「広島ブログ」

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2022年10月

2022年10月31日 (月)

2022.10月のブルーベリー農園その4

10月に入って雨があまり降らない。東広島市豊栄町のブルーベリー園での作業も雨で中止とならないので、週末に安芸区の自宅から通い続けているが、朝も冷える日が多くなってきており、家を出発する時間も少しずつ遅くなり、着いたら昼ごはんという日も多くなる。ここまでをこの日までに作業しないといけないということもないので体が悲鳴を上げるようなこともない。農園に来るたびにブルーベリーの紅葉がゆっくりとすすむ景色が時間の経過を教えてくれる。

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1022日(土)

ブルーベリー畑の防草シートをはがす作業が終わったので木と木の間の草を刈る作業に移る。緑肥用の種を9月に蒔いて芽が出ているので刈り払い機のカッターを浮かして五分刈りの感じでさらっーと刈った。

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1023日(日)

農園の庭の周辺。少しずつ色づく赤い実(ナンテン)と

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すっかり色づいた濃紺色の実(ヤブラン)

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1023日(日)

多様な植物を畑で育てる試みで9月に種をまいたが、芽が出て葉が伸びだした。

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カラシナ(菜の花系)は真っ先に芽が出て地面を覆いだした。

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赤そばの花も顔を出した。

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ひしめく中にツボスミレが花をつけている

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1026日(水)

畑のブルーベリーの葉が赤みを増してきた。

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ヒッヒッと小鳥の鳴き声が聞こえる。サクラの木にジョウビタキがとまっていた。 

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ブルーベリーの植えてある里山の里道

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ヨメナの花が秋の光に浮かぶ。29日の農作業ではブルーベリー畑の中でヘビと出会い、帰る時には同じ畑の道路でウロウロするヘビと出会う。多分同じヘビ。冬眠に入るのはいつ?

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年10月30日 (日)

やはり残すべきだった被爆石

旧広島市民球場跡地では、現在旧広島市民球場跡地整備等事業「NEW  HIROSHIMA  GATEPARK」の工事が行われています。

今日は、「NEW  HIROSHIMA  GATEPARK」の可否がテーマではありません。この公園の西側に作られることになっている「ピースプロムナード」のことです。

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大成建設ホームページより

「ピースプロムナード」は、上の写真の左側(公園部分の西端)に真っすぐ延びる歩道のようです。

事業概要資料には、このピースプロムナードについて、次のように書かれています。

「平和軸をつなぎ、未来の平和をつくるシンボルとなる」

「被爆敷石を用い、様々なゾーンや体験を紡ぐことで、未来の平和を作るシンボルとなる」「風格ある未来への平和の象徴として『ピースフロムナード』を設置。被爆敷石や桜並木などで平和軸を顕在化」

そして、そこには、完成時のイメージ図が示され、その図の中には「石張り舗装の一部に被爆石を使用」の文字が書き込まれています。

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上の図の一番奥に原爆ドームが描かれていますので、平和公園から続く平和軸を延長した歩道として設計されていると思われます。

NEW  HIROSHIMA  GATEPARK」の紹介が長くなりましたが、ここからが本論です。

被爆石が歩道にはめ込まれ、活用されることには賛成です。

「どこの被爆石が使われるのか」広島市に問い合わせると、「広電が所有する路面電車の被爆敷石」との答えでした。

広電の路面電車の被爆敷石は、私も寄贈を受け、2010年にドイツのポツダムに完成した「ヒロシマ・ナガサキ広場の記念碑」として活用したことがありますのでよく承知しています。

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右側の四角な意思が広電の被爆敷石

 今回の「旧広島市民球場跡地整備等事業」は、広島市では初のPark-PFI事業(公園に施設を設置して運営する民間事業者を公募により選定する制度である)として進められています。複数の企業が参加する事業ですが、その一つに広島電鉄の名前がありますので、広電の路面電車の敷石が使用されることになったと思われます。

ここで思い出すのが、昨年のサッカースタジアム予定地の発掘調査です。ほぼ完全ともいえる貴重な旧陸軍の輜重隊跡が発掘されましたが、広島市は、その一部を切り取り保存するとしただけで、他の多くは破棄しました。

私は、その当時、広島市に対し「全てが保存できないのであれば、被爆石はきちんと保存し活用すべきだ」と何度も要請してきました。

しかし、広島市は、切り取り保存部分とその予備の被爆石を除いて、全て産業廃棄物として処分してしまったのです。私たちがそのことを知ったのは、全ての発掘調査が終わった後でした。

広電の被爆敷石が使われることに異論をはさむものではありませんが、この「ピースフロムナード」は、サッカースタジアムへ通じる道ですから、そこから発掘された旧陸軍の輜重隊跡被爆石が使われれば、より意義があったのではないかと思います。

仮にこの場所で使われなかったとしても、こうした活用方法はいくらでもあったように思います。やはり貴重な被爆石が、産業廃棄物として廃棄されたしまったことは、返す返すも残念なことだったと改めて感じます。

いのちとうとし

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2022年10月29日 (土)

平和と民主主義、核廃絶へ決意新たにー平和運動センターが第28回定期総会開催

新議長に髙橋前事務局長、新事務局長に大瀬前事務局次長を選出

10月27日自治労会館で、代議員・役員など約50人が参加し、広島県平和運動センター第28回定期総会が開催され、この一年間の活動を総括し、今後1年間の2022年度活動方針などを決定しました。

城太志副議長(高教組)の司会で始まった総会は、最初に議長に自治労の村主公夫代議員を選出し、議事を進行しました。

幹事会を代表してあいさつに立った佐古正明議長は、「コロナ禍による危機にもまして、ロシアによるウクライナ侵攻によって世界全体が平和の危機・戦争の危機にある」と指摘、「プーチン大統領の焦りもあり、核使用も現実味を帯びている。被爆地ヒロシマとして強く憂慮せざるを得ない」と強く危機感を述べました。さらには、昨年の衆院選、今夏の参院選の結果、改憲勢力が両院ともに3分の2を超えている現状に、「こうした動きに歯止めをかけられるのは私たち平和勢力しかない。そのことを強く意識し活動を続けなければならない」と平和運動センターの役割、闘う決意を表明しました。

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今年の総会も、コロナ禍のため来賓は招待せずメッセージで対応していただくことになり、連合広島・部落解放同盟広島県連合会を始め、中国各県の平和フォーラム・原水禁からメッセージが寄せられました。

続いて議案提案が行われました。まず高橋事務局長が、2021年度活動報告・2022年度活動方針を提案葦、続いて頼信直枝財政部長から2021年度決算・2022年度予算を報告提案、その後会計監査報告を児玉聖会計監査から会計監査報告が行われました。

討論では、「若い人に振り向いてもらうためには、もっと若い人に寄り添った活動ができないか。抜本的な見直しも必要では?」(全水道)との意見が出されました。これに対して髙橋事務局長から「変えていかなくてはならないものと、変えてはならないものがある。伝え方の工夫など、より議論を深め、若い人たちにも共感してもらえる活動を追求していきたい」と答弁したのち、全ての審議を終了し、採決に移りました。全ての提案が、満場の拍手によって承認されました。

次に役員改選が行われ、2008年11月から14年間にわたって議長を務められた佐古正明議長が退任となり、代わって髙橋克浩事務局長(自治労)が新たな議長に選出されました。空席となった事務局長には、大瀬敬昭事務局次長(私鉄県協)を選出するとともに一部の幹事の交代を確認し、新役員体制が承認されました。

退任する佐古議長は冒頭のあいさつで、「皆さんの助けがあって長きにわたって議長という重責を務めることができ感謝している。今後も、平和を守るために活動を続けていきたい」と感謝の言葉が述べられました。

総会は、最後に「9条改憲を許さず、憲法を活かす広範な運動を引き続き展開していく」ことや「『ヒロシマ』「ナガサキ」が誓った『あやまちはくりかえしませぬから』との決意に立ち返り、原水禁運動の強化に全力を挙げる」「人権・平和・民主主義が脅かされている今だからこそ、学び・結集し『いのちと人権・平和』を守る運動を私たちは諦めることなく『ネバーギブアップ』を貫き、民主主義を立て直すため全力で取り組むこと」を盛り込んだ総会宣言を採択し終了しました。

大瀬敬昭

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2022年10月28日 (金)

「不思議な石碑」の顛末―その2

少し間が空きましたが、22日の「不思議な石碑の顛末―その1」のつづきです。

まず同じ被爆地長崎から贈られたナンキンハゼとアジサイです。

ナンキンハゼは、今年8月に根元から倒れてしまったようです。広島市から提供を受けた、2018年度(平成30年度)に撮影された元気だったころの写真です。

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このナンキンハゼは、長崎で戦争を否定し、あらゆる核兵器の使用を許さない人道主義の立場を貫いて活動を続ける長崎青年団が、広島市と長崎市が平和文化都市提携を行った1975年8月5日に先立つ7月14日にアジサイとともに贈った木です。

40年余りたっていますので、ずいぶんと大きな木に成長しています。

私が最初にこの石碑と木がなくなっていることに気付いたのは、9月20日でしたが、2度目に訪れた9月22日には、小さな芽が出ているのに気づきました。

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そのため、事前に「ナンキンハゼは新たな苗木を植えかえるのではなく、根元から生えているひこばえを育てるのでしょうか」と問い合わせていました。広島市も同じ考えだったようです。山本さんの話は、「ナンキンハゼは、当初苗木を植えかえる計画をしていましたが、残った根の部分からひこばえが出ているのを見つけましたので、ひこばえを育てようと思っています。」とのことでした。

そのためでしょう、根の周りはカラーコーンで人が入らないように保護されていました。

昨日、改めて現地を訪れるとひこばえがずいぶんと大きくなっています。一月ほどでこんなに大きくなっていましたので、ちょっとびっくりしました。

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樹木の「いのちを守ろう」とする本能のようなものを感じました。

山本さんのアジサイの話には、びっくりしました。

「アジサイもナンキンハゼと同じ時に5株寄付を受けたのですが、この5株は、平成6年度(1994年度)に中央公園にある青少年センター入口東側緑地帯に移植さ、現地で現存していることを確認しています。」ここで見ることができないはずです。

青少年センターの緑地帯にあるアジサイのことは、2019年9月19日長崎から贈られた紫陽花: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)のブログで紹介しています。そこに建てられていた石碑には、1975年8月5日に長崎青年団から贈られたことは書かれていたのですが、最初は平和公園内に植えられ、その後現在の場所に移植されたことは全く触れられていませんので、そんな経緯を知る由もありません。ですから、山本さんの話を聞いた時、思いもかけないことでしたので、ただただびっくりしました。

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2019年9月12日の写真です。

 場所は移りましたが、アジサイは寄贈されて以来枯れずに毎年花を咲かせ続けているようです。

最後は、峠三吉の碑のバラです。

もともとは、ツルバラ3本が、峠三吉記念碑建設委員会から1963年8月6日に寄贈されたものです。元気だった2017年に撮影された写真です。

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何時頃枯れたのかは、聞き洩らしましたが、現在植わっている1本は、広島植物公園で育っていた苗木を今年2月に植栽されたものです。

このバラはマーメードというツルバラで、植物公園には植栽できる大きさの苗木1本しかなかったため、その1本をとりあえず植栽したそうです。後の2本については、植物公園の大きくなっている木の枝を採り、現在広島バラ園(廿日市市)で育てられていますので、いずれ元のように3本が植えられることになると思います。その時には、棚一杯にきれいな花が咲くことでしょう。

山本さんのおかげで、広島市が寄贈を受けた樹木を大切にしていることを知り、私の疑問も解決することができました。

いのちとうとし

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2022年10月27日 (木)

