある本を見ていたら当時広島大学の教授だった讃井鉄男さんが思い立ち、1963年に病気で急逝されると、その意志を妻の光子さんが引き継がれて完成したものだということがわかりました。

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現在、この建物は、4階がレストランとなっていますが、1階は2019年に亡くなられた女性史研究家加納美紀代の資料室とになっており、その膨大な蔵書や資料の整理を高雄きくえさんがあたっておられます。もともと安さんがこのビルを購入しようと思われた動機は、自分たちの資料室を持ちたいということだったようですから、この資料室こそこのビルの中心といってよいかもしれません。

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館内を見学しているうちに昼の時間が近づきましたので、4階に戻って、楽しい昼食の時間です。ランチメニューです。

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豊永さんが予約された「ワンプレートおたのしみセット」が、運ばれてきました。

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ゆっくりと美味しい昼食をいただくことができました。

お店を後にする前、お願いして屋上に上がらせていただきました。広島市内だけでなく、宮島や瀬戸内海の島々が一望できます。食事をした場所の窓からも見えますが、屋上から見る景色は格別でした。左方向の景色です。

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右方向の景色です。右端奥に宮島が望めます。

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真ん中で一番高く映っているビルの向こう側に似島がありますが、残念ながらビルの影になってみることができません。

天気に恵まれ良い景色を眺めることができました。

食事と景色に満足して帰宅の途につきました。

いのちとうとし

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2022年11月25日 (金)

島根原発防災訓練ウオッチ

11月7日と12日に、島根県原子力防災訓練が実施されました。コロナ禍で2年間中断していたもので、久しぶりの開催となりました。

12日は、実際に『避難者』を動かすというものでした。私は島根県雲南市の加茂地区に住んでいる人が、バスに乗って避難退域時検査場所の、同じく雲南市にある道の駅「たたらば壱番地」で、放射線測定などを行う様子を見るところから始めました。その後避難経由所となっている広島県三次市のみよし運動公園を経由して、避難所の三次酒屋体育館に行き、避難所設営訓練の様子をウオッチしました。

『たたらば壱番地』は、松江市の大野地区に住んでいる自家用車による避難者も集まってくる場所になっており、マスコミ、島根県担当者、中国電力、四国電力、内閣府というゼッケンをつけた人など、多くの人が集まっていました。丸山達也島根県知事も作業服を着て様子を観ていました。

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避難訓練は、原発から30キロ圏内にある島根・鳥取両県から、島根・鳥取・岡山・広島県へ避難するというものです。私たち中国地方連絡会議の仲間たちが、みんなで手分けして各地の様子をウオッチしました。その後、みんなで「ウオッチ振り返り会」を開きました。その中で出てきた感想などを書いておきます。

この度は自家用車による避難者も想定した内容となりました。そして実際には動かさなかったのですが、海上保安庁による船舶避難、陸上自衛隊によるヘリも準備していました。住民アンケートでは、約9割の人が「マイカーで避難する」と答えているので、マイカー避難も訓練の中に入れたのでしょう。しかしもっとも懸念される問題は、実際に避難をする際の交通渋滞や、放射線検査や避難者誘導、避難所設営などの作業にあたる人員の確保、駐車場などの問題です。

避難退域時検査場所になっている「たたらば壱番地」の駐車場容量は、150台です。しかし雲南市加茂地区の避難者だけでも、約5,800人とされています。松江市からの避難者も加われば、大げさではなく松江の高速道路入口から自動車は動かなくなるでしょう。

また、車の放射線測定はタイヤ部分とワイパー部分に限定されており、3年前の時の車全体の放射線測定から、簡略化されていました。除染もウエットティシュによる拭き取りという方法になっていました。本来なら高速洗浄機で洗うという方法です。

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そして『避難者』になった人がほとんど高齢者で、子どもや主婦層の姿が見られなかったことです。

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全体的に感じたことは、訓練の規模が小さ過ぎです。島根原発は30キロ圏内に住んで人が約46万人です。原発から30キロ圏内の人口は、国内の原発では3番目に多い数なのです。こんなに多数の人たちに対応ができる技能をもった人材が確保できるのでしょうか。

そして不思議に思ったのは、防災訓練が行われたことを、避難元、避難先自治体も含めてどれくらいの人が知っていただろうかという疑問でした。みんなが知ってほしいことですから、もっと広報をしっかりと行って、見学に来てほしいと宣伝しなかったのだろうかという疑問でした。

関係する雲南市、三次市の担当者以外、他の自治体からの人の姿はほとんど見かけませんでした。あまり知らせずに、秘密でやっていたことを明らかにしたのではないでしょうか。

この度も自家用車もバスも含めて道を迷った人もありました。トイレ、駐車場確保のこと、安定ヨウ素剤の配布、コロナ対策、降雪、燃料確保、寒さ対策などを考えると、実効性のある避難など考えられないというのが結論です。

 訓練が終了したので、島根県は関係自治体などが参加する「原子力防災訓練の評価に関する会議」を例年通り開催するそうですが、それまでにこの度の訓練で感じたことや要望をまとめておきたいと思っています。

 結論は、避難訓練をしなければならないような原発はやめることです。そのことを実感しました。みんな分かっているのに実行しないのは、まさに「裸の王様」ではないでしょうか。

木原省治

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2022年11月24日 (木)

討論が大切―ピーススクールで学んだこと

今月18日の第3回「平和フォーラムピーススクール」で講師を務めます。: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した「第3回平和フォーラムピーススクール」に行ってきました。私が問題提起をする「原水禁運動」は、一番目のカリキュラムでしたので、開会行事から参加することにしました。

主催者あいさつの後、「アイスブレーク」という時間が設定されています。何が始まるのかと思っていたら、参加者全員が二列に並び、向かい合ってそれぞれの共通点(年齢だとか趣味など)を話しメモを取ります。2分ほどで片側の列に並ぶ人が一つ移動して、同じことを繰り返します。時間の都合で4回ほど繰り返して終了です。その後何人かが、立って「誰それさんとこんなことが共通していました」と発表。参加者は、41名、前回より増えています。当然のことですが、初めて会う人ばかりでしたが、これで一気に参加者の雰囲気が変わり、何となくリラックスし参加者同士が身近な関係になったような気がします。

今回のピーススクールのコーディネーターの一人南雲さんのアイディアで、初めて体験する企画で、私も最初は「何が始まるのか」とちょっとびっくりしましたが、終わってみれば「納得」です。

その後が私の講演でしたが、何となく話しやすい雰囲気で話すことができました。

私の講演のタイトルは、いつものように「核と人類は共存できない 原水禁運動の歴史に学ぶ」です。リラックスした雰囲気でしたので、私も話の途中で「原水禁大会に参加した人は手をあげて」「反核平和の火リレーは?」など、参加者に問いかけながら、いつもと違う雰囲気で話すことができました。いずれの問いかけにも約半数の人の手が上がりました。

講演の後は、6つの班ごとのディスカッションです。これも南雲さんの指示。「今の話を聞いて、自分がこれまでやってきた平和運動について、話してみましょう」。テーブルごとの各班で15分間の討論が始まります。

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「はい終了。各班ひとり代表で、2分間で何が話されたか報告してください」

各代表の発表です。以外と思えるほど「反核平和の火リレー」に関する報告が出てきました。もちろん私が講演の中で触れたこともあったとは思いますが、ちょっと意外で、嬉しい気持ちでした。

最後のコメントを求められましたので、反核平和の火リレーのスタートに関わった一人として「なぜ走ることを企画したのか」「最初の時、ランナーを集めるのに苦労したこと」などを紹介して、この単位は終了しました。

班ごとのディスカッションが盛り上がっている様子を見て、どうしても「講演」が中心となる広島の原水禁学校の企画にも、もっと工夫が必要だなと痛感させられました。

日帰りでの参加でしたのでこの単位だけで私は会場を後にしましたが、学ばされることの多かった今回のピーススクールでした。

今回のフィールドワークは、二日目の19日でしたので、国会前で行われている「19日行動」に一緒の参加する事でした。これもよい経験になったと思います。

いのちとうとし

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2022年11月23日 (水)

2022.11月のブルーベリー農園その3

晩秋はブルーベリー農園のある東広島市豊栄町も紅葉があちこちで赤く染まる。また、ススキの穂も枯れすすき状態でひときわ大きく輝いてみせる。ブルーベリーは紅葉がまだ続き落葉は12月に入ってになりそうで、生理的には葉で培った栄養分を地下の根に下ろしているところといえる。風もすくなく気温も日中は20度を超える日があって農作業も、山の中での作業も11月は動きやすい。

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1119日(土)

里山に植えてある早生のブルーベリーは落葉しだした。

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里山の里道そばのサンショウの木の紅葉。右が早生のブルーベリー園

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ブルーベリーの手入れの合間に庭の木の剪定をした。切った枝がたくさんでたので、少しずつ燃やす。

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1120日(日)

ブルーベリー畑の周囲を巡回しながらブルーベリーの紅葉を眺める。水路の法面のススキの穂。

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法面全部がススキで

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穂が開いて枯れすすき状態になって晩秋の日差しに白く輝く

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一番下のブルーベリー畑から里山の杉林を望む

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ブルーベリー畑の中に入ると顔も赤く染まりそうで、

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ブルーベリーの下の方の枝の葉も真っ赤。

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小さい畑はブルーベリー畑から見ると小高い所にある。マメやダイコンの種をまいたので少しだけ手入れをする。

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流しからホースを伸ばして水やり。倒れた竹ももとに戻したり。ブルーベリーの作業といえばこの土日も小さいブルーベリーの木の足元でモグラがトンネルを掘っているので、バールで突き刺しながら足で固め続けた。次週の週末もこの作業が続く。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年11月22日 (火)

