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2022年9月

2022年9月30日 (金)

2022.9月のブルーベリー農園その4

彼岸の23日から25日までの3連休も安芸区の自宅から東広島市豊栄町のブルーベリー園に農作業で通う。

3日間の作業のメインはブルーベリー農園全体に緑肥用の種をまくこと。これまでただ一度だけレンゲの種を少しまいたことはあるが、農園全体に緑肥用の種をまくのは初めて。栽培しているブルーベリーにはここ2年間肥料は一切やっていない。代わりに緑肥の植物を茂らせて窒素などを取り込もうという目論見。今年実ったブルーベリーも甘くておいしいとの声を頂いているのでその味が持続でできるためにもうまく芽が出て茂ってくれればいいのだが、結果は来春になるまで我慢。

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923日(金)

農園全体は、これまで雑草が生えるに任せておいて、ひたすら草を刈る方法で栽培してきたが、いろいろ勉強して、今年は秋にカバークロップ(被覆作物)というか緑肥というかの種を購入してまいてみることにした。写真の種はレンゲ、赤クローバー、クリムソンクローバーを混ぜたもの。重さで約2キロある。

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大根はブルーベリーの木と木の間に種をまいて伸びるに任せる方法でやってみる。太ったダイコンも窒素を固定してくれるので肥料代わりになるそうだ。こちらは2種類で少しだけ実験してみる。他にもカラシナ、菜の花、赤ソバ、6種類のミックスされた種(えん麦、赤クローバー、クリムソンクローバー、イタリアンラグラスなど)を3日間かけた農園にまいた。不耕起で土をかけることができないのでどれほどの種類の芽が出るかはわからないのだが・・・。とにかくまいてみた。要は農園の植物の多様性を生み出したいため。そうするとミツバチなどの生き物の多様性の連鎖につながるはず。

 

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農園の家の池の小型のスイレンの花がひとつだけ咲いた。

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彼岸なので、妻の両親の墓参りの折にすぐ近くにあるため池に行ってみる。大きな鯉がゆっくり泳いでいた。

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種をまく作業とは別に夏中できなかった小さな畑の草取りを行う。

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924日(土)

赤トンボ2態

①種をまきに畑に入る。入口の電気柵にとまっている。こちらは羽の先が黒い。

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②この日の種まきがすんで竹の支柱にとまっている赤トンボが目に入りそっと近づき撮影。夕陽でひときわしっぽが赤い。

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小さな畑の草取り。まだ半分の広さが残った。

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同じ畑にある富有柿が少し黄色くなっている。もぐのはもう少し待ってからに。

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925日(日)

この日は一人で農作業。種まきが終わって残った種は安芸の郷の2つの建物の庭や屋上にまいてみることにする。車に剪定でためていたブルーベリーの枝を積んで森の工房みみずくに持ち帰る。枝を短く切ってサンタクロースの人形に加工する材料などに使う。 

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年9月29日 (木)

安倍元首相の国葬と「沖縄南西諸島は今・・・進むミサイル要塞化・・・写真展」

広島市まちづくり市民交流プラザ南棟1階ロビーで「沖縄南西諸島は今・・・進むミサイル要塞化・・・写真展」が開催されています。

安倍元首相の国葬が行われた昨日、会場を訪れました。

展示されている写真は、主催者のZENKO(平和と民主主義をめざす全国交換会)広島が、東アジア共同体研究所琉球・沖縄センターと沖縄ドローンプロゼクトの奥間政則さんなどから提供を受けたものです。

南西端の沖縄の与論島から続く沖縄南西諸島、そして奄美諸島の馬毛島に至る島々で進むミサイル要塞化、軍備増強の実態を知ることができる写真展です。

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中国の海洋進出を口実に日米韓、オーストラリ、インド、英仏などによる中国封じ込めの最前進基地として九州南方から台湾北方にかけて約1,200kmに連なる島嶼群に、日米によるミサイル要塞化が進められている実態を知ることができます。

馬毛島、与那国島、宮古島などなど個別の軍事基地建設の問題、そして住民の反対運動などについては、いくつかの講演会などを通じて知っているつもりでしたが、全ての島々で進む軍事基地化の事実を一体のものとして明らかにしているこの写真展が示す事実は、私の想像をはるかに超えるものです。

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それぞれの島の軍事要塞化の実態は、どれだけ国民に知らされているのでしょうか。

先の大戦で、国内唯一の戦場となった沖縄が、再び本土の砦としての役割が押し付けられようとしています。そそれは、いったい誰が推進してきたのか?平和憲法を踏みにじり、軍備増強・戦争をする国づくりを進めてきたのは、安倍元総理です。それは、アメリカの戦争に日本を巻き込む道に他なりません。この写真展は、安倍元首相が国葬にふさわしくない政治家であったことを如実に示しています。

「安倍元総理の国葬」は、安倍元総理が進めてきた軍事大国化への政策にお墨付きを与えることにつながるのではないでしょうか。なぜ、私たちが「安倍元総理の国葬」に反対したのか、反対しなければならなかったのか、国葬が終わったとしても、そのことは言い続けなければなりません。

この写真展は、明日(30日)まで開催されています。ぜひ今沖縄南西諸島で起きている事実を知るためにも会場を訪れてほしいと思います。

いのちとうとし

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2022年9月28日 (水)

安倍元首相の「国葬」実施に抗議行動―府中地区 

国民の半数以上が反対しているにもかかわらず、実施された安倍元首相の「国葬」に対して安保法制に反対する府中市民の会で抗議行動を取り組みました。

「国葬」が始まる午後2時より前からはじめようということで、午後1時から上下町Aコープ前で、府中天満屋店前は30分過ぎた2時30分から行いました。

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上下地区

リレートークとスタンディングは今回も新しい人が駆けつけてくださり上下は12名、府中は16名の参加でした。

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府中地区

リレートークでは、「先の戦争の反省で『国葬』は国民を戦争にかりたてるものだということで『国葬』という法律は廃止されたこと、そうした歴史的経過を無視して行ったこと、国会審議もなかったことは国会無視の安倍政治そのものであり許せない」というアピールがありました。

また、「国葬」の中で自衛隊音楽隊が演奏する3曲は非常に問題です。一つは靖国神社の歌「国の鎮め」で先の戦争を反省しているのなら演奏されないはずです。次は「悠遠なる皇御国(スメラミクニ)」、つまり幾久しい天皇の治める国という曲で、主権在民であるこの国にはふさわしくない曲です。そして東日本大震災復興キャンペーンソング「花は咲く」ですが政府のトップ・首相として多くの方が生まれ故郷に帰れなくなった原発事故の反省がみられません、という発言は印象的でした。

「国葬」が終わったからと言って、問題が解決したわけではありません。特に安倍元首相の憲法無視の政治、統一協会との関係など引き続き問い続けていきたいと思います。

小川敏男

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2022年9月27日 (火)

被爆77周年原水禁世界大会第3回広島県実行委員会を開催

広島県原水禁は、昨日午後6時から自治労会館で被爆77周年原水禁世界大会第3回広島県実行委員会を開催しました。その前段として、午後5時から県原水禁常任理事会を開催しました。

いずれの会議も、8月4日から6日に開催された被爆74周年原水禁世界大会広島大会の総括案が協議されました。

秋葉忠利代表委員のあいさつの後、高橋事務局長からは、中央実行委員会が提示している「被爆77周年原水禁世界大会総括(案)」が提起されました。

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以下に昨日の会議に提案された総括案のうち、広島大会に関する部分を抜粋して紹介します。

【大会参加】

福島大会400人(74大会650人)、広島大会開会総会1200人(74大会1900人)、長崎大会開会総会800人(74大会1800人)、国際シンポジウム40人(74大会60人)となりました。3年ぶりに従前までの規模での開催をめざすとしながらも、7月8月の全国的な新型コロナウイルス感染状況は、第7波とも言われる感染者増により、大会参加に戸惑いが生じたことも事実です。また宿泊については、感染症に配慮する観点から、シングルユースを基本とした案内を旅行社が行っていることにより、現地に行きたくても宿泊の確保が難しい状況となりました。そして、3年ぶりの人数制限のない大会となったことから、各都道府県、中央産別ともに事務局が初めての経験となったところも多く、参加体制確立に向けた戸惑いも聞かれました。

また、オンライン配信と対面開催とのハイブリッド型を模索してきました。オンライン配信については、準備と費用、人員が相当必要であること、通信環境を一律に整えることが困難なこと、今大会で「再び原水禁運動の熱を感じる」ためにはオンラインでは十分ではないことから、福島大会と広島での国際シンポジウムのみ実施し、その他開会総会や分科会についてはアーカイブでの配信としました。まずは、対面での開催が3年ぶりに実施できたことにより、原水禁運動は確実に歩みを進めていることを参加されたみなさんと確認することができました。

【子ども、若者の取り組みについて】

これまで広島で開催してきた「メッセージfromヒロシマ」は被爆の実相を次世代へ継承するうえで重要な取り組みでした。その価値は普遍でありながらも、現状では安心して子どもたちを多数集める状況にはないことから、今大会では開催を見送り、次年度以降の開催をめざすこととしました。

【参加拡大に向けて】

大会運営の基本ルールである「反核・非核で一致する」すべての人々に開かれたものとし、さまざまな立場の人たちが共同できる場としていくためにも、新規参加者および一般参加者の増加を見通した大会運営を心掛けていく必要があります。これまでの大会同様、7割以上の参加者が初参加となったように、今大会を原水禁運動の入口と捉え、広範な市民運動として発展させていくうえでも、大会内容の工夫については模索し続けていく必要があります。

以上のような提案を受け、意見交換を行いました。

主に分科会の進め方の問題点、核兵器禁止条約と核拡散防止条約の関係をどう考えるのか、岸田首相のNPT再検討会議でのあいさつの問題点、来年のG7等に対し、広島としての明確な態度を示す必要がることなどの意見が出されました。

広島大会は、3年ぶりの対面方式による大会開催となりましたが、県原水禁常任理事、そして各労働組合の協力によって、無事大会を成功させることができたと思います。また危惧されたコロナ感染も可能な限りの感染対策を行い、無事大会を終えることができました。

広島県実行委員会は、昨日の会議をもって解散することを決めましたが、今後10月いっぱいに総括に関わる意見をまとめ、12月に予定されている中央実行委員会の最終的な大会総括に向けて広島の意見が反映するよう努力することを確認しました。

いのちとうとし

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2022年9月26日 (月)

森冨茂雄作「消えた町 記憶をたどり」原画展

中区平和公園内にある被爆建物レストハウスの2階で、被爆者の森冨茂雄さんが、被爆前の原爆ドーム周辺の街並みを鉛筆で描いた絵の原画展が、30日まで開催されています。

平和公園とその周辺を歩くフィールドワークを実施しているヒロシマ・フィールドワーク実行委員会が森冨さんと出会ったことがきっかけとなり、この鉛筆画が同実行委員会によって2011年8月5日に画集として発行されました。

