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2022年8月

2022年8月31日 (水)

2022.8月のブルーベリー農園その4

晩夏から初秋に季節がうつる時だが、東広島市豊栄町のブルーベリー農園では状態のよいブルーベリーの実の摘み取りが続いている。たくさんの援農者の皆さんは安芸の郷のボランティアに来ていただいている矢野民児協が27日に2回目の来園があり、28日には安芸の郷とのつながりのある会社の方のグループや安芸の郷のボランティアグループからの援農が28日にあったりして、たくさんのブルーベリーの収穫ができた。日ざしもきつさが少なくなり体の負担が和らぐので楽しむ余裕がでたのか、アマガエルが援農摘み取り用の籠や、ブルーベリーの木の枝にいたり、とまったりしているので「カエルと遊んだ」と感想をくれた人もいた。伸びたところから行う草刈りも続けている。

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826日(金)

青空と白い雲。雲はいつも違う形と位置に浮かぶ。

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827日(土)の青空と白い雲。この日も雲はいつも違う形と位置に浮かぶ。

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青空の下でのブルーベリーの摘み取り。とっかかりは農園の手前から。まずは、ブルーベリーを食べておいしさを楽しむ。それから摘み取りにかかる。(矢野民児協のみなさん)

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友人知人。ブルーベリーは低いところにも実がなっているのでしゃがみこんで摘み取りを続けるが、この木1本でかなりの時間がかかった。

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828日(日)

摘み取った実は首にかけた籠からコンテナに移し替えて運ぶが、その前にブルーベリーの木の陰に座り込んで、中の実の状態を確かめる。こちらはご夫婦で援農に参加(ボランティアグループひだまりコスモスのみなさん)

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午後の摘み取り終了。水場で籠を洗い、こびりついた靴底のブルーベリーの実を落とす。27.28日の2日間でたくさんのブルーベリーの実が収穫でき、安芸の郷の事業所森の工房みみずくに持ち帰ることができた。

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農園の隣の畑には豆が植えられていて大きくなっている。その茂みの中にところどころ朱色の花が見える。

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つる性のマルバルコウソウで茂みから顔一つ出して空を仰ぐ。そして、

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わしも、わたしもと朝顔も花を咲かせている。

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農園からの帰り道。田んぼにはもうトラクターが入り稲を刈っている。品種は早生なのでコシヒカリらしい。9月には新米が食べられる。

 

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年8月30日 (火)

「核の平和利用」を認めた結果が?

7年ぶりに開催された核拡散防止条約(NPT)再検討会議は、前回(2015年)に続き、再び最終文書を採択できずに、26日閉幕しました。

その問題点については、イライザさんが昨日の「ヒロシマの心を世界に」NPT再検討会議で最終文書不採択: ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で詳しく書かれていますので、ぜひそれを読んで下さい。

私は、少し違う視点から、この問題を考えてみたいと思います。

28日付の中国新聞1面には「NTP会議再び決裂」の見出しが大きく横書きされ、縦書きの一行目の見出しは黒い地紋に白抜きで「露、ウクライナ原発記述に反発」と書かれ、ロシアが反対したため、最終文書が採択できなかったことを強調しています。

確かにロシア一国が反対したため、最終文書が採択できなかったことは、間違いのない事実ですので、その限りにおいてロシアが避難されるのは当然のことだと思います。

ただ私が着目するのは、最終的に合意ができなかったといわれる「ウクライナ南部ザポロジエ原発の管理をウクライナに戻すことを促す」項目(28日中国新聞3面)です。

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ザポロゼエ原発

私がここで指摘したいのは、ロシアのウクライナ軍事侵略によって明らかになったことは、もちろん原発の管理の問題もありますが、戦争(軍事攻撃)の中で、原発がいかに脆弱で危険なものかということです。ザポロジエ原発だけでなく、チェルノヴリ原発で起きる軍事行動のニュースが伝わるたびに、私は原発事故というか破壊の危機に直面し、その惨事が起こらないことを願いました。

以前から指摘されてきたことですが、核拡散防止条約の問題点の一つとして、非核兵器保有国に核兵器の保有を求めない代償として核の平和利用(原発)を認めていることが挙げられています。

皮肉なことに、核拡散防止条約で認めている原発が、今回のNPT再検討会議での最終文書採択の足かせとなったのです。

ロシアのウクライナへの軍事侵略によって「核兵器使用の危険性」に現実のものとして向き合うことになったのですが、同時にこの軍事侵略は、原発がいかに危険なものであるかも明らかにしたはずです。

現に、ザポロジエ原発は、いまも砲撃にさらされ、大惨事の瀬戸際にあることが、連日報道されています。ザポロジエ市は、甲状腺の被曝を抑える安定ヨウ素剤の配布を始めたと報道されています。

最終文書案の全文を見ていませんので憶測でしか言うことはできませんが、こうした「原発の危険性」については、全く触れられていないと想像できます。ザポロジエ原発をどこが管理するかも重要なことかもしれませんが、それ以上に原発の危険性こそ、論議されるべき課題であったはずです。

しかし、核の平和利用は、残念ながら核兵器禁止条約でも認められているのですから、それを望むのは無理なことかもしれません。

だからこそ私たちは、「核と人類は共存できない」「核絶対否定」の理念を強く訴えなければならないのです。それが私たちの役割だと改めて決意しています。

いのちとうとし

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2022年8月29日 (月)

絵本「わたしはゴミステーション」

絵本「わたしはゴミステーション」が送られてきました。

奥付に「2022年8月1日発行」と書かれていますので、出来たばかりの絵本です。

さらに奥付には、「さく のびるぶんこのなかまたち」「え たけはらようこ」「発行 のびる文庫」、となっています。

この素敵なプレゼントを送ってくれたのは、「え」作家の竹原陽子さんです。

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表紙を見ただけで、何となく優しい気持ちになります。

すぐに絵本を開きました。

見開きの左側に、ひらがなで散文詩のような文章が綴られています。右側のページは、竹原さんが作った画用紙を切り張りして作った絵でおおわれています。

楽しくなる絵本ですので全部の文章と絵を紹介したいのですが、ここでは1ページ目の文章を紹介します。

わたしは ゴミステーション

ここでなんねんも こどもたちをみまもっている

はる

わたしの まえのあきちが

とうこうはんの こどもたちの しゅうごうばしょ

きょうは しぎょうしき

げんきなこえがきこえてくる

あしたから いちねんせいも やってくる

右側のページには、表紙と同じ絵があります。よく見ると、かわいいゴミステーションだけでなく、タンポポが描かれています。

次のページは「なつ」です

この絵本の発行者となっている「のびる文庫」について、奥付の横に次のように書かれています。

「1982年春から自宅で活動している地域文庫〔私設図書館〕です。絵本や児童書の貸し出し、読み聞かせ等を毎月1回、日曜日午前を基本に開設してきました。2012年からは地域の小学校での読み聞かせ活動、最近では地域でのふれあいサロン等へも出かけています。」

ここの自宅は、福山市議会議員の西本章さんのお宅です。もちろんこの絵本の中には、西本章さんの名前は出てきません。絵本好きの西本さんが、いつか絵本を作りたいと思っていたことがついに実現したのです。

この絵本を受け取り、竹原さんに次のようなお礼のメールを送りました。

「絵本は大人にも夢を与えてくれますね。

絵本を開けば、心が温まり、優しい気持ちにさせてくれます。

ちょっとかわいすぎるゴミステーション、今日はどんな声を聴いたのでしょうかね。

竹原さんの切り絵とも思える絵、とっても素敵です。

こんな特技があったなんて、といっては失礼ですよね。」

子どもたちが楽しそうにこの絵本を開く姿が目に浮かびます。

こんな素敵な絵本を作り、届けてくださった竹原陽子さん、西本章さん、本当にありがとうございます。

いのちとうとし

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2022年8月28日 (日)

なぜ理由が説明できないのですか?

8月24日広島高裁で、安保法制違憲訴訟山口訴訟の会が提訴し、昨年7月21日に山口地裁判決で敗訴した「安保法制違憲訴訟」の控訴審の第1回公判が開廷されました。

当初は5月25日に予定されていましたが、裁判官の一人がコロナに感染したため延期となり、3カ月遅れの第1回公判となりました。山口の訴訟団ですので、参加が難しく傍聴者も少数になることが予測されたため、広島の原告団に傍聴要請があり、私も参加しました。

控訴審の第1回ということで、控訴人(第1審の原告です)の代表藤井郁子さんが意見陳述されました。藤井さんは、萩市在住(後で知ったのですが、萩市でも一番島根県よりの田万川在住)ですので、萩市のむつみ演習場に配備計画が浮上したイージス・アショアの問題を訴えるとともに、お父さんの戦争体験(シベリア抑留)を話しながら、「戦争は絶対悪」だと強調し、安保法制は憲法違反であり、廃止すべきだ」と訴えました。限られた時間での意見陳述でしたが、思いの伝わる内容でした。

続いて、弁護団長の内山新吾弁護士と田畑元久弁護士が、ウクライナ戦争、最近の北東アジアの政治状況を説明しながら、「安保法制が日本の戦争への危機を高めている」ことの意見陳述を行い、新たな情勢の中でのきちんとした審理を求めました。

その後、今後の裁判を進め方進行協議が行われました。

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今日書きたいことは、ここからの出来事です

その中で、突然と言ってよいと思いますが、横溝邦彦裁判長から「今日で審理を打ち切り結審とします」と発言がありました。たった1回の審理で、判決を出すというのです。

これに対し控訴人弁護団内山団長がすぐに立ち上がり次のように発言しました。「今日で結審するのは納得できない。私たちが、二人の参考人を申請していたはずだが、どうなったのですか」と質すと、横溝裁判長は「参考人は採用しません」の一言。「採用しない理由は何ですか?」と内山弁護団長。「理由を説明する必要はありません」と裁判長。これに対し内山弁護団長は「きちんと理由を説明してほしい、原告、傍聴者がこれだけいるのですから」と迫ったのですが、裁判長は「説明しません」をくり返すのみで、「参考人を採用しない」理由は明らかにされませんでした。

びっくりしました。「なぜ?理由ぐらい説明すればよいのに」「説明できないような理由があるのか?」私の率直な感想です。裁判長の横暴です。

さらに内山弁護団長が「参考人が採用されないのであれば、これに代わる補充の書面を提出するので、時間が欲しい」と要望しましたが、これも却下され「判決期日は11月7日」と通告し、公判は打ち切られ、閉廷となりました。

控訴人も弁護団も指摘したことですが、昨年7月に山口地裁判決が出て以降、ロシアのウクライナへの侵略、米国ペロシ下院議長の台湾訪問による台湾問題の深刻化など日本を取り巻く安全保障環境は大きく変化しました。当然のことですが、高裁では、こうした国際情勢の変化が安保法制にどう影響するのかを検討しなければならなかったはずです。

こうした控訴人弁護団の指摘を全く無視した裁判進行は、裁判長の横暴と言わざるを得ません。「証人申請却下の理由を説明しない」「第1回の公判で審理を打ち切る」、これでは裁判はますます国民から遠いものになってしまします。