11月の19日行動―三原地区、府中地区

今月も」三原地区、府中地区の「19日行動」の報告を届けていただきました。

【三原地区】

11月19日(土)、午後1時30分から三原駅前に20人が参加して定例の「19日行動」を行いました。

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リレートークでは、5人の弁士が「国葬の強行、統一教会と自民党のズブズブの関係、物価高対策、政治とカネ問題、さらに軍事費の倍増や敵基地攻撃能力(反撃能力)保有に向け安保関連3文書改定の準備を進めている。いま必要なのは平和憲法を守り活かすことである。」と岸田政権の国民不在の政治に対して警鐘を鳴らし、一日も早い退陣を求めていこうと訴えました。

スピーチで高木武子さんは、

①戦争で亡くなった351万人、原爆で一瞬にして広島・長崎を含めて22万人が犠牲になった。こうした悲惨な戦争を経験した日本である。絶対に戦争はやったらいけない。そうした教訓をきちんと平和政策に活かしていかなければならない。私たちは、再び戦争への道は許さない。ずっと平和を守り続けていこうという思いで毎月、街頭で市民の皆さんに訴えている。②富国強兵の日本の戦前教育もありましたが、今一度教育の重要性について考えていかなければならないのではないか。今日(11/19)の中国新聞広場(ヤングスポット)の8歳の子どもの作文=せんそうはいけない=を紹介し、


社会見学で、広島市の原ばくしりょう館に行きました。たった一つのばくだんで広島がやけ野原になって、14万人の人が亡くなったことを学びました。

 やけたくつや服がてんじしてあるのを見ました。また、ばくだんのねつでやけどして、川にとびこんでなくなるなど、考えられない様子におそろしくなりました。ぼくはあらためて、せんそうをしてはいけないと思いました。

 そして、千ばづるがおいてある原ばくの子のぞうに行きました。ぼくたちのおったつるはみつけられなかったので、少しざんねんでした。その後、広島市江波山気しょう館に行き、いろいろな実けんを見ました。

 せんそうはいけないこと、平和だから楽しめることの二つを体けんできたと思います。今も世界ではせんそうをしている国があります。早く終わってほしいです。ぼくも、平和について自分に何ができるかを考えていきたいです。

「まさに子どもがこういう思いをもっている。悲惨な戦争体験に通じるものを見て、僕は何をしなければならないのか。何をしようかということを考えたということが大変大切であります。」このことをしっかり教育の場で、家庭教育の場で認識を深めていきたいものだ。と訴えました。

藤本講治

【府中地区】

今月も19日に上下と府中の2か所で「安保法制(戦争法)に反対する府中市民の会」の行動(リレートークとスタンディング)を行いました。

上下町では6人の方に新しく応援に駆けつけていただき、久々に10人を超え15人で、午後3時から上下Aコープ前で行いました。

Img_6745 また、旧府中市では午後4時30分から12人が参加し、天満屋府中店前で行いました。いずれも30分間の行動です。

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今日は会長の石岡真由海さんが参加できませんでしたが、参加者のみなさんが少しでもその穴を埋めようと原稿をもって準備万端で参加していました。

リレートークでは、①北朝鮮のミサイル発射ついて政府とマスコミの「安全な所に入ってください」などの報道はただ危機感をあおっているだけです。もっと平和外交を尽くすべきです。地元広島の寺田総務大臣の政治資金の問題はまたまた「政治と金の問題」です。広島の面汚しもええとこです。ただちに大臣をやめてくれ。葉梨前大臣の「死刑のはんこを押した時だけニュースになる」「外務省と法務省は票とお金に縁がない」という発言は人の命を軽んじているし、また大臣の賄賂・利権の温床体質を認めている発言で許せない。抗議文を送った。統一教会の養子縁組問題は赤ちゃんまで統一教会の道具になっている。おなかを痛めた赤ちゃんは道具ではない。結局、旧憲法、昔の家制度の考え方だ。自民党の憲法改悪案では家族制度を旧憲法に戻そうとしている。統一教会は自民党のこの家族制度の改悪を応援している。自民党と統一教会の体質は同じだ。現在の憲法24条では夫婦が同等の権利を有すること、相互の協力で維持されることがうたわれている。自民党の憲法改悪案は「家族は国に尽くすこと」になっておりま反対だ。こうした自民党によってつくられた安保法制が間違っていることは明らかです。安保法制が廃案になるまで頑張ります、と訴えました。

小川敏男

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2022年11月21日 (月)

ベトナムの歴史(その17-1) 抗仏闘争-2つづき

市井の医師、浅羽佐喜太郎の支援

厳しいフランスの植民地支配によりベトナム有志からの資金援助が途切れ、日本政府の弾圧が加わり困窮の極に立たされたチャウは、かつて行き倒れのベトナム留学生を助けたことがあるという帝大出の開業医・浅羽佐喜太郎にすがり窮状を訴えます。

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浅羽佐喜太郎肖像写真(静岡県袋井市出身)

「まことに少額ですが、家中かき集めて支度しました。これが有り金の全てです。当座のものに使ってください。また今後必要があれば、遠慮なく仰ってください。できるだけの用立てはするつもりです」と書かれた手紙とともに、1,700円(現在の4,700万円相当)もの大金が浅羽から届けられます。

チャウは浅羽の好意にむせび泣いたと伝えられています。

来日から4年後の19093月、日本の政治家と日本政府に対する深い不信と失望を抱えて日本を離れ、「東遊(トンズー)運動」は失敗に帰します。9年後の1918年、ファン・ボイ・チャウは日本を再訪し、真っ先に浅羽のもと(現在の静岡県袋井市梅山)を訪ねます。ところが浅羽佐喜太郎はチャウが日本を去った翌年、43歳の若さで亡くなっていました。言葉もなく茫然自失のチャウは、村人の協力を得て、追慕の思いとベトナム独立の悲願を込めた「浅羽佐喜太郎公紀念碑」を建立しました。

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浅羽佐喜太郎公紀念碑前の集合写真。1918年、最前列右から2番目がファン・ボイ・チャウ

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碑に刻まれた碑文

ファン・ボイ・チャウの「東遊(トンズー)運動」は失敗しますが、ホー・チ・ミンが指導するベトミン(ベトナム独立同盟)によるフランスの植民地支配を断ち切る第4期へとつながって行きます。

次号では1940年から1945年の日本敗戦までの日本軍進駐期のベトナムを見て行きたいと思います。

(2022年11月21日、あかたつ)

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2022年11月20日 (日)

ベトナムの歴史(その17) 抗仏闘争-2

20世紀初頭の抗仏闘争を牽引したファン・ボイ・チャウ

前号でベトナムの封建制度を支えてきた阮(グエン)王朝の人臣たちによる19世紀半ばから19世紀末の第1期、第2期「抗仏闘争」(攘夷勤王運動)を見てきました。今号では第3期に入った20世紀初頭の「抗仏闘争」を見てゆきたいと思います。

先ず挙げられるのがファン・ボイ・チャウの「東遊(トンズー)運動」です。チャウはベトナム中部(アンナン)に加え南西部(コーチシナ)全域がフランスの植民地支配に入った1867年、ベトナム中北部のゲアン省で儒学者の家に生まれます。日本では大政奉還により1603年以来、260年余続いた幕藩体制が崩壊した年です。

そのチャウが組織したのがベトナムの若者を日本に留学させる「東遊(トンズー)運動」で、20世紀初頭の抗仏闘争を全国的かつ広範な人々による民族運動へと導きました。しかし、チャウの「東遊(トンズー)運動」は成功せず、フランス官憲に逮捕されフエでの長い軟禁生活の後、1940年に亡くなりました。

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フエのチャンティエン橋のたもとに佇むファン・ボイ・チャウの石像

「東遊(トンズー)運動」 なぜ日本に?  そして、その日本は

ところでチャウは、なぜ日本に若者を留学させたのでしょう。そのことを理解するために、当時の日本を含むアジアの状況を見てみましょう。

アヘン戦争や仏越戦争でイギリス、フランスによるアジアの植民地化が進むなか、日本は明治維新による西欧近代化と富国強兵を進めます。清国(中国)は朝鮮半島の利権確保を狙い、露西亜は清国と朝鮮半島を狙うという、まさにアジアは帝国主義的争いのるつぼでした。日本は1894年、アジアの大国・清国と朝鮮半島の利権を争う日清戦争に勝利し、台湾と遼東半島を割譲支配します。続いて1904年、日本は日露戦争でバルチック艦隊と旅順守備隊を破ります。

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列強による中国分割を風刺した漫画(左よりドイツ皇帝(ヴェイヘルム2世)、フランス大統領(ルーベ)、露西亜皇帝(ニコライ2世)、日本の天皇(明治天皇)、アメリカ大統領(ルーズヴェルト)、イギリス国王(エドワード7世)

こうした一連の出来事はフランス植民地支配と闘うベトナムの人々に、「東洋の小国ジャポンが大露西亜帝国を破った」という驚きと、「日本を倣へ」という気運を募らせます。チャウもフランスと覇権を争っているイギリスと同盟関係にあり、軍事・政治・経済の近代化を進める日本で学び、「新しい社会を建設するための力を持った青年を育てよう」と考えたのです。

1904年春、チャウは20名ほどの同志とともにベトナム中部・クアンナムに集まり「維新会」を結成します。会主(党首)には阮王朝の皇位継承者の一人であるクォン・デ候(注1)が就きます。チャウとクォン・デ候は来日し、犬養毅や大隈重信などの協力を得ながら、1905年~1908年の間に200余名の留学生を日本で学ばせます。

ところが大きな弾圧の波が襲ってきます。帝国主義的国として台頭しつつあった日本は1907年にフランスと「日仏協約」を締結します。フランスが朝鮮における日本の優越的地位を認めると同時に、フランスのインドシナ支配を日本が認めるという内容です。

フランスは協定に基づきチャウとクァン・デ候、留学生の引き渡しを求めます。日本政府は留学生の引き渡しには応じますが、チャウとクォン・デ候については拒否します。しかし1909年、日本政府は遂にチャウとクァン・デ候に国外追放命令を出します。

 

(2022年11月20日、あかたつ)

【編集者】あかたつさんから届いた原稿「ベトナムの歴史(その17)」を今日明日の2回に分けて掲載します。

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2022年11月19日 (土)