私は、第3刷となる2018年9月15日判を持っています。せっかくの機会ですので、台風通過後の20日に見に行ってきました。

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会場内は撮影禁止ですので、受付の人に断り、入り口の外から写しました。

会場には、最初にこの原画に関わる説明を書いたパネルが3枚架けられています。1枚目のパネルには、次のように記載されています。

森冨茂雄(1928.8.12~2021.11.11)

「絵はまったく素人でしたが、みんなが絵を見てくれていろいろ話したり、なつかしがったりするんで、次から次へと描いたんです。

絵は子ども心に見た感じを、記憶を頼りに描きました。被爆の絵というのは、むごいからほとんどありません。遊びよったころの楽しかった自分の絵を描いたんです。」

さらにこの原画展の主催者でもあるフィールドワーク実行委員会の文章が続きます。

「レストハウス(元大正屋呉服店)は『記憶の場』です。少年だった頃の森冨さんは、隣のラヂオ屋から流れてくる歌をおぼえ、裏の桜湯でミカン水を飲み、新聞紙に包んだ一銭洋食にかぶりついたのも近所でした。今回の展示には、大正屋呉服店から眺めた光景の絵(8番や10番)や大正屋呉服店そのものを描いた絵(29番)なども含まれています。森冨さんの絵の細部にやどる人への愛おしさを感じ取って下さい。」

( )内の番号は、原画集に納められた絵の番号と同じです。

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ちなみに8番は、「昭和20年8月 原爆前の元安川東側」10番は、「昭和18年頃、元安橋より本通りご丁目入口」、29番は「昭和15年頃 元安橋~中島本町 現在の平和公園」のタイトルが付けられています。そして会場入り口で手渡された印刷物には、画集に書かれた本文(当時の街の様子や生活を紹介)の抄録したものが印刷されています。

この文章は、ヒロシマ・フィールドワーク実行委員会の中川幹朗さんが、森冨さんの話をもとに書いたものだということが、画集に書かれています。

森冨茂雄さんは、被爆時の年齢が12歳です。ここに描かれた絵は、被爆以前の風景であるにもかかわらず、記憶のみによって詳細に描かれているにもかかわらず、ち密に描かれていることにびっくりします。

画集には、43枚の絵が収録されていますが、今回の原画展では、うち26枚が展示されています。

30日まで開催されていますので、ぜひこの絵と対面してほしいと思います。きっと新しい発見があるはずです。

いのちとうとし

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2022年9月25日 (日)

中国電力、1,390億円の赤字を予想

9月13日、中国電力の瀧本夏彦社長が記者会見を行い、来年3月期の決算予想として「1,390億円の赤字と」発表しました。まず9月のこの時期に、来年3月期を発表するというのに驚きました。発表するとしても、今年度の中間決算が出される10月以降だと思っていたからです。過去最大の赤字額としています。

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中国新聞 2022.9.14より

赤字の原因は燃料費の高騰としています。これも「過去に例がない」としています。確かに火力発電の燃料であるLNG(液化天然ガス)などの化石燃料は値上がりしていますが、赤字の原因はこれが唯一のことでしょうか。

このブログにも何度か書いていますが、全国の原発を所有している9地域電力会社の中で、再稼働(島根原発2号機)、建設中(島根原発3号機)、廃炉(島根原発1号機)、新設(上関原発1・2号機)など、原発問題オンパレード会社は中電だけです。ついでに言えば、この年末にも運転開始が予定されている浜田市の三隅火力2号機にも、大金をつぎ込んで建設しています。

島根原発2号機の再稼働への「安全対策」費用、現時点で公けになっているだけで6,000億円以上とされています。上関原発計画は計画浮上から40年ですが、この間にいくらのお金を使ったでしょうか。公けには約690億円とされていますが、そんな少額ではすまないでしょう。

この程度の電力会社の「この程度」という意味は、電力販売量などのことですが、沖縄を除く9電力会社の中で真ん中より低いところに位置する中電ですから、資金調達的にも技術的にも無理なのです。

 島根原発2号機が再稼働したら1日1億円の収入になるとしていますが、点検もしないで1年365日稼働したとしても365億円、運転開始は1989年7月ですから、40年という運転年数を考えたら残り7年です。1年に365億円×7年で2,555億円の収入でしかなりません。明日から動かしたとしても、定期点検を実施しないとしても6,000億円にはなりません。

中電に言わせれば安全対策は、3号機にも関連しているとするでしょうが、それはまさに「取らぬ狸の皮算用(とらぬたぬきのかわざんよう)」でしょう。

中電のこの10年間の収益のグラフを見ると、2020年は1,000億円近い増益になっていますが、これは決算の計算方法が変更されたことによるものです。

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中電はこれからどうするか? とりあえず「自由化料金」といわれている、中電の裁量で値段を引き上げることのできる「スマートプラン」の料金や、深夜割引き、オール電化割引き料金を引き上げるでしょうね。

年末のボーナスも下げるでしょうが、この赤字の原因は働いている社員の責任では決してありません。繰り返しになりますが、身のほど知らずの金を使っている政策の誤りからです。中電に言わせれば「国の指導に従った」というでしょうが、これで許されるということはありません。

今年の株主総会で、取締役などの役員報酬を個別に明らかにすることを求める株主提案議案を出しました。この議案には、20パーセントを超える株数が賛成してくれました。こんなことはこれまでに無かったことです。

負けるのは分かっているのにパチンコや賭け事などにはまり込んで、抜くに抜けない状態で家庭を崩壊させるのと、似ているなあーと思っていました。

木原省治

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2022年9月24日 (土)

「岸田首相は安倍国葬をやめよ!9・23広島デモ」

全国各地で9月27日に予定されている「安倍国葬」の中止を求める様々な行動が展開されています。東京では、9月19日に「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会/さようなら原発・1000万人市民アクション実行委員会」が共催し、代々木公園で「安倍元首相国葬反対!改憲発議と大軍拡やめろ!さようなら戦争さようなら原発919大集会」が開催され、雨にもかかわらず13,000人が結集し、デモで訴え、多くの共感を呼んだと報告されています。

昨日、広島でも5人(秋葉忠利 (前広島市長)、石川幸枝 (保育者九条の会)、小武正教(念仏者九条の会)、岡原美知子(日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワーク)、山田延廣(広島県市民連合代表))の呼びかけで、「岸田首相は安倍国葬をやめよ!9・23広島デモ」が行われました。台風のため19日の街頭アピール行動が中止となった「戦争させない、9条壊すなヒロシマ総がかり行動実行委員会」も急きょ、このデモ行動を協力して取り組むことを決めました。

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午後1時原爆ドーム前に集まった参加者によって集会が開催され、呼びかけ人の小武さん、岡原さん、山田さんが、それぞれの立場からあいさつ、その後立憲民主党、共産党、社民党の各代表が、連帯をあいさつを行いました。新社会党も予定していましたが、到着が遅れたため、紹介だけになりました。

集会が少し伸びたため、出発予定時間の午後1時半を少し過ぎましたが、デモがスタートしました。

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デモ行進は、呼びかけ人が持つ「安倍元首相の「国葬」中止を求めます」の横断幕を先頭に進みました。その他にも「「岸田首相は安倍国葬をやめよ!」の横断幕も準備されています。  さらに、参加者がそれぞれに準備したプラカードが、掲げられています。

行進参加者は、「安倍『国葬』に反対しよう」「安倍『国葬』を中止せよ」「『国葬』は憲法違反だ」などのシュプレヒコールをしながら、道行く人に訴えました。

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デモコースは、電車通りに出た後、紙屋町交差点を右折し電車通りを南進し、本通電停前を左折して本通を東進、パルコ前を左折し電車通りに出た後右折し八丁堀交差点を左折して岸田文雄事務所前まで行進し、「岸田首相は、安倍国葬を止めろ」などのシュプレヒコールを行って流れ解散となりました。

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参加者は、主催者の発表では300人でしたが、デモの責任者は「数えたら400人委て驚いた」と言っていました。400人と言ってもおかしくない参加者数だったと思います。

いのちとうとし

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2022年9月23日 (金)

2022.9月のブルーベリー農園その3

17日からの3連休のうち東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から農作業に行けたのは18日だけだった。春から一度も草刈りをしなかった農園の管理するため池の堰堤、のり面の草刈りを行う。背丈ほどのセイタカアワダチソウ、3mくらいに伸びた竹というか笹がなどを刈る。ブルーベリーの実はほとんど摘み取られたが、部分的に実が残っている木があるのでテーブルや椅子、テントタープなどを片づける合間にブルーベリーの実をつんだ。誰も来ないのですっかり静かになった。919日(日)は台風が広島県を通ったので農園行きは見送り、21日に農園に様子を見に行ったが被害はなかった。

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918日(日)

17日の土曜日は用事があり農園での作業は休み。里山の入り口にはヒガンバナが満開。

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里山の西側でのブルーベリーの摘み取り。

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昼ごはん時に、枝ごと切った実のついたブルーベリーも持ち帰ってよく熟れた実だけをもぐ。昼食後、このテーブルも椅子も解体して倉庫に保管した。

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午後から農園が管理しているため池の草刈りを行う。堰堤も法面も伸びに伸びたススキ、セイタカアワダチソウ、3mもある笹などがびっしり。

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ススキは赤い色の穂先が見える。白い穂になるのはまだ先。

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写真左が池。堰堤、のり面を2人で刈る。

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さっぱりした堰堤。池の中にはスイレン?の葉がたくさん浮いている。夏に花が咲いたのかどうか見に来ていないのでわからない。

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ブルーベリーの植えてある畑の中で。

①、カタバミ

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②、ブルーベリー畑の地面すれすれに咲くヨメナ

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③、赤とんぼ

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農園の花壇のカクトラノオ。穂の下からだんだんと咲きあがり、この季節、とうとう一番上まで上り詰めて咲いた。残りは蕾一つだけ。

 

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年9月22日 (木)

府中地区の19日行動

府中地区の19日行動の模様が小川敏男さんから届きました。

【府中地区】

安保法制に反対する府中市民の会の19日行動は、今まで経験したことのない台風が来ると言うことで19日を21日(水)に変更して行いました。

午後3時から上下交差点前で14名の参加、午後4時30分から府中天満屋店前で17名の参加がありました。

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上下の行動(小川敏男さん提供)

上下はこれまで上下Aコープ前で行っていましたが、店舗改装のため使用できず、場所を変更しました。すぐ近くに住宅がありましたので、今月はスタンディングだけとなりました。

府中ではいつも通りマイクを握っての行動を展開しました。

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府中の行動(石岡真由海さん提供)

今月も先月に続き安倍元首相の「国葬」反対で行いました。昨日はどこで支度したのか大きな紙に「国」「葬」「反」「対」と書いてもってくる、幟、プラカードもあり、さらに参加者も多くて「国葬」は許せんと言う意気込みを感じました。そして、市民の方が車の中から手を振ってくださる方も多かったです。