後の報告会で「横溝裁判長は、11月下旬に65歳の定年を迎えるので、その前に自分で判決を書きたかったのでは」との声もありましたが、仮にそんな理由で審理が打ち切られたとしたら、たとえどんな判決が出ようとも、「審理をつくした裁判」ということはできません。「裁判の私物化だ」とまで言いたい思いです。

どうしても納得のいかない、この日の公判でした。

いのちとうとし

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2022年8月27日 (土)

第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会―第2日目

「戦争遺跡保存全国シンポジウム」の二日目は、午前9時から広島市青年センター会議室を使って3つの分科会が行われました。

分科会のテーマは、第1分科会が「保存運動の現状と課題」、第2分科会が「調査方法の整備技術」、第3分科会が「平和博物館と次世代への継承」です。

私が参加したのは、第1分科会です。この分科会は、各地での戦争遺跡保存運動の体験が報告されました。報告は、6本です。すべての報告内容を紹介することはできませんので、レポートの題名と報告者名を報告順に記載します。

①「大久野島戦争遺跡保存活動の歩みと今後の課題」楠本昭夫(広島大会現地実行委員会)

②「731部隊遺跡の世界遺産登録に向けての経緯と現状報告」和田千代子(731部隊遺跡世界遺産登録をめざす会)

③「四国西南部の特攻基地―第132震陽隊・土佐清水市越基地跡を中心に―」出原恵三(戦跡保存ネットワーク高知)

④「川崎市宮前区に残る陸軍東部62部隊の戦争遺跡」山田譲(戦跡保存全国ネット)

⑤「茨城県最大の戦争史跡『鹿島海軍航空隊跡地』の未来について」金澤大介(筑波海軍航空隊記念館)

⑥「新重文指定の出雲日御碕灯台は、戦争遺跡です」西尾良一(戦跡保存全国ネットワーク)

全ての報告が、地道な活動の紹介で、参考になるものでした。詳細な調査の実施、保存をどう継承するのかなどの事例もあり、戦争遺跡保存が市民の手によって進められていることがよくわかりました。

そんな中で、私が、この第1分科会を選んだ理由の一つは、⑥の報告に興味があったからです。

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ここでは、西尾さんの報告で学んだことの一部を紹介します。

私にとって日御碕灯台といえば、子どもの時から何度も訪れた場所であり、海の青さに映える白亜の「東洋一の高さの灯台」ということだけが強く印象に残っている場所でした。ですから、「日御碕灯台が戦争遺跡?」とは、どういうことなのか知りたかったのです。

島根半島の東西の端に明治期に灯台(美保関と日御碕)が建設されましたが、西の岬で明治36年(1903年)4月1日に初点灯したのが、日御碕灯台です。灯台が点灯した明治36年は、日露戦争の前年です。当時の海軍は、日露戦争に備え、全国に116カ所の海軍望楼(うち仮設望楼は84か所)を設置します。仮説望楼のうち灯台と兼用して設けられたものが4カ所あったようですが、その一つが、日御碕灯台だったのです。海を監視する望楼は、遠くを望むことを目的としていますから、いずれも高い場所に作られています。その意味では、海沿いにあり高くそびえる灯台は、その目的にかなうものだったようです。日御碕灯台も、高さ63.3mですから、その役割を十分に果たしたといえます。灯台を守る職員とともに、望楼長1名、兵卒2名が常駐して、海上望楼を行っていたようです。

これで「日御碕灯台が戦争遺跡」としてあげられる理由が、理解できました。しかし、その史実は、日御碕灯台を紹介する資料の中に登場することはありませんので、地元の人もほとんど知られていない事実だと思います。

戦争遺跡といえば、どうしても第二次世界大戦時のことを思い起こしてしまうのですが、もっと長い西南戦争遺跡からの歴史があることも、今回のシンポジウムで学ぶことができました。

2日目の最後にアピールが採択されましたが、長文ですのでその一部を紹介します。

「戦争遺跡の改変、消滅の危機は一層増しています。島根県出雲大社基地、沖縄県那覇市首里城地下の沖縄守備軍司令壕の保存などまさに戦争遺跡保存の課題は待ったなしの状況です。同時に戦争遺跡の保存・活用の在り方をめぐって、旧日本軍の顕彰を目的とするような『軍事博物館』的な資料館、加害の側面を覆い隠し戦争を美化する手法などの例が数年来指摘されてきました。世界遺産に登録された長崎県端島炭鉱における朝鮮労働者についての責任ある説明の欠如、韓国での『徴用工裁判』への対応など、日本政府の歴史問題に対する不誠実な姿勢に通ずるものです。今必要なことは、日本が行った戦争の加害と侵略の歴史に真摯に向き合うことです。」

戦争遺跡保存を進める運動の役割が一層大きくなっています。3日目のフィールドワークには、参加しませんでした。

いのちとうとし

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2022年8月26日 (金)

第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会―第1日目のつづき

第1日目のつづきです。

基調報告によれば、史跡・文化財として国や地方自治体によって指定・登録されている戦争遺跡は、2022年8月現在342件確認されているとのことです。ちなみに広島県には、原爆ドームを含めて19件が登録されているようです。この全国シンポジウムがスタートした1997年には、数件にとどまっていたのですから、大きな前進です。

戦争遺跡の史跡・文化財としての指定・登録が進んだのは、全国各地での熱心な取り組みがあったからですが、その詳細の一端を知ったのは、二日目の分科会の報告です。

また基調報告では、この一年間で全国的に注目された戦争遺跡保存問題は、広島の「陸軍中国管区輜重兵補充隊関連施設」と島根の「旧海軍大社基地跡」だということが報告されました。この二つについては、いずれもこのブログで何度か取り上げたテーマです。

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基調報告をする菊池実さん

次に地元からの地域報告が二つありました。

最初は、広島大学名誉教授藤野次史さんの「第二次世界大戦時の広島市における軍事施設」と題しての報告です。藤野さんのお話は、「軍都廣島がどう形成されたのか、広島市の軍事施設の概要(60の施設がある)」が最初に紹介され、主題は「旧陸軍中国軍管区輜重兵補充隊跡(サッカースタジアム建設予定地)、旧広島陸軍兵器補給廠跡(現在の広大病院敷地)」の2か所の発掘調査の結果の報告でした。

「旧陸軍中国軍管区輜重兵補充隊跡」は、昨年何度かこのブログでも取り上げましたし、実際に発掘現場を何度も訪れていますので、藤野さんの話を改めて聞き、その貴重さを実感するとともに、運動が成果を上げることができず、破壊されてしまったことへの痛恨の思いを思い出すことになりました。

二つ目のテーマ「旧広島陸軍兵器補給廠跡」の報告は、初めて聞く内容でしたので、興味深く聞くことができました。かつてこのブログで「旧広島陸軍兵器補給廠」を取り上げるため、当時の配置図を探したことなどを思い出しました。その配置図どおりの遺構が発掘されたようです。一度発掘現場を見て見たかったとの思いがつのりました。

なお、藤野さんの報告資料として「第二次世界大戦時の広島市における軍事施設の配置状況」の地図と60の施設名(うち6カ所は地図表示なし)の一覧表が添付されていました。いくつか初めて聞く施設もありますので、少し涼しくなったらぜひ訊ねてみたいと思います。

もう一つの地元報告者は、大会現地実行委員長でもある多賀俊介さんです。

多賀さんの報告テーマは「陸軍被服支廠の保存、被爆遺構展示館の取り組み」でした。いずれも私も深く関ってきた問題です。よくまとまって、わかりやすい報告でしたので、取り組みの経緯を思い起こし、今後の取り組むべき課題を整理することができました。

1日目の全体集会は、これで終了しました。

当初、2日目の分科会だけ参加しようと思っていたのですが、この全体集会に参加して、本当に良かったと思います。

いのちとうとし

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2022年8月25日 (木)

上関原発誘致表明から40年

1982年6月29日、当時上関町長だった加納 新(かのう あらた)さんが、町議会の場で「町民の同意が得られれば、原発を誘致してもいい」と表明して、今年は40年という年となっています。地元山口県内のマスコミは、節目の年として多くの特集記事を報じていました。

しかし上関原発計画は前年の81年6月山口県議会で、当時の社会党議員が「誘致の動きがあるが…?」と質問したところ、県当局もそれを認めていますから、実質的には40年以上におよぶ建設計画なのです。

「10年ひと昔」という言葉がありますが、その4倍以上もの期間、上関町民の中に取り返しのつかない分裂と分断を生じさせている上関原発問題、私はこの期間の長さを思うだけでも許すことができません。

町長の誘致発言が行われたその年の11月、上関町祝島(いわいしま)では、島民から原発建設計画に反対する署名が集められ、島民の9割が署名し「愛郷一心会(あいきょういっしんかい)」が結成されました。この会は「愛する郷土のために心を一つにする」という意味です。現在の会の名前は「上関原発を建てさせない祝島島民の会」となりましたが、私は「愛郷一心会」の方が、祝島の人たちの気持ちを適格に表現していると思っています。

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原発計画地、田の浦から観る祝島の夕日

上関原発は、3・11後の国の「エネルギー基本計画」においても、認められていない新設の原発建設計画です。にも関わらず中国電力は「必要だ」と言い続けています。

上関原発建設の計画地には、面積にして約20パーセントの「原発建設には土地は売らない」という地主の土地があります。そのため約14万平方メートルの海面を埋め立てることとしています。

08年、中国電力は埋立て許認可の権限を持つ山口県に対し、最初の許可を申請しました。工事完了までを3年とした期限内に、埋め立て工事ができず期限を迎えました。この期間内に福島第一原発事故が起こったのは、皆さん知っておられることです。その後、中国電力は埋立てが出来ない中でも、延長申請を繰り返しています。

この度の埋め立て工事期限が、来年1月6日にやってきます。中国電力が事業者としての主体性と、40年以上も住民に迷惑を与えてきたという罪の自覚を持っているのなら、「延長申請は行わない」とするのが当然だと思います。

この度の株主総会で交代した中国電力の瀧本夏彦新社長は、7月4日に就任あいさつのために上関町役場を訪れ副町長と面会しました。報道陣の取材に対し「(延長申請について)現時点では決まったものはない」と答えています。上関原発建設問題の責任は中国電力だけでなく、山口県知事や上関町長にも大いにあります。

海は埋め立てられたら、元に戻すことはできません。計画地の正面に在る祝島の漁業者は、漁業補償金の受け取りも拒否しているのです。

昨年12月号の業界誌『エネルギーフォーラム』と、福井県にある業界紙『北陸政界』は、上関町が放射性廃棄物の処分場に狙われていることを報じました。確定的な証拠が在るわけではありませんが、臭いはプンプンとしています。

現在の計画地、上関町田の浦(たのうら)地区の風景は、40年前とほとんど変わっていません。今なら原発計画が撤回されれば、その姿を回復させることは可能でしょう。しかし亀裂した人間関係を元に戻すのは、そう簡単なことではないと思っています。

木原省治

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2022年8月24日 (水)

第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会―第1日目

「旧軍都・被爆都市を経て、戦争遺跡保存の原点となった広島から、戦争も核兵器も許さない世界の創造に向けた取り組みを深めよう」と呼びかけた「第25回戦争遺跡保存全国シンポジウム広島大会」が、20日から3日間、広島市青少年センターを主会場に開催されました。開催前は、参加者希望が少なく現地実行委員会は、少しやきもきしたようですが、2日目までで延べ310人の参加があったようです。コロナ過という状況を考えると成功だったと思われます。