「第15回中国受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」開催

昨日報告した「和解を導いた力Part2」の翌23日午後1時30分から、安芸太田町坪野の中国電力安野発電所内に立つ「安野 中国人受難之碑」前で「第15回中国受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」(以下「集い」)が行われました。主催は、広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会(以下「継承する会」)です。

毎年、この集いは、10月の第3日曜日に行われてきましたが、今年は第4日曜日の23日になりました。10月23日は、2010年にこの碑の除幕式が行われた日ですから、一番ふさわしい日だったと言えます。

私も足立弁護士の車の同乗させていただき、参加しました。今年は、ここを訪れるのは2度目になります。

定刻に岡原美智子さんの司会で始まった「集い」は、最初に全員の黙とうでスタートしました。主催者あいさつで「継承する会」の世話人代表足立修一弁護士が「今年は、日中国交正常化50周年の節目の年ですが、新型コロナウイルス感染症の終息が見込めない中、中国のご遺族をお招きすることができませんでした。今後も、この間の和解事業によって築かれた日中間の交流をさらに深めて、被害者の追悼、歴史の継承を皆さん方とともに継承していく決意を申し上げて、私の挨拶とします」と述べました。その後、安野中国人受難者遺族のメッセージ、安芸太田町橋本博明町長のメッセージ(小野直敏副町長代読)、善福寺藤井慧心住職のあいさつ、広教組頼信直枝委員長のあいさつ、中国駐大阪総領事館薛剣総領事のメッセージの紹介が行われました。

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全ての挨拶が終わると恒例の竹内ふみのさんの二胡演奏が行われ、その伴奏の中で参加者が献花を行いました。私は、広島県原水禁を代表して献花を行いました。

参加者は、東京や千葉、そして地元を含め約55人でした。

私たちが会場に到着した時、思いがけない出会いがありました。地元の梶谷さんが、久しぶりに参加されたのです。梶谷さんは、「先日、黒い雨の相談会が行われたとき、たまたま旧知の足立弁護士に聞いていただくことになりました。その後、参加を呼びかける電話がいただきましたので、地域の行事もありましたが、今年は参加することにしました。」と話しておられました。梶谷さんは、地元坪野に住んでおられ、これまで何度も協力していただいた方だったようです。

梶谷さんの話を聞きながら、足立弁護士が以前に「安野にいた中国人の人もみんな黒い雨の被爆者になるんですよね」と話されていたことを思い出します。これまで広島刑務所に収監された14人だけが被爆者だと言っていきましたが、すでに全員亡くなられましたので、今では手帳の申請はできないのですが、これからは、中国人被爆者は300人以上(きちんとした人数をこれから調べたい)といわなければならないことになります。

「安野 中国人受難之碑」前での「集い」が終わると、参加者は例年通り善福寺に移動し「追悼法要」が行いました。藤井慧心住職の読経が流れる中、参加者は日本式の焼香と住職が中国から持ち帰られた中国の長い線香を手向け追悼しました。

今年は、秋の訪れを感ずることのできる好天に恵まれた「集い」でした。来年は、中国から遺族をお招きし、「集い」を開催したいものです。

いのちとうとし

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2022年10月26日 (水)

「和解を導いた力Part2-西松建設裁判原告・邵義誠さんの闘いを振りかえるー」

広島安野・中国人被害者を追悼し歴史事実を継承する会(以下「継承する会」)が主催する「和解を導いた力Part2-西松建設裁判原告・邵義誠さんの闘いを振りかえるー」が、10月22日午後2時から弁護士会館で開催されました。

この集会は、毎年行われる安芸太田町安野で行われる「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」の前日に行われてきた講演会です。

「和解を導いた力」のタイトルでの集会は、今年が2度目です。昨年は、裁判の原告団長だった呂学文さんの闘いを振りかえりましたが、今年は呂学文さん(2003年8月死去)から「後は頼んだ」と電話で託され、その後原告団長としての役割をはたしてきた邵義誠さんの闘いを振りかえりました。

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最初に川原洋子さんが、「邵義誠さんの軌跡」を次のように紹介しました。

帰国後厳しい生活を余儀なくされた邵義誠さんが、初めて安野の受難労工者の生存者であることがわかったのは、1996年6月です。96年8月に広島市民の訪中により自宅での聞き取り調査が実施されて以降、1998年1月に原告5人を代表して53年ぶりに来日し、西松建設を広島地裁に提訴しました。そのご、広島地裁における原告本人尋問で証言、最終弁論で意見陳述、また最高裁でも意見陳述を行いました。2007年4月に最高裁で敗訴判決を聞いた後も、西松建設との和解交渉で中心的役割を果たしました。和解後は、西松安野友好基金運営委員として2010年10月の「安野中国人受難之碑」除幕式に参加されました。

川原さんの紹介の後、当時のニュース映像が上映され、ありし日の邵義誠を偲びました。

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コロナ禍で今年も中国からの来日ができず、中国とオンラインで結び、長女の邵莉娜さん、夫の張振侖さんの二人に川原さんが質問する形で遺族から見た邵義誠さんのことを聞きました。「和解後の父の話は?」の質問に「うれしそうな様子で、『360名の労工に報告できる。』と話した後、『これは自分と日本人の共同の結果。大変うれしかった。やっと成果が実った』と話していました」との長女莉娜さんの話が印象的でし。

休憩の後は、元西松建設弁護団の一人だった山口格之さんから、裁判所での邵義誠を紹介。その中で「朗らかでひょうひょうとされていたが、本当に心強い人だったことを強く印象に残っている」と人柄の紹介し、「最高裁の付言もあったが提訴前からの積み重ねがあったから和解を招くことができた」と運動の大切さが強調されました。

次に元西松安野友好基金運営委員長で弁護士の内田雅敏さんが、「和解の意味を考える」と題しての話。強調されたのは、「和解の実現は解決のチャンスを逃さなかった広島の運動の継続があったから」とし、「運動があったからこその和解だった」ことが繰り返し話されました。

最後に、継承する会世話人代表の足立弁護士が、閉会の挨拶をして集会は終了しました。

帰宅後、この集会で何度も取り上げられた2007年4月27日の最高裁判決の付言を読み直しましたので、紹介します。

「なお,前記2(3)のように,サンフランシスコ平和条約の枠組みにおいても,個別具体的な請求権について債務者側において任意の自発的な対応をすることは妨げられないところ,本件被害者らの被った精神的・肉体的苦痛が極めて大きかった一方,上告人は前述したような勤務条件で中国人労働者らを強制労働に従事させて相応の利益を受け,更に前記の補償金を取得しているなどの諸般の事情にかんがみると,上告人を含む関係者において,本件被害者らの被害の救済に向けた努力をすることが期待されるところである。」

和解成立後、生存者・遺族を探し出す調査を行い和解事業に力を注いだ邵義誠さんは、2018年2月に亡くなりました。

いのちとうとし

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2022年10月25日 (火)

米国、ボーグル原発のこと

 福島原発事故が発生した翌2012年のことです。米国東南部ジョージア州ウェインズボロで建設工事中の、ボーグル原発建設に反対する集会に参加したことがあります。「3・11」1周年に合わせての集会でした。

 ボーグルは、ジョージア州の州都アトランタ市から約250㌔離れた場所ですが、3月11日の朝、市内の集合場所に集まり貸し切りバスに乗って現地まで向かいました。こういう形で集会に参加するやり方は、日本と同じですね。

 ボーグル原発1・2号機は稼働中でしたが、1979年のスリーマイル島原発事故で新規原発の建設はありませんでした。しかし12年2月に米原子力規制委員会(NRC)が建設を許可しました。そして東芝傘下の、米ウエスチングハウス(WH)が受注したのです。

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 僕が原発反対運動に参加することになったのは1978年春、米国の反原発運動と交流したのがキッカケですから、どうしても気になるのです。

 独断的な考えかも知れませんが、バーモント州のヤンキー原発、ニューハンプシャー州のシーブルック原発反対運動にしても米北部に位置しているところでは、強い反対運動が行われ計画を止めることができました。

 しかしボーグルもVCサマーなど、南部に位置しているところは、どちらかといえば貧困な人たちが多く、米の歴史の中では奴隷と呼ばれた人も多かったところです。このボーグル原発の在るところも、綿の栽培が盛んだったところです。

現地で交流した一人のアニー・ローラさんは、以前はこの近郊に自宅を持ち農場で働いていたのですが、原発建設のために立ち退きをさせられました。住んでいた時は、自宅に引かれている電線が切られるという嫌がらせも受けています。

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 2年後の14年にも、ボーグルを訪れました。その時には、新たなクーリングタワーも建てられて、多くの作業員が働いていました。原発周辺には作業員用の住まいとなるキャンピングトレーラー車も停まっていました。

 このボーグル原発3・4号機、当初は16年と17年に稼働すると予測されていました。しかし、現在では23年、24年に延期となっています。費用も2基で当初は140億ドル(1ドル100円として1兆4千億円)となっていましたが、現在は300億ドルとされています。

 その理由は、11年の福島原発事故、17年の元請け業者のウエスチングハウスの倒産、そしてコロナウイルスのパンデミックとされています。こういう状況は日本の場合とよく似ています。

 現地での集会では、「日本の原発を復活させないためにも、ボーグル原発の建設を止めたい」と訴えたのを思い出します。アニー・ローラさんどうしておられるだろうか。何とかしてもう一度逢いたいです。

木原省治

【編集者】木原さんは、東京に行く予定があり、早めにこの原稿を送っていただきました。みなさんが「木原さんの意見を聞きたい」と思っておられる上関町長選挙の結果については、次回に報告していただくことになっています。

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2022年10月24日 (月)

三原地区10月の「19日行動」

毎月19日に三原駅前で実施している戦争をさせない三原市民行動の「19日行動」は、今月から冬季期間となり19日前後の土曜日、昼時間に行なうこととなり22日(土)1330分から14人が参加して実施しました。

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開会にあたり司会者から「昨年10月に発足した岸田政権は、ロシア・ウクライナ戦争や台湾有事に便乗して憲法9条の改悪や敵基地攻撃保有論や核共有論など前のめりの発言が相次いでおり、武力に依存する危険な方向へと舵を切ろうとしている。私たちは、平和憲法のもと日本が戦争という『いつか来た道』をたどらないよう、毎月街頭で憲法改悪反対の声を上げている」とあいさつを行い、6人の弁士がスピーチを行いました。

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①ロシア軍がウクライナのエネルギー施設しかも原発施設を攻撃している。これから冬になるがエネルギーの所への攻撃により全く生活ができなくなるような状況が作られる。まさにこれが戦争である。日本の岸田首相は、原発を新しく作る。原発の使用期限を定めないと発言している。わが国が仮に外国と戦争をしてウクライナのように原発の攻撃を受けた時、わが国は完全に滅びる。このような状況が生み出されようとしている。私たちは非武装中立を、どことも戦争しないという決意を述べなければならない。

②今開会している臨時国会で自民党は、軍備費2%では足りない。増額して必要な防衛費の整備を行うよう首相に進言している。また、北朝鮮や中国が軍事的挑発を繰り返している中、必要なものは言葉ではなく抑止力だ。撃つなら撃つぞという能力を明確に示すことで国民の命とくらしを守る道だと敵基地攻撃能力を持つことの覚悟を首相に迫っている。

③私たちの行動は、2015年戦争につながる法律が国会で強行成立したことに反対して戦争法の廃止を求めて行動を行っている。先の悲惨な戦争の反省に立って日本国憲法は生まれたものである。ロシア・ウクライナ戦争だれも望んでいない。悲惨な状況に置かれるのは国民である。戦争には私たちは賛成できません。憲法の精神、9条をずっと守っていきたい。そのためにこれからも毎月運動を続けていきます。