発言では、①「国葬」を法律がないのに行おうとしている問題、②国会審議がされていない問題、③安倍元首相には資格がないなどなどが訴えられました。

毎日新聞が9月1718日に行った世論調査では、安倍元首相の国葬に賛成が「27%」、反対が「62%」となっています。
なんと国民の半数以上、60%以上の人が「国葬」に反対しているのですから、「何をか言わんや」です。岸田首相は「国葬」を即、中止するしかありません。

行動終了後、「国葬」当日の27日(木)にも抗議行動を行うことを決めて解散しました。

小川敏男

【編集者】19日は台風の影響で、どこも「19日行動は中止」になったものと勝手に解釈し、原稿のお願いをしていませんでしたが、府中から以上のような報告が届きました。「国葬反対」の幟を作ったのですね。

いつも一緒に報告を掲載している三原の行動は、確認が取れていませんので、実施されていたら、改めて紹介します。

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2022年9月21日 (水)

ベトナムの歴史(その15-2)

フランスによる植民地支配-1つづき

19種類の税」といわれていますが、実際はその数倍の重税

 フランスによる過酷を極めた搾取と収奪は、「その搾りとる名目の数々はこまごまとして、すべてを言うわけにたえないからその大きなものをあげて、わが輩(ともがら)に聞いていただきたい」と、〔3.フランスのベトナム支配の実情〕を書き進めています。

  • その1田畑税=土地を上等・中等・下等3ランクに分け課税。課税対象の田畑は増えず荒地が増えたことから、税を重くし荒れ地を耕せざるを得ないように追い込み、増えた田畑に課税。最もあくどいのは土地簿の面積を水増改ざんする。
  • その2人頭税=公捜銀と呼ばれ成年男子一人につき毎年金2元2角。人頭税のほかに労役税(公益銀)毎年八角、計3元。しかも毎年のように増額される。
  • その3家屋税=上等(年90100元)・中等(5060元)・下等(2030元)の3ランク。家屋の梁から窓、戸まで別に税がかけられ、さらに家の前後は「堂軒税」、軒の下は「庭税」、庭の外は「門欄税」、門の外は「園居税」がかかります。
  • その4渡頭税=数尺幅の河川でも渡し場で徴収。大きな渡しは一回毎に銀3040文、小さな渡しは銅銭3040文。
  • その5生死税=子どもが生まれるとフランスの役所で出生を届け、「初丁税」(2元)を払う。死亡した時には役所に検死願を出し、「官験税」(5元)払う。

チャウの記述は〔その19・煙草・小売税〕まで続きます。「19種類の税がかけられていた」とよく言われますが、その中身は決して19種類どころではありません。その数倍以上です。

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1890年後半のアジアの植民地

1894年の日清戦争後、日本は対話を割譲し西欧列強と共に植民地支配国になりました。

妻子を売って「天」を買い戻した村人

チャウは、「ここに、一つ泣いてよいのか、笑ってよいのか分からない小さな出来事がある」と、次の話を書いています。ある村があった。盛んな時は壮丁(そうてい)(注3)の人数が多かったが、兵火のためその大半を失った。しかしフランスは戸籍を増やすことはあっても減らさない。村は赤貧洗うが如く、公捜銀・公益銀(注4)を払おうにもどうにもならない。

皆で集まり相談したが、「ここまで追いつめられては、もう天に逃げることもできないし、地にもぐる術もない。連れだって保護管に訴え出て、焼くなり煮るなりしてもらおう」と泣訴に及びます。

ところが、保護管は「お前たちはどうして妻子や家や土地を売り払わないのか!」と責め立てます。

村人は慌てて、考えもなく泣き声をあげ「妻子も売りました。家も売りました。土地も売りました。売っていないのは頭の上の天だけでございます」

保護管は、「なるほど、なるほど、お前たちは天をまだ売っていないのだな。ならば、その天を俺に売ってくれ」と、村人に「天を売る」という証文を無理矢理書かせ指判を押させます。

書き終わると村人は追い返され、「役人はどうするつもりだろう」と話しながら村に帰りました。

ところが、村に帰り着き家にも入らない間に、一隊の警察兵が村をびっしりと取り囲みました。

そして、「お前たちからこの村の天を買った。だから天の下を歩いたり、天の光を浴びてはならぬ。家から顔をのぞかせば死罪だ」と、水も漏らさぬ見張りの下におかれます。

進退きわまった村人は哀訴し、村の上の天を購い戻すことを乞いました。

こうして本当に妻子を売り、家を売り、土地を売って、やっと捜銀を納め、天の下に住めるようになったとのことです。

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この写真は文中とは関係ありませんが、ベトナムの著名な画家、ター・トゥック・ビンが描いた1960年代の農村の風景です。

その頃、「何がなくとも青空だけは、やはりなしでは済まされぬ。妻も子も田畑も売って、買い戻してはみたものの、おいらにゃ冷たいお天道様よ」という俗謡が歌われたとのことです。

笑ってよいのでしょうか、泣いてよいのでしょうか・・・・・皆さんはどのように思われますでしょうか。

恐らくその答えは、107年にも及ぶ不屈の抗仏闘争を闘い抜き、1954年5月にその支配を打ち破ったベトナムの人たちの心の中にあると思います。しかし、フランス撃退で終わりではありませんでした。フランスに代わってアメリカが侵攻し、1975年4月30日までベトナム戦争が続きます。これらは後々見てゆきたいと思います。次号では、抗仏闘争を見てゆきたいと思います。

(注3)壮丁  成年に達した男子、血気さかんな働きざかりの男子、壮年の男子。

(注4)公捜銀・公益銀   頭税と労役税

(2022年9月21日、あかたつ)

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2022年9月20日 (火)

ベトナムの歴史(その15-1)

フランスによる植民地支配-1

今号からフランスの植民地下のベトナムを見てゆきたいと思います。

ベトナムは1884年にフランスの植民地にされますが、実際は遡ること37年、1847年のフランス艦隊によるダナン攻撃から侵略が始まります。日本軍の仏印侵攻(1940年~1945年)時、日本軍の「明号作戦」(注1)で主権を奪われた19453月から日本の敗戦までの僅かな期間を除き、その支配は19545月のディエンビエンフーの戦いで敗れるまで続きます。

その間の過酷で残忍な植民地支配に抗するベトナム人民の戦いは、実に107年にも及びます。

フランスの植民地支配の実態を1905年に来日中のファン・ボイ・チャウ(注2)が著した『ヴェトナム亡国史』(平凡社)から紹介します。チャウは「〔はじめに〕で当時の人口について述べています。フランス人が作った徴税する対象者の名簿(捜銀の帳簿)でサイゴン省が1000万人、トンキン(東京、現在のハノイ)、ユエ(順化、現在のフエ)、その他の地域が1500万人、合計2500万人としています。しかし、主要な機関があり捜銀(徴税)が厳しいサイゴン省を除き、他は重い捜銀(徴税)から逃れるため人々は家族の人数を隠し、加えて正確さを欠いたフランスの調査のため実際の人口は40005000万人だったとのことです。

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ファン・ボイ・チャウ

(注1)明号作戦

1940年9月に仏領インドシナに日本軍が進駐。日仏両軍によるインドシナ統治が進められていたが、1945年3月9日に日本軍がフランス総督府を襲い、インドシナ半島を日本軍が完全に支配下に置いた作戦。「仏印武力処理」と呼ばれている。

(注2)ファン・ボイ・チャウ

 10代の頃から反仏独立運動に参加したベトナムの民族主義運動で独立運動の指導者。ベトナムの青年を日本に留学させる東遊運動(ドンズー運動)を興し来日。日仏協約により国外退去、フランス官憲に逮捕される。1940年に軟禁先のフエで死去。

『ヴェトナム亡国史』は来日中の1905年に書かれた。

僅か5000のフランス軍、ベトナム人支配の構造

そのベトナム人を支配するのは5000人足らずのフランス軍、その下に40万人のベトナム兵を従えていました。一体、どうやって僅かなフランス兵が40万ものベトナム兵を従わせ、1万倍近くも多いベトナム人を支配することができたのか・・・・?

私だけでなく誰もが持つ疑問でしょう。

この疑問にファン・ボイ・チャウはこう答えます。フランスに手向かい一家族ことごとく殺された高級官人試験合格者(進士)である宋維新(トン・ズ・タン)。山に入り義士を募って11年間抵抗を続け、その間に父母と叔父の墓をあばかれ、息子を火あぶり刑に処され、自身も死後、死骸が火あぶりにかけられた同じく進士の潘廷逢(ファン・ディン・フン)などの実例をもとに、「フランス人が、われわれヴェトナム人を縛りつけるのに用いているやり方というのは、ほかでもありません。一族、皆殺しです。墓あばきです」と記しています。

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フランスが1896年に建設し1954年まで使われたホアロー監獄です。植民地支配に抵抗するベトナムの政治犯を収容し、多くの活動家が処刑されました。

少し長くなりましたので、つづきを明日紹介します。

(2022年9月20日、あかたつ)

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2022年9月19日 (月)

わが家の台風対策

かつてない最強クラスの勢力と言われる台風14号が、今日広島県を通過するということで、広島地方気象台も17日以降何度か記者会見を行い「早め早めの安全確保」を呼びかけています。

「過去に経験したことのないような危険な台風」と言われても、なかなか実感がわかないのですが、テレビで中継される九州方面の様子を見れば、十分気をつけなければという思いになりました。

広島も18日の昼過ぎから少しずつ台風の影響と思われる風が吹き始め、時には突風が吹くときもありました。

わが家の台風対策と言っても、そんなに多くすることはありません。

絶対にしなければならないのは、植木鉢やゴミ箱などベランダにあるものが、風で飛ばされないように家の中に取り込むことです。

わが家のマンションは、周りがビルに囲まれ、東側と北側に2車線の道があります。特に東側の道路上は、ビル風とでもいうのでしょうか、少し風の強い日は、普段でも突風が吹き抜けることがあります。

ベランダは、東南の角にあり、3.4m×2.4mの方形の形をしていますし、フェンスは、網状になっていますので、南からの風は、まともに吹き付けることになります。

風が強くなる前にと、昨日午後1時過ぎからベランダの植木たちを家の中に取り込みました。毎年やっていることですので、手際よく進みます。

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ベランダにあった植木鉢は、数えてみると大きなものから小さなものまで25鉢ありました。

あったものすべてを部屋に入れた後のベランダは、こんなに広かったのかと思える広さです。

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ベランダの取り込みが無事終わりましたので、次は玄関前にある植木鉢2鉢の取り込みをしました。今年は、台風11号に続き2回目の台風対策となりました。

今回の台風、これからどれぐらいの強い風が吹くのか予測できませんが、わが家でできる台風対策は、昨日風が強くなる前に終えることができました。

今日一日、県内で何とか大きな被害が出ないようにと祈りながら、台風が過ぎ去るのを待ちたいと思います。

いのちとうとし

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2022年9月18日 (日)