不審な電話がかかってきました。

固定電話をつけていると、昼間に色々な電話がかかってきます。「処分するものはありませんか」「チラシを入れておきましたが、水道工事ならぜひわが社を」「最近あなたがすんでおられる中央レジデンスの購入を希望される人が折られるのですが、売却の予定はありませんか。同じマンションでそういう人をご存じありませんか」などなど。

いずれは、「我が家には該当するものはありません。予定はありません」と答えて電話を切るのですが、今回だけは奇妙な電話でした。

午前中の早い時間に外で人に会っているところに、妻から電話が入りました。

「今ね、広島中央警察署から電話があったんだけど変な内容だったよ。」「どんなこと?」と聞くと「先週の金曜日あなたのキャッシュカードを狙っていた二人を逮捕した。何か心当たりはないですか」といい、「自分は中央署のならおかといいます」というような内容だったというのです。

人と面談中でしたので、帰宅してから詳しく聞こうと思い、とりあえず電話を切りました。しかし、気になるものですから、対面者と別れた後、広島中央警察署を訪ねました。受付で「この署に、ナラオカさんという方はおられますか」と訊ねたところ、手元にある署員名簿をくくりながら、怪訝な顔をして「ナラオカですよね」と念押しをされます。

広島中央警察署には、「ナラオカ」という人はいないようです。そこで事情を話すと、「ちょっと待ってください」といわれ、少し待つと上の階から警察官が下りてきました。面談できる場所に移って、事情を尋ねられましたので、少し経緯を話すと、最初のことばが「私は、三島といいますが、被害はないですか」です。次に出た言葉が「最近大手町の方で警察を名のる特殊電話がいろいろと架かっているんですよ」でした。

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わが家にかかった電話は、そうした特殊電話の一つだったようです。詳しい話を聞きたいということでしたので、「私が自宅に帰ったころに電話をしてほしい」と話し、帰宅しました。

約束した時間に電話がかかってきましたので、妻が説明をしました。「キャッシュカードを狙っているということで逮捕した人の名前は、サイトウヨシノリ、38歳、元郵便局員、ヤマダナオキ、元広島銀行員だと言っていました。電話で、何も変わったことはありませんといったら、電話が切れました。」と話すと、次に「着信履歴に番号は残っていませんか」との問いです。「電話の着信履歴には番号ではなく『ヒョウジケンガイ』と表示されますので番号は出てきません。」これが妻の答えです。

これで広島中央警察署の三島さんとのやり取りは終わりました。

もちろんわが家には、特殊詐欺の被害はなかったのですが、もし本当に特殊電話だったら、なぜこの程度のやり取りで終わったのかちょっと不思議な気がします。

被害にあわなかったから言えることですが、「振り込み」にまでどうやって誘導するのか、ちょっと体験をしてみたかったとの思いも残る不審電話でした。

いのちとうとし

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2022年11月18日 (金)

第3回「平和フォーラムピーススクール」で講師を務めます。

平和フォーラムが主催する「平和フォーラム第3回ピーススクール」が、11月今日から20日までの2泊3日の日程で、東京で開催されます。

この「ピーススクール」は、2018年に「組織の強化が喫緊の重要な課題となっており、特に平和運動を担う若い世代に対して、様々な課題を丁寧に伝える取り組み、そして伝える場の保障が課題となっている」と将来的な組織強化を見据えて、初めて実施されました。

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第2回ピーススクールの報告集

 翌年の第2回平和フォーラムピーススクール(2019年10月に実施)には、私も原水禁運動の講座の講師を務め「原水禁運動をめぐる情勢と課題」をテーマに問題提起をしました。この年は、中央組織、各県の平和運動センターなどから31人が参加しています。

その後毎年実施される予定でしたが、コロナ感染拡大によって中止を余儀なくされ、今年3年ぶりに開催されることとなったものです。今回も原水禁運動の講座の講師を務めることになりましたが、最初の単位ですので、責任は重大です。

第3回ピーススクールのテーマと講師は次のようになっています。

一日目

①原水禁運動 金子哲夫

②政治状況 枝野幸男(立憲民主党前代表)

*終了後交流懇親会が予定されていましたが、コロナの感染拡大で中止になったようです。

 私は、前回この交流懇親会に参加しましたので理解できるのですが、ある意味参加者にとって一番楽しみで、議論が深まる企画ですので、中止は残念です。

二日目

③人権 鳥居一平(移住連代表理事)

④憲法 本庄未佳(岩手大准教授)

⑤フィールドワーク 前回は、「靖国神社」でしたが、今回はまだ記載されていません。

⑥沖縄の歴史と基地問題 大里知子(法政大学沖縄問題研究所准教授)

三日目

⑦環境問題・原発 松久保肇(原子力資料情報室事務局長)

⑧ワークショップ まとめ

これで全日程終了し、お昼過ぎに解散となります。

前回は、9本の講座がありましたが、今年は6本に減っています。

前回のピーススクールでは、講演の後すぐまた講演という日程で参加者の討論時間が少なかったため、今年は講演を受けて、その理解を深め、自分たちに何ができるかなどを論議するグループ討議を重視する構成になったようです。

例えば私の単位ですが、前回は、1時間15分の私の講演終了後、15分の休憩をはさんですぐに次の講義が始まりました。今回は、「原水禁運動」の単位は、全体で120分、私の問題提起は60分、残りの60分は、班ごとのグループ討議、そして代表者による発表と質問の時間になっていますので、しっかりとグループごとの意見交換ができると思います。

前回は参加がなかった広島からも今回は、二人が参加する予定になっています。全国の仲間の交流を深めることによって、広島でも頑張ってほしいと思います。

私も、少しでも参加者の理解が深まるように内容にしなければと準備をしました。

いのちとうとし

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2022年11月17日 (木)

紙屋町シャレオ古本まつり

今年2回目となる「紙屋町シャレオ古本まつり」が、15日から24日までの会期で開催されています。私は、初日の15日に会場に行ってきました。

私が、この古書展で探す本は、歴史関係、特に郷土史関係の本です。いつもこの種の本を出店している店は決まっていますので、その店の棚を探します。

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金座街と紙屋町に店を構えているアカディミー書店も歴史書や郷土史や被爆体験記などを並べていますが、こちらは週に一度はのぞく店ですので、他の店の棚から探していきます。

いつも何か珍しい本を見つけることができる神鳥書店も出店していますので、まずその棚から探し始めました。

残念ながら、今回は「これは」という本を見つけることはできませんので、後は順番にそれらしい本が置かれている棚を探します。そしてその後、ゆっくりと全部の棚(文庫本を除く)を一応探して回りましたが、残念ながら私が購入したいと思う本に出合うことはできませんでした。

それでも気になった本が一冊ありました。「安田学園70年史」です。被爆についての記述を探しました。あるにはあったのですが、体験記が2編あるだけでその他の内容は広島原爆戦災誌で読んでいた内容とほとんど変わりません。この学校の被爆体験集や追悼集などを見たことがありませんので、少し心が動いたのですが、結局購入は見送ることにしました。

「希少本を手に入れるためには」とほぼ毎回初日に古書展をのぞいていますが、収穫ゼロだったのは今回が初めてです。

各店とも、毎日追加の本を棚に入れますので、そこに期待したいと思いますが、私が求めるジャンルの本は、希少本がほとんどですので、追加されることはほとんどありません。

古本まつりの楽しみは、店舗が遠くて普段行けない店も多く参加していることです。あまり期待はできませんが、1回だけであきらめず、会期中にもう一、二度行ってみたいと思います。

いのちとうとし

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2022年11月16日 (水)

今年3度目の「原爆の絵画展」に行きました。

広島国際会議場で開催されていた「聞き、描く。共に、描く。高校生が描いたヒロシマ 原爆の絵画展」に行ってきました。

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広島市立基町高校普通科創造表現コースの生徒たちが、原爆被害の実相を後世に伝えるため被爆体験証言者とともに取り組んでいる「原爆の絵」の展覧会についてこのブログで、すでに今年2回(「原爆の絵」原画展に行っていました: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com、新作が並ぶ「原爆の絵画展」に行ってきました。: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com))紹介しています。

3度目になりますので、どうしようかと迷っていたのですが、1枚だけみたい絵がありましたので、最終日の13日に行ってきました。今日はその1枚について、紹介したいと思います。

その作品は、「おびただしい遺体(8月7日早朝、住吉橋東詰め)」とタイトルが付けられた、この作品です。

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被爆体験証言者は、飯田國彦さん、製作者は、高校3年生(当時)のサンガー梨里さんで、2021年度完成の新作です。

広島テレビのドキュメンタリー番組(番組名は失念して紹介できないのですが)で、飯田さんの被ばく体験と、この二人の共同による作品制作の苦労の様子の一部が紹介された場面が印象に残っていました。描かれた場所が「住吉橋東詰め」だったことも関心をもって一つです。この橋のことも、「住吉神社の被爆」のことを紹介したこのブログで触れていたからです。

この絵画展では、作品ごとに「タイトル、描いた場面の説明、生徒のコメント、被爆体験証言者のコメント」が書いたキャプションが横に貼られていますので、この作品への思いを知ることができます。

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番組の中で、この作品の制作風景とともに「足の踏み場のない程の遺体が横たわっていた」という証言をどう描くのかで苦労したこと、それに対し飯田さんが「私が伝えたいこと、足の踏み場もない程の遺体の様子が良く表現されていますよ」とサンガーさんに伝えている姿が、紹介されていました。

この写真では、見えにくいのですが、会場では、遺体がびっしりと描かれた様子をじっくり見ることができました。サンガー梨里さんは、制作の苦労を次のように書いています。

「今回の絵は、飯田さんだけでなく、この風景を見た飯田さんの叔母様の想いも背負って描きました。数え切れないほどの人を描くのに大変苦労しました。飯田さんをはじめとして、先生方や同じ教室で制作していた仲間、原爆資料館のスタッフの方にも助けてもらい、描き続けることができました。飯田さんと2年にわたり、2枚の原爆の絵の制作を経て、私の平和に対する向き合い方が変わり、自分にできることをより積極的に考えるようになりました。(略)この2年間に原爆の絵を制作して学んだことは一生忘れないと思います。」