私も以前から、全国の戦争遺跡保存の取り組みに興味を持っていましたので、初日の全体会・講演会と2日目の分科会(当初は2日目のみの参加予定)に参加しました。

3日目は、現地見学会(・広島市内コース・呉コース・太田川上流安野コース・平和公園めぐりコース)が実施されましたが、すでに何度か訪れた場所ですので、参加しませんでした。

初日の20日は、午後2時から広島市青少年センターホールで開催されました。余談ですが、会場の冷房設備の不具合のため、冷房なしの集会となりましたので、3時間は少し辛いものがありました。

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全体会は、地元実行委員会の多賀俊介実行委員長の開会のあいさつでスタートしました。最初に、平和記念資料館の館長も務めたことのある原田浩さん(1939年生まれ、6歳の時広島駅で被爆)が、「ヒロシマの願いを世界へ ~平和行政の歩み~」と題する記念講演。

次は、戦争遺跡保存全国ネットワーク運営委員の菊池実さんの基調報告が行われました。

その詳細は省略しますが、基調報告でも紹介された、今年のシンポジウムのタイトルにある「戦争遺跡保存の原点広島」について、触れておきます。

今年のシンポジウムが、第25回となっているように「戦争遺跡保存全国シンポジウム」は、1997年に長野県長野市松代から始まったものです。松代は、終戦末期に大本営や国の重要期間を移設するために地下壕を掘る施設工事が行われ(8割を終えたところで終戦となった)、戦後早くに保存運動が展開された地です。

1997年も重要です。原爆ドームの世界遺産登録は、1996年12月に実現するのですが、その時大きな障害となったのが国の「文化財指定基準」でした。この変更を実現させたのは、1993年に広島で始まった「原爆ドームの世界遺産化を求める国会請願(こっかいせいがん)のための全国的な署名(約165万)」運動です。この署名が力となって、当時「約100年を経過したもの」となっていた史跡・文化財指定基準に「戦争遺跡」が加えられたことになり、世界遺産登録への道が開けたのです。

この指定基準の改正は、アジア太平洋戦争期までの戦争遺跡を史跡・文化財に登録する道を開き、全国の戦争遺跡保存運動を行っていた人々に展望を与えることになったのです。

ですから、「戦争遺跡保存の原点となった広島」ということができると思います。

少し長くなりましたので、つづきは、26日に掲載します。

いのちとうとし

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2022年8月23日 (火)

2022.8月のブルーベリー農園その3

東広島市豊栄町にあるブルーベリー農園のブルーベリーは最盛期が続いている。お盆を過ぎると雨の降る日が多くなるが、昨年のような長雨は来ないようで援農者の皆さんとともにホッとしている。コロナにかかる人が下げ止まらないので、援農にくる方たちの日程を多少調整させていただき密を避ける工夫をしながらも、安芸の郷の事業所森の工房みみずくへの納品は順調に進んでいるので、皆さんと天気に感謝だ。どうやら豊作といってもいいシーズンになりそうだ。

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815日(月)

お盆休みだが、最小限の作業で里山の早生のブルーベリーの周囲をかこっている防鳥ネットの撤去行う。

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防鳥ネットを折りたたんだら長い梯子の上にのせて運び倉庫に仕舞う。

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816日(火)

農園の周囲に咲くヤブランの花穂をよく見ると花が開いている、受粉すると黒っぽい実が数珠玉のようにつく。

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819日(金)

北側の農道から里山のブルーベリー園を望む。(真ん中から左の斜面)

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農園の近くの田んぼと茶臼山。

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稲穂はよく実っている。

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820日(土)

午後210分ころから雷雨。「雨が降るのを見続けるのも久しぶり」とつぶやく援農者。上がるのを待ってブルーベリーの入ったコンテナを車に積み込む

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3時、雨あがる。ブルーベリーの実はびっしょり。帰る。

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821日(日)

ボランティアグループの摘み取り援農。この日は安芸の郷の2つのボランティアグループ、友人知人に摘み取りを手伝って頂いた。朝、雨雲レーダーを見ると昼頃まで農園の上空は雨雲が停滞していたので、雨を覚悟して出発したが、夏の熱気で雲が逃げ作業中は曇り空で助かった。

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摘み取りを終えて片づけをする。特に靴の裏についたブルーベリーの実を落とさないといけない。たくさんのブルーベリーの実の入ったコンテナを計量し、一輪車にのせて車に運ぶ準備。左の部屋がブルーベリーを保管するところでエアコンで冷やしている。

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農園の家の池にイトトンボがカップルでとまっている。卵を産みつけているようだ。今春ミニスイレンを池につけたのだが、トンボの産卵のお役に立ったようだ。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年8月22日 (月)

「基町写真展2022」に行ってきました。

広島市立大学と広島市中区役所による「基町プロジェクト」が主催する「基町写真展2022」が、基町市営アパートで8月28日まで開催されています。

「ふるさとのアルバムをめくる、めぐる。」写真展として、2015年に基町プロジェクトがスタートして以来、基町住宅地区内外の人たちから提供された懐かしい写真の一部を展示し、毎年8月に開催されてきたもののようです。

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この写真展は、時代の流れとともに大きく変化した基町地区の過去を振り返り、未来の展望を考えるきっかけとなる企画として開催されています。

これまでに3,000枚以上の写真資料が提供されています。

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8回目となる今回は、基町地区における何気ない普段を捉えたものや変わりゆく日常、住民の集合写真が展示されています。

なぜ基町の写真展に興味を持っているのかは、基町に関係する写真展を紹介した3月21日「写真展1976‐1978基町」に行きました。: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)、4月9日「明田弘司と、基町」写真展に行ってきました。: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)のブログで書いていますので、今回は省略します。

会場は、二つに分かれています。第1会場は、「ぜんいんしゅうごう!」です。

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家族写真や集合写真が並んでします。

私が見ている時、夫婦が入ってこられました。「あっこの写真は・・・」と懐かしそうに話しながら見ておられます。その内、知人が映っている写真があったのでしょうか、会場係の人にお願いをしておられます。「寝たきりでここに来られない母にこの写真を見せてやりたいのですが、写してもよいですか」「ちょっと待ってください、事務局に聞いてみますので」しばらくして「個人で見るために写されるのでしたらOKです」「ありがとうございます。母がきっと喜びます」。会話を交わした後、写真を撮っておられました。

そんな思いを持ったゆかりの人が多く見に来られるようです。

第2会場は、「あの日、あの時」です。

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ここには、基町で写されたスナップ写真が並んでいます。この会場には、戦後の住宅地図が拡大されて貼りつけられていますので、位置を確認しながら見ることができます。

今回も懐かしい思いで、見ることができました。

基町プロジェクトには、常設展示「基町資料室」がありますが、機会を改めて紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2022年8月21日 (日)

三原地区・府中地区の8月の「19日行動」

今月も、三原地区府中地区で「19日行動」が取り組まれ、その様子が三原の藤本講治さん、府中の小川敏男さんから届きました。

【三原地区】

午後5時30分から三原駅前に17人が参加して街宣活動を行いました。今月は、広島・長崎への原爆投下、そして敗戦から77年を迎え、核兵器廃絶と不戦を誓う様々な集会や行動に参加した思いを心に刻み街頭に立ちました。

リレートークでは5人の弁士がスピーチを行い、猛威を振るうコロナ感染症「第7波」への対応やウクライナ情勢に便乗した「憲法改正」や反対の世論が高まっている安倍元首相の「国葬」などについて岸田首相の政権運営について批判しました。

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「戦争をさせない三原市民行動」冨中豊彦共同代表は、

①緊急事態宣言やまん延防止措置の発令などこれまでのコロナ対策は何だったのか。政府は国民の命を守る政治を行っていない。今、一番やらなければならないのは、医療機関・福祉施設の確保、医療従事者が安心して働ける職場環境の整備である。今こそ、国民の命を守るため医療体制や福祉施設の充実を政府に求めていかなければならない。

②ロシアのウクライナ軍事侵攻を利用した核使用共有論や中国と台湾をめぐる有事に備え12兆円とも言われている軍事費の倍額や敵基地攻撃論など、日本は武力に依存する危険な方向へと大きく舵を切ろうとしている。今こそ、憲法前文と憲法9条(戦争の放棄・戦力の不保持・交戦権の否認)を活かす専守防衛、非核三原則(持たず・作らず・持ち込ませず)に徹した外交政策を行うべきだ。

③銃撃事件で亡くなった安倍元首相の国葬が9月27日に行われることになっている。法的根拠があいまいであり、国権の最高機関である国会で議論も無しに閣議決定したことは大変問題である。しかも安倍元首相への弔意を国民に押し付けることは、憲法19条の思想及び良心の自由に反します。私たちは、民主主義を揺るがす安倍元首相の国葬に反対します。加えて、反社会的な組織である世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と政治家とのつながりが大きな社会問題となっており、本質的な解明が必要である。

④今一度、政治を私たちの手に取り戻し、軍備拡大、戦争に向けた国づくりではなく、安心して平和に暮らせる社会を子どもたちに渡していく責任が私たち大人にあります。このことをしっかり考えていきましょう。

と訴えました。

藤本講治

【府中地区】

午後3時30分から上下Aコープ前12人、午後5時から府中天満屋前5人で「19日行動」を実施しました。

ただ府中から上下へ行った参加者が車のパンクで帰ることができず府中は参加者が5人になってしまいました。

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           上下Aコープ前

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府中天満屋前

今月の「19日行動」は安倍元首相の「国葬反対」を中心に行いました。

そのため、写真にあるように新たに「国葬反対」のプラカードと横断幕を安保法制に反対する府中市民の会代表の石岡真由海さんがつくってきてくれました。

リレートークでは、

自民党の議員は統一教会との関係を「見直します」とは言うけど「断ち切る」とは言わない。統一教会とは今後一切関係を断ち切ると宣言すべきだ。

安倍元首相が国葬に値するかどうかと言われているけど、戦前、国葬は国威発揚の道具だったと反省し、戦後、国葬の法律はなくなった。人の死を悼む気持ちは心の中で行うもので、国葬などする必要はない。

国葬を行えば挨拶の中で岸田首相は安倍元首相の遺志を継いで、憲法を改正して第9条に自衛隊を明記し、軍事費を現在の2倍にしますと言うだろう。

安倍元首相の国葬に名を借りた国威発揚になることは明らかです。

きちんと見抜いて反対しましょう。

と、訴えました。

最後に「国葬は927日(火)に予定されています。9月の19日行動でも安倍元首相の国葬に反対していこう」と話し合って解散しました。

小川敏男

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2022年8月20日 (土)

ベトナムの歴史(その14-2)

仏越戦争フランスによる過酷な植民地支配はじまる

アヘン戦争で清国の香港を割譲させ莫大な賠償金を手にしたイギリスを見たフランスは1847年2月26日、ダナン港のベトナム艦隊5隻を撃沈するなど砲艦外交を繰り返し、阮朝を圧迫します。しかし、その後も阮朝の外国勢力に抗する政策は続けられ、1857年にはフランス人とスペイン人宣教師を処刑します。