④岸田内閣は、敵基地攻撃能力を反撃能力に変えるなど安保関連3文書を改定しようとしている。戦争によって今日まで自衛隊は命を落としていない。憲法9条があるからこそ平和が守られてきた。今必要なこと、日本の果たすべき役割は、平和憲法をしっかり守り、東アジアに平和を築く外交をめざすことである。

⑤ロシアのウクライナ侵攻における核使用の威嚇。日本では広島・長崎で原爆被害を受けた。国の戦争政策により個人個人の命と生活が破壊されてきた。再び戦争への道を歩んではならない。私たちの力で核兵器の廃絶、ロシアの考え方に立ち向かっていこう。

⑥自民党岸田政権の政策は、憲法改正や防衛力の強化、夫婦別姓問題など旧統一教会の考え方と類似している。今後、政権運営が行き詰まり解散総選挙が行われることも考えられる。自民党と旧統一教会の問題を明らかにして、国民生活が守られるような社会を作ることが大切である。 

など訴えました。

藤本講治

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2022年10月23日 (日)

2022.10月のブルーベリー農園その3

東広島市豊栄町のブルーベリー園に安芸区の自宅から週末にはブルーベリーの世話をしに車で通っている。ブルーベリーの枝の剪定はまだ葉が残っているので行っていない。10月中旬の作業の中心は3段あるブルーベリー畑に春に敷いた防草シートを列の真ん中に寄せていく作業になる。埃が舞うのでマスクをつけてやっている。秋が深まり農園はひっそりとしているが、刈った草を乾燥させて野焼きする煙がたなびく景色が見られる。キャンプブームでたき火が人気だが、野焼きの煙ものどかさが実感できて落ち着ける。

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1015日(土)

ブルーベリー畑の防草シートの片づけを続ける。

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もういないと思っていた赤トンボがまだあちこちの電気柵にとまっていた。

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夕方、帰り道の田んぼで刈り取った草を燃やす煙が夕陽に浮かんでいる。

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カメラを望遠にしてみると煙のそばで作業をしている人が見える。

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1016日(日)

ブルーベリーのある場所にはいたるところにクモの巣がある。中には欲張りなのか、たまたまなのかたくさんの虫をからめとって蜘蛛もいる。

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農園の家の池には、水面の上でリンドウが一輪開花している。池の中に置いている菖蒲のプランターから枝が出ているのでそこに同居していて花を咲かせるまでに育ったようだ。

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ブルーベリー畑は3段ある。一番下の畑に敷いてある防草シートをはいで列の中央に集める作業が終了したので3段全部がすんだ。

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里山の草むらでアキノキリンソウが背を高くして咲いている。秋は色も澄んだ黄色を出している。

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同じ場所に大きな、古木といってもいい栗の木がある。付近の竹を切り続けてあたりが開けてから存在感をだした木だ。

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落ちているいがぐりの中は結構大きい実が出来ていた。もったいないので他の栗も探して拾って持ち帰る。

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ブルーベリーの紅葉が少しずつ進んでいる。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年10月22日 (土)

「不思議な石碑」の顛末-その1

今月1日のブログ不思議な石碑: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「平和公園内に、石碑はあるが、それに該当すると思われる樹木が見つからないものがある」ことを紹介し、最後に「広島市からの回答を待って紹介したいと思います」と書きました。

広島市から「ようやく説明する準備ができました」と連絡があり、担当課の公園整備課を訪れ、山本康男さんから丁寧な説明を受けましたので、今日はその報告をします。

昭和36年(1961年)に西ドイツ教授団から贈られた「オーシュナラ」です。

石碑には「オーシュナラ」と刻まれていましたのでその名前で紹介しましたが、正式名称は「オウシュウナラ」だそうです。

この木は、平成31年度(2019年度)に枯れました。広島市から提供を受けた元気だったころの写真(一部修正しています)です。

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「元気だったころ」と書きましたが、枯れ死した前年の平成30年(2018年)に、少し樹勢が弱ったため、園芸業者に点検をしてもらった時に撮影された写真です。後ろに白く映っているのが国立原爆死没者追悼平和記念館です。園芸業者さんと比べてもかなり大きな木に育っていたことがわかります。ただ、この写真をよく見ると、根元部分が腐っているように見えますので、これが原因で枯れたと思われます。紹介した石碑がこの写真には映っていませんが、ちょうど業者さんの影になっているようです。

広島市は、寄贈を受けた木が枯れたり倒木した場合、新しい苗木を植樹することにしていますので、この木も苗木を探しているようです。

しかしこのオウシュウナラは、国内ではあまり需要がない木のようで、品種改良されたものはあるようですが、該当する苗木がまだ見つかっておらず、植え替えが遅れているようです。ですから植え替え時期は未定です。山本さんの話では、はっきりとは言えないのですが、最近ようやくメドが立ちそうになってきたとのことですので、そんなに遅くない時期に植え替えが実現するかもしれません。

オウシュウナラのことを調べてみると、ドイツの「国樹」となっていました。西ドイツ教授団から贈られた意味が理解できました。

長崎から贈られた「ナンキンハゼとアジサイ」、峠三吉の碑のバラについては、改めて紹介します。

10月1日のブログの最後に紹介した曼珠沙華の写真がスマホにあったので見てもらったところ「へー、初めて見ました。きっと誰かが植えたのですね。この花は、球根で育ちますので、どこからか飛んで来たということはありませんから」と教えていただきました。

いのちとうとし

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2022年10月21日 (金)

府中地区の10月の「19日行動」

「安保法制に反対する府中市民の会」は、10月の「19日行動」をいつものように19日に2か所で、リレートークとスタンディングを行いました。

 上下は、上下Aコープ前で午後3時から実施し参加者は10人でした。府中地区は、府中天満屋前で午後430分から実施し参加者は11人でした。

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上下地区の行動

参加者のアピールは、統一教会の問題では、

①「ネパールの会合でスピーチしているではないか」と追及され。写真があるにもかかわらず山際大臣が「記憶にはない」という答弁にはあきれ返った。

②学生時代、統一教会の原理研究会というのが毎晩きて学生を勧誘していた。自分は断ったが、入った友だちもいる。その友だちを何年もかかって脱会させた。

ことをアピールしました。

安全保障問題では「安保改定3文書の改訂で『敵基地攻撃』や『軍事費の倍増』を行うとしているが、軍事競争には際限がなく国民の生活を苦しめるだけだ。平和外交の道を日本はもっと進めるべきだ。

ロシアのウクライナ侵攻問題では、「世界中の人が心配しているが、当初アメリカがウクライナに『ロシアが進行してくるぞ』と伝えてもゼレンスキー大統領は『そんなことなない』と信用しなかったことに問題もある」などを訴えました。

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府中地区の行動

多くの人が「敵基地攻撃」や「軍事費の倍増」の問題を取り上げいまこそ平和外交の必要性を訴えたのが特徴的でした。

19日行動に参加しながら、統一教会の問題では教団票の差配を行っていた安倍元首相と細田博之衆議院議長、教団の名称変更に当時の下村博文文部科学大臣の影響力があったと言われています。この3人について統一教会との関係を明確にさせなければないことを強く感じました。

小川敏男

【編集者】三原地区の19日行動は、今月から19日に最も近い土曜日に実施されることになっており、今月は明日22日ですので、改めて紹介します。

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2022年10月20日 (木)

ベトナムの歴史(その16) 抗仏闘争-1

100年余にわたる戦い

フランスのベトナム植民地化は、1858年にナポレオン3世が宣教使の保護を名目に送った遠征軍のダナン攻撃に始まったとする文献が多いですが、実質的にはそれよりも11年遡る1847年、フランス軍艦がダナンを奇襲しベトナム軍艦撃沈に始まったと見るべきでしょう。以降、1954年のディエンビエンフーの戦でベトミン(ベトナム独立同盟)がフランス軍を破り、和平協定(ジュネーブ協定)が結ばれるまでの107年間続きます。

その間を私なりに大別してみると、第一期:1847年のダナン奇襲からから1858年の本格的な侵略までの間、第2期:1858年からフランス領インドシナ連邦の総督府がハノイに置かれる1887年までの間。この間をさらに分けると、①1858年の中部・ダナン侵攻による中部地域(アンナン)の支配確立、②1861年の南部・サイゴン上陸から1867年の南部全域(コーチシナ)を支配するまでの間。③1882年のハノイ占領による北部地域(トンキン)支配によってベトナム全土を植民地化するまでの期間に区分できます。

1884年にフランスによって3区分されたベトナムは、南部(コーチシナ)がフランス直轄領に、阮(グエン)朝の都のある中部地域(アンナン)が保護国に、北部(トンキン)が保護領とされ、阮朝が辛うじて支配できるのは中部地域(アンナン)だけになります。

第3期1887年から第二次世界大戦中の日本軍侵攻による「二重の軛」といわれる期間を含む1945年までの間。そして第4期:再び植民地支配を始めた1945年から1954年までの間に分けられます。

それぞれの期間における険しく厳しい抗仏闘争は、時代とともに性格や規模を変化させつつ次第に前進して行きます。それらについて幾度かに分けて見て行きたいと思います。

フランス統治に最後まで抵抗したハムギ帝

第1期から第2期の抗仏闘争は、「ベトナムの歴史(その15-2)」で紹介したトン・ズ・タンやファン・ディン・フンなどのように、阮朝の官吏や軍人によるフランスの侵略(植民地化)に抗う勤王(攘夷)運動でした。

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阮朝第8代皇帝・ハムギ帝

そうした時期、フランスに支配権を奪われつつある中で抵抗運動を起こし、象徴的な存在になった皇帝がいます。ベトナムが3分割された1884年に12歳で即位した第8代皇帝のハムギ(咸宜)帝です。

1885年75日、1,400人のフランス兵が守る駐屯地を数千の宮廷軍が襲いますが、槍と時代遅れの銃で武装した脆弱なベトナム軍はフランス軍の敵ではありません。蜂起の翌日には皇族や廷臣とともにフエ王宮を脱し、北に80km余りのクアンチ省カムロ県にあるタンソ要塞に向かいます。

13日にタンソ要塞に入ったハムギ帝はフランスへの武装蜂起を呼びける「勤王の詔」を発しますが、蜂起は9月には鎮圧され、ハムギ帝も逮捕されます。ハムギ帝はフランスへの協力を断固として拒んだため、北アフリカのフランス領アルジェリアに流され、1944年に71歳で亡くなりました。

強大なフランス軍に鎮圧された「勤王運動」

ハムギ帝が発した「勤王の詔」に呼応した「勤王運動」と呼ばれる各地の武装蜂起は、おおよそ10年続きます。しかし、結果はフランス軍によってすべて鎮圧されてしまいます。

その要因は圧倒的な銃火器をもつフランス軍との戦力差に加え、阮朝の人臣による個別分散的な蜂起で、全国的な連携や組織がなくリーダーが倒れると瓦解してしまう組織力の差。さらに農民の暮らしや境遇を顧みず、少数民族の自治権をないがしろにした勤王運動の帰結としての終焉です。

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フランス軍に捕らえられたバーディン蜂起の指導者

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フランス軍の尋問

こうしてベトナムの封建制度を支えてきた人臣たちによる抵抗運動は終わりますが、この経験はその後のフランス支配に対する抵抗運動を変化させます。個別分散のゲリラ闘争から組織的闘争へ、地域的闘争から民族独立を掲げた国民的闘争へと発展していきます。時代がファン・ボイ・チャウやホーチミンなどを生み民族独立への歩を進めます。

次回はそうした20世紀初頭から1945年までの第3期における抗仏闘争を見て行きたいと思います。

(2022年10月20日、あかたつ)

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2022年10月19日 (水)