テレビの番組でも紹介されていましたが、飯田國彦さんは、3歳の時に被爆、この場所には、叔母の山本弘子さんに抱っこされてたどり着いたそうですから、飯田さんが直接目にした体験ではないかもしれませんが、どうしても語っておかなければならないという強い思いを感ずることができます。

そしてそれを受け止め、懸命にその時の様子を描こうとする高校生たちの苦労の様子を改めて実感した今回の「原爆の絵画展」でした。

いのちとうとし

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2022年11月15日 (火)

2022.11月のブルーベリー農園その2

農作業をしている手前雨がいつ降ったのかが気になる。11月に入ってからは13日に小雨が降っただけであとは日中20度くらいの天気が続く。安芸区の自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー農園に週末に通う日数も雨で休み、はなくて13日も農作業ができた。ブルーベリーの紅葉は次第に赤みが増してきているが、まだ落葉はしていないのでブルーベリーの剪定はもう少し先になる。

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1112日(土)

農園についたら真っ先に富有柿を5個くらい残してあとは高枝剪定用のハサミでもいだ。実のついた枝を切ったとたんにどさっと落ちる実もあったが畑の土が柔らかいのでつぶれることはなかった。

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バケツに半分くらいとれた。11月半ばまで実をつけておくとやや実が大きくなり、色も赤くなり、やや柔らかくなり、甘いのでほぼ毎日夕食後に食べている。

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柿をもいだ小さな畑に、すっかりいなくなった赤トンボを見つけた。

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農園の庭のサザンカの花にスズメバチがあわただしく花の蜜を吸いに来ている。

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家の周辺の植木が伸び放題なので、剪定をしたらたくさんの枝が出たので、少しずつ燃やしていく。

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3段ある畑で育てているブルーベリーは植えて20年になり3mを超える木もたくさんあるが、枯れた木の後に植え替えた小さい木には、根元の周囲にモグラが来て土の表面から45㎝の深さにトンネル状の穴を掘っている木がほとんど。そのため根の周りが空洞になっているので踏み固める作業を行う。バールを土に突き刺すと空洞になっているところが分かるのでほぐして靴で固める。とても一日では終わりそうもない。立ったままで作業したら腰に来たので、次の日からはスツールに座って作業した。帰りの車の運転中の腰の痛みが少し楽になっていた。

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緑肥用にまいた赤ソバの花がブルーベリー畑の中に咲いている。これまで見なかった景色だ。

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1113日(日)

午前中はしとしと雨が降っていたが午後農園に着いたら雨がやみ3時ころにはよわよわしいが青空ものぞいてくれた。

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里山にあるブルーベリー園の見回りと、竹の伐採を行う。里道から見えるブルーベリー畑と、

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近くにあるモミジの紅葉。

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地面すれすれの高さのヤブコウジに赤い実がついている。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年11月14日 (月)

原水爆禁止世界大会の名称は、なぜ「被爆○○周年」か―その2

12日のつづきです。

大会基調では、この被爆からの20年間の世界情勢を簡単に述べた後、次のように運動とのかかわりが書かれています。

「過去20年間におよぶ歴史の中でつくりだされた、戦争を否定し平和を追求するという人間尊重の意識は、もはや、たんなる一部の有識者や政治勢力のものだけではありません。とくに被爆国日本にとって、原水爆禁止の意識は、国民の心の深層に定着した共通の国民創意であります。これを積極的にまもり育て、そして平和をめぐるきびしい情勢をのりこえる力としてもりあげていくことこそ、原水禁運動に新しい息吹を注ぎ、その歴史的伝統をうけつぎ、発展させる原動力でありましょう。」

ここでは、原水禁運動のスタートとなったビキニ被災に始まる署名運動の歴史的伝統を引き継ぐ決意が表明し、民衆の力の大切さが強調されています。

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被爆20周年原水禁世界大会

さらに大会基調は「20周年」ということばの意味を強調します。

「私たちが二〇周年を記念するのはこのような意味からであり、それはたんに、過去を追憶するという問題にかぎられません。むしろ、この意味ある日を記念することをとおして、こんごの私たちの運動課題とその方向を見定めることこそ、今日の任務であります。」

その後、大会基調は、情勢や国内外の運動の状況に触れた後、「原水爆禁止運動の歴史的発展」として次のように述べています。

「この運動は、政治の手段として、いかなる核兵器の使用・保有も許さないという理念に基づくものであり、『いかなる国のいかなる理由を問わず』原水爆の実験・使用・製造に反対する基本要求によってつくりだされる大衆運動であります。(中略)広島・長崎の体験を土台にして、ビキニ被災を契機に発展してきた原水爆禁止運動の歴史的伝統をうけつぐ運動主体をつくりあげ、強めることは、極めて重要であるといわなければなりません。同時にこの伝統を真にうけつぐことは、この運動の中でつくられた運動の基本原則を尊重することにほかなりません。そして、そのことが保証されるためには『原水爆禁止』と『戦争反対』を希求するすべての団体、個人に、そして国民諸階層に解放された民主的運動体が確立されなければなりません。」

原水禁運動の分裂の原因となったいわゆる「いかなる」問題について、強調されていることが、特に気づく点です。今では、この「いかなる問題」は、原水禁運動の中では当然のことになっています。

つづいて大会基調は、原水爆禁止国民会議の結成に至る経過を述べるとともに、そこで確認された「原水爆禁止運動の基本原則」の中核となる5項目を紹介しています。

ここでは、今に続く「原水禁運動の基本原則」5項目のうち最初の3つを掲載します。

1、広島、長崎・ビキニの被爆の原体験を運動の基礎とする。

2、いかなる国の核兵器の製造、貯蔵、実験、使用、拡散にも反対する。

3、平和憲法の理念を基礎とし、原水爆の禁止と完全軍縮が、現在の異なる社会隊の平和共存のもとで可能であるという立場に立つ。

〈以下略〉

この基本原則について、そのすぐ後に次のように触れていることも紹介しておきます。

「この『基本原則』は、たんに『原水爆禁止日本国民会議』の基本原則であるだけでなく、被爆の原体験をもとに、原水爆の脅威から人類の生存と繁栄をまもる立場に立つ全ての団体や、個人に広く支持される基本原則であろうと思います」と。

まさにこの基本原則は、今もゆるぎなく原水禁国民会議の運動の柱として生きつづけています。

原水爆禁止国民会議を結成し、被爆20周年原水禁世界大会を開催してから52年がたちましたが、この大会報告集を目にして、大会名称に込められた思い、そして確認された運動の基本は、今でも繰り返し確認することが大切だと、改めて実感しています。

いのちとうとし

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2022年11月13日 (日)

「デニー知事トークキャラバンin広島」に参加しました。

沖縄県が主催する「チムグクル(思いやり 優しさ)で考えよう デニー知事トークキャラバンin広島」が昨日(12日)午後2時から広島市青少年センターで開催されました。

この集会は、玉城デニー沖縄県知事が、全国各地に出かけて「沖縄県の基地問題と基地負担の現状、中でも、喫緊の課題である普天間飛行場の危険性の除去と辺野古新基地建設問題及び日米地位協定の問題について、一緒に考えてみませんか」を訴える企画として開催されているものです。

講演会は、沖縄の榎森耕助(せやろがいおじさん)の司会でスタートしました。

最初に玉城沖縄県知事から「沖縄の基地問題」と題した講演があった後、4人の参加者によるトークセッションが行われました。

玉城知事の話しは、「コロナで2年間中止を余儀なくされていましたが、知事選挙で再選された初めてのトークインキャラバンの地として広島の地を選びました。昨日広島入りし、今日資料館を見学し、本当に二度とこんなことをやらせてはならない。沖縄と痛みを共有することができました」からスタートし、続いて自己紹介です。「アメリカ兵だった父の母国であるアメリカに渡航することを前提に『デニス』と名付けられたこと。小学4年生で『幸助(泰浩)』に改名したが、子どものころから『デニー』の愛称で呼ばれていたので、今そのデニーを使っている」などなど。

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建議書を岸田首相に手渡す玉城沖縄県知事

そして本題の基地問題です。冒頭、在沖縄米軍基地の現状地図をパワーポイントで示しながら「沖縄の米軍基地専用施設面積は、18,484ha。この面積は、広島市の面積90,669haの2割(20.4%)にあたります。広島市の地図を頭にそのことを想像してみてください。」「米軍専用施設の70.3%が沖縄に集中していますが、広島県は、1.3%第8番目です。」身近な問題として考えてほしいという思いが伝わります。

この後、沖縄で起きた米軍による事故・事件、日米地位協定の問題点、特に、NATO諸国と著しい国内法適用の違い、そして辺野古の軟弱地盤の問題を指摘し「辺野古が唯一の解決策ではない」ことなどが報告されました。復帰50周年の今年5月「平和で豊かな沖縄実現に向けた新たな建議書」(新たなというのは、復帰時に「復帰措置に関する建議書」が作られていたため)を作ったことも紹介されました。最後の「子どもたちがどういう地域に住み暮らすのかは、全国どこでも考えなければならない問題だ」と提起された言葉が印象に残っています。

玉城デニー知事の講演は、当初30分の予定となっていましたが、50分の熱弁となりました。それだけ、広島への強い思いがあったからだと思います。

知事の講演の後のトークセッションは、柳澤協二のコーディネートでスタート。トーク者は、野村浩也さん(広島修道大学人文学部教授)、宮崎園子さん(ジャーナリスト元朝日新聞記者)、田中美穂さん(核政策を知りたい広島若者有権者の会(カクワカ広島)共同代表)の3人で、いずれも広島で活動中のみなさんです。

みなさん自分の体験からの貴重な話でしたが、中でも野村浩也先生の「基地問題は差別の問題。沖縄では66.3%の人たちが、差別的だと思っているのに、本土側では差別という意識がない。沖縄に基地を押し付けているという事実をすることが大事だ」という提起が頭に残っています。

