爆心直下の町―細工町・猿楽町
広島原爆資料館の1階で、9月16日から「広島平和記念資料館令和四年度第一回企画展 爆心直下の町―細工町・猿楽町」が始まりました。
会場に置かれているパンフレットの「はじめに」には、次のように書かれています。
「通りに面した病院の前に立つ爆心地の説明版。現在も島内科医院として続く島病院の地上600メートルで原爆がさく裂したことを伝えています。そこから北西に160メートル離れた場所に立つ原爆ドーム。被爆当時、広島県産業奨励館と呼ばれ、ドーム部分の鉄枠と壁の一部をとどめる姿が、被爆の惨状を訴えています。島病院と広島県産業奨励館は、それぞれ細工町、猿楽町と呼ばれた町にありました。
この企画展では、爆心直下の2つの町に焦点をあてて、被爆前の町の様相、原爆による破壊、再建に向けた歩みを当時の写真や遺品、住民の方の証言を交えて展示します。人々が努力し、積み上げてきた暮らしを一瞬にして奪う原爆の悲惨さと、家族や同僚を失い、つらい記憶を抱えながら、必死に生きる人々の強い意志を感じ、平和の大切さを考えていただければと思います。」
この「はじめに」のとおり、展示は「被爆前の街並み」「変わり果てた光景」「再建の歩み」の順で、写真や遺品が展示されています。
「変わり果てた光景」で展示されている写真は、「見たことがある」と思える写真が並んでいますが、私が一番興味を持ったのは、「被爆前の街並み」のコーナーに展示された、電車通りに面して立っていた護国神社の大鳥居が写った2枚の写真です。
なぜ興味を持ったのかは、大鳥居の写真がいずれも鳥居の裏側(北側)から写されているからです。以前このブログ旧廣島護国神社被爆鳥居―その1: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「大鳥居の裏側にも額があったが、留め金しか残っていない」ことを紹介しましたが、裏側(北面)の額が写った写真を紹介することはできませんでした。
ところが今回の展示で、その裏側(北面)の額が写った写真が2枚も展示されていたのです。
1枚は、「広島護国神社での防空演習」とタイトルがついています。この写真は、パンフレットにも掲載されています。
もう1枚には、ズバリ「神社の大鳥居」のタイトルが付けられ、キャプションに「神社側から南に撮影したものです。」と書かれています。裏側の額がはっきりと写っています。これで、間違いなく裏側(北面)にも額があったことが確認できました。
よく見ると原爆によっても落ちることのなかった表側(南面)の額も小さくですが確認することができます。
残念ですが、裏側(北面)の額は、原爆によって落下した後、どうなったのかは、不明のままです。
この他にも興味ある写真が何枚も展示されていますので、別の機会に紹介したいと思います。
「細工町、猿楽町のことを書いた本があったな」と思い出し、田邊雅章さんの「原爆が消した廣島」を引っ張り出して、先日紹介した森冨茂雄さんの「絵と証言 消えた町 記憶をたどり」ととともにもう一度読み直してみようと思っています。
この企画展は、来年の2月13日まで開催されていますので、ぜひ行って見てください。何か新しい発見があるはずです。パンフレットも貴重に資料です。
いのちとうとし
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