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フランス宣教師の処刑

1858年、これに対しフランス皇帝ナポレオン三世が布教、通商の自由宣教師に対する賠償請求をするためにベトナム遠征軍派遣を決定します。12隻のフランスとスペイン艦隊がダナンを襲い、3000人の海兵隊が上陸、ここからフランスによる本格的な植民地戦争(仏越戦争)が始まります。

1861年サイゴン上陸、翌62年6月5日、12ヶ条からなる「講和条約」によって屈辱的なフランス植民地時代が幕を開け、1867年6月25日、コーチシナ全域をフランス植民地と一方的に宣言します。

そして、フランスの植民地支配は日本とフランス両国による「二重の軛(くびき)」と呼ばれる時期を含め、1954年5月のディエン・ビエン・フーの戦いでフランスが敗北するまで続きます。

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次号ではフランスの植民地下のベトナムを見てゆきたいと思います。

(2022年8月20日、あかたつ)

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2022年8月19日 (金)

ベトナムの歴史(その14-1)

阮朝、1802年にベトナム史上初めて全土を統一

前号で日本の室町から江戸後期に当たる1428年~1802年頃のベトナムの概略を紹介しました。大雑把に振り返ってみます。

中国(明)の侵攻を破ったレ・ロイ(黎利)が黎朝を建て、国力を高め「ベトナムの歴史上で最も輝かしい時代」と呼ばれた100年余を経て衰退。その後、北部(ハノイ)の黎鄭(レイテイ)政権と中部(フエ)の阮(グエン)氏政権に分裂し、相争う「南北抗争時代」が250年続きます。中部の阮政権に反旗を翻した「西山(タイソン)の乱」で、一時政権を西山朝に奪われたグエン・フック・アイン(阮福映)が、フランス人宣教師の助けでフランスなど外国軍の支援を受け阮政権を復活させ、次いで北部の黎鄭政権を倒し、1802年にベトナム史上初めて全土を統一します。国号を「越南(ヴェトナム)」とする阮王朝を建て、ザーロン帝を名乗るところまでお話ししました。

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阮王朝初代皇帝 ザーロン帝

 西欧列強の砲艦外交に抗して

全土統一の戦いでザーロン帝はフランス人宣教師に一人息子のカインを人質として託し、フランス国王ルイ16世からの軍事支援を得ました。ヴェルサイユ宮殿で結ばれた「攻守同盟条約」は、「フランス国王は歩兵1200人、砲兵200人、アフリカ兵250人からなる軍隊を乗船させた帆走戦艦4隻をフランスの経費で速やかに交趾シナの沿岸に派遣する。軍隊は一切の軍需品、特に野砲を備える。交趾シナの国王は必要に応じダナンと崑崙島(コンダオ)の絶対的領有権並びに主権を譲渡する。交趾シナ全域でフランス人のみ国内商業営業権を独占させる」というものでした。

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ダナンに上陸したフランス・スペインの陸戦隊

フランスとの関係を維持し基礎を築いてきたザーロン帝の死後、二代目のミンマン帝は反政府勢力への外国勢力の干渉やイギリスの清国攻撃の兆候、露骨な植民地化を進めるフランスなど抗して、キリスト教の弾圧など外国勢力に対する強硬政策と鎖国政策をとります。

(2022年8月19日、あかたつ)

【編集者】毎月20日に掲載していたあかたつさんの「ベトナムの歴史」は、編集者の都合によりあかたつさんの了解を得て、今号(その14)は、今日、明日の2回に分けて掲載します。

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2022年8月18日 (木)

藤登弘郎さんの水彩画集「原爆資料館 無言の証言」

被爆建物や被爆樹木などを描き続けてこられたアマチュア画家藤登弘郎さんの7冊目となる画集「あの日から77年悲しみは消えない 原爆資料館 無言の証言」が、自費出版され、私ものもとにも送られてきました。

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「刊行にあたり」には、次のように書かれています。一部を引用します。

「1955年(昭和30年)に完成した原爆資料館には、2万点を超す被爆資料が収蔵されています。これらは原爆の悲惨さだけでなく、持ち主の思いや当時の人々の暮らし、喜びと悲しみ、無念さを今に伝える、大きな役割を担っています。

遠からずやってくる、被爆者のいなくなる日。資料館に残された遺品は『無言の証言』となるでしょう。

この一年間、私は資料館を訪れ、被爆者や遺族から資料館に託された数々の遺品を目にしました。遺品から、核廃絶と戦争のない平和な世界を願う『ヒロシマの心』を知ってもらいたいと思い、絵を描き始めました。少年少女が着ていたであろう焦げた衣服やかばん。熱で変形した瓦・・・描くうちに、平和に暮らしていた人たちの命を奪った、原爆そして戦争に怒りがこみ上げ、涙を禁じ得ませんでした。

今回は、地質学者として被爆直後の広島に入り、執念で遺品を収集―研究した長岡省三さんと資料館の歩みにも目を向けました。初代館長となった長岡さんに共鳴した人たちが収集に協力し、長岡さんは『悪魔の刻印』と呼んだ遺品1500点を寄贈。資料館の礎を築きました。(略)

『核兵器が存在する限り、悲惨は繰り返される』。犠牲者の遺品は無言で訴えています。つらい体験を語り続けてきた被爆者と、この気持ちを共有したい。小さな力ですが、広島市民の一人として、被爆の惨状をしっかりと後世に伝えていきたいと思います。」

この画集には、89点の原爆資料館の遺品を描いた作品が収められています。何度も何度も原爆資料館に足を運ばれたようすが浮かんできます。

最初の作品は伸ちゃんの「三輪車・鉄かぶと」です。

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それぞれに遺品の被爆時の状況が書き添えられています。

「森脇瑤子さんの制服」には、2021年4月5日付の「少女の未来 奪われた 兄・細川さん被爆者の思い託す」とタイトルの付いた記事が添付されています。あと数点同じように中国新聞の記事が添付された作品がありあす。

今回の画集には、遺品を描いた作品に加え、被爆建物や樹木、地蔵、慰霊碑など、これまで描いてこられた35点も収められています。

「7冊目の画集」と紹介しましたが、被爆をテーマにした画集は、201年7月に発刊された2冊目の「被爆建物は今」以後の6冊です。

この画集は、200部発行されましたが、主に広島市立の各中学校や市立中央図書館に寄贈されていますので私に寄贈していただいた一冊も大変貴重なものです。

「刊行にあたり」に込められた藤登弘郎さんの思いを共有しながら、以前送っていただいた画集と一緒に大切に所蔵したいと思います。

いのちとうとし

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2022年8月17日 (水)

新作が並ぶ「原爆の絵画展」に行ってきました。

広島市立基町高校普通科創造表現コースの生徒たちが、15年前から毎年、原爆被害の実相を後世に伝えるため被爆体験証言者とともに取り組んでいる「原爆の絵」の展覧会が、今月7日~19日までの会期で広島国際会議場地下2階ダリアで開催されています。

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今年の展覧会には、今年完成した16点の新作(うち11点は、今年7月に完成)を含む57点の作品が展示されています。

作品のスタートは、新作の「原爆の炸裂の瞬間」を描いた作品です。

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その他にも、新作が並んでします。

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左の作品のタイトルは「金庫の中で死んでいた」です。8月6日の夕方大須賀町の様子で、キャプションには、「金庫の中に入いれば助かると思ったのか。人間が炭のようになって死んでいた」と書かれています。右の作品のタイトルは「ひっくり返った貨車からコメがザーザーと流れ落ちていた」です。これも大須賀町での様子です。いずれも証言者は、早志百合子さんです。作者は、左の作品が平田真弓さん、右の作品が益田彩可さんです。お一人の証言から、二つの作品が生まれました。

切明千枝子さんの証言をもとにした新作が続きます。「お母ちゃんを探して」です。

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「つまずいたのは炭化した幼児だった」です。

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「原爆の絵」の展示方法について、7月19日のブログ「原爆の絵」原画展に行っていました: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で、「描かれた場所ごとに展示するのも一つの方法ではないか」と書きましたが、今回の作品は、時間の経過ごとにまとめて形で展示されていました。

「原爆の炸裂の瞬間」からスタートします。「原爆の炸裂の瞬間」を描いた作品は、1点だけです。次は「原爆投下直後」を描いた作品7点。さらに「避難途中に見た原爆被害」33点と続きます。避難途中で見た原爆被害の様子が強く印象に残っているのでしょう、作品も一番多くなっています。その後「原爆投下翌日の光景」3点、「原爆投下から数日後」10点、「戦後の生活と広島の復興」3点が、順番に並んでいます。

ですから今年は、最初に紹介した作品のように所々に「順路⇒」の表示があります。

これまでに182点の絵が描かれていますが、今回展示されている作品は57点ですので、被爆体験証言者全員の証言を描いた作品が展示されているわけではありません。そのためでしょうか、これまで協力された被爆体験証言者32人全員の名前を紹介するポスター一枚も展示されていました。

毎年この展覧会を見に行っていますが、いつも見に来てよかったと思わせてくれる作品の数々です。

最終日の19日まであと三日、毎日午前10時から午後5時まで入場することができますので、ぜひ一度会場を訪れ、高校生の力作を見てほしいと思います。

いのちとうとし

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2022年8月16日 (火)

8・15のつどい

2002年から、毎年8月15日に開催されてきた「8・15のつどい 反戦・原爆詩を朗読する市民のつどい」が、今年は会場の都合で8月14日に広島市まちづくり市民交流プラザで開催されました。

「8月15日」を改めて問い直す企画として広島文学資料保存の会、広島花玄忌の会、四國五郎追悼の会の三団体が主催し、毎年8月15日の午後に開催されてきました。私も数年前から、参加しています。

例年、第一部では、原爆詩・反戦詩が朗読されてきましたが、今年は朗読劇「神部ハナという女の一生」が、上演されました。

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「神部ハナという女の一生」は、もぐり助産婦の神部ハナが、堕胎罪に問われながらもしたたかに生きていく様子が描かれたものです。最後のシーンで、神部ハナは原爆症で命を失う構成になっていますが、なぜ今年は、この構成詩なのか?ちょっと疑問符が付くものでした。

例年通り、集会のタイトル通り「反戦・原爆詩」、例えば原民喜の詩の朗読が行われればよかったのに、というのが率直な感想です。

第二部は、「今、改めて四國五郎を思うーウクライナ。核・表現の不自由―」と題した元NHKプロデューサーで武蔵野大学教授の永田浩三さんの講演です。永田さんは、2016年に発刊された「ヒロシマを伝える 詩画人・四國五郎と原爆の表現者たち」の著者です。

永田さんの話は、被爆直後から朝鮮戦争の時代にかけての広島の反戦・平和運動の歴史を、四國五郎さんの様々な詩を間に挟みながらたどるものでした。冒頭は、いま安倍前総理の死去の後に起こっている出来事、特に国葬の問題を問う内容でした。メディアで批判されている朝日新聞の川柳の紹介もありました。その一つです。「忖度は どこまで続く あの世まで」 言い得て妙の川柳ですが、恥ずかしながら、私自身はこの場で紹介されるまでよく知りませんでした。