住吉神社の被爆樹木はやはり2本でした。-その2

一昨日のつづきです。

早速住吉神社の社務所を訪れました。最初は、ドアホーン越しの話でしたが、すぐに宮司さんが社務所に出てこられ、私の問いに丁寧に答えていただきました。

答えは「被爆当時のことを知る者はいなくなったのですが、私が聞いている話では、被爆後残った樹木は、松2本、クスノキ、エノキの計4本です。平成8年から9年にかけて神社を改築しました(金子注:実際の再建は1991《平成8年》)。その時被爆松2本は、移植したのですが、クスノキとエノキは、伐採しました。」ということです。さらに「昭和七年十月聖上陛下記念松の石柱と凱旋碑は、境内からは撤去し別の場所に保管しています。」とのことでした。

この答えを聞いて私が、「こちらには、被爆後の神社の様子が写った写真は保管されていませんか」と訊ねたところ、「こちらには、そんな類の写真は一枚もありません。ただ、広島市が発行した印刷物で、被爆松2本が写った写真と見たことがあります。住吉橋の東橋詰南側では、被爆直後遺体が焼却されたそうですが、その南側から北に向かって(金子注:住吉神社の方向)写した写真だったように覚えていますが?」と教えていただきました。「本の名前は覚えておられませんか」と問うたのですが「どんな本だったか覚えていませんね」との答えでしたが、貴重な情報を得ることができました。お礼を言って、住吉神社を後にしました。

「市が発行した印刷物」との答えを頼りに、すぐにわが家の隣の平和ビルにある広島市公文書館を訪れました。

「市が発行した印刷物に住吉神社の被爆後の写真があると聞いたのですが、何かご存知ないですか?」あまりにも漠然とした問いかけでしたが、すぐに返事が返ってきました。

「1996年に発行した『被爆50周年 ヒロシマの被爆建造物は語る―未来への記録』にひょっとすると何かあるかもしれません」

調べると「吉島・舟入・観音地区―建物・橋・樹木」の項に、「マツ・住吉神社」とタイトルの付いた下の写真がありました。

1955

キャプションには、「住吉橋から本川沿いにマツが並ぶ(1955年頃)」と書かれています。よく見ると、間違いなく川沿いに2本の松が映っています。神社本殿の後ろには、ケヤキかエノキかはっきりしませんが、大きな木が映っています。

写真の右上に移っている斜めの鉄骨は住吉橋の一部だと思われます。住吉橋は、1945年の原爆と水害によって流出し、1951年にコンクリート橋に建て替えられたのですが、その年のルース台風によって再び流失しています。その後新たの工法が検討され、わが国で初めてとなる鋼ローゼ橋が採用され、1954年3月に現在の橋が完成しました。

被爆で倒壊・焼失した住吉神社の再建は、1952年ですので、この写真は再建後すぐの貴重な写真と言えます。

写真では、川沿い2本の松は、かなり間隔をあけて植えられていますので、被爆樹木で間違いないと言えます。もし、松が1952年の再建時に植えられたのであれば、もっと本数が多く並木のようになっていたはずです。

住吉神社の被爆松が何本かを知るため、被爆直後の写真も探しをしました。広島原爆資料館(広島平和記念資料館)の平和データベースで関連する一枚を見つけることができました。

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米国戦略爆撃調査団が、1945年11月に住吉橋の西詰から東方を写したもの(所蔵は米国国立文書館)で、広島平和記念資料館から提供を受けました。

松が1本残っているように見えますが、神社の敷地全体が映っていませんので、これだけでは判断することができませんでした。ただよく見ると、対岸の左側に写る電柱のすぐ左に、7月のブログで紹介した「住吉橋記念燈」が写っていますので、記念燈が、間違いなく被爆したものであることがわかります。

今度の調査で「住吉神社の被爆樹木は松2本でした」という結論に達しましたが、なぜ1971年に発刊された広島原爆戦災誌に「ただ1本、川べりの松が現在まで残っている。」と記録されたのかという疑問は、解明することができませんでした。

いのちとうとし

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2022年9月17日 (土)

安倍元首相の「国葬」中止を求める動きが広がっています 

昨日、心ある元国会議員でつくる「国の乱れを憂うる元国会議員有志の会」が、参議院議員会館で緊急記者会見を開き、「なぜ国葬に反対するのか」の声明文を発表しました。私は、記者会見には参加できませんでしたが、賛同者の一人に加わりました。

記者会見の様子や声明文については、イライザさんが「ヒロシマの心を世界に」で詳しく報告されると思いますので、ぜひそちらを見てください。

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同じ説明を繰り返す岸田首相の委員会答弁

 広島においても「安倍元首相の『国葬』中止」を求める声は大きくなっていますが、戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会も昨日、代表が広島市内にある岸田文雄事務所を訪れ、下記の要望書を秘書に手渡しました。

要望書提出にあたって「国会での首相説明のあとも世論は反対意見のほうが多いのに、国葬を強行しようとする首相の姿勢には、地元有権者として黙っていられない」と強く抗議しましたようですが、秘書は「申し入れの趣旨は首相に伝えます」と答えるのみだったということです。

報道各社が取材に来たり問い合わせしたりしましたが、残念ながら事務所側はシャットアウトしました。


内閣総理大臣 岸田文雄様

  安倍晋三元首相の「国葬」中止を求めます

 厳しい内外情勢のなか日々奮闘されていることに敬意を表します。

 私たちは、憲法とりわけ9条を守り発展させる運動をしています。このたびは、広島の有 権者として、安倍元首相の「国葬」について岸田首相が再考のうえ、中止することを求めま す。 

 首相は、9月8日に国会の議会運営委員会で初めて「国葬」について説明しましたが、そ の後のマスコミ世論調査では反対意見は逆に増えて半数を超え、首相説明が不十分とする人はNHK調査では72%にも達しています。戦争の反省から「国葬令」が廃止され、日本には国葬を定めた法律はありません。内閣の権限で行えると首相は言いますが、世論は納得していません。憲法上では法の下の平等(14条)、思想良心の自由(19条)、信教の自由・政教分離(20条)に違反すると私たちは考えます。このような「国葬」を強行することは将来に禍根を残します。まだ間に合います。ぜひとも首相の英断で中止することを強く求めます。 

「国葬」に反対が多い大きな理由は、安倍元首相と統一協会(現、世界平和統一家庭連合) との関係に強い疑念が出ているからです。安倍氏との関係を調査しない首相(自民党総裁) の姿勢は、私たちには理解できません。自民党が統一協会との関係を断つのなら、発端とな った安倍氏の調査が必要であり、世論もそれを求めています。また岸田派に所属する石橋林太郎衆院議員(比例中国)が、多数の統一協会信者を自民党員として獲得していたとの報道もされています。このことも徹底した調査をし、真実を公表 するよう強く要望します。 

2022年9月16日

戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会


14日に「戦争法強行7年!ヒロシマ総がかり9・19行動」に参加しよう: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で参加を呼びかけた「原爆ドーム前集会」は、台風襲来が予想されますので、中止することになりました。

集会は実施できませんが、19日に開催を予定していた「安倍元首相の『国葬』中止」を求める声をさらに大きくしたいと思います。

いのちとうとし

【編集者】今日掲載を予定していた「住吉神社の被爆樹木はやはり2本でした。-その2」は、明日掲載します。

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2022年9月16日 (金)

住吉神社の被爆樹木はやはり2本でした。-その1

中区住吉町5-10にある住吉神社の被爆樹木について7月18日のブログ住吉神社の由来と被爆―つづき: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で次のように書きました。

「ここで疑問が一つ浮かびます。14日のブログで「広島原爆戦災誌」には、「境内に茂っていた老松もほとんど枯れ死したが、ただ1本、川べりの松が現在まで残っている」と書かれていることを紹介し「覚えておいてください」と書いておきました。「広島原爆戦災誌」は、昭和46年(1971年)11月6日に発行されていますが、「ただ1本」残っていたはずの被爆したクロマツが、なぜ2本になって被爆樹木リストに登録されているのかです。

難しいと思いますが、この経緯が何かわかることがあるのか、広島市の担当課に訊ねてみたいと思います。」

広島市に問い合わせると、すぐに回答が返ってきましたが、その結果の紹介が遅くなってしまいました。

広島市からの回答は次のとおりでした。

「お問い合わせいただいた住吉神社の被爆樹木本数は、原爆遺跡軍都広島案内ハンドブック写真集や中区地域振興課が実施した寺院アンケートを参考に指定されているようです。」

まさか、根拠の一つに「原爆遺跡軍都広島案内ハンドブック」があげられるとは思いもかけませんでした。

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と言うのは、「原爆遺跡軍都広島案内ハンドブック」は、1993年に「ヒロシマの今から過去を見る会」が発行したもので、この本のほとんどは、戸村良人さんが書かれてものです。戸村さんは古い友人で、戸村さんのガイドで何度か原爆遺跡などを訪ねたことがありますし、私も何度かこの本を手に、原爆遺跡巡りをした経験があります。

今は、この本そのものは絶版となっていると思いますので、入手することは難しいと思います。ただその後新しい情報に更新されたものが、作業中、ヒロシマの今から過去を見て回る会 (lolipop.jp)で見ることができます。ただしこのホームページは、2014年が最終更新となっているようですので、最新の情報ということにはなっていませんが、いまでも被爆遺構や碑めぐりなどに十分活用できる内容となっています。現在戸村さんは、岩国米軍基地のウオッチャーの活動をされており、「原爆遺跡軍都広島」のフィールドワークは、実施されていませんので、今後更新されることはないと思います。

私が、戸村さんにホームページに記載されている住吉神社の被爆樹木のことを聞くために電話をした時も、岩国基地の米軍機の飛行をウオッチャーされている最中でした。

「ヒロシマの今から過去を見て回る会」のホームページには、住吉神社の被爆樹木について次のように書かれています。

「爆心地から千三百メートル。神社社務所は原爆で焼失。しかし、1993年訪れた時は、松2本、クスノキ、エノキ1本づつは、残っていました。石造りの灯籠等も被爆遺跡でした。大きい松は国道2号線のそばにあり、注意すれば国道を走りながらでも見えます。小さい松には、昭和七年十月聖上陛下記念松の石柱が添えられていましたが、国道2号線からも見えるマツを除いて数年後の住吉神社の改築の際、全て撤去されています。松というのは、どれが被爆樹か本を読んだだけでは判りにくい樹で、宅和先生は行って見たけれどどれがそうかわからずへたりこまれ、変わりに下の凱旋碑を見つけたといいます。筆者は宮司さんに運良く尋ねることが出来たので判ったが、戦争経験の無い、こんな調査する駆出しの頃の経験浅い、戦後生まれの身には下の凱旋碑には気づきませんでした。松は2本、黄色いプレートがついているので判ります。」

そして、戸村さんが当時(2012年9月15日)撮影した被爆松の写真2枚が添付されています。

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この写真は、ちょうど20年前に写したことになりますが、今年7月に私が写し、7月18日のブログで掲載した写真の松とほぼ同じような景色を見せています。

戸村さんの文章を確認した後、改めて住吉神社を訪ねてみました。

その結果は、次回に掲載します。

いのちとうとし

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2022年9月15日 (木)