ようやく被害届を出した広島市

広島市は10月7日、平和大通りにある被爆者の森の折られてしまったライラックについて「故意に折られた可能性がある」と広島中央署に被害届を出しました。私に連絡が入ったのは、一週間遅れの10月14日でした。

ライラックが折れていること、その対応について広島市に申し入れていることは、このブログの6月26日の記事折られてしまった被爆者の森のライラック―つづき: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、紹介しました。

当初広島市は「故意に折られたかどうか分からないため、警察への届けは出していない」としていましたので、広島市に対し次のように申し入れたことを書きました。

「折っている現場を見なければ、『故意かどうかわからない』と言えるかもしれませんが、こうした事象をきちんと検証すれば、仮に故意でなかったとしても被爆者の森の木が人為的に折られてしまったことは間違いありません。以前から、悪戯されていたのですから。

今後こうしたことが起こらないようにするためにも、警察に被害届を出すことも必要なことではないかと思います。

そのことを広島市に問い合わせていますので、回答があれば、紹介したいと思います」と。

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当時広島市中区役所に私が映した写真を持参し、「故意の疑いがぬぐい去れない」と、警察への被害届提出を求め、何度か話し合いました。しかし、広島市の態度は「提供いただいた写真も踏まえ再検証を行いましたが、一連の状況が関連のあるものかどうか特定できないため、いたずらによる被害であると断定することはできないと考えております。」として、警察への被害届は出さないという回答が変わることはありませんでした。

この経緯を報告しようとも思いましたが、あまりにも杜撰で納得のできない広島市の考え方でしたので、あきれてしまいブログでは紹介しないことにしました。

ところが、連絡しておかなければまずいと思ったのでしょうか、8月末になって「折れたライラックの被害届を出す方向で検討しています」と広島市から電話で連絡がありました。

被害届を出すことを求めていたのですから、方向が転換されたことは喜ぶべきことです。しかし、最後となった7月20日の話し合いで、課長から「いくら言われても再考するつもりはありません」といわれていましたので、なぜ突然方針が変わったのか当然のことですが疑問がわきます。

その経緯の説明を求めて9月1日に広島市中区の担当課を訪れました。答えは「当事者でもある被爆者団体からもいわれましたので」です。確かに被爆者団体からの申し入れは重要です。しかし、方針転換するならそれなりの事実関係が必要なはずですので、私は「私が7月に資料提供した以外で、何か新しい事実が出てきましたか?」と問うたところ、「新しい事実は、全くありません」との答えです。これまでの私とのやり取りからいえば、「なぜ、急に方針を変えたのか」の理由の納得できる説明にはなっていません。

しかし、私がもともと求めていたことは「警察に被害届を出すことで、こうした事故の再発を防ぐこと」でしたので、これ以上経緯を問題にしていても仕方がない思い「出来るだけ早く被害届を出す」ことを求めて話し合いは終わりました。

それからでも一月あまり、最初に私が広島市に連絡してから3か月半以上が経っていますから、あまりにも遅すぎる対応です。しかも、「警察に被害届を出した」ことは、何故か記者クラブにも情報提供されていません。

昨日の中国新聞21面に掲載された「『被爆者の森』ライラック 故意に折ったか広島市が被害届」の記事は、私の情報提供によってはじめて掲載された記事です。

広島市は中国新聞の取材に「故意に折られた可能性は否定できず、再発防止の観点から被害届を出すことにした」と答えていますが、ほんとうに再発防止を求めるのであれば、記者クラブにもきちんと情報を提供し、出来るだけ多くの報道機関に報道してもらうべきだったはずです。

あまりにも遅い被害届の提出で、とても報道機関に周知できなかったかもしれませんが、何とも不思議な広島市の対応です。

いのちとうとし

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2022年10月18日 (火)

広島ガス株式会社原爆犠牲者追憶之碑

先日、元安川左岸を散歩中に「広島ガス株式会社原爆犠牲者追憶之碑」の整備作業に遭遇しました。

例年は、8月6日の前に定例で清掃が行われるようですが、今回備品の取り換えの必要が生じ、作業をされていたようです。

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ガスが燃える芯の部分(全部で5個)が、取り外されています。形はきちんと見えますが、ずっと燃え続けているので、触るとすぐくずれてしまうとのことでした。

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高さは、10cmくらいです。

「広島ガス株式会社原爆犠牲者追憶之碑」は、1967(昭和42)年8月2日に建立されました。現在は、2007(平成19)年8月6日に、原爆投下後の残り火を燃やし続けている福岡県星野村の「平和の火」と、平和記念公園の「平和の灯」から譲り受け、2つの火を合わせてガス灯に点火し、燃え続けています。

大切な火ですので、清掃作業中は、その火をランプに移してきちんと保管して作業が進められていました。

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夜改めて現地を訪れると、整備されたガス灯が綺麗に燃えていました。

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広島ガスの本社は、現在は皆実町の京橋川沿い(被爆当時は広島工場があった)にありますが、被爆時は現在の「追悼碑」が立っている場所にありました。爆心地から約210mの近い距離で、地上3階・地下1階建ての鉄筋コンクリート及びレンガ造りの建物は、すさまじい爆風により各階の床と天井が崩れ落ち、西側の一部(追悼碑の説明板では南側となっている)を残して崩壊しました。

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追悼碑の説明版の写真

次に書く被爆の状況は、広島原爆戦災誌からの引用です。

「広島ガス本社の在籍従業員は約80人、被爆時の出勤者は、69人でした。うち34人は、本社義勇隊として建物疎開作業現場の天神町・木挽町方面に出動していて、原爆にあい全員が死亡。本社内には、約35人(広島市の碑めぐりの説明では35人となっている)の職員が出勤していて被爆し、数人を除いて即死しました。即死を免れた数人も、一人は数時間後に絶命し元安川に流され、二人の女子職員は、かろうじて自宅にたどり着いたが、やはり死亡。男性職員3人は、広島赤十字病院前と広島電鉄本社前まで逃げ、一人は自宅に帰って死亡、一人は行方不明となった。推察するところでは、軍隊の死体処理収容所に積み込まれたか、あるいは川に水を飲みに行って死に、そのまま流されてしまったのではないかと思われる。このようにして結局、出勤していたものは全滅したのである。」

男性職員3人のうち、残り一人の記述がないことが気になりますが、広島ガス本社の犠牲者は、69人となっているようです。

なお、当日、中国地方におけるガス事業統合のための会議に出席していた中国5県の他のガス会社の役員10人も犠牲になっています。

たまたま「広島ガス株式会社原爆犠牲者追憶之碑」の整備作業に巡り合ったことがきっかけで、広島ガス本社の原爆犠牲の状況を知ることになりました。

いのちとうとし

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2022年10月17日 (月)

フィールドワーク「安野発電所への中国人強制連行」-その5

丁川取水口の見学を終え、一度加計町内まで引き返し、最後の見学場所である土居取水口に移動しました。

太田川の支流滝山川から安野発電所を稼働させるための水を取水するため、堰と取水口が作られました。水を取り込むための堰の様子です。この取水口がメインですので、丁川取水口と比べると河幅も広く堰の規模がずいぶんと大規模な構造となっています。

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写真の左側の水門のところからまっすぐ右方向に延びている堰堤は、石積みとなっています。土居取水口で、当時のまま残っているのは、この堰堤だけだそうです。その奥川岸の向こう側に土居収容所がありました。手前に少しパイプが映っていますが、ここが本流からの取水口です。

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取水口は、ゴミや流木などが流れ込まないように網状になっています。

その裏側に導水管の入り口となる取水口があります。下の写真の左側の水門です。

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右の壁のように映っているのが、本流に接した取り入れ口で、左側の水門が、約8kmといわれる導水管のスタート地点になります。ここが一番上流の掘り口になります。ここまで来て分かったのですが、最初に掘り口は9カ所あったと紹介しましたが、実際には10カ所というのが正しいような気がします。

中国人は、ここ土居では、トンネル堀りのほかに取水口建設工事も携わっていました。建設工事の主な作業は、川の中の石を拾って運び出し、その石で堰堤を築くことだったようです。残っている大きな石を積み上げて築かれた堰堤は、中国人の手によってつくられたものであり、その意味でも貴重なものといえます。

km先の安野発電所を稼働させるため、この土居取水口では、最大で毎秒25.15m、丁川取水口からは、最大で5mの水が取水されています。

最後に滝山川対岸に渡り、土居収容所跡を訪れました。

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手前の空き地が、土居収容所があった場所です。写真の奥に水門の一部が映っています。

建物は、香草収容所と同じ構造で作られていたようです。川原さんが最初の訪れた時にはそれらしき建物が残っていたそうですが、今は痕跡らしきものは何も残っていません。

収容所の食事の様子が次のように証言されています。

「山を切り開いた私たちに何を食べさせたかというと、こんな小さな茶碗に入るドングリの粉で作ったマントウが1回に1個でした。ほんとうは一口に入ってしまう大きさですが、惜しくて少しずつ7口に分けてかじりました。一日に21口かじったら、一日の食事は終わりました。すぐ終わってしまうので、おかゆみたいにマントウを水でふやかして、はじめは水を飲んで、最後に膨らんだマントウを食べました。」

時々小雨の降る空模様でしたが、ここで、今回のフィールドワークが終了しました。時計を見ると14時半過ぎでした。まなぶことの多かったフィールドワークでした。

いのちとうとし

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2022年10月16日 (日)

フィールドワーク「安野発電所への中国人強制連行」-その4

上香草横坑を後にして向かったのが、水谷沈砂池開渠です。加計町の中心部に入る少し手前を右折し太田川支流の丁川沿いを進み、そのまた支流(名前が思い出せない)と合流する地点を右折して少し進んだところに、水谷沈砂池開渠があります。

施設名に「開渠」と付けられているように、地上に出て用水路となっており、目視できます。約8kmある導水路の中で、唯一の場所です。

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水は、写真の奥から手前に豊かな水量が流れています。「沈砂池」と名称がつけられていますが、特別に池のように広くなっているのではなく、この「開渠」部分の真ん中あたりの導水路の底が1.5mぐらい掘り下げられており、そこに流れてきた土砂がたまるような仕組みとなっています。定期的に除去されているようです。

ここに地域の用水の取水口があり、左方向に流れています。写真左端にハンドルが映っているのが、取水用の設備です。

上垰横坑、光石横坑、西谷縦坑で紹介するのを忘れましたが、中国電力の説明によれば、ここの3カ所は、この水谷と同じように地域で使われる用水の取水口があるため、定期的に点検する必要から現在も使用されているとのことです。

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こちら側が、下流方向の入り口です。建設当時は、ここからも掘削工事が行われていましたので、掘り口の一つです。

次の見学地は、丁川取水堰堤です。そこの移動する時に気づいたのですが、水谷沈砂池開渠は、下に小さな川が流れており、通水橋の構造になっていました。

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丁川まで引き返し、右折して少しだけ上流に移動し、丁川取水口に行きました。

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川に堰堤(写真の中ほどに横に白く見えている)が築かれ、左側の取水口から導水管に水が取り込まれています。ここから取り入れた水は、少し下流で、後で訪れる土居の取水口からの導水管と合流します。安野発電所で使われる水は、2か所で取水されています。

堰堤の上流側は流れてきた土砂でかなり浅くなっています。ときどき、そこの土砂を取り除いて水がたまるようにしているとの説明でした。土砂がたまっている様子を目にすると、その土砂の一部が水と一緒に導水管に流れ込むことが当然予測できますので、先ほど訪れた水谷沈砂池開渠の必要性が理解できます。

この取水口が、丁川横坑になります。写真対岸に丁川斜坑があったようですが確認できませんでした。斜坑となっているのは、導水管が下方を通っているため河岸から斜めに穴が掘って、トンネル部に進んだのです。