永田さんは、四國五郎の詩だけでなく、大田洋子の小説「屍の街」や原民喜の「水ヲ下サイ アア 水ヲ下サイ ノマシテ下サイ」、正田篠江の短歌、栗原貞子の「ヒロシマというとき」などが紹介され、ほっとしました。

もう一つ、永田さんの話で初めて知ったことがあります。日本人が最初に写真で原爆の惨状を知ったのは、1952年8月に発行された「アサヒグラフ」の特集だと言われていますが(私もずっとそう思ってきた)、それより2年早く1950年6月9日の「平和戦線」という本だったことです。下関でこっそりと4万部印刷されたそうですが、まだ占領下、プレスコード(占領軍による事前検閲)下でしたので、即時発行停止処分になり、世には出なかった様です。

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興味深い話が続きましたが、最後に「『自由にものが言えない社会』にしないためには、市民がさまざまな声を上げ、表現を止めないことだ」ということを強調し、「表現者はカナリヤ 闇を照らすともしび 世界に輪郭を提供する 絵画や言葉で」と結んで、講演は終わりました。

広島は、8月6日だけでなく8月15日をどう過ごすのか、問われる時代になっていると思います。

いのちとうとし

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2022年8月15日 (月)

2022.8月のブルーベリー農園その2

東広島市豊栄町にあるブルーベリー園は、安芸区矢野にある安芸の郷のブルーベリー園より標高が高いので最盛期が8月上旬からお盆を中心になってくる。農園ではブルーベリーの摘み取りの援農が続いていて、ブルーベリーの供給が途切れないので森の工房みみずくのブルーベリーの生食の販売も順調に進んでいて、とても助かっている。天候も昨年はお盆を前後して長雨が続き摘み取りができない日が続いたが、今年はいい天気が続いていて、自然相手の農業は天気に左右されることを毎年痛感している。

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87日(日)

農園に広がる夏空。

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摘み取り援農の皆さんの中には、年々この送風機付きのジャケットを身に着けて摘み取り方が増えている。

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810日(水)

イトトンボは時々羽を広げる。農園の庭の池にはカエル、イモリ、トンボ、ヘビなどがレギユラー。

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811日(木)

2つの安芸の郷のボランティアグループと家族連れの摘み取り援農で最盛期のブルーベリーの摘み取りを行って頂いた。昼休みまえ、外の水場で手を洗い籠を洗う皆さん。

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午後の摘み取り再開。家族連れで来ている子どもは大きい木は多分ちょっと怖いので、小さい木の方が摘み取りしやすいようだ。

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末っ子のこの子は、摘み取りをした後の休憩で、ブルーベリージュースをゴクン。おいしかったので「お代わり!」をする。眠気もこず頑張って頂いた。

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813日(土)

ベトナムから来て働いている人を受け入れている会社のオーナーが彼らとその友達を伴って摘み取り援農に来園。今年で3年目だ。お昼の食事ではベトナムの皆さんに冷たいスイーツを頂いた。このスイーツの名前を聞くと、チェ・チャイ・ヌックと書いてくれた。中にあんこ状にした豆をタピオカでくるんである。甘くて冷やして食べるので氷も用意されていた。甘くておいしかった。ベトナムのスイーツのジャンルとしては「チェー」に入るようだ。今日のブルーベリーの摘み取りに合わせて料理したようでふだん仕事、仕事で会うこともない日々だろうから集まる場として農園が役立っている。

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午後も暑い中畑のブルーベリーの摘み取りを続ける。午後はホームベルという品種だけを収穫して頂いた。

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午後2時、摘み取り終了。

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後片付けでは、靴にこびりついたブルーベリーの実を水で洗いこすって落としてきれいにする。

 

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帰り支度をする合間に、アカチシャ、サンショ、ドクダミ、ミントの葉を採取する皆さん。料理の素材として欠かせないらしい。どれもスーパーでは手に入りにくいので手にした葉っぱを見て皆さんニコニコ。夫婦で、カップルで来た方もいて明日はベトナムに帰る友人の送別会だそうだ。

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皆さんがお帰りになった後遠くで雷が鳴り、黒い雲が空を覆ってきたので、急いでブルーベリーを車に積んだ。幸い帰るまで雨は降らなかった。

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庭の花壇にはカクトラノオが開花。ブルーベリーの摘み取りシーズンが終わるまで咲き続けてくれる花。

安芸区の家に帰り夜窓を開けて風を入れる。昨日までと違った冷気がすーっと入ってきた。お盆頃にはやっぱり朝夕涼しくなる。猛暑が続くがちょっと一息つける季節がきた。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年8月14日 (日)

平和大通り「Akari Matsuri」

特定非営利活動法人セトラひろしま~伝統文化継承プロジェクト「広島芸能」~が主催する「平和大通り『Akari Matsuri』」が、12日、13日の二日間平和大通り広島信用金庫前緑地帯で、今年初めて開催されました。

どういうわけが、事前に広島県原水禁宛てに案内が届いていましたので、初日12日に出かけてみました。13日は午後3時過ぎに雷雨となり開催できたのかちょっと心配でしたが、無事開催されたようです。

会場で配布されていたチラシには、この企画についてこう書かれています。「広島市中心部に位置する平和大通り。様々な人が行き交うこの場所の灯りをともします。この場所で『日本の伝統文化』と『灯り』をテーマとしたステージやブースを開催。様々な思いを込めた灯りがたくさん集まり、広島の夜を照らすことでこの街に住む人々や訪れる人々、そして広島と世界を繋ぐ道しるべとなっていくことを願います。」

この祭りのスタートは、午後5時半ですが、私が訪れたのは、午後7時半過ぎです。理由は二つ。一つは、ある程度暗くならないとせっかくの灯りが、きれいに映えないだろうと思ったこと。二つは、ステージでの三部構成の演奏(午後6時半「竹」、7時半「風」、8時半「夢」)の「風」が始まる時間だからです。

到着するとステージでは、奄美三味線と尺八の演奏が行われていました。

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少し写りは悪いですが、多くの観客が楽しんでします。

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夕方準備中に訪れた時には、屋台になるのかなと思った場所では、様々なワークショップが行われていました。

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お面の絵付け。

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こちらでは提灯の絵付けです。子どもたちが熱心に書いています。

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他にも、竹灯り作り、盆栽作り、うちわ型染めなどなど、充実しています。いずれも有料ですが、沢山の人が訪れていました。

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灯りまつりの主役ともいえる大きな灯篭も並んでいます。

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再びステージに戻ると書道のパフォーマンスが終わったところで作品が並んでします。

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30分ほどで会場を後にしましたが、最後に事務局の木村さんとお話しすることができました。「予想を超える人に来ていただいています。ワークショップもたくさんの人に参加していただき、本当にうれしいです。これからも定期的に開催できればと思っています。貴重な平和大通りの空間が、多くの人に広く活用されるようになれば良いと思っています。」とのことでした。

今後も第2回は今年の10月7日から8日、第3回は12月23日から24日に開催される予定です。

この「灯りまつり」は、カフェなどの建物を作りことよりも、自由に使える広場として活用し、市民や広島を訪れた人たちが憩える場として工夫して活用すれば、多くの人を集めることができることを示しています。

これまでも平和大通りでのパフォーマンスは、いくつか企画されていますが、これだけ大きな規模での企画は初めてのように思いますので、広島市が進めようとしている「平和大通りのにぎわいづくり」への大きなヒントを与える「灯りまつり」だったように思います。

いのちとうとし

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2022年8月13日 (土)

「レクイエム碑(いしぶみ)」コンサート

少し前になりますが、先月31日に県民文化センターで開催された県立観音高校音楽部OB合唱団の第19回祈念コンサート(混声合唱)「レクエム碑(いしぶみ)」に行ってきました。

ここ2年間、コロナの感染拡大で中止されていましたが、コロナ対策の準備や工夫を重ねて、この日を迎えたようです。会場は、ほぼ満席の状態でした。

県立観音高校音楽部OB合唱団は、2001年に発足し、その翌年から、観音高校の前身である旧制広島二中1年生の被爆悲劇を綴った‟レクイエム「碑」“祈念コンサートが始まり、今回で19回を迎えました。

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私が、最初にこの祈念コンサートを聞きに行ったのは、2019年です。この合唱団を指揮されている益田遙先生から誘いを受けたことがきっかけでした。益田先生は、昭和39年度(1964年度)から昭和50年度(1975年度)まで、同校音楽部の顧問をされており、このOB合唱団のメンバーもその時、指導を受けた合唱部員で構成されています。

コンサートは、二部構成で、「混声合唱のためのレクイエム『碑』」は、第2部です。

「混声合唱のためのレクイエム『碑』」は、広島に投下された原爆により全滅した広島二中の一年生の、被爆の瞬間から全滅までの惨状を、生徒たちの学校生活の様子を交え、全9章「序章、点呼、爆発、川の中で、時間割、まさちゃんのお母さんよ、船の中で、全滅、終章」で構成されています。

作詞者である薄田純一郎さん(同校の20回卒業生・昭和16年入学)は、県立広島第二中学校創立50周年(1972年)に発行された「記念誌」に寄せた手記で、「碑」が作られた経緯を次のように書いています。少し長いのですが、該当する部分を引用します。

「本川土手で全滅した一年生の様子は、機会をえて昭和44年(1969年)に勤めている広島テレビ放送で、テレビ番組として放送することができた。母校だからというのではなく、それはあの惨状を目撃した生き残りの人々が誰しも思う、広島の怒りを語りたい衝動を、一年生の行動なり言動を通して表現したかったのである。プロデューサーとして制作にあたり、全国放送のネットにものって芸術祭優秀賞もうけた。

この『碑』は、その後に児童生徒向きの本に書きあげてポプラ社から出版され、また当時二年生であった広島メンネルコールの山本定男氏の依頼で、先輩の森脇憲三氏の作曲になる男性合唱のためのレクイエム『いしぶみ』にもなった。

最近、東京、大阪大学合唱団であいついでこの合唱曲がとりあげられた。作詞者としてまねかれ、いまの若い世代が広島二中の一年生の運命をどう受け止めているかに接することができた。それは怒りであった。広島二中の一年生に象徴される広島の悲劇を痛恨としかいいようのない気持ちで感じていたのであった。生き残ったものの務めを幾分なりとも果たしたような気がするである。

聞けば、あの土手の慰霊碑は在校生によって、いつも清掃されているそうである。戦後すぐ、木の墓標が建ったことを知るものとしては心うれしいことである。青春が、学業が唯一の思い出となる時代に、こうした記憶を持つことはつらいが、それはまた青春の大切さをひしひしと胸にせまってくるものである。新しい時代には新しい力が必要である。そんな思いをこめて合唱曲『いしぶみ』の最後をこう結んだ。

子らの声聞く人あれば

広島の心が聞こえる

広島を思う人あれば

広島は永遠にあり」

男性混声合唱曲としてスタートしたこの曲が、混声合唱版として初演されたのは、1975年7月のことのようです。

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コンサートが終わると、本川土手に建つ広島二中の慰霊碑に頭をたれて、帰宅しました。

いのちとうとし

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2022年8月12日 (金)

お墓参り

昨日、知人2人と一緒に、広島県被団協前理事長坪井直さんのお墓参りに行ってきました。

坪井家のお墓は、西区己斐にあります。かなり大きな墓苑です。お盆前ということで訪れる人も多く、墓苑入り口(入口には大きな管理棟がある)の少し手前から車の列がつながっていました。