2022.9月のブルーベリー農園その2

東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から週末農業で通っている。夏のブルーベリーの収穫がほぼ終わり、安芸の郷の事業所、森の工房みみずくやcafeさくらへの実の提供も順調に進んだので、多くの皆さんの手にブルーベリーが渡った豊作の年となった。9月になっても残暑が厳しく安芸の郷のある安芸区矢野東あたりも日中はとても暑くて冷房が欠かせない。ブルーベリー農園はといえば標高が約400mあるので涼しく、9月に入っての摘み取りも体に優しかった。今年は913日で援農による摘み取りを終わらせて、一区切りつけることにした。夏の農園の場でいろいろな出会いがあり今夏も元気を頂いた。

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 910日(土)

ヒガンバナが数輪開花している。この場所にヒガンバナが住みついてから少しずつ花数が増えている。

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911日(日)

農園でのブルーベリーの摘み取りは、まだ収穫しきれていない木があちこちにあるので友人の皆さんのブルーベリーの摘み取り援農が続いているが、地域のボランティアグループの皆さんによる援農はこの日が最終日。

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エアコンのある倉庫(写真左)に摘み取ったブルーベリーの実を集めてから、水場で手を洗ったりして頂いているが、この日は同じ地域のボランティアグループ同士の久しぶりの出会いがありしばし談笑する姿も見られた。そして、その中の一つのグループは午前中で一足先にお帰りになった。

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913日(火)

ヒガンバナが4日前の10日にはほとんど蕾だったが13日にはたくさん開花している。

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この日が友人のつみとり援農の最終日。3つのグループがお見えになり「まだいっぱい残っているよ」の声がある中無事今シーズンが終了。これからは農園の家族でぼちぼちと片づけの摘み取りをしながら、来年に向けての作業の準備をすることになる。

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ブルーベリーの木の中。

①、春から芽を出したツユクサは9月になると防草シートの上に雲の巣上に広げる。葉の緑をバックにターコイズブルーの色の花をたくさん咲かせている。

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②、もうブルーベリー摘み取りもしなくなってきたので木の中にコガネグモが巣を張ってとまっている。

他にはミノムシが出てくるが、発生は今のところなくて、イラガの発生も少なかった。昨年と一昨年と2年間肥料を一切やっていないので、イラガやミノムシが少ないのかもしれない。

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③、電気柵にとまる赤とんぼ。体が真っ赤になったトンボもいた。

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農園の花壇。

①、ヤブランの花がほとんどなくなり代わりに結実した実が大きくなってついている。

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②、ツルボの花穂。援農に来ていた友人がこの花に目を留め名前を聞き、庭に植えたいとのことで数輪掘り上げて差し上げた。ツルボは球根なので根付きやすい。

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早生のブルーベリーは花芽がもう見える程度の大きさになっている。8月下旬から9月いっぱいの間でブルーベリーは枝の先端の部分に花芽を形成する。だから先端の枝を切ってはいけない。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年9月14日 (水)

「戦争法強行7年!ヒロシマ総がかり9・19行動」に参加しよう

2015年9月19日安倍政権は、憲法違反の「戦争法」(安保法制)を強行成立させました。

あれからちょうど7年目となる9月19日、「戦争をさせない、9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」は、午後1時30分から「ヒロシマ総がかり原爆ドーム前集会」を開催します。

閣議決定のみで「違憲」の「集団的自衛権行使」を容認を決定し、「憲法9条改悪」、「戦争への道」につながる危機を作り出したのが安倍政権でした。

この戦争法が成立して以降、日本の安全保障政策は大きく転換してしまいました。その一つが、日米軍事演習の拡大のみならず、オートスラリ後、そしてイギリスとかつては、絶対に行われなかった多国間の軍事演習が当たり前のことのように実施されるようになりました。多国間の軍事的協力関係が強まれば強まるほど、戦争に巻き込まれる危険性は高まりす。

それをおしとどめるのは、主権者である市民運動の力です。

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岸田総理は、圧倒的多くの国民が中止を求めているにもかかわらず、憲法を無視し、日本の再び戦争への道へと進ませようとした安倍元首相の「国葬」を強行しようとしています。

「戦争法強行7年!ヒロシマ総がかり9・19行動」は、戦争法である「安全保障法制」の廃止を求め、憲法9条の改悪を許さないという広島の声を結集するとともに「安倍元首相の国葬中止」を求める広島市民の声を意思表示する集会でもあります。

市民が主役の政治を実現させるためにも、この集会に一人でも多く参加していただくことが大切です。

19日午後1時半、原爆ドーム前に結集しましよう。

いのちとうとし

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2022年9月13日 (火)

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の説明文

平和公園内にある「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」の地下2階の「平和祈念・死没者追悼空間」へと進むスロープに設置された6枚の説明文について一昨年11月17日国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の銘文: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)から4回にわたって連載をしました。

4回目の最後に「ですから、現在の追悼祈念館では、この6枚の説明文の扱いがおろそかになっていることにずっと問題意識を持っていたのです。そこで先日、追悼祈念館を訪れ、私の手元にある資料を示し『この6枚の銘文(説明文)をホームページやリーフレットできちんと紹介してほしい』と要望しました。対応していただいた館長は、私たちも、大切な文章だということは理解しています。ただこの施設は、国からの委託を受け広島市が運営していますので、私たちが『こうします』と言うことができません。厚労省に『要望があったこと』をきちんと伝えます」との返事でした。良い方向に進むことを願っています。」と書いて、このシリーズを終了しました。

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あまりせっつくのはという思いがあったため、つい時間が経ってしまいましたが、先日やっと国立追悼平和祈念館を訪れてその結果を聞いてきました。

まず厚生労働省の答えです。「議論が再燃する事態は避けたいが、対応は館長に一任する」との事だってようです。

一任を受け、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館として、色々な角度から検討し、少し時間がかかりましたが、次のような対処をとっていただくことになりました。

「①パンフレットについて

 今年度末に予定している企画展示コーナーの模様替え以降になりますが、追悼空間スロープの説明文に『原爆投下に至る経緯が6枚のパネルに記載されています』の一文を加えたものに差し替えます

②ホームページについて

 フロアマップhttps://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/floormap/index.htmlの③追悼空間スロープの説明文に『原爆投下に至る経緯が6枚のパネルに記載されています』の一文を加え、『6枚のパネル』にリンクボタンを設置し、パネルの銘文が読めるように改定します。」

パンフレット、ホームページとも「説明文」それ自体は掲載されませんが、追悼空間スロープに説明版があることが明示され、しかもホームページでは、リンクがはられることになりましたので、大きな前進です。

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館久保館長の決断に感謝したいと思います。

その思いを伝えた上で、次のことを要望し、この問題に区切りをつけることにしました。

「リーフレット、ホームページの更新をしていただくとともに、館の職員が、この説明版が作られることになった経緯を理解できるように、適宜の研修を行っていただきたい。

特に、

①、特に問題となる6枚目の『誤った国策』は、閣議決定を経て1995(平成7)年8月15日に出された村山首相の『戦後50周年の終戦記念日にあたって』の談話で使われている言葉である。

②、さらにこの説明文は、広島の被爆者団体の意向を受け、厚労省が設けた「開設準備検討会(座長森亘)」で最終的に合意され、厚労省として設置したものであり、広島の被爆者の思いが込められた説明文である。

付け加えれば、被爆者団体の声が尊重されたのは、『原爆死没者慰霊等施設のできるだけ早い設置を図るとともに、被爆者および死没者の遺族の共感が得られる施設となるよう努める』と被爆者援護法成立時の付帯決議の7項に明記されている。

ことを周知していただきたい。」

久保館長からは、同意の意思を示していただきました。

国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が開館してちょうど20周年の今年、広島の被爆者のみなさんの努力を少しだけですが伝えるための役割を果たすことができたと思っています。

いのちとうとし

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2022年9月12日 (月)

被爆ポンプを見に行きました。

先日届いた「News Paper No.890」(平和フォーラム・原水禁国民会議の機関紙)の1ぺジ目に並ぶ写真の真ん中にある「被爆ポンプ」の写真が気になり、広島駅近くに現物を見に行ってきました。

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広電の線路沿い歩道にあります。猿猴橋町電停の下りプラットホームの反対側の歩道に2台、上りプラットホームのすぐ東側の歩道に1台の古い手押しポンプが、あります。そのすべてに「被爆ポンプです 残して下さい 永原富明」と書かれたプレートが掛けられています。

一番南側のポンプ~広島駅方面に向かって映した写真です。

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右側を歩いている人の左にある柱の手前に、見えにくいのですがもう一台のポンプが映っています。

一番南側のポンプです。

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 ボディーに「津田式」と刻印されています。

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南から二番目のポンプです。一番壊れていますが、絵本やテレビなどで「被爆ポンプ」として取り上げられるのは、このポンプです。

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 ちょっと見えにくいのですが、このポンプのボディーにも「津田式」の文字が刻まれています。

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 三台目のポンプは、他の二つと同じ側の歩道ですが、荒神町交差点の広島駅寄りにあります。

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このポンプにも「被爆ポンプです 残して下さい」のプレートが架けてありますが、どうも「被爆ポンプ」ではないように思えます。

その理由は、ポンプが新しいものに見えますし、据えられた台が、他の二つはコンクリートですが、この台は鉄製のように見えます。決定的に違うのは、ポンプ本体に刻まれた文字です。

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他の二つは「津田式」と漢字でしたが、このポンプには「KAWAMOTO  DORAGON」と英語の文字が刻まれています。

被爆したということであれば、戦前に作られたものですから会社名が英文字で刻まれることはなかったはずです。

帰宅後、ネットで検索すると2020年に広島テレビが制作したドキュメント【残してください 被爆ポンプです。】ドキュメント ダイジェスト版 - YouTubeを見つけることができました。

この番組では、保存を働きかけている被爆二世の永原富明さん、「ひばくポンプ」の絵本を作った当時小学生だった児玉美空さん、この絵本がきっかけとなって75年ぶりに被爆体験(このポンプでカラカラののどの渇きをいやしたこと)を語ることになった被爆者の西村泰司さん(当時84歳)のことが紹介されています。

4分余りに短縮されたものですが、私が語るよりはるかにこのポンプのことがよくわかる内容です。ぜひ一度見てください。

このポンプが残る歩道は、まだ電線の地中化が行われていませんので、残っているのですが、地中化が進めば反対側の歩道のようにきれいに整備されます。

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果たしてその時に永原さんや児玉さんの「被爆ポンプです 残して下さい」という思いが届くのだろうか、心配です。被爆したその地にあってこその「被爆ポンプ」だと思うのですが。

いのちとうとし

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2022年9月11日 (日)

「故安倍晋三国葬儀」案内状

昨日午前11時過ぎ玄関で「金子さん、金子さん」と声がします。すぐに玄関を開けると、よく知った郵便配達員の姿がありました。「金子さん、速達が届いています」と言って手渡された封書のあて名に「元衆議院議員」の肩書が書かれています。速達ですので、土曜日でしたが配達され、直接手渡されました。