最後に玉城知事は、「みんなが当事者。国民が強く関心を持てばその方に政治は動いていく。」との提起があり、「デニー知事トークキャラバンin広島」は終了しました。

今回の企画は、会場での聴講とオンラインでも聴講できました。会場の参加者は、500名が目標だったようですが、628名の会場の7割弱ぐらいの席が埋まったように感じました。やはり知事の話を直接聞きたいと思われた人たちが多かったと思います。私もその一人です。

いのちとうとし

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2022年11月12日 (土)

原水爆禁止世界大会の名称は、なぜ「被爆○○周年」か

原水禁国民会議が開催する夏の原水爆禁止世界大会の名称には、「被爆○○周年」がついています。この大会名称になぜ「被爆○○周年」とついているのか考えてみたいと思います。

そのことを考えるきっかけになったのは、昨年2021年に開催された「被爆76周年原水爆禁止世界大会」の大会配布資料の背表紙には「2021年『被爆76周年原水爆禁止世界大会』」と頭に「2021年」と付けられていたからです。

大会名称は「被爆○○周年」から始まることは当然のこととだと思ってきました。私がこれまで何度か引用した過去の原水爆禁止世界大会報告集は、もちろん「被爆○○周年」しか付けられていません。

「なぜわざわざ頭に『2021年』と付けたのか」を疑問に感じ、当時の事務局長とこの表現について話し合ったことがあります。誤解があると困りますので付け加えますが、この年の大会の名称はもちろん「被爆76周年原水爆禁止世界大会」となっています。

当時の事務局長は「特別に意味があったわけではありません。この方がわかりやすいかなと思っただけです」との答えでした。それに対し私の意見は「大会名称に被爆○○周年と付けているのは、原水禁国民会議が『原水禁運動の原点は、広島、長崎の被爆の実相だ』と考え、そのことを忘れないためだと思う。」と伝え、二人の話は終わりました。

そうは言いつつも、「被爆○○周年」は付くのは当たり前のことと思い続けてきましが、本当に私の考えでよいのだろうかと不安な気持ちもありました。

最近、ようやくこの不安に答えてくれる資料に出会うことができました。その資料は「被爆20周年原水爆禁止世界大会報告決定集」です。広島県原水禁にも私の所有する資料にもこの資料はありませんので、初めて目にする資料です。広島県原水禁に外部からのある問い合わせがあり、それにこたえるため原水禁本部から送ってもらったようです。明日のも返送しようと思っていた時期だったようですので、本当に偶然のタイミングでした。

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言うまでもないことですが、被爆20周年は、1965年です。

1963年に開催された第9回原水禁世界大会で事実上原水禁運動が分裂し、翌年の被災三県連(広島、長崎、静岡)主催の原水禁広島大会を経て、原水爆禁止日本国民会議が結成されたのが、1965年2月1日です。

ですから、「被爆20周年原水爆禁止世界大会」は、原水禁国民会議が開いた初めての原水禁世界大会ということになります。

その意味で「被爆20周年原水爆禁止世界大会報告決定集」は、重要な資料の一つです。

その報告決定集の冒頭に「大会基調」が収録されていますが、その基調の「一、まえがき」は「大会名称を被爆20周年」としたことの意味から始まっています。分裂以前の原水禁大会の名称は、「第○回」となっていました。

少し長いのですが、該当する部分を引用します。

「広島、長崎にアメリカの原子爆弾が投下され一瞬にして数十万の人命が奪われてから、ことしはちょうど20周年にあたります。この意義ある日を記念して、私たちは『被爆20周年原水爆禁止世界大会』を開催いたすことにしました。私たちは、大会の名称を、あえて『被爆20周年』と銘うちましたが、この言葉には、言い尽くせない深い意義が含まれております。

被爆20周年というとき、それはたんに暦の上に刻まれた時の経過を意味するだけではありません。少なくとも、この20年の間に、いくどか核戦争の危機があったにもかかわらず全世界の平和の力は、この地球上の核兵器の使用を許すことなく、生存を続けてきたという歴史の重みを表現しているのです。」

この部分だけでも十分ですが、さらにつづけて「被爆20周年」が持つ意味が、書かれています。ぜひ知ってお欲しいと内容ですが、ここまでで長くなってしまいましたので、今日はここで終わりにし、つづきは14日以降に紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2022年11月11日 (金)

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館のホームページ改修

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の久保雅之館長から「ホームページの改修を終えました」とのメールが届きました。

このメールは、9月13日のブログ国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の説明文: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介した。「②ホームページについて  フロアマップの③追悼空間スロープの説明文に『原爆投下に至る経緯が6枚のパネルに記載されています』の一文を加え、『6枚のパネル』にリンクボタンを設置し、パネルの銘文が読めるように改定します。」の改修作業が終わったという連絡です。

メールには、検索方法が書かれていますので、それに従って早速ホームページを検索しました。

当館のホームページ⇒フロアマップhttps://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/floormap/index.htmlから「地下一階」の図面へと進んでいただき、

20221110_093623

「追悼空間スロープ③」をクリックしてください。画面の真ん中ほどに③があります。クリックすると次の画面が出ました。

20221110_093724

 

「追悼空間スロープ」にたどり着きました。

メールには次のように書かれています。

「追悼空間スロープの説明に6枚のパネルに関する文章とアンダーラインが引かれたリンクボタンを新たに加えております。」

20221110_093750

この指示に従い、「6枚のパネル」のリンクボタンをクリックすると、「追悼空間スロープ」と書かれた画面にたどり着きます。

20221110_094011

ここに6枚の説明パネルが表示されます。このままでは読みにくいのですが、各パネルの右下角にある虫眼鏡のマークを押すと拡大した形で各パネルを読むことができます。

最初のパネルの虫眼鏡のマークをクリックすると、拡大したパネルの画面に変わります。

20221110_094201

これで、読みやすくなります。6枚の説明パネルの虫眼鏡のマークをクリックすればすべての説明文を読むことができます。

各パネルには、日本語だけでなく英語、中国語、ハングルの説明文も付けられています。

ぜひ一度、検索してみてください。

もちろん、日本語画面だけでなく英語、中国語、ハングルのホームページからもここにたどり着けるようになっています。

そしてメールの最後に次の文章が付け加えられていました。「パンフレット改訂につきましては以前申し上げたとおり企画展コーナーの改装を待って、年度末以降の対応となります。」

「大切な6枚の説明文を出来るだけ多くの人に知ってほしい」という長い間の懸案が、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の久保雅之館長や職員のみなさんの理解を得て、ホームページでも見ることができるようになりました。

ありがとうございました。

 いのちとうとし

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2022年11月10日 (木)

上関町長選挙結果を考える

 10月23日の投開票で、上関町長選挙と町会議員の補欠選挙が実施されました。

上関町に原発建設の計画が公けになったのは1982年、翌83年に原発問題を争点とした初めての町長選挙が実施されています。今でも鮮明に覚えています。あれから12回目の町長選挙となったのです。

 83年の時、原発推進派が得た票数は2871票で57,5%、反対派として立候補されたのは元学校長の向井丈一(むかい じょういち)さんでした。選挙中は向井さんの自宅に泊まらせてもらい応援したものです。この時の向井さんの得票数は、2121票42,5%でした。

 上関原発計画が浮上して40年ですから、4年毎の選挙だと11回選挙が行われることになるのですが、2003年には2回の町長選挙が行われました。理由は、原発推進で立候補した女性候補陣営で選挙違反事件が起こり、この町長は就任後すぐに辞職し再度選挙が行われたのです。

 この度の選挙、病気で辞職した柏原重海(かしわばら しげみ)前町長、去年頃から体調を壊して入退院を繰り返していました。町長としての仕事は副町長が代行していました。柏原さんは基本的に原発推進派ですが、福島原発事故以降は原発推進を強く打ち出すことをトーンダウンしていたようでした。

2011年、福島原発事故の年に行われた選挙は、全国的にマスコミが注目していましたが、柏原さんの選挙ポスターなどには、『原発建設推進』という言葉は在りませんでした。

その後、15年と19年に実施された2回の選挙は、無投票で柏原さんが町長に選ばれました。そして健康上の理由で辞職を表明、柏原さんの考えに近い副町長が立候補するのなら反対派も立候補しないで、またもや無投票かと思われていました。しかしこの副町長は立候補しないことになり、推進派が候補者擁立に動き出しました。

推進派からは、原発計画地の四代(しだい)地区に住み原発問題が浮上した当初からの町会議員か、この度町長になった西哲夫(にし てつお)さんかなと予想していました。僕はこのどちらが立候補したら、無投票にしてはならないと思いました。西さんは原発推進を強く出す人で、運送業をしており町議会議長もしていた関係で、知名度は高い人でした。

そういう中で反対から立候補された木村力(きむら つとむ)さんには、「ありがとうございました」という感謝の気持ちでいっぱいです。

Img_7184

 選挙結果についてはマスコミで大きく報じられていますから、重複は避けますが、『原発推進派 最高の得票率』『投票率は最低』とされています。

 そこで僕なりに選挙結果を分析してみました。木村さんの得票数は486票です。反対運動の拠点といわれている祝島の投票数が239票、9割の人が反対として215票、486票から215票を引くと271票、この数は本土側から得たことになります。

僕は本土側で表立った反対運動をしている人を、50人ぐらいしか知りません。しかし271票が出ているのです。原発推進の締め付けが厳しい本土側で、この数字は大きいと思いました。

 またこの度の選挙戦では、若い人の活躍が見受けられました。町議補欠選挙に反対側から立候補した堀田圭介(ほった けいすけ)さんは、北海道からのIターン者、祝島でコーヒー店をやっている56歳、まだまだ若い方です。

 新設の原発建設計画である上関、町長選挙の結果だけで建設が進むというものではないでしょう。日本の中で、新設は上関計画が唯一です。政権の中から聞こえてくる「新増設」という声、この計画を止めるのは私たち全員の課題だと思っています。

木原省治

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2022年11月 9日 (水)