坪井家のお墓は、2段になっている墓地の上の段にあります。一度訪れたことのある中本さんの案内で、何とかお墓にたどり着きました。口で説明されただけでは、とてもたどり着くことはできない場所です。

お墓には、初盆を表す白い盆灯篭1本が立っていました。

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線香に火をつけ、早速頭を垂れます。

お墓の右側面に二人の名前が刻まれています。先に亡くなられて奥様の名前の右側に自分の名前を刻めるように、あらかじめ2行分空けてあったようで、右端に坪井さんの没年「令和3年10月24日」などがと刻まれています。

左隣に奥様の没年月日「平成4年6月3日没」が刻まれています。平成4年は、1992年ですから、私が初めて坪井さんに会った2年前に亡くなられていますので、奥さんには一度もお会いしたことがありません。

坪井さんが、広島県被団協で働き始められたころ、時々会合の後夕食を共にし、車で坪井さんを自宅まで送って行ったことがあります。自宅にはいつも明かりがともっていませんでした。奥様をなくして、一人きりの生活だったのです。玄関を開けて、時には座敷まで上がり込んだことを思い出します。

お墓参りをしながら、「テレビが記録したヒロシマ」で上映された「あきらめない 被爆者・坪井直 96年の生涯」に、奥様のお墓参りをする坪井さんが映っていたことを思い出しました。その時は、お墓のある場所がどこかわからなかったのですが、この場所だったのです。

お墓から振り返ると、前方に広島市内の中心部の街並み遠望できます。見晴らしの良い場所です。

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「坪井さん、ここからいつも私たちの活動を見守っていたくださいね」と呼びかけたくなる景色です。

私たちが、お墓参りを終える頃、坪井さんをいつも送り迎えしておられた娘さんの親族の方たちがお見えになりました。これも何かの縁と思い、坪井さんのお話を少しして、お墓参りを終えました。

いのちとうとし

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2022年8月11日 (木)

「テレビが記録したヒロシマ」-NHK・民放番組上映会2022

広島平和記念資料館東館地下ホールで、今月7日から始まっていた「テレビが記録したヒロシマ-NHK・民放番組上映会2022」に、最終日の昨日行ってきました。

この上映会は、NHK広島放送局、中国放送、広島テレビ放送、広島ホームテレビ、テレビ新広島の5局が協力し、被爆70周年の2015年から開始した取り組みです。コロナ禍で2年間開催できず、今年は3年ぶりの開催となったようです。各局が制作した核・平和関連の番組の中から、各局が選んだ14本の番組の中から、午前10時開始午後6時終了で、1日9本から11本の番組が上映されました。

私が訪れた最終日の10日は、4日間の中でも最も多い11本を上映するスケジュールになっていました。

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私が会場を訪れたのは、午前10時少し前でした。会場には、一人の姿も見ることができませんでしたが、上映が開始される午前10時過ぎには、10人余り参加者がありました。

最初の上映は、広島テレビが今年3月13日に放送した「あきらめない 被爆者・坪井直 96年の生涯」です。上映時間は25分、生放送で見た記憶のある番組でした。短い番組ですが、コンパクトにまとめらており、改めて坪井さんの足跡を振り返ることができ、もうあの声を直接聞くことができないのかという思いがつのりました。

5分間の休憩の後、2本目の広島ホームテレビ作成の「私は何者なのか~原爆孤児となって~」の上映が始まりました。このころになると20人ちょっとの観客になっていました。上映時間は、52分。配布されたパンフレットのよれば「4歳の時被爆した『田中正夫』のルーツを探す旅」を追う番組で、2019年12月28日放送となっていますが、見た記憶がない番組でした。

あと9本の番組が上映される予定ですので、全部見たい思いもありましたが、別の用事もあり、ここで退席しました。

会場には、途中の出入りもありましたが、常時20人以上の観覧があったように思います。特に、旅行で平和公園を訪れた途中と思われる親子連れの姿が目に付きました。

広島の放送局が、被爆地ならではの視点から制作した番組ですが、民放では多くが県内エリアのみの放送で、全国で放送される番組は、少ないように思います。

その意味では、ほとんど見る機会のなかった県外からの参加者が多かったのは、良かったなと思います。

ただ、今回選ばれた作品は、最も古いもの2017年で、ほとんどがここ2~3年に制作されたものですので、私の感想からいえば、もう少し古い時代(1990年代)のものも上映するようにしてほしいなと思います。

というのも、今年5月頃から(気がついたのはその頃)中国放送が、199年代作成の古い番組の再放送(深夜なので録画をして観た)しており、強い印象を受けたからです。

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会場を出て、1階に上がると資料館入館を待つ長蛇の列(外にも続く)がありました。

いのちとうとし

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2022年8月10日 (水)

伝えていく役割り

 被爆77周年の、やっぱり多忙だった時間が終わりました。「そうなんだ!」と認識したのですが、明治維新から77年で原爆投下・終戦があり、そこから今年が77年という年なのですね。

 この度の一連の行事に参加してもっとも思ったのは、僕たち世代の者の伝えていくことの役割りということでした。6月にウイーンで開催された核兵器禁止条約第1回締約国会議での若い人たちの活躍、今年の広島でも数多くの行事で若い人の元気な姿があり、とても力強く感じました。

 8月5日は、朝早くから平和公園で碑めぐり案内のガイドをしました。普通は小中高の修学旅行生へのガイド役が多いのですが、この度は労働組合員の人たちでした。全国から参加した50名を、5人のガイドで担当しました。組合員の人たちも若い人の参加がほとんどで、初めて平和公園に来たという人も多かったです。若い視線で熱心に聞いてもらい質問もたくさん出て、とても充実した時間でした。

 この日の午後は原水禁大会ひろば企画、「戦争とヒバクの今を考える!」という集まりの進行役を担いました。この中で「核政策を知りたい広島若者有権者の会」から、「核兵器なき世界へ一人ひとりが行動を」というタイトルで若い目線での話しをしてもらいました。

 その場で思ったのですが、私たち世代の話しが解りやすく若い世代の人に伝わっているだろうかという、自らへの反省を込めたものでした。なんといっても私たちの話しは、専門語が多すぎるということだと思いました。特に核問題は専門語が多すぎます。「アルプス汚染水」「フクイチ」「デブリ」「ジーセブン」等など、私たちは当然解っているものだと思って使っていますが、この意味をきちんと理解していないと、続きの話しが理解出来なくなります。

 私たちの話しを聞いてもらい、そこから聞いたことを拡散して伝えていってもらう役割りをお願いするのならば、心に響く、自分事になる言葉を使うことを最大限心がけることではないでしょうか。

 そして誉めることの大切さを感じました。まず話した人の眼をしっかりと見て大きな拍手をする、励ましになる意見や感想の言葉を掛けることではないでしょうか。私たち世代が高齢化していく中では、どうしても若い世代に頑張ってもらわないと困るのですから。

 この「若い」というのは単に年齢だけでなく、原水禁大会に初めて参加した人たちも同じだと思いました。

 8月6日は市主催の式典に参加しました。コロナ禍で参列人数の制限が行われていますが、今年は安倍晋三元首相の銃撃事件があった関係で、入口では持ち物だけではなく、金属探知機でのチェックも行われました。グテーレス国連事務総長のあいさつは、とても心に迫りました。

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国連広報センター

核兵器禁止条約について「希望の光」と述べ、核兵器保有国は、核兵器の「先制不使用」を約束しなければなりませんと言ったことです。

岸田さんのNPT(核拡散防止条約)の会議での発言、広島のあいさつを聞く限り、この問題での外務省見解を一歩も変える気持ちはないようですね。これなら来年のG7広島サミットも期待できませんね。「世界の指導者の人たち、広島・長崎を訪れ、被爆の実相を知ってほしい」などと、これまで発信してきた者として「開催反対」とはいいませんが、しっかりと「ヒロシマの心」というか「ヒロシマの思想」を、伝える場、形を作らなければならないと思いました。

式典の後は、メルパルク広島で開催された広島県被団協の慰霊式に手伝いを兼ねて参加しました。例年ではこの時間、中国電力本社前の反原発集会に参加するのですが、被爆者の高齢化いう状況の中で、式典と慰霊式への参加を選びました。

あと23年したら被爆100年という年となります。僕も生きていたら96歳です。出来るものなら、「100年のヒロシマ」を見届けたいものです。

木原省治

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2022年8月 9日 (火)

今日は、77年目の長崎に原爆が投下された日

今日8月9日は、77年前史上2発目の原爆が、長崎の投下された日です。

2019年までの多くの年私は原爆投下時間の午前11時2分を原水禁世界大会長崎大会に参加した仲間とともに、長崎の爆心地公園で迎え、 黙とうを捧げました。

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2019年8月9日の爆心地公園

 今年は、長崎を訪れることができませんでしたので、自宅で午前11時2分を迎え、黙とうをささげる予定にしています。

広島、長崎への違法な原爆投下で、どれだけの尊い命が奪われたのか?その犠牲者数は、いまだ確定していません。

広島では、「その年の12月末までに14万人±1万人の人々の命が奪われた」とされていますが、そのうち名前が明らかに担っている人は、何人でしょうか。

広島市が行っている「原爆被爆者動態調査」によれば、今日現在8万9065人です。14万人の犠牲者数とはあまりにも開きがあり過ぎます。

長崎の犠牲者数は、様々な資料に「7万3884人」という人数が記載されています。一桁の人数まで記載されていますが、その疑問については2018年8月26日のブログ「長崎の原爆犠牲者数―7万3884人: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)に書いていますので、今日は省略します。

もう一つ、原爆被害がどれほどすさまじかったかを示すものとして、毎年広島市が嗚呼谷作成し全国の自治体にも送付している「原爆供養塔納骨名簿 遺族を探しています」があります。

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供養塔前の掲示板(写真左端)にも名簿がはられています

 この名簿には、平和公園の原爆供養塔に安置されている原爆死没者約7万柱の遺骨のうち、氏名がわかっていながら引き取り手のない814柱の名前が掲載され、遺族を探しています。毎年この名簿を全国の自治体に送付しるなど、遺族探しが続いています。こうした努力によって直近3年間で、二人の遺骨が遺族のもとに返還されました。昨年は、中国新聞の「ヒロシマの空白」の報道をきっかけに、「梶山ハル」さん(名簿には「鍛冶山はる」となっていた)の遺族が確認され、遺骨が引き取られました。

未だ、埋めることのできない被爆の事実ですが、77年経っても空白を埋める努力が続いています。そして、今までに知られていなかった事実が明らかになっています。

長崎の原爆の日、その原爆被害の実相が少しでも明らかにすることこそが、犠牲となった人たちへの真の意味での追悼になるのではないかと思っています。

広島を考える時、つねに長崎を一緒に考え、長崎の先進的な運動に学ぶことが大切だと改めて考える一日にしたいと思います。

いのちとうとし

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2022年8月 8日 (月)