受け取ってすぐに封筒の裏側を見ました。「故安倍晋三国葬儀委員長 内閣総理大臣 岸田文雄」と差出人の名前が書かれています。予想していなかっただけに「えっ、私にも届くのだ」とちょっとびっくりしながら、部屋に入り、封筒を開けました。

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「謹啓 故安倍晋三国葬儀を左記により挙行いたしますのでご案内申し上げます 敬具」と書かれ、「記」として日時、場所が記載されています。文書の日付は「令和四年八月」となっています。発送が遅れたのでしょう、同封された返信用はがきの「九月十三(火)までにご投函願います。」の注意書きの日付「十三(火)」の部分が、ミスノンで修正された上に書かれています。おまけに、あわてたのでしょうか、「十三」の後の「日」の文字が書き忘れられています。とても考えられないようなミスです。

八月の日付の封書がいま届き、投函締め切り日まで受け取った日を含めて、4日間しかありません。早くに決まっていたはずの「国葬日」にしては?という感を否めません。

封筒には、案内状とともに「受付票」「御留意事項」「新型コロナウイルス感染防止に関する留意事項」が同封されています。

「御留意事項」には、5項目の留意事項が記載されています。

一番目に「参列服 略礼服または平服等」となっています。そして二番目に「集合場所・時間など」が書かれ、「集合場所から議場へはバスで送迎する」ことが記されています。

集合場所は、衆議院代議員会館一階東側玄関内で、集合時間は十一時三十五分です。次に「お持ち物」として「今回お送りしている『封筒』、同封の『受付票』、「御本人確認用書類(顔写真付き)」の三点」と書かれています。その後に「送迎バスに乗車しないと入場できないことがある」ことや「開始まで長時間待つことになる」ことも記載されています。

三番目は、「代理出席・随行」と書かれ、「出席登録した本人のみ参列可能」と明記され、四番目の「手荷物等」には、「女性のハンドバック以外の持ち込みはできない」ことや「儀場内に給水所を設けるが、送迎バス乗車後、献花終了まで五時間程度、食事がとれない」ことが記載されています。五番目は、「連絡先」です。

「参列者は最大六千人規模」と言われていますが、案内状は何通発送されたのでしょうか。

「ところで、いのちとうとしさん、どうするのですか?」の声が聞こえそうです。

もちろん私は、・・・・。

いのちとうとし

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2022年9月10日 (土)

「火事場泥棒」

まさに「火事場泥棒」と言えますね。ロシアのウクライナ侵攻、化石燃料価格の上昇というドサクサ紛れに便乗しての、岸田文雄首相の原発再稼働圧力、運転期間の延長、原発新増設検討、次世代革新炉の開発などの発言です。

8月24日に開催されたGX(グリーン・トランスフォーメーション)実行会議は、脱炭素の実現について議論される実行会議でした。この会議で岸田首相は「安全性の確保を大前提とした原発の運転期間の延長など、既設原発の最大限の活用、次世代革新炉の開発・建設など今後の政治判断を必要とする項目が示された」と話したのです。このGX会議は非公開で会議のメンバーも明らかにされていませんでした。

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首相官邸ホームページより

このニュースを見た瞬間に、岸田政権が本音を出したなと思いました。7月の参議院選挙が終わるまでは隠しておいて政策を、これから3年間は国政選挙が実施されないという中で、正体丸出しという感じです。

まず基本的なことですが、3・11福島原発事故を体験して、原子力規制委員会が設置され、国の原発規制行政を担う仕事を行うようになりました。原子力規制委員会は、国家行政組織法に基づく三条委員会とされ、独立性が高く位置づけられたハズでした。

またエネルギー政策については、経済産業省の委員会で三年毎に「エネルギー基本計画」が決められていました。最近では昨年「第6次エネルギー基本計画」が決められました。もちろん委員会の委員などが、原発推進派で占められていた問題がありました。しかし形だけとはいえパブリックコメントも行われ、私たちの声も届けられるという配慮もされていました。だから今でも、「原発の新増設はない」というのが建て前です。

そして電力事業も小売り事業の全面自由化、発送配電事業の分割なども、これも形だけとはいえ実施されました。これらの改革のキッカケは、なんといっても福島原発事故です。本音では国も電力会社も、これまでの形での電力事業の継続を思っていたのでしょうが、それを許さなかったのは、世論の力だと思います。

岸田首相は「次世代革新炉」としては、核融合炉とか小型原発(SMR)を指しているようですが、私のこれまでの経験から言えば、国はエネルギー問題で何か課題(事件)が起これば、核融合などを言ってきました。しかし実現できる見通しもないのです。「原子力ムラ」へのリップサービスとしか思えません。しかし、政策が決まれば予算(お金)が付きます。予算が付けば、「原子力ムラ」は喜びます。本当にバカバカしい許せない話しではないでしょうか。

そんななか興味深く思ったのは、電力会社や原発を抱えている自治体の長のクールな反応でした。岸田発言を「歓迎」とするコメントは無かったように思います。電力会社としても自治体の長にしても、「住民の理解を得ながら」を建て前にしている以上、「飛び級」で手続きを無視して進むのは出来ないでしょう。

ましてや岸田発言で、簡単に「エネルギー危機」が解消されたりするようなことはありません。あまりにも単純な考えは、国葬問題だけではないようです。

木原省治

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2022年9月 9日 (金)

長崎朝鮮人原爆犠牲者追悼式への「追悼の挨拶」

長崎市の爆心地公園の一角に「追悼長崎原爆朝鮮人犠牲者」碑があります。この碑の詳細は、別の機会に紹介したいと思いますが、碑は1979年8月9日に建立されました。

以後毎年、8月9日の午前7時30分から追悼早朝集会が開催されています。その追悼式には、ここ数年(私の記憶では3年前から)、朝鮮民主主義人民共和国の朝鮮原爆被害者協会から「追悼の挨拶」が送られてきています。

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今年の「追悼の挨拶」がようやく入手できました。原文は、ハングル文字ですが、朝鮮総連のみなさんが日本語に訳された全文を、ちょうど一月遅れになりましたが、紹介します。


朝鮮人原子爆弾被害犠牲者追悼会実行委員会貴中

 人類史に二度と起こってはならない原子爆弾の惨禍が深く刻まれたこの日、日本の地で倒れた数万人の朝鮮人犠牲者たちの魂を慰労し、追悼の挨拶を送ります。

国を奪われ、恨み大き異国生活、徴用生活に悔しい思いをしていた我が朝鮮同胞たちが、理不尽にも原子爆弾の洗礼に無残に犠牲となった日から77年の歳月が流れました。

10年もたてば江山も変わると言いますが、その江山が7回も変わってもなお、血肉の懐に戻れぬまま、異国の空を彷徨っている同胞たちの魂を思うと、祖国の人民たちも心の痛みを堪えることができません。

日帝の銃剣により日本の地に連れていかれたせいで、他人の頭に落ちた火の玉をかぶり、悔しく焼け死んでいった我が同胞たち、火炎の中で消えゆく解放の希望、帰郷の船道を必死に探しながら目も閉じることができず息絶えていった我が同胞たちでした。

さらに心苦しいのは、苦しみながら生き残った朝鮮人原子爆弾被害者たちですらも、日本当局の民族排他主義、反共和国敵視政策により、当然受けられるはずの医療上の幇助と支援を満足にもらえず、2重3重の精神肉体的苦痛を受けていることです。

原子爆弾が落ちた直後にも、朝鮮人と日本人を分け隔て、被害者治療において民族差別を行った日本は、我が共和国を敵対視して祖国に渡ってきた我が原子爆弾犠牲者たちを全面無視、全面排斥する破廉恥な態度をとっています。

まさにこのような日本であるから、世界的な大流行伝染病が取り巻くこの動乱の時期に、小さな医療支援からすらも朝鮮学生を排除する非人間的な行動を恥ずかしげもなく行っているのです。

しかし、罪は犯した者のもとへと行き、悪行には、懲罰がつきものです。

日本がどのような汚い手段を使って、朝鮮人原子爆弾被害者問題を含む過去に犯した反人倫的犯罪の清算を回避しようとしても、このような大きな罪悪に対する責任から絶対に逃れることはできないでしょう。

我が国と我が民族を40余年間も独占し、840万余名の無辜な朝鮮青壮年たちを強制連行し100万余名を虐殺し、20万余名の朝鮮女性たちを性奴隷として連れて行ったばかりか、数万名の朝鮮人たちに原子爆弾被害まで負わせたその罪悪の代価を必ずや支払うことになるでしょう。

われわれは、民族の多大な苦痛と犠牲の歴史を永遠に記憶し、苦しみながら倒れた全ての犠牲者と被害者たち、遺族たちの恨みを必ずや晴らすことでしょう。

積もりに積もった怨恨に眠れずにいるであろう異国の地の全ての朝鮮人原子爆弾被害犠牲者たちの魂が、血肉の情と愛を込めて送る祖国の人民たちの慰労の中で少しの間だけでも安息を得てくれることを心から願います。

朝鮮原子爆弾被害者協会

チュチェ111(2022)年8月9日


 

残念ですが、広島には「朝鮮人」の文字が入った慰霊碑はありません。いつか、広島にも「朝鮮人」の文字が入った慰霊碑が建立されることを願っていますし、私もできる努力をしたいと思っています。

いのちとうとし

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2022年9月 8日 (木)

2022.9月のブルーベリー農園その1

9月に入ってヒヨドリの鳴き声がするようになった。どこかから帰ってきた数羽がブルーベリーの実を食べに飛んでくる光景が見られる。安芸の郷の事業所の森の工房みみずくからのブルーベリーの摘み取りの研修は92日で終了した。それからは、援農に来られるグループや友人、知人が中心となってまだたくさんあるブルーベリーの摘み取りが続いている。6日に台風11号が接近したが実の落果などの被害はなく、台風が過ぎた後はいい天気が続くので完熟で甘い実がもう少しの間楽しめそうだ。

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831日(水)

里山のブルーベリー園の巡回。クモがあちこちで巣を張っている。

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里山の晩生のブルーベリー、実の重さで垂れ下がるブルーベリーの枝。農園全体で1000本もあるので、どうしてもだれも積んでくれない木が残ってしまう。

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94日(日)

3日は休み。4日の農園は安芸の郷とかかわりのある会社の社員と家族づれのグループと農園の友人でブルーベリーの摘み取り援農を行った。子どもは摘み取りもブルーベリージュースも庭の池のイモリも体験して来年も「来たい」と楽しそうに答えてくれた。

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ニラの花とミツバチ

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里山から望む。集落と雲の多い青空と

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ひまわり一輪と大豆畑。6日に来た時にはもうなかった。

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96日(火)

台風11号が中国地方の日本海側を通過。農園では午前中風が強かったが昼前には収まった。幸い雨も降らず摘み取りするには体の負担が少なくて楽だった。午後の摘み取りが終わり、台所でいつものフレッシュブルーベリージュースをミキサーにかけ紙コップに入れる。

