ベトナムの歴史(その15-1)
フランスによる植民地支配-1
今号からフランスの植民地下のベトナムを見てゆきたいと思います。
ベトナムは1884年にフランスの植民地にされますが、実際は遡ること37年、1847年のフランス艦隊によるダナン攻撃から侵略が始まります。日本軍の仏印侵攻(1940年~1945年)時、日本軍の「明号作戦」(注1)で主権を奪われた1945年3月から日本の敗戦までの僅かな期間を除き、その支配は1954年5月のディエンビエンフーの戦いで敗れるまで続きます。
その間の過酷で残忍な植民地支配に抗するベトナム人民の戦いは、実に107年にも及びます。
フランスの植民地支配の実態を1905年に来日中のファン・ボイ・チャウ(注2)が著した『ヴェトナム亡国史』(平凡社)から紹介します。チャウは「〔はじめに〕で当時の人口について述べています。フランス人が作った徴税する対象者の名簿(捜銀の帳簿)でサイゴン省が1000万人、トンキン(東京、現在のハノイ)、ユエ(順化、現在のフエ)、その他の地域が1500万人、合計2500万人としています。しかし、主要な機関があり捜銀(徴税)が厳しいサイゴン省を除き、他は重い捜銀(徴税)から逃れるため人々は家族の人数を隠し、加えて正確さを欠いたフランスの調査のため実際の人口は4000~5000万人だったとのことです。
ファン・ボイ・チャウ
(注1)明号作戦
1940年9月に仏領インドシナに日本軍が進駐。日仏両軍によるインドシナ統治が進められていたが、1945年3月9日に日本軍がフランス総督府を襲い、インドシナ半島を日本軍が完全に支配下に置いた作戦。「仏印武力処理」と呼ばれている。
(注2)ファン・ボイ・チャウ
10代の頃から反仏独立運動に参加したベトナムの民族主義運動で独立運動の指導者。ベトナムの青年を日本に留学させる東遊運動(ドンズー運動)を興し来日。日仏協約により国外退去、フランス官憲に逮捕される。1940年に軟禁先のフエで死去。
『ヴェトナム亡国史』は来日中の1905年に書かれた。
僅か5000のフランス軍、ベトナム人支配の構造
そのベトナム人を支配するのは5000人足らずのフランス軍、その下に40万人のベトナム兵を従えていました。一体、どうやって僅かなフランス兵が40万ものベトナム兵を従わせ、1万倍近くも多いベトナム人を支配することができたのか・・・・?
私だけでなく誰もが持つ疑問でしょう。
この疑問にファン・ボイ・チャウはこう答えます。フランスに手向かい一家族ことごとく殺された高級官人試験合格者(進士)である宋維新(トン・ズ・タン)。山に入り義士を募って11年間抵抗を続け、その間に父母と叔父の墓をあばかれ、息子を火あぶり刑に処され、自身も死後、死骸が火あぶりにかけられた同じく進士の潘廷逢(ファン・ディン・フン)などの実例をもとに、「フランス人が、われわれヴェトナム人を縛りつけるのに用いているやり方というのは、ほかでもありません。一族、皆殺しです。墓あばきです」と記しています。
フランスが1896年に建設し1954年まで使われたホアロー監獄です。植民地支配に抵抗するベトナムの政治犯を収容し、多くの活動家が処刑されました。
少し長くなりましたので、つづきを明日紹介します。
(2022年9月20日、あかたつ)
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