「原爆戦災誌」と書かれたファイル

「広島逓信病院旧外来棟」の資料室の書棚には、様々な資料が収められています。一角には、「広島貯金支局記録写真」と書かれたファイルなど郵政省に関する資料が収められています。

広島貯金支局は、中区千田町にあった被爆建物です。広島貯金局の地下室での出来事を近所の人から話を聞いた栗原貞子さんが、一息に書き上げたのが「生ましめんかな」です。写真集に地下室の写真はないかと探しましたが、残念ながら地下室の写真はありませんでした。

「珍しいもの」と書いたのは、この写真集のことではありません。どうにも気になったのは、その左隣にあった背表紙に手書きで「原爆戦災誌」と書かれた2冊のファイルです。

20221105_155013

逓信病院の原爆被害のことが詳しく書かれている資料かなと思い、引き出してみました。

中には、資料を入れた茶封筒が、何袋かありますが、最初の目に入ったのは、封筒に入れられていない一枚の資料です。

20221105_152744

このペーパーは、広島市長浜井信三の名前で広島郵政局長に充てて出された文書で、日付は「昭和38年8月10日」、タイトルは「『広島原爆戦災誌』資料表作成の寄せられたご協力について(御礼)」となっています。

広島市が「昭和46年8月6日」に発行した「広島原爆戦災誌」を編集するために郵政省関係の原爆被害の実態調査への回答のお礼文です。

このファイルのもう少し下の方を探すと、もう一枚同じような広島市長名の文書が出てきました。

20221105_154048

こちらの日付は、「昭和37年8月27日」となっており、タイトルは「『広島原爆戦災誌』刊行のための資料表記載方お願いについて(依頼)」と書かれています。

本文は、「このたび本市に起きましては、過ぐる昭和20年の原爆被災の実情を、市内各地区別、教育、陸軍、銀行、会社、事業所、県、市等の各部門別に分けて詳細に収録する『広島原爆戦災誌』の作成に着手することになりました。」で始まり、その後に「新修広島市史」にも原爆被災について記載があるが、細部にわたっての記載がないので、「本年度から3か年計画をもって、この戦災誌の事業に着手することになったので協力してほしい」という内容となっています。

「昭和38年8月10日」付けの文書は、この文書での依頼に対して広島郵政局が資料表を作成して協力したお礼の文書ということになります。

棚にあった「原爆戦災誌」と書かれたファイルに納められた茶封筒には、広島市の依頼に応じてまとめられ広島市に提出された郵政関係の事業所の被災資料の複写(青焼き)が、それぞれ事業所ごとに納められています。

一番目の封筒を開けると「広島市原爆戦災誌資料 広島貯金支局関係」と書かれた資料が入っています。

20221105_153517_20221106154801

 災害概要を読むと同じ書棚にある広島市発行の「広島原爆戦災誌」に記載された内容とほぼ一致しますので、間違いなくこのファイルは、広島市に提出した資料の控です。

このブログでも何度も「広島原爆戦災誌」から引用してきましたが、今回この「原爆戦災誌」を見つけたことで、同書がこうした方法によって調査し、その回答に基づいて編集されていることを知ることができました。

「昭和37年8月27日」付けの依頼文書には、「広島原爆戦災誌」編集の意義を「思えば広島の戦災は、実に人類史上全く空前のものであり、これが詳録を組織的に確立して、諸点を十分に吟味検討し、これを後世に残すことはわれわれに課せられた責務であると存じます。被災がすでに17年の歳月は経過しましたが、今にしてこれが確立する挙に踏み切らなければ、かけがえのない貴重な諸事項は永久に消滅に帰するのみと存ぜられます。」と書いています。

こうした強い思いで編集された「広島原爆戦災誌」、今後もできるだけ活用していきたいものだと思います。

それにしても思いがけない出会いでした。

いのちとうとし

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2022年11月 8日 (火)

2022.11月のブルーベリー農園その1

雨らしい雨が降らない日が続いている。休みの日には安芸区の自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー園で農作業をしている。農園の草刈りがほとんど終わったので、小さい畑の手入れや、種をまいたりして来春の収穫の楽しみを準備した。里山の茂った竹を伐採することも続けている。枯れたブルーベリーの植え替えを始めた。11月前には終わらせたい。偶然の出会いがあった。キジは道路を横断するところで出会い、ジョウビタキはブルーベリー畑から突然飛び立つところに出会った。びっくりしたり、和んだり。これから剪定の時期に入るので、今年も姿を見せてくれそうだ。

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1030日(日)

小さい畑の一部をミニ耕運機で耕す。草を取り除いたところまででこの日は終了。

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113日(木)

小さい畑の法面に背の低いドングリの木がある。たくさんの実がついていた。まだ青い。

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農園の庭の八重のサザンカが咲きだした。

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9月にブルーベリー畑に種をまいたカラシナの青葉が伸びて来たので摘んで、炒めて頂く。ちょっと辛みがある。

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115日(土)

農園の畑から道路のキジが出てきたのと出会う。ゆっくり横断して山側の休耕田に移動した。車の中から撮影。

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小さい畑にソラマメ、キヌサヤエンドウ、ダイコン、キンセンカ、ナデシコの種をまく。支柱は切った竹を立てた。雨がこれまでも、これからも降らないので芽が出るのに時間がかかりそうだ。

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115日(土)

ブルーベリー畑の紅葉が進んでいる。下の方は緑で上方が赤くなっている。

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里山の早生(北部ハイブッシュ系)の紅葉。赤より黄色の色が多い。

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杉に絡まるツタの紅葉。

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116日(日)

紅葉したブルーベリーの枝先にとまるジョウビタキ

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枯れたブルーベリーを撤去した後に新しい苗木を植える。木の周りに硫黄粉を湯飲み茶わんに一杯の量をまいたあともみ殻で覆って植え替え終了。ブルーベリーは強い酸性の土壌(ph値4.5~5.5位)出ないと育たない。

 2022118

社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年11月 7日 (月)

被爆建物「旧広島逓信病院外来棟」見学-ひろしまたてものがたりフェスタ

今月の4日から6日まで会期で広島市内の「広島の魅力的な建物を見て・ふれて・知る」ことのできるイベント・「ひろしまたてものがたりフェスタ」が開催されました。

この実行委員会は研究者などで作られているようですが、その構成団体の一つと思われるアーキウォーク広島からメールで情報が届けられていましたので、その企画の一つ「被爆建物『旧広島逓信病院外来棟』」の見学に行ってきました。

アーキウォーク広島は、「旧陸軍被服支廠が、建築物として非常に価値がある」ことに着目をして、保存運動に積極的な役割を果たしてきました。私とアーキウォーク広島との出会いはその時からです。

旧広島逓信病院外来棟は、90年代の原水禁世界大会では、フィールドワークのコースに組み入れたことがありましたが、最近訪れる機会もありませんでしたので、久しぶりの見学となりました。

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旧広島逓信病院外来棟は、1935年(昭和10年)に旧広島逓信局関係の付属病院として建設され、爆心地から1,370mで被爆しました。職員は、48名中5名が死亡(うち1名が病院内で死亡)、7名重傷、25名が軽傷の被害にあいました。入院患者は、全員退院措置が取られていたため、入院患者の被害はありませんでした。一切の施設が破壊されましたが、被爆後、数多くの負傷者が押し寄せ、職員は懸命な治療に当たり、市内に残った数少ない医療機関として、医療面、調査面で重要な役割を果たしました。

日本郵政株式会社(当時は中国郵政局)が、被爆50周年にあたる1995年(平成7年)に旧外来棟の一部を被爆資料室として改修し、無料で公開されてきました。

その後、2018年(平成30年)に広島市に寄贈され、現在は広島市が被爆資料室として公開しています。

余談ですが、私も入院治療をしたことがある広島逓信病院は、医療法人社団生和会(山口県周南市)に譲渡され、今年10月1日から名称が「広島はくしま病院」に変わりました。近くのバス停の名称も変わっていました。

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建物の中に入ると、「旧消毒室」「旧手術室」「資料室」の3室が公開されています。

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旧消毒室は、部屋だけが保存されています。医療器具などの消毒作業が行われた部屋ですが、原爆によって、消毒用の道具などは一切失われたようです。当時のものは、タイルだけです。

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旧手術室です。当時は、無菌手術室と呼ばれた部屋で、外壁部分が全面ガラス張りになっていて、現在でも珍しい構造だそうです。被爆当時のものとして旧消毒室と同じに緑がかったタイルが残っています。

この部屋には、当時の病院長で自らの被爆体験と被爆者治療の様子を記した蜂谷道彦さんの著書「ヒロシマ日記」(18か国で翻訳されたものを含め)や、当時の病院での治療の様子を写した写真などが展示されています。

蜂谷道彦病院長は、岡山市北区富原の出身ですが、その生誕地には、地元の有志によって建立された顕彰碑が立っています。2011年に行われた除幕式に私も広島から駆けつけて参加しましたので、少し身近に感ずる人です。

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外からの入口の右側には、資料室があります。被爆時、この部屋は「外来待合室、手術準備室、外来診察室、化膿性手術室」がありましたが、四室を区切った壁が取り除かれ大きな部屋となっています。現在は、資料室としてパネルやさまざまの資料が展示されています。

天井や壁には、被爆時に起きた火災や爆風による器具類の衝突跡が残っているようですが、白く塗り替えられたため現在は見ることはできません。

これで三室の見学は終わりですが、最後の見学した資料室の書棚(写真の右端)の中に珍しい資料が保管されていました。自由に見ることができるようでしたので、書棚から出して見せていただきました。その様子は、9日に紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2022年11月 6日 (日)

ヒロシマとベトナム(その38-2) ベトナム象、広島を歩く-3

豪雨で越せなかった「井樋ノ尾峠」(?)