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それぞれの休む場所で初秋の甘味の乗ったブルーベリージュースを飲んで頂くのは、安芸の郷のボランティアグループ「フレンドベリー」のみなさん。森の工房みみずくには品種別に摘み取りをしたホームベルという品種だけを納品することができた。

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ブルーベリー畑の中の木の株もとに咲きだしたヨメナ。

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台風11号の風で飛ばされたテントタープを片づけ、組み立て式のテーブルも軒先に移動しておいた。

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農園の近くの稲田。稲刈りがところどころで始まり畔にはニラの花が開花

 

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年9月 7日 (水)

「核と人類は共存できない」か「核と人間は共存できない」かーその4

ところで、「核と人類は共存できない」ということばが、原水禁世界大会の中で森瀧先生のことばとして使われたことはないのかと「原水禁世界大会報告集」を調べてみました。残念ながら大会報告集で手元にある(図書館も所蔵していない)のは、「被爆31周年」の次は「被爆41周年」以降のものしかありませんので、その範囲で調べました。その結果、1986年8月9日に開かれた「被爆41周年原水禁世界大会」の森瀧先生の「閉会あいさつ」の中に次の文章があるのを見つけました。

「『本大会』を通じて核と人類は共存できないという共通認識を確認することができました。共存できないということは核が人類を否定するか人類が核を否定するかいずれかであるということであります。私たちは、核を絶対に否定することによって生き残らなければなりません。私たちは核絶対否定の道によって人類の生存を確保することに深い自信をいだくようになりました。」

「核と人類は共存できない」のことばにまつわる調査で、いまのところ以上のようなことを知ることができました。

確かに被爆30周年原水爆禁止世界大会の基調報告では、「核と人間は共存できない」と「人間」ということばで訴えられています。残念ですが、なぜ森瀧先生が、この基調報告の中で「人類」ではなく「人間」ということばを使われたのかを今となっては知るすべはありません。

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しかしはっきりしたことは、森瀧先生自身が、「被爆30周年原水爆禁止世界大会の基調報告」を後に引用される際、「人間」となっていた部分を「人類」ということばに書き替えられたということです。

今回調べて(といっても充分なものではありませんが)いえることは、全体の森滝先生の思想として「人類」という考え方が、その中心にあったといってもよいと思います。

今回は「核と人類は共存できない」という理念について検証しましたが、森瀧先生がよく言われていたのが「人類は生きねばならぬ」ということばです。「核絶対否定」と共によく色紙などにも揮毫された言葉です。ここでも「人類」となっています。

このことからも森瀧先生の念頭には、「人類」という考え方があったのではないでしょうか。ですから森瀧先生の晩年身近にいたものの一人として、私はやはり森瀧先生の意思は「核と人類は共存できない」であり、いまはこの言葉で伝えるべきだと結論付けたいと思います。

ところで、今回調べていて奇妙なことに気がつきました。

今回紹介した「核絶対否定への歩み」(社会新報連載記事)から引用した部分のすぐ前にはこう書かれた一行があります。「しょせん、核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人間の生存を否定するものである、と断ぜざるをえないのです。」ここでは「人間」ということばが使われています。豊永先生に「人間ではないか」と指摘された広島大学の先生は、この部分を言われていることが、後でわかりました。

ところが、このシリーズの第1回で紹介した「被爆30周年原水禁世界大会の基調演説」では、この一行は「所詮核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人類の生存を否定するものである、と断ぜざるを得ないのです。」と「人類」ということばになっています。なぜだろうと、気になるのですが、これも今では解明することができません。

今回は、豊永さんからの質問で「『核と人類は共存できない』か『核と人間は共存できない』か」について書くことになり、改めて勉強することができました。

今度は「核と人類は共存できない」「核絶対否定」に至る道を改めて考察してみたいと思います。

いのちとうとし

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2022年9月 6日 (火)

ヒロシマとベトナム(その36-2) 少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2-2

少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2-2

お金だけでなく、暖かい気持ちを貰って感謝

2019年に奨学生の故郷(少数民族村)を訪ね、保護者の方々と交流しました。暮らしの状況と①奨学金についての思い、②奨学金の使途、③子どもさんの将来の夢についてお聞きしました。

下の写真は、ケアンチン省ダックロン県ホックギン村での奨学生と保護者との交流風景です。

Photo_20220904092701    

◇1年生 ホー・ヴァン・ミン(Ho Van Minh)君の母(42 歳)、ヴァンキュウ族

①農業で年収1万5千円ほど。家は貧しいがHVPFのおかげで高校に行かすことができた。お金だけでなく、暖かい気持ちを貰って感謝している。②本や服を買い、残りは家のために使う。③息子の夢は軍人になり国境を守ること。軍隊に行けば政府が助けてくれる。

◇1年生 ホー・ティ・カン(Ho Thi Canh)さんの父(67 歳)、ヴァンキュウ族

村のオフィスで働いていた、月220万ドン(11,000 円)の年金で生活している。①とてもうれしいが家から遠く心配。②本や服など学校に入るため必要な物を買い、残りは娘が管理する。③娘の将来の夢は、学校の先生になること。

◇1年生 ヴォ・ティ・アン・チュエン(Vo ThiAn Thuyen)さんの母(59 歳)、キン族

①とても嬉しく感謝している。②勉強に必要な本や洋服を買い、残りは家のために使う。③娘の夢は聞いていない。

◇1年生 ホー・ティ・ヌック(Ho Thi Nhuc)さんの母(40歳)、ヴァンキュウ族

林業(造林業)の他たくさんの仕事をして月収300万ドン(15,000 円)。「主席さんの前だから余り詳しく喋るとマズイ」と言いながら話す表情は屈託なく明るい。①娘の将来が開けて、とてもうれしい。②学校の先生になりたいと言っている。③学用品や洋服を買う。

1年生 ホー・ティ・マイ・ゴク(Ho thi My Ngoc)さんの親戚の女性(31 歳)、ヴァンキュウ族

学校の教師、月収600万ドン(3万円)。少数民族村の教師のなり手が少なく、他の地域の教師よりも賃金が高いとのこと。①ゴクの父親は亡くなり、母は行方が分からない(複雑な事情を抱えている様子)。とても優しく良い子。②他の人と一緒で学用品や服を買う。③英語が得意で、将来は英語の先生になりたいと言っている。

3年生 ホー・ティ・クゥ(Ho Thi Khura)さんの義理の叔母(33 歳)、ヴァンキュウ族

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入学当初のクゥさん

幼稚園の先生、月収3万円。①クゥの両親は離婚、母は再婚し父はドンハ(クアンチ省の省都)にいる。夫がクゥの母の兄弟で自分たちが見てきた。HVPFのおかげで高校に行け、とても感謝している。②学用品やクゥの身の回りの物に使った。③英語が得意、クアンチ省の中で3番の成績。大学で英語を学び、将来は英語を生かしたガイドになりたいと言っている。

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奨学金授与式で将来の夢を語る3年生になったクゥさん(2019年11月)

奨学支援の申し込み、問合せはこちらに願いします。akatatu@d4.dion.ne.jp

(2022年9月6日、あかたつ)

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2022年9月 5日 (月)

ヒロシマとベトナム(その36-1) 少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2-1

少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2-1

「第14期サポーター」募集中、ご理解とご協力をお願いします

7月、8月と「少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2」から離れましたが、再び戻ります。

現在、この9月入学の「第14期奨学生」20名のサポーターを募集しています。現時点17名の登録で85%の達成率ですが、昨年(13期)、一昨年(12期)と一桁台の応募にとどまり、その回復分を含め40名を目標としていますので現時点の達成率は42.5%です。

下表をご覧下さい。第13期奨学生までの260名を235名のサポーターが支援してくださいました。支援金額は年間18,000円で3カ年年、54,000円です。支援してくださっている61%が年金生活の方々、働いている世代が32%、企業や事業所・団体などが7%です。
下の表は、2009年から2021年までのクアンチ省少数民族寄宿高等学校への奨学支援「サポーター」登録の推移です。

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自らの体験を通した暖かい支援  ~悪化する暮らしと円安が支援の足かせ~

自ら戦争と戦後の苦しい暮らしを体験された方、ベトナム戦争当時に青春時代を過ごした団塊世代の方、子育てを終え同世代の子どもを持つ比較的若い方など支援して下さる方は異口同音、「暮らしは楽でないけど、少しでも役に立てたら」、「何よりも平和が大切、しっかり勉強して世界の架け橋になって」と支援金とともに熱いエールを子どもたちに送ってくださっています。

コロナ禍が始まった2020年のサポーター登録は8名、昨年は9名と定数20名を大きく割り込みました。20数年の賃上げ抑制と乏しい年金の一方、増加を続ける社会保障費。加えてコロナ禍による一層の収入減と将来不安の高まりが影響していると思います。

そして今、一斉に値上げラッシュが始まりました。

さらに、とどまることを知らない円安が奨学支援に追い打ちをかけています。昨年9月は1㌦≒110.94円でしたが9月3日時点140.14円です。30円の円安で昨年よりも21万6,000円も多く奨学支援金が必要です。

昨年、一昨年は現地での「奨学金授与式」が開催できず、クアンチ省とWebでつないだ「オンライン授与式」でしたが、今年は11月中旬ベトナムを訪れる予定です。それまでの2ヶ月間、1学年から3学年までの60名の奨学金が確保できるように取り組み進めています。

是非、趣旨にご理解いただき、一人でも多くの皆さんのご協力をお願い致します。連絡先は、明日掲載します。

(2022年9月5日、あかたつ)

【編集者】「少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2」は、今日明日の2回に分けて掲載します。

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2022年9月 4日 (日)

久しぶりの「3の日行動」

7月は選挙、8月は原水禁大会のため実施できなかった広島の「3の日行動」が、「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」の呼びかけで、昨日午後5時30分から少し小雨の降る時間もありましたが1時間、本通電停前で実施されました。

7月の参議院選挙の結果、黄金の3年間が始まったといわれていますが、現在の政治状況は、安倍元総理の国葬問題、旧統一教会と自民党との深い関係が明らかになったことなどによって岸田政権の支持率は急降下し、政治への不信が増大する結果となっています。

今月の「3の日行動」は、そうして政治的背景を受けて、それぞれの立場から訴えました。私も憲法問題でのアピールを行うことになりましたので、次のようなことを話しました。

一つは、「選挙の争点では、候補者も有権者の候補者選択の条件でも第5位にしか過ぎなかったにもかかわらず、なぜか開票報道のメルクマールでは『改憲』になってしまっていたことの不思議」、二つは「いま野党が憲法の第53条『いづれかの議院の総議員の四分の一以上要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない』に基づいて臨時国会の開催要求を行っているにもかかわらず、開催しないのは憲法違反だ」ということです。確かに憲法では、議員の臨時国会の開催要求に対し、「いつまでの開催しなければならない」と明記されていませんが、これだけ何度も憲法無視が繰り返されるのですから、「国会法」を改正するなど「憲法第53条の実態化」の協議が進められるべきです。

