住吉神社の由来と被爆―つづき
今日は、住吉神社に残る被爆由来の「被爆樹木のクロマツ」と「住吉橋記念燈」を紹介します。
まず「被爆樹木のクロマツ」です。広島市の被爆樹木リストでは次のように紹介されています。
「住吉神社には、爆心地から1,300mで被爆したクロマツが2本あります。
もともとこのあたりにはたくさんのクロマツが植えられていたそうですが、被爆後も成長し、保存されているのはこの2本だけです。
被爆により焼失した社殿を再建した1995年に、現在の場所へ移植されました。」
社殿の左奥に、サクラの木を挟むように2本のクロマツがあります。
このクロマツを間近で見ようと社殿左側を奥に進みます。
今は、柵が作られてそばにまで行けませんが、手前のクロマツに被爆樹木を示す表示板が付けられているのが見えます。
写真には写っていないのですが、よく見ると奥のクロマツにも表示板が付けられていますので、この2本が広島市の被爆樹木リストに登録されているクロマツです。
ここで疑問が一つ浮かびます。14日のブログで「広島原爆戦災誌」には、「境内に茂っていた老松もほとんど枯れ死したが、ただ1本、川べりの松が現在まで残っている」と書かれていることを紹介し「覚えておいてください」と書いておきました。「広島原爆戦災誌」は、昭和46年(1971年)11月6日に発行されていますが、「ただ1本」残っていたはずの被爆したクロマツが、なぜ2本になって被爆樹木リストに登録されているのかです。
難しいと思いますが、この経緯が何かわかることがあるのか、広島市の担当課に訊ねてみたいと思います。
次は、住吉橋東詰め北側の住吉神社境内南端に建つ「住吉橋記念燈」です。
「住吉橋記念燈」の前に、平成12年(2000年)4月に作られた説明版があります。少し長いのですが、全文紹介します。
「住吉橋は、浅野藩の時代、広島城防衛のために架橋は許されず、往来は渡し舟のみで人々は不便をかこっていた。明治四十三(一九一〇)年、本川(旧太田川)を挟む両地元住民の出費を基に、待望の木造架橋が完成した。
住民の喜びは大きく、その思いは橋の袂への『記年燈』建立となった。当時、本川は広島と瀬戸の島々とを結ぶ水上交通の安全も祈って常夜燈を模したものと思われる。
昭和二十年八月六日、原子爆弾による爆風・豪火で一帯は焦土と化したが、記年燈は奇跡的に倒壊を免れた。
平成五(1993)年、太田川高潮対策事業における堤防工事に伴い、記年燈はやむなく撤去されることとなった。記年燈建立への想いや地元民の苦難の道を偲んでいたくこれを惜しみ、強く保存を願い出た。その結果平成八年九月十八日、もとの位置に復元することが出来た。
この経緯を胸に、記年燈がいつまでも地域住民の心を照らすことを願うものである。
平成十二年四月吉日 本川を挟む両地域住民 住吉町町内会 舟入町町内会」
この説明文によって、住吉橋は1910年に完成し、それを記念して石造りの「「住吉橋記念燈」が建立され、その後1945年8月6日に原爆にあったことが記されていますので、被爆したことは間違いありません。
これまでにも何度か付近を通っていたのですが、初めて知りました。また新たな出会いになりました。
いのちとうとし
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