こんな調子で江戸までの象の旅を紹介していたのでは「日が暮れる」ではなく「年が暮れ」てしまいますので、とにかく「初日の象旅」に思いを馳せながら今号を締めくくりたいと思います。

豪雨で山を越せなくなったのが一体どこなのか不明ですが、想像してみます。矢上宿から永昌宿の間には結構の難所である井樋ノ尾峠(いびのおとうげ)があります。写真2枚は、「道しるべ-自然歩道を行く」で紹介されている井樋ノ尾峠の写真です。

おそらく、矢上宿を出たベトナム象一行は、空模様が怪しくなる中、井樋ノ尾峠に差しかかります。次第に風雨は強くなります。“将軍様にお届けする大切な象様。遅れることなく、一時も早く江戸にお届けせねば”と、長崎奉行所の役人に率いられた一行はぬかるんだ坂道を必死に登ったことでしょう。象も人も足を滑らせながら登りますが、ついに上れなくなり、仕方なく矢上宿に戻ることにします。

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(「道しるべー自然歩道を行く」に紹介されている井樋ノ尾峠の写真)

こうした悪戦苦闘のすえ、ずぶ濡れ・泥だらけで矢上宿までたどり着くという惨憺たる旅の初日だったのかも知れません。

長崎を出て3日目、象は牛津宿を通過しました。下の絵はJR牛津宿駅前ロータリーに設置されている江戸時代の牛津宿の様子を描いた陶板パネルで、ベトナム象の一行が描かれています。見たこともない珍獣の行列を見送った人々の感動は大きかったのでしょう。こうして当時の当時の記憶が今日に伝えられています。

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(往事の牛津宿の様子を伝える陶板パネル)

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(陶板パネルにはベトナム象の一行も描かれています)

その後、「九州の箱根」(冷水峠)越えでも難渋しながら10日間かけてベトナム象は長崎街道を踏破し、3月24日に小倉城下につきます。

 次号では、長崎道を踏破し西国街道(旧山陽道)に入った「ベトナム象」を追いつつ、調べるきっかけになった象と一緒に「東広島の地を踏んだ初めてのベトナム人」は誰だったのか報告したいと思います。

(2022年11月6日、あかたつ)

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2022年11月 5日 (土)

ヒロシマとベトナム(その38-1) ベトナム象、広島を歩く-2

ベトナム象、いよいよ長崎を出立

日本に来て9ヶ月余り経った享保14年(1728年)313日の午後、いよいよベトナム象は江戸に向けて354里(約1400km)の旅に発ちます。まずは長崎街道25宿・57里(223.8km)の踏破の旅程です。

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(上は、記録や文献などをもとに筆者が作成しましたが、未完成です。見にくいと思いますので、クリックして拡大して見てください。)

つがいの雌象を亡くし、憔悴のなかで出立した雄象の旅は初日から大変だったようです。

岡山藩に残る『象御領内通候一件』(注1)に、3月23日付けの伊木豊後(注2)から伊庭平内(注3)に宛てた手紙に、「一 象の儀につき、追先触、並びに聞き合わせ書付け写し、左の通り」として、「象長崎表昨十三日出立せしめ候ところ、風雨強く、山越え難く、中途に止宿故、今日矢上村着せしめ候間、人馬等の支度その御心得これあるべく候、尤も、去る九日に差し出し候、先触の通りに、次々相達せらるべく候  二 雨天の節、山坂にてすべり道これある所、川砂にても海砂にても敷き候ように頼み存じ候、尤も、石高なる所は、石御取りのけ是又頼み存じ候」と書き送られています。

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(岡山藩に残る「像御領内通候一件」)

これによると長崎を出発したベトナム象一行は、“13日に長崎→日見宿→矢上宿を経て永昌宿(えいしょうじゅく)へ向かう途中に豪雨に見舞われ、山越えができず予定していなかった矢上宿に舞い戻った”ようです。こうした事態を受け、あらためて“人馬などの支度について以前に出した触れに従って欲しい”ことに加え、“雨で滑りやすくなった山坂道では川砂でも海砂でもよいから敷くように。また落石など危険な所では石を取り除くようにして欲しい”という追加の触れが長崎奉行所から各藩に発せられ、その内容が岡山藩筆頭家老の伊木豊後からから藩士である伊庭平内に伝えられたものと考えられます。

こうして、当初から苦難の江戸354里の旅が始まりました。

命がけの旅、初日から難渋

長崎街道は、全国にある当時のメイン道の一つであり、今日の高速道路に匹敵します。海外との交流を閉ざした日本ですが、唯一開かれた長崎港に通じる街道として長崎奉行や出島のオランダ商館長が江戸との往復に使い、また九州の諸大名の大名行列や献上品・交易品などが運ばれた街道です。

しかし、その行路は険しく、危険なものでした。「水杯を交わし旅に出る」と言われるほど、当時の旅は大変だったようです。ちなみに長崎街道最大の難所は「九州の箱根」と呼ばれた冷水峠(ひやみずとうげ)(注4)です。

ではなぜ、8代将軍・徳川吉宗は船ではなく陸路を運ばせたのでしょう。不思議ですね。

ある人に“ベトナム象が西条四日市宿を通って江戸まで歩いた”という話をしたとき、「ベトナムから船で来たのなら、なぜ船そのまま江戸まで運ばなかったの」と尋ねられ、「ウーン・・・、歩かせることに意味があったのじゃないの・・・」と答えましたが、「享保の改革」を断行した俊腕将軍ですので、単なる思いつきでベトナムから象を取り寄せたり、船で運べば早く見られたのに、危険で時間のかかる陸路をわざわざ運ばせた理由が何かありそうです。

それらについては旅が終わる頃までに探ってみたいと思います。

(注1)『象御領内通候一件』:池田家文庫(岡山大学附属図書館所蔵)の岡山藩政史料〔象の旅 (pref.okayama.jp)

(注2)伊木豊後(いきぶんご):時代から見て岡山藩筆頭家老の伊木忠興と思われます。

(注3)伊庭平内(いばへいだい):岡山大学「『池田家文庫』諸職交代データベース」によると禄高1,000石の寄合職。どのような役務に就いていたのかは不明。

(注4)冷水峠(ひやみずとうげ):長崎と小倉城下を結ぶ長崎街道最大の難所として知られ、「九州の箱根」の別名もある。残された峠越えの石畳は、黒田官兵衛の発案で息子・黒田長政の命を受け、『黒田節』で名高い母里友信(名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話が『黒田節』に歌われています)が完成させたものと伝えられています。

(2022年11月5日、あかたつ)

【編集者】「ヒロシマとベトナム(その38)」は2回に分け、つづきは明日掲載します。

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2022年11月 4日 (金)

「2022 平和といのちと人権を!11・3ヒロシマ憲法集会」

平和憲法が公布されて76年目となる11月3日、戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会が主催する「2022 平和といのちと人権を!11・3ヒロシマ憲法集会」が、弁護士会館で開催されました。この他にも自治労会館、福山みやび会館など県内7カ所にオンライン視聴の分散会場が設けられZOOMでオンライ配信されました。

今年の記念講演の講師は、元参議院議員でジャーナリストの有田芳生さん。テーマは「旧統一教会と 自民党の闇」です。

安倍元首相が街頭演説中に銃撃を受けて死亡したことにより表面化したのが、世界平和統一家庭連合(旧統一協会)と政権与党である自民党との重大かつ密接な関係です。安倍元首相が、霊感商法や家庭破壊を引き起こす異常な献金をさせてきた旧統一協会から自派の選挙運動の支援を受けていただけではなく、他の自民党議員らも選挙支援と引き替えに旧統一協会との間で政策協定(推薦確認)を結んでいたこと、その協定には「憲法改正」、「安全保障体制の強化」、「LGBT問題、同性婚合法化への慎重な対応」などが記載されていたことが明らかとなっています。

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この問題を長年追い続け、安倍元首相銃撃死事件直後から、統一教会と自民党の癒着について精力的に発信を続けておられる有田さんの話は、こうした問題が起きた背景や経緯について分かりやすく詳しく話され、参加者も納得の話でした。

最後に、参加者全員で下記の集会アピールを採択し、今後もさらに護憲運動を強化することを誓い合い今年の11.3ヒロシマ憲法集会は終了しました。


今日、11月3日は、平和憲法が公布されて76年目となる記念の日です。日本が起こした侵略戦争によって、アジアおよび日本国内で多くの尊い命が犠牲となりました。このため日本国憲法は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」し、第9条で戦争及び武力の行使を放棄し、戦力を保持しないと しています。 しかし、日本及び世界は、現在、平和や安全な生活を巡って様々な重大な問題が生じています。

(略)

「憲法改正」及び「軍事体制強化」等を推進する自民党の政策は、反社会的な悪徳商法団体である旧統一協会が推し進めようとしている政策と瓜二つであり、選挙支援を受けている状況を見れば、旧統一協会にコントロールされているのではないかと考えざるを得ません。このような「憲法改正」の動きは、まさに平和憲法の危機です。

(略)

自民党は、ロシアによるウクライナ侵略や台湾を巡る状況に乗じて、敵基地攻撃能力(反撃能力)を持つ必要性を強調し、軍事費をNATO並のGDP比2%以上に増額することを目指し、この増額費の財源は、消費税の増額、社会保障費の引き下げなどを検討するとしています。このような軍拡競争をすれば、中国(ロシア・朝鮮民主主義人民共和国)もこれに対抗して、より軍事的優位を目指して競争するので、結局、平和は到来しないだけでなく、増税や社会保障費の切り下げによる「バターより大砲」という生活を強いられることになります。

 私たちは、今こそ、平和憲法が公布された当時の原点に立ち返り、憲法原理である「個人主義」、すなわち個人一人一人が尊重され、また「平和のうちに生存する権利」に基づき、全世界の人々が平和で安全な生活が保障されるよう強く訴えます。そして、本集会の参加者一同は、個人の尊重と平和的生存権の実現を求めて、日々、一歩一歩努力することを誓うものです。


弁護士会館は、参加者が270人となったため、メイン会場の3階がいっぱいとなり急きょ2階にオンライン会場を設けました。また7カ所の分散会場には計230人の参加がありましたので、合計で500人の参加があったことになります。

いのちとうとし

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2022年11月 3日 (木)

