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2022年10月 6日 (木)

ヒロシマとベトナム(その37-2)ベトナム象、広島を歩く-1のつづき

ベトナム象との出会い

現代の〔足跡第一号〕は分かりましたが、〔歴史をさかのぼって最初に広島県・東広島市に足跡を残した人は?〕を調べる課題は残ったままです。どうやって調べたらよいか、広島県立文書館にベトナムとの関わりを示す記録や古文書の存在と調べ方をお尋ねしましたが、思うように進みません。

そんな折、所属している東広島郷土史研究会の山城探訪会で「ベトナム象が西国街道を歩き、西条四日市宿に泊まった」という話を聞き、〔エッ!〕という驚きと同時に〔ヤッタ!〕と思わず歓声を上げました。

ときは享保年間、第8代将軍徳川吉宗の時代です。今からおおよそ300年前のことです。

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享保14年渡来象の図:国立図書館蔵

鎖国政策の一方、海外事情に強い関心を寄せていた将軍吉宗が「象を見たい」と、雄雌2頭の象を発注したことに始まります。吉宗は馬の品種改良のためにペルシャ馬を輸入し馬場をつくるなど、動物にも関心を寄せていたそうです。これも単なる「趣味」ではなく、何らかの目的をもっていたのかも知れません。

吉宗と言えば、忠介(南町奉行大岡越前守忠介)と共に悪をこらす「名君」として描かれています。また、新田開発や「火消」、「目安箱」などの画期的な制度をつくった一方、「5公5民」や「上米制度」で庶民の暮らしを逼迫するなどの功罪をもつ「享保の改革」を進めた将軍です。

享保13年(1727年)6月13日、吉宗が発注した雄雌各1頭のベトナム象が長崎に着きます。雌象は食べ物や気候に馴染めなかったのか、病気で3ヶ月後に死んでしまいます。翌享保14年(1728年)3月13日に長崎を出発し、江戸までの354里(1400km余り)を75日間かけて踏破しました。

その雄象が、享保14年(1728年)4月8日、西国街道の宿場、西条四日市宿に泊まったというのです。

ベトナム象の旅を追って

〔江戸への象の旅にはベトナム人の象遣いか調教師が付いていたに違いない。するとその人が東広島に初めて足跡を残した人かも知れない〕と、8月から調べ始めました。次号から広島藩(芸州浅野藩)に入って西条四日市宿に泊まり、岡山藩(備前池田藩)に至るまでの象の旅を追い、江戸について亡くなるまでのベトナム象を紹介したいと思います。

「ベトナムの歴史」シリーズではなく、身近な広島県や東広島市に関わる内容なので「ヒロシマとベトナム」シリーズに寄稿することにしました。

(2022年10月6日、あかたつ)

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