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9月の「3の日行動」で一番の中心テーマはやはり「安倍元総理の国葬」問題です。

この「3の日行動」は、2015年9月19日に当時の安倍政権が、憲法違反の「安保法制」を強行採決によって成立させたことに抗議する行動として始まったのが「19日行動」でした。現在はその行動を継承しつつも今後は改憲が争点になるということで毎月3日に行動することに変えて実施することになった行動です。

ですから、憲法違反、民主主義無視の政治を続けてきた「安倍元総理の国葬」に反対する思いを訴えるのは当然のことです。

私は、安倍元総理が進めた政治の問題点は、憲法違反などよりも、ある意味ではそれ以上に問題だと思っていることは、安倍元総理が、「桜を見る会」問題が論議された2019年11月から20年3月までの国会審議で、118回ものウソの答弁を行うなど、国会論議を軽視したことだと思っています。

私は、こんな安倍元総理が本当に国葬に値するのか、絶対に値しないと思っています。「国葬を行う基準」が明らかになっていませんので、判断は難しいかもしれません。しかしそうであればあるほど、国民がどう考えるのかは重要です。

少なくとも現時点での世論調査では、半数以上の人が「反対」の意思を示しています。その反対の意思の中には、今まで書いた理由だけでなく、「森友問題」「加計問題」なども当然含まれていると思います。そして、場合によれば「旧統一教会」問題が大きいかもしれません。安倍元総理は、この問題の中心にいた人物なのですから。このことだけでも「安倍元総理の国葬」は行うべきでないといえます。

「3の日行動」への参加は、改めて政治のありようを考える機会になりました。

行動開始直前から小雨が降るあいにくの天気でしたが、約50人の参加がありました。土曜日の夕方本当にご苦労様でした。

いのちとうとし

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2022年9月 3日 (土)

「核と人類は共存できない」か「核と人間は共存できない」かーその3

この書籍「核絶対否定の歩み」は、残念ながら森瀧先生が亡くなられた(1994年1月25日没)後の1994年3月に発刊されています。しかし、この本の出版計画は、森瀧先生ご存命中に進んでいましたので、この本の編集の中心となった下畠準三さんが、森滝先生の生前中に何度もご自宅に足を運び、先生と一緒「何を掲載するか」を含め、検討し作業を進められ、生前にほぼ完成していたものです。ですから、当然森瀧先生の了解を得て編集発刊されたものです。

残念ながら下畠さんは、今年5月に永眠されましたので、いまでは直接その詳細を確認することはできません

この「核絶対否定の歩み」の編集者ともいえる下畠さんは、全電通広島被爆者連絡協議会が1970年から1983年までの間に第10集まで発行した原爆体験記「原子雲の下に生きつづけて」の編集責任者でもありました。

この「原子雲の下に生きつづけて」には、森瀧先生が書かれた題字が使われ、5集までの全てには、先生の「巻頭言」ともいえる文章が寄せられていますので、森瀧先生と下畠さんは、深いつながりがあったことがわかります。

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そのことは、「原子雲の下に生きつづけて」の第4集に、森瀧先生と下畠さんの対談が収録されていることからも理解できます。

その対談の中で、下畠さんの「それは先生の哲学的思索の結論ですから、短い時間に変わっていくというものではないと思いますし、まして、根本的命題、先生の体系、原理というものでしょうから・・・」との問いに森瀧先生は「人類は生きねばならん、これが今の私の至上命令ですよ、倫理学の、平和の倫理の・・・」「それから原水禁運動そのものも、ひらきなおって大きく言えば、人類の生命というもの・・・」と答えられています。

さらに対談の最後の部分では、「私の戦後の発想法の人類という概念がものすごく実在化して、この、人類の運命などと昔いったら、大きなことをいうなってことになって抽象的になったのですが、いまはそうではないでしょう。原爆だけでもそうだったのが、今や世界的な公害になって来ますと、まさに人類の運命を考えざるを得ないようになってきた。人類は生きつづけなければならんという命題をたててみたりしますとね、」

そのことは1976年に日本評論社から発刊された「森瀧市郎反核30年」の前書きに次のように記されていることからもわかります。

「また、広島大学在職中に学生たちに乞われるままに書いたものや、広島の諸誌・諸新聞に寄せた折々の感想・提言などの中に『人類は生きねばならぬ』という私の根本命題にそった訴えのいくつかを加えた。私は、被爆後30年間殆ど宿命的に辿った歩みが、核絶対否定の志念(原文のまま)と行動であったことを核時代の世界人類に訴えたいという願いをいだきつつこの書を世におくる。」

もう一つ紹介しておきたいのは、同じ「森瀧市郎反核30年」の書名ともなった「反核30年」と題した文(全電通新聞=全電通労働組合機関紙=に1973年10月から1975年8月まで70回のわたる連載)の「核時代の道徳的義務」の項で次のように記されていることです。

「第4回大会(1958年)の宣言に『道徳的義務の分科会』の討議の要旨を盛ろうとして、私にその部分の起草を求めた。それは極めて簡潔でなければならなかった。曰く、『全人類が生死を共にしなければならない原子力時代に於いては自滅を防ぎ共存を促進することは人類の至上かつ普遍的な義務である。この義務は生命への深い畏敬と人類共同体の保存への願望に根がしている』と。」

「人類」という考え方は、森瀧先生にとっては至上のことだったと推察できます。

いのちとうとし

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2022年9月 2日 (金)

「核と人類は共存できない」か「核と人間は共存できない」かーその2

私が所蔵している「原水禁世界大会報告集」の中には、「被爆30周年原水禁大会」の報告決定集がありませんので、広島市立図書館のホームページで蔵書検索をしてみました。中央図書館が、所蔵していることがわかりましたので、すぐに中央図書館に行き、調べました。

そこには間違いなく「核と人類は共存できない」に収録されているとおり「核と人間は共存できない」と「人間」ということばになっています。

しかし、前後の文章では、全て「人類」ということばが使われていますので、なぜここで「人間」ということばが使われているのか、もう少し調べてみることにしました。

その1で引用した文章の中に「先日の国際会議で私があえて提起したテーゼは」と書かれていますので、同じ「被爆30周年原水爆禁止世界大会報告決定集」に収録されている「国際会議」での森滝先生の「日本側代表基調演説」を読むことにしました。

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「国際会議の基調演説」には、次のように書かれています。

「私は以上の概観の上に立って、この核の時代30年を総括して『核分裂エネルギーを利用する限り人類は未来を失うだろう』というテーゼを提起したいと思います。

と申しますことは、人類は核と共存することはできない故に、核分裂の利用の全てを否定する核絶対否定の理念をいよいよ高くかかげ、人類の生きのびる道を切り開いてゆかなくてはならないということであります。」(強調はいのちとうとし)

ここには、「核と人類は共存できない」ということばではありませんが「人類は核と共存できない」と、人類ということばが使われています。

ところで、「被爆30周年原水禁世界大会基調演説」の問題の部分を、後に森滝先生自身が引用し紹介された文章があります。それは「核絶対否定への歩み」と題して、日本社会党機関紙「社会新報」1979年6月15日から7月24日まで連載された原稿です。

この連載記事は、重要な文章だということで、1994年3月に原水爆禁止広島県協議会(広島県原水禁)が、発刊した「核絶対否定の歩み」に収録され、それを底本にして原水禁国民会議が2015年に発刊した「核と人類は共存できない」にも収録されています。

「生存のために」のサブタイトルがついた項があります。

そこには「大会基調演説の草案を精魂こめて書いた。その演説の後半は、いわば『核絶対否定』の宣言であった。」と記した後、「いわく」のことばの後「演説文」が長文で引用されています。

「被爆30周年原水爆禁止世界大会報告決定集」で

「結局、核と人間は共存できないのであります。

共存できないということは人間が核を否定するか、核が人間を否定するかより外ないのであります。われわれはあくまで核を否定して生きのびなければなりません。」となっている部分が次のように修正されています。

「結局、核と人類は共存できないのであります。

共存できないということは、人類が核を否定するか、核が人類を否定するかよりほかないのであります。われわれは、あくまで核を否定して生きのびなければなりません。」

ここでは、「被爆30周年原水禁大会報告決定集」で「人間」となっていたものが、全て「人類」ということばに置き換えられています。

いのちとうとし

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2022年9月 1日 (木)

「核と人類は共存できない」か「核と人間は共存できない」かーその1

先日、豊永恵三郎さんから「森瀧先生が言われたのは『核と人類は共存できない』ではなく、『核と人間は共存できない』だと広島大学の先生から指摘を受けました。私は『核と人類は共存できない』と思っているのですが、金子さんはどう思われますか」と問い合わせる電話がありました。

その時は、私も、豊永さんと同じように当然「核と人類は共存できない」だと思っていましたので、そのことを伝えるとともに、「私なりに調べてみます」とお答えし、電話を切りました。

広大の先生は「『人間』と書かれたものを見た」と言われているということ(この時点ではどこに書かれているのかは不明)でしたので、私も気になったので、関係する文献を調べてみることにしました。その結果をこれから4回に分けて紹介します。

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最初に調べたのは、森瀧先生が最初にこの言葉を提起された被爆30周年原水禁世界大会の基調演説です。この基調演説は、原水禁国民会議が2015年に発刊した「核と人類は共存できない」に収録されていますので、すぐ見つけることができました。

同書の55頁に次のように書かれています。少し長めですが、前後を含めて引用します。

「私たちは今日まで核の軍事利用を絶対に否定しつづけてきましたが、いまや核の平和利用とよばれる核分裂エネルギーの利用をも否定しなければならぬ核時代に突入したのであります。所詮核は軍事利用であれ平和利用であれ、地球上の人類の生存を否定するものであると断ぜざるを得ないのであります。結局、核と人間は共存できないのであります。

共存できないということは人間が核を否定するか、核が人間を否定するかより外ないのであります。われわれはあくまで核を否定して生きのびなければなりません。

 核兵器を絶対否定してきた私たちは平和利用をも否定せざるを得ない核時代に突入しているのであります。『核兵器絶対否定』を叫んできた私たちは今やきっぱりと『核絶対否定』の立場に立たざるを得ないのであります。『平和利用』ということばにまどわされて『核絶対否定』をためらっていたら、やがて核に否定されるでありましょう。先日の国際会議で私があえて提起したテーゼは『核分裂エネルギーを利用する限り人類に未来を失うであろう』ということでありました。くりかえし申し上げます。『核分裂エネルギー使用する限り人類は未来を失うであろう』と。

 人類は未来を失ってはなりません。未来の偉大な可能性を確保しなければなりません。私は被爆30周年のこの大会で世界に訴えます。

 人類は生きねばなりません。そのためには『核絶対否定』道しか残されていないのであります。

 ご清聴感謝します。」

確かに、この文章の中では「核と人間は共存できない」となっています。気をつけて読んでいなかったなと反省しました。

「本当にそうなのか、誤植ではないか」と疑問が湧きましたので、そのもととなっている「被爆30周年原水爆禁止世界大会報告決定集」を調べることにしました。

いのちとうとし

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