今日のブログで、フィールドワークの報告を終える予定でしたが、ここまでで少し長くなりましたので、あと1回続けます。

いのちとうとし

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2022年10月15日 (土)

2022.10月のブルーベリー農園その2

108日(土)は3年ぶりに安芸区矢野にある安芸の郷の建物第2森の工房AMAで秋のブルーベリーフェアが開催され、約300名の方が天然酵母パン、スイーツ、ブルーベリージュース、サンドなどを手に庭でくつろいで頂いたり、ブルーベリーの苗木販売も説明をしっかりしながらお買い求め頂く行事があった。農園からのブルーベリーの実の提供はこの季節ではもう無理だった。コロナ禍のなか少しずつ日常を取り戻したい気持ちが行事開催につながった。東広島市豊栄町のブルーベリー農園は標高が約400mある場所なので秋の草花も色が濃い。草花との出会いも、うろうろする里山や畑での作業の面白さでもある。

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09日(日)

休耕田にセイタカアワダチソウが一面黄色い花を咲かせて、満開。

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1010日(月)

途中まで稲を刈られた田んぼ。12日にはすっかり刈り取られていた。

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農園の近くの野菜畑に咲くコスモス。他にもシュウメイギクやクジャクソウ、ヒャクニチソウなどが飾り気なく咲いていた。

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1012日(水)

休みを取って一人農園で作業をする。取り掛かりの最初の作業は里山の周辺の竹の伐採をすることにしている。30分くらいかけて竹を23本切る。処理は枝を落とし2mくらいに切りあちこちにまとめて置いておくだけ。周囲の視界と日当たりがよくなる。

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そのあとブルーベリー畑の列間に敷いてある防草シートを引きはがし列の中ほどに集めておく。3段ある畑のうち2段が済んだ。シートの下は摘み取りで多くの人が通ったので道のようになっている。また合間に緑肥を目的に不耕起で大根の種をあちこちにまいた。

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そのブルーベリー畑の中にあるムラサキシキブの実がなり鮮やかな色になった。

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ミゾソバのある群落からも花が咲きだした。

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白い花のタイプ。蕾が開くちょっと前。

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農園の近くに点在するススキ

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穂が完全に開くのはもう少し先。

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作業がすんだから小さい畑にある富有柿を少しだけもいだ。晩飯のあとの楽しみ。

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2022年10月14日 (金)

フィールドワーク「安野発電所への中国人強制連行」-その3

昼食を終えて、つづきのフィールドワークの開始です。

次の堀り口は、下香草(かぐさ)横坑ですが、閉鎖されており中国電力でもその場所は確認できないということで、現地を見ることはできませんでした。

香草地区にはもう一つ掘り口があります。上香草横坑ですが、その前に香草収容所跡を訪ねました。写真の右側、戦後に植えられたスギが大きく育ち森のようになっている場所に収容所がありました。

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川原さんに準備していただいた資料の中に、ここの収容所の見取り図があります。

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この図は、父が収容所の監視員を務めており、近所の住み収容所をたびたび訪れたことがある栗栖薫さんが、当時を思い起こし、2000年に描いたものです。栗栖さんは、「広島安野・中国人被害者を追悼し歴史を継承する会」のメンバーとして、会の活動が始まった時から、当時の様子を証言してこられました。私も何度か証言を聞いたことがあります。

当時の劣悪だった中国人や収容所の様子が、川原さんから頂いた資料に紹介されていますので、その部分を引用します。

「収容所の建物に窓はなく、出入り口は警察官や西松組監視員が24時間見張った。寝具は新華院(いのちとうとし注:中国から強制連行される際、中国人が収容されていた施設)を出る時に支給され、自分で背負ってきた布団と呼べない薄い布団が2枚だけ。また服も中国で支給された単衣だけしかなかった。靴は履いてきた布靴が破れた後は、ワラで草履を編んで履いたが、ワラがなくなると履く物がなかった。冬になると、セメント袋を体に巻き付け、雪の中を裸足で働いた。

食糧は、質の悪いものが少ししか与えられなかった。いつも空腹だったので、野草を食べたり、水を飲んで腹の足しにした。病気やケガで働けなくなると、食事の回数や量が減らされた。病人は治療されず放置され、重病人は病床で死を待つしかなかった。」

この香草の収容所には、第2中隊と呼ばれる100人が、約200mという小さな建物の中に収容されていました。

4カ所あった収容所の構造は、どこも同じだったようです。

ここから約700メートル上流に移動したところに上香草横坑があります。そこまで移動します。

ここの横坑口も閉鎖されていますので、掘り口を見ることはできません。ここでは、下図のように掘り口から出て来た石をトロッコに乗せて捨て場まで移動したトロッコ軌道がありました。

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現在そこが道として使われています。

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左側の小さな小屋の奥が、石の捨て場です。図では、手前の斜線部分です。トロッコ軌道は、右手前に延びていたと思われます。当時石の捨て場は、崖になっており、一番底は約10mの深さがあったと言われていますが、今ではほとんど段差を感ずることができません。いかに大量の土砂を掘り出し捨てる作業が続いたか、想像できます。

今日紹介した栗栖さんが描かれた「1944~45年当時の香草収容所・工事現場付近の見取り図」を手にして現場に立つと、様子は変わっていますが、当時の様子を思い描くことができます。

この上香草横坑で働かされ、トロッコから石を捨てる作業中トロッコが横転する事故にあい、失明することになった宋継堯(ソン・ジャヤオ)さんの手記です。

「私は陳さんと二人でトロッコに石をつんで押していました。トンネルを出た下り坂のところでトロッコがひっくり返り、崖の下に放り出されました。石が落ちてきて頭を打ち、目には砂がいっぱい入りました。仕事を止めるとおこられるので、泥のたまり水で目を洗っただけで、仕事を続けました。両眼を失明したために、ことばでは言えない困難な一生を送ってきました。」

すぐにきちんとした治療が行われておれば、宋さんは、失明することはなかったかもしれません。宋さんの証言に胸が痛みます。

フィールドワークの紹介は、今回で終わりにする予定でしたが、当時の様子を紹介したため、少し長くなりましたので、今日はここまでにします。つづきは、16日に掲載します。

いのちとうとし

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2022年10月13日 (木)

フィールドワーク「安野発電所への中国人強制連行」-その2

いよいよ9カ所あるといわれる「導水トンネルの堀り口」の見学です。

少し見えにくいのですが、当時の工事関係の位置図です。

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地図上で〇囲いされているのが、「掘り口」の位置です。一番下に安野発電所があります。

安野発電所に一番近い「掘り口」は、上垰横坑です。現存していますので、中国電力の方に案内していただき現地まで進みます。

上垰横坑は、現在も中毒電力が管理していますので、入り口まで車が入れる道があります。ただ、でこぼこが多く、草も繁っていますので、今回は少し手前のアスファルト道路が尽きたところで車を降り、徒歩で移動しました。

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入口近くには、通路ができています。周りの草が伸びています。通路を通って入口まで進みます。

入口の高さは、1.5メートルぐらいしかありませんので、入ろうと思うと少し頭をさげてはいることになります。

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現在も定期的な点検で使用されていますので、中は、綺麗な状態です。

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この入口から、78メートル先に導水管が通っています。この入口から入り、78メートル先で左右に穴を作業が行われました。当時は、導水管を掘削するための発破(ダイナマイトを爆発させる)によって出て来た石をモッコなどで担ぎ出し、外に石を捨てる作業をしていたのが中国人です。入り口に向かって左側の谷と思われる場所に石の捨て場がありましたが、現在は草が覆い茂っており、当時の様子がを偲ぶことはできません。ここが捨て場だったと説明されなければ、想像できませんでした。

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このような石の捨て場は、その後訪れた堀り口でも同じように見つけることができました。

次は、光石横坑です。ここも現在も使われています。ここは、すぐ近くまで車で行くことができました。

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入り口は、少し大きめで高さは2メートルくらいありますので、立ったままで入ることができます。

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この横穴を46メートル奥に進むと導水管が通っています。

ここで中国電力の案内者とは一旦分かれて、東谷横坑と西谷立坑を訪れました。

東谷横坑は、現在は閉鎖となっていますので、その入り口を見つけることはできません。

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この場所を訪れたことのある川原さんの話では「以前、末田安芸太田町会議員のお話を聞いた時には、前方の真ん中ほどに見えている中国道の左端にあったようです」とのことでしたが、実際にあった場所は、今回も確認できませんでした。

次に西側の谷筋にある西谷立坑に移動しました。ここで中国電力の案内者と合流しました。

最初に訪れた二つの堀り口は、横坑(水平に穴が掘られている)でしたが、ここは立坑ですので、垂直に穴が掘られているということです。

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手前の金網の右側の柱のすぐ横に四角に縁取られたように見える鉄板があります。ここが立坑の入り口です。現在も使われています。当時、ここから掘削によってできた石などを地上に挙げていたようです。

この数メートル(きちんとした数字を書き忘れました)下に、写真の人が立っている方向から手前の方向に向けて導水管が走っています。

ここは、普通の道路のすぐわきにありますので、誰でも見ることができます。

ここから少し下って国道191号に出る少し手前に、全部で4カ所あった中国人収容所の一つ、津浪収容所がありましたが、いまは田んぼになっています。

ちょうど12時ころになりましたので、津浪の道の駅で昼食を取ることにしました。この道の駅の責任者をしているため日曜日の昼間は忙しく同行できなかった末田町議に会い、東谷横坑のことを聞きました。末田町議の話では「東谷の堀り口は、立坑だったように覚えている」という話でした。先ほど見た地形からいうと、末田町議が言うように立坑だったとも想像できますが、結局最後まで確認はできませんでした。

半分ほど終りましたので、当日のフィールドワークと同じように休憩し、残りは明日紹介します。

いのちとうとし

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2022年10月12日 (水)

フィールドワーク「安野発電所への中国人強制連行」-その1

原水禁世界大会のバスツアー「安野発電所への中国人強制連行・中国人被爆の歴史を歩く」で案内役をお願いしている川原洋子さんが、10月9日に共同通信の記者のための「安野発電所への中国人強制連行」のフィールドワークを行うことを知り同行させていただきました。

毎年10月に行われる「安野 中国人受難之碑」前で行われる「中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」には、ほぼ毎年参加していますので、中国電力安野発電所のフィールドワークには参加してきました。しかし、強制連行された中国人が働かされた約8kmといわれる導水トンネルに関わるフィールドワークには、参加したことがありませんでした。

今回のフィールドワークでは、中国電力の職員に案内してもらって「発電所のある坪野から種々井口の土井までの間にある9カ所の導水トンネルの堀り口を訪ねる」という企画でしたので、一度は訪ねてみたいと思っていましたので、直前でしたが無理をお願いしました。

今回のフィールドワークの参加者は、川原さん、共同通信の記者、そして運転手を兼ねて参加された中さん、それに急きょ参加した私の4人です。

8時半に西区中広で集合し、中さんの運転で中国電力安野発電所をめざし、午前9時半前には、現地につきました。早速、川原さんの案内が始まりました。

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いつも見る景色です。発電所に上方から2本(実際には3本に見えるが)の導水管が、のびています。左側が1号導水管、右側が2号導水管と呼ばれています。右側の2号と呼ばれている導水管が、最初にできた導水管です。完成時には、すでに中国人労働者は帰国していましたので、写真に写っている導水管そのものの建設に携わったわけではありませんが、ゆかりの施設ということになります。