2022.8月のブルーベリー農園その1

東広島市豊栄町にあるブルーベリー農園はブルーベリーの最盛期に入っていて、安芸の郷の事業所の森の工房みみずくや2つの障害者の通う事業所、友人知人、安芸の郷のボランティアグループの皆さんが援農に参加頂いている。森の工房みみずくがブルーベリーの生食の販売窓口で、しっかり農園から実の供給を行わないといけないのでとて助かっている。2日には放課後デイの子どもたちが職員を一緒に来園し、ワイワイと摘み取り体験をされた。

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82日(火)

ブルーベリー農園には夏らしい青空が広がる。

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午前中ブルーベリー摘み取りの援農で3組のグループがお見えになり、園内のブルーベリーをたくさん摘み取って頂きたくさんのブルーベリーを森の工房みみずくに納品できた。

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農園の近くの田んぼ。稲穂がしっかりついている。

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84日(木)

里山のブルーベリー農園のブルーベリーの実。ブルーベリーは一気に実らない。おおおそ40日位の間で色づいていく。

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農園の庭のヤブランが花穂を見せている。

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86日(土)

3つのグループの援農があり、ブルーベリー畑、里山のブルーベリー園に分かれて多くの実を摘み取って頂く。

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そろそろ休憩をする時間の午後2時頃空が暗くなり、雷がなり、ぱらぱらと雨が降り出してきた。休憩に入っていたら激しい雨が降ってきたので今日はおしまいにする。

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皆さんが帰った後の雨上がりの空。

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農園の花壇に今年もひとつホオズキが顔を出す。

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里山の周辺に咲くナデシコ。標高約400mの農園はどことなく初秋のかすかな気配がする。

 

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2022年8月 7日 (日)

8.6の一日

広島に世界最初の原爆が投下されて77年目のあの日を迎えました。

今年の8.6の日の私の行動です。

広島市原爆死没者慰霊式・平和記念式に原水禁国民会議を代表して参加するため、朝はいつもより30分ほど早起きです。

広島市からの案内状には、「午前7時20分までに受付を済ませてください」と書かれていましたので、自宅を7時に出発するためです。

平和公園の会場周辺は、広島市職員が隙間なく立ちロープが張られていますので、国際会議場前の受付まで進みます。少し異様な風景に見えます。

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受付を終え、指定された座席に行くと、もうすでにほとんどの席が埋まっていました。

定刻通り式典が始まり、いつものようにまさに整然と式は進行します。

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式典は予定を少しオーバーして終了。すぐに原水禁世界大会のまとめ集会の会場に移動します。式典会場の横から移動できませんので、平和大通りまで戻って、少し遠回りで、県民文化センターに移動しました。

午前9時半からまとめ集会がスタート。私は、主催者あいさつをしました。今回で3回目のあいさつです。

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午前10時から始まる広島県被団協の「原爆死没者追悼慰霊式」に参加するため、あいさつが終わると退席しましたので、採択された「ヒロシマアピール」の一部を紹介します。


 1945年8月6日午前8時15分、広島に投下された原子爆弾は、強烈な「熱線」、「爆風」、「放射線」のもと、その年の内に14万人もの生命を奪い去りました。あの日から77年、被爆者の高齢化は進み、限られた時間の中で、援護対策の充実と国家の責任を求めることが急務となっています。また、米国とロシア・中国の大国同士の対立などで混迷する世界情勢を受けて、核兵器をめぐる状況は危機感を深めています。改めて核兵器廃絶への歩みを確実なものにしていかなくてはなりません。(略)

私たちはこの間、日本政府に対し核兵器禁止条約の批准、NPT再検討会議の成功を求める「核兵器廃絶1000万署名」を取り組んできました。これからも、「核と人類は共存できない」ことを基本に、日本政府への「核兵器禁止条約署名・批准」を求める運動に総力をあげ、核兵器廃絶への動きを前進させましょう。(略)

原水禁運動の原点は被爆の実相です。しかし、被爆77年が経過し原爆被害の実相が風化しつつあることも事実です。限られた時間の中で、核兵器廃絶とヒバクシャ課題の解決とともに、被爆の実相をどの様に語り伝えていくか、次世代につなげて行く取り組みを進めていきましょう。

一人ひとりの命をないがしろにする全ての政策に反対して、個人の尊厳を守り、未来ある子どもたちに「核も戦争もない平和な社会」を届ける取り組みを全力で進めましょう。

ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・フクシマ、

ノーモア・ウオー、 ノーモア ヒバクシャ


広島県被団協の「原爆死没者追悼慰霊式」では、一言あいさつをし、献花をしました。

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午前中の行動はこれで終了しました。

昼食後、午後2時から広島弁護士会館で開催された核兵器廃絶をめざすヒロシマの会(HANWA)主催の8・6国際対話集会~反核の夕べ2022 核戦争をいかに防ぐかヒロシマで考える」に参加。午後4時30分にこの集会が終了し、暑い一日が終わりました。

いのちとうとし

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2022年8月 6日 (土)

被爆77周年原水禁世界大会広島大会二日目

原水禁大会二日目の昨日は、午前中6つの分科会が開催されました。

私は、YMCA国際文化センターで開催された第6分科会の「見て、聞いて、学ぼうヒロシマ」の講師を務めました。この分科会では、今年原水禁が作成したDVD「核と人類は共存できない」を上映しました。少し長いのですが、今まで公開の場で上映されていませんので、この分科会で全編上映することにしました。

講師は、私と第18代高校生平和大使を経験した井上つぐみさんの二人です。

井上さんは、「ヒロシマを語りつぐ」のタイトルで、小中高生時代の平和に向けた活動、主に高校生平和大使の活動、そして現在「被爆体験継承者」として被爆体験や平和への思いを受け継ぎ、それを伝える活動を紹介しました。

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井上さんが、継承しようとしている被爆者は、原爆孤児として苦しみ、被爆者として長い間差別された苦しみの両方の体験を持つ川本省三さんです。最後に「活動を続けることの大切さ」を訴えて、お話は終わりました

私は、「核兵器禁止条約と原水禁運動の歴史」のタイトルで話しました。「核兵器禁止条約」に盛り込まれた「核兵器の禁止」と「核実験被爆者の援護」の二つの柱は、いずれもこれまで原水禁運動が言い続けてきたことですので、その歴史をたどりながら、運動への確信を強めていくことが大切であることを紹介しました。

特に「核と人類は共存できない」という原水禁運動の理念は、「全ての核開発、使用で核被害者が生まれること、そして常に弱い立場に人たちが被害者となること」に向き合っていることを森瀧市郎先生の思索の歴史を振り返りながら紹介しました。

少しでも参加者の理解が深まればと思います。

分科会終了後、会場を出ると強い雨が降っていました。久しぶりに再開した友人と落ち合い、近くのお好み焼き屋さんで昼食です。

午後からは、例年通り5つの「ひろば」が開催されました。当初は参加する予定はなかったのですが、友人の誘いでひろば「原発や基地に反対する現状と今後の課題」に参加しました。

終了後、二人で歩きながら、午後5時からの国際シンポジウムの会場に移動です。その頃には雨も上がり、少しだけ涼しくなっていました。

このシンポジウムのテーマは「否定される『核抑止』廃絶への道程は?」です。

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藤本泰成共同実行委員長がコーディネーターを務め、パネリストはデイブ・ウエブさん(イギリス・核軍縮キャンペーン前議長・オンライン参加)、カロ・アクニャ・オルベラさん(アメリカ・ピースアクション共同議長)、秋葉忠利さん(元広島市長、原水禁国民会議顧問9の3人です。私は、開会のあいさつを務めました。ロシアのウクライナ侵略、核使用発言をどう受け止め、何をすべきかが討論されましたが、報告するだけの能力がありませんので、ここまでしか紹介できません。。

このシンポジウムは、午後6時30分に終了し、大会二日目の私の役割と日程が終わりました。

いのちとうとし

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2022年8月 5日 (金)

被爆77周年原水禁世界大会広島大会始まる

昨日(3日)被爆77周年原水禁世界大会・広島大会が始まりました。

ここ2年間は、コロナ禍オンライン集会を余儀なくされましたが、今年は「できるだけ従来の大会開催に近づける」との考え方で準備を進め、3年ぶりの対面方式で開催することができました。

私の一日の行動です。

午後3時、海外代表のアメリカ・ピースアクションのカロ・アクニャ・オルベラさんの原爆慰霊碑献花に同行しました。

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午後3時30分、平和公園から開会総会会場のグリーンアリーナまでの「折鶴平和行進」に参加しました。出発にあたり、現地実行委員会を代表してあいさつ。

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本当に暑かったです。NHKの角を曲がり電車通りに出て、やっと一息つけました。

午後5時から第23代高校生平和大使梶原百恵さんの司会で開会総会が始まりました。

今年は、主催者のあいさつの役割を担いました。

私のあいさつの一部です。

「プーチン大統領による『核兵器使用を示唆する発言』によって、世界中が核兵器使用の現実的な危機に直面しました。『核を使用する』という脅しは、『核兵器禁止条約』のみならず1996年に出された国際司法裁判所の勧告的意見にも違反する明確な国際法違反であり、絶対に許すことはできません。

プーチン発言は、非人道兵器である核兵器の存在そのものがいかに危険なものであり、人々を脅かすものであるかを改めて世界の人々に実感させることになりました。(略)

『核と人類は共存できない』人類が核兵器の脅威から逃れる道は、全ての核兵器を廃絶するしかないのです。(略)

8月1日に始まったNPT再検討会議で演説した岸田首相は、核兵器禁止条約に触れないだけでなく、核保有国に対し具体的な核兵器の削減を求めることもありませんでした。アメリカの核抑止力に頼る限り核兵器保有国と非保有国の橋渡しの役割など果たすことはできません。

日本政府に、とりわけ被爆地広島から選出された岸田首相に対し、核なき世界を実現させるために「核兵器禁止条約を直ちに批准する」ことを強く求めます。(略)

1955年、この広島で開催された第1回原水爆禁止世界大会の『大会宣言』は、次のように訴えています。

『原水爆が禁止されてこそ真に被害者を救うことができます』と。

坪井さんや被爆者の思いにこたえるためには、被爆者が一人でも多く生きているうちに、この約束を実現させることです。それは、原水禁運動に関わる私たちの責務です。

『ネバーギブアップ』坪井さんがいつも被爆体験を語った最後に呼びかけた言葉です。

『核と人類は共存できない』

核なき社会を実現するためにネバーギブアップの精神でさらに運動を強化しましょう。」

今年の被爆の訴えは、切明千枝子さんでした。

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1929年生まれ、93歳の高齢ですが、明確に被爆体験を語られる切明さんのお話にはいつも感銘をうけます。

開会総会は、予定の午後6時半を10分ほどオーバーしましたが無事に終了しました。参加者は、1,200人でした。多くにみなさんに参加していただきました。

終了後、ドーミインホテルに移動しました。福島県郡山市の「あいコープ福島」の子ども派遣団との交流です。数年前から続いていますが、今年は3年ぶりの派遣です。私も毎年8月4日の夜にホテルで交流しています。今年は、中学生2人ですので、「学徒動員で被爆した中学生」の話をしました。午後7時30分から8時30分までの予定でしたが、ついつい話に夢中になり、終了は午後9時になってしまいました。

ようやく一日が終わりました。

いのちとうとし

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2022年8月 4日 (木)

ヒロシマとベトナム(その35-2)

昨日のつづきです。

◇第32回「東広島市原爆展」(8月1日~7日)