「第4回西村不可止絵画展」に行きました。

電電公社で一緒に働いたことのある友人西村不可止さんの「第4回絵画展」が、昨日から6日までの会期でgallery718(中区袋町7-18)で開催されています。

絵画展の案内状が届いていましたので、初日の昨日会場を訪れました。

Photo_20221102154101   

案内状に使われた作品名は、「ICT2021」となっています。「ICT」とはと思っていたら、会場に置かれた「ごあいさつ」には次のように書かれています。

「私は高校卒業がすぐに電電公社に入り、24歳の時のコンピューター部門に配属されました。そのころは勤務のかたわら趣味として時折絵が描く程度でした。(中略)絵画展の締め切りが迫る中、師から『職場の中に何かないか』とのヒントをいただき、職場のごみ箱に捨ててあったSCSIボードが目に留まり、これらを構成して描きました。結果は奨励賞をいただき、少しは職業であった『コンピューターシステムのイメージ』に辿りつけました。」

さらに調べるとICTとは、「Information and Communication Technology」の略称で、日本語では、「情報通信技術」と訳されるようです。

20221102_135133

今回の絵画展に並ぶ作品のほとんどは、「ICT」のタイトルが付けられています。とここまで書いて改めて案内状を読み返しました。

「見えたことから感じたことへ。1969年からコンピュータ・システムに携わってきた私。そして今『IT』革命といわれる真っただ中、私が感じた『ICT』のイメージを描いてみました。」

西村さんの絵画展には、何度か足を運びましたが、これまでは「非戦」シリーズや被爆植物を扱った「カンナ」シリーズが中心となった展覧会でしたので、私の運動との共通点を見出し、話が弾むことがありました。もちろん今回も話は弾みましたが、今回は新しいシリーズですので、一緒に働いた職場のことを思い出しながらの会話になりました。

ただ会場には、「ICT」シリーズの抽象画とともに具象調で描かれた鳥取県の大山を描いた「大山」シリーズも数点展示されています。

Photo_20221102154601

これらの絵の前では、何となくほっとする気分になります。

私と同年代の西村さん、応援できるのは会場に行くだけですが、いつまでも頑張ってほしいと思います。

初日だったからでしょう、会場でかつての職場の同僚と何人か会うことができ、旧交を温めました。

一人でも多くの人が訪れることを願いながら会場を後にしました。

いのちとうとし

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2022年11月 2日 (水)

日本発送電株式会社中国支店(現中国電力)の原爆犠牲者

日は、昨日のつづきで、日本発送電株式会社中国支店の原爆犠牲者数についてですが、昨日紹介したように、広島原爆戦災誌では、事業所名が「中国配電株式会社」となっていますので、これからは「中国配電株式会社」とします。

広島原爆戦災誌では、中国配電株式会社の小町の建物は、本店と紹介され、被爆時の出勤者は、272人だったと記しています。その他に爆心地から500メートルの近距離の研屋町(現在の紙屋町2丁目から立町附近)に「支店および広島電業局」があったとし、被爆時の出勤者は、支店7人、電業局59人としています。

死亡者については、本店では「272人のうち40人が即死、避難した232人のうち45人が、その後死亡した」とし、広島支店・電業局では「全滅のため、当時の状況を知る由もなし。当日の出勤者66人のうち、わずか10人がそれぞれ避難したが、これも一、二週間のうちに全員死亡したのであった。」と記されています。

そしてその後に、「被爆一か年以内における人的被害は次のとおりである。」として次の表が掲げられています。

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読みにくいのですが、最後の犠牲者数の合計は、274人となっています。備考には「一、学徒動員第三国民学校生徒9人の死亡は含まれていない。二、死亡者は社会勤務中がほとんどで、出勤途上その他社外の被爆死亡者を少数含む。三、尾道、呉両電業局の各一人は、当日広島出張中であったものである。」と書かれ、本文中に本店のうちには、「中国配電青年学校の教職員八人生徒49人も含まれる」としています。広島被爆戦災誌に記載された中国配電株式会社の犠牲者の合計は274人ですので、碑の来歴に刻まれた犠牲者数169人とは、あまりにも開きが大きいのが気になります。

広島市のホームページに書かれた来歴の犠牲者数は、何を根拠に記載されたのか、広島市に問い合わせたいと思います。

備考に書かれていた第三国民学校の生徒について本文で「広島電業局に学徒動員されていた第三国民学校の高等科二年生の生徒20人ばかりが、小町本社の構内の空き地で、建物疎開によって回収された電線などの修理に着手していた」と書かれていますが、この子どもたちの犠牲者数は、備考に書かれているように具体的に数字が示されていません。

第三国民学校の生徒の犠牲者数が気になりますので、学校の被災状況が書かれている広島原爆戦災誌の第4巻を調べました。第三国民学校は、現在の広島市立翠町中学校です。「当時5カ所に教職員12人、生徒約299人が、学徒動員されていました」とし、その内、中国配電株式会社(所在地広島市立町)には、「教員1人、生徒20人が動員され、教員1人生徒9人が死亡した」と記述されています。

もう少し読み進むと気になる記述があります。「被爆の惨状 人的被害」では次のように書かれています。「また、中国配電株式会社(立町)に出動していたものは、炸裂直後、チリヂチになった上幟町の泉邸(現縮景園)方面その他へ逃げたが、ここでの犠牲者は即死を含め引率教師1人と生徒9人であった。」

Photo_20221101153601

野村不動産ビル(同ホームページより)

しかし、もしこの記述どおり爆心地から500メートルの立町(現在の野村不動産ビル:中区立町2-23当り)で被爆していたのであれば、同じ広島原爆戦災誌の中国配電株式会社の広島支店・電業局の項に書かれていた「全滅のため。出勤者66人のうち、わずか10人がそれぞれ避難したが、これも一、二週間のうちに全員死亡」と同じように、教師1人生徒20人全員が犠牲になっていたはずです。

第三国民学校の生徒の犠牲が9人にととどまったのは、広島原爆戦災誌の中国配電株式会社の項に書かれていたように、動員先は立町の中国配電株式会社だったのですが、当日の作業場所は、小町の本店だったと考えれば納得できます。

改めて原爆被害の実相を正確に知ることの難しさを知ることになりました。

いのちとうとし

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2022年11月 1日 (火)

日本発送電株式会社中国支店原爆殉職者慰霊碑

中国新聞で毎週月曜日に掲載される「平和」の紙面は、いつも新しいことを教えてくれる記事が掲載されていますので興味を持って読んでいます。

この紙面の右肩にはいつも「記憶を受け継ぐ」として被爆者の体験が掲載されています。10月最後となった31日の紙面では、元資料館館長の原田浩さんの体験が綴られていました。

この記事もしっかりと読みましたが、今日とりあげるのは、この紙面の左下の「ジュニアライター発 平和スポットを巡る『ピースパズル』」の記事です。

ちょっと興味を持ちましたので、「平和スポットを巡るピースパズル」(ピースパズル | プラチナマップ (platinumaps.jp))をキーにパソコンで検索しました。実際には、この特設サイトをスマートフォンでアクセスして、スポットを巡る企画のようです。

パソコンで検索して、でてきた画面の下にある四角囲いのキーの一番左にある「スタンプ」をクリックして出てきた画面です。

20221031_093616

丸囲いの写真でスポットが表示され、そこをクリックすると該当する施設などの説明とそれに関するクイズが書かれています。その質問に答えてデジタルスタンプを集めるシステムのようです。

よく見ると、わが家の近くの元安川沿いにもスポットがあります。どんなスポットなのかなとクリックすると「日本発送電株式会社中国支店原爆殉職者慰霊碑」の写真とともに「電気が復旧したのは被爆後何日?」の質問が付されています。質問に続いて「8月6日に広島駅と西条駅(東広島市)の間で折り返し運転が行われた」「8月7日に広島駅と宇品駅をつなぐ宇品線が復旧した」ことなど鉄道の復旧の時期や「水道は断水することなく給水した」ことなどライフラインの復旧状況の説明があります。

碑めぐりでも、この碑を訪れることは殆どありませんので、なぜこの碑が?と思ったのですが、解説と質問を見てこの碑が選ばれたことに何となく納得しました。

元安川左岸は、散歩でよく通る河岸通路ですので、この場所(平和大橋と住吉橋の間で、中電病院のすぐ下)に「日本発送電株式会社中国支店原爆殉職者慰霊碑」があることは知っていましたが、これまで関心を持って詳しく調べたことはありませんでした。

改めて現地に行ってきました。この碑は、植え込みの中にあります。気をつけないと見過ごしそうです。

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碑の表面には、「原爆殉職者 慰霊碑 日本電装株式会社中國支店」と刻まれています。

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裏面には「昭和28年4月 日本發送電株式會社 総裁 小坂順造」の文字が刻まれています。

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しかし牲者数など被爆に関わることは、全く書かれていません。

もう少しこの碑のことを知りたいと思い、広島市のホームページを検索しました。そこには、次のように書かれています。

【建立年月日】昭和28(1953)4
【建立者】日本発送電株式会社中国支店
【来歴】当時、日本発送電()中国支店(現在の中国電力())は、爆心地から900メートルの位置にありました。原爆により、木造2階建ての社屋は崩壊し焼失しました。当日、支店で勤務していた117人のうち1年以内に115人が犠牲となりました。他で被爆した者を含め、同支店では169人が犠牲となりました。

ここに書かれている「来歴」によって、現在の中国電力の原爆殉職者慰霊碑だということがわかります。爆心地から900メートルは、現在の中国電力がある場所(中区小町)です。

続いて碑には書かれていない169人が犠牲となった被害の状況が書かれています。もう少し詳細を知りたいと思い、いつものように広島原爆戦災誌を調べることにしました。

広島原爆戦災誌の中で、この碑に該当すると思われる企業名は、「中国配電株式会社」となっています。「現在・中国電力株式会社」「所在地 広島市小町33番地」と書かれていますので、碑名の「日本発送電株式会社中國支店」に間違いありません。

ところが「被爆の惨状」を読んでいくと、来歴とは少し違う被爆の惨状が書かれています。そこで知った詳細は、明日報告します。

いのちとうとし

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