そうしている間に案内をしていただく中電の職員が来られましたので、「安野 中国人受難之碑」で合流しました。今年は、10月23日に中国人受難者を追悼し平和と友好を祈念する集い」が行われますので、碑のすぐ周りのグリ石の間から芽を出している草だけ少し刈り取りをしました。碑の周辺は、夏に中電のみなさんが草刈りをしていただいたとのことで、綺麗な状態です。すぐに送水管の上部にある貯水槽まで移動しました。

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久しぶりに上ると、急な石段に想えます。途中で息を整えながら、貯水槽にたどり着きました。

今日は、発電がおこなわれていないようで、水の流れが止まっていました。

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導水トンネルの出口です。ここは何度か訪れた場所です。この場所から写されたと思われる当時の現地の写真です。原水禁大会のフィールドワークで配布される資料からの引用です。

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写真の右上に立つ木造の建物(G、Fの記号がる)のうち一番手前の平屋の建物が中国人収容所です。現在は、民家が立っています。

下から見た時ちょっと気になっていたのが、導水管の番号の付け方です。素人考えでは、建設された順番に番号が付けられるのが普通だと思っていたのですが、この導水管に番号は、逆になっています。不思議な気がしましたので、案内していただいた中国電力の人に訊ねました。簡単明瞭な答えでした。「発電所の施設では、上流側から番号を付けることになっています。」

同行した川原さんも「今までも不思議な気がしていたのですが、やっと謎が解けました」とことでした。

安野発電所附近の見学を終え、いよいよ今回のフィールドワークの主目的である「導水トンネルの堀り口」を訪ねるため、移動を開始しました。

「導水トンネルの堀り口」の様子は、明日紹介します。

いのちとうとし

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2022年10月11日 (火)

「かき船問題を考える会」第7回総会

10月8日の午後2時から、中区袋町の「ひと・まちプラザ」研修室で、「かき船問題を考える会」第7回総会が開催されました。

「かき船問題を考える会」は、2014年の11月に「かき船かなわ」が、平和大橋下流から世界遺産原爆ドームの南約200メートルの元安橋下流に移転する計画が明らかになり、この移転計画に反対する市民によって翌2015年1月に結成されました。かき船が、現在地に移転して以降も、撤去を求めて様々な活動を行ってきましたが、今後この目的を達成することは、困難と判断し、第7回総会を持って解散することになりました。

総会には、15名の参加があり、全員が思いを語り、今後もそれぞれの場でヒロシマの運動を継続することを確認しました。

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総会資料の前書きとして「『かき船問題を考える会』解散にあたって」を書きましたので、少し長いのですが全文紹介します。

「私たちは、広島市が中心となって進める原爆ドームバッファゾーンへの「かき船」移転は、負の世界遺産である原爆ドームの景観を著しく阻害するものであり、その移転計画を中止させ、原爆ドームの景観を保護しなければならないとの思いを共有する市民が結集し、2015年1月、『カキ船問題を考える会』を結成しました。以来7年10カ月余りにわたり、初めて出会う人も多い中で、一人ひとりの会員が知恵を出し合い、共同の行動を積み重ねてきました。

残念ながら、私たちが望む『かき船の移転を中止させる』ことは実現できませんでしたが、この活動を通じて「世界遺産原爆ドームは、どんな役割を果たしているのか、果たすべきなのか」を市民に問いかけ、将来にわたって原爆ドームをどう保存・保護していくのかという基本的な問題を提起することができたのではないかと思っています。そして何よりも広島市の平和行政は、どうあるべきかを考える場となったと言えます。

私たちが、原爆ドームのバッファゾーンへの『カキ船移転』を知ったのは、残念ながらすでに多くの手続きが終えられた後でした。その意味で、当初から非常に困難な運動を強いられることになりました。しかし、私たちは、その節目節目で、創意・工夫を重ね、様々な活動を展開しました。

とりわけ、私たちが呼びかけた署名活動に多くの賛同が得られたことは、市民の関心の高さを示したものと言えます。また、私たちの活動や働きかけは、多くの賛同を呼び起こすことになり、日本イコモス国内委員会の懸念表明や広島弁護士会の会長談話、日本被団協と両県被団協の3者の共同声明などを発表していただくことができました。

こうしたすべての皆さんのご協力、ご理解に改めて感謝申し上げます。

また、カキ船の移転強行実施後には、会員を中心に『移転許可の停止を求める』裁判も行いましたが、2019年12月最高裁が、私たちの上告を棄却するとしたことにより、残念ながらこの道も閉ざされました。

その後も、『署名活動』を継続するなどの取り組みを続けてきましたが、これまでの取り組みの経緯かを考えると、残念ながらこのまま活動を継続しても「かき船の撤去」を求めることは困難であると考え、『カキ船問題を考える会』を解散することとしました。

私たちが、この会を通じて訴えてきた『広島市の平和行政のありよう』には、その後も様々な問題が惹起しています。その意味では、『カキ船問題を考える会』が提起してきたことは、広島市の平和行政はどうあるべきなのかという問題提起のきっかけの役割を果たしたと思っています。

広島市の平和行政が、つねにあの日に起こった広島の実相を原点に据えたものにしていくためには、私たち広島市民一人ひとりが、その責任を果たさなければなりません。

『カキ船問題を考える会』は、会としての活動は停止することになりますが、真の広島市の平和行政を作るための私たちの役割は、今後も続くことになります。

会員のみなさん、今後も一人ひとりの市民として『ヒロシマ』の役割を果たす広島市を作るための活動を続けていこうではありませんか」。

その後に集まった8千筆余りの署名は、近日中に広島市に提出する予定です。

ご支援、ご協力をいただいた皆さんに改めて心からお礼申し上げます。

いのちとうとし

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2022年10月10日 (月)

原発があるということは、事故はいつかわが身に!

10月1日~2日、松江市において「島根原発を止めるために何を行うか」をテーマに、中国地方連絡会議の第40回交流総会を開催しました。

この連絡会議、正式名は「中国地方反原発反火電等住民運動市民運動連絡会議」という、中国地方の反原発・反火電などの市民・住民運動団体で構成している組織です。

 1982年に広島市で結成総会を開催していますので、満40年という老舗組織です。交流総会は毎年中国地方5県を持ち回りで開催し、本来ならば昨年は岡山県での開催でした。しかしコロナ禍とちょうど開催を予定していた時期に、鳥取、島根両県で島根原発の再稼働に対する住民投票条例制定運動の山場と重なったために、中止していました。

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この度は福島原発事故の時、福島県浪江町に住んでいた菅野(かんの)みずえさんに『私が実感した避難の問題点』と題して話しをしてもらいました。菅野さんは、原発事故で町ごと避難されました。そして16年から兵庫県三木市に住んでおられます。原発賠償訴訟の原告として、また避難計画を案ずる関西連絡会の会員として活動しています。 

「失くしたのは故郷ではなく、そこにあるべき暮らし」「わたしたちが失くした、いいえ奪われたのはあるべき暮らし、そこに暮らしているはずだった日常、みんなと一緒に生きるはずだった未来…」と、虚しさ、怒り、悲しみを淡々と話しかけました。

「ともに老いるはずだった私たちの地域のコミュニティ、町の子どもたちの成長をともに楽しめるはずだった私たちの暮らし…」と話された時には、約50人の参加者は、静かにうなずき涙ぐむ顔も見受けられました。

机上で考えられ策定されている避難計画、生身の人間や暮らしを考えない計画の在り方に、原発の犯罪さを改めて実感しました。

菅野さんの話しの後は、各地の状況報告とこれからの活動について意見交換となり、そして夜は恒例の懇親会となりました。

翌日は島根原発の見学。この度は原発構内にも入られるということで、事前に送っていた運転免許証などのコピーと実際に持参した物との厳重な??チェックがされました。島根原発では、今年5月に協力会社から依頼を受けた業者が、身分証明書を偽造したという事件を起こしたので、私たちにはとりわけ『厳重さ』を見せたのだと感じました。

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見学の後は、島根原子力館の広場にある「誓いの鐘」の前で記念写真。この鐘は、2010年島根原発1・2号機で511か所におよぶ点検漏れや機器の未交換が発覚し、その最終報告を国に行ったということで6月3日を「原子力安全文化の日」として中電が定めました。毎年、この日には中電社長も参加し、中電や協力会社の人たちが参加してセレモニーが行われています。

これまでの度重なる点検不備・虚偽報告に対し、繰り返さないという誓いを込めて造られた鐘ですが、その後何度も不祥事を起こしています。

木原省治

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2022年10月 9日 (日)

原爆犠牲者の月命日の法要-その2

7日に掲載した「原爆犠牲者の月命日の法要」のつづきです。

供養のための読経は、供養塔の北側で行われます。

吉川住職と一緒に、供養塔の北側に移動すると、すでに10数人が集まっておられました。私の知っている人の顔も何人か見えます。

納骨堂の入り口のところで供養の準備が進んでいました。入り口で二人が、和ろうそくと思われるロウソク1本に火を灯しています。花入れには、新しい花が供えられています。献納の文字が刻まれた大きな線香タテには、すでに線香が煙を上げています。

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8時45分頃、吉川住職の読経が始まりました。参加者には、「重誓偈」(じゅうせいげ)の経文が印刷された紙が配布されましたので、一緒の経文を読みました。

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「重誓偈」の読経が終わると、印刷して配布された10項目の「原爆と世界平和」が読み上げられました。だれが作られたものか、聞き洩らしましたが、1番は次のように書かれています。

ああ皆人よ皆人よ/原爆の街を再びと/世界の何処(どこ)にも出(い)だすなよ/初めの終わりとなさしめよ

仏教の教えと平和へ思いが詩となっています。

次に、「明るい社会をみんなで」愛唱歌「かがやけわがふるさと」の歌が歌われました。この歌は、有田美智雄作詞、作曲となっていますが、吉川住職が希望され、助言しながら作られたものです。この歌も、歌詞が印刷されたものが配布されました。私は、初めて聞く歌ですが、何人かは唱和されていますので、いつも歌われているようです。最後にもう一曲「ありがとう」の歌の吉川住職による独唱がありました。隣にいた私の友人が、一言。「住職は声が良いですから、よく歌われるのですよ」。確かに85歳(今年11月の誕生日を迎えると86歳)とは思えない声の張りでした。

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この後に、法話が始まりました。ちょうどここで電話がかかってきました。マナーモードにしていませんでしたので呼び出し音が鳴ったため、慌てて少し離れたところに移動しましたので、法話の最初のところを聞き洩らしました。

法話は25分ぐらいのお話でしたが、電話がかかってきたのとメモを持参していなかったことで、残念ながら法話の中味を紹介することはできません。

全てが終わったのは、午前9時30分頃でした。少しどんよりした空模様でしたが、心配された雨も降らず、2022年10月の月命日の法要も無事終了しました。

昨日の参加者は、少し遅れてきた人も含めると15人ほどでした。その中には、前田ディレクターのパートナーの姿もありました。「どんなことを取材しているのかと、来てみました」。参加者はいつもより多かったようです。

福岡から参加されたお二人は「また来るつもりです」と言いながら、去っていかれました。

私は、近くに住んでいますので、出来れば来月も参加したいと思っています。

このころには、平和公園を訪れた修学旅行や平和学習の生徒の姿を随分と多く見かけるようになっていました。

いのちとうとし

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2022年10月 8日 (土)

2022.10月のブルーベリー農園その1

ブルーベリーの収穫期が過ぎて、後片付けもほぼ終わり東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から通うのもゆっくりした気持ちになってきている。農園の周囲の稲刈りもまだ残っている田んぼもあるが、稲刈り後の荒おこしが終わっている田んぼもあって、くるたびに田んぼの景色が変わっている。農園全体にカバークロップ(緑肥用)の種をまく作業が終わったので、10月からは草刈りやブルーベリー畑の防草シートをはがす作業を行っている。