東広島市文化センター(サンスクエア)2階に常設の「原爆展示室」がリニューアルされました。オープン日の今日(8月1日)、原資協の取り組む「第32回原爆展」が始まりました。今年の「原爆展」は特に若い人達が目を止めてくれ、関心を深めて貰えるように、これまで以上に内容・展示とも工夫が凝らされています。是非、訪れてみてください。

今回の「原爆展」に19歳のとき暁部隊で被爆した方のガスマスクが新たな被爆展示物として加わりました。97歳を迎えられたご本人さんがオープンに合わせて来てくださり、幾度も「戦争・原爆はひどくてむごい」と体験を語ってくださいました。

リニューアルオープンした「原爆資料館展示室」です。

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ガスマスクを寄贈してくださった97歳の被爆者(暁部隊)です。

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親子三代の来場者です。

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「平和学習バス」の「碑めぐり」説明スタッフを担ってくれた「賀茂高校生の感想文コーナー」も設けられています。

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生徒さんの感想文を紹介します。「小学生をガイドするといっても、全然頼りない説明しかできなかったけど、それでも小学生の子たちが聞こうとしていてうれしかったです。今回平和学習バスに参加して、自分たちも、今まで知らなかった広島の歴史を知ることができたので、このような貴重な機会を得ることができ、本当に良かったです。広島に生まれた者として、平和の大切さをいろいろな人に伝えていけたらなと思いました。」

賀茂高校の先生の感想も紹介します。

「ある観光客の親子連れが、高校生が小学生に『人が来たから左に寄って』とか『暑かったら水分しっかりとってね』と心を配りながら碑の説明をしている姿を見て、『お兄さん、お姉さんから小さい子に大切なことを伝える姿、すばらしいね』と、親子で会話をしていました。懸命な姿を人は見ています。」

次号(9月5日)から再び、「少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2」を続けます。

(2022年8月4日、あかたつ)

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2022年8月 3日 (水)

ヒロシマとベトナム(その35-1)

8月11日に開催予定の「LOVE & PEACEコンサート」、コロナ感染爆発のため中止

7月5日号でお約束した「少数民族の子どもたちへの奨学支援シリーズ2」の続き、次号に変更します。

7月26日号でご案内した8月11日(日)の「“エージェントオレンジDay” ‘2022 in ヒロシマ」、「LOVE&PEACEコンサート」(平和を語り継ぐコンサート)を、「爆発的なコロナ感染拡大」のために中止しました。先ず、このことをお知らせし、お詫びいたします。

グエン・ドクさんの「ビデオメッセージ」も届き、友情演奏をしてくださる地元の演奏家や広大生、地元バンドの皆さんも練習を重ね、多くの皆さんが楽しみにしてくださっていた中での中止、大変申し訳ありません。

LOVE&PEACEコンサート」は中止しましたが、今年(被爆77年、枯葉剤61年)の夏は、いつにも増して“ノーモア ウオー”、“ノーモア ヒロシマ・ナガサキ”、“ノーモア 枯葉剤”、“ノーモア ベトナム”の思いはつながり、広がっています。

77年目の“あつい夏の日”(8月6日)を前にした取り組みを報告します。

“枯葉剤61年”~改めて問うエージェントオレンジ「パネル展」(7月15日~29日)

今年2回目を迎えた“エージェントオレンジDay”の取り組み。広島大学ローターアクトクラブの学生さんたち、武田中学校・高等学校の生徒さんたち、黒瀬地域の住民自治協議会の皆さんなどに企画・準備に参画していただき、ピースアクションのネットワークは大きく裾野が広がりました。

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東広島市内だけでなく帰省中の佐賀市の方、広島市や呉市などから162名に来場いただきました。

寄せられた感想文には、「平和憲法、平和教育の充実」、「身近から差別を無くす」、「戦争の酷さ、核兵器・化学兵器の影響を周知」、「軍事力ではなく外交努力で国際関係を保つ」、「核兵器廃絶条約への加盟」、「施政者にこのような勉強をして貰いたい」・・・・など、「平和実現に向けた思い」がつづられていました。

◇「第36回平和学習バス」(7月29日)

東広島市原爆被爆資料保存推進協議会(原資協)が毎年8月6日を前に、市内の全小中学校の児童生徒代表を対象に東広島市と市教育委員会後援で「平和学習バス」を取り組んでいます。内容は記念資料館の見学や碑めぐり、被爆者の体験講話などです。36回を迎えた今年は7月29日に行われました。私も20数年前から原資協の理事を務め、ほぼ毎年参加していますが、今年は、とても画期的な「平和学習バス」でした。

それは平和公園の「碑めぐり」を賀茂高校の生徒さんたち24名が担ってくれたことです。原爆投下の背景(戦争と人々の暮らし)、原爆投下によって8月6日に広島に何が起こったのか(核兵器の威力と被害)、原爆投下後の人々(原爆後障害と暮らしのための戦い)などの学習を重ね、案内する碑と内容は生徒さんたち自身が決め、準備しました。34℃を超す炎天下、6グループに分かれ工夫したパネルや資料を手に案内してくれました。

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賀茂高校生による碑めぐりガイド

在日韓国人被爆者のパク・ナムジュさんの、「多くの残酷と悲惨、悲しみの上に築かれた平和であることを忘れないで」の言葉は、“ズキリ”と胸に刺さり、平和への思いをあらたにしました。

小中学生をガイドしてくれた高校生が、こんな感想を寄せてくれました。

「『悲しみの上に築かれた平和』という被爆者さんの話が心に残りました。原爆の悲惨さ、平和でいることの大切さを改めて気づかされる貴重な体験でした。」

(2022年8月3日、あかたつ)

【編集者】4日から被爆77周年原水爆禁止世界大会広島大会が始まりますので、毎月5日に掲載していたあかたつさんの「ヒロシマとベトナム」は、今日と明日掲載します。

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2022年8月 2日 (火)

「非核平和行進」西部コース、山口から引き継ぎ

被爆77周年原水禁世界大会の関連行事として取り組まれている「非核平和行進」西部コースの行進団が、昨日午前10時山口県から広島県に入りました。

朝岩国市役所前を出発した山口県の行進団名が、街宣車を先頭に「非核平和行進」の横断幕を掲げて県境に架かる大和橋(国道2号線は交通量が多いので、コースを変更したため、引き継ぎ場所も従来の栄橋から約900m上流に架かる橋に変わった)を渡って広島県に入りました。

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山口県から広島県への引継ぎは、今年から県境に架かる大和橋北詰で行われました。

私も広島県原水禁の代表としてこの引き継ぎ式に参加し、山口県行進団へのねぎらいと「行進でつながれた非核平和への思いをしっかりと受け継ぎ、平和公園慰霊碑をめざすとともに、被爆77周年原水禁世界大会広島大会成功のため、全力で取り組む」決意を表明しました。

引継ぎを終えた広島県行進団(大竹労協が中心)は、大竹市役所をめざして、元気に出発しました。

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大竹市役所前では、入山欣郎市長に出迎えていただき、あいさつを受けました。

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と書く予定でしたが、私が大竹に行くために乗る予定にして横川駅発8時42分発の電車が、二つの事故のため大幅に遅れ、間に合わなくなり、大竹行きを断念せざるを得なくなりました。

その断りの電話を入れるとともに、写真を送っていただくようにお願いして届いた写真が上に掲載した写真です。

2日目となる今日2日は、廿日市労協が中心となりJR宮島口駅前から廿日市市役所まで行進することになっています。

「非核平和行進」西部コースが広島県入りした午前中には、各労組からの応援を得て毎年恒例となっている大会資料の袋詰め作業が、行われます。

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私も大竹行きをあきらめるとすぐに自治労会館に引き返し、袋詰め作業に参加しました。20人ぐらいの参加がありましたので、今年は1時間余りで全ての袋詰めが無事終了しました。大会への準備が着々と進んでいます。

いのちとうとし

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2022年8月 1日 (月)

「被爆77周年原水禁世界大会」が福島でスタート

「核も戦争もない平和な21世紀に!」をメインスローガンとする「被爆77周年原水禁世界大会」のスタートとなる「福島大会」が、7月30日に福島市で開催されました。

11年前に起った東京電力福島第一原子力発電所事故。「脱原発」と「被災者の救済」を訴え続けてきた原水禁国民会議は、毎年原水禁世界大会のスタートとして福島での大会を開催してきました。

今年の大会も参加することはできませんでしたが、youtubeでライブ配信されましたので、大会に視聴参加しました。

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福島大会は、東日本大震災で犠牲となった人たちへの黙祷で始まり、最初に主催者を代表して藤本泰成大会実行委員会共同実行委員長が、次のようにあいさつ。

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「福島第一原発事故から11年、いまだ復興は途中です。人々の営みが元に戻ったわけではありません。事故原発は安全とはほど遠い状況。今政府は、多くの反対を押し切って福島の海に、太平洋にトリチウムを含む汚染水を流そうとしています。この10年の間に、コミニュティーが崩壊し、地域の文化が失われようとしています。原発事故が何を奪ってきたのか全貌をしっかりつかみ、私たちの失ったものがどれだけ大きいのかを改めて考えなくてはなりません。仕事が、学びが、繋がりが奪われていく、豊かな恵みを与え続けてきた豊かな土地が、海や川や山が奪われていく」と原発事故が何をもたらしたかを訴え、さらに原発事故裁判に触れながら、最後に「2001年3月11日、あの日から原水禁は一人ひとりに寄りそう政治と社会を求めて運動を展開していきました。一人のいのちを超えるものは何もないのです。」と命の大切さを訴えました。

つづいて、現地実行委員会角田政志実行委員長のあいさつ、原発事故によって相馬市から神奈川県に避難した村田弘さんから「この事故は、原発事故ではない。核災害だ。核災だ。必ず道理は勝つと信じています。」との訴えがあり、最後に原水禁世界大会谷事務局長の基調提案が行われ開会行事が終了しました。

その後、長沢啓行大阪府立大学名誉教授の「国と東電が進めるALPS処理水海洋放出の問題点と反対する根拠」と題した基調講演が行われ、その提起を受け振津かつみさんの司会で3人のパネラーによる「トリチウム汚染水海洋放出問題について」のシンポジウムが行われました。長沢さんの基調講演は、「政府の説明がいかにうその内容か」を厳しく指摘するものでしたし、他のお二人の報告も「漁師と海のかかわり」「文科省が作る学校教材の問題点」など、大変興味深い内容でしたので、ぜひ最後に紹介するアーカイブを視聴してほしいと思います。

シンポジウムの後は、福島から選出された第24代、第25代高校生平和大使4人からのアピール、さらに「汚染水の海洋放出に反対し、福島原発事故が起こした現実にしっかり向き合い、被害者切り捨てを許さず、核被害者の人権と補償を求める運動を強化する」とした「フクシマアピール」を採択し、福島大会は終了しました。

「フクシマアピール」は、私たちの訴えとともに今日(1日)に東電に要請することが紹介されました。そして閉会あいさつが行われ、福島大会は終了しました。福島大会の参加者は、400人でした。

4時間余りの福島大会の様子は、「https://www.youtube.com/watch?v=QOLFgOO-h4Iで視聴することができます。

いのちとうとし

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