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101日(土)

農園のある周囲に秋らしい青空が広がる。

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思い切りしっぽを上げてとまる赤とんぼ(家の庭の池で)

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ブルーベリーの植えてある畑が3段ある。5月から敷いていた防草シートは人が通るので地面にぴったしついている。このままにしておくと来春シートの上に草がはびこり夏には取り返しのつかないことになるので、いったんはがして列の中央に寄せる作業が今日からスタート。落ちたブルーベリーの実もシートに乗っていて振り落としながら作業を進める。落とした実はそのままにしておく。

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102日(日)

農園の蔵のある庭に大きなキンモクセイがある。強い香りが漂っている。

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オレンジ色の小さな花がびっしり咲いている。

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隣にあるシモクレン(紫木蓮)は赤い実をつけている。

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106日(木)

農園の家の前のサクラの枝にかけているスズメバチ捕獲器にスズメバチが3匹も入ってうごめいていた。帰る時にはまた1匹入っていた。秋に入るのは珍しい。

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小さい畑の隅にぽつんとある茶の木に花が咲いた。

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防草シートをはがす作業をしていると、イヌタデの群落に出会う。春からじわじわと株を広げ秋になると一段と大きくなる。

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農園のあちこちで元気なのはクモ。赤トンボはもう見なくなった。

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畑のブルーベリーの葉もかすかに紅葉が始まっている。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年10月 7日 (金)

原爆犠牲者の月命日の法要-その1

平和公園の原爆供養塔には、身元が分からないか、判明しても引き取り手のない遺骨約7万体が、納められています。

その原爆供養塔の前で、毎月6日に犠牲者の月命日の供養が行われていますが、私も昨日初めて参加しました。

以前から、新聞報道などでこの月命日の供養は知っていましたが、実際に自分も参加しようと思うきっかけとなったのは、今年8月6日にTSS(テレビ新広島)で放送された「ヒロシマ祈りの場の1年」を見たことです。この番組は、「祈りの場」としての平和公園で毎日行われている市民の様々な祈りの様子を昨年8月から今年7月までの一年間を通して取材して作られた番組です。

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テレビ新広島ホームページより

 この番組を見ながら、思い出しことがあります。この番組を制作した前田典郎ディレクターには、今年の元日が平和公園の原爆慰霊碑を訪れた時、そこで会い、新年のあいさつをしたのです。その時には、「新年早々から取材で大変だな」ぐらいにしか思っていなかってのですが、いまにして思えば、この番組を制作するための取材中だったのです。

番組の中心は、毎日夜明けとともに公園内にある原爆供養塔にやってきて、供養塔周辺の落ち葉を丁寧にかき集め献花台を清掃しておられる渡辺和子さんの姿や、毎月6日に月命日の供養のための読経を続けておられる呉市の白蓮寺住職の吉川信晴さんの姿でした。

昨日、ようやくこの月命日の供養に参加することができました。前夜に前田ディレクターに電話をかけ「いつ頃から始まりますか」と訊ねたところ「吉川住職は、8時ころには平和公園に来ておられます。始まるのは、はっきりと決まってはいないのですが、8時半前後ですね」と教えていただきましたので、遅れないようにと8時を目途に家をだました。

家を出ると、少しだけパラパラの小雨が落ちてきましたので「本格的な雨にならなければよいが」と心配しましたが、平和公園に着くと間もなく雨は上がりました。

供養塔に行くと三人の人が、清掃されている姿が目に入りました。

供養塔の周りの溝の掃除をされているのが、渡辺和子さんでした。

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供養塔の北側で熱心に落ち葉を集めておられる二人に「どこから来られたのですか」と声をかけました。

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びっくりする答えが返ってきました。「福岡から来ました」「えっ」聞き返しました。聞き違いではありません。「福岡」に間違いありませんでした。続けて「福岡で放送された『ヒロシマ祈りの場の1年』を見たのがきっかけで。どうしてもとの思いできました。」とのことです。番組を見て私と同じ思いをもった人がおられたのです。しかも福岡から。

福岡のお二人と話していると、前田ディレクターの姿が見えました。福岡のお二人の話をした後、前田ディレクターが「住職が近くで待っておられるのであいさつに行きます」とのことですので、同行させてもらいました。

吉川住職とお会いするのはもちろん初めてでしたが、少しだけ話を聞かせていただきました。「今朝は、6時45分に家を出かけ、呉市体育館前から高速バスに乗り、本通前で降りて、歩いてここまで来ました。今日は少し早く着きましたので、ここでゆっくりしていました。」その後、介護度5度の奥さんの介護のことに話が続きます。食事つくりから大変な毎日のようですが「もうすぐ86歳になりますが、介護のしながら、学ぶことが多いですよ。」と淡々と話されます。後で改めて聞いたのですが、私と干支は同じ、ネズミ年生まれ、ちょうど一回り違いです。私たち夫婦もそんな時期を間もなく迎えるけれど、そんなふうに生きられるかなと思いながら、話を聞いていると、すぐに30分くらいの時間が経ちました。「じゃー、供養を始めましょうかね」と読経が行われる供養塔の北側に一緒に移動しました。

前置きが長くなってしましました。今日の報告はここで終わりです。この後の様子は、9日に紹介します。

いのちとうとし

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2022年10月 6日 (木)

ヒロシマとベトナム(その37-2)ベトナム象、広島を歩く-1のつづき

ベトナム象との出会い

現代の〔足跡第一号〕は分かりましたが、〔歴史をさかのぼって最初に広島県・東広島市に足跡を残した人は?〕を調べる課題は残ったままです。どうやって調べたらよいか、広島県立文書館にベトナムとの関わりを示す記録や古文書の存在と調べ方をお尋ねしましたが、思うように進みません。

そんな折、所属している東広島郷土史研究会の山城探訪会で「ベトナム象が西国街道を歩き、西条四日市宿に泊まった」という話を聞き、〔エッ!〕という驚きと同時に〔ヤッタ!〕と思わず歓声を上げました。

ときは享保年間、第8代将軍徳川吉宗の時代です。今からおおよそ300年前のことです。

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享保14年渡来象の図:国立図書館蔵

鎖国政策の一方、海外事情に強い関心を寄せていた将軍吉宗が「象を見たい」と、雄雌2頭の象を発注したことに始まります。吉宗は馬の品種改良のためにペルシャ馬を輸入し馬場をつくるなど、動物にも関心を寄せていたそうです。これも単なる「趣味」ではなく、何らかの目的をもっていたのかも知れません。

吉宗と言えば、忠介(南町奉行大岡越前守忠介)と共に悪をこらす「名君」として描かれています。また、新田開発や「火消」、「目安箱」などの画期的な制度をつくった一方、「5公5民」や「上米制度」で庶民の暮らしを逼迫するなどの功罪をもつ「享保の改革」を進めた将軍です。

享保13年(1727年)6月13日、吉宗が発注した雄雌各1頭のベトナム象が長崎に着きます。雌象は食べ物や気候に馴染めなかったのか、病気で3ヶ月後に死んでしまいます。翌享保14年(1728年)3月13日に長崎を出発し、江戸までの354里(1400km余り)を75日間かけて踏破しました。

その雄象が、享保14年(1728年)4月8日、西国街道の宿場、西条四日市宿に泊まったというのです。

ベトナム象の旅を追って

〔江戸への象の旅にはベトナム人の象遣いか調教師が付いていたに違いない。するとその人が東広島に初めて足跡を残した人かも知れない〕と、8月から調べ始めました。次号から広島藩(芸州浅野藩)に入って西条四日市宿に泊まり、岡山藩(備前池田藩)に至るまでの象の旅を追い、江戸について亡くなるまでのベトナム象を紹介したいと思います。

「ベトナムの歴史」シリーズではなく、身近な広島県や東広島市に関わる内容なので「ヒロシマとベトナム」シリーズに寄稿することにしました。

(2022年10月6日、あかたつ)

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2022年10月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その37)ベトナム象、広島を歩く-1

「日越国交樹立50周年」を前に

来年、1973年9月21日にパリのベトナム民主共和国総代表部で日本国政府とベトナム民主共和国の代表が外交関係樹立に係る交換公文に署名して半世紀、「日越国交樹立50周年」を迎えます。古(いにしえ)から連綿と続いてきたベトナム(越国)との関わり、交流を経て今日があります。そうした日本とベトナムとの交流史を辿ってみたいと、昨年3月から本Blogに新たなシリーズ「ベトナムの歴史」の寄稿を始めました。

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1973年9月21日パリで調印された「外交関係設立交換書簡」

「日越国交樹立50周年」を来年迎えることから、身近な広島県や東広島市におけるベトナムとの交流の痕跡を探し始めました。

外務省の「国籍別外国人入国統計」によると1950年のベトナム人は18人、外交関係が樹立された1973年は1,411人、2021年末は432,934人です。「国交樹立」半世紀で307倍に増え、中国に次ぐ第2位を占めています。

東広島市に初めて足跡を残したベトナム人は?

ところで、〔東広島市に初めて足跡を残したベトナム人は?〕

調べると1994年に初めて6人のベトナム籍市民が登録されていました。「国交樹立」から20年後に初めてのベトナム人の足跡がありました。ちなみに、今年9月末のベトナム籍市民は1,554人です。

ところで、〔どのような人?〕

一挙に6人ということから、「広島大学の留学生では」と広大を訪ねましたが、当時の記録があったとしても紙媒体でデータベース化されておらず、調べることはとても困難」とのこと。広島大学留学経験を持ち、現在、ベトナム国家大学ホーチミン市校 人文社会科学大学の日本学部長をしている友人(フィン・トロン・ヒエンさん)に尋ねてみることにし、何となくネットで「広島大学ベトナム人留学生第一号」と検索してみました。

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2014年3月15日、博士号を取得し帰国の「ヒエンさんを送る会」

〔あった!〕

広島大学「国際同窓生ネットワーク」「留学生時代の思い出」(注1)にグエン・ティエン・ルックさんの寄稿を見つけました。6人の学友とともに留学し、1992年~1994年3月まで千田キャンパスで、4月から1999年の帰国までの5年間を東広島市で過ごされたのです。

奇遇なことに、ヒエンさんの恩師に当たる方で、学会で来日されたルックさんの送迎をヒエンさんから頼まれ、エスコートした方でした。遠回りして〔東広島に初めて足跡を残した人〕にたどり着き、記憶力の乏しさをあらためて痛感です。

ちなみに当時の広島大学への留学生は540人、ベトナムからは6人だったとのことです。今年5月1日時点では84カ国・地域から1,638人、ベトナムからは55人です。

(注1)広島大学国際同窓生ネットワーク「留学生時代の思い出」 https://www.hiroshima-u.ac.jp/ialumni/memories/memories04

(2022年10月5日、あかたつ)

【編集者】あかたつさんからは、「ベトナム象、広島を歩く―1」は1回分の原稿として送られてきましたが、少し長めでしたので、今日、明日の2回に分けて掲載することにしました。明日は、いよいよ「ベトナム象」が登場します。

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2022年10月 4日 (火)

10月の「3の日行動」

昨日午後5時30分から午後6時10分(いつもより少し時間を短縮しました)まで本通電停前で、戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会が主催する10月の「3の日行動」が行われました。

ちょうどこの日から参議院選挙後初の本格論戦となる臨時国会が召集されましたので、今月の主テーマは、「国会開会 岸田首相は市民の声を聞け」です。

もともと野党は、8月18日に、憲法53条(いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。)に基づき、「安倍元総理の国葬問題や旧統一教会問題」を論議するための臨時国会召集を求める要望書を提出していたにもかかわらず、岸田首相自らの都合だけで臨時国会が、召集されないといういわば憲法違反の状態が続いていましたので、この時期の臨時国会の召集は遅きに失した感があります。

今回召集された臨時国会の会期は、昨日から12月10日までの69日間ですので、しっかりとして論戦が交わされることを強く期待します。

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昨日の「3の日行動」では、私もマイクを握り、短い時間でしたが、主に次のようなことを訴えました。

第一は、野党の質問に正面から答える国会論議を取り戻すべきだということです。

国会の論議を形骸化させてしまったのは、野党の質問にまともに答えようとしなかった安倍元総理の答弁姿勢です。残念ながらその姿勢は、岸田首相の答弁にも表れています。それを示したのが、「安倍元首相の国葬」問題をめぐって9月8日に衆議院、参議院の両院で開催された議事運営委員会の閉会中審査です。野党が繰り出す様々な質問に対し、岸田首相は、従来の説明を繰り返すだけでした。こんな答弁が繰り返されれば、論議が深まるはずがありません。岸田首相は、野党の質問にしっかりと向き合って、誠意をもって答弁すべきです。こうした論戦を通じて、失われた国会の民主主義を取り戻すことが、この国会の最重要な課題です。

第二は、その試金石となるのが、「安倍元首相の国葬」問題での説明です。国民の半数以上が反対をしているにもかかわらず「安倍元首相の国葬」をなぜ強行しなければならなかったのか、その理由は徹底して究明されるべきです。手続き問題とともに、安倍元首相が本当に国葬にふさわしい政治家だったのかも問われなければなりません。

第三は、旧統一教会問題への対応です。自民党の調査がいかに杜撰なものか、そして教団との関係を断つと言えば、全てが不問に付されてよいのか。などなどです。特に安倍元首相と旧統一協会の関わりについて、岸田首相は「本人が無くなっているので調査には限界がある」としていますが、その限界までも調査していないのですから、全く調査しないと同じです。安倍元首相と統一教会との関係解明無くして、統一教会問題の終息はありません。

第四は、「核なき世界」が政治信条だとする岸田首相が、果たして本当にその役割を果たしたのかが問われなければなりません。核兵器禁止条約締約国会議、そして首相自らが参加したNPT再検討会議は、いずれも6月に通常国会が閉会して以降に行われています。この二つの重要な会議の総括をぜひこの国会で行うべきです。

第五は、野党が共同提案を予定している「憲法53条に基づいて臨時国会の開催要求があった時には、20日以内に召集しなければならない」という国会法の改正です。これは、以前から指摘されてきた問題ですので、ぜひこの国会で与野党が協力して成立させることを期待します。

さらに、物価急上昇のなかでの生活者の暮らしを守るための経済政策はどうあるべきか、などなど論議を深めなければならない課題が山積しています。国民の声を聞くだけでなく、その声にこたえる国会論議が進むことを強く望んでいます。

私の他には、統一教会問題が二人、国防費増額の問題を一人、それぞれの立場で問題点を厳しく指摘しました。

今月の行動では、「11・3ヒロシマ憲法集会」の案内チラシを配布しました。

参加者は、45人でした。

いのちとうとし

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2022年10月 3日 (月)

爆心直下の町―細工町・猿楽町

広島原爆資料館の1階で、9月16日から「広島平和記念資料館令和四年度第一回企画展 爆心直下の町―細工町・猿楽町」が始まりました。

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会場に置かれているパンフレットの「はじめに」には、次のように書かれています。

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「通りに面した病院の前に立つ爆心地の説明版。現在も島内科医院として続く島病院の地上600メートルで原爆がさく裂したことを伝えています。そこから北西に160メートル離れた場所に立つ原爆ドーム。被爆当時、広島県産業奨励館と呼ばれ、ドーム部分の鉄枠と壁の一部をとどめる姿が、被爆の惨状を訴えています。島病院と広島県産業奨励館は、それぞれ細工町、猿楽町と呼ばれた町にありました。

この企画展では、爆心直下の2つの町に焦点をあてて、被爆前の町の様相、原爆による破壊、再建に向けた歩みを当時の写真や遺品、住民の方の証言を交えて展示します。人々が努力し、積み上げてきた暮らしを一瞬にして奪う原爆の悲惨さと、家族や同僚を失い、つらい記憶を抱えながら、必死に生きる人々の強い意志を感じ、平和の大切さを考えていただければと思います。」

この「はじめに」のとおり、展示は「被爆前の街並み」「変わり果てた光景」「再建の歩み」の順で、写真や遺品が展示されています。

「変わり果てた光景」で展示されている写真は、「見たことがある」と思える写真が並んでいますが、私が一番興味を持ったのは、「被爆前の街並み」のコーナーに展示された、電車通りに面して立っていた護国神社の大鳥居が写った2枚の写真です。

なぜ興味を持ったのかは、大鳥居の写真がいずれも鳥居の裏側(北側)から写されているからです。以前このブログ旧廣島護国神社被爆鳥居―その1: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「大鳥居の裏側にも額があったが、留め金しか残っていない」ことを紹介しましたが、裏側(北面)の額が写った写真を紹介することはできませんでした。

ところが今回の展示で、その裏側(北面)の額が写った写真が2枚も展示されていたのです。

1枚は、「広島護国神社での防空演習」とタイトルがついています。この写真は、パンフレットにも掲載されています。

もう1枚には、ズバリ「神社の大鳥居」のタイトルが付けられ、キャプションに「神社側から南に撮影したものです。」と書かれています。裏側の額がはっきりと写っています。これで、間違いなく裏側(北面)にも額があったことが確認できました。

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よく見ると原爆によっても落ちることのなかった表側(南面)の額も小さくですが確認することができます。

残念ですが、裏側(北面)の額は、原爆によって落下した後、どうなったのかは、不明のままです。

この他にも興味ある写真が何枚も展示されていますので、別の機会に紹介したいと思います。

「細工町、猿楽町のことを書いた本があったな」と思い出し、田邊雅章さんの「原爆が消した廣島」を引っ張り出して、先日紹介した森冨茂雄さんの「絵と証言 消えた町 記憶をたどり」ととともにもう一度読み直してみようと思っています。

この企画展は、来年の2月13日まで開催されていますので、ぜひ行って見てください。何か新しい発見があるはずです。パンフレットも貴重に資料です。

いのちとうとし

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2022年10月 2日 (日)

また枯れてしまうのか「アスナロ」の木―被爆者の森

3月16日のブログ「アスナロ」の木が植え替えられました―被爆者の森: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で石川県の被爆者団体から贈られた「アスナロ」の木が、植え替えられたことを紹介しました。

ところが、このアスナロの木が、再びというか三度というか、またもや枯れ死の危機にさらされています。

先日、被爆者の森の木を管理する広島市中区維持管理課に別件で訪れたところ、最後に担当者から残念な話を聞くことになりました。

いいにくそうな感じで「最近は、時々被爆者の森を訪れて、樹木の状態をチェックしています。先日訪れた時に気がついたのですが、3月に植え替えたアスナロの木の上部が、茶色くなっていました。枯れ死させてはならないと思い、応急措置として水をやったりして何とか元気になるように気をつけていますが、どうも様子が変なのですよ。今後も継続して養生することにしていますので、もう少し様子を見たいと思っています。まだ様子を見ている段階ですが、枯れ死ということも考えなければなりません。」との話です。

私が、「枯れればまた植え替えてくれますよね」と問うたところ、「もちろんそうしますが、今回は、少し原因を考えなければならないと思っています。例えば、アスナロそのものが、広島の気候に合わないのか、苗木に何か問題があるのか、土壌の問題か?色々と考えられますので、今度はそこをはっきりしたうえで、次の手立てを考えなければならないと思っています。」

この話を聞きながら思い出したことがあります。昨年の植え替えに立ち会った時、苗木を植えるために掘られた穴の縁の土には、壊れた瓦のような瓦礫があったような気がします。

そのことを担当者に伝えると「そのことも充分に考えられます。周囲の土壌が悪いため根が張らないことが原因かもしれませんので、そのことも含めて原因をはっきりさせたいと思います。」

昨日、ある行事に参加して被爆者の森付近を訪れる機会がありましたので、アスナロの木を見に行きました。

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先日、担当者から聞いていた状態よりも、もっと樹勢が弱っているように感じました。葉が枯れて茶色となっている部分が多くなっていますし、茶色になっていない葉も、植栽時の鮮やかな深緑の色が失われ、灰色っぽくなっています。

広島市の担当者は、「これからも、何度も現地に行き、状態を確認しながらできる対応をしていきたい」とのことでした。何度か枯れた木ですので、担当者の適切な措置で、樹勢が何とか回復することを祈るばかりです。

いのちとうとし

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2022年10月 1日 (土)

不思議な石碑

平和公園には、世界各地、国内各地から贈られた樹木が茂っています。

これらの樹木には、これまでに何度かこのブログでも紹介しましたが、QRコードのついた「説明版」が付けられ、その由来が分かるようになっています。

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最近平和公園を散策していて気付いたのですが、この「説明版」とは別に、寄贈者が置いたと思われる石碑がいくつかあります。

ところが、原爆資料館と国立追悼祈念館の間の緑地帯で、石碑はあるのですが、それに該当すると思われる樹木が見つからないものがあることに気づきました。

その一つが、国立追悼祈念館のすぐ南側にある昭和36年(1961年)に西ドイツ教授団から贈られた「オーシュナラ」の石碑です。

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石碑の後方には、該当する木がありません。裏側に廻ってみましたが、それらしき樹木の痕跡も見つけることができません。

この石碑の少し南側には、昭和50年(1975年)に長崎市から送られて「ナンキンハゼ、アジサイ」の石碑があります。

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この石碑の後ろにも、それらしき樹木が見当たりませんが、すぐ左後ろに緑色のコーン3本で、保護されているような様子が見えますので、後ろに廻ってみました。

このコーンで囲われた部分の地表に、樹木の切り株の根元部分が残っており、そこに小さな緑のものが目に付きます。

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近づいてよく見ると、切り株と思われる部分の写真の手前に、複数の発芽が見えます。株の様子からナンキンハゼの切り株だと想像できます。

実は、この石碑は一週間ほど前に気づき、一度写真を撮ったことがあります。

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この時の写真には、石碑の左側には、コーンは映っていません。後ろに廻って切り株らしきものが残っていることは確認したのですが、この切り株が該当するのかどうかは判別できませんでした。もちろん芽が出ていることは全く気がつきませんでした。

この10日間の間に、ひこばえと思われる芽が出たことに誰かが気付き、広島市がコーンを置いて保護することになったと思われます。

この二つの石碑に刻まれた3本の樹木は、枯れたり折れたりしたものと思われます。

平和公園に供木として植えられた樹木は、植樹後は広島市に寄贈され、広島市が管理することになっています。

これらの樹木が、いつ枯れたのか、その後の対処はどうしようとされているのか、樹木が元気だったころの写真はないのかなど、詳しい情報を知りたいと思い広島市の担当課である公園維持課に問い合わせたところ、「全てをお答えするのには、少し時間がかかるので持ってほしい」との返事がありました。

このすぐ近くにある「峠三吉の碑」の後ろ側にあるバラの木も、その棚の大きさに比べ、新しく植えられたと思われるやや小さめの1本しか残っていません。これも気になりましたので、このことも一緒に問い合わせています。

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これまでの問い合わせに対しては、担当者には丁寧に対応していただき、いくつかの情報を得ていますが、誤解を与えることがあってはいけませんので、きちんとした情報は、広島市からの回答を待って紹介したいと思います。

この日の散策で、意外なものを見つけました。

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曼珠沙華の花です。後ろに写っている建物はレストハウスです。こんな場所で曼珠沙華を見つけたのは初めてのことですので、写真を1枚撮りました。

いのちとうとし

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